ポストモダンというのは結局のところ、何なのでしょうか?久しぶりに「動物化するポストモダン」を読み返していました。本書は「オタク」と呼ばれるサブカル系消費者の行動様式から「ポストモダン的主体」とは何かを考察していきます。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/09/28
- メディア: Kindle版
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そこで提示されるモデルを肯定するか否定するかは別としても「萌え要素」という概念を初めて世に提唱した功績と、出版後17年たった現在も様々な文脈で参照され続けられるという意味で本書はやはり名著であることになるのでしょう。
* 「物語消費」から「データベース消費」へ
本書はポストモダンとは「大きな物語」が失墜した時代であると定義します。 「大きな物語」というのは社会全体が共有するイデオロギーです。日本の場合、戦後しばらくの間は「戦後民主主義」や「高度経済成長」といった「大きな物語」が機能していたわけです。
もちろんこういった「大きな物語」に反発する「暴力革命による労働者政府の樹立」などという、また別の「大きな物語」もあったりはしましたが、何れにせよ人々は立場の違いはあれど「きっと明日は今日よりもっと良くなる」という素朴な幻想を信じることができたわけです。
ところが「政治の季節」が終焉し、オイルショックで経済成長も陰りを見せ始めた1970代から「大きな物語」が機能不全を起こし始める。 そこでこれを補填するために「(虚構としての)大きな物語」ーーーここでは便宜上「大きな偽物語」と呼びますーーーが必要となってくる。こうして人は生きる支えをイデオロギーではなくサブカルチャーに見出していく。
けれども本書からすれば「大きな偽物語」の希求というのはいわゆる過渡期的な現象に過ぎない。やがて「大きな物語」への信仰衰退が加速していくにつれ「大きな偽物語」さえも必要としない時代が到来することになる。
「大きな非物語=データベース」は階層的になっており、まず個々の作品の背景には個々のキャラクターレベルでのデータベースがあり、さらにその背後には「萌え要素」といったサブカルチャー市場全体の共通言語となるデータベースがあります。
こうして個々の視聴者が例えばアニメやゲームなどの「個々の作品=小さな物語」を消費するということは、畢竟するに「萌え要素」という「データベース消費」に他ならないということです。
* ドラマへの欲求とシステムへの欲望
このような消費行動様式の下では「原作」というオリジナルは必ずしも絶対的存在ではない。結果、オリジナルとコピーの区別は相対化し両者の中間形態である「シュミラークル」が氾濫する。
近代のツリー型世界では「小さな物語」の後景には「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて大きな物語にアクセスしていた。「小さな物語」は「大きな物語」において規定されている。ゆえに(近代的な意味での)小説の結末は一つだけしかありえない。
これに対してポストモダンのデータベース型世界では「データベース」の組み合わせ次第で無数の「小さな物語=シュミラークル」が生産可能となる。ゆえにノベルゲームの結末は複数あり、プレイヤーはあるシナリオで一人のヒロインと「純愛」を遂げつつも、そのシナリオが終わるや否や次のシナリオで別のヒロインとこれまた「純愛」を遂げるという極めて矛盾した態度が可能となるわけです。
こうしてシュミラークルの水準で生じるドラマへの動物的欲求とデータベースの水準で生じるシステムへの人間的欲望という二つが解離的に共存することになる。 これが本書の示すポストモダン的主体、すなわち「データベース的動物」ということになります。
* 理想、虚構、動物化
以上のような時代認識を前提として本書は戦後日本社会の時代認識を以下の3つに区分します。
まず1945年から1970年までが「大きな物語」が曲がりなりに機能していた「理想の時代」。
そして1995年以降は「物語消費」から「データベース消費」に転換した「動物の時代」である、ということになります。
* ポストモダンは物語の夢を見るのか?
さて。2018年のいま、本書の描き出した「ポストモダン」はどの程度、時代を説明できているのでしょうか?
昨今における日常系アニメの氾濫はまさに「萌え要素」というデータベースから産出されるシュミラークルの際限のない消費と言えるでしょう。 また「初音ミク」などはまさにシュミラークルを無限に産出できるデータベースそれ自体です。
もっともこれらも「燃え」とか「感動」とかいった「萌え」とはまた別のデータベースから生み出されたある種のシュミラークルであるという理解も必ずしも不可能なわけでは無いでしょう。 こうした観点から言えば「物語消費」と「データベース消費」というのはある意味で相対的なものであるとも言えるかもしれません。