かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「羊と鋼の森(宮下奈都)」の感想。「生きられなかった半面」を生きていくということ。

 

羊と鋼の森 (文春文庫)

羊と鋼の森 (文春文庫)

 

 

奇妙な取り合わせのタイトルだなあなんて思っていたら、なるほどピアノのことでした。羊のフェルトのハンマーで鋼の弦を響かせるピアノは打楽器でもあり弦楽器でもあります。
 
2016年本屋大賞。本作のテーマは「調律」です。
 
主人公である外村は高校生の時、偶然、自分の高校のピアノの調律にやってきた板鳥の調律に魅せられてこの世界に入ろうと決意。調律の専門学校での2年間を経て、幸運にも板鳥が勤める楽器店に採用され、調律師として試行錯誤しながら一歩ずつ前に進んでいく。そういう職業小説であり、青年の成長譚でもあります。
 

* お客さんが求めるのは440ヘルツじゃない。美しいラなんだよ。

 
調律はまず49番目のラの音を440ヘルツに合わせるところから始まります。 ちなみに赤ん坊の産声も世界共通で440ヘルツだそうです。
 
そして、それを基準として12の音階を88の鍵盤に割り振っていく。そういう意味で調律は星座の布置にも似ているかもしれないですね。奇しくも星座の数も88なんです。
 
ただ、調律が普通の家電製品のメンテナンスとは明確に違うのは顧客の求める「理想の音」というのが顧客の数だけ無数にあるということ。そしてそれは多くの場合、明確な数値ではなく抽象的なイメージでしかないということです。
 
外村の先輩調律師である柳の言葉で言えば「お客さんが求めるのは440ヘルツじゃない。美しいラなんだよ」ということです。
 
美しいラ。その響きにいかに共鳴し、どう答えて行くかという哲学は個々の調律師によって当然異なってくる。 本書に登場する先輩調律師、板鳥、柳、秋野は三者三様に個性的です。この辺りが作品のポリフォニーを豊かにしています。
 

* 相対立する二つの相の複雑な統合としての「美しいラ」

 
まず、顧客の「美しいラ」に共鳴するにはまずは調律師自身が理想的な「美しいラ」の明確なイメージを持つ必要があるんでしょうね。この点、板鳥は原民喜の言葉を引いて外村に明快な到達点を示します。
 
「明るく静かに澄んで懐かしい文体 、少しは甘えているようでありながら 、きびしく深いものを湛えている文体 、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体 」
 
この言葉が意味するのは相対立する二つの相の複雑な統合です。そしてそれは同時に、本作が目指した文体でもあり、後に述べるように作中の根底にある主題とも重なるものがあるでしょう。
 

* 言葉を信じちゃだめだっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか。

 
では、今度は顧客の求める「美しいラ」にどう共鳴して行くのか?
 
この点、柳の次の禅問答のような言葉はかなり示唆に富むものがあります。
 
「言葉を信じちゃだめだっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか」
 
おそらくこれは「言っている事」と「言わんとしている事」の間にある種の「裂け目」に生じるシニフィカシオンを読むということではないでしょうか。
 
実際に柳は、「以前と同じ音にしてくれ」という依頼主である老婦人のリクエストにも関わらず、ピアノを以前よりも豊かに鳴らすよう調律をする。その真意について柳は次のように述べる。
 
「元の音、っていうのが問題なんだ。あの人の記憶の中にある元の音より、記憶そのもののほうが大事なんじゃないか?小さな娘さんがいてピアノを弾いていた、幸せな記憶」
 
見方を変えれば「美しいラ」なるものは最初からどこかに存在するわけではなく、顧客と調律師の間の間主観的な関係性の間で共決定されるものなのなのかもしれません。
 
こうしてみると調律とはピアノ、そして人というどちらも繊細な存在を相手にする仕事であるとも言えるでしょう。
 
逆に秋野は「美しいラ」とは一定の距離をおいたスタンスをとります。弾き手の力量を考慮して、演奏にアラが出ないようあえてピアノの鳴りを抑えるような調律をすることもある。
 
できないのではなくやらない。これは自らのピアニストとしての挫折経験からくる彼なりの哲学であり、むしろこれはこれでプロのサービスマンとしての矜持を感じるものがあります。
 

* ピアノを食べて生きていくんだよ。

 
こうして青年は駆け出しの調律師として鬱蒼とした羊と鋼の森の中を彷徨う中、ある日ふたごの妖精に出会うわけです。
 
先輩調律師の柳について初めて訪問した顧客先。ピアノを弾くのは高校生の双子の姉妹です。
 
双子なんですけどピアノの演奏スタイルは全く対照的なんですね。勢いと彩りに満ちたピアノを奏でる妹の由仁に対して姉である和音のピアノは堅実ながらも面白みが欠ける。
 
これって長女あるあるなんでしょうか。きっと姉として妹に対して模範的なピアノを弾かなければならないという無自覚な思いが和音ちゃんの中にあってこういうスタイルになったのかもしれません。
 
つまり長女というペルソナで生きていくにあたっては過剰とも言える自分の特異的な部分を切り捨ててやってきたわけです。
 
柳も含め周囲の評価が高いのは由仁のピアノの方なんですが、ところが、外村は和音のピアノの方に惚れ込んでしまいます。彼だけはそれまで誰も気付かなかった和音の中にある確かな特異的な煌めきを垣間見たわけです。
 
普通じゃなかった。明らかに、特別だった。音楽とも呼べないかもしれない音の連なり。それが僕の胸を打った。鼓膜を震わせ、肌を粟立たせた。
 
それで、その後、由仁はピアノを弾こうとすると指が動かなくなる病気になってしまうんですね。この病気については詳しくは書かれていないんですが、おそらく神経症の一種でイップスのようなものらしいです。
 
和音は妹の病気に激しく落ち込んでしまうわけですが、やがて立ち直って行き、プロのピアニストを目指す決意をする。
 
「ピアノで食べて行こうなんて思っていない」
 
和音は言った。
 
「ピアノを食べて生きていくんだよ」
 
これを機会に和音のピアノは大化けします。もともとの持ち味であった端正さや繊細さに加え妹の華やかな部分をも自分のものにしたような演奏で周囲を脱帽させる。
 
そして和音に触発されるかのように、由仁もそして外村も自らの生き方を定めていくことになります。
 

* 「生きられなかった半面」を生きていくということ。

 
先ほど特異的な部分と言いましたが、和音にとって由仁はコンプレックスを抱く存在であるとともに「生きられなかった半面」であったと思うんです。
 
これはスイスの分析心理学者、カール・グスタフユングの言う「影」と言う概念に関わるんですが、裏返して言えば、これまでは由仁が和音の「生きられなかった半面」を生きていてくれたからこそ、和音はそのことで自己の全体性を保っていたとも言えなくもない。
 
だからこそ妹がピアノが弾けなくなった時、姉は葛藤を経ながらも、これまで妹が引き受けてくれていた「生きられなかった半面」を生きていくと決意したのではないのでしょうか。
 
こうして「影」を引き戻すことで、かすかな「きらめき」が大きな「かがやき」となった。ユング自己実現とは相対する二つの相を統合し自己の全体性を回復する過程であると言います。「生きている」と「生きていく」は僅か一文字の違いですがその意味するところは大きく異なります。本当の意味で「生きていく」というのは「これまで生きられなかったことを生きる」という営みなのではないでしょうか。
 
静謐な文体で紡ぎ出される穏やかで優しい時間が心地の良い読書でした。
 
 

「あなたはそのままで愛されている(渡辺和子)」を読む。特異的な「きらめき」に向き合う覚悟。

 

あなたはそのままで愛されている

あなたはそのままで愛されている

 

 

 
一昨年に89歳で帰天された「置かれた場所で咲きなさい」の著書、渡辺和子シスターのまさかの新刊です。
 
未発表の遺稿「『きらめき』を秘めている自分に自信を持ちなさい」、そして絶版本の中からの選りすぐりのエッセイ集。優しい癒しと厳しい問いが入り混じる珠玉の一冊です。
 

* 「きらめき」という「特異性」

 
学生たちに私が伝えたかったのは、一人ひとりは、そのままで、すでに神に愛されている「宝石」だということ。 そして、その人なりの「きらめき」を秘めている自分に自信を持ちなさい、ということでした。
 
本書Kndle位置No.200より

 

目には見えなくても、人間の中に必ず内在するその人固有の「きらめき」。
 
それはその人だけがもつ文字通り「それ」としか言いようのない「特異性」の事なんだと思います。
 
「特異性」というのはいわゆる「個性」とはまた違います。「個性」とは社会システムという「一般性」の中で認められて成立するものですが、「特異性」とは逆に「一般性」においては受容されない過剰な「それ」としか言いようのない何かです。
 
人は一人では生きてはいけません。だから多くの場合、人は発達過程において、この社会で生きていく一般性を手にする為、その代償として自らの特異性をある程度切り捨ていく。
 
けれども切り捨てられた特異性は後々になって不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状や漠然とした「生きづらさ」という形をとって回帰してくることがある。
 
こうして、人はどこかで自らの特異性としての「それ」、つまり「きらめき」と何らかの形で向き合う必要が出てくるわけです。
 

* 「穴」を眼差す勇気

 
自らの特異的な「きらめき」と向き合うということ。これは時として本書の言葉で言う「穴」と言う形で現れるでしょう。 病気、失業、事故、離別・・・形は様々かもしれませんが人生には時として「あれ」としか言いようのない「穴」が開く。
 
渡辺シスターは「穴が空いたがゆえに見えるものがある」と言う。
 
「穴」を眼差す勇気。つまり、それは突如として現れた「あれ」を私は「それ」としてどう生きて行くのか、どう物語るのかという話なんだと思うんです。
 

* 「きらめき」に向き合う覚悟

 
「人は誰だって無限の可能性を抱きしめている」とよく言われます。確かにその通りだと思います。
 
無限の可能性。勿論その中には良い可能性もあるでしょう。けれども悪い可能性だってあるでしょう。
 
皆誰だってその人にしかない「きらめき」を持っている。けれども「きらめき」というのはただ単純にキラキラとした素敵なものというわけではなく、時にその「きらめき」に心身をやられてしまう事だってある。
 
だからこそ、我々は自らの中にある特異的な「きらめき」を「私自身のもの」にしていく不断の努力を行う必要があると思うんですよ。フロイトの言葉を借りれば「それ」の中に〈わたし〉を成らしめなければならないと言うことです。
 
多分、特異性を切り捨てて一般性の世界に入っていく過程が「成長」なのであれば、一般性の世界を生きながらも、かつて切り捨てた特異性と折り合いをつけていく過程を「成熟」と呼ぶべきなんでしょう。時にその過程はドロドロとした苦しみを伴うことも多いと思います。

それでもあなたは自らの「きらめき」に向き合う覚悟はありますか?本書が問うているのは、もしかしてそういう厳しい話なのかもしれないと、読んでいて、そう思いました。
 
 

「批評理論入門(廣野由美子)」を読む。批評という「〈他者〉の物語」の中に「〈私〉の物語」を見出す営み。

 

 

 

* 「読む」ということ、「語る」ということ。

 
小説の読み方には、文字通りの「読む」と言うアプローチの他に「語る」と言うアプローチがあります。
 
前者は小説の形式や技法などの解析を通じて作品内部へと深く入っていくという、いわば内在的なアプローチです。
 
これに対して、後者は文学テクストが世界の一部であることを前提に、作品を題材にしつつも作品から外へ出ていくという、いわば外在的なアプローチです。
 
この点、小説とはテクストによって成り立っている以上、テクストを「読む」ことなくして「語る」ことのみが先行することはありえない。
 
もっとも、テクストを取り囲んでいる世界を遮断し、ただただ作品の内側だけを眺め回すだけというのも視野の狭い読み方であると言わざるをえない。
 
すなわち「読み」も「語り」もどちらも重要であり両者は相補的に作用していると言うことです。
 
このような立場に基づき、本書は小説技法編と批評理論編の2部構成となっているわけです。
 
そして本書の最大の特徴は「フランケンシュタイン」という実際の作品を通じて様々な技法や理論を「実演」している点にあります。
 
要するに、包丁を売りたいのであれば、その切れ味の素晴らしさを延々と語るよりも、とりあえずその包丁で魚を捌いて見せたほうがいいに決まっていると言うことです。
 
 

* 「〈他者〉の物語」の中に「〈私〉の物語」を見出すということ

 
職業としての批評家でも小説家でもない市井に生きる一個人が批評理論なるものを学ぶ意義は何かあるのか?というと、これは当然あると思います。
 
「批評」というと「批」という語感から何か批判めいた言説を産出する為のツールと誤解されがちですが、あくまでそれは批評の一面でありすべてではない。
 
ここからは私見で恐縮ですが、批評とはテクストという「〈他者〉の物語」の中に「〈私〉の物語」を見出す営みではないかと思うんです。
 
つまり、〈私〉という「個」がある作品に触れることによって受けた「あれ」としか言いようの無い瑞々しい特異的な体験を丹念に自分の言葉で紡ぎ出して行く営み、というべきでしょうか。これは一つの内的な成熟の過程とも言えるわけです。
 
もっとも自分の感性だけを頼りにした完全な徒手空拳的な読みはともすれば独りよがりになり、あまり生産的とも言えないのも確かでしょう。
 
そういうわけで、ここに批評理論を学ぶ意義が生じてくるわけです。新しい家具(作品)を部屋(自分)のどこに置くかを決めるのは自分ですけど、その家具がどのくらいのサイズなのかを図るための「物差し」はあったほうが便利ですよね。
 
そういう意味でいうと本書は日々、際限なく産出される莫大なコンテンツの洪水の中、〈私〉という個が一消費者としてではなく、あくまで自律的な読み手として作品とつながるための一つの処方箋にもなりうるのかもしれませんね。
 
 

いまだにフロイトが読まれるべき理由--フロイト入門(中山元)

 

* なぜいまフロイトなのか?

 
我々は自らを理性ある存在として「我思う、故に我あり」とデカルト的に自分自身を理解する一方、思わぬ言い間違い、見たくもない悪夢、そして不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状といった、まさしく「何者か」によって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥ってしまうわけです。
 
また我々は「受容」や「共感」が大事などと言いつつも、いざ他人の理不尽なドロドロな感情に巻き込まれた時、その実践は限りなく至難である事を思い知るわけです。
 
つまり、こころの理論を学ぶという事は、そういった不気味なもの、わけのわからないものに補助線を引く力、物語を与える力を涵養する為の営みであるともいえるでしょう。
 
この点、「そもそも、こころとは何か」という根源的な論点につき、フロイトほど鋭い問いをたて、真摯に深く考察し尽くそうとした人は後にも先にもいないと思います。
 
本書はフロイトの理論展開の変遷を丁寧に追っていく労作です。原著からの豊富な引用はフロイトの論文を数多く訳した著者だからこそなせる技なのでしょう。
 

* 誘惑理論からエディプス・コンプレックス

 
精神分析という営みは19世紀末から20世紀初頭にかけて当時、謎の奇病とされたヒステリーの治療法として生まれました。 この点、当初、フロイトはヒステリーの原因を幼年期の心的外傷に求める「誘惑理論」なるものを提唱します。すなわち、ヒステリーの症状とは、幼年期に父親などの親近者による性的誘惑や虐待経験を受けた際の情動が抑圧され、それが後年になり身体に回帰したものに他ならないということです。
 
けれどもその後、いくつかの症例において、幼年期の性的誘惑や虐待経験は虚偽の事実だったことが判明する。それにそもそも当時のウィーンにはいたるところに神経症に苦しむ女性がいたわけですが、彼女たちの肉親がすべからくペドフェリア的な性的倒錯者だと看做すのはどう考えてもおかしい。
 
こうしてフロイトは誘惑理論をあっさりと放棄します。そして次のように考えた。患者達は子供の頃に、両親から性的に誘惑されたのではなく、むしろ子供が両親に性的な欲望を抱いたがために、偽の記憶が偽造されているのではないか、と。
 
このような幼年期の心的葛藤を自らの自己分析を通じて発見したフロイトはこれをギリシアのオイ・エディプスの悲劇になぞらえ「エディプス・コンプレックス」と名付けるわけです。
 

* 生の欲動と死の欲動

 
フロイトはヒステリー患者の臨床を通じ、症状の原因は意識の支配が及ばない心的領域、つまり「無意識」に存在することを突き止めます。
 
さらにフロイトは夢の分析を通じて「夢は願望充足の手段である」という仮説を立て、心的システムの体系化を試みる。これが「意識・前意識・無意識」からなる第一局所論です。
 
フロイトによれば、無意識と前意識の間には第一の検問所が存在し、無意識のうちに潜む願望を意識に登らせる役割を担います。これに対して意識と意識の間にある第二の検問所は、この願望を検閲して、それが意識の領域に受け入れられるように歪曲する役割を担うことになります。
 
しかし、その後、フロイトはこの第一局所論が通用しない事態に直面します。それは他ならぬ、かの第一次世界大戦です。
 
この大戦においてフロイトが目にしたのは苦痛な戦場の経験を延々と反復する悪夢に悩まされる兵士たちでした。いまでいうPTSDと呼ばれる症状です。
 
「夢は願望充足の手段である」という従来の理論ではこのような事象を説明できない。そこでフロイトはここでもまた自らの理論のアップデートに挑む。
 
それまでフロイトは人間の根源的な衝動は性欲動と自己保存欲動であるという立場を取っていました。けれどこれらは突き詰めると結局は同じものではないかということに思い至る。そこでこの2つを「生の欲動」として統合し、その対極に位置するものとして「死の欲動」を見出した。
 
このような新たに立ち上げた「生と死の欲動二元論」をベースとして構成された心的モデルが「自我・超自我エス」の第二局所論と呼ばれるものです。
 
死の欲動」などというと何か荒唐無稽な思弁のようにも思えますが、ちょっと考えればわかるでしょう。仮にもし自分が未来永劫永遠に、絶対に死ねないとすれば、それは文字通りの「生き地獄」です。我々は普通に発狂するしかないわけです。
 
つまり突き詰めていけば我々は最終的にはどこかで「いつか死にたい」と思っているということです。人はいつか必ず死ぬ。死ぬことが許される。だからこそ人は限りあるこの生を限りなく懸命に生きたいと思うわけです。
 

* おわりに

 
このようにフロイトの本当に凄いところは、何かと性道徳にやかましいヴィクトリア王朝の空気が色濃く残る20世紀初頭のウィーンの真っ只中で「人の根源は性衝動である」と高らかに叫んだロックスターの如き生き様もさることながら、何よりも間違いは間違いで率直に認め、それはなんで間違ったのかを徹底的に考え抜いたところにあると言えます。
 
過去の過ちを認め未来へ進む勇気。フロイトの生き様を辿ることで我々はそういった諸々も学びとることができるわけです。
 
ところで、フロイト最大の功績は転移の発見だと思います。他者と関係する時、通常、人は「関係」と「観察」のどちらかしかできません。斎藤環氏が言うように転移は「関係」と「観察」を同時に行うことを可能とするほぼ唯一の視点です。転移という視点を持っているか持っていないかでコミュニケーションの質は随分と変わってくるはずです。
 
そういう意味でもフロイトはやはりこれからも読まれるべきなんでしょう。人間関係はもちろんのこと、文学、音楽、絵画、映像など、日々出会うあらゆる事象への深い洞察や豊かな共感を涵養する上で、精神分析から学ぶべきものは数多いと思います。
 
 

「保健、医療、福祉、教育にいかす簡易型認知行動療法実践マニュアル(大野裕)」を読む。「認知行動療法=ポジティブ思考」という誤解。

 

* 簡易型認知行動療法というアプローチ

 
保健、医療、福祉、教育といった諸領域において、認知行動療法(Cognitive Behavioral Therapy:CBT)に対するニーズは年々高まっていますが、専門家の人数不足など人的リソースが追いついておらず、そのニーズに対応し切れていないのが現状です。
 
そこで提唱されているが「簡易型認知行動療法」というアプローチです。簡易型(低強度)認知行動療法(Low-Intensity CBT)とは、定型的(高強度)認知行動療法(High-Intensity CBT)を基礎としつつ、書籍やICTなどの活用により、専門家の関与を極力抑えて実施されるものです。
 
本書は前半で、認知行動療法の基礎、代表的スキルの解説が行われ、後半はストレスマネジメント、生活習慣改善、睡眠教育など様々な分野での簡易型認知行動療法活用例の紹介という構成になっています。
 
著者の大野裕先生は国立精神・神経医療センター認知行動療法センター顧問。雅子さまの主治医としても知られています。聞くところによれば本書は定価を抑えるためあえて自費出版という選択をとったとか。背景には生起する多様なニーズに対して人的リソースが不足している現状に対する第一人者として強い危機感があるように思われます。
 

* 「認知行動療法=ポジティブ思考」という誤解

 
認知行動療法=考え方のクセを直す方法(認知再構成法)」というイメージが強いですが、認知行動療法の主要スキルは行動活性化、認知再構成法、問題解決技法、アサーションエスクポージャー、リラクゼーション、マインドフルネス等々、多岐にわたります。実際の臨床ではこれらのスキルを症状に応じて適時組み合わせていくわけです。
 
誤解されることが多いですが、認知行動療法の目的はネガティブな認知をポジティブな認知へ変えることではないんですよ。「私はきっとあの人に嫌われている」「こんなことが起きたのは私のせいだ」といったネガティブな認知が必ずしも間違っているとは限らないでしょう。認知再構成というのはあくまで現実を客観的に検証し問題を解決するための一つのアプローチとして、必要に応じて不適当な認知を修正するわけです。
 
認知・行動・感情は密接に連関しています。認知行動療法というのは、自動思考を現実的・適応的なものに再構成して行く認知的アプローチと、行動活性化、問題解決技法、アサーションといった行動的アプローチの連携によって現実的問題を解決することを通じて感情、そして症状を好転させて行くというものです。
 
ゆえに大切なのはポジティブ思考などという現実逃避ではなく、現実から目を逸らさずに問題解決へ向かう考え方ができるかどうかということです。
 

* 「囚われに対する気づき」を得るということ

 
認知行動療法の思考法や方法論はメンタルケアのみならず、家事やダイエットなどといった日常の様々な場面でも活用可能です。本書は表題の通り、保健、医療、福祉、教育といった諸領域において対人援助業務に従事するスタッフ向けに書かれたものであり、初学者だとややハードルが高い内容となっています。 初学者向けだと同じく大野先生が書かれたこちらの方がおすすめです。
 
はじめての認知療法 (講談社現代新書)

はじめての認知療法 (講談社現代新書)

 

 

 
私たちは案外、日々いろいろな所で「べき思考」や「白黒思考」といったものに囚われているわけです。自動思考を抽出し現実を丁寧に検証することでそういった「囚われに対する気づき」を得ることができるわけです。
 
 

【書評】人生をシンプルにする禅の言葉(升野俊明)

 

 

人生をシンプルにする 禅の言葉 (だいわ文庫)

人生をシンプルにする 禅の言葉 (だいわ文庫)

 

 

 
周囲の状況に振り回されないためにも、自分のあり方をしっかりと持っておく事はとても大事な事です。
 
対人関係療法の第一人者である水島広子先生が言われているように、本当の自信とは「これまで何をなしたか」という「成果や評価」ではなく「いま、どうありたいか」という「自らのあり方」から生まれてくるという事です。
 
そうはいっても自分がどうありたいのかなんて、自分でもよくわからないし・・・と、そういう向きにお勧めなのが「禅語」を読んでみることです。
 
禅語とは、お釈迦様の教えをもとに、多くの禅僧によって生み出された言葉です。今や完全に日常語に溶け込んだ禅語も多数あります。もっとも以下のように、現在は本来と違う意味になっているものも多いです。
 
・「挨拶」・・・師匠と修行中の弟子とが真剣勝負として行う禅問答のこと。
 
・「無事」・・・探すのをやめた時、自分の中に見つかることがあるということ。
 
・「沈黙」・・・真実や悟りは言葉によっては表現できないということ。
 
・「知識」・・・仏道修行において師匠や同志となる人のこと。
 
厳しい修行の果てに到達できる自由闊達な境地から発せられた数々の言葉には「人としてのあり方」がシンプルな形で数多く示されています。
 
本書はさまざまな禅語を日々の暮らしに役立つような形で解説した一冊です。ここで本書から禅語を10個紹介してみます。有名なのも多いと思いますが、もちろん、この他にもたくさんの禅語があります。色々見ていると、きっといくつか響いてくる言葉が見つかると思いますよ。
 

* 喫茶去(きっさこ)

 
一杯のお茶を飲む。まさに何気ない行為です。けれどもその瞬間、お茶と自分を一体化させるが如く無心になって喫するということ。
 
「今、ここ」というこの瞬間を絶対的なものとしてとらえるのが禅の教えです。過去にとらわれるでもなく、未来を憂うでもなく、「今、ここ」という瞬間をていねいに生きる。そして、この「今、ここ」という瞬間の積み重ねこそが「人生」を形作っているわけです。
 
近年、注目されているマインドフルネスというのは、まさにこのような「今、ここ」に集中する練習をやっているわけです。
 
食べること、戸を開けること、電車を待つ事、体の重心を意識すること、周囲の音や、光、香りを意識すること、足元の地球を意識すること等々・・・生活の様々な小さなことに目を向けることで日々が様々な「気づき」に満ちたものになるということです。
 

* 動中静(どうちゅうのじょう)

 
静かな心は静かなところでしか得られないというわけではない。騒がしい日常の中にいても静かな境地を保つことができるということです。
 
心が落ち着かない時、イライラした時は瞑想がおすすめです。その手の本を見れば様々な瞑想法が載っていたりしていますが、瞑想の全てに通じる基本は「調身・調息・調心」です。 まず、姿勢を整え、呼吸が整える。そうすると自ずと心が整ってくるということです。
 

* 脚下照顧(きゃっかしょうこ)

 
日々の暮らしの中では様々な問題が生起します。仕事、家庭、健康、お金等々。ともすれば、これらの問題に振り回され「あれもしないと、これもしないと」と考えてしまいがちですが、そういうときこそ、今の自分の足元、つまり置かれている状況を見つめ、まずは今できることをひとつひとつ確実に積み重ねて行くということが大事になってきます。
 
奇跡も魔法もない世の中です。未来には他ならぬ自分の足で一歩ずつ進んでいくしかないわけです。
 

* 清寥寥白的的(せいりょうりょうはくてきてき)

 
心が透き通って明瞭な状態。自我や先入観にとらわれることなく常に真っ白な心で接することで相手の真意がわかり、自分との接点を見つけ出すことができるということです。
 
我々は人の話を聞く時、相手の言葉と一緒に、その話を聞きながら浮かび上がってきた自分の思考とともに聴いているわけです。時には自分の思考の雑音の方が大きくて、相手の話はほとんど聴いていないということだってあるでしょう。
 
けれども聴き上手になるコツは「浮かんできた思考を脇に置く」ことです。人の話を聞いていて何か意見を言いたくなったりしても、それはひとまず脇に置いて目の前の相手の話に集中し直す。ただただ静かな心で相手の言葉に耳を傾ける。
 
こうすることでストレスなくラクに他人の話を聞く事ができて、さらに、相手からも聴き上手だと喜ばれます。まさに一石二鳥でしょう。
 

* 和顔愛語(わげんあいご)

 
いつも柔らかい笑顔で心のこもった穏やかな言葉遣いをするということ。禅は愛語で語りかけよと説いてます。道元禅師は「正法眼蔵」において「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天の力あることを、学ばすべきなり」と書かれています。
 
言いたいことを思いついたまま語るのではなく、その言葉を相手がどう受け止めるのかということを相手の立場になって考える。
 
何か言う時はその前に一拍おいて、ロジカルとリリカルからのダブルチェックを入れる。こうした習慣は是非身につけたいものです。
 

* 夏炉冬扇(かろとうせん)

 
「夏のいろりと冬の扇子」。どちらもその季節には必要のないものです。しかし、いまは不要でも必ず役に立つ時がきます。 生きていると時として「自分は社会から必要とされていないのではないのか」と落ち込みたくなる事もあるでしょう。100歩譲って今は本当にそうかもしれないですが、未来は誰にもわかりません。
 
大事なのは「今はこれでよい」と現実と自らのあり方を受容するという事だと思います。
 

* 主人公(しゅじんこう)

 
これも日常用語としては違う意味の禅語ですね。ここでいう「主人公」とは誰もが生まれながらにして自身の中に備えている「本来的自己」というべき「自分の本当の姿」のことです。
 
もっとも、ここでいう「本来的自己」とは、まさに自分の中だけにある「特異性」とでもいうべきものです。このような特異性は時として不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状や「漠然とした生きづらさ」という形で回帰してくることがあります。そこで人は自らの特異性と折り合いを付けていく必要があるわけです。
 
時にそれは苦しみを伴うこともあるでしょう。けれども、それこそが「主人公」になるということ、誰のものでもない自分だけのオリジナルの人生を生きるということなのでしょう。
 

* 無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)

 
これは「無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り」という蘇東坡の詩の一節から引用されたもの。人は最初何も持たない状態で生まれてくるが、歳を重ねるにつれ、地位や資産など様々なものを手に入れます。
 
そして何かを手に入れると、それを失うまいと必死になる。けれど、そういった執着や欲望などを手放した時、今まで見えてこなかった様々な景色が見えてくる。何物にも囚われない心のあり方から無限の可能性がひらけてくるということです。
 

* 花無心招蝶 蝶無心尋花(はなはむしんにしてちょうをまねき ちょうはむしんにしてはなをたずぬ)

 
出典は良寛さんの漢詩の一節。春になると花が咲き、蝶は花を求めて飛んでくる。これは誰から学んだわけでもない自然の摂理です。
 
こうした摂理を仏教では「因縁」といいます。最初に「因」があり、そこに「縁」が働き結果が出る。結果はまた「因」となり、そこに「縁」が加わりまた別の結果となる。
 
いま置かれているこの状況もまた、偶然でも宿命でもない、因縁によるめぐり合わせの結果だということです。 悪因でも良縁が加われば良果が得られ、良因でも悪縁が加われば悪果となる。そして、良縁は良縁を呼び、悪縁は悪縁を呼んでくる。
 
いざ良縁にめぐり合わせた時、それを十全に活かせるよう日々、精進をしたいものです。
 

* 日日是好日(にちにちこれこうにち)

 
唐の高僧、雲門文偃禅師の語に由来する有名な禅語ですね。毎日、良い事ばかりではありません。心が晴れる日もあれば曇る日もあり、土砂降りの日もあるでしょう。
 
人生糾える縄の如し。けれども、今日という一日は二度とない一日であることは少なくとも確かなことです。良き日も悪しき日も、その瞬間しか得られない大切なことがあるということです。
 
この文章を書いてて、ふと、渡辺和子さんの次のような言葉を思い出しました。
 
「今日より若くなる日はありません。だから今日という日を、私の一番若い日として輝いて生きてゆきましょう」
 
(置かれた場所で咲きなさい)

 

 
好日は向こうから勝手に訪れるものではない。自らの生き方に、日々に、好日を見出しえなければならないということです。今日という日を懸命に生きることができれば、それはきっと、まさに好日ではないでしょうか。
 
 
ここまで読んで下さって有難うございます。生きていれば色々大変な事もありますが、折角の人生です。毎日できることから一つひとつ、ていねいに取り組んで行きましょうね。
 
 

日々変わりゆく「役割の変化」に気づき、乗り越えるということ--対人関係療法でなおす社交不安障害(水島広子)

本書は社交不安障害に特化した対人関係療法ガイドです。対人関係療法(IPT:Interpaersonal Psychotherapy)はその名の通り、対人関係にアプローチすることで、メンタルヘルスの問題の改善を図って行く心理療法です。もともとは、うつ病の治療法として開発され、その後、摂食障害PTSDなど様々な精神疾患に対する治療法として応用されてきた経緯があります。社交不安障害はまさに文字通り対人関係が前景的な問題となっており、対人関係療法と相性が良い精神疾患と言えるでしょう。
 

* 社交不安障害とは何か。

 
さて、社交不安障害(SAD:Social Anxiety Disorder)とは、「自分はちゃんとした人に見えているだろうか」「人は自分のことを変だとは思っていないだろうか」「自分はこの場にあった振る舞いができているだろうか」といった不安を日常のあらゆる場面で感じてしまう疾患であり、また動悸、発汗、下痢、赤面、パニック発作などの身体症状などを伴う場合も多く見られます。
 
さらに、そういった不安反応が起きることに不安になっているという二重構造という特徴も見られます。また不安になるかもしれないと不安になるわけです。
 
SADの背景には他人からネガティブな評価への過剰な恐怖があります。SADの人の生活全般は「いかにして他人のネガティブな評価を避けるか」というテーマを中心に回っているとすら言えます。
 

* 不安をコントロールするということ。

 
本書は社交不安障害は複数の悪循環の連関で成立しているといいます。悪循環の例として「人前で不安になる→手が震える→手が震えている自分はおかしいと思われないだろうかとさらに不安になる→さらに手が震える」といったものが考えられます。
 
このような悪循環の一つの特徴として、自分の力で悪循環を止められないという「コントロールの喪失」があります。すなわち裏返せば、このサイクルのどこかだけでもコントロールすれば状況は好転していくということです。
 
この点、「人前で不安になる→手が震える」という部分は自律神経による反応であり最もコントロールが難しい領域です。また不安という感情自体は安全確保のための自己防御反応であり、それ自体は正常な感情ではあるわけです。
 
そこで、対人関係療法では、不安を正常な感情として理解した上で、不安が起きた時に上手く対処できるようになることで自己コントロール感覚を取り戻していく点に治療目標を置きます。 「不安をコントロールできる」という自信をつけることで、結果的に不安も軽くなるという仕組みということです。
 

* 「役割の変化」に気づき、乗り越えるということ。

 
そして、対人関係療法では、問題の所在を「悲哀」「役割期待の不一致」「役割の変化」「対人関係の欠如」の4領域に整理し、それぞれに応じた治療戦略を取っていきます。
 
SADにおいてはこのうち「役割の変化」が最も重要になります。人は人生において何度か大きな「役割の変化」を経験します。
 
考えられるだけでも卒業、就職、結婚、出産、退職等々、様々なライフイベントがあるでしょう。
 
そうでなくとも、何もしなくとも人間誰しも普通に歳だけとって行きますので、自分の「役割」というのは日々、知らず知らずのうちに自然に少しづつ「変化」し続けているとも言えるわけです。
 
「役割の変化」に適応できない場合、これから上手くやっていけるんだろうかと、どうしても不安な面ばかりが目についてしまいます。これがレスポンデント化してしまったのが社交不安障害とも言えるわけです。
 
「役割の変化」を乗り越えるためには「古い役割の喪失の悲しみを受け入れる」「現在の不安を肯定する」「意識して古い役割のマイナス面、新しい役割のプラス面を明らかにする」「自分でコントロールできている事を見つける」「サポート源(周囲の支援)を構築し直す」といった対処が考えられるでしょう。
 
こうして一つひとつを言葉にしてみると、ひどく当たり前のことですが、悪循環の中でもがく当事者としては中々気づけない、あるいは目を背けたい部分でもあるわけです。
 
そして、これらの一つひとつにきちんと正面から光をあてて、課題として戦略的に、そしてていねいに取り組んでいくのが対人関係療法です。
 

* おわりに

 
このように対人関係療法というのは問題解決の道筋が極めて明快な心理療法です。SADというほど重症ではないけどコミュニケーションに苦手意識がある人、周りにそれらしき人がいる人などはぜひ、一読して見てはいかがでしょうか。