かぐらかのん

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「ユング心理学入門(河合隼雄)」〜この生をいかに自分らしく生きるか

 

ユング心理学入門

ユング心理学入門

 

 

 

 

* ユング心理学とは何か?  

 
ユング心理学とは、スイスの精神科医カール・グスタフユングが創始した心理学です。よく「ユング心理学はコンプレックスの心理学」などと言われたりもします。確かにコンプレックスという言葉はユングによって有名になりました。また実際、ユング心理学の理論体系上でもコンプレックスは重要な位置を占めています。
 
けれども、それ以上にユング心理学の真骨頂はコンプレックスを超えた「自己」という概念にあります。ユングは人が自らの「自己」を見出していく過程を「自己実現」と言います。そういった意味で、ユング心理学というのは「この生をいかに自分らしく生きるか」という「自己実現の心理学」だと言い得るでしょう。
 
「自分が嫌いだ」「人間関係がうまくいかない」「この人生に意味を見出せない」。
 
こうした心の問題と向き合う上で、本書はきっと導きの福音をもたらしてくれると思います。
 
 

* 2つの基本的態度と4つの心理機能

 
ユングは人の基本的態度を「外交的」と「内向的」に二分します。ある人の関心がもっぱら外界の事物あるいは事象に向けられている態度を「外交的態度」といい、逆に、内界のそれに向けられている態度を「内向的態度」といいます。
 
また、ユングは上記の2つの基本的態度とは別に、人は各々得意とする心理機能を持っていると言います。これが「思考」「感情」「感覚」「直観」という4つの心理機能です。
 
こうして2つの基本的態度と4つの心理機能が掛け合わされ、8つの基本類型が出来上がります。これがユングのタイプ論です(この8つの基本類型はあくまでモデルであり実際はこれらの中間に属する人の方が多いでしょう)。
 
もっとも、こうした意識的な態度や機能が一面的になりすぎる時、それを相補うような形で無意識的補償が起きるとユングは指摘しています。
 
また、人は自分と反対の型の人に抗し難い魅力を感じ、彼/彼女を友人や恋人に選ぶ傾向も強いと言われています。これは無意識的補償の外界における投影ということになります。
 
 

* コンプレックスという可能性の在処

 
我々が持つ「私は私である」という認識は、我々の意識を統合する「自我」という心的作用によるものです。ところが無意識内にはこうした自我の統合性を乱す心的作用が存在します。ユングは言語連想実験を通じてこうした心的作用を発見し、これを「感情によって色付られたコンプレックス」と名付けます。
 
コンプレックスは心的外傷経験や後に述べる元型的なものを核として、そこに様々な表象や情動が結びつくことで生成・肥大化と考えられています。
 
肥大化したコンプレックスは、ある程度の自律性を持ち様々な障害を起こします。これに対する自我の反応を「自我防衛」といいます。自我防衛の例として、自我がコンプレックスに同化する「同一視」や、コンプレックスを外界に投影し外的なものとして認知する「投影」などが挙げられます。
 
また、あるコンプレックスの裏には相反するようなコンプレックスがあったりもします。例えば「私は何の価値のない人間だ」というような劣等コンプレックスを抱えている人の背後には「私には私と同じような思いをしている人を救う使命がある」という優越コンプレックスがあったりして、この両者のうち自我に近い方が意識されるわけです。実際の心理療法やカウンセリングにおいてはこの両極を適当に連結させていくことが大事になったりするわけです。
 
本書はコンプレックスそれ自体は常に否定されるべきものではないと言います。コンプレックスとは後に述べる「自己実現の過程」における一つの事象であり、それまで目を背けて来た未知の可能性の在処を示しているからです。
 
例えば、引っ込み思案な性格の人が攻撃性コンプレックスと向き合うことで、健全な活動性を獲得したりするなど、自我はコンプレックスと対決することで、より高次の領域において再統合を果たすことができるということです。
 
 

* 普遍的無意識と元型

 
さらに、ユングはある地域に伝承する神話やお伽話と、神経症者の夢や精神病者の妄想の間に共通項を見出し「普遍的無意識」という概念を提唱します。すなわち、人の無意識内には、その人だけが持っている無意識(個人的無意識)の他、万人に共通する無意識(普遍的無意識)が存在するということです。
 
上に述べたコンプレックスは個人的無意識の層に属する後天的に生成された精神力動作用です。これに対して普遍的無意識の層に先天的に存在する精神力動作用をユングは「元型」と呼びます。
 
元型そのものは我々の意識によって捉えることはできず、通常我々は、元型の存在を外界に投影されたイメージ(原始心像)によって知ることになります。典型的な元型としてユングは次のようなものを挙げています。
 
⑴ 大母
 
「大母」とは「母なるもの」の元型のことです。グレートマザーとも呼ばれます。
 
「母なるもの」はその本質において「産み育てる」という肯定的側面と「呑み込む」という否定的側面を併せ持っています。河合氏は、いわゆる対人恐怖症は日本の母性社会的な特性に根ざしていると指摘しています。
 
⑵ 影
 
「影」とは自我から見て受け入れ難い人格的傾向であり「生きられなかった反面」のことです。影は自我統制が弱くなった時に表面に浮かび上がってくることが多く、その極端な例は二重人格です。
 
また人は自分の影を否定するため、その影を誰かに投影するということは日常よく見られる傾向です。例えば自分と真逆の性格の友人がどういうわけかムカムカして仕方がないというのは、その人に自分自身の影を投影しているということです。
 
また影には「個人的影」の他に「人類悪」ともいうべき「普遍的影」が存在します。
 
⑶ アニマ・アニムス
 
男は男らしく、女は女らしくといったように、人は社会から一般的に期待されているペルソナ(仮面)をつけて生活せざるを得ない一方で、ペルソナ形成の過程で排除された男性の中の女性的な面、女性の中の男性的な面もまた同時に我々の中に存在し続けています。
 
前者をアニマといい、後者をアニムスといいます。アニマはエロスの原理、アニムスはロゴスの原理をそれぞれ内在しています。
 
ある異性を見たらどういうわけかドキドキして目も合わせられないというのは、その人に自分の中にあるアニマ(アニムス)を投影しているわけです。
 
影がいわば「生きられなかった反面」なのであれば、アニマやアニムスとはいわば「切り捨てられた魂の側面」ともいうべきものでしょう。
 
 

* 自己実現コンステレーション

 
こうした「意識的態度と無意識的態度」「主機能と劣等機能」「自我とコンプレックス」「男性性と女性性」などといった、心の中で様々に相対立する葛藤というのは、ユングによれば、ひとえに「自己」の働きによるものとされます。
 
ユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を考えます。
 
自己とは、心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力であり、こうした再統合の過程を、ユングは「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んでいます。
 
この点、ユングによれば、ある個人の自我が自らの自己と対決すべき時期が到来した時、内界で起きている心的事象に呼応するような外的事象が起きるといいます。
 
それは例えば、ある種のこころの病かもしれませんし、人間関係の軋轢かもしれませんし、あるいは重要な人生の出来事かもしれません。
 
けれどいずれにせよ、これらの事象の裏には自我がいよいよ自己との対決を試みている努力の表れがあるわけです。そこでユング心理学では、このような内的/外的に生じた事象を自己実現に向けた一つのコンステレーション(布置)として共時的に把握することを重視するわけです。
 
 

* 「意味のあるめぐりあわせ」を生かしていくために

 
このようにユング心理学においては、心がその全体性の回復へ向け、相補性と共時性の原理により螺旋の円環を描く様相を「自己実現の過程」として捉えます。
 
このユング的な自己実現はこれまで目を背けてきた諸々と対決していく荊の道であると同時に、日々生起する様々な困難の中に「意味のあるめぐりあわせ」を見出す希望でもあります。
 
こうした「意味のあるめぐりあわせ」を生かしていく上で大事な事は、我々がその自己を外的・内的に生きることであると本書は言います。
 
自己を外的・内的に生きること。それはすなわち、仕事、家事、趣味といった「外的な現実」を懸命にやり抜きつつも、心の中から湧き上ってくる「内的な現実」との対話を丁寧に重ねていく営みに他なりません。
 
こうした一見凡庸な、日常の小さな積み重ねこそが、人生の新たな可能性を開き、世界を灰色のディストピアから輝きに満ちた現実へと変えていく鍵となるということです。