かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

闇のライフハックとしての現代思想--ニック・ランドから『闇の自己啓発』へ

 

* 自己啓発の功罪

 
自己啓発」なる言葉は当初、高度経済成長期下の労務管理の文脈において用いられていましたが、1980年代以降はニューエイジと呼ばれる精神世界と結びつき、やがて1990年代になるとオウム真理教をめぐる報道の中でそのイメージを悪化させることになりました。もっともその一方で「本当の自分探し」という人々の「自己発見」の欲望それ自体は収まるどころかむしろ拡大を続け、1990年代以降はより穏当な形で「自己啓発」を推進する言説が社会の様々な領域に広がっていきました。
 
この点、1990年代とは「心」がこれまでになく注目された時代でした。後に「心理学化」や「心理主義化」という言葉で呼ばれたように、この時期においては様々な社会問題が個人の「心」の問題に還元される傾向が強まり、またその「心」を扱う専門分野としての心理学が人気を集めました。
 
こうして1990年代中盤以降、このような傾向は「自己発見」からさらに進み「自己変革」へと向かうようになります。この時期における自己啓発のベストセラーとして春山茂雄氏の『脳内革命(1995)』やスティーヴン・コヴィーの『七つの習慣(1996)』が挙げられます。また大学生向けの就職情報誌『就職ジャーナル』では1997年から「自己分析」特集が毎年の定例となり、自己分析が大事だというのみにとどまらず、自己を掘り下げ「やりたいこと」を明確化し「自己の強み」を際立たせる技法が普及しました。
 
そしてゼロ年代においてはこうした「自己変革」の方法論化がさらに加速することになります。この時期の自己啓発のベストセラーとして本田健氏の『ユダヤ人大富豪の教え(2003)』や野口嘉則氏の『鏡の法則(2006)』や水野敬也氏の『夢を叶えるゾウ(2007)』が挙げられます。
 
やがてゼロ年代末にはこうした「自己変革」もメッセージレベルでは飽和状態を迎えることになり、この時期以降の自己啓発本マーケティングも例えばやましたひでひこ氏の『新・片づけ術 断捨離(2009)』や近藤麻理恵氏の『人生がときめく片付けの魔法(2011)』といった家事領域や、あるいはEiko氏の『どんなに体がかたい人でもベターっと開脚できるようになるすごい方法(2016)』のようなフィットネス領域といったニッチな分野の開拓へと進んでいきます。
 
また「自己変革」のメッセージレベルでの飽和は岩崎夏海氏の『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(2009)』のようなライトノベル化や、岸見一郎氏と古賀史健氏の『嫌われる勇気(2013)』のようなソクラテスメソッドの導入など、いわばメッセージの「見せ方」を工夫するというパッケージレベルの進化をもたらしました。
 
このような「自己啓発」をテーマとした書籍が市場を席巻する背景には、言うまでもなく1990年代におけるバブル崩壊からゼロ年代における小泉構造改革を経て2010年代におけるアベノミクスに至る新自由主義経済の拡大が考えられるでしょう。その一方で、こうした「自己啓発」の一般化は個人に必ずしも帰着すべきではないはずの社会的諸問題について、それは結局「自己変革」の努力が足りない「自己責任」であるというイデオロギーを強化してしまう側面があります。
 
もちろん世の中に出回っている自己啓発のベストセラーの多くは普通に有益な本です。実際、わたしも『人生がときめく片づけの魔法』や『嫌われる勇気』などは何度も読み返して多くのことを学びました(個人的にこの二冊は本当におすすめです)。しかしながらその一方で自己啓発をめぐる言説に多かれ少なかれ内在する主体的決断による「自己責任」の呪縛を緩和するための思考もまた身につけておくべきでしょう。本書『闇の自己啓発』はこうした思考を練成する上で極めてマルチラテラルな視点から多くの刺激を与えてくれる一冊であるといえます。
 

*「人形」にならないための防衛術

本書は共著者である江永泉氏、木澤佐登志氏、ひでシス氏、役所暁氏が月に1回開いていた読書会の内容をまとめた本です。その「まえがき」に即していえば本書のタイトルでもある「闇の自己啓発」とはいわゆる世間一般でいう意味の「自己啓発」に対する「防衛術」として生み出されたものです。
 
この点、一般に「自己啓発」はポジティヴな変化を喧伝しつつ、その変化とは「お金を稼ぐ」「話術を磨く」などといった既成の価値観の内部におけるステータスやスキルの変動に過ぎなかったり、あるいは「組織を変えるのではなく自分を変えろ」といった現状に納得するための技術になりがちだったりします。こうした「自己啓発」はもちろん時に有用ですが、同時に人を社会に都合の良い「人形」に変えるものとして警戒しなければなりません。
 
そこで必要なのはオルタナティブな「変革」のヴィジョンである、と本書はいいます。「自分を変える」のならいっそ「人形」とは対極の人間を超え出る何か、自他の区別すら融け出す特異点まで突き抜けてしまえ、ということです。
 
こうしたことから本書はこの世界の「闇」に蠢く社会一般の常識から逸脱した様々な「外部」に目を向けていきます。例えばそれはダークウェブに蠢くリバタリアンの脱法行為や監視国家中国の内実といった「闇の社会(第1部)」であったり、テクノロジーによる身体改造や宇宙空間の外部化といった「闇の科学(第2部)」であったり、反出生主義やクィア理論のアンチソーシャル的転回といった「闇の思想(第3部)」であったりします。
 
無論のことながら本書はこれらの「闇」を無批判に受け入れて称揚するものではありません(役所氏もこれらの無批判な受容はやはり醜悪な「人形」がこの世に4体増えるだけだろうと書いています)。むしろ本書はこうしたテーマを題材として、それぞれ異なるバックグラウンドや専門領域を持つ4人が議論を交わすことで「闇のライフハック」というべきものを案出していきます。そして、ここでいう「闇のライフハック」とはまさに主体的決断による「自己責任」というイデオロギーがもたらす実存的な苦悩や生きづらさへの処方箋に他なりません。本書の「まえがき」を担当する役所氏は次のように述べています。
 
本書が、自分ひとりが周りと合わないことに悩んだり、既存の価値観に疑問を抱いていたりする人に寄り添うものになっていれば嬉しく思う。私もこの読書会を始めるまでは、孤独に生き、人生に絶望する一人の人間であった(江永氏に読書会に誘われたのは、私が誕生日に自殺しようとしていたときだった)。しかし、「当たり前」をおかしいと感じているのは自分だけではない。世間に殺され、「人形」にされるくらいなら世間を変革する方がずっとマシだ。そう気付いてからは、自分の思考を発信することで、どんどん共犯者を増やし、「常識」や大きな存在に対抗していこうと思えるようになった。
 
(『闇の自己啓発』より)

 

 

* 参照点としてのニック・ランド

 
お気付きの方はいるかとは思いますが「闇の自己啓発」という本書のタイトルは「加速主義」の始祖であるイギリスの哲学者ニック・ランドのテクスト「暗黒啓蒙」にインスパイアされています。そして本書の議論の中でもランドの哲学は幾度となく議論の参照枠として浮上します。おそらくはこのランドの哲学こそが本書の根底に蠢く最大の「闇」であるといってもよさそうです。
 
ニック・ランドは1987年にウォーリック大学に講師として着任し、主に大陸哲学を教える一方で、1995年には同僚で公私共にパートナーであったサディ・プラントと共にサイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit:CCRU)をウォーリック大学哲学部の内部に設立します。この学生主体でかつ非公式の集団は大陸哲学、ポスト構造主義サイバネティクスサイエンス・フィクション、レイヴ・カルチャー、オカルティズム等々といった広範なジャンルを学際的に踏破していく特異な思索を暗号的かつ秘境的なテクストととともに生成していきました。
 
このCCRUに当時関わっていたメンバーとしては、のちに批評家として活動し、著書『資本主義リアリズム』などで知られるも2017年に自死したマーク・フィッシャー、思弁的実在論のプレイヤーとして知られるイアン・ハルミントン・グラントとレイ・ブラシエ、出版社アーバノミックの編集ディレクターを務めるロビン・マッケイといった名が挙げられます。
 
けれど設立から2年後の1997年には共同設立者のサディ・プラントがウォーリック大学を退職し、大学当局からもその存在を煙たがられていたCCRUはウォーリック市内のレミントン・スパにあるザ・ボディショップの上階に活動拠点を移し、その外界から隔絶されたラボではアレイスター・クロウリーの魔術、数秘学、ヴードゥー教、ラヴクラフトといった擬似カルト的な思索が行われていましたが、やがて度重なる不眠と身体的疲労によって自身を消尽させていったランドは1998年、大学を辞職して中国は上海に移住してしまいます。
 
ところが2010年代に入ると再びランドの名は注目を集めることになります。1990年代のランドは資本主義の暴力的な力を加速度的にドライヴさせることで特異点(シンギュラリティ)と呼ばれる未知の境域へのアクセスを目指す思想を熱に浮かされたような文体とともに打ち出していましたが、こうしたランドの思想は2010年代になると「加速主義(Accelerationism)」と呼ばれるようになり、2010年9月にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて開かれたシンポジウム以降「加速主義」は現代思想シーンにおける大きな潮流を形成することになります。
 

* 暗黒啓蒙と新反動主義

 
こうして中で2012年、ランドは自らの加速主義を拡散すべく「暗黒啓蒙(ダーク・エンライトメント)」という名の文書をインターネット上で公開します。このテクストの第一の宛先に想定されていたのは当時アメリカで勢いを増していた「ティー・パーティー運動」というものです。これはオバマ政権下において既得権益を取り上げられていた白人中流層を主な担い手とした保守運動をいい、ランドの目的はティー・パーティー運動に対してネット上から理論的に介入することで彼らを焚きつけて状況をより混乱させ、オバマ政権が誕生した2009年以降のリベラル一人勝ちの状況を動かすことにありました。そしてここでランドが擁護したものが「新反動主義(NRx)」という思想です。
この「新反動主義」とは2008年に起きた世界金融危機を契機として近年のアメリカにおけるリバタリアニズム自由至上主義)の側からの伝統的なリベラル的価値観の否定する思想として現れました。例えば世界最大のオンライン決済サービスPayPalの創業者であるピーター・ティールは2009年にリバタリアン系オンラインフォーラムに寄稿したエッセイで先の金融危機に触れながら破綻した金融機関や企業に対する公的資金の投入による補填といった国家と市場の腐敗した泥沼的関係を批判して「私はもはや自由と民主主義が両立するとは信じていない」といい、今や全ての政治からのExitを目指すことこそがリバタリアンの目指すべきプロジェクトであると主張します。
 
またシリコンバレーを拠点に活動する起業家兼ソフトウェア・エンジニアであるカーティス・ヤーヴィンは2007年ごろからメンシウス・モールドバグというハンドルネームを用いて主にブログ上で次のような主張を展開します。彼は近代的な「啓蒙」に伴うヒューマニズムや人権や民主主義や博愛主義や平等主義といった現代において普遍的とみなされる諸価値は実は全く普遍的ではなく西洋のローカル宗教であるキリスト教プロテスタンティズムが世俗的に変形されたものに過ぎないとして、彼が「普遍主義」と呼ぶこれらの啓蒙的諸価値は自らの起源を巧妙に覆い隠したまま彼が「大聖堂(カテドラル)」と呼ぶリベラルな教育機関やメディアから成るネットワークによって世界中に間断なく布教されているといいます。
 
こうしたティールやヤーヴィン(モールドバグ)の主張は2010年代に入ると「新反動主義」と呼ばれ一部のオルタナ右翼に思想的な影響を与えることになります。そして、ランドの「暗黒啓蒙」もまた今や世界の隅々までを照らし出すグローバルな「啓蒙」の光を「闇」の側から問い直すテクストといえます。
 

* 新反動主義は「怪物」の夢を見る?

 
「暗黒啓蒙」の大まかな構成は次のようなものです。まずそのPART1「新反動主義者は出口へと向かう」でランドはティールやモールドバグら新反動主義者の思想を紹介し、民主主義を捨てて国家は企業のように経営されるべきだとするモールドバグの提唱する「新官房学(ネオカメラリズム)」なるプランに注目します。
 
つづくPART2「歴史の描く弧は長い、だがそれはかならず、ゾンビ・アポカリプスへと向かっていく」ではギリシャを例にもっぱら経済的な面から民主主義の相対化が行われますが、その半ばからその歴史が辿られ始め、モールドバグの議論に依拠して民主主義が持つ根本的な宗教性が指摘され、この議論の過程でランドは民主主義、人種問題、宗教という三つの項目を一つなぎにして提示します。
 
そしてタイトルが欠如したPART3では民主主義、人種問題、宗教の三項に加えさらに国家権力の拡大という四つ目の項を接続します。またこのパートでランドはやはりモールドバグの議論を応用する形で、いわゆるヘイト・スピーチやヘイト・クライムの背景にある「憎悪(ヘイト)」という感情とは大聖堂への攻撃それ自体であり、その精神的導きに対する拒絶であり、この世界のあからさまな宗教的流れに対する精神的な反抗を意味していると主張します(なお、このパートのみタイトルを欠如させた理由としてはリベラル派が圧倒的に優位なこの状況下において、ここでの議論を一言でまとめることなど恐ろしくてとてもできないというある種のパフォーマンスであるといわれます)。
 
もっともこれは単なるレイシズムとは一線を画していることをランドは主張したいらしく続くPART4「ふたたび破滅へと向かっていく白色人種」ではホワイト・ナショナリスト(白人至上主義者)の議論を批判的に取り上げ、自身の依拠する新反動主義がいかにそれとは異なるかが説明されますが、その一方でランドは新反動主義者はある一点において彼らを評価すると言います。
 
その一点とはつまり「人間の生物学的多様性」なる観点です。要するにこれは知性にしろ外見にしろ何にしろ人は一人一人異なったものだ、という極めて当たり前の事実を科学的なデータに基づいて公理化したものであり、白人至上主義者や新反動主義者はそれを根拠にして例えば白人は黒人とは離れて生活するべきだといったような「分離主義」を展開するわけです。
 
こうしたPART4での議論を受け4a以降では全体の議論からの「脱線」という形で執筆当時のアメリカを騒がせていたダービーシャー事件が取り上げられます。これはジョン・ダービーシャーというジャーナリストが科学的人種主義を含む新反動主義的な分離主義を主張する記事を公開したことで保守派の大手論説誌をクビになった事件です。そして最後の4f「生物工学的な地平へのアプローチ」においてランドは新反動主義的な分離主義の一つの極北であり人種問題を解決する最終的な手段として、生物工学による遺伝子操作によって、そもそも人類とは異なる全く新たな種を生み出すことを提唱し、この新たなる種をランドは「怪物」と呼びます。
 

* 自己啓発という名の大聖堂

 
以上のランドの主張は先述したようにティー・パーティー運動を焚き付ける檄文として書かれたものです。従ってその内実は哲学のテクストというより政治的なアジテーションに近いものがあります。このようなランドの介入が現実政治の中で実際のところどれだけ機能したかはよくわかりませんが、ドナルド・トランプ政権の誕生に象徴されるように少なくともその後のアメリカ社会においてはリバタリアニズムへの期待とリベラルへの不信が高まったことは確かでしょう。
 
けれども、どう好意的に解釈してもこのランドの主張に全面的に賛同することは難しいと言わざるを得ないでしょう。このテクストの訳者である五井健太郎氏は次のように述べます。
 
民主主義の起源に宗教性があるなどというごく当たり前の事実を大喜びして指摘しているあたりはご愛嬌だが、〈出口(イグジット)〉などと言いながら、じっさいのところかぎられたごく一部のエリートに勝ち逃げを呼びかける新官房学などというおためごかしに、リベラルな価値観に馴染むことのできないまま割りを食って生きる貧困層が惹きつけられるのだとしたら、さすがに笑えない事態だといえる。またなにより、新反動主義を支持することはその科学的な人種差別を支持することとまったく同義であることは肝に銘じておくべきだ。差別はバカのやることである。なぜ差別がいけないのか。民主主義や平等があるからではない。近代や啓蒙があるからではない。それが正しいからでもない。たんじゅんに不愉快だからだ。
 
(『暗黒の啓蒙書』訳者解説より)

 

 
もっとも五井氏はその一方で「暗黒啓蒙」のようなテクストが書かれた要因の一つにリベラル派の持つ「正しいことは正しい」のだという思考のパターンがあることは明らかであり、今現在の我々の日常生活を見てもそうした思考が抑圧的に機能している例は枚挙にいとまがないとして、ランドの議論は批判のための批判ゆえの過剰さがあることは指摘しておきつつも、民主主義や平等は本当にそれほど重要なものかという点については、あらためて深く考えてみるべきであると言います。
 
翻って考えれば現代日本における「啓蒙」ならぬ「自己啓発」というジャンルもまた個人の「自己変革」を称揚し資本主義社会における「自己責任」を正当化するある種の「大聖堂」といえます。そして本書『闇の自己啓発』とは世界に蠢く様々な「闇」の側からこの「自己責任」を奉じる「大聖堂」が支配する社会の「正しさ」を根底から問い直し、かつランドとは全く異なる理路によってその外部へExitしていく「闇のライフハック」を模索するプロジェクトといえるでしょう。
 

* 光と闇のダブルシステム

 
本書には千葉雅也氏が次のような推薦コメントを寄せています。
 
世界には不快な〈闇〉がある。本書は、その〈闇〉をたんに批判するのでも面白がるのでもない。生きて死ぬことの意味を問い直すために、〈闇と共に〉思考する必要があるのだ
 
この点、千葉氏は昨年ベストセラーとなった著作『現代思想入門』において現代思想を学ぶ今日的意義とは「単純化できない現実」の難しさを、より「高い解像度」で捉えられるようになることであると述べています。
 
すなわち、我々が生きる現代社会においては様々な領域で「きちんとする」とか「ちゃんとしなければならない」といった「秩序化」が進む一方で例外性や複雑性を孕むような問題は切り捨てられていく「単純化」が進んでおり、こうした「秩序化=単純化」という現代社会の大きな傾向に対して現代思想は「秩序化=単純化」から逸脱するものに注目します。そして、その根底にはまさに「大聖堂」によって過剰に「秩序化=単純化」されていく現代社会に対する警戒心や違和感があります。
 
要するに現代思想においては一方で秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で思考することが重要となります。こうした意味で〈闇と共に〉思考する本書は我々の生きるこの世界の「単純化できない現実」としての様々な「闇」をより「高い解像度」で捉え、秩序とその逸脱、あるいは「人形」と「怪物」といった「光と闇のダブルシステム」で思考するための良き演習書となるでしょう。