かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

疾走する差異の反復--今村夏子『むらさきのスカートの女』

* 今村作品におけるひとつの到達点

 
令和初の芥川賞作家となった今村夏子氏は大学を卒業後、工場や電話代行や警備会社やホテルの客室清掃などのアルバイトなどを転々として、29歳の時にバイト先から「明日休んでください」といわれたのがきっかけで、どういうわけか「小説を書こう!」と思い至ったそうです。こうして書き上げられたデビュー作『あたらしい娘』は2010年に第26回太宰治賞を受賞し、その後、同作は『こちらあみ子』と改題されて単行本化され、2011年には第24回三島由紀夫賞を受賞します。
 
一見して平明でありながらもどこか不穏さを孕んだ文体、純粋無垢な感性の持ち主であるがゆえに異端扱いされる主人公、しばし「世界文学」とも評される時代や地域を超越した普遍性を帯びた物語。こうした今村作品の根幹をなす諸要素はすでにこのデビュー作において極めて過激な形で表出しています。同作は公刊当時から書評家や書店員から高く評価されており、公刊後10年余りの時を経た2022年には森井勇佑監督、大沢一菜主演で映画化され再び脚光を浴びることになります。
 
三島賞受賞時の選考委員を務めた町田康氏は同作の文庫版解説で「『こちらあみ子』は、いろんな面があって、いろんな風に読み、いろんな風に感じることができ、それがこの小説の凄みになっているのだが、そのひとつとして、もし仮に、一途な愛、一途なもの、がこの世にあるとしたら、それはこの世で一途に愛することのできる人間はどんな人間か、その一途な愛はこの世になにをするのか。一途に愛する人はこの世になにをされるのか。といったことがある」といい「それらはすべて小説に書かれてある」と述べます。また穂村弘氏は「現代社会で「ありえる」ために、私は様々なものに意識を合わせようとする」「ただ、「ありえない」の塊のようなあみ子をみていると勇気が湧いてくる。逸脱せよ、という幻の声が聞こえる」と述べています。
 
このように思いがけず鮮烈なデビューを果たしてしまった今村氏の当時の心境は「どうしよう。もう書くこともないのにほめられて」だったそうです。そして三島賞受賞決定後の電話インタビューでは「今後書く予定はない」というような趣旨のことを述べており、それから5年近くもの間、2014年の文庫版「こちらあみ子」に併録された短編を除き、作品の発表は途絶えていました。
 
ところが2016年、福岡で創刊された『たべるのがおそい』という名の地方文芸誌で唐突に新作が発表されます。この『あひる』という作品は第155回芥川賞候補作に挙がり、惜しくも受賞は逃すも同作を収録した短篇集は第5回河合隼雄物語賞を受賞します。そして2017年に公刊された『星の子』は再び第157回芥川賞候補作に挙がり、第39回野間文芸新人賞を受賞します。同作もまた2020年に大森立嗣監督、芦田愛菜主演で映画化されています。
そして、満を持した形で第161回芥川賞を射止めることになった作品であると同時に今村作品におけるひとつの到達点を示した作品こそが2019年に公刊された本作『むらさきのスカートの女』です。
 

*「わたし」とむらさきのスカートの女

 
 
本作のあらすじは次のようなものです。語り手である「わたし」の近所には「むらさきのスカートの女」と呼ばれている女性が住んでいます。彼女はいつもむらさき色のスカートを穿いているので皆からそう呼ばれています。むらさきのスカートの女は遠目から見ると中学生くらいに見えなくもないですが「わたし」によればそこまでは若くはないようです。
 
彼女は一週間に一度くらいの割合で商店街のパン屋にクリームパンを買いに行きます。近所の公園には「むらさきのスカートの女専用シート」と名付けられたベンチがあります。むらさきのスカートの女はパン屋でクリームパンを1個買うと、例外なく商店街を抜けて、この公園に来て「むらさきのスカートの女専用シート」に座って買ったばかりのパンを食べます。
 
むらさきのスカートの女は近所では有名人で、商店街を歩いていると人々の反応は4つに分かれます。知らんぷりをする者、サッと道を空ける者、良いことがあるかもとガッツポーズをする者、反対に嘆き悲しむ者。むらさきのスカートの女を1日に2回見ると良いことがあり、3回見ると不幸になるというジンクスがあります。
 
最近、近所の子供たちの間で流行っている遊びにジャンケンで負けた人間がむらさきのスカートの女にタッチするという遊びがあります。この遊びはもともとはタッチじゃなくてむらさきのスカートに女に向かって一声かけるというルールでしたが、最近になって「飽きたから」という理由でルールが改正されたようです。
 
「わたし」はいつもむらさきスカートの女の近くから彼女の挙動を観察しています。観察するたび誰かに似ているなと「わたし」は思います。その「誰か」は姉であったり、フィギュアの選手であったり、小学校時代の友達だったり、中学時代の同級生だったり、ワイドショーのコメンテーターだったり、前に住んでいた街のスーパーのレジの人だったりとその都度その都度変わります。つまり何がいいたいかというと「わたし」はむらさきのスカートの女と友達になりたいということです。
 
もちろん「わたし」はむらさきのスカートの女の住所などとっくに特定済みで、公園からほど近いところにあるボロアパートの一番奥の部屋の201号室に彼女は住んでいます。むらさきのスカートの女はこれまでずっと日雇いか期間工のような仕事を転々としており、現在は無職です。「わたし」は「むらさきのスカートの女専用シート」にさりげなく求人情報誌を置き、彼女が手に取るのを待っています。その情報誌のあるページには蛍光マーカーで丸がしてあります。そして何件もの面接に落ち続けた後、むらさきのスカートの女こと日野まゆ子はようやく「わたし」の職場である清掃会社に採用されることになります。
 

* 新たに加わった「疾走感」という要素

 
昨年ベストセラーとなった『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の著者である文芸評論家の三宅香帆氏が「推し(=好きな作品)」を語るために役立つ様々なノウハウを紹介する近著『「好き」を言語化する技術』(2024)には「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない」というサブタイトルがついてますが、かつて芥川賞の受賞後くらいにこの『むらさきのスカートの女』という作品を初めてを読んだときは、それこそ「やばい!」くらいしか感想が思い浮かばなかったことをいまだに覚えています。そこで今回は同書が紹介する推し語りのノウハウを手がかりとして「やばい!」以上の何かが言えないかを考えていきたいと思います。
この点、同書は感情を言語化するためのプロセスとして創作物に対する面白さを「共感」と「驚き」に分けることを提案しています。ここでいう「共感」とは自分も同じような体験や感情を知っていて、それをぴったりくる言葉にしてもらったことをへの快感をいいます。これに対して「驚き」とはそれまで見たことのないような未知の手法に出会ったときの快感をいいます。ここから「共感」の場合は自分の体験や好きなものとの共通点を探し「驚き」の場合はどこが新しいと感じたのかを考えることで感情を言語化していくことになります。
 
このような同書が提示する「共感」と「驚き」の二分法からいえば本作はもちろん登場する人物の境遇や心境に共感できる要素も少なからずありますが、まず何より本作の小説としての面白さは大きく「驚き」によるものと思われます。もっとも一言で「驚き」といっても、そこには「困惑」というべき「小さな驚き」もありますし「驚愕」というべき「大きな驚き」もあります。こうした観点からいえば従来の今村作品における「驚き」はどちらかというと「困惑」が8割くらいで「驚愕」が2割くらいという印象があります。ところが本作に関しては「困惑」と「驚愕」のバランスがかなり拮抗しており「困惑」の先に「驚愕」があり、その先にまたさらに「困惑」が待ち受けているといった展開になっています。
 
そして、こうした「困惑」と「驚愕」の掛け合わせによる相乗効果としてテクストに「疾走感」が宿ることになります。すなわち、本作はこれまでの今村作品の根幹を成していた「不穏さ」「純粋性」「普遍性」に加えて、このような「疾走感」を強く押し出した作品であったように思えます。
 

* リズムとしてのテクスト

 
また「共感と驚き」とは換言すれば「反復と差異」から成り立つ一種のリズム経験であるといえます。この点、千葉雅也氏は近著『センスの哲学』(2024)において「リズムの経験とは、「反復の予測と、予測誤差という差異」のパターン認識である」といいます。
イギリスのカール・フリンストンらは生物のいろんな機能は「予測誤差を最小化する」という原理で説明できるという「自由エネルギー原理」と呼ばれる理論を提唱しました。すなわち、この「予測誤差を最小化する」という原理からいえば、人はバラバラに見える並びにも何らかの意味あるいは物語を見出そうとします。
 
つまり人間は予測通りという「快」を求めるというのがベースにあり、ある反復の後に差異がくるという「不快」の経験を習慣化=リズム化しようとします。しかしながら、その一方で本来「不快」なはずのものである予測誤差それ自体にある種の快を見出すことがしばしあります。
 
こうした人間の一見矛盾する行動原理を精神分析の始祖ジークムント・フロイトは「死の欲動」という概念によって理論化し、予測誤差がもたらす「不快かつ快」といった状態をフランスの精神分析ジャック・ラカンは単純な「快楽」と区別して「享楽」と呼びました。
 
こうしてみると困惑と驚愕が折り重なり合うことで生み出される疾走感に満ちた本作は反復に対して差異が生じるというよりもむしろ差異が反復しているとさえいえるでしょう。そして、こうした差異の反復は以前の出来事を「じつは」の論理で遡及的に訂正し、そこから生じるダイナミズムがさらに「疾走感」を加速させ、そこには物語の意味をオミットした純粋なリズムとしてのテクストの享楽が宿ることになります。
 

* 疾走する差異の反復

 
三宅氏は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で近代以降の日本社会における「読書」と「労働」の関係を俯瞰的に検証し、現代において読書は「ノイズ」になってしまったといい、このような現象を「文脈(コンテクスト)」という観点から論じています。
すなわち、読書は「文脈」によって紡がれるものであり、人は基本的に自身の関心のある「文脈」に基づいて読みたい本を選びますが、一冊の本の中にはさまざまな「文脈」が収められていることから、ある本を読んだことがきっかけで「好きな作家」や「好きなジャンル」といった新しい「文脈」を見つけることもあります。このように読書の醍醐味とはこれまで自分と無関係だった新しい「文脈」に触れることにあるともいえますが、このような新しい「文脈」に触れるだけの余裕がなければ、それは単なる「ノイズ」になってしまうということです。
 
もっとも他方で、このような読書におけるノイズを千葉氏のいうリズム経験から捉え直してみると、それは「差異=予測誤差」に対する拒絶反応であるといえるでしょう。そうであれば、こうした「差異=予測誤差」に対する拒絶反応をいかに乗り越えるかという問いが読書がノイズとなった時代における文学には課せられているといえるでしょう。
 
果たして本作はこれまでの今村作品の根幹を成してきた不穏さ、純粋性、普遍性をベースとして、そこに困惑と驚愕から織り成される疾走感を過剰なまでに加えていきます。そしてこうした疾走感という名の差異の反復こそが読書におけるノイズを享楽へと転換していくための回路を切り開いていきます。こうした意味で本作は読書がノイズになった時代における文学からのすぐれた回答であったようにも思えます。