* 自炊と批評
春は進学や就職によるひとり暮らしをきっかけに多くの人が「自炊」を始める季節でもあります。そうした季節柄を意識してかどうかはわかりませんが、今年のユリイカ3月号の特集テーマは「自炊」です。日本を代表する文芸批評誌と「自炊」という組み合わせはいささか奇異に感じられるかもしれませんが、よくよく考えてみると確かに「自炊」とは日常に根ざした行為でありながら、いや日常に根ざした行為だからこそ、深い批評性を持った営みであるともいえるでしょう。
まずは本書に収録されている畑中三応子氏の論考「自炊とトレンド」を参照して「自炊」の歴史をざっくりと振り返ってみましょう。同論考は日本社会において「自炊」という概念が自覚的に用いられたのは明治に入ってからであるといいます。
明治新政府は1869年(明治2年)に士農工商の身分制度を廃止して皇族、華族、士族、平民に再編成し、いちおう四民平等が原則になりました。それはすなわち、その出身に関わらず個人の能力や努力によって名を上げて地位を得る「立身出世」が可能になったということを意味しています。
そして、こうした「立身出世」のために必要なものが学問と学歴であり、全国の青年たちは郷里を後にして多数の学校が集まる東京で「自炊」をしながら勉学に励みます。当時これから志を立てようとする青年に向けて書かれた『学生と成功』(1903)という本では親の財産に頼らず不自由な中で苦労してするのが本当の学問であり「自活自炊書生」はたいがい成功するといい、自己錬磨としての「自炊」を薦めています。
さらに明治30年代以降から大正期にかけて貧困層にも上京勉学熱が広がり、働きながら「苦学」する青年をターゲットにした書籍や雑誌が大量に刊行されることになりますが、そこでも「自炊」は人格形成の礎に位置付けられています。
例えば『実験自炊生活法』(1912)という本の序文には「学生はよろしくすべての方面に向かって修養すべきである。一人の料理もできないで天下を料理するなどゝ気取った所で何の益もない。大厦高楼を築かんとせばよろしく基礎をコンクリートで確固にすべきである」などと記されています。このようにかつて「自炊」は「立身出世」を目指して「苦学」する青年の「修養」の一環として捉えられていました。
* 戦後日本社会と自炊
このように戦前まで「自炊」とはもっぱら(苦)学生を想定したものでしたが、戦後の高度経済成長期以降は人口の都市集中と家族形態の核家族化に伴い、都会でひとり暮らしをする独身男女や共稼ぎ夫婦が行う家事としての料理なども「自炊」と呼ばれるようになります。また、この時期から自炊のメニューも従来の炭水化物中心主義が見直され、PFCバランスが重視されるようになります。
例えばその名も『自炊』(1959)という本では「故郷を離れ家族と別れ勉学にいそしむ学生もアパート住まいの独身者も、共稼ぎの若夫婦も栄養バランスの取れた美味しい清潔な手作りの食事がらくにできるならばどんなに健康的で楽しいことでしょう。やり方次第では早くしかもらくに実質的には偏食に陥りやすい外食とは比較にならないほど経済的な食事ができるのです」と説いています。
そして1970年代後半から1980年代にかけて「男の料理」がブームになります。普段は飯もよそわずお茶も淹れない関白亭主が「男の料理は労働ではないホビーだ、男の料理は家事ではない創造だ」とばかりに週末に贅沢な材料をふんだんに使いやたらと手間をかけた趣味的な料理作りに没頭するという現象が広がりました。
その一方で若年層の間ではより地に足のついた「自炊」のブームが起こっていました。1973年の第一次石油ショックをきっかけに消費者物価上昇率が急伸し「狂乱物価」と呼ばれたインフレが猛威を振るう中で、多くの大学生が生活防衛のため「自炊」に乗り出します。
そんな世相を受け、大学生協東京事業連合から『自炊のすすめ』(1975)という小冊子が刊行されることになります。初心者向けのメニュー約150種類をイラスト入り、材料費つきで収録した同書は、ともかくも乏しい予算で満腹できて栄養があることに重点が置かれています。同書は80年代以降も出版元を主婦の友社に移して改訂を重ね、1994年には新版も出ている隠れたベストセラーです。
またバブル期に公刊された『システム自炊法 シングル・ライフの健康は、こう守る』(1987)は単身赴任や独身のサラリーマンの健康レベルを下げないため必要最低限の栄養を摂れる「自炊」を解説した一冊であり、同書にインスパイアされて「自炊」を始めた人々は男女問わず少なくなかったといわれます。
* 自炊の現在地
バブル崩壊後の平成不況期にも「自炊」は静かなブームとして続いており、当時普及し始めたインターネットでも「自炊」のコンテンツは人気を博していました。例えば2000年にウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載がはじまった「がんばれ自炊くん」は自称99歳の「自炊老人」が出すお題に読者がレシピを投稿するというレシピ投稿サイトの走りのような存在です。
ゼロ年代に入ると「料理が好き」と公言する「自炊男子」が急増し、男性の料理研究家や料理ブロガーが活躍するようになり、2009年のリーマンショック後には『男子食堂』『BISTRO男子』『男子キッチン』『料理男子』『MKJ・メンズキッチンジャパン』といった男子向け自炊雑誌の創刊ラッシュが起きています。こうした「自炊男子」が急増した背景には不況で深まる節約志向のみならず、ジェンダー意識の変化が挙げられます。
このようなジェンダー意識の変化を背景として2010年代以降は『一汁一菜でよいという提案』(2017)『料理が苦痛だ』(2018)などのように家事としての料理の負担に対する現実的な解決策を提示したり「無理しない、頑張らなくてもいい、平凡がいい、バリエーションは少なくてもいい」というメッセージを全面に押し出す自炊本が増加しています。
そしてコロナ・パンデミックで幕を開けた2020年代では「ステイホーム」に伴う「おうちごはん」の愉しさが再発見される一方で「自炊」においてもコスパ(費用対効果)やタイパ(時間対効果)を重視する傾向が顕著となり、2023年レシピ本大賞を受賞した『やる気1%ごはん テキトーでも美味しく作れる悶絶レシピ500』(2022)のような、やる気がなくてもズボラに作れる時短自炊本が人気を博することになります。
* 自炊の本質
以上のようにかつて「自炊」とは立身出世のための「修養としての自炊」という意味で用いられていましたが、やがて「自炊」は独身世帯や共働き世帯の「家事としての自炊」や、男の料理のような「趣味としての自炊」や、不況を背景とした「節約としての自炊」などと多様な意味を持ち始めることになります。しかしながらこうした「自炊」の意味の拡大が「自炊」の本質をかえって捉え辛くしていることもまた確かでしょう。
では改めて現代において「自炊」とは果たしていかなる営為なのでしょうか。以下では本書に収録されている諸論考から「自炊」の本質を捉えるためのヒントを探っていきたいと思います。
この点、亜古真理氏の論考「『自炊』は料理という家事をラクにするのか」は「家事についての研究を始める前だった当時、自炊とは自分だけのために作ることと考えていた」といい「(違う考え方もあることを知っているとしつつ)今も食べ手が他に(も)いる料理は自炊ではないと思っている」と述べています。
また、青田麻未氏の論考「かって、きって、くった(そして皿を洗う)」は「メインの料理をつくる傍で、わたしのほかには誰も食べないけれど、スライスした大根と紫蘇を混ぜた副菜をつくる--自分だけの部屋、ならぬ自分だけの皿となるこの副菜のようなものこそが、わたしにとっては自炊の名にふさわしいものである」と述べています。
その一方で、澁川祐子氏の論考「味な自炊の現代考」は齋藤美衣氏の著書『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』(2024)に言及し、摂食障害を患った斎藤氏が「回復のイメージ」として書いた「自分のためだけにサラダを作るシーン」について「ここには自炊の本質がある。おいしいものを自分の手で作り、ゆっくり味わうことは自分で自分を慰撫することだ。おいしいものとは、つまりそのとき自分が満足する味にほかならない」と述べています。
こうしてみると「自炊」とは「自分だけ」のために行うものであり、かつ自身の「満足」のために行う料理であるとひとまずはいえそうです。
* 倫理としての自炊
ところで「自炊」には「炊」という字が入っています。雑賀恵子氏の論考「鍋ふたつ、飯盒ひとつ」が指摘するように「『炊』の字義は、たく、かしぐ、食事の煮炊きをすること」にあります。そこで次は何をもって「炊」といえるかが問題となります。
この点、藤原辰史氏の論考「他炊論」は「己一身の力で炊事をすることは不可能である。近くに八百屋やスーパーがなければならないし、その店員がいなければならない。農家も漁家もいなければ、自炊は不可能である。冷凍食品や既製品の調味料や魚の切り身を用いる自炊は、冷凍食品企業やスーパーや調味料メーカーの労働者たちの『他炊』によって成り立っている」「忘れてはならないのは、発酵食品は、微生物たちの力を借りる『他炊』だということである。人間の力だけでは、味噌や醤油や日本酒はできない」といい、こうしたことから「純粋無垢な自炊などどこにも存在しない」と述べます。
そして、福永真弓氏の論考「自炊と自己家畜化」は「現代社会において「自炊」とは、食が持つ多様な意味と役割を主体的に統制すること、セルフハンドリング(self-handling)であって、自分で料理すること(self-cooking)ではない」といい「自炊の極致」は「自由の拡大を確信できるよう、自己とその周辺の因果を完全に統制すること」だとして「自炊の反語」は「食をセルフハンドリングすることから、もっといえば人生のセルフハンドリングのための場にすることから離脱することだ」と述べます。
こうしてみると「自炊」における「炊」とは物理的加工としての「炊事」というよりは、むしろ「自由の拡大を確信」するための「セルフハンドリング」として捉え直すべきなのでしょう。そして、ここでいう「自由」からは17世紀の哲学者スピノザによる「自由」の定義が想起されます。
スピノザはその主著『エチカ』(1677)において人間の「自由意志」を否定する一方で、自己の本性の必然性に基づいて行為することを「自由」であると定義しましたが「自分だけ」の「満足」を追求する「自炊」もまたあるいは「自己の本性の必然性に基づいて行為する」という意味での「自由」を得るための「エチカ=倫理」であるといえるでしょう。
こうした意味で「修養としての自炊」「家事としての自炊」「趣味としての自炊」「節約としての自炊」といったさまざまな「自炊」たちをメタレベルから捉え直す「倫理としての自炊」とも呼べるものを考えることができるのではないでしょうか。