かぐらかのん

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「主人公」を生きるということ--宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』

*「価値」を創り出すということ

 
人は自分でも知らず知らずのうちに自ら作り出したさまざまなルールのなかで生きています。この点、行動療法では「言語」も「行動」の一つとして捉えられており、このうち言語の「話し手」の行動は「言語行動」といいます。とりわけ重要な言語行動として「マンド(何かの行為を要求する言語行動)」と「タクト(何かの事象を報告する言語行動)」の2つがあります。
 
これに対して言語の「聞き手」の行動を「ルール支配行動」といいます。「ルール支配行動」におけるルールは「話し手」の違いから「教示」と「自己ルール」に分類され「言語行動」の違いから「プライアンス(マンドに従うルール支配行動)」と「トラッキング(タクトに従うルール支配行動)」に分類されます。
 
そして、このような言語の「話し手」と「聞き手」は一人の人間のなかにも同居しています。例えば我々は日常において様々な事象をタクトしています。この点、ある事象を客観的に記述する言語行動を「純粋タクト」といい、ある事象を大げさに表現したり推論する言語行動を「不純タクト」といいます。例えば「友達に声をかけたけど反応がなかった」という言語行動は「純粋タクト」ですが「友達に声をかけたけど無視された」という言語行動は「不純タクト」です。
 
こうした話し手としての自分自身の「不純タクト」の積み重ねが聞き手としての自分自身の「不適切なトラッキング」を知らず知らずに強化することがあります。それゆえに行動療法においては、このような「不純タクトから不適切なトラッキングの強化へ」という悪循環を断ち切り「純粋タクトから適切なトラッキングの強化へ」という好循環を作り出していくための介入が行われることになります。
 
人は自分でも知らず知らずのうちに自ら作り出したさまざまなルールのなかで生きています。しかし同時に人は自身のルールを自身で創り出すこともできます。そして、こうしたルールの中でも人生のコンパスになるような大きなルールを行動療法では「価値」と呼びます。本作『成瀬は信じた道をいく』はこうした意味での「価値」をいかに創り出して、いかに実践していくかを物語る物語です。
 

* 何になるかより、何をやるか

本作は2024年本屋大賞を受賞した『成瀬は天下を取りに行く』の続編となります。前作では滋賀県大津市に住む主人公、成瀬あかりの中学2年から高校3年までのエピソードが収録されており、本作では高校3年から大学1年までのエピソードが収録されています。シリーズの公式サイトを見ると「かつてなく最高の主人公、現る!」「唯一無二の主人公、再び!」というキャッチコピーが並んでいます。ここまで「主人公」という要素を強調する小説も珍しい気がしますが、果たして彼女はいかなる意味において「主人公」なのでしょうか。
 
 
本作の冒頭に置かれたエピソード「ときめきっ子タイム」は成瀬という「主人公」の本質を端的に伝えるものです。大津市立ときめき小学校4年の北川みらいは10月の「ときめきっ子タイム(いわゆる総合学習の時間)」で地元で活躍している人を取材し発表することになり、班の皆に「ゼゼカラ」を取り上げたいと提案します。
 
「ゼゼカラ」とは前作で成瀬とその相方の島崎みゆきが中学の時に結成した漫才コンビです(「膳所からきましたゼゼカラです」が由来)。もともとはM-1グランプリにエントリーするためのコンビ名でしたが、いまも2人は「ゼゼカラ」として毎年8月に行われる地元の「ときめき夏祭り」で司会を務め、そこで漫才も披露しています。
 
今年のときめき夏祭りでサイフを落としたことが縁で成瀬と知り合ったみらいは、それ以来、ゼゼカラの「推し」になります。班の皆の同意を得たみらいはまず校長に取材を申し込みます(成瀬もときめき小学校の卒業生です)。校長が赴任した時点で成瀬は既に卒業していましたが、数々の(都市)伝説が語り継がれており、この学校ではかなり有名な存在だったようです。
 
次にみらい達はときめき夏祭りの実行委員長である吉峰マサルに取材しようとしていたところ、道端で偶然、成瀬本人と遭遇し、早速、次の土曜日に成瀬への取材が実現します。現在、高校3年で部活(かるた班)を引退し、京都大学の受験に向けて勉強中だという成瀬は「将来何になるんですか」という問いに対して「何になるかより、何をやるかのほうが大事だと思っている」と答えます。
 

* ACTにおける「価値」

 
この「何になるかより、何をやるかのほうが大事だと思っている」という何気ない台詞に成瀬という「主人公」の行動原理が集約されています。例えば第3世代の行動療法であるアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)のプロセスにおいてはクライエントの人生のコンパスとなる「価値」をいかに定立するかが重要な課題となりますが、成瀬のいう「何をやるか」とはまさにこうした意味での「価値」に相当します。
 
ACTでは「価値」というルールを創り出す手続きを「価値の作業」と呼びます。この「価値の作業」を行う際には次の3点が重要となります。第一に価値とは抽象的な感情や気分ではなく、具体的な行動に結びつくものです。第二に価値とは結果が仮に叶わなくとも、それを継続していきたいと思える行動のプロセスです。第三に価値とは何かの目的のための手段ではなく、ただ純粋に「それをやりたい」という理由から自由に選択したものであるということです。
 
前作でもシャボン玉を極めたり、閉店する西武大津店に通い詰めたり、坊主頭から髪の伸びる速さを検証したりと、成瀬の行動は一見すると完全に意味不明ですが、彼女はこれらの行為に一貫して「それをやりたい」という「価値」を見出していました。
 
その一方で成瀬は「やりたいこと」の結果にはあまり拘っておらず、前作において結局ゼゼカラはM-1グランプリの一回戦敗退となりますが、来年も出るのかと島崎に問われた成瀬は「来年になったらもっと別のことをやりたくなっているかもしれない。どちらにせよ、これで一生『M-1グランプリに出たことがある』といえるようになったな」と涼しげに答えています。
 
それゆえに京大受験もまた、成瀬にとっての「価値」は合格という「結果」ではなく受験という「プロセス」にあり、受験当日も「緊張はしていないが、やはりいつもの精神状態とは違うな。どんな問題が出るんだろうとか、早くやりたいなとか、気持ちが昂っている」と述べています。
 

* 宣言=コミットメントするということ

 
ところでACTでは何よりも「価値」は宣言=コミットメントされることで実質的な力を強めるといわれていますが、成瀬もやはり普段から自分の「やりたいこと」を周囲に公言しています。「大きなことを百個言って、ひとつでも叶えたら、「あの人すごい」になるという。だから日頃から口に出して種をまいておくことが重要なのだ」と成瀬はいいます。そして島崎がそれはほら吹きとどう違うのかと尋ねると、成瀬はしばらく考えた後、あっさりと「同じだな」と認めてしまいます。
 
もっとも実際に成瀬は大きなことを百個のうち一個どころではなく、かなりの割合で実現させています。例えば「いつか紅白歌合戦に出ようと思っている」というのもそのうちの一つです。「それは歌手として出るってこと?」という島崎の問いに対して成瀬は「できればそうしたいが、ライバルが多いから厳しい道になるだろう。まずはバックダンサーとか、そういうところでステージに立つのが近道だと思っている」とかなり現実的に実現可能なレベルで答えています。
 
そして大学生になって就任したびわ観光大使の初仕事でけん玉パフォーマンスを披露した成瀬は、その後、NHKの関係者に声をかけられたようで「けん玉チャレンジ」のメンバーとして見事、その年の紅白に出場することになり、ここで本作は大円団を迎えることになります。
 
ACTの臨床においてもクライエントが掲げる「価値」がその人の置かれた現状とうまく合致していないように見えることがあります。けれども掲げた「価値」がどのようなものであろうとも、それはどこかで日々の生活と必ずつながっています。そして一旦、周囲に宣言した以上はそれを実現するにはどうすればいいかをある程度、真剣に考えざるを得ないでしょう。こうした宣言=コミットメントによる効果を成瀬はよくわかっていたのではないでしょうか。
 

*「主人公」を生きるということ

 
國分功一郎氏は『暇と退屈の倫理学』(2011)において「暇と退屈」を生み出すとされる「豊かさ」の条件である「贅沢」の意味をフランスの思想家ジャン・ボードリヤールによる「消費」と「浪費」の区別から問い直し、物に付与される観念や意味としての「記号」を無限に享受する「消費」への抵抗の起点を「物そのもの」を享受する「浪費=贅沢」に見出していました。
 
その後、近年の國分氏は『目的への抵抗』(2023)において「浪費=贅沢」を「目的」からの逸脱として捉え返し、さらに『手段からの解放』(2025)において「浪費=贅沢」を「目的」と「手段」の連関から自由なものとして再定義しています。
 
つまり何かしらの目的-手段連関に囚われたものが「消費」であり、その外部に位置するものが「浪費=贅沢」であるということです。そして現代社会はいうまでもなく「消費」の論理に支配されており、そこから自由になる条件として「浪費=贅沢」の論理が位置付けられることになります。
 
さらにこの論理は物だけではなく時間にも適用できます。すなわち「消費」としての人生と「浪費=贅沢」としての人生があるということです。そうであれば、何かの目的のための手段としてではなく、ただ純粋に「それをやりたい」という理由から自由に選択された「価値」を生きるとは、まさに「浪費=贅沢」としての人生を生きるということに他なりません。
 
このように「何になるか」ではなく「何をやるか」に「価値」を見出す成瀬は自分の人生を「贅沢」なものとして生きています。それゆえにまさしく彼女は自身の人生における「主人公」を生きているといえるでしょう。