かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「AIR」における日本的「あわれ」の感性

 
 
 
AIR」というノベルゲームはご存知でしょうか?ゲームブランドKeyより2000年に発売され、このジャンルとしては異例の売上本数を記録した「泣きゲー」の代名詞です。
 
今日は本作のヒロイン、神尾観鈴ちゃんの命日なので少しAIRの事を書いておこうと思います。
 
AIR メモリアルエディション 全年齢対象版

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* 「誰かと仲良くなること」という「禁じられた遊び

 
AIRのシナリオは三部構成となっており、第一部「DREAM編」では、放浪を続ける法術使いの青年(国崎往人)が、海辺の田舎町で出会った少女達とのひと夏の交流譚が描かれます。
 
観鈴ちゃんはいつもニコニコしているとても明るい子なんですが、彼女には友達がいません。彼女は誰かと仲良くなれそうになる時に限って、癇癪を起こしたように泣きじゃくるという不安発作を起こしてしまうからです。
 
これは観鈴が「最後の翼人」である神奈備命の転生体であることに由来しています。
 
第二部「SUMMER編」で描かれるように1000年前の当時、翼人は人に不幸をもたらすものとして畏れられており、それゆえに神奈には呪いが掛けられていた。
 
その呪いのうちの一つが「親しくした他者を死に至らしめる」というものです。 翼人とは星の記憶を継ぐ者であり、最後の翼人は幸せな記憶を星に返す必要があった。けれども、この呪いによって親しい者を作ることができない為、幸せな記憶を星に返すことができず、神奈は延々と輪廻を繰り返すことになる。
 
つまり、神奈の転生体である観鈴も、翼人の呪いに蝕まれているわけです。 すなわち、彼女にとって「誰かと仲良くなること」はまさしく「禁じられた遊び」に他ならない。故に無意識から回帰してくる罪責感への防衛として観鈴は不安発作を発症させてしまうわけです。
 
それでも「この夏を特別にしたい」という一心から無理を重ねる観鈴ちゃんの姿は観る者の心を打ちます。それも結局は「萌え要素のデータベース消費」なんだろうと言われれば返す言葉もないんですが、いずれにせよ観鈴ちゃんに感情移入すればするほど後半の展開が辛いものとなってくるわけです。
 

* 美少女ゲームの臨界点としてのAIR

 
本作品の終章である第三部「AIR編」においてはプレイヤーは一羽のカラスでしかなく、観鈴ちゃんがどんどん壊れていく光景を終始ただ傍観することしかできません。まさに精神を抉り切られるような遣る瀬無さです。
 
この感情は一体なんなんでしょうか?この点、批評家の東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生」収録の論考「萌えの手前、不能性にとどまること」において、AIRはいわゆる「美少女ゲーム」というジャンルの臨界点を示す作品であると論じます。
 

 

ここで「臨界」とは、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまうことをいいます。
 
通常、美少女ゲームと呼ばれるジャンルの作品においては、プレイヤーは主人公に同一化し、ある特定のヒロインと繊細なまでの「純愛」を添い遂げる一方、プレイヤーは複数のシナリオを俯瞰して複数のヒロインを「攻略」することを目指すわけです。
 
つまりプレイヤーの中では、キャラクターレベルでの「 小さな恋の物語における純粋性=反家父長的感覚」と、プレイヤーレベルでの「物語を産出するシステム全体を支配するかの如き全能性=超家父長的感覚」が解離的な形で共存しているということです。
 
ところがAIRはこのような解離的共存を許さない。この作品はプレイヤーを二重の意味で疎外する。
 
つまりこういうことです。まず第一部において国崎往人観鈴を延命させる代償として物語からの退場を余儀なくされる。ここでプレイヤーはキャラクターレベルで物語から疎外されることになる。
 
さらに、第三部においては先の通り、主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかない。ここでプレイヤーはプレイヤーレベルそのものにおいてシステム自体からも疎外されることになる。
 
こうした構造的疎外の手続きを経ることで、プレイヤーの持つ「反家父長的感覚」と「超家父長的感覚」の解離的共存の裏にある自己欺瞞が図らずも暴きだされることになる。 それは美少女ゲームにおける「システム全体を支配するかの如き全能性」とは、ただただ「システムの外側にいるだけの不能性」と表裏の関係を成す錯覚に過ぎないという冷酷な現実です。
 
そういった意味から東氏はAIRは「臨界的=批評的な作品」だと呼ぶわけです。
 

* 二重疎外による不能性と日本的「あわれ」の感性

 
こういう風に書くと何か、AIRという作品はせめて二次元で夢を見たい人に現実を突きつけてくるとても残酷な作品のように思えるかもしれません。
 
けど、AIRがもたらすカタルシスは「純愛」とか「攻略」などといったレベルとはまた違うところにあるんだと思うんです。
 
そもそも「AIR」ってものすごく日本的な物語なんですよ。日本の昔話は鶴、亀、蛇、魚などの生き物が女性の形をとって男性の前に現れる「異類婚姻譚」と呼ばれるパターンが多く、また、西洋の昔話は男女の結合(結婚)という結末が多いのに対し、日本の昔話は諸事情あって最終的に女性が立ち去っていくという結末が多いわけです。典型的には「鶴の恩返し」とかですね。
 
この点、臨床心理学者の河合隼雄氏は、日本の昔話においては男女の結合の代わりに「無」が生じているといいます。「何も起こらなかった(Nothing has happened)」とは、語順通りに和訳すると「無が生じた」ということになります。
 
そして河合氏はこのような日本の物語は「あわれ」という感性によって特徴づけられていると指摘しています。「あわれ」とは単純な「悲しみ(Sadness)」ではなく、儚さを慈しみ愛でる日本人独特の感性であると氏は言います。
 
そういう観点から言えば、翼人という異類が少女の姿をとって男性の前に現れ、最後には消え去っていく「AIR」はきわめて日本的な物語だということになるでしょう。
 
そうであれば、本作がキャラクターレベルとプレイヤーレベルで突きつけてくる二重疎外による不能性とは、まさしくこの「あわれ」の感性と繋がってくるわけです。
 
本作がノベルゲームとしても特異な部類に属するにも関わらず、普遍的名作として広範な支持を獲得したのは、このような日本人の感性を見事に捉えていたからではないでしょうか。
 

 

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