かぐらかのん

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日常の中に生じる崇高--最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』

* いかにして現代詩と「和解」するか

 
詩人の渡邊十絲子氏は『今を生きるための現代詩』(2013)において自身が詩を書き始めた1980年代に比べて現代では詩というジャンルそのものが凋落の一途を辿っていることを指摘し、現代詩が敬遠される理由としてそもそも日本人は詩との出会いがよくないことを挙げています。
おそらく大多数の人にとって詩との出会いは小学校や中学校の授業で使う国語教科書の中だと思います。あらゆる経験が初めてのものとして身の周りに満ち溢れる子ども時代のうちに「よいもの」「美しいもの」として半ば強制的に詩を与えられ、それは「読みとくべきもの」だと教えられ、この行のこういう技巧は作者のこういう感情を効果的に伝えているなどと解説された後、その理解度をテストされます。こうした子ども時代の経験が詩に触れる心理的ハードルを高くしてしまう一因となっていることは確かでしょう。
 
けれどもその一方で人がなにかを突然好きになったり、その魅力に引きずり込まれる時には、その対象の「意味」とか「価値」以前に、ただただ「かっこいい」「かわいい」「おもしろい」「目がはなせない」などといったごく自然な態度があります。そうであれば現代詩もまた、詩が持つ「意味」や「価値」の追求を離れて、自然な態度で自由に読むところから始めてもよいはずです。
 
例えば日常の中で何気なく出会った一片の詩の中に何かしらの魅力を発見したとして、その魅力についていろいろな思索を自由にめぐらせていくうちに、いつのまにかそれが普遍的な解釈に合流していくような可能性がひらけてきたり、ときに詩を書いた本人による解釈さえも更新することがあるでしょう。こうしたことから同書はとかく難解なものとされがちな現代詩との「和解」を勧めています。
 
現代詩とは世の中にすでに実在していて皆がよく知っている「もの」や「こと」を改めて凝った言い方で表現しようとするものではなく、まして人生訓をふくんだ寓話のようなものでもありません。詩とは畢竟、純粋な「ことば」であり、文字という形で記録され、不特定の誰かに読まれる用途が決められていない存在です。そしてそれは時として日常の秩序に揺さぶりをかけ、我々に未体験の局面をもたらすものでもあります。
 
このような魅力と可能性を持つ現代詩とずっと出会い損ね続けていくのは勿体無いことだと思います。そこで以下ではどのようなかたちで我々は現代詩と「和解」できるかを、いまや凋落気味とされる詩というジャンルにおいて例外的に圧倒的なポピュラリティを獲得している現代詩人、最果タヒ氏による最新詩集『恋と誤解された夕焼け』を題材として探っていきたいと思います。
 

* 杣道をかえるということ

先述のように現代詩は「意味」や「価値」を離れて自然な態度で自由に読んでよいものです。もっとも「自由に読む」といっても、やはりその手前に何かしらの手がかりというか、道標となるべきものがあった方がよいでしょう。そこでひとまずは一流の詩人による解釈に学んでみたいと思います。
 
現代日本を代表する詩人の1人として知られる吉増剛造氏は本書の書評において「読み返すたびに、最果タヒ詩篇は、杣道をかえる」と述べています。そして氏は本書の「花束の詩」を引き「これも、咄嗟に“刃物”が最終行で“刃”に変ったことの衝撃を“ハ”としかいいえない、迷い=驚きの現場のような難路に杣道はさしかかっていたらしい。さらに、あるいはこの“ハ”は、別乾坤からの幽かな声であったのかも知れなかった」と述べています。
 
ここで吉増氏のいう「杣道」とは、おそらくマルティン・ハイデガーの論文集『杣道』を念頭においていると思われます。氏は近著『詩とは何か』(2021)という詩論においてハイデガーについて何度か言及しています。ふつう「杣道」とは森の中の下草に覆われた細い通路のことをいいますが、同書において氏はこの「杣道」について「恐る恐るその小径を辿ってゆくと、ふっと、森の中の小さな開けた場所に出ることがある」といいます。
そして続けて氏は「その「開けた場所」のことをハイデガーは「真理」の比喩として使っているようなのですが、真理という大袈裟な言葉は私はむしろ避けたいと思うのですが、やはりなにかそのような、「ほんとうのこと」への小さな小さな、細い小径を辿る行為に、これからこの本で私が試みますことは、通じるような予感が今、いたしてきております」と述べています。
 
こうしてみると氏は「花束の詩」という「杣道」のさなかで「“ハ”としかいいえない」という「迷い=驚き」に直面したことで、その先にあるはずの「開けた場所」としての「真理」あるいは「ほんとうのこと」を、むしろ脱構築してしまうかのような「別乾坤からの幽かな声」を聴き取ったとも言えそうです。
 
では果たして、このような「迷い=驚き」はどこから生じたものでしょうか。ここで注目すべきはこの「花束の詩」では2行目と5行目に「刃物」という言葉が繰り返し現れた後に最終行で「刃」という言葉が現れているという点にあります。すなわち、ここには「刃物」という「反復」に対する「刃」という「差異」から構成されるひとつなぎの「リズム」があるということがわかります。
 

* 意味からリズムへ

 
ここでいま我々は現代詩を自由に読むためのひとまずの道標として「リズム」を見出したことになります。そこで、ここからは「リズム」について深い洞察を与えてくれる千葉雅也氏の近著『センスの哲学』(2024)を参照してみたいと思います。同書はいわゆる「センス」と呼ばれるものを努力では何ともならないものとは考えずに、むしろ人を解放し、より自由にしてくれる可能性を開くものとして育てていくための方法を論じています。
まず同書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで同書はまず、このような理想的なモデルを再現するというゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると同書はいいます。
 
そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった様々な要素の「でこぼこ」としての「リズム」を即物的に捉えるということです。
 
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると同書はいいます。
 
渡邊氏が述べるように、おそらく大多数の人にとって詩との出会いとは国語教科書の中であり、それは「よいもの」「美しいもの」であり「読み解くべきもの」として半ば強制的に与えられます。つまりそこには「詩の正しい読み方」という「理想的なモデル」を正確に再現しなければならないという暗黙の想定があります。けれども、このような「詩の正しい読み方=理想的なモデル」をめぐるゲームを降りて、その詩から聴こえてくる「リズム」に耳を傾けていく時、そこにはただただ「かっこいい」「かわいい」「おもしろい」「目がはなせない」などといった自然な態度が自ずから回帰してくるのではないでしょうか。
 

* いないいないばあの原理

 
そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つの捉え方は生成変化論と存在論という哲学の二つの立場に対応します。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが千葉氏のいうリズム経験です。
 
この点、小説などの物語の基本形式とは大きくいえば「0」から「1」へと「欠如を埋める」ものとして捉えられます。つまり、物語に感情移入するとはその「0」から「1」へという「ビート」にシンクロするということです。
 
こうした「0」から「1」へと「欠如を埋める」というもっともシンプルな物語の起源を精神分析の始祖ジークムント・フロイトは「快原理の彼岸」という論文で「Fort-Da いないいないばあ」という子どもの遊びに求めました。そして千葉氏はこの「いないいないばあ」という遊びには「いないいない=0」と「ばあ=1」という存在論的な「ビート」を生成変化論的な「うねり」に書き換えることで「欠如」をめぐる不安を乗り越えていく契機が含まれているといい、これを「いないいないばあの原理」と呼びます。
 
こうしてみると吉増氏が取り上げた「花束の詩」の背後にはまさにこのような「いないいないばあの原理」が作動しています。まず「刃物」という対象とある程度の距離を取った言葉が「刃」という対象の生々しい現前を示す言葉に置き換えられることで対象との距離に「0と1」という「ビート」が生じます。さらに「刃物」という2文字が「刃」という1文字に圧縮されることで対象それ自体に「うねり」が生じます。すなわち「“ハ”としかいいえない」という吉増氏の「迷い=驚き」とは畢竟「いない(刃物)」「いない(刃物)」「ばあ(刃)」というリズムによって引き起こされたものであるといえるのではないでしょうか。
 

* 予測誤差としての享楽

 
このように同書の議論によれば「センスの良さ=リズム感がいい」とは「でこぼこをどう並べるか」という問題となります。そして、このような「並び」において「つながり」よりも「切断」を重視するような展開は「0→1」という「予測」を裏切る「予測誤差」を生み出します。この点、イギリスの神経科学者カール・フリストンらは生物のいろんな機能は「予測誤差を最小化する」という原理で説明できるという「自由エネルギー原理」と呼ばれる理論を提唱しました。すなわち、この「予測誤差を最小化する」という原理からいえば人はバラバラに見える並びにも何らかの意味あるいは物語を見出そうとしているということです。
 
つまり人間は予測通りに物事が生じる「快」がベースにあることから、ある反復の後に差異がくるという「不快」の経験を習慣化=リズム化しようとします。しかしながら、その一方で本来「不快」なはずのものである差異=予測誤差それ自体にある種の快を見出すことがしばしあります。こうした人間の一見矛盾する行動原理をフロイトは「死の欲動」という概念によって理論化し、予測誤差がもたらす「不快かつ快」といった状態をフランスの精神分析ジャック・ラカンは単純な「快楽」と区別して「享楽」と呼びました。
 
最果作品の最も大きな特徴はこうした「予測誤差」の過剰なまでの「溢れ」にあるといって良いでしょう。本書でも例えば「きみの手のひらは星を捕まえることができる。ぼくがそれを証明する。たとえ燃え尽きても。(流れ星の詩)」「桜の花びらもきみも まつげで光が転んだ音がして、笑い声が聞こえます(透明な水)」「体の中にヒヤシンスが咲いている、夏だからかなあ、と思う(生前の夏)」「人間としてお互いを見ない方が程よい世界になります、なります、なりますと、青信号が鳴いている(ボランティア)」「ぼくはこうやって美しい心が使い捨てにされていく世界が、雪の降る街みたいで好きだった(世界線)」といったような日常的な文脈からすれば不可解としかいいようのないパッセージが頻出します。
 
通常、読み手にとって文意が読み取れないことは「不快」な体験になるはずです。けれども時としてその「文字の並びそれ自体」というリズムの中に読み手は予測誤差がもたらす「不快かつ快」としての「享楽」を発見することがあるということです。
 

* 日常の中に生じる崇高

 
このように「センスが良い=リズム感がいい」とは基本的には、反復(規則性)に対して差異(逸脱)が適度なばらつきで起きる状態をいいます。すなわち、完全に規則的ではないし、まったくランダムでもないというバランスがおおよそ「美」と呼ばれるものです。古い美学理論で「美」は「調和」という言葉と結び付けられますが、それは「反復と差異」の調和であるといえるでしょう。
 
近代哲学を確立したイマヌエル・カントはその主著の一つである『判断力批判』において「美」とは事物と自由に戯れるような状態として考えました。すなわち、完璧な円や正方形といった規則的なものではなく、そこから逸脱する「戯れ」こそに「美」があるというのがカントの見方です。そして、このような「美」を逸脱してしまうような圧倒的なスケールや威力を感じさせるものをカントは「崇高」と呼びました。
 
一般的に「センスが良い」というのはカント的な「美」の意味合いでいわれることが多いでしょう。その場合「反復と差異」の調和が想定されています。しかし現代においてはこうした「反復と差異」のバランスの崩れがより芸術的だと見做されることがあります。つまり差異が生じる予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると「美」的になり、その予測誤差が大きく、もはやどうなるかわからないという偶然性が強まっていくと「崇高」的になるということです。
 
こうしたカント的な区分からいえば最果作品もその多くは「美」よりも「崇高」の側に傾いているといえるでしょう。けれども、そこで描き出される「崇高」とは我々の生きる日常から隔絶した世界にあるようなものではなく、それは例えば「創世記、冷たい飲み物を飲んでいる夏の時間、ぼくは部活に行かなくちゃいけない、でもいま教室を出たら、上空が濁る気がしていた(放課後婚)」や「体には優しくしきれなかった過去の断片がいくつもあり、それはかんたんに、夕焼けの色にかどわかされて、いなくなる(世界線)」といったような、この日常に中において破断的に内在する生の手触りの中に見出されるものです。
 
おそらく、こうした「日常」という反復の中で不意に生じる「崇高」という差異から紡ぎ出されていくリズムのつらなりこそが最果作品における圧倒的なポピュラリティを支えているようにも思えます。そしてそれは時として「ビート」と「うねり」をともなったいのちの「心音」として聴こえてくることもあるのではないでしょうか。
 
誰かの心音になるような形で、言葉が届くことはある。
そう信じているから、私は詩を書いています。
 
(本書あとがきより)