かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

Critically Queer--藤高和輝『バトラー入門』

* クィアスタディーズとパフォーマティヴィティ

 
性、特にセクシュアルマイノリティに光を当てる学問分野であるクィアスタディーズは社会的には1980年代に世界各国のゲイコミュニティが直面したHIV/AIDSという問題を受けて、学問的にはフランス現代思想におけるポスト構造主義の影響の下で成立しました。その基本的な視座は大きくいえば以下の三つとなります。
 
その一つ目が「差異に基づく運動の連帯」という視座です。クィアスタディーズは多様なセクシュアルマイノリティをそれらの差異を隠蔽することなく関連づけて考察することを目指します。その二つ目が「否定的な価値づけの積極的な引き受けによる価値転倒」という視座です。そもそも「クィア」という言葉は男性同性愛者やトランスジェンダー女性に対するかなり暴力的な侮蔑語(日本語で言えば「オカマ」に相当するような言葉)であった「クィア」という言葉をあえて自ら用いることで、その内実やイメージを定義する力を当事者に取り戻そうとする考えがクィアスタディーズの根底にはあります。その三つ目が「アイデンティティの両義性や流動性に対する着目」というの視座です。クィアスタディーズにおいては従来のマイノリティ研究が前提としていた「アイデンティティは一貫しているべき」というその発想の弊害ないし功罪こそが問い直されることになります。
 
以上の三つの視座から観た時、クィアスタディーズの最大公約数的説明とはほとんどの場合、セクシュアルマイノリティを、あるいは少なくとも性に関する何らかの現象を、差異に基づく連帯・否定的な価値の転倒・アイデンティティへの疑義といった視座に基づいて分析・考察する学問ということになります。そして、こうしたクィアスタディーズを支える最重要概念の一つがアメリカの哲学者ジュディス・バトラーの提示した「パフォーマティヴィティ Performativity」という概念です。性に関する人々の思考の枠組みを一変させたこの概念の成立には、もともとジョン・L・オースティンという言語哲学者が生み出した語をジャック・デリダが批判的に書き換え、デリダの影響を受けたバトラーがこの語をジェンダーにおいて展開したという経緯があります。
 
まずオースティンは言葉の辞書的な意味の伝達だけではなく、それ自体行為でもあるような言語使用のスタイルがあり、また両者は厳密には分けられないと考えました。例えば「彼の研究室は14階にある」という発言はまさに彼の研究室が14階にあるという事実を意味しており、それは各語の辞書上の意味を正しい文法知識で連結させた意味そのままを伝達しているとされます。他方「私は明日14時に研究室に行くことを約束します」という発言は約束するという事態の記述ではなく、それ自体が実際に約束するという行為です。オースティンは前者をコンスタンティヴ(事実確認的)な発言、後者をパフォーマティヴ(行為遂行的)な発言と呼んで区別し、さらには「足元に猫がいるよ」という発言が単に猫の存在を記述しているのではなく「その猫を踏むなよ」という警告にもありうるように、発言をコンスタンティヴなものとパフォーマティヴなものの二種類にはっきりと分けることはできないと指摘しました。
 
次にデリダは、オースティンがコンスタンティヴという表現を用いる時に想定している「辞書的な意味」というものに疑問を投げかけました。そもそも語や句は日常において繰り返し使用され、かつその使用は一度として同じ文脈を持ちません。すなわち、それはいつどこで誰に向かって発するのか、それは呼びかけなのか質問なのか独り言なのか、それらの要素がすべて一致することはあり得ません。そうであれば語や句はその意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した「辞書的な意味」が綻びることによってむしろ成立可能になっているともいえます。
 
そして、このように言語が「辞書的な意味」の綻びによって成立可能となるのならば、言語の根本的な特徴とは繰り返し使用されることでその「辞書的な意味」を超えてしまうパフォーマティヴな側面ということになり、こうした言語のパフォーマティヴな特徴はジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。
 
一見、言語の持つ「意味」とはあたかも実際の言語使用の前から存在しているかのように見えます。しかしバトラーは言語のコンスタンティヴな「意味」とされるものは、絶えずパフォーマティヴに産出される言語使用の最大公約数的特徴に過ぎないとして、こうしたことから「男らしさ」「女らしさ」もまた、まさにそのようなあらかじめ決まっていたかのように見えるものに過ぎないと考えました。
 
このようなバトラーの「パフォーマティヴィティ」の概念は1980年代を通じて整理されてきたセックスとジェンダーの二分法に異議を唱えることでフェミニズムの営みを大きく前進させることになりました。それまでセックスは生物学的な性差であり、ジェンダー社会学的な性差であるとして、後者は可変的で改善の余地はあるけれども前者は身体のつくりの違いなので変えようがないと説明されてきました。しかしバトラーはこの「変えようのなさ」とは畢竟、身体や性に関する言語使用の最大公約数的特徴にすぎず「辞書的な意味」を超えるという言語のパフォーマティヴな特徴から、この「変えようのなさ」もまたずれたり、綻びたりするかもしれないと考えました。
 
クィアスタディーズはこうしたバトラーの思想に触発される形で発展を遂げてきました。先述した三つの基本的視座もまた、このような性に関する根本的な「変えようのなさ」の無根拠性を暴くバトラーの主張の含意を解きほぐす形で練り上げられていったものであるといえます。このようにクィアスタディーズの枢要部をなすバトラーの思想をまさしくクィアなアプローチで読み解いていく一冊が本書『バトラー入門』です。
 

*『ジェンダー・トラブル』の非公式ファンブック

そのタイトルの通り、本書はバトラーの理論を紹介・解説する本です。しかし、そのプロローグにおいて「ただし、一風変わった、ヘンテコな、つまりはクィアな方法で」とあります。つまり本書はいわゆる「哲学的な切り口」からバトラーの理論を紹介・解説する本では「ない」本であるということです。
 
もちろんバトラーの著作においては上述のような哲学的な議論が行われています。しかし、そこにばかり目を向けてしまうとバトラーがきわめて具体的な場面、その現場のなかにいて、そのなかで理論を展開しているという事実が見えにくくなってしまうと本書は言います。こうしたことから本書は「あまり哲学的ではない方法」によって、むしろ「哲学的には些末にみえる点」に拘り、絵が浮かぶような具体的なイメージを伝えてくれる言葉や文章、エピソードに注目するところからバトラーの理論に切り込んでいきます。
 
それゆえに本書は哲学系の入門書によくあるような著作順に考察するといったよくある方法も取らないし、バトラーの著作の中の章立てとかにも拘泥することなく、それよりもどうやったら面白く、興味深く、魅力的にバトラーの理論を語れるか、ただその一点にこだわりたいと藤高氏はいいます。
 
そして本書のもう一つの特徴はバトラーの主著、というよりも「代名詞」である『ジェンダー・トラブル』に拘っていく点にあります。それは同書を深く理解することこそが、バトラーの理論の核心を理解することでもあるからです。すなわち「言ってしまえば、本書はバトラーの『ジェンダー・トラブル』の非公式ファンブック」「一介の『ジェンダー・トラブル』ファンが書いたファンジン」であり、それが「『ジェンダー・トラブル』を紹介するのにもっとも適った方法である」ということです。
 

* brave--より正確なボキャブラリーに向けて

 
そこで本書は第1章では『ジェンダー・トラブル』第2章注22における「brave」という単語に注目するところから話を始めています。この注22ではエスター・ニュートンとシャーリー・ウォルトンの「 The Misunderstanding:Toward a More Precise Sexual Vocabulary 」(1984)という論文について言及がなされています。この論文を執筆したニュートンはブッチのレズビアンで、ウォルトンヘテロセクシュアルな女性だそうです。ここでいう「ブッチ」とは「男らしいジェンダー表現をしているレズビアン」をいい、これに対して「女らしいジェンダー表現をしているレズビアン」は「フェム」と呼ばれます。
 
1960年代のある日、ニュートンウォルトンは「実験の精神で」セックスを行いますが「その出来事は次第に失速していって、終わることになった」そうです。その原因をニュートンは当初「シャーリーは『ノーマル』だから、感じなかったのだ」と考えていましたが、その後ニュートンは当時自分は「ブッチならトップ(能動的)/フェムならボトム(受動的)」と思い込んでいたことに気付かされます。
 
今でこそ例えばBL作品などで見た目のジェンダー表現がただちにいわゆる「タチ/ネコ」や「攻め/受け」を決定するとは限らないという認識はある程度共有されていますが、当時はニュートンのような「クィアな」人物でさえも「ブッチならトップ/フェムならボトム」という暗黙の了解を自明のものとしていたという事実は極めて重要です。
 
こうしたことから、この「 The Misunderstanding:Toward a More Precise Sexual Vocabulary 」という論文はその副題にあるように「より正確なボキャブラリーに向けて」実験的に新たな概念を提示することを試みたものであり、実際ニュートンらは同論文において「エロティック・アイデンティティ」「エロティック・ロール」「エロティック・アクト」といった概念群を提示しています。そして、こうしたニュートンらの分析をバトラーは「欲望のスタイル」と「ジェンダーのスタイル」との間の「不連続性 discontinuities」をまさに身をもって示す「勇気ある brave」試みだと評価しています。そしてまさに、このような「不連続性」の肯定こそが『ジェンダー・トラブル』の核心にあるものであると本書は述べています。
 

* ジェンダーの意味を増やすこと

 
第2章ではこうしたジェンダーの「不連続性」を劇的に示すものとしてクィア・カルチャーの一種である「ドラァグ(ゲイの大げさな女装やレズビアンの過剰な男装)」から冒頭に述べたバトラーの「パフォーマティヴィティ」の概念が検討され、第3章ではアレサ・フランクリンの歌う「ナチュラル・ウーマン」の歌詞の一節を切り口として「男/女」というジェンダーの構築が「異性愛」という制度と不可分の関係にあることが論じられます。そして本書は第4章において『ジェンダー・トラブル』が目指したものとは「ジェンダーをなくすこと」ではなく「ジェンダーの意味を増やすこと」であったといいます。
 
この点「ジェンダーをなくす」という発想は「いまある権力をなくして、それを超えてしまおう」という発想ですが、バトラーはそのような戦略を取りません。それは「権力」とその「向こう側」という対立軸を設定してしまうと、かえって権力の抑圧形態を強大なものとして固定するという発想につながってしまうからです。
 
これに対して「ジェンダーを増やす」ということは、いまある権力の体制のなかでいろいろな組み合わせのジェンダーを増やしていくことで、硬直した「二つのジェンダー」という規範の「自然性」や「自明性」を問うという発想です。そしてそれはすでに社会に存在している「たくさんのジェンダー」の「理解可能性」を拡張する試みであったと本書はいいます。
 

* Critically Queer

 
もともとバトラーはフェミニズムの理論家であり『ジェンダー・トラブル』という本もなによりもまずフェミニズムの書として書かれたものでした。ところが同書が出版された1990年にテレサ・ド・ラウレスがクィア理論を提唱したことが契機となり「クィア理論の古典」として同書は「事後的に」読まれることになりました。そして1993年に出版された『問題=物質となる身体』の最終章においてバトラーは自身のクィア論を展開していますが、この最終章の原題は「Critically Queer」となっています。ここでは「Critically」という副詞が用いられていることから、この「Critically Queer」とは「批判的にクィアしよう」と訳せます。
 
先に述べたようにかつてニュートンは「ブッチならトップ/フェムならボトム」という思い込みに気づくことで「勇気ある brave」試みへと至りました。またバトラー自身も1990年代はレズビアンであると公言していましたが、現在においては自らをノンバイナリーであると公言するようになります。そして今日においては「異性愛/同性愛」という二項対立から従来抹消されてきた「アセクシュアル(他者に対する性的惹かれを経験しないこと)」や「アロマンティック(他者に対して恋愛的に惹かれないこと)」といったさまざまな非-セクシュアリティに光が当てられ始めています。こうした数々の営為はいずれもバトラーのいう「Critically Queer」という実践に他ならないでしょう。
 
このように「クィア」とは、ある一定の確定記述の束に閉じられた名詞的なカテゴリーでなく、常に訂正可能性の契機に開かれた動詞的な実践であるということです。さらに換言するとそれは常に自己ならざるものとしてのさまざまな他者性の泡立ちに満ちた世界を生きていくための倫理ともなるでしょう。こうした意味でクィアという実践にはジェンダーのみならず社会におけるあらゆる領域で「ただしさ」が求められる現代という時代に対峙するためのエチカが宿っているといえるのではないでしょうか。