かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

免疫としての物語--村上春樹『街とその不確かな壁』試論

 

* いま満を持して解き放たれる物語

本作『街とその不確かな壁』は村上春樹氏の6年ぶり15作目の長編小説です。本作の成立の事情はその「あとがき」によれば次の通りです。村上氏は1980年に「街と、その不確かな壁」という中編小説を「文學界」という文芸誌に発表しますが、氏はその出来に納得がいかず現在においてもこの作品は書籍化されていません。けれどもこの作品には自分にとって何かしら重要な要素が含まれていると直感した氏は後にこの作品を書き直し、1985年に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という名で世に送り出しました。
 
周知の通り『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は村上氏の代表作の一つとなりました。しかし、さらに歳月が経過して作家としての経験を積み年齢を重ねるにつれ、村上氏は「街と、その不確かな壁」という作品には『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とは異なる形の対応があってもいいのではないかと考えるようになります。
 
こうして「街と、その不確かな壁」が発表されてから40年の歳月が流れた2020年の初めになってようやく氏はこの作品をもう一度、根っこから書き直せるかもしれないと感じるようになったそうです。言うまでもなくこの2020年とは新型コロナ・ウィルスが世界中で猛威を振るい始めた年でした。村上氏は次のように述べています。
 
コロナ・ウィルスが日本で猛威を振るい始めた二〇二〇年の三月初めに、この作品を書き始め、三年近くかけて完成させた。その間ほとんど外出することもなく、長期旅行をすることもなく、そのかなり異様な、緊張を強いられる環境下で、日々この小説をこつこつと書き続けていた。まるで〈夢読み〉が図書館で〈古い夢〉を読むみたいに。そのような状況は何かを意味するかもしれないし、何も意味しないかもしれない。しかしたぶん何かは意味しているはずだ。そのことを肌身で実感している。
 
『街とその不確かな壁』公式サイトより

 

氏は最初に第一部を完成をさせたところで、それでいちおう目指していた仕事は完了したと思っていたそうですが、念のため書き終えてから半年あまり、原稿をそのまま寝かせているうちに「やはりこれだけでは足りない。この物語は更に続くべきだ」と感じて、続きの第二部、第三部に取り掛かったと述べます。
 
この作品は氏にとって長らく「まるで喉に刺さった魚の小骨のような、気にかかる存在」であったといいます。氏が長いキャリアの中でこだわり続け、いま満を持して解き放たれた物語の中に我々は何を見出すことができるのでしょうか。
 
(以下はネタバレありの記述となりますのでご了承ください)
 
 
 

* ぼくときみのあの夏と、壁に囲まれた街

 
先述したように本作は第一部、第二部、第三部という三部から成り立っています。その第一部では現実世界における「ぼく」と「きみ」の物語と「壁に囲まれた街」における「私」と「君」の物語がほぼ交互に語られる構成となっています。この2つの物語を時系列的に書き出すと以下の通りです。
 
17歳の「ぼく」と16歳の「きみ」は高校生エッセイ・コンクールの表彰式で知り合ってから文通を始め、高校生らしい初々しくインセントな交際を続けていました。初夏のある日、珍しく約束の時間に遅刻した「きみ」は、今の自分は影であり自分の実体は遠くの「街」にいると「ぼく」に打ち明けます。
 
その「街」は高い「壁」に囲まれており、街の真ん中を1本の川が横切っており、図書館や針のついてない時計台があり、一角獣が住んでおり、そして「ぼく」はその街で〈夢読み〉の仕事をしていると「きみ」はいいます。
 
それ以来、この「壁に囲まれた街」が二人の話題の中心を占めるようになり「ぼく」が質問し「きみ」が回答することで街の細部が決定されてゆき「ぼく」はそれを小さな専用ノートに記録します。夏の日々のあいだ、二人はそんなささやかな共同作業にすっかり夢中になっていました。
 
やがて「ぼく」はその街に行けば本物の「きみ」を手に入れることができるだろうと思い込むようになります。ところが秋になり突然「きみ」からの手紙が途絶えてしまいます。「ぼく」は「きみ」へ長い手紙をたびたび送りますが返事はありません。こうして高校生活が終わりに近づくにつれ「ぼく」はますます不安になります。考えてみれば「ぼく」は「きみ」について何ひとつ知らないのも同然で「きみ」に関して間違いなく確かなものといえば「きみ」が一夏かけて語ってくれた「壁に囲われた街」くらいでした。
 
こうして季節は冬へと移っていったある日「きみ」から長文の手紙が届きます。その手紙によれば「きみ」が長い間手紙が書けなかったのは、これまでにない心身の不調が原因であり、以前も述べたように自分は本当の自分ではなく影であり、本体から切り離された影はそれほど長く生きることができない、とあります。そして、それが「きみ」から届いた最後に手紙となりました。
 
「きみ」からの音信がすっかり途絶えてしまい「ぼく」は東京の私立大学に進学した後もしばらく抜け殻のような日々を送っていましたが、ある日一念発起して生活を立て直し、5年かけて大学を卒業して書籍の取次をする会社に就職します。
 
社会人生活を送る中で「ぼく」は人並みに何人かの女性と恋をしますが、その関係はどの場合も結局うまくいきませんでした。やがて40歳の誕生日を迎えたとき「ぼく」はこのままひとりぼっちで一生を送るのだろうかという絶望感に襲われる、いわゆる中年危機に陥ります。そして45歳となった「ぼく」はある日「穴」に落ちます。その「穴」の底で目を覚ました「ぼく」はあの「壁に囲まれた街」へと迷い込み「きみ」の実体である少女との邂逅を遂げることになります。
 
ここからは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の『世界の終り』のパートとその大筋においては同じ展開となります。「壁に囲まれた街」に迷い込んだ「私」は図書館で「きみ」の実体である「君」と共に〈夢読み〉の仕事に従事する一方で「街」に入るときに切り離された自分の影に協力して「壁」の外部への脱出を画策しますが、土壇場になって「私」は「壁」の内部に留まることを決意して、影だけが「壁」の外部に脱出します。
 
もっとも『世界の終り』において主人公は「壁」の内部でも平穏な「街」ではなく苛烈な「森」で暮らすことを選択しますが、本作において「私」は「森」へ行くことなく「街」の図書館で〈夢読み〉の仕事を続けることになります。
 
ここまでが第一部のあらすじです。以下では本作を二つの視点から読み解いていきます。一つは「デタッチメントからコミットメントへ」という視点です。そしてもう一つは「心理療法と物語」という視点です。
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
「コミットメント(関わり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが。」
 
「ぼくは思うのですが、いま日本の社会というのは、さっきもオウムと地震の問題が出ましたが、精神的なコミットメントの問題で、大きな変革の地点にいるんじゃないかなと感じるのです。この二〜三年で日本はずいぶん変わっていくんじゃないかという気がするのです。」
 
村上春樹河合隼雄に会いにいく』より

 

これは『ねじまき鳥クロニクル』の刊行後に行われた河合隼雄氏との対談での村上氏の発言です。よく知られるように1995年前後に村上氏は「デタッチメント」から「コミットメント」へとその倫理的作用点を転換させています。この阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年とは戦後日本社会が大きな転換を迎えた年であると見做されています。
 
この点、批評家の宇野常寛氏は『リトル・ピープルの時代(2011)』において「ビッグ・ブラザー(国民国家)」と「リトル・ピープル(グローバル資本主義)」という概念から戦後日本社会を「ビッグ・ブラザーの時代(1968年以前)」「ビッグ・ブラザーの解体期(1968年〜1995年)」「リトル・ピープルの時代(1995年以降)」に区分した上で、村上氏のいう「デタッチメント」から「コミットメント」への転換を「ビッグ・ブラザーからのデタッチメント」から「リトル・ピープルへのコミットメント」への転換として位置付けています。そして宇野氏は近著である『砂漠と異人たち(2022)』において、このような村上春樹論の事実上のアップデート版といえる議論を展開しています。その論旨は以下の通りです。
 
まず「デタッチメント」とは何でしょうか。それは端的にいうと例えば「マルクス主義」のような20世紀を席巻したイデオロギーによって人々を動員する回路からの「デタッチメント」です。村上氏のデビュー作『風の歌を聴け(1979)』と第二作『1973年のピンボール(1980)』は古い時代にその精神を置き去りにした「鼠」と新しい世界を受け入れた「ぼく」を対比することで新たな時代に対する距離感と進入角度を描いた作品でした。
 
もっとも初の本格長編小説となった第三作『羊をめぐる冒険(1982)』で村上氏はマルクス主義が失敗した後の新しい世界を受け入れつつも高度資本主義が進展する新しい時代が生み出す「悪」を見出していきます。同作における「羊」は実体を持たない超自然的な存在であり、この後の「やみくろ世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド)」「綿谷ノボル(ねじまき鳥クロニクル)」「みみずくん(かえるくん、東京を救う)」「ジョニー・ウォーカー海辺のカフカ)」「リトル・ピープル(1Q84)」といった村上作品に登場する「悪」の原型といえるべき存在です。
 
そして同作における「ぼく」は「鼠」と「羊」の対決の後始末という形でささやかな「コミットメント」への一歩を踏み出すことになりました。けれども村上氏は再び新しい世界と中距離を保つ「デタッチメント」へと回帰することになります。
 
こうして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)』で村上氏が提示したものとは、いわば「倫理としてのデタッチメント」でした。すなわち、イデオロギーが個人の生を意味づける回路に回帰することなく自己完結的な「関わりのなさ」の虚無に耐えるという態度です。
 
このような「倫理としてのデタッチメント」というナルシシズムの記述法がこの時代の村上氏が提示した生のモデルでした。そして村上春樹を国民的な作家に押し上げたベストセラー『ノルウェイの森(1987)』はこの新しい生のモデルから逆算して60年代末の記憶を精算したものであったと考えることができます。
 
ところがバブル景気真っ只中に公刊された『ダンス・ダンス・ダンス(1988)』において村上氏は「倫理としてのデタッチメント」から一歩踏み出していく態度を表明します。すなわち、それはイデオロギーが個人の生を意味づけることのない新しい世界を受け入れながらも、かつ時代に流されてしまわないよう、この世界を「踊り続ける」という態度です。
 
そしてあの1995年に完結した『ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)』においていよいよ村上氏は「デタッチメント」から「コミットメント」に舵を切ることになります。これはいまや「デタッチメント」だけではオウム真理教のような現代的な「悪」に対抗することはできなくなったという現状認識の表明だと考えられます。こうして村上氏はマルクス主義に代表されるビッグ・ブラザー的な「悪」に対するデタッチメントからオウム真理教が象徴するリトル・ピープル的な「悪」に対するコミットメントへと転回します。
 

* コミットメントの条件

 
同作の主人公、岡田亨は闇の世界に囚われた妻の久美子を救うため、彼女の実兄にして「羊」の系譜に属する「悪」である綿谷ノボルをバットで撲殺します。ただしそれは彼が超自然的な力を得て接続した夢のような異世界での出来事であり、現実世界で実際に綿谷ノボルを殺害して正義にコミットするのは妻の久美子でした。
 
このような離れ業ができるのは彼がその前に「壁抜け」を経験することで時空間を超越して事物とコミニュケーションを取る能力を身につけていたからです。そして、この「壁抜け」は「井戸」のメタファーを用いて描かれます。
 
岡田が近所の不思議な井戸の底で瞑想していると彼の意識は夢の世界へとワープします。彼はその非現実空間で久美子の無意識と対話すると同時に綿谷ノボルの分身と対峙します。さらにこの時に顔に刻まれたあざによって岡田は第二次世界大戦期における満洲の記憶と接続することで時間も空間を超越したコミュニケーション能力を手に入れます。
 
時空を超越したコミュニケーション。これが村上氏の示した新しい「コミットメント」の条件です。村上氏はかつてマルクス主義が世界を変えると信じられた時代に「歴史」を「物語」とみなすことで、その「歴史」という名の「物語」によって多様な「個」の物語が抹殺されていく失敗から出発した作家でした。そのため氏は「歴史」を「物語」とみなし、その「物語」によって自分の生を意味付けるような生き方からデタッチメントしました。
 
してみるとデタッチメントからコミットメントに転回し、再び「歴史」に向かうのであれば、そこには「歴史」を「物語」とみなすのではなく非物語的な「データベース」として捉え直し、イデオロギーなど特定の文脈から離れた純然たる出来事としての「歴史」に接続することで普遍的な「悪」に対峙する「個」の物語を読み出していくという回路が必要となってくるわけです。
 

* コミットメントの副作用と限界

 
こうした意味で同作における「壁抜け」により「悪」と対峙するというコミットメントは今日におけるインターネット的な世界観を先取りするものであったといえます。しかしこのコミットメントには強力な副作用が伴っています。歴史を物語ではなくデータベースとみなし、特定の文脈から切り離して引用することは既存の文脈から解放された解釈を許容する一方で陰謀論歴史修正主義の温床にもなりかねません。すなわち、村上氏の示したコミットメントはインターネット的な世界観を先取りすると同時に今日のインターネットが抱える問題も先取り的に内包してしまっているといえます。
 
さらに言えばこのような村上氏のコミットメントは当時彼が最大の仮想敵と見做していたオウム真理教のアプローチと根底では繋がっています。村上氏同様にオウムもまたこの時代にデタッチメント(自己変革)からコミットメント(陰謀論)へと舵を切った存在であり、そればかりではなく「歴史」を「物語」ではなく「データベース」としてみなして恣意的に引用する手法までも両者は共通しています。
 
もちろん両者は手法は同じでも目的は明確に真逆です。オウム真理教はコミットメントにより教団の共同体を維持しようとして失敗しました。これに対して個人が共同体に飲み込まれる反省から出発した村上氏は個人が共同体に飲み込まれない強い「個」を獲得する道を選びます。けれども、ここで村上氏が採用するコミットメントの根拠となるのは主人公の正義を担保するヒロインの母権的承認(宇野氏の言葉で言えば「性搾取」)です。
 
ねじまき鳥クロニクル』では主人公(岡田亨)が夢の中で悪(綿谷ノボル)をバットで撲殺しますが、その正義を担保するのは妻(久美子)からの母権的承認です。さらに綿谷の殺害を現実世界において代行し、その責任を取り法で裁かれるのもやはり久美子です。いわば村上氏がここで提示したコミットメントには主人公の自己実現のコストをヒロインに丸投げしてしまうという難点があります。こうしたことから宇野氏は村上氏の想像力はこのとき「暗礁に乗り上げ、そしてまだ帰還していない」と述べています。
 

* コミットメントの弱体化?

 
さらに宇野氏はこうしたヒロインに依存した安易なコミットメントは後続作においては結果的に「悪」への対抗にも失敗していると指摘します。
 
例えば『海辺のカフカ(2002)』において主人公の田村カフカはやはり「壁抜け」的体験から過去の戦争の記憶に触れますが、その「壁抜け」のコストを支払うかのようにカフカの母的な存在である佐伯さんが死ぬことになります。さらに実際に「悪」と対峙する「コミットメント」を行うのはナカタとホシノという別の人物です。つまりここで「壁抜け」の主体と「悪」と対峙する「コミットメント」の主体が分裂しています。そして同作はあくまでカフカの成長物語として描かれており、主人公の強い「個」の獲得は「悪」と対峙する手段ではなく完全に目的となっています。
 
また『1Q84(2009〜2010)』において主人公の天吾が同作における根源的な「悪」である「リトル・ピープル」と対峙しますが、そのコミットメントのコストはやはりふかえりと青豆という二人のヒロインが担う形になります。のみならず、物語の後半では「悪(リトル・ピープル)」との対峙するという主題は後景に退き、その代わりに父との和解や運命のヒロインとの再会といった主人公の内面に物語の重心が移動してしまい、最後は主人公が「父」になるという自己実現の物語として幕を閉じます。
 
そして『騎士団長殺し(2017)』に至っては主人公はやはり「壁抜け」的体験でアンシュルス南京虐殺といった「歴史」に触れることになりますが、それはもはや「悪」と対峙するためではなく、主人公が闇の世界に紛れ込んだ少女を救い出して「父」になるための手段に過ぎません。こうしたことから宇野氏はかつて村上氏が模索したコミットメントは弱体化し、今やリトル・ピープル的な「悪」への対峙という本来の主題を半ば放棄してしまっているといいます。
 

* 本作においてコミットメントは描かれていたか?

 
では本作はどうでしょうか。本作の第二部の展開は次のようなものです。どういうわけか「壁に囲まれた街」からこちらの世界に帰還した「私」は会社を辞めて福島県のある町の個人図書館に再就職し館長職を務めることになります。前館長の子易という老紳士はベレー帽とスカートを愛用するどこか不思議な雰囲気を纏う人物です。やがて子易は「私」に自分は既に死んでいて今の自分は幽霊であることを打ち明けます。そればかりではなく子易は「私」がかつて影を一度失っていることまでも看破していました。
 
こうして図書館の半地下の部屋で「私」は子易と「壁に囲まれた街」について、そしてあの「ぼく」と「きみ」の思い出について対話を深めます。その一方で「私」は駅の商店街で名前のないコーヒーショップを営む女性店主に徐々に心惹かれるようになります。
 
そうした中「私」の前に1人の少年が現れます。ビートルズの「イエロー・サブマリン」のヨットパーカを愛用するその少年は学校に行かず図書館で様々なジャンルの本をひたすら乱読することを日課としており、しかも彼は読んだ本の内容をそっくりそのまますべて記憶するという驚異的な能力を持っていました。さらに彼は「私」の「壁に囲われた街」の話をもとに詳細な「街」の地図を作り上げ、自分は「その街にいかなければならない」と「私」に告げます。その数日後、少年は忽然と失踪し「私」は少年の魂は「壁に囲まれた街」に移行したのだと悟ります。
 
そして第三部においては第一部から引き続き「壁に囲われた街」で〈夢読み〉の仕事を続けていたもう一人の「私」が少年と邂逅します。少年は「私」に自分は「壁」を通り抜けてきたといい「私」と一体となり〈夢読み〉になることを望みます。果たして少年と一体化した「私」の〈夢読み〉のスピードは飛躍的に上がることになりますが、少年は外の世界で「私」の影と会ったことを伝え「私」の心はもう一度影と一体になることを求めているといいます。こうして私は〈夢読み〉の仕事を少年に託し「壁」の外で再び影とひとつになる決意をしたところで物語は終わりを告げます。
 

*「疫病」という名の「悪」

 
こうしてみると本作も『騎士団長殺し』同様に少なくとも物語の表面部分ではリトル・ピープル的な「悪」へのコミットメントは果たされていません。そして「壁」の外で再び影と一体となるという主人公の自己実現のコストは(従来よりはだいぶ穏当な形であるとはいえ)ある意味で主人公から〈夢読み〉の仕事を引き継いだ少年に丸投げされているともいえます。従って本作も、やはり大きくいえば宇野氏のいう「暗礁」を脱出していないようにも見えます。
 
しかしながらその一方で、本作の後景には朧げながらも確実に「悪」というべき存在を見て取ることができます。「壁に囲まれた街」の地図を書き上げた少年に対して「私」は自分は一時期この「街」で実際に働いていたことを打ち明けますが、その時、少年はやや唐突に「街」を囲む「壁」とは「疫病を防ぐため」に存在していると告げます。そしてその「疫病」とは「終わらない疫病」であり、しかも「魂にとっての疫病」だといいます。
 
ここで「疫病」なる極めてアクチュアルなキーワードが登場します。もっともこの「疫病」はその後の展開で掘り下げられることはありませんが、本作の執筆背景を考えてもこの「疫病」こそが本作における「悪」と考えることができるでしょう。
 
ではこの「疫病」という「悪」に対して本作はいかなる「コミットメント」を試みているのでしょうか。以下、この点を先に述べた二番目の視点である「心理療法と物語」から読み解いていきます。
 

* 心理療法と物語

 
この点、村上氏は河合氏との対談を受けて次のようにも述べています。
 
小説を書くというのは、ここ(引用者註:村上氏と河合氏の対談)でも述べているように、多くの部分で自己治療的な行為であると僕は思います。「何かのメッセージがあってそれを小説に書く」という方もおられるかもしれないけれど、少なくとも僕の場合はそうではない。僕はむしろ、自分の中にどのようなメッセージがあるのかを探し出すために小説を書いているような気がします。
 
村上春樹河合隼雄に会いにいく』より

 

すなわち、氏にとっては小説の執筆とは表層的な意識から遠く離れて、どこまでも自分の中に入り込んでメッセージを探しだすプロセスそのものであるということです。そしてそのようにして小説を書く行為自体が自分自身の病んでいる部分を癒したり欠落している何かを埋め合わせたりする行為になっているということです。
 
このように作家が自分の内側にどこまでも入り込み、その中でメッセージを探し出し、それを物語として生み出していくプロセスと、心理療法の中で治療者との関係に支えられたクライエントが自らを基礎づける物語を見出し、その物語を生きていくというプロセスはどこかとても似ています。こうしたことから村上氏との対談を受けて河合氏は次のように述べています。
 
病いを癒すものとして「物語」というのは、実に大切なことだと思っている。現代はそのような物語を一般に通じるものとして提示できないところに難しさがあるように思う。各人はそれぞれの責任において、自分の物語を創りだしていかねばならない。
 
村上春樹河合隼雄に会いにいく』より

 

 

* こちら側と向こう側

 
では、このような「物語」を生み出すプロセスとはいかなるものでしょうか。この点、臨床心理士である岩宮恵子氏は村上春樹作品を題材として心理療法における「物語」の生成を論じた『思春期をめぐる冒険(2004)』においてクライエントが「物語」を生み出すには日常の常識的な世界とは異なる理を持つ「異界」の視点が不可欠となると述べています。その要旨は以下のようなものです。
 
我々が生きるこの世界は「目に見える現実」としての「こちら側」と「目に見えない現実」としての「向こう側=異界」という二つの位相から成り立っています。けれども現代社会において多くの人は「向こう側」を切り離して、あるいは見て見ぬ振りをして、もっぱら「こちら側」だけを生きており、例えばメンタルヘルスの不調などといった何かしらの「こちら側」の問題に直面することで初めて「向こう側」に関わることになります。
 
ところが、ここで「こちら側」で起こった問題の原因をただちに「向こう側」に帰結してしまう安直な「物語」は例えばカルトや原理主義陰謀論に取り憑かれるような形で「こちら側」の世界を破壊してしまう危険性を帯びています。「向こう側」から還流される因果や善悪を超越した巨大な力は「こちら側」では「性」や「暴力」として顕現することがあります。
 
このように、ある種の問題を解決する上で「向こう側」の視点は不可欠である一方で「向こう側」とは危険に満ちた世界でもあります。こうしたことから心理療法において臨床家はクライエントの「向こう側」を開いていくと同時に絶えず「こちら側」へと引き戻していくという両義的な態度が求められます。そして、こうした「向こう側」と「こちら側」からなる多層的であり、かつ連続性を持つ現実の中にクライエントが自分自身を位置付け直していくそのプロセスこそが「自分の核」と結びつくための「物語」を紡ぎ直すという営みに他ならないということです。
 

* 思春期という名の異界

 
そして、こうした「物語」を紡ぎ直す過程において避けて通れない「向こう側=異界」として岩宮氏は「思春期体験」を挙げています。人が生きている限り毎日変化があるのは当然ですが、特に10代の思春期は心身が大きく「変化」する時期といえるでしょう。そして、その心身の「変化」とは、それまでのあり方の象徴的な「死」を意味します。すなわち思春期とは自分の「生」とは何なのかを「死」という「向こう側=異界」の側の視点でみる時期でもあります。
 
いわば思春期は「異界」との位相に最も近くなる時期です。この点、村上春樹作品においては思春期の少年少女が物語の鍵を握る存在として度々登場しますが、直子(ノルウェイの森)やユキ(ダンス・ダンス・ダンス)や笠原メイ(ねじまき鳥クロニクル)がまさにそうであったように思春期に出現した「異界」における「死」の側面は時として現実への不適応の問題として現れることがあります。また五反田君(ダンス・ダンス・ダンス)のように思春期を過ぎた大人がかつての自身の思春期体験と深く結びつくことで「異界」における「死」の側面に巻き取られてしまうこともあります。
 
こうした意味で思春期とは10代の特定の時期のみならず、より広く「向こう側」からの侵入を受けた「こちら側」の自分が「向こう側」とどのように結びついて「こちら側」をいかに生きるのかという問題に直面する時期だと考えるべきなのでしょう。
 

* 見える身体と見えない身体

 
そして、このような我々の世界を成り立たせている「向こう側」と「こちら側」という二つの位相は、我々の身体においては「見える身体」と「見えない身体」という二つの位相に対応します。
 
科学や医学が急速に進歩した現代においてはもっぱら「見える身体」のみが重視され「見えない身体」が軽視される傾向がありますが、少なくとも心理療法で取り扱われるような問題においては「見える身体」の位相を整えるだけでなく「心」や「たましい」といった不可視の営みと深く関係している「見えない身体」との関係を回復することが何よりも必要となります。
 
けれども「見えない身体」に深く囚われてしまうと久美子(ねじまき鳥クロニクル)のように「あちら側」から帰ってこれなくなったり、あるいは佐伯さん(海辺のカフカ)のように「こちら側」での生の感覚を無くしてしまうことがあります。さらに「見えない身体」について真剣に考えようとする姿勢がどこかでずれてしまうと一気にカルト的な世界観に結びついてしまう危険もあります。
 
この点、心理療法においてクライエントの「見える身体」と「見えない身体」を結びつけていく作業は治療者自身が「見えない身体」の位相に開かれている必要があると岩宮氏はいいます。すなわち岡田亨(ねじまき鳥クロニクル)が「見えない身体」の位相で「壁抜け」を行なったように、治療者自身が「見えない身体」に開かれることで初めてクライエントの「見えない身体」にも働きかけ、クライエントの「見える身体」と「見えない身体」のつながりを回復させていくことができるようになるということです。
 

* 自己実現の諸相

 
こうした意味で本作は「異界」「思春期」「身体」をキーワードとする「物語」の生成論をきれいに内在化させた作品といえるでしょう。まず本作は「思春期の傷」を抱えたまま中年になった主人公が「向こう側=異界」でかつての恋人(の実体)と再開する「思春期体験」を経ることで新たな「物語」の幕が上がります。しかしここで主人公は「見えない身体」を「向こう側」に残したまま「見える身体」だけが「こちら側」に帰還することになります。けれどもここから主人公は「向こう側」の住人というべき「幽霊の老人」や「異能の少年」との交流を経て再び「向こう側」の「見えない身体」と「こちら側」の「見える身体」を再統合して「自身の核」というべき「壁に囲まれた街」と結びつくための「物語」を紡ぎ直していくことになります。
 
そして、こうした「物語」を紡ぎ直すプロセスは河合氏も依拠する「分析心理学(ユング心理学)」の創始者であるスイスの精神科医カール・グスタフユングがいう「自己実現」の過程に相当します。ユングは意識の枢要部である「自我」とは別の「こころ全体」の中心である「自己」の働きによって、相対立する様々な葛藤を相補的に再統合していく過程を「自己実現」と呼び、ここでいう「自己」の象徴として「老賢者」や「曼荼羅」を挙げています。
 
この点、子易はどことなく河合隼雄氏のイメージと重なりあいます(あのスカートはカウンセリングにおける母性原理の体現と解することもできます)。おそらく本作における子易はユングのいう「老賢者」といえるでしょう。もしかして村上さんはコロナ禍により外部から隔絶された「井戸の底」ともいえる環境で河合先生の幽霊と対話しながら本作を書き上げたのかもしれません。そして森羅万象の知識を収蔵し「私」がいうところの「究極の個人図書館」であるイエロー・サブマリンの少年は、まさにユングのいう「曼荼羅」といえるでしょう。
 
こうしてみると本作もある種の「自己実現」に至る「物語」といえます。しかしそれは従来のような「父」になるといった浅いレベルでの「自己実現」ではなく「自我」と「自己」の対話によって「こころ全体」を再統合していく深いレベルでの「自己実現」です。そしてこうした「自己実現」こそが、いまや「悪」に対する決定的な「コミットメント」となります。
 

* 免疫としての物語

 
この点、村上氏は2008年のインタビューにおいて次のようなことを述べています。
 
僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻(おり)というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる。
 
「僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉(毎日新聞2008年5月12日)」より

 

そしてこうした問題意識のもとで執筆された『1Q84』においてはオウム真理教をモデルにしたと思われる「さきがけ」という新興宗教の教団が登場します。この「さきがけ」という教団は根源的な「悪」を象徴するリトル・ピープルを信奉しており、同作ではこのリトル・プープルに対するコミットメントは二つの方向から遂行されます。それは第一にリトル・ピープルと通じる「さきがけ」の教祖を暗殺するというコミットメントであり、そして第二にリトル・ピープルの活動を制限する力を持つ『空気さなぎ』という「物語」を世間に広く普及させるというコミットメントです。
 
この点、第一のコミットメントは『ねじまき鳥クロニクル』におけるコミットメントの発展系といえるでしょう。これに対して新たに導入された第二のコミットメントの具現化を目指したものこそがまさに本作における「物語」ではないでしょうか。
 
ところで先述のように河合隼雄氏は心理療法における「物語」の重要性を述べていますが、かつて氏は現代の優秀な青年が例えば「ハルマゲドン」などといった悪しき「物語」を簡単に信じ込んでしまうような現象を「伝染病」への「感染」に例えて、いま必要なものは「物語」に対する「免疫」であると述べています。そして、こうした「物語」に対する「免疫」の必要性は現代においてますます高まっていると言えます。
 
例えば「新実在論」の騎手として一躍脚光を浴びることになったドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルはこのコロナ・パンデミックにおける指針として「共免疫主義」を提唱しています。ここでいう「免疫」とはまさに「精神の毒」に対する「免疫」です。すなわちコロナ・パンデミックによりフェイクニュース陰謀論が拡大する中で、世界的に激化している対立、差別、暴力といった集団的な「精神の毒」への「免疫」が必要とされている、ということです。
 
こうしてみると、いまやリトル・ピープル的な「悪」はかつてのオウム真理教的なものからコロナ・パンデミック的なものへと変貌を遂げたといえるでしょう。こうしたコロナ・パンデミック的な「悪」へのコミットメントとは、もはや時限爆弾での爆殺でもバットでの撲殺でもアイスピックによる暗殺でもない、他ならぬ「免疫」としての「物語」の獲得によって初めて果たしうるのではないでしょうか。こうした意味で本作は見事に「免疫」としての「物語」を物語る「コミットメント」の物語であったといえるでしょう。