かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自傷的自己愛の修復論として読み解く『お兄ちゃんはおしまい!』

 

* 自傷的自己愛とは何か

 
ひきこもり支援の専門家として知られる精神科医斎藤環氏は思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱しています。氏は近著『「自傷的自己愛」の精神分析(2022)』の冒頭でいわゆる「インセル」や「無敵の人」が起こしたとされる事件を取り上げています。ここでいう「インセル」とは「インボランタリー・セリベイト(不本意な禁欲主義者)」の略称であり、自分の容姿が醜いために女性から相手にされないと確信する男性たちの呼称として用いられ、しばし彼らは女性への憎悪を募らせる男性優位主義者のヘイトグループとされることがあります。そして「無敵の人」とはかつての2ちゃんねる管理人として知られる西村博之氏が2008年に提唱した言葉であるとされており、元々社会的信用が皆無のため逮捕されることがリスクとならず犯罪を起こすことに何の躊躇もないような人々を指しています。
 
彼らは最も極端な形で「自傷的自己愛」を象徴していると同書で氏はいいます。すなわち「インセル」や「無敵の人」においてはその自己否定の感情が暴走した結果、拡大自殺のような形で通り魔殺人などの事件を犯すことがある、ということです。こうした犯罪の背景にはしばし何かしらの社会批判が見え隠れたりもしますが、同書によればその大元には「自己否定=社会批判」というショートカットがあるわけです(もちろん、これは同書も釘を刺すように「自傷的自己愛」が強い人の犯罪率が高いという意味ではありません)。
 
そして「自傷的自己愛」は斎藤氏の専門領域である「ひきこもり」にもよく見られるといいます。ここでいう「ひきこもり」の定義とは、6ヶ月以上社会参加をしない状態で、かつ何かしらの精神障害を第一の原因としない状態をいいます。現在日本には内閣府の推計で100万人以上の(斎藤氏の推計によれば200万人以上の)「ひきこもり」の当事者がいると考られており、当事者がその保護者と共に高齢化していることを含めて社会的な問題となっています。
 
「ひきこもり」はしばし視野の狭さや人格的な偏りなどから一種の「病気」とみなす主張も聞かれることもありますが、斎藤氏は精神科医として30年以上に及ぶ臨床経験に基づき「ひきこもり」を「困難な状況にあるまともな人」とみなすことを提唱しています。そもそも「ひきこもり」とは、いじめやハラスメント、ブラックな労働環境といった「異常な状況」に対する「まともな反応」として生じるのであり、その意味で、どんな家庭で育ったどんな人でも、いつでもどこでも何歳からでも「ひきこもり」になる可能性がある、と同書はいいます。
 
そして往々にして「ひきこもり」の当事者は、こうした「まとも」であるがゆえに現在の状況が家族の負担になっており世間的な価値観からも批判される状態にあることをよく自覚しており、その結果、彼らは「セルフスティグマ(自分は無価値な人間であるというレッテルの内面化)」を自身に貼り付けてしまい、こうした状況での周囲からの励ましの言葉はしばし逆効果となることがあります。
 
そして同書は「ひきこもり」に限らずメンタルヘルスに問題を抱えた「自分が嫌い」な人々においてはその「自己愛」が弱いのではなく、むしろ「自己愛」が強いのではないかと述べます。つまり、彼らの自己否定的な発言はその「自己愛」の発露としての自傷行為なのではないかということです。その根拠の一つとして同書は彼らが自分自身について、あるいは自分が社会からどう思われているかについて、いつも考え続けているという点を挙げています。だとすれば、それはたとえ否定的な形であり自分に強い関心があるという、紛れもなく「自己愛」の一つの形といえます。こうした逆説的な感情こそが斎藤氏のいうところの「自傷的自己愛」です。
 
そして、2023年冬アニメ覇権作品との呼び声も高い『お兄ちゃんはおしまい!』という怪作からはこのような「自傷的自己愛」におけるメタフォリカルな修復論を読み出すことができるように思えます。
 

* ダメニート男子から中学生女子へ

本作のあらすじはこうです。エロゲを愛する引きこもり歴2年のダメニート男子である緒山まひろはある日、天才科学者である妹の緒山みはりに怪しげな薬を一服盛られ、何とも可愛らしい中学生女子の姿に変えられてしまいます。みはりが飛び級で入学した大学で開発した「女の子になる薬」の実験台にされたまひろは、みはりからしばらく女子として暮らしてみることを勧められます。
 
トイレ、お風呂、スカート、ブラジャー、生理・・・まひろにとって「女の子の生活」という未知との遭遇は困惑と驚愕の連続でしたが、その一方で、かつて優秀すぎる妹の兄という立場の重圧感に苦しんでいたまひろは「妹の妹」に納まった現在の立ち位置に奇妙な居心地の良さを見出していくことになります。
 
本作は一般的には異性への性転換を主題とする「TSF(Transsexual fiction/fantasy )」と呼ばれるジャンルに属する作品といわれます。原作者のねことうふ氏はもともと「TSもの」を愛好しており「君の名は。(2016)」のヒットが本作を発表するきっかけになったようです。
 

* セカイから日常への折り返し

 
もっとも、その一方で本作は「セカイ系」から「日常系」にいたるゼロ年代における想像力の変遷を物語として内在化させた作品とみることができます。この点、ゼロ年代初頭のオタク系文化においてはポスト・エヴァンゲリオン的潮流に属する「セカイ系」と呼ばれる想像力が一世を風靡しましたが、やがてゼロ年代中葉以降のオタク系文化において「セカイ系」の限界を乗り越える形で台頭し始めたのが「日常系」と呼ばれる想像力でした。
 
極めてざっくりといえば、無力な少年と無垢な少女のイノセントな交流を描く「セカイ系」が主人公の実存不安をヒロインの母性的承認で救済する想像力であったとすれば、同世代女子同士のゆるやかな交歓を描く「日常系」は同性間の相互承認の中で瑞やかな日常を再発見していく想像力であるといえます。
 
この点、引きこもり時代のまひろはその実存不安を二次元美少女の人工母性で埋め合わせるセカイ系的な生活を送っていたといえます。けれども中学生女子の姿になったまひろはやがて、みはりの友人の穂月かえでの妹である穂月もみじをはじめ、桜花朝日や室崎美夜といった同世代女子たちと日常系的な日常を送るようになります。
 
すなわち、ここにはセカイ系的な実存不安が日常系的な相互承認によって解除されるという、いわば「セカイから日常への折り返し」を見出すことができるでしょう(なお付言すれば、このような引きこもり男子が怪しい薬で美少女になるという本作の荒唐無稽な設定が広く受容された背景には2010年代のオタク系文化において一大潮流を形成した「異世界転生系」の影響が考えられます。いわばまひろは「日常系」という「異世界」に「転生」を果たしたというべきでしょう)。
 

* プライドは高いが自信がない

 
そして、このような本作における「セカイから日常への折り返し」の中に、まさに自傷的自己愛の修復論を読み出す鍵を見出すことができるでしょう。
 
この点、斎藤氏は自傷的自己愛の構造を「プライドは高いが自信がない」という端的な言葉で言い表しています。ここでいう「プライド」とは「あるべき自分(自我理想)」へ執着する感情をいい「自信」とは「いまの自分(理想自我)」を肯定する感情をいいます。こうしたことから自傷的自己愛の修復論においては畢竟「プライド」と「自信」をいかに均衡されるかが問われることになります。
 
ここで考えられる一つのアプローチが肥大化した「プライド」と均衡するだけの「自信」を供給するというものです。そして、こうしたアプローチの代表例として引きこもり文学の古典的名著(?)である『NHKにようこそ!(2002)』という作品を挙げることができるでしょう。
本作のあらすじはこうです。大学を中退して自堕落な引きこもり生活を送る本作の主人公、佐藤達弘は今の惨めな境遇は謎の巨大組織「NHK(日本ひきこもり協会)」の陰謀であるなどと日々妄想していましたが、やがて中原岬という謎めいた美少女と知り合いになり、よくわからないままに彼女から引きこもり脱出のためのカウンセリングを受け始めることになります。
 
そんなある日、ふとしたきっかけで佐藤は岬の腕のDV痕を目撃してしまいます。果たして岬は幼少時における虐待のトラウマから自分を好きになってくれる人間など誰もいないと思い込んでおり、自分よりもさらにダメ人間の佐藤に救いを求めていたのでした。その後、どうにか引きこもりを脱出した佐藤は、精神を病み自殺願望を抱く岬を救うべく、この世の諸悪の根源的存在である「NHK」と対決することになります。
 
このように同作では主人公の実存不安をヒロインの母性的承認によって救済するというセカイ系的構図の中で主人公の肥大化した「プライド」と均衡するだけの「自信」が供給されることになります。
 

* ほどほどのプライドとそこそこの自信の人間学的均衡?

 
これに対して、もう一つのアプローチが「自信」と均衡するまで「プライド」を削減してしまうというものです。まさに本作はこうしたアプローチのアクロバティックな例として位置付けることができるでしょう。
 
かつてのまひろは「優秀な妹の兄」という「あるべき自分」に執着して、惨めな「いまの自分」を肯定できないでいる「プライドは高いが自信がない」という典型的な自傷的自己愛の状態にありました。また、まひろは「男らしさ」という時代錯誤的なジェンダー規範にかなり囚われている面があり、女の子にされた当初は「もう死んだも同然」などと言って落ち込んでいました。
 
けれども、まひろは女子にされたことで「優秀な妹の兄」とか「男らしさ」などといった「プライド」から文字通り身体ごと解放される一方で、ファッションやヘアアレンジやメイクを身に付けることで「女の子」としての「自信」に少しずつ目覚め、やがて同世代女子との相互承認という日常系的構図の中で身の丈にあったほどほどの「プライド」と新たに手にしたそこそこの「自信」を程よく均衡させていくことになります。このあたりのプロセスは精神病理学的にはルートヴィヒ・ビンスワンガーのいう垂直方向と水平方向の人間学的均衡といえそうですし、精神分析的にはジャック・ラカンのいう二段階の去勢を想起させるものがあります。
 

* キャラを再設定するということ

 
ところで斎藤氏は自傷的自己愛を「キャラとしての承認」の裏返しである「キャラとしての嫌悪」として捉えています。ここで氏のいう「キャラ」とは端的にいえば、ある個人における一つの特徴を戯画的に誇張した記号のことであり、一旦「キャラ」として認識された個人は、以後ずっと「キャラとしての同一性」を獲得する、あるいはさせられることになります。
 
例えばいわゆるスクールカーストの成立にはここでいう「キャラ」が重要な役割を果たしていることがよく知られています。ここではコミュ力が高い「陽キャ/モテキャラ」がその上位層を形成し、一方で、コミュ力の低い「陰キャ/非モテキャラ/いじられキャラ」がその下位層に位置付けられます。つまり、ここでは個人のキャラとそのスクールカーストにおける位置付けがほぼ同時かつ問答無用に決定されることになります。
 
そして自傷的自己愛においては、その自己愛そのものは「本来の自己」に向けられているにもかかわらず、自分に与えられたキャラは受け入れ難いため、そうしたギャップから「キャラとしての自分」を徹底的に批判することになります。そうであれば自傷的自己愛におけるプライドと自信の著しい解離はこの「キャラ」に起因しているといえます。
 
おそらく、まひろにとって「引きこもりのダメニート」というキャラよりも「ぐうたらでポンコツで人見知りな女の子」というキャラの方が遥かに受け入れやすかったと思われます。もちろん本作のように男子から女子(あるいはその逆)という性別の変化はもっとも根本的なキャラの再設定といえますが、ここで重要なことは性別の変化というよりもむしろ、いかに自分と周囲が受け入れ可能なキャラを再設定できるかという点にあるでしょう。
 
こうしてみると自傷的自己愛を修復していく上で必要なことは自己批判でも自己変革でも自己啓発でもなく自己のキャラの再設定にあるといえるのではないでしょうか。そしてここには現代的な「成熟」を考えるためのひとつの手がかりがあるようにも思えます。