かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

西田幾多郎と京都学派

* 西田幾多郎とは何者なのか

 
日本を代表する哲学者、西田幾多郎(1870年〜1945年)の前半生は意外と波乱に満ちたものとなっています。金沢の旧制四高をその校風に反発して中退した西田は、1894年に東京帝国大学の選科生(現代でいうところの聴講生)を修了後、しばらく地方の尋常中学や旧制高校の講師職を転々として、ようやく機縁を得て四高教授となりますが、その間、実生活において妻との離別、自身の病、娘の夭逝といった数々の受難が降り掛かります。そして1910年、40歳の時に京都帝国大学助教授へ唐突に抜擢された西田はその翌年、旧制高校での講義録をもとにした1冊の本を公刊します。これが後に日本哲学史に巨大なインパクトをもたらすことになる記念碑的著作『善の研究』です。
同書は当時、無名の哲学徒の書いたものとされ、ほどなくして絶版の憂き目を見ることになりますが、大正期に一世を風靡した評論家の倉田百三(1891〜1942)が同書の一節を引用したことが契機で再版を求める声が殺到し、1923年に同書は版元を弘道館から岩波書店に移して再版されることになります。その後、周知のように西田の名は広く世に知れ渡り、その独創的な思索にはやがて「西田哲学」の名が冠されるようになり、戦後発売された岩波書店の全集は発売日前から購買者が列をなしたという伝説が残っています。そして現代においても夥しい数の解説書や研究書が公刊され、西田哲学に対する関心は今後もますます高まっていくものと思われます。
 
この点、檜垣立哉氏は『西田幾多郎の生命哲学』(2005)において「西田幾多郎には、およそ哲学者が魅力的であるための条件がすべてそなわっている」といい、その「魅力」として「到底まっとうに読みこなせない奇怪な文体、固有なジャルゴンやいい回しの無神経なほどの乱用と繰り返し。そして、彼をとりまく人々の、今となっては異様ともみえかねない熱狂。目新しい海外思想のたんなる輸入や受容ではない、本邦初の独自の思索という過剰なまでの期待と賛辞」「それに何よりも、幾度にも及ぶ自分の思考の書きなおし。徹底的な立場の変更。にもかかわらず、つねに同一のテーマを、いささか読む側が呆れ果ててしまうほどまでに何度も何度も反復しながら書き連ねる強靭さ。それでいて、興味が赴くままに多様な領域に自己の思考を展開していく、まさに脱領域的ですらある奔流のような知性。京都帝国大学退官後、年齢的には老年期にさしかかってからのテクスト群の膨大さ。だがそこでさえ、幾度も自分の立場をさまざまに変更しながら、しかしあいも変わらず同一の問題を追究しつづけるという欲望としての思考」を挙げています(このような破格的ともいえる評価をほとんど手放しで行える20世紀の思想家は西田以外ではおそらくフランスの精神分析ジャック・ラカンくらいしか見当たらないのではないかとも思います)。
そして氏は西田哲学の特徴を考える上での視点として西洋と東洋が遭遇した「近代」という「時代」と首都東京に対するアンチテーゼとして機能した「京都」という「場所」とともに、その思想における「世界同時性」という布置を挙げています。すなわち、西田がその哲学を展開した20世紀初頭という時代は世界的に見ればジークムント・フロイト精神分析を立ち上げ、フェルデナン・ド・ソシュール記号論を構想し、エトムント・フッサール現象学を創設し、そして西田にも大きな影響を与えたアンリ・ベルクソン生の哲学という潮流を生み出した時期に相当します。彼らが20世紀初頭に生み出した思想はその後さまざまな紆余曲折を経ながらも21世紀の思想を決定づける役割を果たしていることはもはや疑いがなく、こうした思想なくして今日においてこの世界の根源を思考することはますます困難になっており、こうした意味で西田哲学もまた確実にこれらの布置の中に位置付けられることになるでしょう。
 

* 純粋経験の諸相

 
善の研究』の「序」において西田は「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有って居た考であった」と述べています。ここでいう「実在」とは「実際に存在するもの」「物事の真の姿」「最も確かなもの」といった意味で用いられており、こうした意味での「実在」を西田は「純粋経験」と呼びます。この点、西田によれば常識的な意味での「経験」には常にその「経験」をした当事者の先入観や判断といった「思慮分別」が入り込んでいるとされます。これに対して西田のいう「純粋経験」とは、そのような「思慮分別」が少しも加えられていない「経験そのままの状態」をいいます。
 
我々の常識的なものの見方では主観と客観との二分法に立っています。すなわち、まず「私」という個人がまず存在して、その外側に「私」を取り巻く世界が存在していると考えます。しかし西田はこうした主観と客観の二分法という反省が加えられる以前の主客未分の状態である「純粋経験」こそが「実在」にほかならないといいます。
 
このように主客未分などというと何か神秘体験のような特異な体験を連想してしまいますが、西田のいう「純粋経験」は日常生活からかけ離れたものではなく、むしろ生活の至るところに生じるものであるとさえいえます。そして、こうした「純粋経験」から「私」という自己が生まれてきます。つまり、西田が「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的である」と述べるように「私」という意識は「純粋経験」に主観と客観の区切りを入れることで生じるものであるということです。
 
この点『善の研究』で論じられる「純粋経験」には一見すると雑多とも思える多様な意識状態が含まれています。これらの意識状態は大きくいえば三つに分けられます。まず⑴新生児の場合のような子どもの発達初期の自他未分化な意識の状態です。次に⑵「色を見、音を聞く刹那」といわれる様な判断以前の直接的な意識の状態です。そして⑶芸術家や宗教家の「知的直観」といわれるものや熟達した技能を演じる際の高度に統一された意識の状態です。
 
こうした様々な純粋経験を総合すると我々の意識の発達プロセスは次の様に考えることができます。第一に主観と客観が別れていない⑴や⑵のような意識状態があります。第二に主客未分の純粋経験が発展して主観と客観が別れた意識状態が生まれます。第三にこうした主客分離の状態のさらに先に主観と客観が再び一つになった⑶のような理想的な意識の状態が考えられます。そして、こうした理想的な意識の統一の状態としての純粋経験において現れる「自己」ないし「人格」こそが西田のいう「善」に他なりません。
 

* 自覚から場所へ

 
その後、西田はこの「純粋経験」をさらに追求していくことになります。1917年に発表された『自覚に於ける直感と反省』においては『善の研究』における「純粋経験」に相当する状態を「直感」と呼び、この直感を外側から主観と客観の二分法で捉えた状態を「反省」といい、この両者の関係を「自己の中に自己を写す」という「自覚」という概念で捉えています。
 
そしてこのような「自覚」における「自己の中に自己を写す」というイメージとして西田は英国にいて「完全なる英国の地図」を写すという例を挙げています。英国にいる人間が英国の完全な地図を写すには、地図を写している当の自分自身も地図の中に書き込む必要があり、そして何より自分が写してる地図自体もそこに書き込む必要があり、さらにその「地図の中の地図」もやはり「完全な地図」でなければならないことから、地図の中に地図を写す作業が果てしなく続いていく事になります。
 
すなわち、一つの直感が反省され、その状態からさらに新たな反省が生まれてくるというプロセスはどこまでも続いていく可能性があります。「自覚」とはこのように「直感」と「反省」の両方ともに含んで無限に発展していくプロセスをいいます。
 
そしてこの「自覚」の探求を突き進めた先に西田の哲学的思索は一つの完成を見ることになります。1927年に発表された『働くものから見るものへ』において西田は「有」を根本とする西洋文化に対して、東洋文化の根底にはいわば「無」の考え方が潜んでいるとした上で、この「無」という考え方を「場所」という概念に結びつけて論じています。
 
まず西田によれば我々の世界を構成する事物はもちろん、我々が生きている時間や空間も「有」です。つまり形あるもの、対象化できるもの、意識できるもの、これらはすべて「有」です。これに対して、形もなく、対象化もできず、意識もできないものが「無」です。そして西田の考え方は「有」であるすべてのものの根底に「無」を考える立場であり、その極限に想定されているのが「絶対無」の場所と呼ばれます。
 

* 絶対無の場所

 
ここで西田は「あらゆる物事は何らかの場所に於いてある」と考えます。ここでいう「場所」とは空間に位置を占める物理的な場所にとどまらず「AはB」であるといった判断が成立する論理的な場所、さらにそれら物理的な場所や論理的な場所を意識する際の意識という場所など、多様な意味を含んでいます。
 
この点、西田は物理的な場所に還元できない判断が成立する論理的な場所について「述語の論理」と呼ばれる判断の形式から説明します。つまり「SはPである」という判断においてS(主語)はP(述語)に対して特殊なものでありP(述語)はS(主語)に対して一般的といえます。つまり「SはPである」という判断はSという特殊なものがPという一般的なものによって包摂されることを意味しています。西田はこのような包摂判断において述語Pは主語Sがそこにおいて存在する「場所」という意味を持っています。
 
このような西田の「述語の論理」はアリストテレスによる「主語の論理」にヒントを得て考えられたものです。アリストテレスは「主語となって述語とならないもの」を「基体(個物)」と考え、述語は主語に所属する様々な性質として捉えらていました。これに対して西田はこのアリストテレスの発想を逆転させ「述語となって主語にならないもの」を考えたということです。
 
我々の思考内容は例えば「『◯◯』というのは私の意識である」というようにことごとく「私の意識」を述語として判断することができます。つまり「判断」という立場から「意識」を定義するなら、それはどこまでも「述語となって主語とならないもの」ということができます。
 
こうした意味で「『◯◯』というのは私の意識である」という「意識された意識」を「意識する意識」はどこまで行ってもたどり着くことができません。「「「『◯◯』というのは私の意識である」というのは私の意識である」というのは私の意識である・・・」というメタレベルの判断が無限に反復されるだけに過ぎません。そして、このような包摂判断における一般的方向、述語的方向をどこまでも押し進めていった先に想定される極限的なメタレベルである「述語となって主語にならないもの」こそが西田のいう「絶対無」の場所に他なりません。
 

* 行為的直観と絶対矛盾的自己同一

 
ここから西田はさらにこの「絶対無」を破断的に内在させた「個物」の世界へと向かい、その「個物」における相互限定からなるポイエシス的作用を「行為的直観」と呼びます。このような「行為的直観」において「個物」は自己が何であるかを「個物」相互の関係によって決定し、そうしながら世界や他の「個物」そのものが何であるかを規定していくことになります。
 
こうした「個物」の範例といえる存在が「生命」です。すなわち、ある「個物=生命」とはその内的-外的な環境によって「作られるもの」でありながらも、同時にこの「個物=生命」はその内的-外的な環境をポイエシス的に「作るもの」でもあるというそれ自身まさに矛盾の同一を示す境界になっているということです。ここから「身体」「歴史」「種」といったこれまで西田にとって語られてこなかったテーマ群が「個物」にとっての具体的な「媒介者」として次々と現れてくることになります。
 
そして西田はこうした「個物」が「行為的直観」によって相互限定する世界全体を「絶対矛盾的自己同一」として描き出します。この点、西田は「多の一」としての世界を「機械的世界」と捉え「一の多」としての世界を「合目的的世界」と捉えています。ここでいう「機械的世界」とは「個物的多(原因)」が「全体的一(結果)」を帰結する機械論的世界観であり「合目的的世界」とは「全体的一(目的)」へ「個物的多(手段)」が収束していく目的論的世界観です。
 
けれども西田は「行為的直観」の場面である「個物」と「個物」との相互限定の世界を「他の一(機械論的世界観」でも「一の多(目的論的世界観)」でもない、むしろ「一(内包)」と「多(外延)」がそのままに結びついていく世界として描き出します。これが「絶対矛盾的自己同一」という世界です。
 
そして、このような「絶対矛盾的自己同一」としての世界は我々の前に「課題」として与えられていると西田はいいます。すなわち「生きる」とは畢竟、こうした「世界=課題」を解き続け、その時その場所その都度における色とりどりの「解答」を示し続けていくということに他ならないということなのでしょう。
 

* 京都学派とは何だったのか

 
以上のように西田は『善の研究』において提示された「純粋経験」から出発し、その後「純粋経験」を捉え返す「自覚」を経て、その基盤となる「場所」の根源としての「絶対無」へと到達し、ここからさらに「絶対無」を破断的に内在させた「個物=生命」が相互限定しあう「行為的直観」からなる「絶対矛盾的自己同一」としての世界を描き出していきました。
 
そして、このような西田哲学を中心に形成された知的ネットワークを「京都学派」といいます。同学派の範囲をどこで画するかはその文脈次第ですが、ひとまず同学派を包括的に論じた菅原潤氏の『京都学派』(2018)に依拠するのであれば「京都学派」とは西田が創始し、田辺元(1985〜1962)がこれを継承して、西谷啓治(1900〜1990)、高坂正顕(1900〜1965)、高山岩男(1905〜1993)、鈴木成高(1907〜1988)といういわゆる「京大四天王」が展開した哲学研究の学派のことを指しています。ここで挙げた6人はいずれも京都大学を根城にして活動していたため、同学の所在地を冠して彼らは「京都学派」と呼ばれています。
まず西田の後継的存在である田辺は1919年に東北大学から京大に赴任し、当初は西田の意を受けて自身の専門である数理哲学の研究に勤しんでいましたが、やがて1930年に発表した「西田先生の教を仰ぐ」という論文において西洋哲学史全体の中に西田哲学を位置付けた上で、その根本的批判を展開しました。しかしこうした田辺の批判こそがむしろ西田哲学が世界水準に達したことを示す証左と見做されたのではないかと菅原氏は述べています。
 
そして西田と田辺の後に続く西谷、高坂、高山、鈴木からなる京大四天王は西田哲学を出発点としつつ、当時の最先端の思想を積極的に摂取してそれぞれが独自の哲学体系を構築し、その業績は当時の世界最高水準とも評価されています。
 
にもかかわらず今日において京都学派の評判が良くないのは彼ら京大四天王が太平洋戦争直前に行われた「世界史的立場と日本」という座談会などにおいて先の戦争を正当化する発言を行ったことに起因します。このことが敗戦後厳しく追及されたことで京都学派の哲学は戦時中の負の遺産とされ、長い間顧みられることはありませんでした。
 
けれども当時は多くの知識人や文化人が「戦争協力」に手を染めているのであって、その責めを京都学派のみに帰するのは性急であると菅原氏はいいます。なお2000年には「大島メモ」なる戦時中の京都学派と海軍の長期にわたる極秘会合を記録した文書が発見され、その発見者でもある大橋良介氏は『京都学派と日本海軍』(2001)において同会合では陸軍主導の戦争方針の是正し東条内閣打倒を含む戦争終結のための和平工作が画策されていたと述べています。もしそうであれば京都学派の行った「戦争協力」の意味合いは、今日においてまったく異なった様相を帯びてくるでしょう。
 

* ポストモダンにおける西田哲学

 
いずれにせよ近年において西田哲学がこうした国内のコンテクストとは関係なく西洋哲学の限界を打破する潜勢力を持つものとして海外で評価されるようになり、これを受けて日本においても京都学派の持っていた先見性が見直されつつあります。
 
この点、檜垣氏は京都学派の思想家たちは西洋哲学の同時代的な流れを敏感に察知しながらも、それをまさに自分たちの「問題」そのものとして素手で捉え、プラグマティズム生の哲学現象学や解釈学、ニーチェ的な古代への帰還などが示す諸概念を、アイデアの「おもちゃ箱」のようにひっかき回し、そこに日本的な言葉を実験的に組み込んでいたように見えなくもなく、それは期せずしてポストモダン状況における脱近代的な模索と重なってしまう部分があると述べており、それゆえに西田哲学および京都学派は「すでに古典化されたポストモダン思想のバッググラウンド」として読むことができるといいます。
 
確かに檜垣氏が『西田幾多郎の生命哲学』で論じているように西田のいう「純粋経験」は同時代のベルクソンの「純粋持続」に通じ、さらに「場所」はやはりベルクソンの「純粋記憶」と関連します。そして「行為的直観」「絶対矛盾的自己同一」はフランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する思想家ジル・ドゥルーズが主著『差異と反復』(1968)でベルクソン哲学の乗り越えを企図して展開した時間論(とりわけ第3の時間の総合)を先取りしたものとしても読めるでしょう。そうであれば、このようなベルクソンドゥルーズの議論を参照枠として、今日においてますます加速しつつあるポストモダン状況のなかに西田哲学や京都学派を位置付け直すことで、ここから日本における現代思想のまったく新たな地平を開くことができるのではないでしょうか。