かぐらかのん

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自由意志なき自由を生きる--國分功一郎『中動態の世界』

*「私が歩く」とは能動なのか受動なのか

 
我々は日々あらゆる行為を「能動(する)」と「受動(される)」に分類しています。そして外形的にはまったく同じ行為でも状況次第で例えば「仕事をする」「家事をする」「勉強をする」という「能動(する)」にもなりますし「仕事をやらされる」「家事をやらされる」「勉強をやらされる」という「受動(される)」にもなります。では、この両者はどこで区別されるのでしょうか。
 
ここで「私は歩く」という単純な動作を考えてみましょう。私は歩く。その時「私」は「歩こう」という「意志」をもって、この「歩行する」という行為を自分で遂行しているように思えます。そうであれば「私は歩く」という動作は「能動(する)」であるといえそうです。
 
しかし「歩く」という動作は人体の全身に関わっています。人体には200以上の骨、100以上の関節、約400の骨格筋があります。これらがきわめて繊細な連携をとることではじめて「歩く」という動作が可能になるわけですが「私」はそうした複雑な人体の機構を自分の「意志」で動かそうと思って動かしているわけではありません。
 
このように「私」は「歩く」という単純な動作においても「私」は自分の身体をどう動かしているのかを明瞭に意識しているわけではなく、さらにはそもそも「歩こう」という「意志」が行為の最初にあるかどうかも疑わしいことになります。実際、現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに現れてくるといわれています。
 
しかしその一方で「私が歩く」という動作を「受動(される)」として「私が歩かされる」と捉えることもまた無理があると言わざるを得ないでしょう。やはり「私」は「歩く」という意志(らしきもの)を持って歩いていると感じていることは確かです。こうしてみると「私が歩く」という動作を強いて記述するとすれば「私において歩行が実現されている」とでもいうべき事態です。しかし、このような事態は能動とも受動ともいえないでしょう。
 
このように現実の事態や行為は能動と受動の二分法で記述し切れるものではありません。しかしそれにもかかわらず我々はこの区別を使わざるを得ません。それはどうしてなのでしょうか。以上のような問題意識から、本書『中動態の世界』はかつて言語に存在し、いまや喪われた「中動態 middle voice」の世界に深く潜っていきます。
 

* 意志と責任のパラドクス

本書はまず「能動(する)」と「受動(される)」の区分を「意志」と「責任」という概念から問い直します。先述したように常識的に考えると「能動(する)」と「受動(される)」の区別は「意志」の有無にあります。そこに意志があれば能動であり、そこに意志がなければ受動であるということです。
 
では改めて意志とは何でしょうか。意志とは一般に目的や計画を実現しようとする精神の働きを指しています。その意味で意志は「意識」と結びついており、自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことであると考えられます。その一方で「意志」はさまざまなことを意識しているにもかかわらず、そうして意識された事柄からは独立した自発的な判断であるとも考えられます。
 
つまり意志とは、自分以外のものに接続されているにもかかわらず、同時にそこから切断されていなければならない精神の作用ということになります。我々はそのような実は曖昧な概念を、しばし事態や行為の出発点に置き、その原動力と見做しています。
 
こうしてみると能動と受動の区別の曖昧さとは畢竟、このような意志の曖昧さに帰着するともいえるように思えます。そうであれば我々はそのような意志などという曖昧な概念はただちに投げ捨てた方がいいのでしょうか。もちろん問題はそう単純ではありません。
 
例えば授業に遅刻してきた二人の学生がいるとして、その一人は夜中までゲームをやってて遅刻し、もう一人は夜中まで母親の介護をしていて遅刻したとします。おそらく前者は普通に叱られて、後者は同情すらされるかもしれません。こうした両者への態度の相違は前者が能動的に夜更かしをしたのであり、後者は受動的に夜更かしをせざるをえなかったという相違に求められそうです。
 
しかしながらその一方で、明日は授業があるのに夜中までだらだらとゲームをしているような人間は一般的に「意志が弱い」と呼ばれるのではないでしょうか。それがなぜか遅刻した場面になると突如、彼/彼女は自分の意志で能動的に夜更かしをしていたと見做されることになります。
 
ここからわかるのは人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、何らかの理由で責任あるものとみなしてよいと判断されたときに能動的であったと解釈されることになるということです。つまり「意志」を有していたから「責任」を負わされるのではなく「責任」を負わせてよいと判断された瞬間に「意志」の概念が突然出現するということです。すなわち、意志とは責任が生じることの効果として現れるということです。そして、この論理は授業の遅刻などいう可愛らしいケースだけでなく違法薬物の摂取といった深刻なケースにも同じく妥当します。
 
このようにみると、あらゆる行為を能動か受動かに配分するということは不正確であるばかりか乱暴とすらいえるでしょう。けれども問題となる行為が殺人や性犯罪の場合はどうでしょうか。このような場合、我々は意志とか能動といった不正確で乱暴な概念を積極的に擁護せざるを得ないでしょう。
 
このことはあらゆる行為を能動と受動に区別することや、責任を負わすために意志の概念が急に召喚されたりすることには一定の社会的必要性があることを意味しています。意志は確かに幻想かもしれません。しかし決して蔑ろにはできない幻想です。本書が述べるように、意志など幻想であり、能動や受動の区別もまやかしだと主張することは「自らがこの概念や区別にすがらずにはいられなくなる場面が訪れるかもしれないことを想像できていないだけである」ということです。
 

* 中動態というミッシングリンク

 
ところで、このように意志が責任の効果であるとすれば、能動と受動の区別も何かの効果と言えるのではないでしょうか。では何がこの効果を発生させているのでしょうか。一見すると、先に述べた社会的必要性がこの問いに対する答えのように思えます。能動と受動の区別は責任を問うために社会が要請するものだったからです。しかし社会的必要性はこの区別をあくまで要請しているだけあって、それを効果として発生させているわけではありません。
 
つまり、社会的必要性は例えば「成年」と「未成年」の区別のような外的な規範でしかありませんが、能動と受動の区別は我々の思考の中でそれがまるで必然的な区別であるかのような内的な形式として作動しています。従って我々は能動でも受動でもない状態をそう容易には想像できません。
 
このような我々の思考の奥深くで作動する能動と受動の区別という効果を発生させているものは果たして何でしょうか。ここで本書は「能動 active」と「受動 passive」とは動詞の「態 voice」を示す文法用語であることに注目します。我々は英文法などを通じてこうした「態」について学びます。そこで教わる「態」は「能動態」と「受動態」の2つであり、その2つでしかありません。
 
しかしフランスの言語学者エミール・バンヴェニストによれば、実は能動態と受動態という区別はいかなる言語にも普遍的なものではないとされます。それどころか、このような区別を根底に置いているように思われるインド=ヨーロッパ語族の諸言語においてもこの区別は少しも本質的なものではなく、その歴史的発展においてかなり後世になって出現した新しい文法規則であることが分かっています。
 
さらにバンヴェニストによればかつては能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在しており、これが能動態と対立していたとされます。すなわち、もともと存在していたのは「能動態」と「受動態」の区別ではなく「能動態」と「中動態」の区別であったということです。
 
このような受動態でも能動態でもない「中動態」なる態が存在していたという事実からは次のような仮説を考えることができます。我々がほとんど自明のものであると思い込んでいる能動と受動の区別とは、能動態と受動態という文法上の、しかも全く普遍的ではない比較的新しく導入された区別が発生させている効果であり、能動と受動という粗雑な区別も、その導入時の矛盾の表れなのではないかということです。
 

* 中動態の思考

 
このようにかつてのインド=ヨーロッパ語族においては能動態でも受動態でもない「中動態」という態があまねく存在していたとされます。ここでいう「インド・ヨーロッパ語族」とは現在の英独仏露語などのもとになった諸言語のグループ(語族)のことを指しています。これに属する諸言語は古代(少なくとも8000年以上前)よりインドからヨーロッパにかけての広い範囲で用いられていたことが分かっています。
 
これらの諸言語が持つ動詞体系には長きにわたり能動態と受動態の対立は存在せず、その代わりに存在していたのが能動態と中動態の対立でした。受動態はずいぶん後にになってから中動態の派生形として発展したことが比較言語学によってすでに明らかになっています。
 
この意味で「中動態」という名称は不正確といえます。中動態という名称は中動態が表舞台から追いやられた後の能動態と受動態の対立のもとで作られたものであり、その意味するところは能動でも受動でもない「中間的なもの」ではありません。
 
この点、本書はバンヴェニストの議論を参照し、能動態と中動態の対立とは文の主語が動詞によって示される過程の「外」にあるか「内」にあるかの区別に基づくものであるといいます。すなわち、能動態とは動詞の示す過程が主語の「外」で完遂する事態を示しており、中動態とはその過程の「内」に主語が位置付けられる事態を示しているということです。
 
そして、このような意味における能動態においては現在のように「意志」の観念は前景化していません。これは能動態と中動態を対立させる言語は能動態と受動態を対立させる現在の言語とは異なった思考の条件を形成していたことを示唆しています。例えば能動態と中動態の対立が能動態と受動態の対立に置き換えられていく端境期に位置付けられる古代ギリシアの哲学者アリストテレスの哲学には意志の概念が欠如しています。
 

* 意志の不可能性

 
ところでハンナ・アーレントはその遺作となった『精神の生活』(1978)においてこのようなアリストテレスの哲学における意志概念の欠如に注目し、アリストテレスが提示したプロアイレシスと意志の相違を論じています。
 
ここでアリストテレスのいうプロアイレシスとは理性と欲望の相互作用のもとで生じる何ごとかを「選択する」能力をいいます。こうした意味でプロアイレシスとは過去からの帰結であるといえます。
 
これに対してアーレントは意志とはプロアイレシスのように過去からの帰結ではあってはならず、過去から切断された真正の時制としての未来への「絶対的な始まり」を司る能力であるといいます。
 
アーレントの述べる定義は意志の概念を責任に結びつける意志の日常的用法を哲学的に洗練されたものであるといえるでしょう。人は何らかの行為を自らの意志で開始したからこそ、その人はその行為の責任を問われるということです。
 
このようにアーレントは意志を「開始する能力」として定義することによって、意志と選択を峻別しました。けれども意志が仮にもしそのようなものであるとすれば、それはとても存在するとは思えない不可能なものである言わざるを得ないでしょう。
 

* 中動態の世界としてのスピノザ哲学

 
先述のように行為における意志の役割は脳神経科学の知見からも強い疑いの目が向けられています。もっとも意志を行為の原動力とみなす考え方が否定されたのは今に始まったことではありません。哲学の世界において、意志なるものの格下げを最も強く押し進めたのは17世紀のオランダの哲学者、スピノザです。
 
スピノザは「自由な意志」という概念を退け、意志は「自由な原因」ではなく「強制された原因」であるとします。スピノザによればいかなる物事にもそれに対して作用してくる原因があることから、意志についてもそれを決定し何ごとかを志向するよう強制する原因があるとされます。にもかかわらず「行為は意志を原因とする」と思ってしまうのは、我々の精神が物事の結果のみを受け取るようにできており、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまうからであるといいます。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまうのです。
 
そしてスピノザの哲学には中動態の世界に通じる概念が明確に存在します。その概念とは「内在原因 causa immanens」と呼ばれるものです。スピノザは主著『エチカ』において神と万物の関係をこの「内在原因」によって定義します。ここでスピノザのいう「神」とはキリスト教的な人格神ではなく、むしろこの宇宙あるいは自然そのものを指しています。
 
そうした「神即自然」という唯一の実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在します。すなわち、万物とは畢竟、神の一部であり、しかもその作用はどこまでも神の内に留まっており、神の外部はいかなる意味でも存在せず、それゆえに神は万物の内在原因なのであるということです。つまり、スピノザが描く世界とは世界のすべてが神即自然のなかで完結する中動態の世界であるといえます。
 

* 自由意志なき自由を生きる

 
もちろん神即自然そのものは中動態的であっても、その「変状」としての個物同士については、作用するものと作用を受けるものという能動/受動の区別は残り続けます。しかし、全ての個物の「内在原因」は神即自然である以上、ここでいう能動/受動とはその「変状」の質として捉えられます。すなわち個物の変状がその本質を十分に表現しているとき、その個物は能動であり、逆に個物の本質が外部からの刺激によって圧倒され、そこに起こる変状が個物の本質をほとんど表現できていないとき、その個物は受動であるということです。
 
すなわち、ここでの能動/受動とは「十分」とか「ほとんど」というような「度合い」のことを指しています。そうであれば、ある個物がどれだけ能動に見えても完全な能動はありえず、またある個物がどれだけ受動に見えても完全な受動はあり得ません。そしてこうした意味での能動/受動の相違はスピノザの哲学における「自由」と「強制」の相違に他ならなりません。
 
スピノザは自由意志を否定しました。しかしそれは自由を追い求めることとまったく矛盾しません。むしろありもしない自由意志なるものへの信仰こそが、我々が自らの本質を十分に認識すること、すなわち自由になることを妨げるものであるといえます。このようにスピノザの哲学とは自由意志を否定することで自由を志向する哲学です。換言すれば中動態の世界を生きるとは自由意志なき自由を生きるということです。
 
もとより、あらゆる事態や行為を能動と受動に切り分ける思考は社会を維持するため不可欠です。しかしその一方で、こうした能動と受動の二分法とは絶対的な真実ではなく、あくまで一つの思考法に過ぎないことも確かです。
 
こうした思考法とは別のしかたで世界を捉える思考法があることを中動態の世界は教えてくれます。そして、このような複数の思考法をゆるやかに往還することで日々生起するさまざまな事象のなかに、これまで見えてこなかったものが見えてくることもあるではないでしょうか。