かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

インターネットの魔法と正義--最果タヒ『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』

 

* 最果タヒとインターネット

 
最果タヒ氏は2005年から思潮社の『現代詩手帖』に投稿を始め、周知の通り2007年には第一詩集『グッドモーニング』を上梓して史上最年少で中原中也賞を受賞していますが、それ以前の時期には「現代詩フォーラム」や「文学極道」といった投稿サイトで活動しており、また同時期には老舗日記サイトである「エンピツ」や「前略プロフィール」で知られる「CGIBOY」や「ヤプログ!」の前身となる「ヤプース!」といったWebサービスにも日記などを投稿していたようです。言うなれば現代詩人最果タヒゼロ年代初頭のインターネットから生み出されたといってもよさそうです。氏は次のように書いています。
 
インターネットが小学生の頃からあって、多分中学に入って同時ぐらいに、不特定多数の人が見る場所で書くということを覚えたんです。で、それまではまあそんなに書いたりしていなかったのに、見ている人がいると思うとどんどん書けたし、楽しかったので、私にとって書くとは誰かに見られる前提で書く、というのとイコールなんです。
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)

 

もっとも、最果氏のインターネットへの距離感は次のような発言を読むと、そう単純ではないというか、むしろある種の屈折を抱えているようにも思えます。
 
でも実際に、こう、やろうと思った瞬間こそが楽しさ最高潮であって、実際にやってみたらたいして楽しくなかった、なんてことは結構ある。インターネットも私にとってはその類です。ネットの良さといえば、世界中と一瞬で繋がれるということ、世界って広い、と実感できるということかもしれないけれど、私が通常ネットで見ているものなんて自分のサイト関係だけだし、世界の広さなんて全く実感できていない。混んだ電車の中だとか、行列に並んでいる時間とか、そういう退屈な現実の中でスマホを握りしめて、私はいつだって別世界へ行けるんだ、と思っている時のほうがずっとネットの「広さ」を謳歌してる。ネット自体を愛しているというよりは、いつでもネットに触れられるというその余裕こそが大切なのかもしれない、なんてことを思います。
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)
インターネットが特別だとは思ったことはありません。インターネットがなかった世界が不自然だっただけ。人は、みんな人としてネットに写真や言葉を投稿しているのに、どうやっても閲覧者から現象としてしか捉えることができないでいる。本当に向こうに人間がいるのか、わからないし、どこかで信じてないと思ってしまう。現実世界でははっきりとした輪郭の中に、肉体として存在するわけだけれど、インターネットでは滲んでいく形しか姿を表せなくて、それが私にとってはむしろ自然なことに思えた。
 
ユリイカ2017年6月号「特集=最果タヒ」より)

 

そして最果氏初の長編小説である本作『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。(2015)』はこうした氏のインターネットに対する屈折した距離感をそのまま物語にした作品としても読めるでしょう。
 

* まんが・アニメ的リアリズムと半透明な言葉

魔法少女の攻略本(税抜価格・四百十九円)によると、フィクション・ノンフィクション問わず、魔法少女はロマンティックなものから力を借りて変身をするらしい。たとえば月や星、空や海といったそんなものによって、魔法という不思議現象は発生しているんだよ☆ なーんてことがそこには書かれていて、だからインターネットの力で魔法少女が変身できるのもナットクだね☆ と説明文は続いていた。
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)

 

 

本作のあらすじはこうです。インターネットが高度に進化した世界を舞台する本作の主人公、あかり(織田日明)はインターネットの力で変身する魔法少女です。ちょっと遅刻が多いだけのごく普通の女子高生だった彼女は「ネット学習」という必須科目の出席不足を理由に国家公務員のおじさんから魔法少女業務を半ば無理やり押し付けられ、嫌々ながら日々インターネットの悪意によって生まれる魔物を退治してまわっていました。
 
そんな特別だけれども平凡なあかりの前に安楽さん(安楽栞)という安楽椅子探偵を名乗るアンドロイドが現れます。安楽さんはあかりの学校の風紀委員長からの依頼を受けて風紀違反の捜査に従事していました。そしてあかりはインターネットが不得手な安楽さんに懇願されて彼女の仕事を手伝う羽目になり、やがてインターネットをめぐる巨大な政治的陰謀に巻き込まれてしまいます。

 

本作でまず特徴的なのはその文体です。魔法少女やアンドロイドが登場する本作は一般的な小説のような近代文学の文体ではなく、まるでライトノベルのような文体で書かれています。それは端的に言えばテクストから実写映像ではなく漫画やアニメのような映像が思い浮かんできそうな文体のことです。
 
この点、大塚英志氏は『キャラクター小説の作り方(2003)』において近代文学私小説)が自然主義的な「現実」を写生する「自然主義的リアリズム」に規定されているとすれば、ライトノベル(キャラクター小説)は漫画やアニメのキャラクターという「虚構」を写生する「まんが・アニメ的リアリズム」に規定されているといいます。
 
そして、東浩紀氏は『ゲーム的リアリズムの誕生(2007)』においてライトノベルを「キャラクターのデータベース」という人工環境から出力された「ポストモダン文学」と位置付けて、その文体を「半透明な言葉」と呼びます。
すなわち、前近代の物語が意味や歴史に満ちた「不透明な言葉」で語られ、近代文学自然主義的な「透明な言葉」で記述されているとすれば、ライトノベルは不透明で非現実的な表現でありながら現実に対して透明であろうとする「半透明な言葉」で記述されているということです。
 
それゆえにライトノベルのキャラクターは身体を持ちながら記号的であり、人間でありながら人間でない曖昧性を帯びた存在となり、読者は一方で登場人物に簡単に同一化することができ、他方でその行動が現実からいくら離れたとしても、それもまた自然に受容できる、と東氏は述べています。
 
こうしたことからライトノベルにおいては例えばゼロ年代初頭に一斉を風靡した「セカイ系」のように我々の生きる世界と地続きの日常的世界と日常の論理を超えた非日常的世界を容易に直結させる文法が可能となります(もしも「透明な言葉」で同様のことをしようとすれば作中の世界観設定に説得力を持たせるための膨大な手続きが必要となります)。そして本作もまた、この「まんが・アニメ的リアリズム」に基づく「半透明な言葉」を最大限に活用することで現実社会におけるインターネットが抱え込む問題と可能性を極めて純度の高いかたちのままで取り出しているといえるでしょう。
 

* インターネットの魔法と正義

ネットは便利。ネットは便利、ネットは便利だ、ほとんど使えない私だってそれは断言できる。インターネット最高だねって言える。検索したらどんな情報でも出てくるよ、ニュースは早いし、好きな歌手の公式サイトも見られるよ、ネットは便利だ、すばらしいんだ。すてきなネットの力を借りて変身して、悪用しようとするバカをぶっつぶせるなら、それは私の自尊心が満たされて空も飛べそう。
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)

 

インターネットの力によって魔法少女に変身するあかりはまさにインターネットから生まれた現代詩人最果タヒの分身ともいえそうです。もっともあかり自身はインターネットそれ自体に対してさしたる思い入れはなく、ネットをしないという安楽さんにインターネットは便利で素晴らしいから使ってみなよなどと激しく力説するのも、それは彼女がインターネットの素晴らしさを心から信じているからとかではなく、インターネットの素晴らしさを否定されてしまうと魔法少女の自分が「正義の味方」を名乗る根拠がなくなって単純に困るからです。
 
そして本作ではインターネットに対する両極端な「正義」を担う人物として、あかりを魔法少女にした国家公務員のおじさんこと文化庁のエージェントである榊とあかりの通う高校の生徒会長にして天才科学者である一時子がそれぞれ配置されています。
 
この点、インターネットを極端な形で否定する榊は以前から急速に成長を始めた「0」と呼ばれるインターネット上の集合人格知がやがて全人類を支配する未来を危惧しており、人類を守るため集合知「0」の暴走を止めるための「特効薬」となる対抗プログラムをどうにか見つけ出そうと暗躍しています。
 
これに対して、インターネットを極端な形で肯定する時子は集合知「0」の製作者でもあり、インターネットがさらに成長することで個人の境界線が曖昧になって皆が『みんな』として存在する世界に至る人類補完計画のようなものを密かに夢想しています。
 
こうした中であかりの導き手となる安楽さんのスタンスは極めてフラットです。彼女はインターネットそれ自体を悪いものともすばらしいものとも思っておらず、悪い結果が起きるのも良い結果が起きるのも包丁と一緒でインターネットを使う人間次第であると考えており、インターネットの進化を止めるのではなく共存する方法を探そうといいます。
 

* みんなで世界を変えていけるということ

 
物語後半、榊から集合知「0」を倒すために魔法少女として協力を迫られたあかりはもはや何が「正義」なのかわからなくなり、この状況でいま自分はどうするべきなのかを自問自答して迷った末、安楽さんの言葉に背中を押される形で、魔法少女でも正義の味方でもない、ちょっと遅刻の多いだけのごく普通の女子高生として、インターネットの可能性を信じる「選択」ではなく、インターネットの可能性を信じる「人」を信じようとします。
 
私がふるおうとしているものは、正義なんかじゃなくて身勝手な暴力なのかもしれないね。きっとそうに違いない。でも、その可能性を、その責任を、その汚さを、背負うことが力をふるうってことだと思うよ。それでもいいからふるいたい暴力を私は振るう。私は凡人だから、身勝手にしか、自分のためにしか力を使えないよ。
 
ごめん、インターネット。
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)
 
そしてあかりは「あなたは何も知らない。私は何もかも知っている。正しく判断できるのは誰でしょうか」と問い糺す榊に対して次のように答えます。
 
「でも、世界は、インターネットは、おじさんのものじゃないです。」
 
(中略)
 
「正しい人とか、なにもかも分かっている人とかそういう人たちのものでもないです。正しかったら、頭がよかったら、世界を変えていいってわけじゃない。世界はみんなのものだから、みんなが変えていけばいい。それで間違ったことをしちゃった人がいたとしても。だから、おじさんの考え方なんて、関係ない。私は私が選択したい方法を選択します」
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)

 

もっとも、ここであかりは自身の正義を肯定しつつも自身とは別の正義を決して否定せず、この世界を一切の泡立ちのない透明で安定したものとしてではなく、サイダーのように様々な他者性の泡立ちがざわめくような脱構築的な発想で捉えています。
 
こうしてみると本作は「大きな物語」の語る「正義」に安住していた主体が「大きな物語」の不在に戸惑い、様々な「小さな物語」としての「正義」が乱立する中で自身の「正義」を「暴力」として引き受け直していくというゼロ年代的な正義論から出発しつつも、その「正義」の中に決断主義的に立て篭もり世界を友と敵の二項対立で切り分けることなく、そこからさらに世界中で泡立つ様々な未熟で迂闊な名もなき「正義」を包摂していくという2010年代的な正義論へ向かっているといえるでしょう。
 
私たちはきちんとここにいて、だからここを変えていける。友達との関係を変えられる。学校の雰囲気を変えられる。地元の環境を変えられる。国を、世界だって、変えられる。微力と無力は大違いだよ。当事者でない人たちが、どこにもいないなら、無力な人だってどこにもいないのだ。
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)

 

みんなで世界を変えていけるということ。ここには分かり合えなさを分かり合うことで他者(性)と手をつなぐというすぐれて脱構築的な倫理を見ることができるでしょう。いわば本作は「かわいいだけじゃない私たちの」中にあるひとつきりの特異的で単独的な「正義」としての「かわいいだけの平凡。」を愛でる物語であったといえるでしょう。
 

* ポスト・ヒューマニズムヒューマニズムのあいだ

 
そして本作におけるインターネットをめぐるポリフォニーはそのままヒューマニズムとポスト・ヒューマニズムをめぐるポリフォニーへと拡張することができます。その端的な例として本作ではロボットをめぐる対立が描かれています。
 
この点、インターネットだけではなくロボットにも憎悪を向ける榊は旧態依然の人間中心主義に囚われた悪い意味での「ヒューマニスト」です。これに対してインターネットを偏愛する一方で人間の身体にこだわりのない時子はテクノロジーの革新によりシンギュラリティを目指すある種の加速主義者といえます。
こうした中で安楽さんはポスト・ヒューマニズムが加速していく状況において科学を恐れずに人を変えていくというヒューマニズムの進化を求め、このようなヒューマニズムのあり方をあかりは「便利な道具を、嬉しい形で使っていく」と表現しています。
 
翻って考えてみると現代詩人最果タヒもやはり、かつてゼロ年代初頭にインターネットという「便利な道具を、嬉しい形で使っていく」ことで誕生した存在であるといえるのではないでしょうか。そして2023年現在、生成AIの劇的な進化に伴いおよそ10年前に本作において展開されたヒューマニズムとポスト・ヒューマニズムをめぐるポリフォニーは早くも現実的な議論となっています。こうした意味で本作はAI時代におけるヒューマニズムのあり方を見晴るかした作品であったともいえるでしょう。
 
言葉が失ってきたもの、軽率な言葉が、切り捨ててきてしまったものを、物語で拾い集めていく。あいまいであること、そのことへの物語の、途方もない許し。名前の、つけられていない関係性や、感情を、あいまいなまま、そのままありつづけることを許しているのは現実よりも、物語なんじゃないかと、ときどき思うんだ。美しい、すばらしい物語にふれた日は。物語は時に、名づけることを放棄する。いいえ、名づけることを放棄するためにきっと物語がある。
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』あとがきより)