かぐらかのん

日々のくらしのメモ帳です\(^o^)/

【書評】「昔話の深層(河合隼雄)」

 

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)

 

 

本書は「ヘンゼルとグレーテル」「いばら姫(眠れる森の美女)」といった、あのグリム童話の数々をユング心理学の視点で鮮やかに読み解いていく目から鱗グリム童話解説です。
 
河合隼雄先生といえば、面白エッセイストとか対談の名手、あるいは文化庁長官というイメージが強いですが、本書では本業(?)であるユング派分析家としての本領が遺憾なく発揮されています。
 
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ユング心理学の特徴の一つとして「集合的無意識」における「元型」の概念が挙げられます。
 
「無意識の発見者」と言われるジークムント・フロイトによれば、人の心は意識(前意識)と無意識に分けられるとされます。これに対して、カール・グスタフユングは無意識をさらに「個人的無意識」と「集合的無意識」に分けることを提唱しました。
 
集合的無意識というのは、ユングによれば個人的体験を超えた人類に共通する先天的な精神力動作用である「元型」によって構成されるという。
 
世界中の神話、伝説、昔話の間にある一定の共通した典型的なイメージが認められるのは、この「元型」の作用に他ならないということです。
 
典型的な元型として太母、影、アニマ、アニムス、トリックスターなどがあります。
 
 
▼ 太母
 
母性の元型。グレートマザーともいう。
 
母性はその根源において「何かを産み育てる」という肯定的な面と、そして「全てを呑み込む」という否定的な面を併せ持つ。
 
河合氏は、いわゆる対人恐怖症は日本社会の母性的な特性に根ざしていると指摘する。
 
 
▼ 影
 
自我から見て受け入れ難い人格的傾向。「生きられなかった反面」。
 
影は自我の統制が弱くなったときに表面に浮かび出てくる(二重人格はその極端な例)。自分の影を否定するため、その影を誰かに投影するということは日常よく見られる傾向である。
 
影には個人的影の他に「人類悪」ともいうべき普遍的影が存在する。
 
 
▼ アニマ・アニムス
 
男は男らしく、女は女らしくといったように、人は社会から一般的に期待されているペルソナ(仮面)をつけて生活せざるを得ない一方で、ペルソナ形成の過程で排除された男性の中の女性的な面、女性の中の男性的な面もまた同時にわれわれの中に存在し続ける。
 
前者をアニマといい、後者をアニムスという。アニマはエロスの原理、アニムスはロゴスの原理がそれぞれ内在されている。
 
男女関係は、影、アニマ、アニムスが加わる時、6人の男女の組み合わせとなる。会話をしながら一体誰と誰が話し合っているかを見極めていかないとそれは全く混乱したものになる。
 
 
 
多くの神話や伝説などの中に登場するいたずら者、ペテン師。低次においては単なるいたずら好きの破壊者であるが、高次においては新しい秩序や建設をもたらす英雄的行為をなす。
 
人は誰もが心の中にトリックスターを持っている。人が個性化の過程を歩む上で、時にトリックスターが大きな助けとなる。
 
 
 
例えば、自分とは真逆の性格の友人がどういうわけかムカムカして仕方が無いというのは、その人に自分自身の「影」を投影しているのかもしれません。
 
また、ある異性を見たらどういうわけかドキドキして目も合わせられないというのは、その人に自分の中にある「アニマ(アニムス)」を投影している場合が多いということです。
 
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さらにユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、無意識をも含めた心の全体の中心部に「自己」という元型を仮定し、自我と自己との間に適切な相互作用関係の確立することで自己の全体性を回復していく個性化の過程を称して「自己実現」といいます。
 
このユング的な「自己実現」はその辺のキラキラワードとして安易に用いられる「自己実現(笑)」とは違い、自分の心の奥底に潜む「これまで生きられなかった反面」としての元型との対決に他なりません。
 
自らの中にある「元型」から目を背けずに真正面から格闘すること。それは痛みを伴ういばらの道でしょう。けれどもこのような困難を乗り越えてこそ、初めて自我はより高次の統合へ導かれていくわけです。
 
このような過程を経ることで、実り多い素敵な人生というものが、開けてくるということなんでしょうか。
 
こういう風にユング心理学というのは「今の苦しみはあなた(自我)のせいじゃなくて、もっと別の所(無意識)から来てるんだよ」と言ってあげる「優しさ」と「でも最後はあなた1人でそれらに立ち向かわなきゃいけないんだよ」っていう「厳しさ」を併せ持った理論だとも思うわけです。
 
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ユングの概念って定義的には結構ふわふわして掴み所の無い所があるので、「ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家は、グレートマザー」というように、具体的なイメージの中で掴んでいった方が理解が進む部分もあるでしょう。そういう意味で本書は何かとハードルの高いユング心理学への恰好の入門書とも言えるでしょう。
 
河合先生の書かれたものの中ではどちらかといえば難しい部類に入るのかもしれませんが、基本的な部分の解説は丁寧にされていると思います。日々、目にする小説や映画を漫然と消費するだけでなく、より深い視点から味わい、読み解いてみたいという人にもお勧めの一冊です。
 
 

【感想】映画「Fate/stay night [Heaven's Feel] 〜I.presage flower」


卓上 劇場版「Fate/stay night[Heaven's Feel]」 2018カレンダー

卓上 劇場版「Fate/stay night[Heaven's Feel]」 2018カレンダー

 

 

本作の原作「Fate/stay night」は2004年にTYPE-MOONより発売されたPCゲームです。当時は18禁アダルトゲームという扱いながら記録的なヒット作品となり、その後も漫画・小説・アニメ・映画・スマホゲームなど多彩なメディアミックス展開によって、現在に至るまで幅広い支持層を開拓し続けています。
 
とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨む。
 
聖杯を手にできるのはただ一組。ゆえに彼らは最後の一組となるまで互いに殺し合う。
 
10年前、第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害。その唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた魔術師である衛宮切嗣に憧れ、いつかは切嗣のような「正義の味方」となって困っている人を救い、誰もが幸せな世界を作るという理想を本気で追いかけていた。
 
そんなある日、士郎は偶然、サーヴァント同士の対決を目撃してしまったことから聖杯戦争に巻き込まれてしまう。士郎が呼び出したサーヴァントは「最優のサーヴァント」とも称される「セイバー」。しかしその容貌は見目麗しい華奢な少女であった。
 
聖杯戦争のルールの説明を受けるため、監督役である言峰綺礼の教会を訪れる士郎。長々とした説明の後、最後に神父はこう告げる。
 
「喜べ少年、君の願いはようやく叶う。」
 
「正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだから。」
 
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原作ゲーム「Fate/stay night」はどの選択肢を選ぶかで展開が変わってくるビジュアルノベルゲームです。ルートはメインヒロイン毎に大きく3つに分岐します。
 
第1のセイバールート(Fate)、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)、そして第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)という3つのルート。
 
すでに第1のセイバールート(Fate)は2006年にTVアニメ化されており、引き続いて第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)も2010年に映画化、2014〜2015年にTVアニメ化されています。
 
そしてこの度、満を持して第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)が映画化されたわけです。
 
それも全3部構成の超大作。今回公開された本作「第一章 presage flower」だけで上映時間120分という大ボリュームです。桜ちゃん好きとしてはもう欣喜雀躍するしかないスケールでの映像化です。
 
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桜ルートはまさにFate/stay nightの裏街道にして集大成とも言えるものです。今までのルートで華々しい活躍を見せたキャラがあっけないくらい早々に退場していき、聖杯戦争という舞台設定そのものが軋みはじめる。やがて非日常と日常が反転し、重苦しい展開がプレイヤーの精神を容赦なく抉りに来ます。
 
これは「正義を貫き悪を倒す」という少年漫画的な王道を突き進む凛ルートと好対照をなしているでしょう。桜ルートにおいてプレイヤーは「そもそも正義とは一体なんなのか」という倫理学上の難問を喉元に突きつけられる。
 
それにある意味、凛ちゃんは非常にわかりやすいんですよ。核となるパーソナリティが明確で、一切ぶれない。だからこそ安心して観ていられる。ヒロインというよりは盟友と言うべきでしょうね。
 
それに比べて桜ちゃんという子は本当に難しいと思います。普段は穏やかな日常を象徴する明るく朗らかな少女ですが、一皮むけばそこには限りなく空虚な闇を内包している。この錯綜したパーソナリティが、捉えどころのない不安としてプレイヤーの心を掻き毟るわけです。
 
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今回の映画においては原作にはない士郎と桜の馴れ初めの前日譚が追加されており、桜ちゃん好きにはたまりませんが、その一方で、セイバー召喚に至る序盤の展開や聖杯戦争の基本的な説明などは、大胆なまでにばっさり省略されており、完全に「一見お断り」な内容になっています。
 
観ていてこれは結構凄いことをやったなって思いました。もともと桜ルート自体、原作ゲームではセイバールートや凛ルートを攻略した後で初めて選択可能なものでして、その展開も前2ルートを踏まえたものとなっているいわば「上級編」です。
 
今回のような大規模な映像化であれば幅広い層に観てもらうためにも、物語の根幹をなす世界観とかは本来はわかりやすく描くべきなんでしょう。
 
けどあえてそうはしなかった。そこを全部斬り捨てて、その分のリソースを全て、桜ちゃんというヒロインを深化させる方へ投入してしまっているわけです。なんというか、製作サイドの英断にはもはや敬意を表するしかないでしょう。
 
現在、興収10億円を突破したそうですが、上のような意味で言えばこれは快挙と言えるのではないでしょうか。次作「第二章 lost butterfly」は2018年に公開予定。首を長くして期待したいところです。
 
 

【日記】苺を育ててみる

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今回購入した苗は四季なりの品種。春だけではなく、夏と秋にも実をつけるやつです。
 
苺には春植えと秋植えがありますが、早く収穫を楽しみたいのなら秋植えがおすすめみたい。
 
春植えだと、その苗自体からの収穫ではなく、その子苗を秋植えすることになり、結果、収穫までに1年以上かかることになるとか。
 
今回、初めて知ったんですけど、一般的に「苺の実」だと思われている赤い部分は「果托」という花の根元の茎の部分で、表面の小さなつぶつぶが本当の苺の実(痩果)だそうです。
 
その本当の実の中に種があるわけですが、種から育てるのは一般的ではなく、親株から伸びてくる「ランナー」と呼ばれる蔓の先にできた子株を植え付けることで株分けしていくそうです。そういえば園芸店とかでも「苺の種」って見ませんもんね。
 
来年以降、どんどん子株を増やしていけたらいいななどと、もう今から取らぬ狸の皮算用です。
 
生育は割とのんびりした感じですが、最近の品種はクリスマスシーズンの大量需要があるため、ビニールハウスでの早出し促成栽培用に改良されており花芽分化が早く、厳寒期にも花が咲くことがあるそうです。
 
ですが、メシベが寒さに弱いので、露地栽培では結実は難しく、仮に結実しても低温下では大粒のいちごに育たないので、3月中旬ごろまでに咲いた花や蕾はあえて摘み取って、株を大きくすることに専念したほうがよいとのこと。
 
来春たくさん収穫できるよう、これからいろいろ調べながら、手探りで育てていきたいと思います。
 

【書評】「カウンセリングを語る(河合隼雄)」

 

カウンセリングを語る(下) (講談社+α文庫)

カウンセリングを語る(下) (講談社+α文庫)

 

 

本書は四天王寺カウンセリング研修講座の講演録です。聴衆は主に学校の先生方で、当時は校内暴力が社会問題化していたという背景もあり、主に中高生にどう接していくかという点に主眼が置かれている。似たような話が形を変えて何度も出てきますが、そこから本質的なものが何であるかが浮かび上がってくるでしょう。
 
カウンセリングにはしばし相反する二つの相が伴います。例えばカウンセリングを少しかじった人なら誰でも知っているロジャーズ三原則というものがありますね。次のようなものです。
 
無条件受容(無条件の肯定的関心)・・・クライエントの表現したものがどんな内容であろうとも、それはその人の内的体験に基づいたその人なりの表出であるということを認め、批判や評価などの一切の価値判断をせず、ありのままに受容すること。
 
共感的理解・・・クライエントの「いま、ここ」にある私的な内面世界を、「as if(あたかも自分の事の様に)」感じ取ること。そして「as if(あたかも自分の事の様に感じ取る)」という態度をどこまでも失わないこと。
 
自己一致(真実性)・・・自身のなかに流れる感情や思考といった体験に対して、あるがままに驚く時は驚き、悲しむ時は悲しむ、という自身の内的体験と外的表出のとの間に不一致がないこと。
 
 
 
ロジャーズの説くところによれば、人は誰しも先天的に「自己を成長させ、実現する力(自己実現傾向)」と「自らの力で心と体を治していく力(自己治癒能力)」を持っており、植物が光・水・養分・空気があれば、生命本来の力でひとりでに育っていくように、人も心に適した環境さえあれば、その人の自己実現傾向・自己治癒能力が発現して症状や悩みが解消に向かうということになるとのこと。
 
そして、ここでいう「光・水・養分・空気」に当たるものが、カウンセラーの態度としての「受容・共感・自己一致」ということになります。
 
受容・共感・自己一致。これらひとつひとつはそれ自体は疑いもなく正しいのでしょう。ですが、この原則ほど言うは易く行うは難しというものはないということです。
 
例えば「今度教師をぶん殴ろうと思っている」などという子どもや、どう考えても怪しげな新興宗教の素晴らしさを延々と語る人など、どうにも同調できない意見をカウンセラーが表面的には「受容しているふり」をして聴きつつ、本心では否定している場合、その時点でもう「自己一致」していないことになりますね。
 
なので無条件受容と自己一致は矛盾する一面を孕んでいるわけです。
 
そのほかにも理論と実際、母性と父性、治療過程の明と暗。このような一見矛盾するかに見える二つの相がカウンセリングではしばし出てくる。そこで大局的見地からその本質を見極め、その矛盾を死に物狂いで統合しようして、初めてカウンセラーの態度は「生きた態度」になるということを、本書において河合先生は手を替え品を替え説いておられます。
 
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カウンセリングというのは、「しゃべっても聞いていなさい、黙っていても聞いていなさい」で、ともかく聞いていたらいいんだというぐらいの気持ちではじめたほうがいいのじゃないでしょうか。そうしているといろいろ出てきますので、出てきたことからぼくらが学ばせてもらう。これは何度繰り返してもいいぐらい大事なことだと思います。
 
河合隼雄「カウンセリングを語る(上)」より
 
 
上巻においてはカウンセリングの基本中の基本である「聴く」ことの重要性が繰り返し強調されています。まずは聴く、ひたすら聴く。カウンセラーというのはどんな話を聴いても、同じ話を何度もなんども繰り返し聴いても、常に生き生きとした共感を持って聴ける人でなければならないということです。
 
通常、人は他人の話を聞いているとついつい色々質問やアドバイスをしてしまいがちです。それはなぜかというと、いま聞いた話を早く自分の心の中のどこかに位置付けてラクになりたいからです。
 
そこを「最近、学校に行けていない」といえば「そうですか、学校に行けていないんですか」と、そのまま自分の心の中にポンと収めておく。同時にそこから湧き出てくる疑問達もいっぱい心の中で生かしておく。
 
かといって、絶対に質問やアドバイスをしてはいけないということではありません。そういう教条的な態度は「生きた態度」とは程遠いでしょう。要は相手の話を聞いて「共感したよ!」という力強いメッセージを発信し続けるというのがカウンセリングのイロハのイだということです。
 
つまり、カウンセリングとは本書の言うところの「自由にして保護された空間」の中で、クライアントが自らの悩みにどっぷり浸かって自分の力で立ち直っていくのをひたすら確信を持って待つ場であるとも言えます。
 
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そのときに、「おまえの気持ちはわかる」って言いだしたら、わかったら理不尽じゃないですからね。「おまえの気持ちはわからん」と言わないといけないんです。「わからんけど、こうなっとるんや」 と言わないといけないんです。そういう強さというものは、どこかでいるんです。
 
河合隼雄「カウンセリングを語る(下)」より
 
 
上巻が基礎編だとすれば下巻は応用編といえるでしょう。各学派や宗教、そして「たましい」との関係へとテーマは多彩に広がっていく。
 
とりわけ日本のカウンセリングにおける父性原理の必要性が強調されています。これは西洋に比べ母性原理的な要素が強い日本社会の構造を鑑みてのことなんでしょう。
 
父性原理とは究極的なところで言えば「お前に本は買ってやらん。だが俺は酒を飲む」という理不尽な禁止のことです。精神分析の用語で「陽性転移」というのがあるんですが、クライアントがカウンセラーを信頼して「この先生はわかってくれる」と嬉しくなると、信頼はいつしか依存へ変わり、あまり悩まなくなって治ろうと思わなくなることがあります。つまり、優しさだけではなく厳しさも必要であるということです。
 
ただ、河合先生も厳重に釘を刺しているように、これは決して「叱る教育が良い」などと言っているわけではない。
 
確かに、いわゆる「キレる子ども」の中には自分を問答無用で止めてくれる「父親的なもの」を探している場合もあるでしょう。けど一方で、例えば「見捨てられ不安」の強い子どもは圧倒的に「母親的なもの」が足りていない場合が多いわけです(「見捨てられ不安」というのは境界性パーソナリティ障害のケースにおいて顕著な特徴として見られます)。
 
あくまで大前提として「包み込む母性原理」があり、そのうえで「切り離す父性原理」をどこまで取り入れていくかという問題であることは注意を要します。カウンセリングにおいて時間、場所、料金を守るという原則が強調されるのは、限界を設ける父性原理としての意味もあります。本書が喩えで出しているように、ただ甘いだけのぜんざいよりも、ほんの少し塩を混ぜたぜんざいの方が美味しいということです。
 
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本書では通じて「なぜだかわかりますか?」という問いかけが非常に多く、読み手はここで一度立ち止まって考えさせられます。
 
また、一つのことを強調した後には「次にまた反対のことを言いますが」とか「間違わないようにしてくださいね」などと釘を刺し、読み手が「これはこうだ」という「型」には嵌らないように戒めている。
 
その語り口は穏やかで飄々としつつも、極めて熱く、信念と気迫に満ちている。カウンセリングのみならず対人援助領域全般、また普段の人間関係にも示唆を得る一冊でしょう。
 
上下巻ともそれなりのボリュームですが、講演録ということもあり、文章自体は極めて読みやすいです。ただやっぱりそれなりに自分の頭で考えながら読まないと身にはならないでしょうね。本書に書いてあるのはあくまで「河合先生の態度」であって、それを型通りに真似しようとしてもそれは決して自らの「生きた態度」にはならないということです。
 
 

【書評】「君の膵臓をたべたい(住野よる)」

 

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

 

原作が出た時、満開の桜の表紙と猟奇的なタイトルの不思議な組みあわせに少し心惹かれましたが、その時は結局読まず終い。ただずっと気にはなっていた作品でしたので、今夏に公開された映画をきっかけに原作の方も手を出してみました。
 
12年後の【僕】が物語を回想する構成を取る映画版とは異なり、原作は桜良の葬儀の場面から始まり重苦しい雰囲気が漂う幕開けです。
 
住野よるさんという人はもともと電撃小説大賞を目指していたらしく、本作も本来は電撃用の応募原稿だったそうですが、分量が規定を超過してしまい投稿できず、紆余曲折あって「この作品だけは誰かに読んでもらいたい」という思いから投稿サイト「小説家になろう」に投稿したという経緯があるそうです。
 
なので、桜良ちゃんのエロゲヒロイン的な言い回しといい、やはり本作の根底にも美少女ゲームないしラノベ的な文法構造が見て取れます。
 
あらすじはこうです。
 
クラスでなんとなく孤立している【僕】は、病院で古びた書店のカバーをかけた文庫本を偶然拾う。黒いボールペンで綴られた日記。中表紙には手書きで「共病文庫」。
 
【僕】はそれを読んで、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。これがきっかけとなり二人の、親友でも恋人でもない、不思議な「なかよし」の関係が始まっていく。
 
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いわゆる難病系、余命系というカテゴリになるんでしょうけど、そこはもちろん一捻り加えられており【僕】の視点に同一化して読んだ場合、かなりのインパクトをもたらすようにできてます。
 
また、桜良ちゃんの正式な病名とかは明らかではなく、家族とか医療関係者などの「社会的な描写」がほとんど出てこないというのは一つの特徴です。
 
そのため【僕】と桜良ちゃんの日常の中で「死」はそこまでリアルではない、どこかふわふわしたものになっています。それだけに僕が彼女の「リュックの中のもの」を見てしまう下りは、唐突な「現実との遭遇」として立ち現れます。
 
このように「死という現実的脅威」と「主人公-ヒロインの想像的関係性」が「社会という象徴的中間項」を介さずに直結しているかの如く読み手に錯覚させる辺りは、いわゆる「セカイ系的なもの」の影響が感じられたりもします。
 
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ともかくも、桜良の中には、確実に鳴動を始めた「死」があるわけです。
 
そこで彼女のとった選択は「死を受け入れることでも」でも「死から逃避すること」でもなかった。彼女のとった選択は死を客観的にまなざしつつも生を最大限に「欲望」するということであった。
 
この点、フランスの精神科医ジャック=ラカンに言わせれば、人間の「欲望」の本質とは〈他者〉への「満足の要求」と「愛の要求」の中央で弁証法的に成立する「〈他者〉の欲望」だということです。
 
つまり、桜良が自らの「欲望」を全うするには、彼女の死を共有しつつも、彼女の欲望を弁証法化させる〈他者〉の存在が必要になるということです。
 
もっとも「〈他者〉の欲望」とは「〈他者〉を欲望する」という意味と「〈他者〉が欲望する」という意味を含み持っている。
 
だからキョウコはこの位置を担えないのです。仮にもし彼女が真実を知ったならば、それこそ死に物狂いでありとあらゆる桜良の「満足の要求」を悉く叶えようとするのは明らかでしょう。つまりキョウコは彼女の欲望を弁証法化できない。だからこそ桜良はキョウコに真実を告げなかった、あるいは出来なかった。
 
一方で【僕】は生来の閉じた性格からいつもシニカルで冷淡な態度で彼女をあしらう一方、【僕】は自分と正反対である彼女の内的世界の探求にかけては極めて真摯かつ貪欲です。つまりここでは「〈他者〉が欲望」しているということです。
 
こうして、この二重化された【僕】の態度が図らずも桜良の「満足の要求」と「愛の要求」の間の隘路を行き、最期まで彼女の欲望を開き続けた。ラカン箴言を借りれば「愛とは自ら持っていないものを与えることである」。そういうことでしょうか。
 
「君は、 きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。」
 
「お医者さんは、真実だけしか与えてくれない。 家族は、 私の発言一つ一つに 過剰反応して、 日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、 知ったらそうなると思う。 」
 
「君だけは真実を知りながら、 私と日常をやってくれてるから、 私は君と遊ぶのが楽しいよ」
 
住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)
 
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もちろん【僕】自身は、自らのそんな立ち位置には無自覚的であり、ゆえに最後までその位置にとどまることは出来ていません。【僕】が自らの「桜良への欲望」をはっきりと自覚して、あの例の言葉を紡ぎだした時、既に彼女はもうこの世から「勝ち逃げ」してしまっている。
 
つまり彼女にとって「死ぬ前に殺された」ことはある意味で最期まで「死ななかった」ということでもあり、【僕】にとっては彼女と最期まで「出会い損なっている」ということです。
 
このように本作は「生の欲望に満ちた物語」でもあり「出会い損ないの物語」でもあるという両義性を孕んでいるわけです。本作が幅広い層の共感を呼んだ理由というのも、何かその辺りにあるような気がします。
 
 
桜良はいう。誰にとっても1日の価値は一緒であると。そして人の行動は運命でも偶然でもなく意思による主体的選択であると。こういった考え方は我々にこの凡庸な日々の瞬間ひとつひとつが何ものにも代えがたい特別なものであることを認識させてくれます。最後は青春小説らしい涼しげな読後感が残りました。
 
 
 

【書評】「カードキャプターさくら・クリアカード編(CLAMP)」1〜3巻

およそ20年前、多くの年端もいかない女の子達、そして「大きなお友達」を、尋常でない熱狂の渦中に叩き込み、そして彼ら彼女らのその後の人生に多大な影響を与えたと言われる作品がありました。そうです、CLAMPさんの不世出の名作「カードキャプターさくら」です。
 
そのアニメ化にあたってはNHKアニメ史上で最高制作費が投入され、地上波放送時には裏番組となったあの「ちびまる子ちゃん」を視聴率1桁にまで急落させた件は未だ語り草となっているわけですが、その「さくら」の正統な続編となる「クリアカード編」が去年からスタートしているのはご存知でしょうか?
 
物語は前作の最終回、つまりさくらちゃんと小狼が再開したところから再びスタートします。こうなるともう「続編」というより「連載再開」といった方が良いでしょうね。そして今回も掲載誌は前作同様「なかよし」というのがなかなか凄すぎます。
 
だって、これだけ成功したコンテンツですから、講談社であれば「ヤングマガジン」とか「モーニング」など、そのあたりの青年誌で連載したほうがどう考えてもビジネス的には確実な収益が見込まれるでしょう?けれどもあえてそうはしなかった。
 
CLAMPさんは過去の名声に胡座をかかず、その多くがさくらのさの字も知らないであろう現代の子どもたちに向けた一新連載作品として、純粋に「読まれるか、読まれないか」という作品の品質だけを賭けて真っ向から挑むという選択をとったわけです。なんというか、やはりこれはクリエイターとしてのプライドと自信がなせる業というべきなんでしょうか。
 
そういうわけで「カードキャプターさくら・クリアカード編」。そのざっくりとしたあらすじは次の通りです。
 
友枝中学校に進学したさくら。中学校生活に期待を膨らませるその矢先、フードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな封印の鍵が手の中に。そしてさくらカードは透明なカードに変化し効果を失っていた。
 
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、現象をクリアカードという形に「固着(セキュア)」していくことになる・・・
 
 
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作画については前作は繊細な感じでしたが、今作はわりとふんわりしています。絵柄の変化については好みがあるでしょうけど、少なくとも「ツバサ」「XXXHOLiC」を経たことで筆致にはより深みが出ているように思えます。そして表情はより豊かで可愛らしく、動きはよりパワフルに進化したという印象です。
 
透明になったさくらカードとクリアカードは何か相関性があるのでしょうか?何か知ってそうなエリオルと小狼、そして桃矢。いまだに謎めいたフードの人物。そしてこのタイミングで転校してきた少女・・・
 
最新3巻では、新キャラの詩之本秋穂ちゃんの周辺がより丁寧に描かれていきます。名前からしてさくらちゃんと秋穂ちゃんは鏡像的な位置関係に立っているんでしょうか?あと、中学に入ってからは封印していたらしいさくらちゃんの代名詞だったアレも復活。そして今度の「羽」は前作以上に可愛らしい。
 
物語の表層では華々しいバトルや煌びやかな日常が繰り広げられなかなか賑やかしいですが、その深層には次々と謎が堆積し続け、どろっとした不気味な静寂が横たわっています。
 
この鮮やかなコントラストが読者を萌え狂う豚にも、そして思考の迷路を彷徨う哲学者にもさせるのでしょう。来年にはアニメ化も控えていますし、今後の展開に大いに期待したいところです。
 
 

【日記】麻婆豆腐の「3つの極」

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豆豉醬って、豆板醤や甜麺醤に比べてマイナーですけど、麻婆豆腐に使うと味のバランスがぐっと整うんですよ。
 
完全なる私見で恐縮なんですが、麻婆豆腐の構造を支えるのは辛味、甘味、塩味の「3つの極」で、辛味の極は豆板醤が、甘味の極は甜麺醤が、そして、塩味の極は豆豉醬が担うというイメージです。
 
スタータースパイスには花椒がお勧め。山椒とはまた違う大陸的な辛さです。豆板醤がひりつくような「辣」の辛さを担うとすれば、花椒は痺れるような「麻」の辛さを担います。「麻婆豆腐」というからには是非花椒は入れたいところです。
 
お豆腐は水切りは不要ですが3分ほど湯通ししておきます。湯通しをすることで浸透圧の原理で中の臭みが抜け、また煮崩れ防止にもなります。この一手間を加えることで出来上がりが全然違ってくるんですよ。
 
ひき肉はしっかりと炒めましょう。仕上げに長ネギを混ぜ合わせ、ごま油やラー油をひと回しするのもいいかもしれませんね。
 
参考レシピ(4人分)
 
★ 用意するもの
 
・木綿豆腐・・・1丁
 
・豚ひき肉・・・お好みで100g〜
 
・豆板醤・・・大さじ1.5
 
甜麺醤・・・大さじ1
 
・豆豉醬・・・大さじ1☆
 
・醤油・・・大さじ1☆
 
・酒・・・大さじ1☆
 
・鶏がらスープ・・・小さじ1
 
・にんにくチューブ・・・4センチ
 
花椒(ホール)・・・小さじ1
 
・ごま油・・・大さじ1
 
・片栗粉・・・小さじ2
 
・水・・・150ml
 
★ 作り方
 
① 鍋に水を張り、湯を沸かす。その間に豆腐をサイコロ状に切っておく。だいたい一丁を27等分。また☆を混ぜ合わせておく。
 
② 沸騰したら、豆腐を3分湯通し。豆腐がぷるぷるしだしたら引き上げておく。
 
③ フライパンにごま油をと花椒を入れ、弱火で熱して香りを出す。
 
④ 花椒の香りが出てきたら、ひき肉を炒める。
 
⑤ ひき肉がしっかり炒まったら、にんにくチューブ、豆板醤、甜麺醤を加え、混ぜ合わせる。
 
⑥ 水と鶏がらスープと豆腐を入れ、沸騰させる。
 
⑦ ☆を入れ混ぜ合わせる。
 
⑧ 片栗粉を水(分量外)で溶いて、混ぜ合わせ、とろみが出たら完成。