かぐらかのん

日々のくらしのメモ帳です\(^o^)/

同感するということ、共感するということ

コミュニケーションにおける一つの技法として、よく「同感するのではなく共感することが大事です」などと言われますが、この二つは一体どう違うのでしょうか?
 
一般的な辞書的意味において、「同感」とは「同じように考えること、同じように感ずること」を言い、他方「共感」とは「他人の体験する感情を自分のもののように感じとること」を言います。
 
こう言われてもあまり違いというものがよく見えてきませんね。そこで、次のように理解するのはいかがでしょうか?
 
まず、「同感」というのは、つまり「似た者同士」がお互いに「毛繕い」をするような想像的な関係をいいます。
 
「わかるわかる、実は私もそうなの」っていうやつです。準拠枠はあくまで「自分」です。
 
なので、似た者同士でなくなったら、その「違い」はたとえ僅かでも「反感」を生み出す条件となるわけです。
 
これに対して、「共感」とは、相手のこころを映し出す「スクリーン」になること、あるいはなろうとする象徴的な関係をいいます。
 
具体的には相手の話を「テクスト」として読み解き、「あなたはこういう風に感じているのね」と、「解釈」して返す役割に徹する。準拠枠はあくまで「相手」です。
 
なので、共感は「似た者同士」でなくてもできるということです。友達の出世とか結婚などといった「他人のしあわせ」にも共感はできるわけです(実践はなかなか難しいですが)。
 
なお「解釈」が適切かどうかは、「本当に正しいかどうか」ではなく、コミュニーケーションをより展開させる上で「生産的かどうか」という観点で決まってきます。
 
従って、あえて相手の意表をつく「解釈」もありでしょうし、相手の欠点を美点に変換する「リフレクション」もこの文脈の中にあるでしょう。
 
要するに「スクリーン」になるということは、相手の中に「この人はわかってくれている、少なくともわかろうとしてくれている」という信頼に満ちた感情を生み出すということです。
 
精神分析的に言えば「知を想定した主体」の出現による「陽性転移の発生」が起きるということです。
 
一応、「同感」と「共感」はそういう風に区別できます。けど別に「同感する」のが悪いわけではないんですよ。
 
「共感」より「同感」した方が、より一体的な信頼感が出る場合もあるだろうし、適度な「自己開示」はコミュニーケーションのスパイスとして作用するでしょう。
 
ただ「同感」が自分でも気がつかないうちに「反感」に変わることを予防する意味でも、自分が「いま、ここ」で想像的軸上にいるのか、それとも象徴的軸上にいるのか、という問題について自覚的になっておくのは、それなりに大事なことだと、そう思うわけです。
 
二人であることの病い パラノイアと言語 (講談社学術文庫)

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