かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

柳田国男の山人論からアソシエーションへ

* 柳田国男の山人論

 
日本民俗学の祖、柳田国男はその初期において『後狩詞記』(1909)『遠野物語』(1910)をはじめとする一連の民間伝承に関する論考を発表していますが、そこでのテーマとしているものの一つに「山人」の問題があります。ここでいう「山人」とは日本列島に先住していた狩猟採集民で、後に農耕民によって山に追いやられた存在であるとされます。この「山人」はその実在を確かめることはできず、彼らは多くの場合「天狗」のような妖怪として表象されています。
 
この「山人」の問題についての柳田の主な関心は「山人」の存在が一般の人々の信仰生活にどのような影響を及ぼしているかにありました。柳田は日本列島の先住民である「山人」の持っていた「山の神」に対する信仰が一般の人々の信仰生活に一定の影響を与えているとして、日本人の宗教意識の原像を明らかにするには、それを構成している一つの要素として「山人」の生活と信仰を捉える必要があると考えていました。
 
そして、この「山人」をめぐる柳田の総決算的な著作である『山の人生』(1926)では『遠野物語』に収録された伝承を関連する各地の伝承も参照しながら理論的な検討が行われています。ところが、それ以後どういうわけか柳田は「山人」の問題を直接的には扱わなくなってしまいます。このことから戦後、1970年代以降においてポスト構造主義やポスト・コロニアリズムの観点から「山人」への関心を放棄した柳田の民俗学は彼が「常民」と呼ぶ稲作農民に偏重した民俗学であり、当時のナショナリズムと深く結びついた「一国民俗学」であるという批判を呼ぶことになります。
 
こうした批判の中、文芸批評家の柄谷行人氏は「柳田国男論」(1986)という論考において柳田が「常民」と呼ぶものは本来、農民だけではなく漂泊民や芸能民や被差別民も含む概念であることから、柳田のいう「常民」を農民中心主義だとして批判するのは不当であると主張しました。そして、比較的近年の著作である『遊動論 柳田国男と山人』(2014)において柄谷氏はあらためてこれまでの柳田批判に答える形で、確かに柳田は山人について論じるのをやめたけれども、それは山人論を放棄することを意味していないと主張しました。ここで鍵となるのが氏が同書で提示する「遊動性」という概念です。
 

* 農政論と山人論のあいだ

柳田は1900年(明治33年)に24歳で東京帝国大学を卒業して農商務省に入省しますが、同時に早稲田大学で「農政学」の講義を始め、1902年には法制局参事官となり農政学の研究に専念します。
 
柳田が官僚になった当時、支配的であった農政論は東京帝国大学教授、横井時敬が説く「農業国本論」でした。言うまでもなく明治国家の政策は根本的には「富国強兵」にありましたが、横井の考えでは「富国」に必要なものが商工業であり「強兵」のため不可欠なものが農業ということになります。それゆえに横井は「小農(小作人)」の保護政策を唱えましたが、それは現実には「大農(不在地主)」を容認することにつながりました。
 
これに対して、柳田の構想した農業政策は農家が国家に依存せず協同組合による「協同自助」を図ろうとするものです。そして柳田はそのような「協同自助」の理想形を調査旅行で訪れた宮崎県西北部の椎葉村に見出しました。同村につき柳田は「此山村には、富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピヤ』の実現で、一の奇蹟であります」とまで書いています。
 
このような椎葉村の人々との邂逅を契機に柳田は「山人」に関心を持ち始めるようになります。もちろん椎葉村の人々は焼畑と狩猟に従事する「山民」でしたが、日本列島の先住民たる「山人(の末裔)」ではありません。しかし「山民」における「協同自助」の観念は「山人」の持っていた「遊動性」に由来してます。
 
その後、先述のように柳田は山人について論じるのを(表面上は)やめますが、柄谷氏によれば柳田の山人論には二つの意味があります。第一にそれは先住民、異民族を意味しています。第二にそれは柳田がかつて椎葉村にみた遊動性・ユートピア性を意味しています。柳田は山人論を放棄したという場合、通常は第一の意味で語られます。しかし第二の意味では柳田は山人論を放棄しておらず、むしろ絶えずそれを追求していたと氏はいいます。
 

* 柳田の固有信仰論

 
そして柄谷氏によれば、柳田は山人に迫る手がかりを日本における「固有信仰」に求めようとしていました。すなわち、柳田のいう「固有信仰」とは稲作農民の社会が成立する以前の狩猟採集段階に由来するものであり、それゆえに「固有信仰」の探究とは実は「山人」の探求に他ならないということです。
 
柳田が推定する固有信仰とは次のようなものです。人は死んで間もない時は強い穢れを持つ「荒みたま」ですが、子孫の供養や祭りをうけて浄化され、やがて「御霊」となり、この御霊の融合体である祖霊神は「氏神」と呼ばれます。
 
祖霊は故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守ります。生と死の二つの世界の往来は自由であり、祖霊は盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となります。また個別的な霊は一つの御霊に融合してもその個別性がなくなることはなく、御霊は現世に生まれ変わってくることもあります。
 
柳田のいう固有信仰の特徴は祖霊は血縁の遠近や、あるいは生前の地位や貢献度とは関係なく平等に扱われる点にあり、その核心は祖霊と生者の相互的信頼にあります。そして柳田が特に重視したのは祖霊がどこにも行けるにもかかわらず、生者のいるところから離れないという点にあり、それは子孫の祀りや供養に応えてそうするのではなく、自発的にそうするとされています。
 
すなわち、そこには何かしらの見返りを期待する互酬的な関係ではなく、何も見返りを期待しない家族愛的な関係を見出すことができます。ここに柄谷氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に注目する最大の理由があります。
 

*「外部」「他者」としての「山人」と交換様式論

 
こうした一連の議論は柳田国男の再評価にとどまらず、柳田のいう「山人」がこれまで柄谷氏が一貫して追求してきた「他者」や「外部」といったテーマを体現する存在であったことと深く結びついています。
 
柄谷氏はデビュー作『畏怖する人間』(1972)において小林秀雄江藤淳吉本隆明に続く次世代を担う評論家として注目されますが、氏にとって文芸批評とは単なる文学作品の解釈でなく、あくまで自身の実存的な危機意識に基づく「存在の自覚」「自己の資質の検証」というべき思索であり、やがて氏は文芸批評そのものからの脱却を試みるようになり、この脱却作業において「他者」や「外部」といった概念が提出されることになります。さらに、こうした「他者」や「外部」の問題は後期になると、それらとの邂逅や交流の問題へとシフトして、ついには共同体と共同体のあいだの「交換」という問題に行き着きます。
 
柄谷氏は後期の主著である『世界史の構造』(2010)において「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」という3つの「交換」のあり方から社会や歴史を論じています。ここでいう「交換様式A(互酬)」とは北アメリカの北西岸に広がる「ポトラッチ」のように互いに贈与をし合う「交換」をいい「交換様式B(略取-再配分)」とは王と臣民の関係のように征服者が略取によって得た富をあらためて自分に従う側に再配分する「交換」をいい「交換様式C(商品交換)」とは近代市民社会に広く流布している貨幣を媒介とする「交換」をいいます。
 
このような「交換」の三つ組の概念はもともと経済人類学者カール・ポランニーによって社会統合の基礎概念として提出されたものですが、柄谷氏はこの概念を利用しながらもポランニーとは異なった独自の構想を発展させていくことになります。この点、柄谷氏によればこれら3つの「交換」はそれぞれが持つ固有の権力に基づいた社会を構成することになります。すなわち、まず「交換様式A(互酬)」は「掟」に基づく「ネーション」を構成します。次に「交換様式B(略取-再配分)」は「暴力(武力)」に基づく「国家」を構成します。そして「交換様式C(商品交換)」は「貨幣」に基づく「資本」を構成します。そして近代社会においてはこれらの3つの「交換」が三位一体として一つの複合体を構成しており、このような「交換」の複合体を柄谷は「ボロメオの環」に準えています。
 

* 遊動民とアソシエーション

 
このように柄谷氏は近代における「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」からなる共時的な相補的構造を論じるとともに、同じ交換様式論を使って近代に至るまでの社会構成体の通時的な展開過程を説明します。
 
ここで氏はカール・マルクスが『経済学批判』で挙げている初期氏族社会の無階級原始社会、農業と専制を特徴とするアジア的生産様式、古代の奴隷制社会、中世の封建制ブルジョワ的資本主義的生産様式といった5つの発展形態を踏まえつつ、自身の立てた交換様式論に照合して社会構成体の展開過程を次のように分類します。
 
すなわち⑴交換様式A(互酬)を特徴とする氏族的社会構成体と⑵交換様式B(略取-再分配)を特徴とするアジア的社会構成体、古典古代社会構成体、封建的社会構成体と⑶交換様式C(商品交換)を特徴とする資本主義的社会構成体という分類です。その上で氏は交換様式A(互酬)を特徴とする氏族的社会構成体において「定住」を強調します。つまり、論理的にはそれ以前には「定住」がなかった遊動的な段階があることを想定しています。
 
こうして交換様式Aの彼岸に「遊動民」という特別な観念が立ち上がることになります。そしてこのような「遊動民」によって行われる「交換」のあり方を氏は「交換様式D(氏はしばしこれをXと表現しています)」として位置付けます。
 
この新たに立てられた「交換様式D(ないしX)」には「交換様式A」と同じく互酬の原理が当てられていますが「交換様式D」は「交換様式A」への単純な回帰ではなく、それを否定しつつも、高次元において回復するものであると氏はいいます。そして、このような「交換様式D」に対応する社会構成体ないし運動体を氏は「アソシエーション」と呼びます。すなわち、氏はこの「アソシエーション」の理念を体現する「遊動民」の範例を柳田が探求した山人論ないし固有信仰論に見出していたということです。
 

* 観光客と分析家のディスクール

 
このように、交換様式Dとは定住を開始する前の遊動民にみられる「交換」のあり方です。遊動民においては生産物を蓄積することができないため、その生産物は共同体間で平等に分配されることになります。また他の部族と遭遇した場合に戦争を避けるために贈与を行うことがあったとしても、その遭遇は一期一会のものであるため、返礼の義務は発生しません。このように遊動民は交換様式Bや交換様式Cとは無縁であり、つまり交換様式Dは資本制的な結合体に回収されないものとなります。
 
もっとも柄谷氏自身は具体的にこの「交換様式D」につきあいまいな規定しか明示しておらず、氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に見出そうとした「アソシエーション」とはいかなる実践を表すのかという問いはいまだに開かれています。
 
例えば東浩紀氏は『観光客の哲学』(2017)においてナショナリズムグローバリズムからなる二層構造を往還する誤配の主体として「観光客」という概念を提唱し、そのアイデンティティを「市民社会」と「国家」の後に回帰してくる「家族」の脱構築的な新たなあり方に求めています。
 
そして東氏は柄谷氏のいう「ネーション」「国家」「資本」とは、それぞれ氏のいう「家族」「国家」「市民社会」に対応するものであるとして、柄谷氏のいう「アソシエーション」を「家族」の「高次元での回復」として捉え直しています。こうした観点から氏は『観光客の哲学』の続編である『訂正可能性の哲学』(2023)において「家族」という概念をあらゆる訂正可能性に開かれた解釈共同体として提示しています。
また松本卓也氏は『享楽社会論』(2018)においてフランスの精神分析ジャック・ラカンの理論を援用し柄谷氏のいう「交換様式D」はちょうどラカンが「分析家のディスクール」を「資本主義からの出口」と評したことに対応するとしています。
 
この点、現代ラカン派において「分析家のディスクール」とは精神分析の始祖ジークムント・フロイトが唱えた「エディプス・コンプレックス」のような既存の知(S2)の専制を脱し、主体の自体性愛的な享楽(身体の出来事)が刻まれた一つのシニフィアン(S1)の析出を目指していると考えられています。
 
そして、このシニフィアン(S1)は新たな主体化の核となり、己の人生を非エディプス的な特異的=単独的なかたちで新たに生き直すことを可能とするものとして、それは人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な圧力に抗い「すべてではない(すなわち、決して「すべて」を構成しない)」という生のあり方を発明し、その生のあり方を生きることにつながるであろうと氏は述べています。
 
確かに柄谷氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に見出そうとした「アソシエーション」の核心にある「遊動性」とはナショナリズムグローバリズムからなる二層構造や、人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な力を訂正あるいは撹乱する潜勢力を持っているように思えます。そうであれば、こうした現代思想において提示された視座から改めて、柳田民俗学が描き出した軌跡を辿り直してみることもできるのではないでしょうか。