かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

日々変わりゆく「役割の変化」に気づき、乗り越えるということ--対人関係療法でなおす社交不安障害(水島広子)

本書は社交不安障害に特化した対人関係療法ガイドです。対人関係療法(IPT:Interpaersonal Psychotherapy)はその名の通り、対人関係にアプローチすることで、メンタルヘルスの問題の改善を図って行く心理療法です。もともとは、うつ病の治療法として開発され、その後、摂食障害PTSDなど様々な精神疾患に対する治療法として応用されてきた経緯があります。社交不安障害はまさに文字通り対人関係が前景的な問題となっており、対人関係療法と相性が良い精神疾患と言えるでしょう。
 

* 社交不安障害とは何か。

 
さて、社交不安障害(SAD:Social Anxiety Disorder)とは、「自分はちゃんとした人に見えているだろうか」「人は自分のことを変だとは思っていないだろうか」「自分はこの場にあった振る舞いができているだろうか」といった不安を日常のあらゆる場面で感じてしまう疾患であり、また動悸、発汗、下痢、赤面、パニック発作などの身体症状などを伴う場合も多く見られます。
 
さらに、そういった不安反応が起きることに不安になっているという二重構造という特徴も見られます。また不安になるかもしれないと不安になるわけです。
 
SADの背景には他人からネガティブな評価への過剰な恐怖があります。SADの人の生活全般は「いかにして他人のネガティブな評価を避けるか」というテーマを中心に回っているとすら言えます。
 

* 不安をコントロールするということ。

 
本書は社交不安障害は複数の悪循環の連関で成立しているといいます。悪循環の例として「人前で不安になる→手が震える→手が震えている自分はおかしいと思われないだろうかとさらに不安になる→さらに手が震える」といったものが考えられます。
 
このような悪循環の一つの特徴として、自分の力で悪循環を止められないという「コントロールの喪失」があります。すなわち裏返せば、このサイクルのどこかだけでもコントロールすれば状況は好転していくということです。
 
この点、「人前で不安になる→手が震える」という部分は自律神経による反応であり最もコントロールが難しい領域です。また不安という感情自体は安全確保のための自己防御反応であり、それ自体は正常な感情ではあるわけです。
 
そこで、対人関係療法では、不安を正常な感情として理解した上で、不安が起きた時に上手く対処できるようになることで自己コントロール感覚を取り戻していく点に治療目標を置きます。 「不安をコントロールできる」という自信をつけることで、結果的に不安も軽くなるという仕組みということです。
 

* 「役割の変化」に気づき、乗り越えるということ。

 
そして、対人関係療法では、問題の所在を「悲哀」「役割期待の不一致」「役割の変化」「対人関係の欠如」の4領域に整理し、それぞれに応じた治療戦略を取っていきます。
 
SADにおいてはこのうち「役割の変化」が最も重要になります。人は人生において何度か大きな「役割の変化」を経験します。
 
考えられるだけでも卒業、就職、結婚、出産、退職等々、様々なライフイベントがあるでしょう。
 
そうでなくとも、何もしなくとも人間誰しも普通に歳だけとって行きますので、自分の「役割」というのは日々、知らず知らずのうちに自然に少しづつ「変化」し続けているとも言えるわけです。
 
「役割の変化」に適応できない場合、これから上手くやっていけるんだろうかと、どうしても不安な面ばかりが目についてしまいます。これがレスポンデント化してしまったのが社交不安障害とも言えるわけです。
 
「役割の変化」を乗り越えるためには「古い役割の喪失の悲しみを受け入れる」「現在の不安を肯定する」「意識して古い役割のマイナス面、新しい役割のプラス面を明らかにする」「自分でコントロールできている事を見つける」「サポート源(周囲の支援)を構築し直す」といった対処が考えられるでしょう。
 
こうして一つひとつを言葉にしてみると、ひどく当たり前のことですが、悪循環の中でもがく当事者としては中々気づけない、あるいは目を背けたい部分でもあるわけです。
 
そして、これらの一つひとつにきちんと正面から光をあてて、課題として戦略的に、そしてていねいに取り組んでいくのが対人関係療法です。
 

* おわりに

 
このように対人関係療法というのは問題解決の道筋が極めて明快な心理療法です。SADというほど重症ではないけどコミュニケーションに苦手意識がある人、周りにそれらしき人がいる人などはぜひ、一読して見てはいかがでしょうか。
 
 

発達障害における「個性」と「特異性」--発達障害(岩波明)

 

発達障害 (文春新書)

発達障害 (文春新書)

 

 

 
発達障害の理解を困難にしている理由の一つにその概念のわかりにくさがあります。現在、「発達障害」と言う時、何を指しているのか、だいたい以下の3つのパターンが考えられます。
 
DSM-5における「神経発達障害(NDD)」というカテゴリー全体を指す場合。
 
②「自閉症スペクトラム障害ASD)」「注意欠如多動性障害(ADHD)」「限局性学習障害(LD)」を総称して指す場合。
 
DSM-4-TR以前における「広汎性発達障害(PDD)」を指す場合。
 
③の場合、範囲的には「自閉症スペクトラム障害ASD)」とほぼ重なることになります。「自閉症スペクトラム障害ASD)」とは、2013年のDSM改訂により、自閉症アスペルガー症候群などが統合されてできた診断名です。その診断基準は以下の通り。
 
・「対人コミュニケーション」・・・以下の3項目をすべてを満たすこと。
 
1 対人的に異常な近づき方をしたり、通常の会話のやりとりができない。興味・情動・感情を共有しない。
 
2 視線を合わせない。身振りや顔の表情などの非言語的コミュニケーションが不自然または異常と思われる。
 
3 状況に合った行動ができない。ごっこ遊びができない。協同することができない。仲間に興味がない。
 
・「限定的な反復行動」・・・以下の4項目中、2項目を満たすこと。
 
1 常動的・反復的な運動や物の使用、会話をする。
 
2 同一性への固執、習慣へのかたくななこだわりがある。
 
3 ある対象への強い愛着・没頭することや過度に限定・固執した興味がある。
 
4 感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さがある。環境の感覚的側面に対する並はずれた興味がある。
 
では「自閉症スペクトラム障害」というのは「自閉症」「高機能自閉症」「アスペルガー症候群」と何がどう違うのでしょうか?この辺りもDSMが改訂された関係で若干ややこしくなっているわけです。 差し当たり定義的には以下のように整理できるでしょう。
 
自閉症(カナー症候群)・・・「知的発達の遅れ」「言語発達の遅れ」「対人関係・社会性の障害」「パターン化した行動、特定対象へのこだわり」を特徴とする。近年は、高機能自閉症と対比する意味合いで、「古典的自閉症」「カナー型自閉症」と言われることがある。
 
高機能自閉症・・・「言語発達の遅れ」「対人関係・社会性の障害」「パターン化した行動、特定対象へのこだわり」を特徴とする。「知的発達の遅れ」がない点で自閉症(カナー症候群)と異なる。
 
アスペルガー症候群・・・「対人コミュニケーション・社会性の障害」「パターン化した行動、特定対象へのこだわり」を特徴とする。「知的発達の遅れ」と「言語発達の遅れ」がない点で、自閉症(カナー症候群)と異なる。
 
なお、ここでは高機能自閉症アスペルガー症候群を一応、区別してはいますが「言語発達の遅れ」は成長とともに解消される事もある為、両者の差は相対的なものであるとも言えます。
 
長々とややこしい事を書きましたが、要するに何が言いたいのかというと、「発達障害」とか「自閉症」という言葉を聞いて浮かぶイメージは人によって千差万別であるということです。その理解にズレがあれば当然、支援もズレたものになってしまう。
 
従って、支援する側される側にとって一番大切なのは、抽象的な症状の説明ではなく「いま何に困ってて」「どうしてほしいのか」という具体的なニーズの把握なんだと思います。
 

* 「個性」と「特異性」の違い。

 
定型発達者が言語を象徴的なルールないしプログラムとして内在化するのに対し、重度のASDの場合、言語を現実的な〈もの〉として掴み取ります。ASDの特徴である常動的・反復的な行動、または、シネステジア(共感覚)、映像記憶というのはかかる見地から理解できるでしょう。
 
このような特徴は時として特定領域に関する驚異的な能力として発揮されたり、あるいは、世間擦れしてない振る舞いが「天真爛漫」とか「純粋」などというイメージで魅力的に映ったりもする。
 
もとより、こういう「明」な部分に注目するのはとても大事な事です。 けど、障害それ自体は「個性」ではなく「特異性」です。「個性」というのは社会システムという「一般性」に認められる事で成立するものですが、「特異性」とは逆に「一般性」の中では受容されることの無い過剰な「何か」をいいます。
 
人は一人では生きていけません。通常、人はこの社会で生きていくための「一般性」を手にする為の代償として自らの「特異性」を手放しているわけです。
 
この点、発達障害とはある意味で自らの「特異性」を手放さなかった、あるいは手放せなかった子供たちだと言えるでしょう。 その「特異性」を「個性」へ昇華させるには「一般性」という「閾値」を超える必要があり、そこに至るには、やはりそれぞれ苦しい道があるわけです。
 
最近は発達障害の「明」の部分ばかりがやたらとクローズアップされていますが、物事には常に表裏が伴います。大事なのは「暗」を踏まえつつ「明」を見ることではないでしょうか。
 

* 発達障害というテーマは「わたしじゃない他の誰かの問題」ではない。

 
一方、いわゆる「定型発達者」にしてもこの「特異性」の問題は無縁ではいられません。かつて、一般性を手にする為に切り捨てたはずの特異性が、後年になり様々な神経症的症状や漠然と感じる「生きづらさ」として回帰してくることがあります。人は結局そこで、自らの特異性と向き合わざるを得ないわけです。
 
要は発達障害というテーマは、「わたしじゃない他の誰かの問題」ではなく、まさに「わたし自身の問題」ということなんだと思うわけです。
 
 

「『今、ここ』に意識を集中する練習 心を強く、やわらかくする『マインドフルネス』入門」を読む。何気ない日常を輝きに満ちたものに変える53の習慣。

 
 
 
結構、誤解されている向きもありますが、必ずしも「マインドフルネス=瞑想」というわけではありません。
 
マインドフルネスとは穏やかでありながらも集中している心の状態をいうわけでして、朝起きること、ご飯を食べる、ドアを開ける、電車を待つ、誰かに話しかける・・・等々、日々の至る所にマインドフルネスを実践するチャンスはあります。
 
心の変化を起こすためには些細な行動を変えていくことから始まる。これは禅でいう「所作を整える」という発想です。
 
本書は日常で手軽に実践できる53の練習を紹介しています。いずれも日常の何気無い動作に関するものです。
 
そこから私が特に気に入った習慣を3つ紹介してみたいと思います。
 

* 体の重心を意識する

 
体の重心とは、下腹部の中央、おへそから5センチ位下で、お腹と背骨の中間くらいの位置、いわゆる「丹田」の位置にあります。
 
体の重心を意識するとは、様々な動作を行う際にこの丹田を意識するということです。
 
例えば、椅子から立ち上がるときもまずお腹が立ち上がり、ほかの部分もそれについていく感じになります。
 
丹田を意識することで、心が静まり、集中力が増し、意識の範囲が広がると本書は言います。
 

* 全てを吸収するように人の話を聴く

 
誰かと話す時、相手の話をスポンジのように全てを吸収するつもりで、静かな心で耳を傾ける。相手の声の調子のかすかな変化にも注意を向け、言葉に現れない何かーー言葉と裏腹の本音、こだわり、悲しみや怒りなどの感情ーーなど感じ取る。
 
何か意見を言いたくなったりしても、そういう思考は傍において、ただただ相手の話に集中する。
 
こうして、日々のともすればくだらない雑談の時間がマインドフルネスの練習に変わるわけです。一生懸命話を聞いてあげることで、相手にも喜ばれて、まさに一石二鳥というべきでしょう。
 

* 「善行」をする

 
毎日、何かしら「良いこと」「親切なこと」「人のためになる事」「助けになる事」をこっそり行なう。
 
別に大げさなことをする必要はなくて、例えば、道においているゴミを拾ってみたり、休憩室のテーブルをさっと拭いてみたりする。
 
また、通りすがりの知らない人のために「あなたが不安から解放されますように」「あなたの日々が穏やかでありますように」と唱える善行をしてみる。
 
「幸せホルモン」として最近注目を集めるオキシトシンというホルモンは、善行によっても多量に分泌すると言われています。
 
まさに正しい意味での「情けは人の為ならず」ということです。
 
これが彼らの役にたつかどうかは知りませんが、私の役にたつのは確かです。これをやった日は全てが穏やかに運ぶのです
 
(本書Kindle位置1095より引用)

 

 

* おわりに

 
いかがでしょうか?本書にはその他、「利き手でない方の手を使う」「つなぎ言葉を使わない」「優しい手で触れる」「不安を意識する」「光を意識する」など、今すぐに日常動作に取り入れていけるマインドフルネスの練習がたくさん載っています。
 
本書に書かれている手順どおりやるのが一番良いのかもしれないが、とりあえずピンときたものからやってみるというのも多分ありだと思います。
 
「脚下照顧」という禅語がありますが、過去に囚われるのでもなく未来を憂うのでもなく、まずこの他ならぬ「今」を充実させる。そして、この「今」という瞬間の連続こそが人生を形作っているわけです。日々、何気ない「当たり前」を丁寧に積み重ねて行きたいものです。
 
あなたの日常の多くの瞬間がきっと輝きに満ちたものでありますように。ではでは。
 
 

「美しい人をつくる『所作』の基本(升野俊明)」を読む。「心を整える」には、まず「形を整える」。

 
 
 
「心穏やかに生きる」。これほど言うは易く行うは難き事もそうないでしょう。我々はいつも周りの状況に振り回され、様々なものに囚われて、怒ったりイライラしたり落ち込んだりしてしまいます。
 
周りの状況に振り回されず、何事に囚われることなく、どんな時でも空に浮かぶ雲の如き自由自在な心。これを禅では「柔軟心」と呼びます。
 
本当に、こういう境地に至れるものなら是非至りたいものです。けれどもどうすればいいのでしょうか?
 
「心を整える」ということ。それは我々凡人にとっては雲をつかむような話ではあります。
 
そこで「心を整える」為に、まず「形を整える」ところから入る。これが禅の発想です。
 

* 所作を整える

 
禅の修行は行住座臥におけるあらゆる「所作」を整えるところから始まります。ゆえに禅では様々な動作に決まり事があるわけです。
 
例えば、手の所作。禅では僧堂などを歩く時、立っている時は、叉手(しゃしゅ)という手の組み方をする。衣の袖が水平になる位置(胸の前)で親指を中に入れて左手を握り、右手でこぶしを包むようにする。
 
あるいは、視線の所作。立っているときは六尺(約182センチ)前に、座っているときは三尺(約91センチ)前に目線を落とす。前者は畳縦一枚分。後者は畳横一枚分です。
 
その位置に目線を落とすと、自然といわゆる「半眼」という仏様の眼差しと同じ状態になる。こうすることで余計な視覚情報を遮断して心を落ち着かせることができるということです。
 
こういった「ルール」は一見、バカバカしい事のように見えるかもしれません。けど「威儀即仏法作法是宗旨」という言葉があるように、日常の何気ない動作の中にこそ、人の内面性は現れるわけです。
 

* 調身・調息・調心

 
また、禅といえば座禅ですが、坐禅の三要素は「調身・調息・調心」と言われます。
 
姿勢を整える。呼吸が整える。心を整る。この三要素は密接に関連しています。
 
正しい姿勢とは、頭のてっぺんから尾てい骨まで一直線になるようなイメージです。姿勢を整えることで、腹式呼吸が可能となり呼吸が整ってくる。
 
そして、深い呼吸は全身の血行を良くします。また、セロトニンなどの神経伝達物質の分泌が高まり、α波が大量に出ることが実証されています。
 
つまり、姿勢を整えることで、呼吸が整い、呼吸が整うことで、自ずと心が整ってくるということです。
 

* 愛語よく廻天の力あり

 
有名な禅語に「和顔愛語(わげんあいご)」というのがあるように、禅は愛語で語りかけよと説いてます。
 
道元禅師は「正法眼蔵」において「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天の力あることを、学すべきなり」と書かれています。
 
言いたいことを思いついたまま語るのではなく、その言葉を相手がどう受け止めるのかということを相手の立場になって考える。
 
同じ内容を伝えるのでも、相手の年齢や立場、人柄、力量によって、伝え方は当然異なってくる。その人にふさわしい伝え方というものがある。この人にはどんな言葉で伝えたらいいのだろうか?それを常に考える。
 
コミュニケーションは正しいか間違っているかという白か黒かの問題ではないわけでして、「内容」以上に「伝え方」が大事になってくるわけです。
 
だから何か言う時はその前に、一拍おいて、ロジカルとリリカルからのダブルチェックを入れてみましょう。
 
こうした習慣をつけることで、自分の中の「言葉のフィルターのきめ細やかさ」をあげていくわけです。
 

* おわりに

 
いかがでしょうか?「心を整える」ためにはまずは「所作」や「愛語」といった「形を整える」という禅の発想はある種、行動療法的ですね。
 
本書は禅の思想と実践を簡明に説く一冊です。日々の立居振舞の上で参考になるものは多いでしょう。
 
どうか日日是好日でありますよう。ではでは。
 
 

「医者が教える食事術(牧田善二)」を読む。老化の原因「AGE」とは何か?糖質制限の誤解とは?

 
 
 
 
 
副題に「最強の教科書」と銘打っているように、そろそろ、健康診断の数値が気にはなり出したが、食生活のどこから改善すればいいのか皆目見当もつかないという向きには一読する価値があるでしょう。
 

* ぽっこりお腹の正体

 
肥満が万病のもとであることはいうまでもありません。ある疫学調査によればBMIが5%上昇するごとに心疾患系の死亡リスクが49%、呼吸器疾患の死亡リスクが38%、がんの死亡リスクが19%増加するとされています。
 
そして本書は肥満の原因はひとえに糖質の過剰摂取にあるといいます。
 
太る原因というと脂質の取り過ぎのようなイメージがありますが、脂質はかなりの部分が吸収されずに排出されるそうです。
 
これに対して、糖質は体内で100%吸収されます。人の体は生命維持のため、糖質を取り込むようにできているわけです。
 
体内に摂取された糖質は小腸でブドウ糖に分解され血液中に現れます。この時、血糖値が上昇します。
 
血糖値が上昇したことを察知した体は、それを下げるため慌てて膵臓からインスリンというホルモンを放出します。インスリンは余剰ブドウ糖をグリコーゲンに変え、肝臓や筋肉の細胞に取り込むことで血糖値を下げます。
 
ところが、グリコーゲンとして細胞内に取り込める量には限界があり、さらに余ったブドウ糖は、今度は中性脂肪に形を変えて脂肪細胞に取り込まれます。
 
つまり、メタボの特徴であるぽっこりとしたお腹の中身は余ったブドウ糖中性脂肪に姿を変えたものであるということです。
 
この点、脂質やタンパク質は血糖値に影響を与えません。ゆえに本書は病気や不調の9割以上は「血糖値の問題=糖質の過剰摂取」にあるといっても過言ではないといいます。
 

* 老化を促進する「AGE」

 
さらに本書は糖質の過剰摂取は老化の原因にもなるといいます。
 
タンパク質や脂質がブドウ糖と結合することでAGE(Advanced Glycation End Products=終末糖化産物)という劣化物質が作り出される。この反応を「糖化」といいます。
 
老化の原因としては「酸化」がよく知られているでしょう。酸化とは体が「錆びる」状態であるのに対して、糖化とは体が「焦げる」状態をいいます。
 
この「糖化」という事象は「酸化」に比べてあまり知られていませんが、「酸化」以上に老化を促進させるのがこの「糖化」である、ということです。
 
例えば、皮膚のコラーゲンが変性して劣化すれば、シワやシミがつくり出されてしまいます。あるいは、血管のタンパク質を変性させれば固く切れやすくなり、動脈硬化が進行します。
 
なお、糖尿病の検査で調べられるヘモグロビンAlcはAGEの初期反応物質です。ブドウ糖がタンパク質や資質と結合した残物を測定することで過去1〜2ヶ月の血糖値を割り出すわけです。
 

* 肉ならいくらでも食べても良いというわけではない

 
このように糖質の過剰摂取を戒めるのが本書の総論的な骨子をなしています。かといって、よくある糖質制限の誤解のように肉ならいくらでも際限なく食べてもいいというわけではないのはいうまでもありません。
 
肉類に多く含まれる飽和脂肪酸は常温で固体になる性質があり、人の体内でもそれは同様です。
 
つまり、肉類を過剰摂取すれば血液ドロドロ状態になってしまい、これはこれで心筋梗塞や大腸がんなどまた別のリスクを生み出すわけです。
 
また、ソーセージやベーコンなどの加工肉にはそのほとんどに亜硝酸塩という発色剤が使用されており、これには発がん性があることがはっきりわかっています。
 

* 結局はバランスが大事

 
結局、食生活で肝要な事は「多品目をバランスよくこまめに摂る」という大前提があり、そのバランスの中のどこに重きを置くのかという話なのでしょう。
 
本書がお勧めする食品群、とりわけ豆類、きのこ類、海藻類、酢、オリーブオイルなどは意識して日々の食事に取り入れて行きたいところです。
 
もっとも本書で示されている知見は現時点での到達点であり、食の常識は刻一刻と変化しています。これからも日々、情報のアップデートが必要不可欠なのはいうまでもないことです。
 
 

「自分でできる対人関係療法(水島広子)」を読む。伝える「内容」は妥協せず「伝え方」を最大限工夫する。

 
 
 
 
対人関係療法(IPT:Interpaersonal Psychotherapy)とは、もともとは、うつ病の治療法として開発された経緯があり、その後、摂食障害や社交不安障害、PTSDなど様々な精神疾患に対する治療法として応用され、現在注目されている心理療法です。本書はその平易な入門書ということになります。
 
抑うつ」や「過食」などの「症状」の根底には対人関係の問題が深く関わっており、対人関係療法はその名の通り、対人関係にアプローチすることで、メンタルヘルスの問題の改善を図って行きます。
 
対人関係療法の起源は、新フロイト派であるハリー・スタック・サリヴァンの対人関係理論に由来し、学派的には精神分析の親戚に当たります。
 
なので、結構、精神分析(特にコフート学派)と親和的な考え方も出てきたりしますが、精神分析が、主としてクライエントの心の中にある内的な他者イメージの変容を重視するのに対して、対人関係療法は現実の他者との関係の変容を重視する点に大きな相違があります。
 

* 嫌な同僚は「重要な他者」か?

 
対人関係療法は人間関係を三層に分け、その最も中核部分(第一層)に位置する配偶者や両親などの「重要な他者」との「現在の」関係にフォーカスする点に特徴があります。
 
・第一層・・・配偶者、恋人、親、親友など、最も親密な関係を持っている「重要な他者」と呼ばれる人達。
 
・第二層・・・友人、親戚など、「重要な他者」ほど強くはないけれどもそれなりに親密な関係を持っている人達。
 
・第三層・・・職業上の人間関係など、その他、周辺部の人達。
 
ここで、日常的に顔を合わせる職場の人達がもっとも周辺部の第三層に位置するのは疑問を覚える向きもあるでしょう。
 
とりわけ、職場の嫌な同僚から日常茶飯事的にマウンティングされているような人にとって職場の人間関係は大問題のはずです。
 
けれども、対人関係療法的には、「重要な他者」との関係が充実していさえすれば、「第三層」の人間関係がメンタルヘルスへ与える影響は微々たるものに過ぎないと考えます。
 
つまり、「嫌な同僚」というのは、たまたま同じ空間に居合わせているだけの、広い意味では、通りすがりの人と何ら変わらない「どうでもいい人達」であって、こんな人達に貴重なリソースを割くのは極めて人生のムダだということです。
 
そこで第三層への対応としては相手の言動と自己評価を紐づけず、適当に聞き流すのが基本的な態度となります。
 
いちいち何かにつけてマウンティングする人は、基本的に自己が満たされていない「可哀想な人」です。
 
なので、こういう人達から何か言われても、やおら感情的になったり、無理にマウンティングし返そうとしたりせずに、道端のゴミでも眺める眼差しで、「ああ、そう思うんですか」「それって何か〇〇さんに関係あるんですか」と、無関心そうに淡々と返答すればいいわけです。
 
(最も人事評価権を握る上司など、聞き流してばかりだと実害が生じる可能性がある場合、その限りで「重要な他者」に準じた対応を要することもあるでしょう)
 

* 対人関係問題の4つの領域

 
また、対人関係療法は問題の所在を「悲哀」「役割期待の不一致」「役割の変化」「対人関係の欠如」の4領域に整理し、それぞれに応じた治療戦略を取ります。
 
・悲哀・・・大切な人を失った時、「否認→絶望→脱愛着」の「悲哀のプロセス」を辿れていないケース。
 
役割期待の不一致・・・「重要な他者」に期待する役割と、相手の希望が一致していないケース。
 
・役割の変化・・・生活上の変化にうまく適応できていないケース。
 
・対人関係の欠如・・・そもそも親しい対人関係を作れない、あるいは維持できないケース。
 
例えば、夫は「専業主婦として家事と育児に専念してほしい」と思い、妻は「自分も仕事に出るから家事と育児を分担して欲しい」と思っている場合、これは、「重要な他者」との間に役割期待の不一致が生じているケースです。
 
ここでは、まずお互いの期待の不一致がどの段階にあるか見極めます。
 
・再交渉・・・お互いが期待を全く譲り合わずに言い争っている段階。
 
・行き詰まり・・・お互いの主張を飲み込んで沈黙している段階。
 
・離別・・・お互いの期待の不一致が客観的に解決不可能なほど大きい段階。
 
再交渉の段階であれば、まだ修復の余地は十分にあるわけです。 そこで、まず自分の相手に期待する役割は適正なのかを検討してみたり、逆に相手が自分に期待す役割を変えてもらうようお願してみるという選択肢が考えられます。
 
またコニュニケーションの方法を改善するというのも重要です。お互いの風通しをよくすることで、期待がずれたままでも案外、気にならなくなるということはよくあるからです。
 

* 「内容」は妥協せず「伝え方」を最大限工夫する。

 
人は「あの人が言いたいことはどうせわかっている」「あの人は私が言いたいことをわかってくれているはずだ」と勝手に思い込む生き物です。
 
けれども、自分にとって親しい相手であればあるほど、意外と意思疎通が取れていないということはよくあることです。
 
本書が言うように、大事なのは伝える「内容」は妥協せず「伝え方」を最大限工夫することでしょう。
 
コミュニケーションは正しいか間違っているかという白か黒かの問題ではないわけでして、西尾維新さんの小説で「君の意見は完全に間違っているという点に目を瞑れば概ね正解だ」という名言がありますが、どんな正しい主張でも伝え方次第では完全に間違ってしまうわけです。
 
人は論理ではなく感情で動く生き物です。何か言う時は一拍おいて、ロジカルとリリカルからのダブルチェックを入れる習慣は是非身につけておきたいものです。
 

* おわりに

 
このように対人関係療法というのは「やるべき事」が極めて明快なのが特徴です。
 
一見、複雑怪奇な感情の迷路もこういう風に整理していけば、わりとシンプルに解決の糸口が見えてきたりもするわけです。
 
本書は水島先生の他の著作と同様、具体的なケースが豊富で、日常的なコミュニケーションの場面にも活用できるヒントが多く得られるでしょう。
 
 
 

集中力が捗るちょっとした5つの習慣

 
 
休日にまとまった時間が取れ、課題を片付けようとか、資格試験の勉強をやろうとか意気込んで机に向かうものの、なんかあんまり集中できず、なんだかんだで他の事などやったりして、気がつくと全然捗らずに日が暮れる・・・実にありがちで残念な経験です。
 
人生は有限です。こういう無駄な時間は本当にもったいないです。
 
そういうわけで、今回は集中力が捗るちょっとした習慣を紹介します。
 
どれも、お金をかけずにすぐにできるものばかりなので、よかったら是非ぜひ参考にしてみて下さいヾ(๑╹◡╹)ノ"
 

* 作業前に糖質の多いものを食べない

 
腹は減っては戦はできぬとばかり、取り組むべき課題や勉強の前などの作業前にご飯をたくさん食べると眠くなった・・・これはよくありがちなパターンです。
 
集中力と血糖値は密接な関係にあります。集中力の源泉である前頭葉ブドウ糖をエネルギー源としており、人が高い集中力を維持できるのは血糖値が上がっている最中です。
 
そして、血糖値上昇がピークを超えてしまうと集中力も下がってきます。血糖値が下がると、体温調整や呼吸といった生命維持活動ができなくなってしまう為、とりあえず生存に直結しない前頭葉や大脳皮質の活動を低下させてしまうからです。
 
従って、作業前に、ご飯や麺類など糖質の多いものをがっつり食べるのは控えたほうが良いということになります。
 

* 姿勢は正しく

 
猫背になると胸の当たりが圧迫されてしまい呼吸が浅くなり、脳への新鮮な酸素の供給が滞ってしまい、結果、集中力は低下してしまいます。
 
姿勢を正す事で、横隔膜が正常に働き呼吸が深くなり、血液が循環しやすくなって、結果、高い集中力を維持できるということです。
 

* とりあえず5分だけ集中してみる

 
参考書ならとりあえず3ページ読んでみる。レポートならとりあえず見出しだけ書いてみる・・・という風に、とりあえず、最初の5分集中することを目標にする。
 
心理学で「作業興奮の原理」というのがあります。「やる気が出たから行動する」のではなく、まず、行動することで後からやる気は自ずと出てくるものなのです。
 

* 適度に区切りを入れる

 
基本的に人は同じ姿勢のままでひとつの作業に長時間没頭できるようにはできていません。長くてもだいたい30分くらいと言われています。
 
なので、適度に「区切り」を入れることが大事になります。ここで、「良い区切りの入れ方」とは「キリがいいところで止める」ではなく「キリが悪いところで止める」ということです。
 
人は達成できなかった事や、中断している事に対して、鮮明な記憶や印象を持ちます。これを心理学ではツァイガルニック効果といいます。
 
なので、例えば、90分間、集中して勉強すると決めたら、これを「15分集中して3分休憩を5回繰り返す」とか「25分集中して5分休憩を3回繰り返す」というように、あらかじめ短く時間を区切っておく。
 
そして設定した時間がきたら、強制的にそこで作業を中断する。
 
こうすることで「もうちょっとやりたかったな」「もう少しやれたかな」という「途中で終わった感」が強く残るので「早くあの続きがしたい」と、集中力が持続するわけです。
 

* 瞑想してみる

 
そしてこの区切りの間の小休憩の間におすすめなのが「瞑想」です。 瞑想には集中力の源泉である脳の前頭葉前皮質を形成する灰白質を活性させるという研究があります。
 
その他、ストレスを低減し、血圧を下げ、幸福感をもたらすなど、瞑想には様々な効果があると言われています。これはむしろ、やらない手はないでしょう。
 
マインドフルネスとか、その手の本を見れば様々な瞑想法が載っていたりしていますが、瞑想の基本はいたってシンプルです。
 
まず、姿勢を正し両手は膝におく。
 
そして、ゆっくり鼻から息を7秒かけて吸い、7秒かけて口からゆっくり吐く。
 
これを繰り返す。
 
その際に、色々な思念、想念、雑念が浮かんでくるかもしれません。けど、水に浮かぶ木の葉を眺めるようにただ通り過ぎて行くままに任せて、呼吸に意識を集中させます。 慣れないうちは「吸って、吐いて」と心の中でつぶやくのも良いでしょう。
 

* おわりに

 
いかがでしょうか?意外と、集中力を起動するスイッチは結構いろんなところに転がっていたりするわけです。
 
ほんのちょっとした工夫で「時間の質」は全然違ってきます。いま読んでくださった中で、もしも「これは」と思うものがあれば、是非試していただければ嬉しいです。
 
あなたの毎日が有意義でありますように。ではでは、また。かがみでした!