かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

映画は90分で何を語り得るか--『映画大好きポンポさん』

* 映画90分説

 
フランス文学者にして映画評論家の蓮實重彦氏は「映画90分説」というものを提唱しています。いうまでもなく、これは映画の上映時間の話です。氏は近著『見るレッスン』(2020)においても映画というものはほぼ90分で撮れるはずであると述べ、その近年における好例としてアメリカの監督デヴィッド・ロウリーの作品を挙げています。
ロウリーのこれまでの作品はほとんど90分で撮られています。例えばロウリーの事実上のデビュー作である『セインツ』(2013年)について蓮實氏はよくある題材を90数分で堂々と描き切っており、ロマンチックでありながらセンチメンタルにならず、しかもショットがことごとく決まっていると評しています。ここで氏のいう「ショット」とは、構図や光線だけでなく被写体との距離というものが決定的な要素となるそうですが、ロウリーの場合、被写体との距離をほとんど本能的に心得ている、と氏は述べています。
 
またロウリーの近作で実在した伝説的な紳士的強盗フォレスト・タッカーを描いた『さらば愛しきアウトロー』(2018)についても氏は彼は「何を見せて何を見せずにおくか」という選別を視覚的にわきまえていると評しています。例えば同作の冒頭のシーンではロバート・レッドフォード演じるタッカーが銀行で強盗を働いた後、ドアをチリンと鳴らして去っていきます。しかし傍目からみるとこの男が一体何をしているのかはよくわかりません。ただ単に窓口で預金を引き出しているだけのようにも見えます。そして男が銀行を出た後に「アメリカンバンクで強盗発生」「犯人は老人」と捜査網で情報が回り、報道もなされていく中で、ようやくここで観客は彼が強盗だとわかる仕掛けになっています。まさにここでロウリーはタッカーの「紳士的強盗」を描く上で「何を見せて何を見せずにおくか」という洗練された取捨選択をおこなっているということです。
 
この点、蓮實氏はロウリーの映画を観ると90分で収められるのなぜかということが理解できるような気がすると述べています。そして、氏は実際にジャン=リュック・ゴダールウディ・アレンといった名匠の作品の多くがほぼ90分であることを指摘し、優れた映画は90分ぐらいに収まっているものが多く、これは一体なぜなのかを突き詰めなければならないと述べています。こうした蓮實氏の力説する「映画90分説」に対する近年におけるアニメーション映画からの優れた回答として本作『映画大好きポンポさん』を挙げることができるように思えます。
 

* ジーン君がいちばんダントツで、目に光が無かったからよ

本作の原作は杉谷庄吾人間プラモ】氏が2015年5月に深夜帯の5分アニメとして提出した企画が元になっています。この企画が頓挫した後もポンポというキャラクターを捨てるのは勿体ないと判断した杉谷氏は「アニメが無理なら漫画にすればいい」と考え本作の原作を制作したそうです。
 
本作のあらすじはこうです。映画の都「ニャリウッド」にある「ペーターゼンフィルム」の敏腕映画プロデューサー、ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット(通称ポンポさん)は「おバカ映画で感動させる方がカッコいいでしょう」という独自の哲学から分かり易いB級映画ばかりを好んで手がけてます。
 
またポンポさんは祖父である世界的名プロデューサー、ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ペーターゼンから幼少期に2〜3時間級の長編映画を延々と観せられた経験に基づき「90分以下のわかりやす〜い作品は砂漠のオアシスって感じだったわ」と語り「2時間以上の集中を観客に求めるのは現代の娯楽としてやさしくないわ」「製作者はしっかり取捨選択して出来る限り簡潔に伝えたいメッセージを表現すべきよ」と蓮實氏のいう「映画90分説」を彷彿させるような持論を述べます。
 
暗い青春を映画に救われた映画オタクの青年、ジーン・フィニは映画監督を志望し、ペーターゼンフィルムに入社したものの、日々の業務においてポンポさんの敏腕ぶりに圧倒され、映画監督など自分には到底無理だと卑屈になる毎日を送っていました。なぜ自分を採用したのかとジーンから訊かれたポンポさんは「ジーン君がいちばんダントツで、目に光が無かったからよ」と答え「幸福は創造の敵」「現実から逃げた人間は心の中に自分だけの世界を創る」「だから私はその社会不適合な目をしたキミに、期待しているの」とこれまた独自の持論を述べます。
 
映画に恋をして田舎からニャリウッドに出てきた少女、ナタリー・ウッドワードは映画女優を目指し、アルバイトを掛け持ちして生計を立てながら何十回もオーディションを受けては落ち続けていましたが「夢を捨てるためにここまできたんじゃない、夢を叶えるためにここにきたんだもん」とどこまでも前向きです。ポンポさんはオーディションを受けにきたナタリーを「地味」という理由で一度は落としますが、その後、何か惹かれるものを感じて、彼女を今をときめく若手女優であるミスティアの付き人にします。
 
ある日、ポンポさんはジーンに現在手がけている映画の15秒予告編制作を依頼します。その出来栄えを見定めた後、ポンポさんはジーンに自ら書き下ろした新作映画の脚本を読むように申し渡し、ジーンはその内容に早くも大ヒットを確信します。
 
伝説の名優、マーティン・ブラドックの10年ぶりの復帰作品となるこの新作映画『MEISTER』のヒロイン役にポンポさんはナタリーを抜擢します。というよりも、この映画の脚本はナタリーがヒロインを演じることを想定した当て書きでした。
 
同時にポンポさんは『MEISTER』の監督にジーンを指名します。ポンポさんは予告編映像の出来栄えや脚本に対する反応からジーンこそがこの映画を撮るのに相応しいと判断したのでした。
 
いきなり降って沸いた話に戸惑うしかないジーンとナタリーでしたが、2人はお互いの映画に対する想いを語り合うことで不安を払拭し『MEISTER』のクランクインに臨むことになります。
 

* 王道のシナリオと斬新な映像

 
こうしてあらすじだけ見ると、本作は大まかにいえば不遇を託ってきた若者がチャンスを掴み夢に向かって努力するという、わりとありふれた王道のシンデレラストーリーのようにも思えてしまいます。しかしながら、こうした王道のシナリオでいかに魅力的な映画を撮るかがまさしく本作のテーマであるといえます。
 
この点、本作の劇中劇『MEISTER』の脚本を読んだジーンは「年老いた芸術家が自然や若者と触れ合って心を癒す・・・物語としては定番で新味はない・・・ですけど、登場人物の魅力に引き込まれる!」と述べていますが、この劇中劇を反復するかのように『映画大好きポンポさん』という作品自体が「物語としては定番で新味はない」が「登場人物の魅力に引き込まれる」ような映画を目指して、あえて王道のシナリオを採用したのではないかとも考えられます。
 
事実、この王道のシナリオを本作は斬新な映像で描き出していきます。例えばジーンが撮影フィルムを編集するシーンは彼の心象風景に置き換えられ、大きな剣を振りかざして次々フィルムを切り貼りしていくというダイナミックなアニメーションとして表現されています。また一般的に映画において場面転換は観客の集中力を削ってしまうことから極力避けた方がよいというのがセオリーとされていますが、本作ではその場面転換を車のワイパーやドアの開閉といった動きになぞらえたり時間経過をテロップで挿入したりと観客の集中力を途切れさせないための細やかな演出上の工夫が凝らされています。
 

* オブジェクトレベルとメタレベルのリンク

 
そして何よりも本作最大の特徴はその展開が劇中劇『MEISTER』と映像的なリンクを果たしているという点にあるといえるでしょう。物語後半、ジーンにとっての最大の試練は撮影が全て終わった後の編集作業から始まります。思い入れのあるシーンを次々に削っていく中でジーンの精神もまた次第に削られていきます。
 
そんな折、偶然出会ったポンポさんの祖父、ペーターゼンから「君は映画の中に自分を見つけたんじゃないかね?」「君の映画に君はいるかね?」と問われたことでジーンは『MEISTER』という物語の中に自分自身を見出します。ここから本作はオブジェクトレベル(『MEISTER』)とメタレベル(『MEISTER』に向き合うジーン)を縦横無尽にリンクさせていきます。
 
しかしながらジーンの試練はそれだけではありませんでした。全部撮り終わったと思ったのにもう一つ足りないシーンがあることにジーンは気がついてしまいます。ここでジーンは一大決心をしてポンポさんに追加撮影をしたいと申し出ることになります。
 
当然のことながら、そのためには一旦解散したキャストとスタッフのリスケジュールと追加費用が必要となります。もちろん当初難色を示していたポンポさんでしたが「それでも僕には映画しかありません」と土下座するジーンの熱意に心打たれ、彼女は追加撮影のための資金繰りに奔走します。
 
こうした後半の展開もやはり王道のシナリオなのかもしれません。けれどもこの王道のシナリオが、やはり王道のシナリオである『MEISTER』とリンクすることでその映像には圧倒的な熱量と強度が宿ることになります。おそらくはここに本作があえて王道のシナリオを採用した理由を見出すことができるのではないでしょうか。
 

* 映画は90分で何を語り得るか

 
この点、蓮實氏は『見るレッスン』において今、日本にはプロデューサーが本当にいるのかどうかという大きな問題があると述べています。そこで氏は現在主流の製作委員会方式の下では1人のプロデューサーが「こうだ」と決断することができず、変わったもの新しいものがなかなか生まれないといい、誰が本当のプロデューサーか分からない製作委員会方式というものは便利だけれども非常に問題があり、今の映画界で一番足りないのはプロデューサーだと思うと主張します。こうした意味で、もしかして本作はポンポさんというキャラクターを通じて現在の日本映画に必要な理想的なプロデューサー像を提示しようとした映画であったのかもしれません。
 
また、蓮實氏は映画の本質として「驚き」と「安心」を挙げています。すなわち、人は映画を観て何より驚きたいという欲望を持っているけれども、同時に映画を観て安心したいという欲望も持っているわけですが、蓮實氏は「驚き」とは「安心」であり「安心」とは「驚き」であるような不思議な世界が映画の表象性を支えていると述べています。そうであれば、ここで氏のいう「驚き」と「安心」のバランスがちょうど取れる上映時間があるいは「90分」なのかもしれません。
 
この点、本作は王道のシナリオで「安心」を与え、斬新な映像で「驚き」を与える作品であり、同時にオブジェクトレベルでの「安心」とメタレベルでの「安心」を縫合することで「驚き」を創り出した作品といえるでしょう。果たして本作のラストで初監督作『MEISTER』の一番気に入っているところを聞かれたジーンは「上映時間が90分ってところですね・・・」と答えます。そして本作『映画大好きポンポさん』もまた見事に「90分の映画」です。こうしたことから本作は映画は90分で何を語り得るかを追求した極めて実験的な映画論映画だったといえるでしょう。