かぐらかのん

心理学関連書籍、ビジネス書、文芸書の書評などを書いていきます。

「幸せはあなたの心が決める(渡辺和子)」〜自由な態度と愛の実践

 

幸せはあなたの心が決める

幸せはあなたの心が決める

 

 

 

* はじめに

 
幸せになる心の在り方とはなんでしょうか。本書を通読して私なりに感じた事を言わせていただければそれは「自由な態度」と「愛の実践」なんだと思います。
 
 

* 自由な態度

 
渡辺シスターは自らが長らく学長を務めたノートルダム清心女子大を「自由人」を育成するリベラル・アーツ・カレッジだと言います。「自由人」とはなんでしょうか?
 
そしてそれは、読んで字の如く、自らに由って自分の人生を生きていく人たちです。他人に由るのでなく、他人に甘えるのでなく、自分の幸・不幸は、自分に由るという淋しさとつらさと、そして喜びをもって生きてゆく人たちなのです。
 
〜本書より(Kindle位置:239)

 

 
ここでシスターは「人間の自由というのは、諸条件からの自由ではなくて、諸条件に対して、自分のあり方を決めていく自由である」という、ヴィクトール・E・フランクルの言葉を引用しています。
 
 
フランクルによれば、人の根源的意志とはフロイト的「快楽への意志」でもアドラー的「優越への意志」でもなく、ただひとえに「生きる意味への意志」だといいます。
 
そして、「生きる意味への意志」は「人生が出す問い」に、都度答えていく事で満たされる。
 
たとえ困難な境遇でさえも、その困難に目を背けず対峙していく態度により「生きる意味」は満たされるという。
 
すなわち、困難な境遇に直面した時、我々は困難と戦って、それを排除していくことも大切ですが、時には困難をありのままに受け入れていくことも大切になってきます。
 
だからこそ日々「自由な態度」であるためには、シスターが言う「変えられるものを変える勇気」「変えられないものを受け止める心の静けさ」「その両者を見極める英知」が大事になってくるということです。
 
 

* 愛の実践

 
「愛されたい」と思わない人はあまりいないと思います。だからこそ、世の中には様々なモテ本とか恋愛本が存在するわけです。こうした「愛される技術」に比べ「愛する技術」というものはあまり顧みられることはありません。
 
けれども「いかに愛されるか」という生き方は、他者に縛られた苦しい生き方になります。これに対して「いかに愛するか」という生き方は、他者に縛られない自由な生き方です。
 
愛の本質を表したものとして、シスターは「愛すると言うことは、単なる熱情ではない。それは一つの決意であり、判断であり、約束である」と言うエーリッヒ・フロムの言葉を紹介しています。
 
 
フロムによれば、成熟した愛とは「与える」という能動的活動であり、その能動的要素として「配慮」「責任」「尊重」「知」を挙げています。つまり、愛とは相手に対して積極的な「配慮」を払い「責任」ある態度で「尊重」することを通じ、相手を「知」ることであるということです。
 
こうした「愛する技術」を涵養するためには、日々における「愛の修練」が重要になってくるわけです。
 
ふだんからピアノの練習もせずに、立派なピアノを見つけさえすれば、上手に弾けると思ったり、絵を描く練習もせずに、ひたすら美しい形式を探している人にも似て、ふだんから「愛する」練習をしないで、素敵な人との出会いを待っていては、いけないのです。
 
〜本書より(Kindle位置:559)

 

 
愛する力を育てるためには、まずは、毎日の生活の中で当たり前だと思う事を、さらには不幸や災難さえも「有り難い」と感謝の気持ちで受け止めていくことが大切であるということです。
 
「面倒だから、する」ということ、「の」の字の哲学で受け止めるということ、「周辺のカルカッタ」へ手を差し伸べるということ。本書で取り上げるこれらの営みはまさしく「愛の実践」の具体例と言えるでしょう。
 
 

* おわりに

 
こうしてみると「自由な心」と「愛の実践」は「認知」と「行動」の関係にあるのがわかります。すなわち、本書で説かれる生き方は、ある種の認知行動療法としてもとらえることができるわけです。
 
我々は「生の現実」をイメージや言葉を通じて「パーソナルな現実」として把握しています。「生の現実」を変えることは難しいが「パーソナルな現実」を変えていくのは個人の在り方次第です。
 
「幸せはあなたの心が決める」。これは高邁な理想論などではない。むしろ、我々がこの困難に満ちた日常を生き抜いていくための実際的な智慧であり戦略であるということです。
 
 
そういうわけで、新年最初の投稿でした。袖振り合うのも他生の縁。本年もよろしくお願いします。
 
 
 

「それでも人生にイエスと言う(V・E・フランクル)」〜「生きる意味」を産み出していくということ。

 

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 

 

 

* はじめに

 

生きているとやっぱり苦しいこともあるでしょう。この先、何もいいことなんて無いんじゃないかとさえ思うことだってあるでしょう。そういう人生の深みにはまったとき、ぜひ思い出して頂きたい一冊です。

 

* 意味への意志

 
本書はナチス強制収容所から奇跡的に生還し、戦後その体験を綴った「夜と霧」が世界的ベストセラーとなったヴィクトール・フランクルの講演録です。
 
フランクルに言わせれば「生きる意味があるのか?」という問いからしてそもそも間違っているといいます。
 
ここでキーワードとなるのが「意味への意志」です。
 
精神分析を創始したジークムント・フロイトは人の根源的欲求とは「快楽への意志(快楽衝動)」であると規定しました。
 
これに対して、個人心理学を標榜しフロイトと袂を分かったアルフレッド・アドラーは人の根源的欲求を「力への意志(優越性追求)」にあると規定しました。
 
これに対してフランクルは人の根源的欲求とは「意味への意志」であると規定します。
 
「意味への意志」とは何でしょうか?
 
「快楽の意志」であれ「力への意志」であれ、さらにその奥には「なぜ快楽や力を追求し人は生きるのか?」という「生きる意味」への問いが控えているわけです。この問いを追求するのが「意味への意志」ということです。
 
つまり「快楽の意志」は生理的欲求であり「力への意志」が社会的欲求であり、いずれも「生きるための手段の追求」であるのに対して、「意味への意志」とは実存的欲求であり、いわば「生きる目的そのものの追求」になるわけです。
 
 

* 人生は私に何を期待しているか

 
では、「意味への意志」はどうして満たされるのでしょうか?
 
ここで必要なのが問いの観点の変更であると、フランクルは言います。
 
それは、ものごとの考え方を180度展開することです。その展開を遂行してからはもう、「私は人生にまだ何を期待できるか」と問うことはありません。今ではもう、「人生は私に何を期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
 
〜本書より(Kindle位置:280)

 

 
つまり、我々は人生が提出する問いに答えることによって「意味への意志」を満たすことができる。そして、人生がどのような問いを投げかけてくるかはその瞬間瞬間で異なってくる。
 
この点、人生からの問いへの答え方は様々になります。ある時は仕事をしたり創作したりと言う活動で人生からの問いに答え、ある時は美しいもの、善きもの、偉大なものを愛し、身を捧げる事で人生からの問いに答える。
 
そしてまたある時は、降りかかるあらゆる苦悩や困難に対峙することで人生からの問いに答えることができるとフランクルは言います。
 
 

* 創造価値・体験価値・態度価値 

 
こうした「意味への意志」が満たされる事によって「意味への意志」のみならず、そこから派生した「快楽への意志」と「力への意志」も質的に高められ、特定の価値を実現するものへと転換するわけです。
 
すなわち、力への意志は「創造価値」を実現するものへ。快楽への意志は「体験価値」を実現するものへ。そして、意味への意志は「態度価値」を実現するものへ。それぞれが質的に昇華する。
 
そして、これらの価値実現の原動力となる心的作用をフランクルは精神的無意識と呼びます。精神的無意識の例として「芸術的創造(パトス的なもの)」「愛(エロス的なもの)」「良心(エートス的なもの)」があり、これらはそれぞれ創造価値、体験価値、態度価値に対応しています。
 
  

* おそろしくも、すばらしいもの

 
人生が出す問いに答える事にこそ「意味」があり「価値」を生み出すということです。つまり我々は人生が出す問いに答えを出す責任がある。
 
フランクルはこのような人間の責任を「おそろしいものであり、同時にまた、すばらしいものである」と言う。
 
おそろしいのは、瞬間ごとに次の瞬間に対して責任があることを知ることです。ほんのささいな決断でも、きわめて大きな決断でも、すべて永遠の意味がある決断なのです。瞬間ごとに、一つの可能性を、つまりその一つの瞬間の可能性を実現するか失うかするのです。
・・・(中略)・・・
それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私の周りの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。私の決断によって実現したこと、さっきいったように私が日常の中で「起こした」ことは、私が救い出すことによって現実のものになり、つゆと消えてしまわずにすんだものなのです。
 
〜本書より(Kindle位置:1652)

 

 

* おわりに

 
フランクルの真骨頂は、フロイトアドラーの理論を踏まえつつも、苦しみや痛みといった困難の中にこそ本当の輝きがあるという側面を大きく強調している点にこそあるのでしょう。
 
人生が提出する問いにその瞬間その瞬間、真摯に答えていく事こそが「生きる意味」を満たすことになる。
 
奇跡か何かを待っているだけでは世界は1ミリも変わらない。けれども自分を変える事は今すぐ出来る。
 
ロールモデルが崩壊し、何が「正しい生き方」なのかわからなくなったこの時代においては、何気ない今このときにおいて「生きる意味」を産み出していく営みこそが、人生をより深く豊かなものにしていく鍵になるのではないかと、そう思うわけです。
 
 
そういうわけで、本年もお世話になりました。どうか良いお年を。ここまで読んでくださってありがとうございました(^o^)ノ
  
 
 
 

「心がホッとするCDブック(中野信子・野田あすか)」〜「こころのおと」に素直に耳を傾けていくということ。

 

 

 

日々生起する様々な諸事に忙殺されていると、いつしか心もくたびれてしまいます。なるべくこまめに休ませてあげましょう。本書は心を休ませるのに最適なピアノソロ10曲が収録されてます。
 
 

* 心の中を「気づき」で満たす

 
本書で解説役を務める脳科学者、中野信子先生はこれらの楽曲を「マインドフルネス」的に聴くことを勧めています。
 
1979年、マサチューセッツ大学のカバットジン博士が仏教の教えに着想を得たマインドフルネスストレス低減法を開発して以来、マインドフルネスは心身疾患や精神疾患の治療に活用され、最近ではストレスマネジメントとしても注目を集めています。
 
マインドフルネスの語源はパーリ語のサティ(sati)という言葉にあり、漢語では「念」、日本語では「気づき」と訳されています。
 
つまり、マインドフルネスとは、「今、ここ」に起きている出来事や心の状態に意識を向けることで生じた「気づき」を評価したりせず、ただ、ありのままに受け入れている心の状態を言います。
 
なぜ「今、ここ」に意識を向けることが大事なのでしょうか?
 
人は言語に住みつかれている存在です。ゆえに我々の脳は放っておいたらあれこれと考え出してしまうように出来ている。
 
そして思考は感情と結び付いています。人は「過去」の後悔に引き摺られることで抑うつとなり、「未来」に憂いを抱くことで不安になります。
 
そこで「過去」でも「未来」でもない「今、ここ」という「現在」に意識を向け、心の中を「気づき」で満たしていくことが大事になるわけです。
 
心の中を「今、ここ」に対する「気づき」でいっぱいにすることで抑うつ感情や不安感情を呼び起こす思考を手放すことができる。これがマインドフルネスの考え方です。
 
例えば、苦しい時は「ああ、いま自分は苦しい状態なんだ」と「気づく」だけでいい。なぜ苦しいのか分析したり、どうすれば苦しみから抜け出せるかなどと「考える」ことはしない。
 
このように思考や感情を「自分自身」ではなく「別の対象」として認識するということ。これを「メタ認知」といいます。
 
このような「メタ認知」を習慣化することで、思考や感情にとらわれる事のない安定した精神状態を作り出す事ができるわけです。
 
 

* 悲しいとき、悲しい曲を聴く

 
カバットジン博士は「気づき」を得るための効果的な実践法として瞑想を導入しました。例えば、ボディスキャン瞑想というのがあります。これは臥位の姿勢をとり、注意の対象をつま先から頭に向かって順々に移動させ、そこでの瞬間ごとのありのままの感覚を感じ取っていくというものです。
 
もっとも、マインドフルネスの実践は瞑想に限定されません。食事や歩行や他人との会話などの日常動作なども「今、ここ」に意識を向けて行うことで、それらは立派なマインドフルネスの練習になります。
 
つまり、本書が推奨するピアノの音色に意識を向けるというのも一つのマインドフルネスの実践ということになります。
 
本書収録のCDの聞き方の特にルールはありません。順番に聴いてもいいし、ランダムに聞いても良いし、お気に入りを繰り返し再生し続けてもいいんです。
 
静かにピアノの音色に耳を傾け、何か「気づき」あれば、それが例え、過去の嫌な記憶だったとしても「そうか、私はこの曲を聴いてこういう風に感じているな」と、大切に受け入れていければいい。
  
あるいは、現在の感情にあった曲を選んでじっくり耳を傾けるのもいいでしょう。音楽療法では「同質性の原理」という言葉があります。悲しいとき、悲しい曲を聴くと「いま自分は本当に悲しいのだ」と悲しみの感情を自ずと認知できる。そしてそこから自己治癒力が自然と生じてくるということです。
 
 

* あなたは、あなたのままでいい

 
また、中野先生が言うように、収録曲の作曲、演奏を担当する野田あすかさんの気持ちに共感を寄せて聴くことによっても新たな「気づき」が生まれるかもしれません。
 
野田あすかさんは広範性発達障害自閉症スペクトラム障害)という先天的な脳の障害を抱えています。小さい頃から周囲と上手く関係を築けず、10代になると二次障害として解離性障害を併発し、自傷行為などの解離症状に悩まされてきました。
 
あすかさんが発達障害とわかったのは22歳の時。狼狽する両親をよそにあすかさんは自分は発達障害だったから皆と同じように上手くできなかったんだということがわかり、「ほっとした」と述懐しています。
 
それと同時に、興味のあることは人一倍集中して取り組めるという発達障害の特性を知り、これまでずっとやってきたピアノを頑張っていこうと、発達障害の持つ「明の部分」にかけていく決意をする。
 
かつてあすかさんにとってピアノはやらされるもの、教えられた通りに弾かなければならないものだった。しかし、恩師となる田中幸子先生の出会いがあすかさんとピアノの関係を変え、ひいてはあすかさんの生き方自体を変えていきます。
 
田中先生の「あなたは、あなたの音のままでとても素敵よ。あなたは、あなたのままでいいのよ!」という言葉に導かれ、あすかさんは自らの中にある「こころのおと」に開眼する。
 
ここからあすかさんの人生が少しずつ好転していきます。2006年の宮日音楽コンクールグランプリを皮切りに、国際的なコンクールでの入賞が相次ぎ、各地でのソロリサイタルも好評を呼び、今年はアルバム「哀しみの向こう」でメジャーデビューを果たしました。
 
こうしてあすかさんの前にピアニストとしての未来が、自分の音楽を人に聴いてもらうことを自らの喜びとして生きていくという新たな希望が開けてきたわけです。
 
 

* 哀しみの向こうは、ぜったいにやさしさや、明るさが待っています。

 
あすかさんは優れたピアニストであると同時に、卓越したメロディメーカーです。本書収録曲はどの曲も耳に残るキャッチーさと心を揺さぶる叙情性を併せ持っています。クラシックに馴染みのない方でも聴きやすいと思います。
 
本書の第3部ではそれぞれの曲についてのあすかさんのコメントが載っています。例えばメジャーデビューアルバムにも収録されている「哀しみの向こう」という曲については次のように綴っています。
 
すこし、きもちが落ち込んだ日がつづいていました。でも何回も、そうなってきたから、私は知っています。ちゃんといつか、希望を持てる日がくるって。哀しみの向こうは、ぜったいにやさしさや、明るさが待っています。
 
同じようなメロディをすこしずつかえることで、明るく前向きになるようすを曲にしました。自分の中の願いも込めたから、気持ちが入りすぎて、壮大になりすぎたところもあるけど、それはそれで、私の感じたことだから、そのまま残しています。
 
〜本書より(58頁)

 

 
 
 
本曲は哀愁を帯びたメロディから始まり、そこにやがて光が差し込み始めていくような展開です。
 
クライマックスの力強い演奏はまさに一歩一歩、自らのかけがえのないこの生を歩んでいこうとするあすかさんの決意そのものに聴こえないでしょうか。
 
あすかさんの生き様は大切なことを教えてくれます。「あなたは、あなたのままでいい」。それは自分の中で鳴り響く「こころのおと」に素直に耳を傾けていくということ。
 
人は誰しもその人だけの「こころのおと」というべき内的な現実をもっています。「こころのおと」に素直に耳を傾けるということは、時には耳を塞ぎたくなるような「悲鳴」さえも大切に抱きしめていくという事です。
 
時としてそれは、いばらだらけの苦しい回り道になるかもしれません。けれど、暗闇があるからこそ、人は光明の在処を知ることができる。外的な現実を懸命にやり抜きつつも、内的な現実との対話を重ねていく。そういった営みの積み重ねこそがまさに「生きていく」ということなんだと、そう思うわけです。
 
 
 
 

「愛するということ(エーリッヒ・フロム)」を読む。〜「いかに愛されるか」ではなく、「いかに愛するか」ということ。

  
愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

 

* はじめに

 
不世出の思想家、エーリッヒ・フロムが愛の理論と実践について語り尽くす一冊。
 
フロムは「愛」とは「技術」であり修練を要するものだといいます。そして、ここでいう「愛の技術」とは「愛される技術」ではなく「愛する技術」です。一体、何が違うんでしょうか?
 
「愛されたい」と思わない人はあまりいないと思います。だからこそ、世の中には様々な恋愛テクニック本が存在するわけです。これらはもっぱら「愛される技術」です。
 
そういった諸々が一概に悪いとは思いません。その動機の純・不純はさておき、自分を高める努力をしようとする姿勢自体はむしろ尊いものです。
 
けど、どんなに容姿を整えようが、数々の恋愛テクニックを駆使しまくろうが、全く相手にされない時はされないし、逆に一切そんな努力をしてないのになぜか好かれてしまうという時もある。
 
要するに、当たり前のことですが「愛されるかどうか」という問題は、もっぱら相手側の恣意的、主観的評価にかかっており、自分側でコントロールできない不確定要素があまりにも多いわけです。
  
つまり「いかに愛されるか」という生き方は、他者の評価に縛られた苦しい生き方になります。
 
これに対して「いかに愛するか」という生き方は、他者の評価に縛られない自由な生き方です。
 
ここでは、他者が愛してくれようがくれまいがもはや関係のない、自分自身の心の在り方だけが問われている。
 
こうした「いかに愛するか」という生き方を、より善く為し得るために「愛する技術」の習得が必要となってくるというわけです。
 
 

* 愛の定義

 
ところで、ある特定の対象を理論的に考察するにおいてはまず、定義の確定が必要となります。では、ここでフロムが考察しようとする「愛」とは何でしょうか?
 
まずどの時代のどの社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。つまり「いかに孤立を克服するか」という問題です。
 
孤立は罪責感、不安などのネガティブな感情を生み出す源泉となります。では、どのようにして人は孤立を克服し、他者との合一を達成するのか。
 
この点、フロムは他者との合一を達成するためのいくつの様式を挙げています。「祝祭的儀式」「集団的同調」「生産的活動」などです。
 
要するに例えば、飲み会やライブなどは「祝祭的儀式」と言えますし、流行のファッションやガジェットを追い求めるのは「集団的同調」でしょう。また、文章、音楽、イラストなどを創作をしたりするのは「生産的活動」に当たります。
 
もちろんこれらの営みは我々の人生に何がしかの豊かさをもたらします。ただ「祝祭的儀式」で得られる一体感は一時的な一体感でしかなく「集団的同調」で得られる一体感は偽りの一体感であり「生産的活動」で得られる一体感は人間同士の一体感ではない。
 
この点、フロムは「愛」こそが人が孤立を克服し他者との間で一体感を得るための完全な答えであるという。
 
もっとも、フロムがここでいう「愛」とは「共棲的結合」というべき未成熟な愛ではなく「実存的問題に対する答え」としての成熟した愛だという。
 
「共棲的結合」という言葉はなんとも難しいですが、要は服従したり支配するというような関係のことです。
 
これが病的になるとマゾヒズムサディズムと呼ばれることになります。サディズムマゾヒズムは一見、対照的だが実は「相手なしでは生きていけない」という点で根は一つであり、サディストとマゾヒストは共依存的関係にあります。
 
これに対して、成熟した愛とは個人の全体性と個性を保ったままでの結合である、とフロムはいう。そしてこのような意味での愛は、何かに突き動かされてその中に「落ちる」ような「受動的感情」ではなく、自ら踏み込む「能動的活動」であるといいます。
 
愛は、人間の中にある能動的な力である。人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつける力である。愛によって人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。
 
(本書より・Kindle位置No.352)

 

 
この愛の能動性をより平明に言えば愛の本質とは「与えること」にある、とフロムは言います。与えることとはまさに人の中に内在する生命力の表現であり、与えることで人は幸福感を感じるということです。
 
そしてフロムは愛の能動的要素として「配慮」「責任」「尊重」「知」を挙げています。つまり、愛とは相手に対して積極的な「配慮」を払い「責任」ある態度で「尊重」することを通じ、相手を「知」ることであるということです。
 
 

* 愛の生成

 

では、このような「愛」はいかにして人の中で生まれ、育まれていくのでしょうか?
 
多くの場合、人はまずもって親の愛を通じて愛の概念を知ることになります。もっとも親の愛は母性原理的な愛と父性原理的な愛があります。
 
生まれたばかりの赤ん坊にとっては母親(養育者)が世界の全てですが、やがて、相対的に父親(第三者)との関係性が重要になってきます。
 
母性原理的な愛は子どもが母親(養育者)の子どもとして「ただいること」で愛される無条件の愛です。これに対して、父性原理的な愛は子どもが父親(第三者)の期待に「こたえること」で享受することが出来る条件付きの愛です。
 
こうした過程を経ることで子供の中に愛が生成されていく。「ただ愛される事」しか知らなかった幼い子どもは、やがて「愛されるために愛する事」を知り、さらに「愛すれば愛される事」を知るということです。
 
もっとも以上に述べたことはあくまで理論的なモデルであり、普通こんなにうまく行かないです。
 
だいたいどこかで歪みが残ったまま子どもは大人になる。だからこそ愛する技術を習得するための「愛の修練」が必要になるわけです。
 
 

* 愛の修練

 
まず「愛」は技術である以上、「愛の修練」には当然、技術習得における一般原則が当てはまるとフロムはいいます。すなわち「規律」「集中」「忍耐」「関心」です。
 
一見、奇異にも見えますがよく考えれば腑に落ちるものです。
 
例えば、昨日は気分が良かったから、他人に親切にしたり優したりしたけど、今日は気分が悪いからしたくないといったムラのある態度では修練とは言えないでしょう。なるほど「規律」は大事です。
 
また、修練である以上「今、ここ」に「集中」しなければいけません。人の脳は気がつくと色々とロクでもないことを考え出すようにできています。あの時ああすればよかったとか過去に囚われると抑うつ的になり、こういう時どうすればいいのかと未来を憂えば不安になる。
 
そういう思考を手放し、まさに「今、ここ」現在に意識を向ける。これは現代でいうマインドフルネスに当たるでしょう。実際にフロムは毎朝20分くらいの瞑想を勧めています。
 
一方、こんなに「愛の修練」を頑張っているのに誰からも愛されないし「成果」が上がらないからやめたというのもいただけないでしょう。
 
そもそも上に述べたように成熟した愛とは「与えること」であり、「見返り」を期待するものではない。これは「忍耐」が欠如した態度ということになります。。
 
そして、どんな技術でも「好きこそ物の上手なれ」です。「関心」を持って真摯に取り組めば上達は早い事はいうまでもありません。
 
 

* 事象を客観的に、そして謙虚に見る

 
また、フロムは愛の修練において重要なのは「ナルシシズム」を克服し、事象を客観的に、そして謙虚に見る事であるといいます。
 
ここでいう「ナルシシズム」というのは「自己愛」のことです。ナルシストと呼ばれる人のみならず、普通は誰しも「自己愛」は持っていますがその成熟の程度が問題となるわけです。
 
自己愛パーソナリティ障害の研究で著名な精神科医、ハインツ・コフートによれば、子供の自己愛は「誇大自己(完全で万能な自己イメージ)」と「理想化された親イマーゴ(完全で万能な親イメージ)」の二つの機制によって構成されるといいます。
 
つまり子どもの心象風景には「わたしは何でもできる存在で、何でもしてくれる神様が、私をいつでもどんな時でも愛してくれるはずだ」という完全自分本位の物語があるわけです。
 
もちろん世の中そうはなっていません。それ故いわゆる「大人になる」ということは、自分は世界の中心でも何でもないという現実を受け入れ、誇大的な自己イメージを現実に適応した形へ成熟させていくことに他ならない。つまり、愛の修練とは、まさに自己愛の修練でもあるわけです。
 
 

* おわりに

 
確かにフロムの示す「成熟した愛の在り方」は一つの理想の極であり現実的にはなかなか実践困難な生き方でしょう。
 
別に我々は聖人君子ではない。優しくされたら普通に嬉しいし、冷たくされたらやっぱり腹が立つ。大なり小なりと、他人から愛されない事による苦しみや悲しみいったネガティブな感情は日々生起する。
 
藤原さくらさんの名曲「Soup」の歌詞のように、普通、恋愛などというのは愛されたいと愛したいの感情がないまぜとなり、ぐだぐだに煮込まれたスープを飲み干すようなものだと思います。そこには甘さもあれば辛さもあり、苦味もあれば旨味もある。
 
それを美味しいと感じるかどうかは個人の捉え方にかかっている。
 
この点、美味しいかどうかの判断基準が「おふくろの味」だけ、つまり無条件の母性原理的な愛だけだと、大抵のスープは不味く感じるでしょうね。
 
そこで美味しいと感じる判断基準を多様化しておくことが必要となる。ここで、フロムの示す「愛の実践」は一つの判断基準を示すモデルとして機能することになります。
 
つまり理想は実践困難であるからこそ、なおさら高く掲げておかなければならない。そういうことなんだと思います。
 
苦しみや悲しみと言ったネガティブな感情があるからこそ人生は味わい深い。問題はそれらといかに上手く付きあって行くかという事なのでしょう。
 

 

Soup

Soup

 

 

「日日是好日〜『お茶』が教えてくれた15のしあわせ(森下典子)」を読む。〜「今、ここ」を味わい尽くすということ。

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日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

 

 

 

* 「お茶」の持つ底なしの深み

 
本書は著者の森下典子さんが25年習ってきた「お茶」を通して得た「気づき」をまとめた自伝的エッセイです。
 
先だって公開された映画を観たのがきっかけで原作である本書も読んでみたのですが、平明な語り口ながら、様々な事を考えさせられる深みを持つ一冊でした。
 
本書で綴られている「気づき」の数々。「今、ここにいること」「五感で自然とつながること」「自分の内側に耳をすますこと」「このままでよい、ということ」などなど。これらは随所で言われているように、いま医療やビジネスなどの諸分野で注目を集めているマインドフルネスそのものです。
 
そして恐るべきことに本書の単行本が出版されたのはマインドフルネスが日本で全く知られていなかった2002年です。つまり本書は10年以上も時代を先取りしていた事になります。この事実だけでも「お茶」の持つ底なしともいえる深みを示すものと言えるでしょう。
 
 

* あらすじ

 
就職が迫っても「やりたいこと」が見つからない女子大生の「典子さん」はふとしたきっかけで従姉妹と毎週土曜に「武田先生」の家に通い「お茶」を習い始める。
 
「帛紗(ふくさ)」の捌き方を始めとした「お茶」のいちいち細かく厳格な作法に悪戦苦闘する日々。
 
それから25年。挫折、失恋、別離。様々な人生の節目の傍にはいつも「お茶」があった。
 
 

* 意味不明な決まり事の先にあるもの

 
茶の湯のお点前には様々な決まり事があります。本書の序盤では様々な所作が紹介されています。
 
「水指(水の入った容器)」は下においた時、両手の小指の腹が畳に付くように持つ。茶室は左足から入る。畳一畳は六歩で歩く。
 
「茶巾(茶碗を拭く布)」で茶碗を拭く時最後は「ゆ」の字を描く。「中水底湯」といって、お湯は釜の底から汲み取り、水は真ん中から汲み取る。
 
茶筅(抹茶をかき混ぜる道具)」は穂先が折れていないか確かめる際に手首をくるりと返す。お茶は泡が切れて三日月形にに水面が見えるように点てる。
 
そして出されたお茶は最後は「ずう」と音を立てて飲み切る。
 
なぜそんないちいち面倒なことをするのか?理由を聞いても武田先生は教えてくれない。
 
さらに毎週取り扱う道具が変わり、お手前の動作は季節により変化する。せっかく冬のお点前を覚えかけたところで、今度は夏のお点前を最初から覚え直さないといけない。
 
典子さんも当初はその意味不明で頑迷固陋とも思える数々の所作に僻遠するわけです。
 
けれどそれらの所作と格闘する中、なんとも言えない不思議な法悦に満たされる瞬間がある事に少しずつ気づいていきます。
 
突然だった。何も考えていないのに、手が動く。まるで何かにあやつられているみたいだった。だけど、何だか気持ちいい……。
 
(本書58頁より)
間違えまいとお点前に没頭した。すると、何も思わず、考えない「真空」のような数秒がやってきた。そのときすべてから切り離された気持ちよさを一瞬、感じた。
 
(本書67頁より)
 
 
 

* 「今、ここ」を味わい尽くす

 
一つひとつの所作をていねいに行う事によって「思考」を手離し「意識」を「今、ここ」という「現実」に直結させる。こうして何気ない一瞬が輝き出す。そしてその先には、とてつもない「自由」が待っている。これらはまさしくマインドフルネスが目指す解脱の境地そのものです。
 
このように考えると武田先生が御点前の所作のもつ意味をあまり教えようとはしなかった理由もわかる気がします。「意味」は「思考」を生み出してしまうからです。
 
それぞれの所作にはおそらく歴史的由来などの「意味」はあるのでしょう。けれども「意味」を頭で知る前に、意味の無いところにこそ〈それ〉という他の無い意味が生じること、いわば「無意味の意味」というべきものの重要性を身体で体験して欲しかったのかなと。茶の湯は全くの素人ながらもそんなことを考えました。
 
禅に「威儀即仏法作法是宗旨」と言う言葉があります。「心を整える」と言うのは雲をつかむような話です。そこで、まず「形を整える」ところから入る必要があるわけです。
 
そして「この瞬間」はまさに一生に一度しかない。晴れの日だけではなく、雨の日も雪の日も、人はどんな日も、その日を思う存分味わうことができる。茶の湯の本質とはお茶を味わうのではなく、まさに「今、ここ」を味わい尽くすということなのでしょうか。
 
翻って考えるに、我々はどれだけ日常の動作をていねいに行なっているでしょうか。どれだけ「今、ここ」にいるのでしょうか。本書で示される「気づき」は普段の我が身を省みるきっかけにもなるのではないでしょうか。
 
 

*  同じことができる幸せ

 
本作は先日、本作を原作とした映画が公開されましたが、こちらの出来も凄く良いんですよ。機会があれば是非、ご覧いただければと思います。
 
 
民家を徹底的に改造して細部までこだわり尽くした茶室。黒木華さんと多部未華子さんが織りなす静と動の対照的なコントラスト。そして樹木希林さんが放つ圧倒的な安定感。
 
ラスト近くで、樹木さんの言う「私、最近思うんですよ。こうして毎年、同じことができることが幸せなんだって」という台詞が凄く印象的でした。
 
もちろん原作にもある台詞なんですが、その飄々として穏やかな口調の裏側に、全身がんに侵され、常に毎日自らの死と向き合って来たであろう樹木希林にしか出すことのできない凄みを感じました。
 
「同じことができること」。本当にこれはとても大事なことだと思う。
 
今日も仕事やプライベートなどで色々嫌なことがあったかもしれません。けど帰れば、いつものように温かいお風呂に入ることができる。ご飯を食べたり、お酒を飲んだりできる。映画を観たり、本を読んだり、音楽を聴いたり、大事な人たちと話ができる。
 
もしこういう営みが明日からは出来なくなるとしたらどう思いますか?今日も昨日と同じ事ができるというのは本当に素晴らしい事なんだと、そう思いました。
 
「今、ここ」が惜しい。だけど過ぎていきます。いつも「今、ここ」を過ごせる事に無上の感謝の念を持って生きて行きたいものですね。
 
 
 

「アドラーをじっくり読む(岸見一郎)」を読む。〜本当の意味でアドラーを理解するために必要なこと。

 

アドラーをじっくり読む (中公新書ラクレ)

アドラーをじっくり読む (中公新書ラクレ)

 

 

* はじめに

「嫌われる勇気」の大ヒット以来、一挙に時代の脚光をあびる事になったアドラー心理学
 
トラウマはない。過去(原因)は変えられないが、未来(目的)は変えることができる。勇気さえあればいまの境遇は打開できる。人は変われる。なんでもできる。
 
こういったアドラーのシンプルでパワフルなメッセージは多くの人に勇気と光明をもたらした事は間違いないでしょう。
 
けれども、シンプルであるが故に真の理解は難しく、逆に様々な誤解も生じてくるわけです。
 
1番まずいのがアドラーを中途半端に読み齧って「感激」した人が、うつ病になってしまった部下に「うつ病だから会社に来れないのではなく、会社に来たくないからうつ病になったのだ」とか、協調性に欠ける部下に「お前は共同体感覚が欠如している」などと言い放ったり、口には出さずともそういう上から目線の態度を取ってしまう事でしょう。
 
また、パワフルであるが故に期せず誰かを傷つける可能性を孕んでいるということです。
 
例えば、さまざまな不遇からメンタルヘルスに不調をきたしてしまった人が、アドラーの「人は変われる」というメッセージを言葉通りに受け止めてしまうと、変われない今の自分をますます責めてしまいかねません。
 
こういった弊害を避けてアドラーを正しく理解するためには、一度きちんとアドラー本人の著作を読んでアドラー理論の原典に立ち還る必要があるでしょう。けれども初学者がいきなりその作業をやるのはさすがにハードルの高い話です。
 
この点、本書は岸見先生がこれまで訳されてきたアドラーの各著作の解説文を改訂してまとめたものであり、アドラー理論のエッセンスがコンパクトに凝集された一冊と言えます。アドラー本人の著作へと進む上での良き手引き書となるでしょう。
 
 

* 優越性の追求とライフスタイル

 
精神分析を創始したジークムント・フロイトは人の根本衝動を「性欲動」だと規定しましたが、これに対して、アルフレッド・アドラーは人の根本衝動は「優越性の追求」だと主張します。
 
「優越性の追求」とは人の持つ「もっと成長して理想的な自分に近づきたい」という動機の事です。ここから今の自分に対する「劣等感」が生じてくる。
 
そこで人はこの「劣等感」を補償しようとして生きていくことになる。このような「劣等感の補償」に駆動された結果、形成されていく傾向あるいは動線というべき個人のパーソナリティをアドラーは「ライフスタイル」と呼ぶ。
 
「ライフスタイル」というのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って差し支えないでしょう。
 
こうして、人の行動は自らのライフスタイルを正当化し維持する「目的」に規定されることになる(目的論)。
 
また、人はライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(認知論)。
 
よく言われる「トラウマは存在しない」というキャッチコピーが意味するのは、過去の出来事は現在のライススタイルに適合的な形で認知されるため、結果、同じ事実がある人にとっては「美しい思い出」に、ある人にとっては「忌むべきトラウマ」になるという事です。
 
つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての「個人」の在り方が問われている(全体論)。
 
そして、人は「主体」としてライフスタイルをいつでも選び直すことができる(主体論)。
 
「ライフスタイル」という呼び方自体も、着せ替え可能な「軽さ」を強調するためと言われます。
 
そして、ある人がいかなるライフスタイルを形成するかは、その人が「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくる(対人関係論)。
 
 

* 劣等コンプレックスと共同体感覚

 
この点、対人関係を「縦の関係」として、すなわち他者を「敵」と看做して「支配・評価」という関係で捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成されていきます。
 
「劣等コンプレックス」は「私は〜だから〜できない」という公式で言い表されます。そしてその裏側には「私は〜さえなければ、なんでもできる」という「優越コンプレックス」が潜んでいます。
 
こうして、人は「人生の課題」を回避したり、他者の注目を集めて虚栄心を満たすという「目的」を達成するため、消極的性格の人は神経症という症状を作り出し、積極的性格の人は問題行動を起こすということです。
 
逆に対人関係を「横の関係」として、すなわち他者を「仲間」と看做して「尊敬・感謝」という関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成されていきます。
 
すなわち、アドラー心理学の実践とは、ライフスタイルの誤りを洞察し、共同体感覚を涵養にする事に他ならないわけです。
 

* 課題の分離

 
アドラー心理学の実践は、自分と他人の問題領域を切り分ける所から始まります。いわゆる「課題の分離」です。
 
この点、課題の分離には二つの側面があります。
 
まず第一に「他者の課題に踏み込まないこと」。いわゆる「承認欲求を否定する」というのもここに通じるものがあります。「嫌われる勇気」でも強調されている通り「他者があなたをどう評価するか」というのは「他者の課題」に他なりません。
 
そして第二に「自分の課題に誠実にとり組むこと」。これこそが「勇気付け」の実践です。
 

* 勇気付け

 
「勇気付け」の実践は、まずはいまの自分を勇気づけるところから始まります。現状のあるがままを直視し、それでも「わたしには価値がある」と確信を持ってイエスを言うこと。すなわち「自己受容」です。
 
自分を勇気づけることができるようになれば、次のステップとして他者を勇気づけます。つまり、他者に対して「共感」を寄せ「あなたには価値がある」という「尊敬・感謝の念」を表明する。すなわち「他者信頼」「他者貢献」です。
 
この点「他者信頼」というのは他者にイエスマンのごとく追従する態度とは全く異なります。アドラー派に「結末技法」というものがありますが、相手の存在を尊敬・信頼することと、相手の間違った行為を間違っているときっぱり断じ去ることは全く別のことです。
 
「他者貢献」は最も重要です。実際に何かを貢献したかどうかではなく、重要なのは「貢献感」が得られたかどうかです。人は「貢献感」を得ることで「わたしには価値がある」ことを強く実感できるわけです。
 
こうして「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。この三要件が揃って初めて、人は劣等コンプレックスの磁場を抜け出し、共同体感覚の領域に遷移していくということができる、ということになります。
 

* 「なんでもない日々」が試練となる

 
共同体感覚を規範的な理想として捉えることには意味がある。その本来的な意味は、人と人とが結びついているということであるが、現実の世界においては競争がはびこり、無辜の人が犯罪者の刃に倒れることがあるというような時代において、アドラーがいうように、他者は敵ではなく、仲間であるとは到底思えないという人はあるだろう。しかし、そのような現実をそのまま肯定することなく、理想が現実から遠く離れていても、あるいは現実とは違うからこそ、なお理想を高く掲げてそれに近づく努力をして行くというのが理想主義である。
 
(本書より・Kindle位置:1149)

 

 
確かに本当の意味での完全な共同体感覚というのはアドラーの言うように「到達できない理想」と言えるでしょう。
 
どんなに「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を意識して日々を過ごそうとしても、何か面白くないことが起これば、やっぱり妬みや僻みというネガティブな感情は大なり小なり出てきます。
 
こうして我々凡人は劣等コンプレックスと共同体感覚という両極の隘路をウロウロするのが実際のところなんでしょう。
 
フランスの諺にあるように、人は変われば変わるほど変わらない。人がほんの少しだけでも変わるというのは大変な営みです。もし誰かを変えたいのであれば、まず自分が変わらなければならない。
 
従って重要なのは、日常の中で少しでも多くの瞬間において、共同体感覚「的」な態度を持とうとする意識付けと努力なのではないでしょうか。「幸せになる勇気」の中で哲人が言っているように、そこには「なんでもない日々」が試練となるわけです。
 

* おわりに

 
禅の言葉に「不立文字教外別伝」というものがあります。本当の教えの極意は文字や言葉にすることができないという事です。
 
同様に、本当の意味でアドラーを理解するためには、「劣等コンプレックス」とか「共同体感覚」などといった知識を得て「アドラーを知る」ことのみならず、日々のいたるところで「アドラーを生きる」ことが必要なんだと思います。
 
自分のあるがままをこれでよいと受け入れる事。他者に共感を持って接し、尊敬と感謝の言葉を伝える事。見返りを求めず小さな善行を積み重ねていく事。
 
このように日々あらゆる場面をていねいに生きていくことこそが本当の意味でアドラーを理解するということなんだと思います。
 
 

「かがみの孤城(辻村深月)」を読む〜ポストモダン文学における一つの到達点。あるいは、少女の内閉期の「おはなし」。

 

かがみの孤城

かがみの孤城

 

 

 

* はじめに

 
本年の本屋大賞受賞作「かがみの孤城」は、アニメ的/ゲーム的リアリズムによる世界観を持ちつつも、現代の子供達が抱える様々な「生きづらさ」を瑞々しい文体で紡いでいく物語です。
 
中学生の少女、安西こころは中学入学後まもなくして、とある些細なきっかけから学校での居場所をなくし、家に引きこもることを余儀なくされる。そんなある日、突然、こころの部屋の鏡が不思議な光を放ち始める。
 
鏡をくぐり抜けた先には、まさにアニメやゲームに出てくるファンタスティックなお城のような不思議な建物があった。
 
そこにはちょうど、こころと同じような境遇の7人の子供達が集められていた。そして、城の主である「オオカミさま」は次のように宣う。
 
お前たちは今日から三月まで、この城の中で”願いの部屋”に入る鍵探しをしてもらう。見つけたヤツ一人だけが、扉を開けて願いを叶える権利がある。
 

 

 

* ポストモダンにおける文化的想像力の遷移

 
要するに、本作には、外の世界に居場所を失った子供達が、外界から隔絶された孤城の中で、願いが叶う鍵というアイテムを争奪するという世界観設定があるわけです。
 
ここで想起されるのは宇野常寛氏が「ゼロ年代の想像力」で示した「大きな物語」の失墜から「引きこもり/心理主義」を経て「決断主義」へ突入するというポストモダン状況下における文化的想像力の遷移です。
 
ポストモダンとは「大きな物語」が機能しなくなった社会状況をいいます。ここでいう 「大きな物語」というのは「正しさ」について社会全体が共有するイデオロギーです。
 
日本の場合、阪神大震災が起きた1995年前後辺りが、ポストモダン状況の進行という点において重要な節目であると言われています。
 
一方で平成不況の長期化がジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話を崩壊させ、他方でオウム真理教による地下鉄サリン事件が若年世代の「生きづらさ」の問題を前景化させた。結果、90年代後半は戦後史上最も社会的自己実現への信頼が低下した時代となるわけです。
 
こうして「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなるわけです。
 
すなわち、文化的想像力の変遷とは、個人がどのような「小さな物語」をどのように選択し、そこでどのように生きて行くかという態度の問題に他なりません。
 
この点、宇野常寛氏が「ゼロ想」で示した文化的想像力の変遷モデルは以下のようなものです。
 
⑴ 引きこもり/心理主義
 
まず、何が正しいのかわからなくなった時代において、最もわかりやすい「小さな物語」は「何が正しいのかわからないから、とりあえず引きこもる」ということです。
 
つまり、他者を拒絶し「母親的承認」による全能感の下で生き延びるという態度です。こういった態度を「引きこもり/心理主義」と呼びます。
 
95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」で描かれる「人類補完計画」の後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならなりません。
 
これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」においてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストは、上記の「引きこもり/心理主義」を解毒するための一つの処方箋でもあったわけです。
 
けれどもエヴァ劇場版の示す回答は当時においてはあまりにも時代を先取りしすぎしており、TV版の結末に共感した「エヴァの子供達」から拒絶され「引きこもり/心理主義」的想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡する。
 
このような想像力が色濃く現れている作品群を「セカイ系」といいます。典型的な「セカイ系」の作品として「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」などが挙げられます。
 
セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。
 
 
ところがゼロ年代に入り、上記のような「引きこもり/心理主義」モードは徐々に解除されていくことになる。
 
2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、このまま引きこもっていては殺される」という新しい想像力が台頭して来ることになる。
 
つまり、他者を傷つけることを厭わず、何がしかの「中心的価値感」を「小さな物語」として、あえて自己責任で選び取り生き延びるという態度です。こうした態度を「決断主義」と呼びます。
 
現代において我々は不可避的に決断主義者とならざるを得ない。まさに正義無き時代に正義を執行するという矛盾を抱えて生きていくわけです。
 
このような想像力が色濃く現れている作品群を「サヴァイブ系」といいます。典型的な「サヴァイブ系」の作品として「DEATH NOTE」「コードギアス・反逆のルルーシュ」などが挙げられます。
 
 

* 「決断主義の克服」としての「助け合える存在」

 
このように、本作の基本設定においては「大きな物語」の失墜から「引きこもり/心理主義」を経て「決断主義」へと至る「ゼロ年代の想像力の遷移」の流れが見事にトレースされています。
 
ではここから暴力と謀略に満ちた血みどろのバトルロワイヤルが展開されるのかというと、そうはならない。
 
一応、各々それなりに鍵探しはするんですが、別に血眼になって探すというわけでもない。9時5時限定で開城し、水もガスも通ってないのになぜか電気だけは通っているこの不思議な城の中で、ゲームをしたりお茶会をしたりと、多少の人間関係の軋轢はありつつも、基本的にはゆるゆるとした日常が3月まで過ぎていく。
 
こうした過程の中で彼らは、この城で皆と過ごす時間は鍵探し以上にかけがえのないものであり、お互いが「助け合える存在」であるということに自ずと気付いていく。
 
すなわち、ここでは「決断主義の克服」というテーマが暗に語られているわけです。
 
 

* 他者に手を差し伸べるということ

 
大きな物語」無き現代においては人は誰もが「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成し、「無自覚的」に、あるいは「あえて」特定の価値観を選択している。
 
決断主義」とは、このようなメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立し、「勝つか/負けるか」「奪うか/奪われるか」という「白か/黒か」の終わり無き動員ゲームが展開される状況をいうわけです。
 
けれども我々が異なる「小さな物語」を生きる「他者」を受容できた時、そこには「共感」や「つながり」といった「白か/黒か」ではない、より成熟したコミュニケーションの可能性が開けてくる。
 
そういった意味において本作が色彩豊かな筆致で紡ぎ出しているのは、「他者」とのつながりの中に代え難い価値を見出していく「ポスト決断主義」としての「次世代の想像力」であると言えるのではないでしょうか。
 
物語終盤における、こころの次のような心情の吐露は、この感覚を悲壮なまでによく表しています。
 
この一年近く、ここで過ごしたこと。友達ができたことは、これから先もこころを支えてくれる。私は、友達がいないわけじゃない。この先一生、たとえ誰とも友達になれなかったとしても、私には友達がいたこともあるんだと、そう思って生きていくことができる。
 

 

最後の展開はまさに「決断主義の克服」という意味では象徴的です。7人のうちの1人が決断主義的に「ルール破り」をして「オオカミさま」に食べられるんですが、結局、その子は皆から手を差し伸べられ、救われるんですね。
 
そしてその子は今度を皆に手を差し伸べていく側に回って生きていくことになる。こうして物語は様々な余韻を含ませつつ、静かに幕を閉じることになるわけです。
 
 

* 少女の内閉期を描き出した「おはなし」

 
臨床心理学者の河合隼雄氏は思春期の少女の成長において「内閉の時期」の重要性を指摘しています。
 
「内閉の時期」とはいわば、幼虫が蝶になる過程における「さなぎ」の時期です。この時期においては、これまで快活だった子が急に無口になったりする反面、その内面においては凄まじい変化が起きている。
 
このような内的な変化を成し遂げる際には、さなぎの外殻の如き、外に対する固い守りが必要になってくる。
 
この点、本作においては、孤城という「内の世界」の中で、これまで「生きてこなかった半面」との対話を繰り返すことで「外の世界」における他者との間でもまた、新しい社会的紐帯を結び直していく過程が描き出されている。
 
そういった意味において本作はポストモダン文学における想像力の一つの到達点を示していると同時に、思春期の少女の内閉期を描き出したすぐれた「おはなし」としても読めるでしょう。
 
 

* おわりに 

 
このように本作は様々な読み方を可能にする圧倒的な深みをもつ作品です。一方で、当然ながら純粋に物語としても非常に面白いです。
 
本作はかなりの長編ですが、随所にイベントというか、見せ場を仕掛けており読者を飽きさせることはありません。
 
ばら撒かれた伏線を回収していく手際も見事です。オオカミ様の正体がわかった後、最初から読み直すと、彼女の尊大な言動にも味わい深いものを感じます。
 
考えさせられることも多く、かつ楽しい読書でした。これから何度も読み返したい本がまた一つ、増えました。