かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「河合隼雄スペシャル (100分de名著)」を読む。中空構造とカウンセリング。「あなただけのきらめき」を見つけましょう。

 * 中空構造とカウンセリング。

 
まさに汲めども尽きぬ思索の泉とはこのことでしょうか。超一流の臨床家であると同時に卓越した思想家でもある河合隼雄の仕事を、氏の中核的著作である「ユング心理学入門」「昔話と日本人の心」「神話と日本人の心」「ユング心理学と仏教」を通じて簡明に概説した一冊です。
 
河合氏の昔話、神話、仏教に対する深い知見は、ただの文化論に止まらず、常に氏の本業であるカウンセリングの理論や技法とリンクしています。
 
例えば氏は古事記などの神話の読解から日本人の精神構造を「中空構造」と言い表します。すなわち、意識的なものと無意識的なもの、母性的なものと父性的なものなど様々な相対立するものの中心にはこれらを統合する「空」として無為の神がいるという。
 
これは対立する二つの位相の中心で自らを「空」に位置付ける氏のカウンセリング観に通じるものがあります。
 

* 「わかる」と「わからん」の間で。

 
カウンセリングの過程においてはしばし、対立する二つの位相が現れます。
 
例えば、カウンセラーの基本的態度として広く知られる「無条件受容・共感的理解・自己一致」というロジャーズ三原則というものがありますが、この原則自体しばし矛盾をはらんだものとして指摘されます。
 
カウンセラーはクライエントの言葉を「無条件受容」する。カウンセラーはその受容を「共感的理解」としてクライエントに伝え返す。なによりもカウンセラーの態度は裏表のない「自己一致」したものでなければならない。
 
ロジャーズに言わせればカウンセラーにこの3つの態度が完全に備わっていればクライエントの悩みは必ず好転するという。
 
けど、これほど言うは易し行うは難しと言う営みもそうそうないでしょう。どうしても「無条件受容」できないクライエントの言動を前にカウンセラーはどうあるべきなのでしょうか。
 
「あなたの気持ちはわかる」と共感したふりをすれば「自己一致」に反してしまう。さりとて「あなたの気持ちはわからん」と本音を言えば「共感的理解」を示せてないことになる。まさに二律背反です。
 
この点、氏はカウンセラーとは「わかる」か「わからん」かの二者択一ではなく、「わかる」と「わからん」の間でフラフラになることでクライエントの苦しみを共有する「生きた態度」を持たなければならないという。
 
これはまさに対立する二つの位相の中心で自らを「空」に位置付ける氏のカウンセリング観の端的な表れと言えるでしょう。
 

* 「甘え」という癒し、「理解」という究め。

 
またそもそもカウンセリングとは二者関係を三者化することで得られるメタ認知を創出する営みと言えます。 その為には「甘え」という癒しの体験と「理解」という究めの体験が絶妙なバランスで円環的に進行していかなければならない。
 
このしばし相反するバランスを創り出すため、カウンセラーはその中心で「何もしないこと」に全霊を賭ける無為の神であらねばならないというです。
 

* 「生きられなかった半面」を取り入れて生きていく。

 
ユングは意識体系の中心である「自我」に対して、無意識をも含めた心の全体の中心に「自己」という元型を仮定し、自我と自己との間に望ましい相互作用関係の確立の必要性を強調する。
 
そして、この過程を「自己実現」と呼びます。 ユングの言う「自己実現」とは、相補性の原理と共時性の原理で駆動する自己の全体性の回復の過程であり、自我がこれまで切り捨ててきた「生きられなかった半面」を統合していく道のりをいう。
 
この点、河合氏はいわゆる「戦中世代」に属し、少年期に受けた軍国主義的教育から「日本的なもの」「不合理なもの」に対して嫌悪感を抱き、その反動で青年期は西洋的合理主義、科学万能主義に傾倒するわけです。
 
ところが留学先の指導教授が偶然、ユング派の分析家だった縁からユング派に導かれ、後年は周知の通り、昔話、神話、仏教といった領域をライフワークとして取り組んでいくわけです。これらはまさしくかつて氏が嫌悪した「日本的なもの」「不合理なもの」に他なりません。
 
このような氏の人生自体、「生きられなかった半面」を取り入れて生きていく、まさにユングの言う自己実現の過程であるといえるでしょう。
 

* 「あなただけのきらめき」を見つけましょう。

 
ユングのいう自己実現の過程は巷でよくキラキラしたもののように言われる「自己実現(笑)」とは異なり、むしろドロドロしたものです。
 
けれどもそれは、ある意味で希望を示すものでもあります。人生を実り豊かなものにして幸せでいる鍵は容姿でもお金でも社会的地位でもない。むしろしばし理不尽とも言える日常の困難の中で見い出せる「あなただけのきらめき」にあるということです。