*〈父〉と〈母〉の分裂
日本哲学を代表する哲学者の一人である九鬼周造は1988年(明治21年)に男爵九鬼隆一の四男として東京に生まれました。九鬼家の祖先は戦国時代に伊勢志摩を本拠として活躍した伊勢水軍です。周造の父、九鬼隆一は1852年(嘉永5年)の生まれで、伊丹の綾部藩に仕える武士でしたが、維新後は福沢諭吉門下で英学を修め、その後文部省に入り、駐米特命全権公使、帝国博物館総長等を歴任します。その一方で隆一は美術行政も手掛け、近代日本美術の開拓者として知られる岡倉天心と共に日本の古美術の発掘に尽力し、自身でも日本の美術を論じた著作を公刊しています。
周造の母、波津は京都の祇園の出とされています。隆一が駐米公使として渡米した際には同行し、米国在住中に後に周造となる子を身籠ることになります。隆一は日本で出産させようとして、身重の妻を天心に託して先に帰国させることにしましたが、このことがきっかけとなり波津と天心は恋に落ちます。やがて波津は隆一との別居を経て離縁に至り、その後、精神病院に入り、そこで亡くなります。
このような母の悲劇は幼き日の九鬼に大きな分裂をもたらしました。そして、こうした幼少期の家庭環境がのちの九鬼哲学の原風景となります。田中久文氏は『九鬼周造』(2022)において「一つ屋根の下に〈父〉と〈母〉とが生活する光景を見たことがない九鬼にとって、〈父〉と〈母〉とは分裂した存在であり、両者を対のものとしてみる視点が育たなかった」「このことは九鬼を〈父〉からも〈母〉からも独特の距離で引き離すことになったものと思われる」と述べています。
幼少期を〈母〉と共に過ごした九鬼はいわば〈父〉の不在の家庭に育ったといえます。しかし〈父〉は全く存在しないわけではなく、時に九鬼は〈父〉の家を訪れなければなりませんでした。それゆえに強いて言えば〈父〉は不在の形で存在しており、そうした関係からは当然ながら〈父〉との激しい葛藤といったものも生まれようもありませんでした。
また九鬼には実父である隆一の他に岡倉天心という、もう一人の〈父〉がいます。幼少期の九鬼は天心に懐いており、自分の本当の父親は実は天心ではないかとさえ疑ったこともあるようです。近代日本美術史に名を残すこのもう一人の〈父〉は九鬼にとって芸術や美の源泉でもありました。しかしその一方で九鬼にとって天心は〈母〉を悲劇に陥れた張本人でもあります。それゆえに九鬼はもう一人の〈父〉とも独特の精神的距離を置かざるをえませんでした。
そして実の〈父〉と別居していた幼少期の九鬼は〈母〉に甘える子供であったようです。日本の家庭においては子供の精神形成に大きな影響を与えるのは〈父〉よりもむしろ〈母〉である場合が多いといわれます。しかし九鬼の甘えた〈母〉とは子を無限に包容する地母神的存在ではなく、二人の男の間で激しく揺れ動いている生身の女でした。しかも最後には〈母〉の精神そのものが崩壊していくことになります。
以上のように九鬼は〈父〉の権威を柱に置いたエディプス的家族からも〈母〉との一体化を基盤とした日本的な母性家族からも無縁な幼年期を送っているといえるでしょう。しかし同時にこのことは九鬼が近代社会の基礎をなす近代的な〈家族〉という制度からもっとも自由な立場にいたことをも意味しています。後に九鬼は近代哲学のドグマを次々に批判していく哲学を展開していくことになりますが「彼の哲学における批判性と独創性をもたらしたものとは、こうした幼少期の不幸な家族関係にあったかもしれない」と田中氏は述べています。
* 友情と恋の青春を経て
1905年(明治38年)に17歳で第一高等学校に入学した九鬼は当初は外交官になるつもりだったそうですが、やがて哲学を志すようになり、1909年(明治42年)、21歳で東京帝国大学文科大学哲学科に入学します。
一高と東大を通じてもっとも親交の深かった友人である岩下壮一は学者としての将来を嘱望されながらもカトリックの司祭となり、ハンセン病療養所の神山復生病院の院長となった人物です。九鬼は岩下からカトリックの感化を多大に受けており、東大在学中に神田聖フランシス・ザビエル教会で洗礼を受けており、一時は北海道のトラピストの修道院へ入ろうかと思ったことさえあったといわれます。
そして岩下との交流を重なる中で九鬼は彼の妹とも自然と親しくなり、やがて彼は彼女に恋心を抱くことになります。二人の仲は一時は結婚を考えるところまで深まったようですが、やがて兄と同様にカトリック信仰の厚かった彼女は修道女となり、その淡い恋は破局に終わることになります。九鬼はある随筆で聖フランシスの『小さき花』に触れつつ、青年期を回顧して次のように書き残しています。
私には『小さき花』に絡んで魂のどこからともなく浮かんでくる聯想がある。それは卓抜な学才をもちながらカトリックの司祭になって富士の裾野ちかく癩病院の経営に身を捧げている私の同窓の旧友と花のような容姿を惜しげもなく捨てて聖心会の修道女になって黒衣に銀の十字架を下げている彼の妹とのことである。こういう清純な記憶が私の頭の片隅か心臓の底かどこかに消えないで残っているのは、私にとっても限りもない幸福である。「書斎漫筆」(『九鬼周造随筆集』所収)
九鬼が青年期に味わったこの悲恋もまた彼の精神形成に大きな影響を与えることになったと思われます。田中氏は「彼の幼少期における〈父〉と〈母〉との統合されざる世界は今度は〈男〉と〈女〉との統合されざる世界として彼に迫ってきたのである」と述べています。
* 近代哲学との対峙
九鬼はまずドイツのハイデルベルク大学で新カント派の西南学派の中心人物ハインリヒ・リッケルトに師事します。リッケルトの哲学とは近代哲学の父イマヌエル・カントのいうところの「叡智的世界」を超越的な「価値」の世界として解釈したものであり、この哲学は日本で大正期に流行し、大正教養主義の理論的支柱ともなりました。これまで家庭の崩壊や異性との別離などによって〈父〉と〈母〉や〈男〉と〈女〉が分裂した世界を生きてきた九鬼がリッケルトに学ぼうとしたのは「そうした世界の分裂を超えた、超越的価値に基づく自己の一貫した〈同一性〉を保証してくれる理論がそこにあると考えたからであろう」と田中氏は述べています。
しかし九鬼は西洋の自由な雰囲気の中で次第に〈生〉の官能に対する自覚を深めていくことで、理性を重視する新カント派の理論が自己の〈生〉の実相からあまりにも遠いものであることに気づいていきます。こうしたことから九鬼は新カント派から決別し、フランスで人気を博していたアンリ・ベルクソンの〈生〉の哲学に惹かれていきます。九鬼がベルクソンの哲学から学んだものは人間の〈生〉は瞬間ごとに変化していくものであり、それゆえにその瞬間ごとに生命を燃焼させていくべきであるという考え方でした。ベルクソンはこうした生命のあり方を「純粋持続」と呼びます。九鬼はこうしたベルクソンの哲学に出会うことによって初めて人間の〈生〉の本質は〈同一性〉にあるのではなく〈異質性〉にあるのだと言うことに気づくようになります。
ところがやがて九鬼はこうしたベルクソンの哲学にも満ち足りないものを感じるようになります。ベルクソンの哲学に導かれて自己の〈生〉を掘り下げていった結果、そこで九鬼が出会ったものは彼のいう「寂しさ」に満ちた〈無〉の世界でした。どんなに生命を燃焼させようとも、その根底には常に〈無〉が控えていることに気づいた九鬼が出会ったのが、当時ドイツで注目されつつあったマルティン・ハイデガーの〈無〉の哲学です。
九鬼が「寂しさ」という感情から〈無〉に突き当たったのと同様にハイデガーは「不安」という「気分」から〈無〉が開示されると説いています。九鬼はこうしたハイデガーの哲学を媒介としてベルクソンの哲学では解決できなかった自己の〈生〉の実相を明らかにしようとしますが、やがてハイデガーの哲学にも不満を覚えるようになり、そこからハイデガーを超え出る独自の哲学を構想するようになります。
* いきと現在--九鬼哲学の胎動
この点、ハイデガーのいう「不安」は人間に孤独を迫るものでしたが、九鬼のいう「寂しさ」とは人間に孤独を教えるものである一方で、他者との交わりを求めるものでもあります。九鬼は自らの〈無〉の哲学を作るためにはハイデガーの哲学では十分に展開されていない他者との出会いの問題を理論化する必要がありました。そしてこのような問題に対して答えようとしたのものが彼の「いき」の哲学です。
九鬼はパリ滞在中の1926年(昭和元年)に「「いき」の本質」という未発表の論文を書いており、帰国後の翌年の1930年(昭和5年)には『「いき」の構造』を公刊しています。同書において九鬼は「いき」というものを男女が無限に近づきながらも決して合一することなく、あえてその緊張関係を楽しむ心境として理解しています。この点、九鬼によれば「いき」とは「媚態」「意気地」「諦め」という三つの契機から成り立っており、人が「寂しさ」をその内に抱えたまま他者との出会いと別れを自在に楽しもうとするものです。こうした「いき」の世界において九鬼は自己の哲学の突破口を見出そうとしました。
またハイデガーの場合、その時間論の特色は「現在」に対して「将来」が優位するものであり、このような「将来」を中心とした「脱我」という時間構造が不断に〈無〉を生み出していくものと考えられていました。これに対して九鬼は帰国の途につく1928年にパリで行った「時間の観念と東洋における時間の反復」という講演においてハイデガーの説く「脱我」的な時間というものは「水平的脱我」としての現象学的な時間であるとして、そうした「水平的」な時間に垂直的に交わる「垂直的脱我」としての超越的な時間というものがあると述べています。このような時間論において九鬼は自己の底に永遠なるもの、超越的なるものを探ろうとしていました。
以上のような他者論と時間論という二つの観点から九鬼はハイデガーを超え出る新しい哲学を模索していくことになり、このベクトルの異なる二つの試みはやがて後に「偶然性の哲学」として見事に統合されることになります。
* 必然性と偶然性--九鬼哲学の精華
九鬼は1928年(昭和3年)に足かけ8年に及ぶ西洋留学にピリオドを打ち、翌年には京都帝国大学文学部哲学科講師に就任し、1932年(昭和7年)には京都帝国大学に「偶然性」と題された学位論文を提出します。そして1935年(昭和10年)に『偶然性の問題』を公刊します。九鬼の主著と呼ぶべき同書を田中氏は「問題意識の現代性においても、思索の徹底性においても日本の近代哲学の最高の成果の一つ」であると述べています。
同書において九鬼は「必然」と「偶然」を「定言的」「仮説的」「離接的」という三つの位相から論じています。このうち三つの「必然」に共通する性格が〈同一性〉です。すなわち、同書のいう「定言的必然」「仮説的必然」「離接的必然」とは、それぞれ西洋の近代哲学における概念の〈同一性〉、因果の〈同一性〉、形而上的絶対者の〈同一性〉に対応しています。
これに対して九鬼において「偶然」とは「必然」の持つ〈同一性〉が崩れ、一者としての「必然」に対して他者が措定されることによって成立するといいます。そして同書のいう「定言的偶然」「仮説的偶然」「離接的偶然」とは一体のものであるとされます。一般概念に対する「個物および個々の事象」である「定言的偶然」の核心には、因果関係の外にある「一の系列と他の系列との邂逅」である「仮説的偶然」があり、さらにその核心には「邂逅しない」ことも可能でありえたという「無いことの可能」があります。つまり「偶然」とは〈同一性〉が崩れた後の一者と他者との統合されることのない分裂としての〈二元性〉のことであるということです。
これまで〈父〉と〈母〉や〈男〉と〈女〉といった様々な形で他者との出会いと別離を繰り返してきた九鬼にとって、個物としての「定言的偶然」とは孤独な「寂しさ」であり、邂逅としての「仮説的偶然」とは人の儚い出会いと別れであり、そして他の可能性もありえたという「離接的偶然」とは寄る辺のない〈無〉であったということです。
そして九鬼が目指したものは近代哲学のような偶然性を拒否した必然性ではなく、そうした偶然性を十分に含み込んだ必然性というものでした。その結果「定言的必然」「仮説的必然」「離接的必然」はそれぞれ、従来の近代的自我から絶えず生成変化する偶然的意識を統合する動的な自己の姿へと、従来の自然法則や道徳法則から自在なあり方としての〈自然〉というものへと、従来の神から偶然の中に見出される必然としての〈運命〉へと移行することになります。
*こうでなくてもよいがこうなってしまっている--九鬼周造と現代思想の倫理
このように九鬼は必然性というものを新たな形で捉え直すことによって初めて、従来の硬直化した〈同一性〉の世界から手を切り、常に偶然性に対して身を開き、偶然性を含み込んだ自由でしなやかな生き方が可能になると考えました。そしてそれは具体的には、ある個性ないし特異性を抱え込んだ人間(定言的偶然=必然)が、他者との偶然的な邂逅(仮説的偶然=必然)を常に真摯に受け止めることで、自己の〈運命〉を愛していくという生き方(離接的偶然=必然)として提示されることになります。
こうした九鬼哲学が提示する必然性から偶然性に身を開いていく生き方とは、いわば〈無〉のざわめきを愛でる生き方であるともいえるでしょう。例えば千葉雅也氏は『意味がない無意味』(2018)においてポスト・ポスト構造主義の代表的な論客の一人であるカンタン・メイヤスーの思弁的実在論と九鬼哲学の類似性を指摘しつつ、九鬼哲学の特徴として「無の複数性」という問題を取り上げています。同書において氏は九鬼の描く世界とは「異なる此性を持つ複数的な無の寄せ集め」であり、このような「無の此性」が「無限の可能性の剰余を遮断」し、世界を「こうでなくてもよいがこうなってしまっている」ということを「孤立的に肯定」していると述べています。
そして千葉氏は『現代思想入門』(2022)において同一性を他者性の泡立ちの中で絶えず生成変化していく仮固定的なものとして捉えた上で、こうした他者性の泡立ちを引き受けていく生き方を倫理として提示していますが、おそらくそれは世界を「こうでなくてもよいがこうなってしまっている」ということを「孤立的に肯定」する倫理であるともいえるでしょう。こうしたことから現代思想の倫理を近代哲学における大きな流れの中で捉え返す上で新カント派、ベルクソン、ハイデガーといった近代哲学の巨峰との邂逅と葛藤から生み出された九鬼哲学は極めて重要な参照点であるといえるのではないでしょうか。


