* LGBTQの片隅から
性の多様性を考察する比較的新しい学問領域であるクィア・スタディーズは社会的には1980年代に世界各国のゲイコミュニティが直面したHIV/AIDSという問題を受けて、学問的にはフランス現代思想におけるポスト構造主義の影響の下で成立しました。日本語では「変な」「奇妙な」などと訳される「クィア」という言葉は、もともとは英語圏でゲイ男性に向けられた蔑称でしたが、やがて当事者たちによって戦略的に用いられるようになり、現在では性的マイノリティと呼ばれる当事者全体を包摂する意味を帯びるようになります。
このような経緯からとりわけ様々な性的マイノリティに光を当てていくクィア・スタディーズは当初から当事者の「差異の主張」と「普遍性に基づく連帯」という二つの指向性が胚胎していました。ここでいう「差異の主張」とは性的マイノリティとされる当事者を主体化する指向性をいいます。そして「普遍性に基づく連帯」とは社会における規範的なセクュアリティやジェンダーを問い直す指向性をいいます。
この点、周知の通り性的マイノリティは近年において「LGBTQ」という「レズビアン Lesbian」「ゲイ Gay」「バイセクシュアル Bisexual」「トランスジェンダー Trancegender 」「クィア/クエスチョニング Queer/Questioning」の頭文字をつなげた言葉で呼称されるようになりました。もっともその一方で、こうしたLGBTQの中でも更に周縁化されがちな性的マイノリティもまた存在します。本書『アセクシュアル・アロマンティック入門』は「アセクシュアル」「アロマンティック」と呼ばれる性的マイノリティに光を当てていくことで「性」や「恋」といった「好き」の「当たり前」を問い直す一冊であるともいえます。
*「好きになる」とはどういうことか
本書はまず「はじめに--「好きになる」とは」においてまずその企図を次のように提示します。近年においては「LBGT」や「LGBTQ」といった言葉で性的マイノリティの認知度が高まり、そうした人々に対する差別を問題視する考え方も広まりつつあります。しかしながら従来のLGBTに関する議論から取りこぼされてきたセクシュアリティとして「アセクシュアル」と呼ばれる人々や「アロマンティック」と呼ばれる人々がいます。そしてこうしたアセクシュアルやアロマンティックについての議論は例外的な少数者に関する議論ではなく実は多くの人々にも深く関わっていると本書はいいます。
そもそも人が誰か「好きになる」とはどういうことなのでしょうか。答えはいろいろあるでしょう。性的に魅力を感じる、恋愛感情を抱く、美しいと感じる、面白いと思う、尊敬や憧れを覚える等々。「好き」という言葉には様々な要素が含まれています。そしてこれらの要素は必ずしも結びついているとは限りません。例えば性的魅力と恋愛感情は必ずしも結びついているとは限りません。あるいは性的欲望は必ずしも実際の性交渉への欲望に結びついているとは限りません。
そしてアセクシュアルやアロマンティックと呼ばれる人々はこうした「好きになる」という漠然とした枠組みでは捉えられないような経験を言語化していく過程で性や恋愛に関する認識を精緻化してきました。それゆえにアセクシュアルやアロマンティックに関する議論は一見ありふれた日常的な営みであるとみなされがちな「性」や「恋」をより深く理解する契機にもつながってきます。
またアセクシュアルやアロマンティックの人々は社会では「いないことにされている」という問題があります。やはり誰かに性的魅力を感じたり恋愛感情を抱くことは「当たり前」であるという考え方はいまも根強く残っており、日常的な場面のみならずメンタルヘルスの専門家であってもアセクシュアルやアロマンティックを一種の精神病理と結びつけて認識していることがあります。こうしたことから本書はアセクシュアルやアロマンティックの人々が社会で周縁化されている問題についても切り込んでいきます。
* 性的指向と恋愛的指向
続いて本書は第1章でアセクシュアル/アロマンテックに関する基本概念を概説します。この点、アセクシュアルという言葉は特定の権威ある団体や学者が定義した用語ではなく、当事者自身が自らのあり方を言語化するための用語として現れました。そのため論者や文脈によって異なる意味で用いられることがあります。
そのことを踏まえた上で本書はひとまずアセクシュアルとは「他者に性的に惹かれないという性的指向」であるという、もっともよく使われる定義を用いています。これは世界最大規模のセクシュアルコミュニティであるAVEN(Asexual Visibility and Education Network)のウェブサイトで掲げられている定義です。
アセクシュアルの「ア a」という接頭辞は「否定」を意味しています。つまり文法的に言えば「セクシュアルではない」という意味です。またここでいう「性的指向 sexual orientaion」とは「どの性別の人に対して性的に惹かれるのか」を表す言葉であり、異性愛や同性愛、バイセクシュアルやパンセクシュアル(性的に惹かれるかどうかの基準に性別が無関係であるセクシュアリティ)などが含まれます。つまりアセクシュアルはいわゆるLGB(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル)と並ぶカテゴリーとして用いられているということです。
次にアロマンティックとは「他者に恋愛的に惹かれないという恋愛的指向」のことをいいます。ここで重要なのは「性的」ではなく「恋愛的」という言葉が使われている点です。ここでいう「恋愛的指向 romantic orientation」とはどの性別の人に対して恋愛的に惹かれるのかを表す言葉です。アロマンティック以外の恋愛的指向として「ホモロマンティック(同性に対する恋愛的指向)」「ヘテロロマンティック(異性に対する恋愛的指向)」「バイロマンティック(男女どちらに対しても恋愛的に惹かれる指向)」「パンロマンティック(恋愛的に惹かれるかどうかに性別が関わらない指向)」があります。
そしてこの恋愛的指向と性的指向の区別は両者が必ずしも一致しないということを意味しています。恋愛的惹かれはないけれど性的に惹かれることがある場合や、逆に性的惹かれはないけれど恋愛的に惹かれることがある場合や、性的に惹かれる対象と恋愛的に惹かれる対象が異なる場合もあるということです。
これに対してアセクシュアルやアロマンティックではない人は「アローセクシュアル」「アローロマンティック」と呼ばれます。ここでいう「アロー allo」という接頭辞は「他のものに向かう」という意味で用いられています。異性に惹かれる人のみならず同性に惹かれる人であっても他者に惹かれるという意味では同じ括りに入ります。
なぜわざわざアローという言葉が使われるのかというと、アセクシュアルやアロマンティックでは「ない」人は「普通」であるという発想を問い直すためです。すなわち「普通」とされるマジョリティの人々のあり方も性的指向や恋愛的指向の一つとして位置付けられるものにすぎないということです。
* マイクロラベルという実践
このような様々な種類の「惹かれ」を切り分ける考え方を「スプリット・アトラクション・モデル split attraction model:SAM」と呼びます。例えば「異性に恋愛感情を抱きつつ、誰にも性的に惹かれない」という人は「ヘテロロマンティック・アセクシュアル」であり、また「誰にも恋愛感情は抱かず、どの性別の人にも性的に惹かれる」という人は「アロマンティック・パンセクシュアル」であり、あるいは「恋愛感情を抱く相手は同性で、セックスしたいと思う相手は異性だ」という人であれば「ホモロマンティック・ヘテロセクシュアル」であるといえます。
またアセクシュアル/アロマンティックとアローセクシュアル/アローロマンティックの間を連続的なスペクトラムとして捉える言葉として「グレーセクシュアル」や「グレーロマンティック」という言葉があります。さらに詳しい要素を言い表す言葉(マイクロラベル)として「デミセクシュアル/デミロマンティック(基本的に他者に性的/恋愛的に惹かれることはなく、情緒的なつながりができた相手にのみ性的/恋愛的惹かれを抱くことがある)」「リスセクシュアル/リスロマンティック(他者に性的/恋愛的に惹かれることはあるが、相手からその感情を返してほしいとは感じない)」「エーゴセクシュアル/エーゴロマンティック(性的/恋愛的表現を愛好したり性的/恋愛的空想をしたりするが、自ら性愛/恋愛に参与したいとは望まない)」などがあります。
そしてこのような様々なマイクロラベルを含めた総称としてAro/Aceという言葉が使われることがあります。アセクシュアル・スペクトラムについて包括的に表す言葉がAceであり、アロマンテック・スペクトラムを包括的に表すのがAroです。このように一方でマイクロラベルの細分化によって多様な経験を言語化しつつ、他方でさまざまなマイクロラベルを包括する総称によって連帯を志向するという実践が当事者によって行われてきたと本書はいいます。
こうしたアセクシュアルやアロマンテックおよびマイクロラベルは自身が何者かを理解し、似たような経験やあり方をしている人同士のつながりを作るための言葉であると同時に、誰もが他者に性的/恋愛的に惹かれるものだという考え方が支配的な社会通念を問い直す言葉です。そしてそれはまさにクィア・スタディーズの掲げる「差異の主張」と「普遍性に基づく連帯」に連なる営為であるといえるでしょう。
* 強制的性愛・恋愛伴侶規範・対人性愛中心主義
第2章では性科学や精神医学を参照しつつ英語圏と日本におけるAro/Aceの歴史的な位置付けが紹介され、第3章では日本におけるAro/Aceの人口割合やAro/Aceにおける属性と傾向が説明され、第4章ではAro/Aceの人々が被る差別や周縁化について述べられます。
第5章ではクィア・スタディーズにおけるAro/Aceの研究が紹介されます。この点、クィア・スタディーズではマジョリティを基準とする「規範」についての批判が重要視されますが、ここでセクシュアリティに関する規範としてまず挙げられるのが「異性愛を当然のものとして誰もが異性愛者であるはずだ」とみなす「異性愛規範 heteronormativity」です。
もっとも異性愛が相対化され同性愛差別が批判されたとしても、それでもなお取りこぼされる「誰もがセックスを欲望するはずだ」という思い込みを問い直すため生まれた概念が「強制的性愛 compulsory sexuality」です。また「一対一の恋愛や結婚には特別な価値がある」という思い込みは「恋愛伴侶規範 amatonormativity」と呼ばれます。
これらの概念は英語圏に由来するものですが、日本語圏でも草の根的に提起されてきた関連概念として「対人性愛中心主義」が挙げられます。これはマンガやアニメなどのいわゆる「二次元」の性的創作物を愛好しつつ生身の人間に性的惹かれを経験しない、という人々が使い始めた言葉です。本書がいうように、こうした人々は一見するとアセクシュアルとは無縁のように思われるかもしれませんが「生身の人間には性的惹かれを経験しない」という点でアセクシュアルの人々と重なる部分があるといえます。
* Aro/Aceの議論を通して見えてくるもの
第6章ではポスト構造主義を代表する思想家の一人であるミシェル・フーコーのテクストに依拠しながら、様々な性的/恋愛的な規範を生み出す「セクシュアリティの装置」が論じられ、第7章ではセクシュアリティと婚姻や親密性との結びつきが論じられ、第8章ではセクシュアリティとジェンダーの関係が論じられます。
そして本書のまとめとなる第9章ではAro/Aceの議論を通して見えてくるものが論じられています。例えば「非モテ」と呼ばれる言葉の裏には恋愛経験や性経験がなければ「一人前」ではないかのような価値観があり、また「友達以上、恋人未満」という言葉の裏には恋愛の方が友情よりも強いという親密関係の序列化があります。けれどもAro/Aceをめぐる議論を知ることによって、こうした固定観念を相対化する思考を身につけることができるのではないでしょうか。
また本書はAro/Aceの観点からメディア表現や歴史資料を読み解く方法を提唱しています。その一つ目のアプローチはセクシュアリティに関するメディア表現を読み解く上で強制的性愛や恋愛伴侶規範という問題を念頭に置いておくということです。それによって「誰もが性的欲望を持っている」とか「性的惹かれや恋愛感情がなければ満ち足りた人生になりえない」などといった価値観を前提とした表現になっていないかといった問題提起ができるようになります。
その二つ目のアプローチはAro/Aceを自認している人物(キャラクター)だけに限定せずに、より広くAro/Ace「的」なあり方を見出していく読解方針です。すなわち、ある人物(キャラクター)におけるAro/Ace「的」な瞬間を拾い上げ、それがどのように描かれているか、どのように扱われているかといった点に注目するということです。こうした読解実践は歴史研究や文芸批評にこれまでにない新たな視座をもたらすことができるでしょう。
* さまざまな「好き」のかたちに出会い直すために
さらに本書はAro/Aceの観点からマンガやアニメなどの「二次元」の創作物を愛好する営みに関する議論を読み直していきます。例えば精神科医の斎藤環氏は日本におけるオタク系文化を論じた古典的名著『戦闘美少女の精神分析』(2000)において「多重見当識」という概念で二次元と三次元において異なるセクシュアリティを持つ「おたくのセクシュアリティ」を論じていますが、このような意味での「多重見当識」を本書は性的指向と恋愛的指向を切り分けるスプリット・アトラクション・モデルと同じように、二次元での指向と三次元での指向を切り分ける「複数的指向」として読み直しています。
こうした視座からは例えば「フィクト・セクシュアル(虚構性愛:架空の存在に対して性的に惹かれるセクシュアリティ)」と呼ばれる人々の経験を言語化することができるでしょう。二次元というものの意義を考えることは、Aro/Aceの観点からも重要であると本書はいいます。
もとよりこうしたAro/Aceの観点は現代思想シーン全体にも多大なインパクトをもたらすものがあるように思われます。例えばゼロ年代を代表する批評家である東浩紀氏は『動物化するポストモダン』(2001)において近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘し、オタク系文化における「シュミラークル(マンガやアニメなどのコンテンツ)」と「データベース(コンテンツを生成する情報の束)」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しているといい、このようなポストモダンにおける主体もまた「シュミラークル」に没入する動物的欲求と「データベース」に介入する人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けています。
もっともその一方で東氏はこのような動物的欲求と人間的欲望の区別になぞらえて「性器的な欲求」と「主体的な「セクシュアリティ」」を区別したうえで、二次元の性的表現を愛好することは「ほとんどの場合」「主体的な「セクシュアリティ」」として(とりわけ男性オタクにとっては)引き受けられていないとしています。
しかしながら、上述したようにAro/Aceの観点から「多重見当識」を「複数的志向」として読み直した場合、東氏のいう「性器的な欲求」とは例えば「フィクト・セクシュアル」いった形で「主体的な「セクシュアリティ」」として引き受けられている(あるいは引き受けさせられている)可能性があるといえます。そうであれば、ここから「主体とは何か」「欲望とは何か」という大きなテーマがラディカルに問い直されることになるでしょう。
そして同時に本書は読書の醍醐味を再認識させてくれる一冊でもあるといえます。本年の新書大賞を受賞したベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)の著者である文芸評論家の三宅香帆氏は日本社会における労働と読書の関係を論じる同書において読書とは〈文脈〉によって紡がれるものであると述べています。すなわち読書とはある特定の〈文脈〉の下で開始されるものですが、その過程においてこれまでの自分にとって無関係だった〈文脈〉に出会うことこそが読書における醍醐味であるということです。
こうした意味でアセクシュアル/アロマンティックという〈文脈〉を切り口として、社会学、クィア・スタディーズ、ポスト構造主義、サブカルチャー論といったさまざまな〈文脈〉に開かれた本書はこうした〈文脈〉を往還する中でこれまでにない新たな「好き」のかたちに出会い直すことができる一冊にもなるのではないでしょうか。



