かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「若い読者のためのサブカルチャー論講義録(宇野常寛)」〜いま、サブカルチャーにできること。

 

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

 

 

 

* 抑圧されたネオテニーの補償作用としてのサブカルチャー

 
漫画やアニメはよく過剰な性描写と暴力描写に溢れているなどと言われます。確かに完全に間違った指摘とは言い切れない部分はあります。けれどそれは、戦後日本が抑圧してきたものと表裏の関係にあるということです。
 
かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは、占領当時の日本を「12歳の少年」だと評しました。明治維新後、急速に近代化を遂げた日本であったけれども、民主的成熟度という面では到底、近代国家とは言えないという意味です。
 
その後、日本は経済的な面においてはぶくぶくと肥大化していきましたが、その精神的な面、つまり、民主的成熟度に関しては「12歳の少年」のままであると言えなくもない。こういった状態を「幼形成熟ネオテニー)」といいます。
 
戦後日本の「表の文化」はそういう部分に目を背けて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか言っていたわけですが、その結果、抑圧されたネオテニー的なものは過激な性描写や暴力描写という形で「裏の文化」である漫画やアニメなどのサブカルチャーの方に回帰してきた。そういった見方もできるわけです。
 
本書はサブカルチャー終焉の時代において、あえてサブカルチャーの役割を問うという、刺激に満ちた講義録です。その語り口は基本的にアイロニカルですが、随所で意外と熱かったりするわけです。
 
 

* アトムの命題週刊少年ジャンプ的トーナメントバトル方式

 
では、そういったネオテニー性を宿命的に内在する漫画やアニメというサブカルチャーメディアの中で「大人になるということ」は、すなわち「成長(成熟)」というテーマはどのように扱われるのでしょうか?
 
ここで一つの問題が生じます。漫画やアニメのキャラクターは記号ないし絵柄なので成長(成熟)を描くのに向いていません。では、そのような成長(成熟)しない記号的な身体でどうやって「成長(成熟)」を描くのか?という問題です。
 
これを「アトムの命題」といいます。「アトム」というのはいうまでもなく、かの「鉄腕アトム」です。このアトムの命題は戦後の漫画・アニメ全体をほとんど無意識のレベルで支配していると言われています。
 
このアトムの命題への一つの回答として週刊少年ジャンプが発明したのが「トーナメントバトル方式」です。
 
要するにこういうことです。①主人公の前に強い敵が現れる→②努力して仲間と力を合わせ敵に勝つ→③敵と友情が芽生える→④そこにさらに強い敵が現れる・・・このパターンを延々と繰り返すわけです。
 
つまり、成長(成熟)という複雑な問題を、まさにジャンプのテーゼでもある「友情・努力・勝利」という単純な問題に置き換えることで、キャラクター自身、何も成長(成熟)していないにもかかわらず、あたかも何かが成長(成熟)しているかの如く偽装することが可能となるわけです。
 
「トーナメントバトル方式」は車田正美先生の「リングにかけろ」を嚆矢として「聖闘士星矢」「北斗の拳」「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」といったジャンプ黄金期を支えた作品に脈々と受け継がれて行きます。
 
しかし90年代に入ると、ドラゴンボールスラムダンク幽遊白書の唐突感ある最終回が象徴するように、ジャンプ的トーナメントバトル方式はやがて行き詰まりを迎えてしまう。終わりなきトーナメントを延々と繰り返すことに作者も疲れ、読者もマンネリを感じるようになってしまったわけです。
 
こうしたトーナメントバトル方式が陥ったアポリアの後、ジャンプをはじめとした少年マンガはどのような形でアトムの命題を回避し「成長/成熟」と向き合ってきたのか?本書では様々な作品を取り上げつつ、少年マンガの現状と展望を論じています。
 
 

* ロボットアニメというジャンルの光芒

 
また「鉄人28号」や「マジンガーZ」といったロボットアニメにおいて提示された「機械仕掛けの偽物の身体を得て悪と戦い自己実現」という男の子の成長願望を満たす構造も「アトムの命題」へのひとまずの回答であり、さらには自家用車の所有がステータスであった60〜70年代的気分ともリンクしていたわけです。
 
ところが時代が下り、80年代的「モノはあるけど物語のない」消費社会においては、そういう単純なモチーフは果たして成熟の在り方なのかという疑義が生じているわけです。
 
機動戦士ガンダム」では「宇宙世紀」と「モビルスーツ」という概念が導入され、ロボットは量産型の工業製品へと格下げされ、代わりにアムロやシャアといったキャラクターの自意識の問題がフォーカスされることになる。
 
その続編である「Ζガンダム」では主人公のカミーユが最後に発狂し「逆襲のシャア」ではアラサーになったアムロとシャアがお互い責任をなすりつけ合う姿が延々と描かれることになる。
 
そして1995年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」に至っては、碇シンジ君はエヴァに乗るだの乗らないだのとうだうだ悩んだ挙句、最後は物語自体が唐突に破棄され自己啓発セミナーじみた結末を迎える。
 
要するにこれらの流れというのはロボットアニメというジャンルが内包してきた欺瞞が露呈していく過程ということです。
 
機械仕掛けの身体による自己実現などというのは所詮はネオテニーの自画像、偽りの成熟像でしかなかったわけです。
 
こうしてエヴァにおいてひとまずの臨界点を迎えたロボットアニメというジャンルですが、その新たな方向性と可能性についても、本書は明快な整理が示されています。
 
 

* 「世界を変えるのではなく意識を変えよう」という思想の敗北

 
1960年代という時代はイデオロギーを媒介として個人が世界と繋がろうとした時代です。例えばマルクス主義的共産革命といったものを通じて、自分の力で世界を変えられるかもしれないという幻想が比較的素朴に信じられた時代とも言えます。
 
しかし70年代に入り政治の季節は終焉し、何をやっても世界は変わらないことが明らかになる。そして残ったものと言えば、80年代的「モノはあるけど物語のない」消費社会における「終わりなき日常」というディストピアでした。つまり、いわゆる「うる星やつら」的日常です。
 
こうした時代状況の中、革命の代替物としてサブカルチャーが浮上してくるわけです。いわばイデオロギーではなくファンタジーを媒介として個人は世界と繋がろうとしたわけです。
 
これが「世界を変えるのではなく意識を変えよう」という思想であり、仮想現実の中で自己実現するという「ここではない、どこかへ」の欲望です。
 
そして、そういった思想ないし欲望を具現化したのが「宇宙戦艦ヤマト」だったり「機動戦士ガンダム」であったり、あるいはオカルトだったり転生戦士だったり終末戦争だったりしたわけです。
 
けれども1995年、この思想ないし欲望の行き詰まりは、現実的には地下鉄サリン事件によって、そして当のサブカルチャー内部ではやはり「新世紀エヴァンゲリオン」よって明らかになります。
 
エヴァの凄みは世界の問題とは所詮単なる自意識の問題に過ぎないことを暴露してしまった所にあります。仮想現実で自己実現などというのは所詮むなしい自己満足でしかないということです。
 
これに対して、いやむしろそれこそが、この社会の中で生きづらさを抱えている人にとっての癒しになるんじゃないか?一体何が悪いんだと開き直ったのが、ゼロ年代前後に一世を風靡した「セカイ系」作品群ということになります。
 
 

* 「仮想現実」から「拡張現実」へ

 
一方、1995年はWindows95のリリースによりインターネットが飛躍的に普及した年でした。
 
インターネットの登場は「虚構」と「現実」の境界線を相対化させていきます。つまり現実の一部が虚構化する事で、虚構と現実の関係性はあれかこれかの対立関係ではなく、あれもこれもという統合関係に遷移します。
 
こうして「ここではないどこか」という「仮想現実」の中で生きる意味を見出す価値観から、「いまここ」という「拡張現実」の中で生きる意味を見出す価値観へのパラダイムシフトが生まれる事になる。
 
こうしたパラダイムシフトをラディカルに体現した作品として「涼宮ハルヒの憂鬱」を挙げることができるでしょう。そしてその流れが加速している事は「らき☆すた」「けいおん!」をはじめとした日常系アニメの氾濫に鑑みれば明らかです。
 
かつて「終わりなき日常」と呼ばれたものは決して無意味ではなく、むしろそれ自体限りなく意味のある、尊いものであったという価値観の昇華がこの流れの中には見て取れるわけです。
 
端的にいえば、アニメを観る意味合いも変わってくるということです。「ここではないどこか」への逃避するためアニメを観るのではなく、今ここの現実を豊かにするものためアニメを観るわけです。
 
けれど一方、これはアニメという表現自体の自己解体の過程にもなり得るでしょう。ネットワークの発達によりコミュニケーションコストが下がり、世界中のあらゆる現実を容易に検索できる今、現実の可能性を拡張する為のツールは何もアニメである必然性はないのかもしれません。
 
「アニメからアイドルへ」と、サブカルチャーの重心が変動しつつある現在についても本書はアイドル史を遡りつつ相当なページ数を割いて解説を行っています。
 
 

* カルフォルニアン・イデオロギー時代におけるサブカルチャーの役割

 
「虚構」が「現実」に取り込まれつつある現在、サブカルチャーを語ることがそのまま社会を語ることの時代は終焉しようとしていると本書はいいます。
 
70年代以降、アメリカ西海岸において、ヒッピーやドラッグなどのカウンターカルチャーが流行し、その中のいちジャンルとしてコンピューターカルチャーが注目されだします。
 
その結果、アメリカ大陸の西の果てで、新たなフロンティアともいえるサイバースペースが発見され、個人は再び世界そのものを変える可能性を手にします。素晴らしいサービスを投入すれば世界は自動的に変わっていく。これが、GoogleAppleが体現するカルフォルニアン・イデオロギーという思想です。
 
つまり「イデオロギーで世界を変える」という思想が挫折した後、「ファンタジーで自分を変える」という思想が主流となり、一時期、サブカルチャーが強い影響力を持っていたけれども、現代においては「テクノロジーで世界を変える」という思想が時代の趨勢となり、サブカルチャーの影響力は相対的に低下してしまったということです。
 
では、このカルフォルニアン・イデオロギー時代において、サブカルチャーの側から出来ることはないのでしょうか?
 
確かにカルフォルニアン・イデオロギーは時代の趨勢でしょう。しかし、日本のカルフォルニアン・イデオロギーの信奉者はあまりに現実的な「目に見えるモノ」を強く信じているがため、虚構的な「目に見えないモノ」を過小評価しているきらいがあると本書は言う。
 
そうであれば、虚構を一度経由することによって得られる思考法があるのではないか?これが本書の提出する問いということになります。
 
本書が最後に示すシンプルな結論はもしかして陳腐だと感じる向きもあるかもしれません。けれどこれはやっぱりとても大事な事なんだと思うんですよ。
 
この「失われた20年」で日本が本当の意味で失ったのは他でもなく、モノづくりの原点ーーー「こんなこといいな、できたらいいな」という精神性そのものではないかと思うわけです。