かぐらかのん

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消費社会の論理と全体主義の論理--國分功一郎『目的への抵抗』『手段からの解放』

*「消費」の外部としての「浪費=贅沢」

 
國分功一郎氏が2011年に公刊した『暇と退屈の倫理学』は第2回紀伊國屋じんぶん大賞を受賞するなどその当初から人文書としては異例の話題を呼び、公刊から10年以上経つ現在でも幅広い層に読まれ続けるロングセラーとなり、2022年に公刊された文庫版の発行部数は累計40万部を突破したといわれています。
そのタイトルの通り、消費社会における「暇」をいかに生きて「退屈」といかに向き合うかを様々な観点から考察する同書は「暇と退屈」を生み出すとされる社会の「豊かさ」の条件である「贅沢」の意味をフランスの思想家ジャン・ボードリヤールによる「浪費」と「消費」の区別から問い直します。
 
ここでいう「浪費」とは必要を超えて物を受け取ること、吸収することをいいます。そして物の受け取りは物理的な限界があるため「浪費」はどこかでその享受者に「満足」をもたらします。これに対して「消費」は物それ自体ではなく物に付与された観念や意味としての「記号」を消費します。それゆえに消費に物理的な限界はなく、その享受者にいつまでも「満足」をもたらしません。
 
つまり消費社会とは人々がむしろ「浪費」による「贅沢」することを妨げる社会であるといえます。ここから本書はマルティン・ハイデガーの退屈論とヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界論を参照し「消費」とは一線を画する「浪費=贅沢」を取り戻すことを現代における〈暇と退屈の倫理学〉として提示しました。
 
このような同書の議論はいわゆる「大きな物語(リオタール)」が失墜した後の「終わりなき日常(宮台真司)」や「動物の時代(東浩紀)」として名指されるポストモダン状況に対する優れた処方箋でもありました。そしていま再び〈暇と退屈の倫理学〉は國分氏の近著『目的への抵抗』『手段からの解放』において、さらに深く問い直されることになります。
 

* コロナ禍と「例外状態」

『目的への抵抗』は2020年10月に東京大学教養学部主催「東大TV--高校生と大学生のための金曜特別講座」における講義(「新型コロナウィルス感染症対策から考える行政権力の問題」)と2022年8月に行われた「学期末特別講話」と題する特別授業(「不要不急と民主主義」)を、それぞれ「第一部 哲学の役割--コロナ危機と民主主義」と「第二部 不要不急と民主主義--目的、手段、遊び」として収録しています。
 
どちらの講義(講話)もコロナ危機を主題としています。両者を隔てる2年間はちょうどコロナ危機が最も強く社会を揺さぶった時期に当たります。國分氏はこれら二つの講義(講話)を収めた本書はコロナの訪れとともに考え始めたこと、そしてそれを突き詰めていった挙句に考え至ったことの記録になっていると述べています。
 
まず第一部ではイタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが取り上げられます。世界的な哲学者として知られているアガンベンは2020年2月26日のイタリアの新聞「イル・マニフェスト」紙に「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態 Lo stato d'eccezione provocato da un'emergenzaimmotivata」という論考を発表して物議を醸し出しました。この論考でアガンベンはコロナウィルスの拡大を防ぐという理由で実施されている緊急措置は「平常心を失った、非合理的で、まったく根拠のないものである」と指摘し「激しい移動制限」が行われ「正真正銘の例外状態」が引き起こされていると批判しました。
 
このようなアガンベンの批判の背景にあるのが同論考のタイトルにもある「例外状態 lo stato d'eccezione」という概念です。これは行政権が立法権を凌駕してしまう事態を指しています。つまり権力(行政権)は「例外状態」を巧妙に利用して民主主義を蔑ろにしたり人々の権利を侵害していくことがあることから、アガンベンはコロナ危機によって人々が「例外状態」を受け入れつつあることに危機を抱いたということです。
 

* アガンベンの主張における三つの論点

 
ところが--当時の状況を考えればやむを得ない部分もあるとは思いますが--このようなアガンベンの主張は端的にいえば「炎上」してしまいます。けれどもアガンベンは自身の主張を揺るがすことなく、翌月には「補足説明 chiarimenti」題された二つ目の論考を発表しています。國分氏はアガンベンのこの二つ目の論考から三つの論点を取り出しています。
 
第一の論点は「生存のみに価値を置く社会」とはいったい何なのかという点です。この問題をアガンベンは「剥き出しの生 nuda vita」という概念から説明します。ここでアガンベンは人間が「生きる」ということと、ただ「生存している」ということを区別していると本書はいいます。
 
第二の論点は「死者の権利」を蔑ろにしていいのかという点です。死んだ人間に然るべき敬意を払わない社会においては生きている人間たちの関係もだんだんおかしくなっていくのではないかということです。
 
第三の論点は「移動の自由」をどう考えるのかという点です。移動の自由とは数ある自由のなかの一つではなく、人間が不当な支配から逃れるための根本条件であるということです。
 
アガンベンのいう「例外状態」の究極形態とは言うまでもなくナチス・ドイツの「全権委任法」に他なりません。それゆえに本書はアガンベンの一連の主張を社会における哲学者の役割を果たしたものであると評価します。そしてこうした「例外状態」をめぐる問題意識は第二部において「目的と自由」の関係として問い直されることになります。
 

* 目的からの逸脱としての「浪費=贅沢」

 
第二部ではコロナ危機の当時よく耳にした「不要不急」という言葉を出発点として「目的と自由」の関係が論じられます。「不要不急」とは辞書的には「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」という意味です。つまり不要不急とは「必要」に関わっています。そして「必要」と呼ばれるものは何かの「ため」になされるものであり、そこには常に何かしらの「目的」が想定されています。
 
これに対してかつて『暇と退屈の倫理学』において論じられた「浪費=贅沢」の本質とは物そのものを楽しむことであり、ここには「目的」なるものからの逸脱があります。「目的」から「はみ出た部分」にこそ人は豊かさや充実感を感じます。ところが現代社会はあらゆるものを「目的」に還元し「目的」からはみ出るものを認めない社会になりつつあるのではないかと本書はいいます。
 
すなわち、ボードリヤールのいう消費社会の論理は現代社会においてはすべてを「目的」に還元する論理と共犯関係を結んでこの社会を覆いつつあるのではないかということです。つまり「不要不急」と呼ばれるものを排除する社会の傾向はコロナ以前から少しずつ進行していたのではないかということです。
 
ではそもそも「目的」とは何なのでしょうか。ここから本書はハンナ・アーレントによる「目的」の概念を参照します。彼女は『人間の条件』(1958)において「目的とはまさに手段を正当化するもの」であると定義しています。その一方でアーレントは『全体主義の起源』(1951)において全体主義が求める人間とは「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」であるといいます。
 
つまり全体主義における模範的な人間とは常に「目的」を意識して行動する人間であるということです。しかしこれは現代でいうところのいわゆる「意識の高い」人間像そのものではないでしょうか。つまりすべてを「目的」と「手段」の中に閉じ込める消費社会の論理を徹底した時、その先に現れるものとは全体主義が求める「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」であるということです。
 
そしてアーレントは「自由」の概念について「行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない」と述べています。つまり、行為にとって「目的」が重要な要因であることは間違いありませんが、行為は「目的」を超越する限りで「自由」であるということです。その意味で人間の「自由」とは広い意味での「贅沢」と不可分だと言ってよいと本書はいいます。こうしたことから本書は「目的への抵抗」を言祝ぎます。
 

* 嗜好品とカント哲学

『手段からの解放』は次の二つのパートから成り立っています。「第一章 享受の快--カント、嗜好品、依存症」は雑誌「新潮」2023年7月号に掲載された「享受の快--嗜好品、目的、依存症」という論文がもとになっており「第二章 手段化する現代社会」は2023年8月に東京大学駒場キャンパスで行われた講話の記録がもとになっています。第一章の論文を解説したものが第二章の講話であり、従って両者は基本的に同じ話をしています。本書がこのように構成されているのは、そこに記された考えがどのようにできあがってきたのかという過程を記録する企図からです。
 
そして、ここでは『暇と退屈の倫理学』で提示された「浪費=贅沢」の概念が一段と深化を遂げています。先述のように「浪費=贅沢」とは物そのものを楽しむことです。しかし、そもそも「楽しむ」とは果たして一体何なのでしょうか。本書はこの「楽しむ」という営みを「享受」という言葉で考えていきます。ここで本書が注目するものが「嗜好品」と呼ばれるものです。
 
「嗜好品」とは辞書的には「栄養のためでなく、味わうことを目的にとる飲食物」を指しています。例えばお茶やコーヒー、お酒、タバコなどです。興味深いことに「嗜好品」に相当する言葉は英語とフランス語には存在しないそうです。その一方で「嗜好品」という日本語はGenußmittelというドイツ語の翻訳語だそうです。ここでいうGenußは「享受」とも訳されます。ここから本書は18世紀ドイツを代表する哲学者、イマヌエル・カントの批判哲学を「享受 Genuß」を軸に読み解いていきます。
 
まず本書はカント哲学の全体像をフランスの哲学者ジル・ドゥルーズによる整理を通じて概観します。周知の通りカントの主著は『純粋理性批判』(1781)『実践理性批判』(1788)『判断力批判』(1790)といういわゆる「三批判書」と呼ばれるものですが、これらは人間の持つ三つの能力について論じたものです。そしてドゥルーズはこれら三つの著作の関係を「表象」「主体」「客体」からなる三つの関係によって以下のように整理しています。
 
純粋理性批判』は人の「認識能力」を論じたものであり、ここでは「表象」と「客体」の「一致」が問題となります。『実践理性批判』は人の「欲求能力」を論じたものであり、ここでは「表象」と「客体」の「因果関係」が問題となります。『判断力批判』は人の「感情能力」を論じたものであり、ここでは「表象」が「主体」に及ぼす「効果」が問題となります。そして「嗜好=享受」はこの「感情能力」に関わっています。
 

* カントにおける4つの快

 
カントによれば人間における「快」とは4種類しかないとされます。すなわち「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」です。これらのうち「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」は高次の快とされ「快適なもの」は低次の快とされます。そして「享受」の快はこの「快適なもの」に属しています。
 
ところで「善いもの」はもとより「こうあるべき」という「目的」そのものです。また「美しいもの」「崇高なもの」もやはり最終的には「こうあるべき」に達する「合目的性」の経験です。これに対して「快適なもの」にはこうした「目的」や「合目的性」が欠けています。そこには全く「べき」は見いだせないということです。つまり高次の快と低次の快は「目的」ないし「合目的性」の有無で区別されることになります。
 
ところがこの「快適なもの」が何かしらの「目的」のための「手段」と化した場合、これは「善いもの」から区別される「間接的に善いもの(有用善)」へと転化します。この「間接的に善いもの」は人に何かしらの「満足」をもたらしますが、カントのいうところの「快」からは除外されています。こうして「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」「間接的に善いもの」は次のような四象限へ整理されます。
 
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(『手段からの解放』から引用)
 

* 消費社会の論理と全体主義の論理

 
このような四象限のうち第三象限の「間接的に善いもの」だけが「手段」の概念を持っています。この「手段」の概念こそがカントのいう「快」が第三象限には適用されない理由を示しています。「間接的に善いもの」とは「これはあの目的を達成するための手段として有用である」という仕方のみで人に「満足」をもたらしています。
 
この点、本書は「目的」からも「手段」からも自由なはずの第四象限は「目的」と「手段」の連関に閉じられる第三象限に容易に転化するといい、こうした転化は危険な問題を孕んでいるといいます。例えばアルコールを酩酊状態それ自体を「享受」するのではなく、日々の辛さから一時的にでも逃れる「目的」のための「手段」として常用するのであれば、それは依存症のリスクと隣り合わせです。
 
またアーレントが『全体主義の起源』においていかなる「手段」をも正当化するものとして「目的」の概念を批判していたのも、結局のところは「最悪の手段」が「目的」によって正当化される危険性に他なりません。それゆえに本書は「手段からの解放」を訴えます。
 
『暇と退屈の倫理学』という本はもしかして、消費社会における「浪費=贅沢」を説く一見すると「優雅な」生き方を称揚する本としても読めてしまうかもしれません。けれども消費社会の論理とは依存症の論理と表裏の関係にあり、そしてそれは「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」を求める全体主義の論理とまっすぐにつながっているといえます。
 
こうした意味で同書が提示する「浪費=贅沢」という倫理とは消費社会における「目的への抵抗」と「手段からの解放」を志向するものであり、それはいわば毒と薬の両義性を孕んだパルマコンであるともいえるでしょう。