かぐらかのん

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クィア・ケア・訂正可能性--武内佳代『クィアする現代日本文学』

* クィア理論と文学

 
一般的に「クィア理論 Queer Theory 」とは1990年にカルフォルニア大学サンタクルーズ校の学術会議におけるテレサ・ド・ラウレティスの提唱した用語が起源とされています。日本語では「変な」「奇妙な」などと訳される「クィア」という言葉は、もともとは英語圏でゲイ男性に向けられた蔑称でしたが、やがて当事者たちによって戦略的に用いられるようになり、現在ではセクシュアル・マイノリティと呼ばれる当事者全体を包摂する意味を帯びるようになります。このような意味でのクィア理論の特質を理解するうえで重要なことは、当初からその考え方が当事者の「差異の主張」と「普遍性に基づく連帯」という二つの指向性を胚胎させていたという点です。
 
まず「差異の主張」とは既存のセクシュアリティ/ジェンダーをめぐる二項対立においてマイノリティの側に置かれた当事者を主体化するアクティヴィズム的な指向性をいいます。とりわけラウレティスにおけるクィア理論は「同性愛と異性愛」という差異を重視しつつ、さらに同性愛者間における「レズビアン女性とゲイ男性」あるいは「黒人レズビアンと白人レズビアン」といったジェンダー、人種、階級、民族文化、年齢などといった多様な差異にも目を向けるよう促しています。
 
次に「普遍性に基づく連帯」とは既存のセクュアリティ/ジェンダーをめぐる二項対立そのものを脱構築する思弁的な指向性をいいます。こうしたことからクィアという概念は社会的には同性愛のみならず、バイセクシュアルやアセクシャルトランスジェンダー、あるいはクエスチョニングなど、ジェンダーアイデンティティ性自認)とセクシュアル・オリエンテーション性的指向)に関わる多様な自己選択の可能性を開くと同時に、そのような当事者同士の連帯を可能にする共通基盤ともなりました。
 
そして、こうしたクィア理論が抱えている「差異の主張」と「普遍性に基づく連帯」という、ある意味では相矛盾するこの二つの指向性に注目することで、クィア批評の持つ可能性を押し広げていく一冊が本書『クィアする現代日本文学』です。
 

*「小説を読む」とはいかなることなのか

本書は「はじめに」において「小説を読む」とはどのような行為だろうかと問い、評論や伝達文などとは異なり、読み手が「読んだ」という感覚を抱ききれない小説というテクストは、その読み方に応じてあらゆる意味に開かれたテクストであり、ときとして読み手に新たな主体性のあり方や思考の方法を手渡してくれさえするテクストであるとして、その意味で「小説を読む」という行為は読み手がテクストに解釈を与えて作品世界の意味内容を変更するばかりではなく、テクストが読み手に対して新たな認識や主体の変容をもたらすという相互行為にほかならないといいます。
 
そして本書はクィアと小説が共に抱える相矛盾的な性質に注目します。すなわち、クィアが差異を主張しつつも連帯をも希求するように、小説もまた人間存在の差異を指し示しつつもその差異を形作る境界線そのものを問い直す契機をも有しているということです。このような前提に立ち本書はおもにクィア批評を方法の中心に据えつつ、さまざまな批評理論を横断的に用いて1970年代から2010年代にかけて書かれた7つの小説を取り上げていきます。
 
例えば第1章では金井美恵子氏の「兎」(1972)という短編作品を題材として、兎に仮装する少女の女性的欲望と男性的行為との亀裂をジュディス・バトラーが提唱した「行為遂行性 performativity」の観点から読み解きます。ここでいう「行為遂行性」とは表象/行為が現実そのものを産出していくという意味であり、ここにバトラーは一般的な男性性/女性性という性別二分法を脱構築する作用点を見出しました。その一方で本書は匿名の「私」という、いわばジェンダー化されない無性の語り手の中に性別二分法そのものをすり抜けていくクィアな様態を読み取っていきます。
 
このように既存のセクシュアリティ/ジェンダーにおける二項対立を「クィアする」本書のアプローチは既存の価値観や先入観に捉われない開かれた読解を提示します。そしてそれは既に評価が確立した文学作品にもまったく新しい角度から光を当て直すことを可能にするアプローチであるといえるでしょう。
 

* 村上春樹クィアに読み直す

 
続いて第2章から第4章においては村上春樹氏の作品が取り上げられています。まず第2章では村上氏の代表作である『ノルウェイの森』(1987)において主人公である「僕」が無自覚的に反復しているホモソーシャル的な関係に注目した読解が提示されます。ここでいう「ホモソーシャル homosocial 」とはアメリカの文学者イヴ・コゾフスキー・セジウィックが提唱した概念で、女性の争奪・交換や同性愛嫌悪を媒介として成立する異性愛男性同士の連帯関係を指しています。そして同作のヒロインの一人である直子はこのような「僕」のホモソーシャル性を遊戯的に引き受けることで「僕」を媒介とした女性同士の親密な連帯性を築いていきます。
ここから本書はこれまで看過されがちだった直子やレイコさんという女性たちの「語り/騙り」の中に「僕」による異性愛主義的な物語を脱中心化するクィアな欲望を見出していきます。その上で彼女たちのクィアな欲望が同作で精神的な病と表象されることは確かに大きな問題があるとしつつも、精神的な病へと陥ってしまうほどに彼女たちにとって自己のクィアな欲望は容認し難いものであったと述べます。
 
次に第3章では「レキシントンの幽霊」(1996)をエイズ文学として読み直す試みが行われます。もともとアメリカでクィア理論が誕生した背景には1980年代の苛烈な同性愛抑圧を生み出したエイズパニック下のHIV /エイズ・アクティヴィズムの存在が指摘されています。こうした観点から本書は同作をまさにそのようなクィア理論を成立させたアメリカの時代状況を反映した小説として読み解いていきます。
 
そして第4章では「レキシントンの幽霊」と同時期に発表された「七番目の男」(1996)における回想的な「語り/騙り」に見られる不可解な点を手がかりとして、この小説における「語り/騙り」を性暴力を受けた男性被害者の「語り/騙り」として捉え直していくトラウマ批評の試みが行われます。このようなアプローチはいわば「テクストの意識」というべき表面的な「語り/騙り」の中で生じる綻びから見え隠れする、いわば「テクストの無意識」というべきポリフォニックな「語り/騙り」に注目していく優れて精神分析的なアプローチであるといえるでしょう。
 
従来、村上作品は主人公の「僕」を基準として例えば「デタッチメントからコミットメントへ」といった図式に基づく評価がなされてきました。けれどその一方で「僕」の周辺からはこのような「デタッチメントからコミットメントへ」という図式には収まりきれない多様多彩な「語り/騙り」が聞こえてきます。そして、こうした「語り/騙り」に深く耳を傾けていく上で「クィアする」という本書のアプローチはこれまでにない大きな助けになるのではないでしょうか。
 

* クィアとケアのあいだ

 
第5章以降はここまで見てきた「クィア」の視点に加え「ケア」という視点から「小説を読む」営為が行われていきます。まず第5章ではこれまで映画化やアニメ化などで度々注目されてきた田辺聖子氏の「ジョゼと虎と魚たち」(1984)をアメリカの心理学者キャロル・ギリガンが1992年に提唱した「ケアの倫理 the ethics of care 」から読み解きます。
 
この点、ギリガンは道徳的発達に関する調査結果をもとにそもそも女性は男性と異なる方法で道徳的判断を行う傾向があることを突き止めその再評価を行いました。すなわち、近代以降の社会における道徳的発達の指標とされてきた伝統的な「正義の理念」では自由意志をもった自律的な主体を前提とした公平と普遍性を重視してきましたが、ギリガンの提唱した「ケアの倫理」は関係性の網の目の中において個々人は決して自由意志を持った自律的な主体などではなく、むしろ常に相互依存の関係に立っているということを前提として、ケアをされる/するといった個別的な文脈における具体的他者のニーズにどう答えていくかといった「正義の理念」からは導かれない問いを積極的に引き受けていきます。
第6章では松浦理英子氏の『犬身』(2004)を題材として前章で見た「ケアの倫理」をダナ・ハラウェイが提唱した「伴侶種 companion species」の思想との交点から読み解いていきます。一般にペットなどの別称として「伴侶動物」という用語がありますが、ハラウェイのいう「伴侶種」とは、犬あるいは動物に限った存在ではなく人間やサイボーグ、無生物をも包摂するより広範な親族カテゴリーとして想定されています。その上でハラウェイは「伴侶種」としての犬との関係を「間主体的世界に棲まう方法をさがす物語であり、それはいずれ死すべき運命を背負った関係性の、あらゆる生々しい細部において、他者と出会っていく物語」であると捉えます。これは人と犬との信頼関係の枠組みを通して、人と人との関係を改めて問い直そうとするアプローチといえます。
 
第7章では多和田葉子氏の「献灯使」(2014)を題材として障害者的かつクィアな身体性がもたらす可能性を論じています。この点、アメリカのクィア理論家リー・エーデルマンは1998年の論文「未来は子ども騙し」において現存の保守的な右派の政治にせよリベラルな左派の政治にせよ「明るい未来」を「子ども」と象徴的に結びつけている点では結局のところ変わりがないとして、そうした異性愛主義/生殖主義を前提とした既存の政治と「真に対立」するものこそが「未来」と「子ども」を結びつけない「クィアセクシュアリティ」だと主張します。さらにエーデルマンは2004年に公刊した著書「No Future」においては「子ども」に「未来」を形象化する政治的イデオロギーを「再生産的未来主義 reproductive futurism」と名指し、常に人口増加による経済の拡大を期待する資本主義と強靭で有能な経済的主体を要請する新自由主義を強固に支える再生産的未来主義の政治に対する抵抗としてのクィアネスを主張しました。そして、こうした再生産的未来主義とは別様の可能性を本書は「献灯使」の主人公である無名の障害者的かつクィアな身体性に見出していきます。
 

* 訂正可能性としてのクィア

 
差異を主張しつつも連帯を希求するということ。このようなクィア理論が抱える相矛盾する二つの指向性は、ある面で「訂正可能性」と呼ばれる論理から捉えることができるようにも思えます。
 
この点、東浩紀氏は近著『訂正可能性の哲学』(2023)においてルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキ言語ゲーム論を参照して、共同体(ゲーム)のルールとは静的に確定したものではなく、共同体に所属する個人(プレイヤー)との相互作用により動的に変化し続けていく「訂正可能性」に規定されているとして、このような「訂正可能性」から同書はジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』を読み直し、ルソーの社会契約には人間は孤独な存在として「自然」の中で幸福だったにもかかわらず他者と共に「社会」を作ってしまった結果として遡行的に発見されたという「にもかかわらず」「しまった」の論理が隠されているといいます。

 

 

そうであればクィア理論における相矛盾する二つの志向性にも同様に、差異を主張している「にもかかわらず」連帯を希求して「しまった」という「訂正可能性」の論理を見出すことができるでしょう。さらには本書のいう「小説を読む」という読み手とテクストのあいだで織りなされる相互行為にしてもまた、読み手がテクストを--能動的/主体的/理性的/意識的に--読んでいる「にもかかわらず」テクストを読み手が--受動的/客体的/情動的/無意識的に--読まされて「しまった」という「訂正可能性」の論理を見出すことができるでしょう。こうした意味で本書のいう「クィアする」という営為とはある面で「訂正可能性」に開かれたひとつの実践であるといえるのではないでしょうか。