かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

コンステレーションと物語--大江健三郎『ヒロシマ・ノート』

 

* 原水爆禁止運動の起源と変容--本書の成立背景

 
1954年3月にマーシャル諸島ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験「キャッスル作戦(ブラボー実験)」によって当時「死の灰」と呼ばれた大量の放射性降下物を焼津漁港所属のマグロ漁船、第五福竜丸の乗組員が浴びた「ビキニ事件」をきっかけとして全国的な原水爆禁止署名運動が巻き起こりました。この署名運動において中心的な役割を果たした水爆禁止署名運動杉並協議会の議長を務めた国際法学者の安井郁氏は署名運動を推進するにあたり「杉並アピール」という声明とスローガンを発表し、その冒頭でビキニ事件を広島・長崎に次ぐ「第三の核被害」として位置付けました。果たして原水爆禁止署名運動は当時の有権者数の半数を超える3200万筆に達する署名を集め、やがて1955年8月の原水爆禁止世界大会の開催に結実します。この大会をきっかけに一般市民の多くが原水爆禁止運動に積極的に参加するようになり、この運動を運営する恒常的組織として原水爆禁止日本協議会原水協)が設立され安井氏がその初代理事長に就任しました。
 
ところが日米安保改定をめぐる保革対立の中でまず自民党系などの保守層が原水協から離脱し、1961年に核兵器禁止平和建設国民会議核禁会議)を設立します。さらに同年10月にソ連が強行した核実験の評価をめぐり原水協内部においていかなる国の核実験にも反対するという立場を取った社会党・総評系の勢力と、ソ連の核実験は容認する立場を取った共産党系の勢力が真っ向から対立し、紆余曲折を経た末に1963年の第9回原水爆禁止世界大会において社会党・総評系が原水協から脱退し、1965年には原水爆禁止国民会議原水禁)を設立します。
 
このように日本の原水爆禁止運動は当初の草の根の平和運動から次第に政党色を強めていき、1960年代において原水爆禁止運動は共産党系の原水協社会党・総評系の原水禁保守系核禁会議という3つの勢力に分裂することになります。こうした潮流の中で第9回原水爆禁止世界大会を取材した当時28歳の若手作家であった大江健三郎氏が岩波書店の雑誌『世界』に連載した広島に関する一連のルポタージュをまとめたものが1965年に公刊された『ヒロシマ・ノート』です。
 

* 原水爆禁止運動から個別の被爆者へ

同書の第一章となる「広島への最初の旅」は大会前日の8月4日早朝に大江氏が広島に到着したところから始まっています。その頃、原爆記念館では例の「いかなる国」問題をめぐり担当常任理事会の秘密会議が長引いていました。蚊帳の外に置かれて苛立ちを隠せない全国の常任理事たちへ現状報告に現れた安井理事長は「わたくしにいましばらくの時をかしてください」と訴えます。
 
ところが同日午後、平和行進が行われている最中に日本原水協が大会運営を広島原水協白紙委任したというニュースがもたらされます。そして同日17時、平和公園の慰霊碑を背にして「議論よりも行動が、平和運動を成功させるのです!」と悲劇的に絶叫する安井理事長の姿に大江氏はショックを隠せません。
 
安井理事長は常任理事たちをかやの外へと置き去りにするとき《わたくしにいましばらくの時をかしてください》といった。討論し、考え、困難をのりこえるための《いましばらくの時》、しかしかれは、平和行進の到着三〇分前というモメントを、思考停止と判断放棄のための圧力にもちい担当常任理事会ともども眼をつぶって跳んだのではないか?そして《議論よりも行動が……》というのだが、それは単に、広島原水協に、困難と停滞とを未解決のまま押しつけたというほどの意味ではないか?しかし、かれの《議論よりも行動が……》という情緒的で非具体的な、調子の高いスピーチは大拍手をよびつづけるのである。
 
(『ヒロシマ・ノート』より)

 

こうして大江氏は被爆者不在のままイデオロギーによって引き裂かれていく原水爆禁止運動に失望を深めていく一方で、広島原爆病院院長の重藤文夫氏をはじめとする「真に広島的な人間」と出会ったことから、その取材対象を原水爆禁止運動から個別の被爆者に切り替えて、被爆者の視点から戦後日本を批判的に捉え直していくことになります。第一章の最後で大江氏は次のように述べます。
 
むしろ僕はいま、かれらをつうじてはじめて真の広島を発見しようとしている。いま僕が終えようとしているのは僕がこれからおこなおうとするかずかずの広島への旅の、最初の旅なのだ。
 
(『ヒロシマ・ノート』より)

 

* 1960年の広島への旅

 

ところでこの「広島への最初の旅」という章は『世界』1963年10月号の掲載時には「広島1963年夏」というタイトルでしたが、岩波新書収録のタイミングでタイトルが変更されたものと思われます。
 
しかしながら大江氏が広島を訪れたのは1963年が初めてではありません。少なくとも小説家になった後、大江氏は1960年に「若い日本の会」という文化人組織のメンバーとして広島を訪れています。この時の経験を氏は同年8月13日付の『中国新聞』に掲載された座談会では次のように発言しています。
 
「大江 広島には原爆というスバラシイ文学的素材がある。名古屋とか九州とか、特殊性の全くない地方とちがっています。広島の人は文学するにはめぐまれていますよ。」
 
「大江 ぼくは地方の若い人のだれにでも小説を書けと、進(ママ)めることはできないが、広島の人にだけは進(ママ)められます。原爆を書くということは大切なことですから。」
 
「大江 ぼくたちも月に一度くらいは原爆ものを読む必要があるよ。作品は残らず送ってくださいよ」

 

「広島には原爆というスバラシイ文学的素材がある」とか「広島の人は文学するにはめぐまれていますよ」などという大江氏の発言の真意はよくわかりませんが、あえてここに文学的な説明をつけるとすれば次のようにも言えるでしょう。
 
戦前の日本文学は私小説とプロレタリア小説という二つの潮流に分かれており、前者は後者を人間の真実を捉えていないと批判し、後者は前者を社会の変革に寄与していないと批判していましたが、敗戦直後の社会的混迷は私小説がそのまま社会小説になるという特異的な状況を生み出しました。もっとも、こうした敗戦による混乱は全国的には戦後10年を過ぎた頃から収まっていきましたが、未だ被曝の傷跡の癒えていない広島が置かれた苦境は依然として日本文学に特異的な状況をもたらしているのではないか、ということです。
 
それにしてもこの氏の一連の発言はどう好意的に解釈しても軽率としか言いようがなく、世間知らずの若手知識人による上から目線の発言だと非難されても仕方のないものがあります。
 
しかしながら、このような発言から3年経って執筆された本書において大江氏は広島の置かれた現実に真摯に向き合おうとしています。もしもこの間に氏の認識論的転換を迫るような出来事があったのだとすれば、それはやはり氏の長男、大江光氏の誕生に他ならないでしょう。
 

* 長男誕生と広島のあいだ

 
周知のように1963年6月に誕生した光氏は頭蓋骨に異常があったため出生直後に手術を受け、その後遺症で障害を負っています。その後、大江氏は様々な小説やエッセイでこの長男との関係を繰り返し描き続けています。そして大江氏が広島を取材してノートの執筆を始める時期は光氏の誕生直後です。こうしてみると乳児の時点で頭蓋骨を手術するという長男が負った物心両面の傷と広島への原爆投下がもたらした巨大な傷という両者は大江氏の内部において何らかのコンステレーション共時的布置)を形成したのではないかと考えられます。
 
本書のプロローグで大江氏は広島への旅立ちが「自分の最初の息子が瀕死の状態でガラス箱のなかに横たわっていたまま恢復のみこみはまったくたたない」中での「疲労困憊し憂鬱に黙りこみがちな旅だち」であったことを明かし、広島での第9回原水爆世界大会の日々は「じつににがい困難の感覚にみちた大会」であり「暗く索漠たる気分で、汗と埃にまみれ、嘆息したり黙りこんでしまったりしながら、大会に動員されたいかにも真面目な人々の大群の周辺をむなしく駆けまわっているだけだった」と述べています。
 
しかし一週間後に広島を立つとき氏は「自分自身がおちこんでいる憂鬱の穴ぼこから確実な恢復にむかってよじのぼるべき手がかりを、自分の手がしっかりつかんでいることに気がついていた」といい、そしてそれは「真に広島的な人間たる特質を備えた人々に出会ったことにのみ由来していたのであった」といいます。
 
そしてエピローグで氏は「僕が広島で見た(ついに旅行者の眼でかいま見たに過ぎなかったとしても)、人間的悲惨は、そのもっとも絶望的なものまで、すべてプラスの価値に逆転することができるという勇気はないが、すくなくともじつにたびたび僕に日本人の人間的威厳のあきらかな所在を確かめさせるものであった」として「僕は広島で、人間の正統性というものを具体的に考える、手がかりをえたと思う」といい「われわれには《被爆者の同志》であるよりほかに、正気の人間としての生き様がない」と述べています。
 

* 作家、大江健三郎の「物語」として

 
今年(2023年)は大江氏の「広島への最初の旅」からちょうど60年目の年となります。この60年もの間に本書に対しては氏の政治的態度の当否を問いただすものから同時期に執筆された『個人的な体験』(1964)をはじめとする氏の小説との関係や「実存主義」や「戦後民主主義」といった氏の思想との連関を論じるものまで夥しい数の批評が提出されましたが、こうした従来からの視点に加えて今日ではさらに現代日本における情報社会論的な視点から本書を読み直すこともできるでしょう。
 
この点、当初は草の根の平和運動から始まった原水禁運動がやがて党派的なイデオロギーに絡め取られていった60年前の状況は、まさに2010年代初頭にソーシャルメディアを媒介として巻き起こった「動員の革命」がやがて行き詰まりを見せ、様々なクラスター間での友敵の分断が加速し、フェイクニュース陰謀論が横行する今日的状況と極めて類似しているともいえます。
 
こうしたいわば「ポスト・動員の革命」といえる今日的状況において、例えば現代日本を代表する哲学者の1人である東浩紀氏は『観光客の哲学』(2017)においてグローバル資本主義における等価交換の外部を切り開く「誤配(コミュニケーションの失敗)」の担い手として「観光客(郵便的マルチチュード)」を位置付けており、また東氏と共に現代批評シーンをリードする批評家の1人である宇野常寛氏は『砂漠と異人たち』(2022)においてソーシャルメディアによる相互評価の外部へ超出するための条件を「速さ(理想の追求)」ではなく「遅さ(理想からの逸脱)」に求めています。
 
このような視点からすれば、大江氏もまた60年前の広島においてあるいは「真に広島的な人間たる特質を備えた人々」という「誤配」に直面した1人の「観光客」として、党派的なイデオロギーに染まった原水禁運動の「速さ」に抗うための「遅さ」を思考しようとしていたのではないでしょうか。
 
本書は一応形式的にはルポタージュの体裁を取っていますが、その内容は実質的にルポタージュの重要な要素である事実や事件の客観的な記述以上に大江氏の主観的な語りが前面に打ち出されたものとなっています。いわば本書の執筆過程において大江氏はイデオロギーという「他人の物語」を通すことなく、広島の置かれた現実そのものからから「自分の物語」を読み出していったのではないでしょうか。こうした意味で本書は原爆被害を伝える「資料」という側面や反戦平和を訴える「思想」という側面以上に、大江健三郎という作家の生を基礎付けた「物語」を詳らかにする作品であったようにも思います。