かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

ポストモダンにおける永遠回帰の命法--舞城王太郎『九十九十九』

* 動物の時代における人間の条件

 
東浩紀氏の代表的著作である『動物化するポストモダン』(2001)の続編である『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)は一般的に当時のオタク系文化を席巻していたライトノベル美少女ゲームについて論じた著作であるとされます。実際に同書の大半はライトノベル美少女ゲームの分析に費やされています。
もっとも氏は同書の序章において「本書は確かに2000年代前半のオタク・ブーム、ライトノベル・ブームの産物である」としつつ「筆者の関心は、オタクたちの特殊な文化を特殊な文化として紹介することにではなく、その特殊性に宿る普遍的な問題を抽出することにある」といいます。
 
ではなぜライトノベル美少女ゲームの分析が「普遍的な問題」へとつながるのでしょうか。同書は次のように記しています。「私たちはポストモダンと呼ばれる時代に生きている。ポストモダンでは物語の力が社会的にも文化的にも衰える。そして、現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。したがって筆者は、2000年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目すべきだと考える。これが本書の出発点である」。
 
ここでいう「物語の衰退」とは次のような事態をいいます。ポストモダンとは社会の構成員が共有する価値観やイデオロギーといった「大きな物語」の機能不全(社会全体に対する特定の物語の共有圧力の低下)として特徴付けられます。
 
そして、こうした「大きな物語」が機能不全を起こしたポストモダンにおいて流通する多様な物語は、それがいかに壮大であろうとも、すべからく「ほかの物語を想像させる寛容さ」を内在させている「小さな物語」でしかありません(もしそうでなければその物語は「原理主義」と呼ばれます)。そして、このようなポストモダンの特徴がオタク系文化には「データベース消費」として先鋭的に現れているということです。
 
ならばライトノベル美少女ゲームの分析を通じて抽出される「普遍的な問題」とは何でしょうか。同書は次のように記しています。「筆者の関心は、オタクという共同体や世代集団の考察ではなく、彼らの生を通して見えてくる、ポストモダンの生一般の考察にある。それはもはや流行の問題ではないし、若者文化の問題でもない。その問題意識は『動物化するポストモダン』が「動物的」と描写したポストモダンの消費者が、それでも「人間的」に生きるためにはどのように世界に接すればよいのかという、前著から引き継いだ、複雑でそして実存的な問題と深く関係している」。
 
周知のように『動物化するポストモダン』において氏はフランスの哲学者アレクサンドル・コジェーヴ動物化論と美少女ゲームのマルチエンディング・システムを参照し、ポストモダンにおける人間像を「データベース的動物」と名付け、1995年以降の日本社会を「動物の時代」と位置付けています。すなわち、同書のいう「普遍的な問題」とは、いうなれば「動物の時代」における「人間の条件」を問うことに他なりません。そして、こうした実存的な問題を論じる上で同書が取りあげる作品が本作『九十九十九』です。
 

* ゲーム的リアリズムの意識化

本作は舞城王太郎氏が2003年に講談社ノベルスで刊行した長編小説です。この小説は一般の長編小説とは異なり「JDCトリビュート」と名付けられたシリーズの一冊として刊行されています。「JCDトリビュート」とは舞城氏と同世代のミステリ作家である清涼院流水氏が同じ講談社ノベルスで出版した「JDCシリーズ」と総称される『コズミック』『ジョーカー』『カーニバル』における世界観設定や登場人物を用いて多数の作家が新たに物語を書き記す競作シリーズです。
 
本作は端的にいえば、その美貌により周囲を失神させるという特殊能力を生まれつき持つ主人公、九十九十九が様々な事件に巻き込まれていく物語です。本作は全七話から成っており、基本的に「僕」の一人称で語られますが、その形式的な特徴として「僕」の存在する世界は話を経るごとに一つずつ外側の世界に出ていくように描かれる点が挙げられます。
 
具体的にいうと第二話の「僕」は第一話の世界に対して外側に存在し、彼は第一話を「清涼院流水」の小説として郵便で受け取り読んでいます。同様に第三話の「僕」は第二話までを小説として読み、第四話の「僕」は第三話までを小説として読み、以下も同じ関係が繰り返されることになります。
 
各話の「僕」はそれぞれ前話の「僕」と大まかに似てはいますが、細部が異なる環境に生きており、それゆえに彼らは自分を継続的に監視している人間が何らかのメッセージを伝えるために彼らの人生を小説仕立てにして送りつけてくるのだと推測しています。
 
このような本作の構成について東氏は「清涼院の小説の外伝あるいは二次創作として作られながらも、原作を素直に受け入れるのではなく、むしろ、その作品の虚構的な性格とそれを取り巻く現実の状況を共に笑い飛ばすような、批評的でメタフィクション的な構造を備えている」としつつ「『九十九十九』の批評的でメタフィクション的な特徴は、清涼院の物語を批判するというよりも、むしろ、そこに潜在するメタ物語性や批評性を抉り出したのだと捉えた方が適切かもしれない」と述べ、その上で本作を「清涼院が無意識に展開したゲーム的リアリズムを意識化して作られた小説」であるといいます。どういうことでしょうか。
 

* 自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム

 
ここであらためて『ゲーム的リアリズムの誕生』における議論を振り返ってみます。同書の第1章はポストモダンにおいて物語はどのようなかたちで生き残るか、そして物語のその新しいかたちはどのような可能性を見せてくれるのか、という二つの問いから出発します。
 
ここから同書はAパートでまずライトノベルに注目し、ポストモダンにおける物語のかたちを考えます。まず同書はライトノベルをキャラクターのデータベースをメタ物語的な環境として書かれる本質的にポストモダン的な小説形式であるとした上で、大塚英志氏の議論を参照し、従来の近代文学が現実を写生する「自然主義的リアリズム」に規定されているとすれば、ライトノベルとは虚構を写生する「まんが・アニメ的リアリズム」に規定された「キャラクター小説」であるとして、こうした二つのリアリズムの対置をポストモダン状況の反映としての「想像力の二環境化」と呼びます。
 
そして、こうした「まんが・アニメ的リアリズム」に規定される「ライトノベル=キャラクター小説」を範例として同書はポストモダンにおいて物語は現実に依拠するのでなく「ポップカルチャーの記憶から形成される人工環境」に依拠することになるといいます。
 
続いて同書はBパートでこうした人工環境の文学における文学的可能性を考えます。ここでも同書は大塚氏の議論を参照し、ライトノベルを規定する「まんが・アニメ的リアリズム」とは日本における文学史と漫画・アニメ史が交錯するところで生じたことで大塚氏が「アトムの命題」と呼ぶ記号的-身体的な両義性を抱え込んでおり、このような両義性ゆえにキャラクター小説は不透明で非現実的な表現でありながらも現実に対して透明であろうとする矛盾が抱え込まれ「半透明」な言葉で記述されているとして、それゆえにキャラクター小説の文学的可能性を「半透明な言葉」を利用した「現実の乱反射」、すなわち仮構を通じてこそ描ける現実に見出しています。
 

* ゲーム的リアリズムと構造的主題

 
その一方で同書はCパートでキャラクター小説を「ゲームのような小説」として捉え直し、その特異性を考えます。ここで同書はもともとキャラクターに内在するメタ物語性に加えて、近年における小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」に対してゲームやインターネットなどの「コミュニケーション志向メディア」が台頭しつつある「メディアの二環境化」から、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を写生する技法を「自然主義的リアリズム」とも「まんが・アニメ的リアリズム」とも異なる第三のリアリズムとして提示します。これが「ゲーム的リアリズム」です。
 
そして同書の第2章のAパートでは小説の読者が置かれている想像力やメディアといった「環境」に注目し、自然主義的な読解(物語と現実を対応させる素朴な読解)とは異なる「環境分析」的な読解(物語と現実の間に読者の置かれた「環境」の効果を挟み込んで作品の構造を分析する読解)から桜坂洋氏の『All You Need Is Kill』から「物語的主題(物語が担う主題)」とは別に「構造的主題(物語が物語外の現実との関係で表現する主題)」を読み出していきます。
 
続いてBパートでは「ゲームのような小説」の分身のような「小説のようなゲーム」である美少女ゲームに注目し『ONE』『Ever17』『ひぐらしのなく頃に』というメタ物語的な構造を備えた「メタ美少女ゲーム」の「構造的主題」を読み出していきます。
 
その結果として同書は「ゲーム的リアリズム/メタ美少女ゲーム」というパラダイムにおける「構造的主題」として『All You Need Is Kill』と『ONE』には「選択と喪失」からなる「メタ物語的な宙吊りの不能性」を見出し、『Ever17』『ひぐらしのなく頃に』には「選択をいくどでも繰り返すことのできる」「メタ物語的な宙吊りの全能性」を見出すことになります。
 
これらの構造的主題の差異につき同書は「作家がそれを意識していたかどうかとは関係なく、物語そのものの主題とも関係なく、より直接に、ポストモダンに生きる私たち自身の生の条件に対する、各作家の感覚の差異を反映している」と述べています。そして、こうした議論を経由したうえでCパートにおいて本作が登場することになります。
 

* プレイヤー視点の文学

 
以上のような議論からいえば、本作が「清涼院が無意識に展開したゲーム的リアリズムを意識化して作られた小説」であるとは、同書が直後に述べているように、本作は清涼院作品における「構造的主題」を「物語的主題」に変えて作られた小説であり「ひらたく言えば、清涼院の小説がゲーム的リアリズムの小説であるのに対して、舞城の小説はゲーム的リアリズム"についての"小説になっているのである」ということです。
 
そして東氏は本作の最終話に記された"3人の"九十九十九のあいだの会話に注目します。なぜ主人公が急に3人に増えているかという点については小説内においては「タイムスリップ」という説明がされています。この点、本作の各章は第一話から第三話までは普通にその順序通りに配置されていますが、その後は第五話、第四話、第七話、第六話という順序で配置されており、小説内ではこの転倒は「タイムスリップ」によるものであって、過去に戻ると過去の自分自身に出会うので自分の数が増えるということになっています(つまり本作には途中でいくつか省略されている話が存在するということです)。
 
しかしながら、そもそも本作の第一話の現実は第二話からみれば虚構(小説)であり、同じく第二話の現実は第三話からみれば虚構であるという設定になっているため、このような設定とタイムスリップという説明は整合的ではありません。
 
そこで氏は「ゲーム的リアリズム」の観点から、本作のいう「タイムスリップ」とは「物語外の読者の時間的な経験を、物語内の登場人物の経験に見せかけるために導入されている」と解釈し、本作は「シナリオをリセットするごとに新しいプレイヤーが新しい視点キャラクターをともなって参加してくる、特殊なオンライン・アドベンチャーゲームに見立てて読むことができる」といいます。すなわち、下の図のように本作の後半ではプレイヤーが後の話でリセットをかけた結果として前の話に戻っているということです。
そうであれば本作の読者は「3人の九十九十九」のあいだの会話を「九十九十九」という「キャラクター」の会話としてではなく「九十九十九」という「キャラクター」を操作する「プレイヤー」の会話として読めることになります。それゆえに東氏は本作を「ゲーム的リアリズム/メタ美少女ゲーム」の純文学版として「プレイヤー視点の文学」と呼びます。
 
もっとも一方で氏は本作はその仕掛けを読者を物語に引き込むための手段ではなく、その存在そのものを前景化し話題化するために用いているといいます。では、果たして本作は彼らに何を語らせているのでしょうか。
 

* ポストモダンにおける永遠回帰の命法

 
この点、本作の各話では同じ九十九十九が異なったヒロインと暮らしており、あたかも美少女ゲームで分岐した各シナリオのように読むことができます。そしてこのゲームにおいてはトゥルーエンドを迎えるためにプレイヤーは複数のシナリオをクリアすることが求められていると考えてみましょう。
 
それゆえに一人目の九十九十九は第六話まで物語を進め普通にトゥルーエンドを目指そうとするプレイヤーであるといえます。しかしながら二人目の九十九十九はトゥルーエンドなどどうでもいいので特定のシナリオに留まろうとするプレイヤーであるといえます。
 
この二人の対立は小説内では「現実」と「虚構」の対立に重ねられています。つまり、一人目のプレイヤーは「現実(実社会)」に帰ろうとしており、二人目のプレイヤーは「虚構(美少女ゲーム)」に留まろうとしています。これに対して三人目のプレイヤーの選択は小説内でははっきりとは描かれておらず、むしろその結論は先送りされているようにも読めます。
 
例えば彼は「だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる」と言います。これは確かにニーチェにおける「永遠回帰の命法」を想起させる言葉ではありますが、結局のところ単なるスローガンないし現状への居直りに終止しており、事実上何も言ってないに等しいようにも思えます。しかしながらその一方で「環境分析的」な読解からはまた少し違った光景を見出すことができるのではないでしょうか。
 
大きな物語(=トゥルーエンド)を失ったポストモダンの世界(=ゲーム)において個人(=プレイヤー)は何かしらの小さな物語(=シナリオ)をばらばらに生きるしかありません。トゥルーエンドはもはや既に存在しないし、いまのシナリオもハッピーエンドやバッドエンドといったかたちで必ずいつか終わりが訪れます。
 
すなわち、このポストモダンという名のゲームにおいては「現実」への脱出も「虚構」への充足も不可能な選択であるということです。そうであれば、このポストモダンという名のゲームにおけるプレイヤーがとるべき選択は、別のシナリオの分岐へと常に身を開きながら、いまのシナリオをよりよく生きるということになるのではないでしょうか。東氏が近年よく用いる言葉でいえば、シナリオは常に「誤配」と「訂正可能性」に開かれていなければならないということです。
 
そしてそれはまさに、いまこの時のこの場所から「この一瞬を永遠のものしてみせる」という永遠回帰の命法から始まっていくのではないでしょうか。こうした意味で本作のラストシーンで垣間見える幸福な喧騒は「この一瞬を永遠のものしてみせる」というポストモダンにおける倫理を端的に表しているように思えます。