かぐらかのん

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大江文学における〈物語〉--尾崎真理子『大江健三郎の「義」』

* 大江健三郎柳田国男

 
1979年に発表された大江健三郎氏の代表作の一つである『同時代ゲーム』は日本における本格的なポストモダン小説の先駆けとして評価される一方で、批評家の小林秀雄氏が「二ページでやめた」と大江氏自身が自虐的に伝えるほどに極めて難解で複雑怪奇な作品として知られています。
同作はメキシコに滞在中の歴史家である「僕=露己」が双子の妹である「露巳」に宛てて書き始めた「第一の手紙」から「第六の手紙」までが、あたかも六つの章のように並んでいます。この六通の手紙は「僕」が幼い頃から「父=神主」に教えられてきた故郷の《村=国家=小宇宙》の歴史を縦軸として、自分たち五人兄妹が潜り抜けてきた数奇な敗戦後の物語を横軸として織り込まれており、その中心には神話の登場人物であると同時に現在も妹のもとで成長しつつある「壊す人」という謎の生命体が存在します。
 
それぞれが長大な六通の手紙は「妹よ」という呼びかけで始まります。ここで「僕」は「壊す人」の巫女として父に育てられた妹の露巳に宛ててしかこれらの長い手紙は書き得ないと信じ込んでおり、彼は《村=国家=小宇宙》の歴史と自身の体験を縦横の軸として妹に向けた手紙を書き進めていくことになりますが、その縦横の軸はやがて歪みや断絶を孕み、限りなく多義的な偽史として膨らんでいくことになります。
 
こうした『同時代ゲーム』で示されたモチーフはその後『M/Tと森のフシギの物語』において書き直され、さらに『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』から最後の小説『晩年様式集』に至るまで、大江氏の長編小説の中にさながら「七通目の手紙」のように繰り返し反復される事になります。
 
この点、大江氏のインタビュー集『大江健三郎 作家自身を語る』の聞き手を務め『大江健三郎全小説全解説』の著者でもある元読売新聞文化部記者で文芸評論家の尾崎真理子氏は『同時代ゲーム』という謎めいた作品の背後には日本民俗学の始祖として知られる柳田国男に対する大江氏の強い共感があるといいます。事実、同作の単行本付録の対談で大江氏は次のように語っています。
 
「僕はこの二年間ほど、毎日、『柳田國男集』を読むことを続けていますが、柳田國男は、ある原初的なものに対して自分の精神が強く方向付けられることを「懐しい」と表現している。過去に向かってだけではなく、未知のものに対しても「懐しい」と言う。そして僕の場合「懐しき」の対象は《村》です。それも実際の僕の育った《村》ではなく、《村》の純粋な要素を完全にそなえた《村》でなければならない。」
 
(『同時代ゲーム』単行本より)
 
こうした観点から尾崎氏は大江作品における「ギー」という存在に注目します。周知のように大江氏を世界的作家に押し上げた『万延元年のフットボール』には森の奥深くで暮らす正体不明の「ギー」という男が登場しますが、この「ギー」は以降、数々の大江作品に「ギー兄さん」「新しいギー兄さん」「ギー・ジュニア」などと姿も立場も変えながら、あたかも一度死んで生まれ変わるように繰り返し登場する事になります。
 
この「ギー」とは柳田(やなぎた)の「ぎ」に由来するのではないか?と尾崎氏はいいます。こうした疑問を導きの糸として柳田国男の影響から大江作品を読み解いていく極めて画期的な大江健三郎論が本書『大江健三郎の「義」』です。
 

* 遠野郷という《村》

第一部「柳田国男の『美しき村』」では柳田国男を軸として『同時代ゲーム』の他、その発展系である『懐かしい年への手紙』『燃え上がる緑の木』といった大江作品が読み解かれます。柳田国男は1874年(明治8年)7月31日、飾磨県神道東郡田原村(現・兵庫県神崎郡福崎町)辻川に松岡賢次、たけの六男として生まれました。1935年(昭和10年)1月31日生まれの大江氏とは60年違いです。
 
1885年、当時10歳だった柳田は深刻な飢饉を体験し、その経験が彼を民俗学の研究に駆り立て、農商務省に入る動機になったとされています。1897年、東京帝国大学法科大学政治科に入学した柳田は農業政策を志し、卒業後は農商務省農務局農政課に配属になります。
 
その一方で柳田は文学者としての顔を持っていました。14歳から森鴎外の主宰する「しがらみ草紙」に短歌を投稿し始め、第一高等学校の在学中には『文學界』に新体詩を投稿し、官僚になった後も島崎藤村田山花袋国木田独歩という現代から見れば錚々たる顔ぶれとともに自邸で「土曜会」という西欧文学の研究会を主宰しています。
 
当時、日本の文学界は島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団』に象徴される自然主義の時代を迎えていました。そして柳田が1910年に発表した『遠野物語』もまた、こうした自然主義の時代に対するひとつの回答であったといえます。
 
遠野物語』は「遠野郷(岩手県遠野地方)」に伝わる逸話や伝承を記した説話集であり、我が国の民俗学における先駆的な著作として知られています。そして、大江氏が柳田に惹かれたのは、やはり『遠野物語』があったからにほかならない、と本書はいいます。すなわち、大江氏が『同時代ゲーム』に書こうとしたのは柳田が70年も前に描いていた「遠野郷」のような《村》であったということです。
 
この点「遠野物語」の舞台となった遠野盆地を文化人類学者の米山俊直氏は「平野宇宙」に対する一つの完結した世界である「小盆地宇宙」の典型として位置付けています。また大江氏の出身地である愛媛県大瀬村(現:内子町)もやはり盆地(内子盆地)に位置しています。こうしてみると、大江氏は「遠野郷」に「ある原初的なものに対して自分の精神が強く方向付けられる」「『懐しき』の対象」としての「《村》の純粋な要素を完全にそなえた《村》」を見出していたのかもしれません
 

* ギー兄さんと固有信仰

 
そして『同時代ゲーム』における「僕=露己」と「露巳」の関係はその8年後に公刊された『懐かしい年への手紙』(1987)において「僕=K」と「ギー兄さん」の関係にそのまま移行することになります。
同作のあらすじはこうです。敗戦直前、四国の谷間の村の「在」と呼ばれる高台にある屋敷へ出向いた10歳の「僕」はそこで手伝いの女性「セイさん」と暮らす「ギー兄さん」という15歳の美しい少年と出会います。その後、2人は東京の大学に進学し「僕」は在学中に作家としてデビューし、そのまま東京で結婚して家庭を築きます。
 
一方で地元に戻ったギー兄さんは村の森林組合に籍を置き、大学で学んだ英文学への関心を発展させてイェーツやダンテを本格的に独学する生活を始めますが、1960年の安保反対デモで大怪我を負ったことが契機となり、谷間の村の近代化を目指し、私財を投じて「根拠地」を作り、地元の若者を集め「美しい村」という名の集落の建設に乗り出します。
 
大江氏の分身である作家の「僕=K」がこの長編の語り手ですが、主役は間違いなく「ギー兄さん」です。そして氏はこのギー兄さんに「村の信仰」という形でかつて柳田が執拗に探求し続けた日本古来の「固有信仰」を語らせています。ここでいう柳田の「固有信仰」とは端的にいえば、死んだ者は子や孫たちの供養な祭礼を受けて祖霊になり、故郷の山に昇って子孫の繁栄を見守り、盆や正月などには家に帰ってくるといった日本人の素朴な死生観のことです。
 
少年の頃からギー兄さんと「僕」はそれぞれひそかに「魂」の行方をめぐる谷間の伝承を自分の支えとしていました。南方の島で死んだら「魂」が戻って来られるかと心配する「僕」を出会った頃のギー兄さんはこんなふうに慰めます。
 
「世界じゅうさまよいめぐってもな、この森の自分の木だけが住み家なのじゃから。それならば永いこと探しまわっても、結局はここへ戻るほかなかろうが?Kちゃん、天皇陛下には、この谷間や「在」は、なにも特別なものではなかろうがな?」
 
(『懐かしい年への手紙』より)
 

 

ここで大江氏は柳田民俗学の根幹をなす「常民」の思想をさりげなくも明確にギー兄さんに語らせています。さらに同作においてギー兄さんが企てる「美しい村」にも柳田のいう「美しき村」(1940年)のイメージが直接反映されています。この「美しい村」の構想は結局その後頓挫してしまうものの、そのイメージは後の大江作品の中にも繰り返し現れています。
 

* 固有信仰から世界モデルへ

 
さらに『懐かしい年への手紙』の事実上の続編となる三部作『燃え上がる緑の木』(1993〜1995)に登場する「新しいギー兄さん」もまた柳田を体現する人物です。同作のあらすじはこうです。語り手の「サッチャン」は両親を亡くした後、遠縁にあたる本家の女主人「オーバー」の庇護を受け東京の大学に進学しますが、故郷に戻ってオーバーの世話を引き受けていました。特別な治癒能力と知恵の深さで信望を集めてきたオーバーは『懐かしい年への手紙』の「さきのギー兄さん」による農業改革の試みとその顛末をすべて知っています。
そしてオーバーは東京から帰ってきた遠縁にあたる青年「隆」に住居と農場を与えて土地の伝承を語り伝え、自身の死が近いことを悟ると彼を「ギー兄さん」と呼び始めます。ほどなくオーバーが命を閉じると屋敷の継承者となった「ギー兄さん」はオーバーから受け継いだ治癒能力で病気の子供を治したことで、彼を「救い主」と呼ぶ親たちが押し寄せ、テレビ番組を通じて全国に知られ、彼の元での共同生活を望む者たちが集まってきます。
 
ここで大江氏はかつて柳田が提唱したこの国の「固有信仰」を更新し、日本のみならず同時代を生きるすべての人々へ向けて、人間の精神の基底にある普遍的な死生観の「世界モデル」を提示しようとしている、と本書は述べます。
 
1980年代におけるバブル経済と大衆消費社会の進展の中で、かつて柳田が「美しき村」で描いたような日本的な「故郷」の風景は急速に消滅し、昭和の終焉と共に「家」や「祖霊」の存在感も希薄化していきました。だからこそ、このような時代の変転の中で大江氏は古来より穏やかに人々を繋いでいた日本の「固有信仰」を新しく捉え直す必要を感じ取っていたのではないでしょうか。同作が提示する「世界モデル」とは次のようなものです。
 
「人々は、この谷に生まれ育ち、一度は多様な世界である谷間の外に出るが、やがてふたたび源としての谷に帰ってきます。谷間に流れる川は、本来の地形にあわせて流れると同時に、登場人物の動きからすれば、逆にも流れています。仮想された地形には逆勾配があるのです。「流出」の勾配と同時に、「帰還」の勾配があります。」
 
「なぜ、逆の勾配が発生するのでしょうか。「四国の谷の森」に、この谷に生まれた人びとが死を迎えると、魂は森の樹木の根から、空に向かって昇っていくからです。森には、人を帰還させる力がある。そのように「場所に力がある」のです。つまり、Kは、流出=生、帰還=死という〈生と死の場〉の仮想された地形を構築しています。それが、Kが描出したひとつの「世界モデル」なのです。」
 
(『燃えあがる緑の木』より)

 

 

* 島崎藤村平田篤胤

 
第二部「『万延元年のフットボール』の中の『夜明け前』」では大江氏を世界的な作家に押し上げた代表作『万延元年のフットボール』(1967)を切り口に柳田国男と同時代の作家である島崎藤村と両者共通のルーツである江戸期の国学者平田篤胤が大江作品へもたらした影響が論じられます。
 
まず本書は『万延元年のフットボール』とは大江氏が島崎藤村の長編『夜明け前』という類なき歴史小説を乗り越え点とすることで自身と日本近代文学を未踏の境地に導くことに成功した作品であるといいます。すなわち、藤村が『夜明け前』において欧風近代化から取り残されていった村の典型を描き出したように、大江氏もまた『万延元年のフットボール』において大衆消費社会の到来によって崩壊してゆく地域社会の典型を描き出すことで、国の中心ではなく周縁から、変わりゆく時代の核心をとらえようとしていたということです。
 
さらに本書はここから柳田と藤村の父が共に師として仰いだ平田篤胤の思想に光を当てていきます。医学、地理学、天文学といった西洋諸科学を幅広く摂取しつつ独自の復古神道を唱えた篤胤の思想は後には大東亜共栄圏を正当化するイデオロギーともなり、それゆえに戦後長らく顧みられることはありませんでしたが、21世紀に入り平田神社に秘蔵されていた膨大な資料が調査され、現在では新たな側面からの再評価が進みつつあります。
 
例えば、この調査に携わった吉田麻子氏はその著作『平田篤胤』(2016)において「カミ」の語源を篤胤は「牙(カビ)」だと考えており、その根底にあるものは男女の性による「生命のはじまり」であり、湧きあがろうとする「生の勢い」への賛歌というべきものであり、それは既成の宗教思想である儒教や仏教からは到底発想しえなかったと述べていますが、本書はこうした意味での「カミ=牙(カビ)」を『同時代ゲーム』における「壊す人」に重ね、同作を貫く《村=国家=小宇宙》という概念も篤胤につながるものではなかったかと述べています。
 

* 大江文学における〈物語〉

 
戦後民主主義の申し子としてデビューした作家、大江健三郎は一般的にウィリアム・ブレイク、ウィリアム・バトラー・イェーツ、ミハイル・バフチンエドワード・サイードジェームズ・フレイザーといった西洋の作家や文学理論に多大な影響を受けていると理解されてきました。こうした中で本書は柳田国男島崎藤村平田篤胤という3人の日本人に注目します。
 
若き日の柳田国男島崎藤村は「言文一致から自然主義へ」という日本近代文学の黎明期において情誼を交わし、共に自身の父を通じて西欧の知と最初期に格闘した日本人である平田篤胤国学を知ることになります。そして大江氏はこの3人をずっと自身の創作を拡げる想像力のジャンプ台として切実に必要としていたと本書はいいます。こうしたことから本書は「義」で結ばれた彼らの影響を抜きに大江健三郎の文学を、すなわち「戦後の精神」を考えるわけにはいかないと述べています。
 
そして、ここでいう〈精神〉とは、あるいは〈物語〉とも言い換えることができるのではないでしょうか。柳田は終戦後まもなく上梓した『先祖の話』(1946)において「人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かったといふことは考へられない。さうして以前にはそれが有つたといふことが、我々にはほゞ確かめえられるのである」と記しています。ここには日本古来の「固有信仰」を明らかにするという学問的な問題意識と共に、先の戦争における死者を救済し、慰霊しなければならないという実践的な問題意識がありました。
 
この点、社会学者の大澤真幸氏はこのような柳田の問題意識を「第三者の審級(共同体を意味づけ正当性を付与する超越的他者)」という観点から説明しています。すなわち、先の戦争において戦場に散華した若者たちの死を根拠づけていたはずの「国体」や「皇国」という観念が敗戦により無価値なものに転じてしまった以上、その死を無価値から救済するには、もっと深い伝統からその死を意味づけなおすほかはなく、そうした参照枠として柳田が提起したのが「祖霊崇拝(=固有信仰)」であったとして、大澤氏は柳田の試みを「(敗戦によって喪失してしまった)第三者の審級」の再構築として位置付けています。
 
こうしてみると、柳田における「固有信仰」の探究とは日本人の生を基礎づけるための〈物語〉の探究であり、大江氏はこうした「固有信仰」という〈物語〉を「世界モデル」という、より普遍的な〈物語〉へと更新しようとしていたようにも思えます。そして、こうした柳田と大江氏が共有した〈物語〉をめぐる問題意識はその後、ポストモダン化、グローバル化の加速的進展により「第三者の審級」が撤退した現代において、より一層アクチュアルなものになったといえるのではないでしょうか。