* 学問救世としての民俗学
日本民俗学の創始者、柳田国男は1875年(明治8年)に兵庫県の神東群辻川村(現在の神崎郡福崎町)に生まれ、1900年(明治33年)に東京帝国大学卒業と同時に農商務省に入省し、それからほぼ20年ものあいだ官僚として農業政策に携わり、その間には産業組合など農業団体との関係で講演や視察のため全国各地をまわり、いくつかの農政論の著作を発表する傍らで、今日知られる代表的著作の一つである『遠野物語』(1910)をはじめとする民間伝承に関する著作や論考を書いています。
1913年(大正2年)からほぼ4年間、柳田は『郷土研究』という雑誌を発行し、そこに農政論的視点からの農民生活についての論考と一連の民間伝承に関する論考を執筆します。このような柳田の郷土研究(農村生活研究)は農民生活の現状と農業改革の現実的可能性を追求するという農政論的な問題意識につながるものであり、こうした観点から柳田は安定的な経営が可能な自作小農によって日本農業が担われるべく様々な政策的提言を行います。
けれども柳田の提言は当時の農政主流において受け入れられず、1919年(大正8年)に貴族院議長徳川家達との確執により貴族院書記官長を辞職した柳田は官界から離れることになり、その翌年、当時、国際連盟事務次長であった新渡戸稲造の勧めで国際連盟委任統治委員に就任しジュネーヴに赴任します。
この渡欧は柳田にとって大きな転機となりました。ヨーロッパ滞在中、ジュネーヴ大学の講義を聴講するとともにヨーロッパ各地を訪れた柳田は、そこで欧米の人文社会科学の最先端と本格的に接触し、それまでの自身の学問を新たな方法でもう一度立て直そうとします。
1922年(大正12年)、関東大震災の報を受けた柳田は委任統治委員の職を辞して急遽、帰国し、災後の人々の生活の惨状を目の当たりにしたことで「本筋の学問のために起つ」と決意し、日本における民俗学の方法的確立と研究者の組織化にむけて力を注いで行きます。そこには学問の力で人々を救い、より良い社会を作っていこうとする「学問救世」という柳田の強い願いがあり、この願いこそが柳田民俗学を駆動させるモチーフとなります。
そして、このような経緯から立ち上げられた柳田民俗学の枢要部に位置するものが「氏神信仰」という民間信仰研究です。ここでいう「氏神信仰」とは各地域に大体一つは存在する小さな神社に祀られている「氏神さま」「産土さま」「お宮さま」などと呼ばれる神様(氏神)に対する信仰をいいます。柳田はこのような「氏神信仰」こそが日本人の宗教意識の原基形態をなし、人々の内面的な倫理意識と深く関わるものであるとみていました。
* 氏神信仰における神観念
「氏神」とは各々の家の代々の祖霊の融合体を神として祀ったものであり、しばしば「御先祖様」とも呼ばれます。この点、ある地域の氏神は家系の違う人々によって共同で信仰されていますが、古代ではひとつの集落の住民はだいたい単一の家系としての「氏」によって構成されており、個々の氏はそれぞれが集落を形成しながら各々の氏神を信仰していたと柳田は見ています。
柳田によれば本来、氏神は血縁的な氏族集団と彼らが占有してる一定の土地との結合を保障するものと考えられており、その意味で氏神は氏族の土地の境を守り、氏族の成員を守護する神とみられていました。ふつう氏神は特定の名前を持たないか、そうでない場合でもその名を口にすることは禁じられていました。なお氏神を「ウブスナ」と呼ぶことがありますが、これは本居にいます神、産土に祭られたまう神、つまり生まれ在所の神という意味です。
先述のように氏神は代々の祖霊の融合したものですが、人々は死後すぐに祖霊と融合して神になるわけではなく、死後一定期間ののち、死のけがれから清まり浄化されてから氏神に融合し一体化するものと観念されていました。その期間に年数は各地に様々な伝承がありますが、柳田はほぼ30年前後と推定しています。それゆえに死者の霊には氏神に融合した「みたま」とその年限に達していない「荒忌のみたま」があり、その中でも死後1年未満のものは「荒年の初みたま」「新精霊」などと呼ばれています。また子孫に供養されない霊や怨念を持った霊などの霊は一般に「外精霊」「無縁」と呼ばれ、病虫害や天候不良や伝染病などの災厄をもたらすとされています。
そして浄化された霊が融合していく氏神は柳田によれば現世から完全には断絶せず、氏人の居住地からあまり遠くない山の頂きに止まっており、年々時を定めて子孫の家に行き通い長く家の成員をまもり郷土をまもるものと信じられていました。このように氏神信仰は子孫が絶えず、家系が続いていく「家の永続」が重要な意味を持っていました。この「家の永続」の問題が人々の生きがいや価値観に軽視しえない影響を与えており、日本人のいわゆる家族主義の根幹を成していると柳田はみていました。
柳田によれば氏神はもともと他の神と一緒にまつられ合祀されることが可能な性質を持っており、こうしたことから「八幡」「天神」「祇園」「賀茂」「春日」「鹿島」「香取」「諏訪」「白山」「熊野」「住吉」「稲荷」「出雲」「愛宕」といった有名な大神をそれぞれの氏神と一緒に祀るという風習が一般化していったとされます。しかし、それは祭神の交代を意味するものではなく、もとの氏神に合祀された神が融合した一体の神と見做されていました。そして、このような氏神信仰を柳田はしばし日本独自の「固有信仰」であるといいます。
* 氏神信仰における信仰儀礼
「祭日(神事が行われる期日)」における大祭としての春祭と秋祭があります。春祭は本来農作の豊凶を占い豊作を祈願する信仰行事であり、ほぼ田植まえ苗代の支度に取り掛かろうとする頃に行われていました。秋祭は秋の稲の収穫された後に行われるもので、農作物も豊かで供物の品も揃い、もともとは1年もうちでもっとも大きく賑やかな祭でした。
また夏祭は元は稲の成長の災いを防ぐ年中行事の一つでしたが、中世ごろから市街地への人口集中などによって流行した疫病が農村に入ってくると、都市で発生した御霊信仰による華やかな祭礼の形式の夏祭が農村に流入するようになります。夏祭に各地で行われる「盆踊り」については稲の病虫害や疫病をもたらす悪霊を足踏み荒らかに追い払おうとしたものがもとかたちであるといわれています。そのほか節句その他の種々の年中行事も元は神祭を基礎にしたものとされています。
「神地(神事が執り行われる場所)」は一般に村にある神社とされていますが、かつては常設の神社はなく、ふだん山の上にとどまっている氏神を祭礼時に里の清浄な地に迎え、そこに臨時の仮屋を立ててまつるのが一般的でした。氏神の祭は特定の自然物、ふつうは特殊な樹が神の憑く依代とされ、主要な神事はおもにその樹のもとでなされ、氏神はそこからさらに神の代人として託宣を語る巫女に憑依するものと考えられていました。
「神供(神への供物)」については柳田のみるところ、神の食物として様々な収穫を供えるだけでなく、神と人々が食事をともにするためのものでした。この神に供え物をすすめ、それを神と人とが一緒に食する相饗(直会)は氏神信仰において神祭の必須の要件をなしています。例えば3月3日の「桃の節句」や5月5日の「端午の節句」など、1年の節目節目に行われる節句とは「節供(節日の供物)」であり、必ず何らかの供物をささげて神と人とが共同で飲食する行事でした。
そして神供の中でも特に稲は特殊な意味を担っており、これは稲に力の根源となり得るものが宿っているという古い信仰に由来します。また米から作られる酒も神供として、とりわけ相饗における聖なる飲物として重視されていました。
「神屋(神事を主宰する者)」は柳田によれば、大家族制のもとでは正統直系の血縁系譜を持つ家父長とその妻たる主婦(家刀自)に祭祀執行権があり、殊に主婦が氏神の託宣を語る巫女として重要な位置を占めていました。もっともその後、氏神への有力な神々の勧請に伴い、専門職としての巫女集団が各地で勢力を拡大するようになり、さらにその後、託宣自体があまり行われなくなると巫女の役割も周辺的付随的なものへと位置付けられていくようになります。
「神態(神事の具体的内容)」は、神をたたえその来歴をかたる「神歌」「神語り」が最も枢要な部分を構成しており、柳田によればこの神語りは原初的には氏神信仰における神話といいうるものでした。しかしながら、この氏神信仰における神話はかなり古い時期に忘れ去られ、もはやそのままのものとしては残っておらず、僅かに「昔話」「伝説」「語り物」などのかたちでその残影をとどめています。
* 氏神信仰と国家神道
こうして柳田は神観念と信仰儀礼の両面から氏神信仰の全体像を明らかにしようとしましたが、それは彼にとって一つの「神道」として把握されています。しかし、この柳田が探求した神道としての氏神信仰は当時のいわゆる「国家神道」とはその性質を異にするものとして位置付けられています。
第二次世界大戦終結まで大日本帝国の事実上の国教とされてきた国家神道は地域の神社に対する人々の氏神信仰を制度的にその体系の一環として組み込んでいましたが、柳田の研究は人々の氏神信仰をこの国家神道の体系から切り離そうとするものでした。
柳田にとって氏神信仰こそが日本における「固有信仰」であり、日本人の心性をその内奥において規定しているものでした。村々の氏神信仰は現実には仏教や道教、修験道などの後世の様々な文化の影響を受けて様々なかたちに変容していますが、柳田によれば祖霊、祖神をまつるという氏神信仰本来の姿は古くから「固有信仰」として全国に共通のもので、何らかのかたちでその痕跡を残しており、現在(柳田が生きていた当時)もなお村落の人々をはじめ国民の大多数によって信じられ、人々の生き方の核として連綿として持続してきたものであるとされています。
もちろんこのような柳田の主張については様々な異論があります。中でも氏神とは祖霊ではなく、異界から訪れる「まれびと」ではないかという折口信夫の批判がよく知られています。ただ少なくとも近代日本における氏神信仰を神観念と信仰儀礼の両面から描き出した点では柳田の業績にかわるものは現在のところ見当たらず、いずれにせよ近世以降における日本人の精神生活を理解する上で氏神信仰の問題は軽視し得ない重要性を持っていることは疑いないでしょう。
* 生命論としての柳田民俗学
このようにしてみると、柳田のいう「氏神」とは共同体を意味づけ正当性を付与する超越的他者であり、彼が詳らかにした「固有信仰」とは「氏神」によって共同体を基礎付ける「大きな物語」に他なりません。すなわち、柳田はこうした「固有信仰=大きな物語」から日本社会における精神性を担保しようとしていました。
もちろん、ポストモダン状況が加速する現代において、こうした柳田のいう「固有信仰」が「大きな物語」として機能する余地はもはや無いと言わざるを得ないでしょう。けれども柳田の残した一連の仕事はまったく別の観点から読み直すことができるように思えます。すなわち、それは「生命」という観点です。
この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。(木村敏『あいだ』より)
生命の実体や起源についての研究は現代における先端科学の中心的課題の一つであることはいうまでもなく、この先いつか生命の構造が余すところなく解明される日が来るかもしれません。もっとも、そのような科学によって解明される「生きているもの(生命物質の生命活動)」としての生命とはまた別の位相で「生きていること(生命それ自身の存在様式)」としての生命をいかに捉えるかは依然としてひとつの哲学的な課題であり続けるでしょう。こうした観点から木村氏が仮設する「生命一般の根拠とのつながり」の一つの顕現として柳田の議論は読み直せるようにも思えます。
そして、こうした意味で柳田のいう「固有信仰」を生命論的観点から捉え直し、より普遍的なモデルとして更新した想像力として『同時代ゲーム』(1979)から『懐かしい年への手紙』(1987)を経て『燃えあがる緑の木』(1993〜1995)へと至る大江健三郎氏の一連の仕事が挙げられます。
大江氏は『同時代ゲーム』の単行本付録の対談において柳田への強い共感を表明しており、同作で大江氏が描き出した《村=国家=小宇宙》はかつて柳田が『遠野物語』で描き出した遠野盆地を想起するものがあります。そして大江氏は『懐かしい年への手紙』において主人公である「K」の導き手である「ギー兄さん」に柳田のいう「固有信仰」を語らせており、さらにその事実上の続編である『燃えあがる緑の木』ではこうした「固有信仰」が、より普遍的な「世界モデル」へと純化されることになります。
「人々は、この谷に生まれ育ち、一度は多様な世界である谷間の外に出るが、やがてふたたび源としての谷に帰ってきます。谷間に流れる川は、本来の地形にあわせて流れると同時に、登場人物の動きからすれば、逆にも流れています。仮想された地形には逆勾配があるのです。「流出」の勾配と同時に、「帰還」の勾配があります。」「なぜ、逆の勾配が発生するのでしょうか。「四国の谷の森」に、この谷に生まれた人びとが死を迎えると、魂は森の樹木の根から、空に向かって昇っていくからです。森には、人を帰還させる力がある。そのように「場所に力がある」のです。つまり、Kは、流出=生、帰還=死という〈生と死の場〉の仮想された地形を構築しています。それが、Kが描出したひとつの「世界モデル」なのです。」(大江健三郎『燃えあがる緑の木』より)
こうしてみると柳田における「固有信仰」の探究とは「生命一般の根拠とのつながり」としての「世界モデル」の探究であったともいえるものであり、今後はこうしたより根源的なパースペクティヴから柳田の仕事は捉え直されていくのではないでしょうか。そしてその試みは、かつて柳田の志した「学問救世」という理念につながっていくものであるようにも思えます。