かぐらかのん

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「母性のディストピア(宇野常寛)」〜戦後日本の病理構造とサブカルチャーの共時的布置を読み解く一冊

 

 

 
 

* はじめに

 
本書は宮崎駿富野由悠季押井守という戦後アニメーションを築きあげた巨匠達の仕事を通じて、日本社会を覆う病理構造を明らかにし、さらに個人と世界の関係性のあり方を論じるという恐ろしく広大な射程を有する一冊です。
 
総頁数512頁というなかなかの分量ですが、本書が示すのは、サブカルチャーと社会構造に関するひとつのパースペクティブであり、最後まで丁寧に読み通せば、漫画やアニメ、社会情勢に対する多角的で豊かな視座が得られると思います。
 
 

* 「政治と文学」における戦後的アイロニズム

 
個人のアイデンティティは社会との関係性の中で形成されます。そして従来、個人は近代国家という舞台装置において「市民=父」を演じる事により、その近代的成熟性を獲得してきました。つまり、個人のアイデンティティの問題とは「政治と文学」の問題に他ならないわけです。
 
ところが戦後日本の場合、サンフランシスコ体制と日米安保により政治レベルの問題が消去された為、上記の意味での近代的成熟性の獲得は原理的に不可能となり、他方で経済的身体だけがぶくぶく肥大化していくことになります。こうした状況を本書は「幼形成熟ネオテニー)」と表現します。
 
このような事情から、この国における近代的成熟とは文学レベルでの自己完結による「成熟の偽装」にならざるを得なかったわけです。
 
つまり、保守的な言説にせよリベラルな言説にせよいずれにせよ、政治レベルへの接続不可能性を承知の上で、それでもあえて空位玉座を守り、偽悪ないし偽善を引き受けるという態度を取ることこそが、戦後日本における「成熟」であると看做すアプローチです。
 
こうした、徹底的に私的である事が逆に公的となり、現実的には無価値なものこそが理念的価値を生むという態度を「戦後的アイロニズム」と言います。
 
けれども、こうした文学レベルでの自己完結は、その「あえて」というアイロニカルな態度に対して無条件の絶対的承認を与える存在、すなわち「母なるもの」への依存と責任転嫁により初めて可能となります。
 
つまりは、「戦後的アイロニズム」という「矮小な父性」の後景には「肥大化した母性」が存在しているということです。このような矮小な父性と肥大化した母性の癒着構造を本書は「母性のディストピア」と呼ぶわけです。
 
 

* アトムの命題ゴジラの命題

 
ここで本書は戦後日本において奇形的発展を遂げたアニメーションというジャンルに注目します。
 
19世紀が「文学の世紀」であるのであれば20世紀は「映像の世紀」と呼べるでしょう。19世紀末、リュミエール兄弟によってシネマトグラフが発明され、映像という新たな技術は、20世紀という時代を映し出し、個人と世界をつなぐ公器としての役割を担わされることになりました。
 
映像は、共有不能な三次元上の現実を共有可能な二次元上の虚構に再構成する機能を持っています。その意味では、製作者によって映像内のすべての要素が制御可能なアニメーションこそまさしく「映像の世紀」の臨界点に位置していると言えるでしょう。
 
この点、本書によれば、戦後アニメーションはその無意識下で二つの命題に規定されていると言います。すなわち「アトムの命題」と「ゴジラの命題」です。
 
アトムの命題」は、手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」に由来する「成長や死のない記号的身体で成長や死を描写する」というテーゼです。
 
ゴジラの命題」は、東宝の特撮映画「ゴジラ」に由来する「虚構の中でしか描けない現実を描写する」というテーゼです。
 
アトムの命題は戦後日本のネオテニー的な身体の投影であり、ゴジラの命題はサンフランシスコ体制と日米安保に規定される現実の投影です。
 
すなわち、このような「身体(性/文学)」と「現実(戦争/政治)」という二つの命題に規定された戦後アニメーションのなかにこそ「母性のディストピア」を鋭く暴き出す批判力が内在しているということです。
 
こうした観点から本書は、宮崎駿4万字、富野由悠季10万字、押井守10万字というボリュームをもって戦後アニメーションの巨匠が辿った軌跡を検証していくわけです。
 
 

* 肥大化する母性の下での「政治と文学」の再設定

 
そして今、時代は「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」へと遷移し、情報環境の発展により、人々は自分の見たい現実だけを見て、信じたい物語だけを信じられる環境を手にしました。
 
こうした環境下においては、もやは戦後的アイロニズムによる成熟のでっち上げという方法論すら成立しない。人々はそんな迂路をたどる必要なく、情報技術という新しい母の膝元で父になる泡沫の夢に浸る事ができるわけです。すなわち現代において「母性のディストピア」はますます肥大化しているということです。
 
こうした閉塞的状況を突破するには戦後アイロニーとは異なる形、ネットワーク時代に対応した形で政治と文学の問題を再設定するしかない。ではそれは何なのか?これが本書の問題意識となります。
 
 

* 「拡張現実」を生きるということ

 
一方、「映像の世紀」から「ネットワーク世紀」へという情報環境の変化は、「虚構」と「現実」の境界線を相対化させ、現実の一部が虚構化した「拡張現実」が出現します。
 
すなわち、虚構と現実の関係性は「あれかこれか」の対立関係ではなく「あれもこれも」という統合関係に遷移します。
 
こうした拡張現実の進展は「政治と文学」の接続のありように変化をもたらします。つまり個人は「ここではないどこか」という「虚構(仮想現実)」の中に自分の物語を見出すだけでなく「いまここ」という「現実(拡張現実)」に深く潜る事で自分の物語を見出すことも可能となるわけです。
 
ここでは、かつて「終わりなき日常」と嘯いていた現実こそが、いくらでもその可能性を拡張していける豊かなものであったという価値観の転換が起きるわけです。
 
こうして本書では「君の名は。」「聲の形」「この世界の片隅に」、そして「シン・ゴジラ」と言った近年のサブカルチャー作品の検証を通じ、拡張現実の時代における虚構の役割を問い、母性のディストピアを内破する想像力の可能性を探り出します。
 
 

* 「政治と文学」から「市場とゲーム」へ

 
個人的に興味を引いたのは、吉本隆明氏の共同幻想論を参照しつつ、母性のディストピア構造の解除条件を論じる点でした。
 
共同幻想論によれば、国家は一つの幻想として捉えられます。すなわち、人間の社会像は自己幻想(個人)、対幻想(家族的な関係性)、共同幻想(国家的な共同体)から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになります。
 
吉本氏本人は国家的な共同幻想の呪縛を脱する拠点として核家族的対幻想を重視する一方、兄弟姉妹的対幻想は容易に共同幻想と接続するものとして警戒していました(例えば「同期の桜」という言葉を考えてみましょう)。
 
しかし、現代におけるグローバル化、情報化の進展は、国家的な共同幻想の存在感を零落させ、代わりに「市場」という非幻想を前景化させます。
 
ここで核家族的対幻想は容易に共同幻想に転化し、自己幻想の幼児的万能感を肥大化させる危険を孕むことになります。
 
一方で、もうひとつの対幻想である兄弟姉妹的対幻想は、国家的な共同幻想ではなく市場という非幻想へ接続されることで、国家的な共同幻想へ転換することなく対幻想のまま展開する。ここで個人と個人は共同幻想を媒介とすることなく、お互いが相補的な片割れとしてアイデンティティゲームによって繋がりをもっていくわけです。
 
こうして個人と世界の関係性のあり方は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」として接続されることになるわけです。
 
そして、こうした兄弟姉妹的対幻想の拡大現象はサブカルチャーの想像力の中にも確実に立ち現われています。例えば今日における日常系アニメの氾濫はこうした現象の中で理解ができるでしょう。
 
 

* おわりに

 
本書がいう「母性のディストピア」とは単なる思想的な概念ではなく、フェミニズムナショナリズムといった今日の様々な社会問題の背景をなす病理構造です。
 
大きな物語」が失墜し、グローバル化と情報化が進展する今日では世界から「外部」は消失し「現実」と「虚構」の境界は融解した。
 
こうした環境においてはもはや「父」になるとかならないとかいう近代的成熟の問題は意味をなしません。今や誰もが自分が信じたい「小さな物語」を選択し、その中で自動的に「父」として機能するからです。
 
つまり、現代的成熟のあり方は異なる「小さな物語」を生きる他者といかに関係していくか、相補性と共時性からなる自己実現アイデンティティゲームを上手く生きて行けるかという問題となるわけです。
 
誤配のない優しい世界で夢を見るのか、それとも誤配を承知で新しい可能性を切り開きに行くのか。本書の根底にはそういう厳しい問いがあるんだと思います。
 
今日における世界の見方、そして成熟のあり方を考えるにあたり様々な示唆が得られた刺激的な読書でした。