かぐらかのん

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「批評理論入門(廣野由美子)」を読む。批評という「〈他者〉の物語」の中に「〈私〉の物語」を見出す営み。

 

 

 

* 「読む」ということ、「語る」ということ。

 
小説の読み方には、文字通りの「読む」と言うアプローチの他に「語る」と言うアプローチがあります。
 
前者は小説の形式や技法などの解析を通じて作品内部へと深く入っていくという、いわば内在的なアプローチです。
 
これに対して、後者は文学テクストが世界の一部であることを前提に、作品を題材にしつつも作品から外へ出ていくという、いわば外在的なアプローチです。
 
この点、小説とはテクストによって成り立っている以上、テクストを「読む」ことなくして「語る」ことのみが先行することはありえない。
 
もっとも、テクストを取り囲んでいる世界を遮断し、ただただ作品の内側だけを眺め回すだけというのも視野の狭い読み方であると言わざるをえない。
 
すなわち「読み」も「語り」もどちらも重要であり両者は相補的に作用していると言うことです。
 
このような立場に基づき、本書は小説技法編と批評理論編の2部構成となっているわけです。
 
そして本書の最大の特徴は「フランケンシュタイン」という実際の作品を通じて様々な技法や理論を「実演」している点にあります。
 
要するに、包丁を売りたいのであれば、その切れ味の素晴らしさを延々と語るよりも、とりあえずその包丁で魚を捌いて見せたほうがいいに決まっていると言うことです。
 
 

* 「〈他者〉の物語」の中に「〈私〉の物語」を見出すということ

 
職業としての批評家でも小説家でもない市井に生きる一個人が批評理論なるものを学ぶ意義は何かあるのか?というと、これは当然あると思います。
 
「批評」というと「批」という語感から何か批判めいた言説を産出する為のツールと誤解されがちですが、あくまでそれは批評の一面でありすべてではない。
 
ここからは私見で恐縮ですが、批評とはテクストという「〈他者〉の物語」の中に「〈私〉の物語」を見出す営みではないかと思うんです。
 
つまり、〈私〉という「個」がある作品に触れることによって受けた「あれ」としか言いようの無い瑞々しい特異的な体験を丹念に自分の言葉で紡ぎ出して行く営み、というべきでしょうか。これは一つの内的な成熟の過程とも言えるわけです。
 
もっとも自分の感性だけを頼りにした完全な徒手空拳的な読みはともすれば独りよがりになり、あまり生産的とも言えないのも確かでしょう。
 
そういうわけで、ここに批評理論を学ぶ意義が生じてくるわけです。新しい家具(作品)を部屋(自分)のどこに置くかを決めるのは自分ですけど、その家具がどのくらいのサイズなのかを図るための「物差し」はあったほうが便利ですよね。
 
そういう意味でいうと本書は日々、際限なく産出される莫大なコンテンツの洪水の中、〈私〉という個が一消費者としてではなく、あくまで自律的な読み手として作品とつながるための一つの処方箋にもなりうるのかもしれませんね。