*「まどか」の名を冠するに相応しい物語
魔法少女まどか☆マギカ。新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏をはじめ、スタジオシャフト、劇団イヌカレー、梶浦由記氏といった多彩な才能のコラボレーションによって生み出された同作は2011年、東日本大震災の翌月に放映されたTVアニメーション最終話が大きな反響を呼び起こし、批評誌『ユリイカ』で総特集が組まれるなどアニメーションというジャンルを超えて現代表象文化に多大なインパクトをもたらしました。そして翌々年に公開された映画『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』も絢爛豪華な映像と衝撃的な結末が話題を集め、これまた期待に違わない大ヒットを成し遂げました。
こうして、まどか達の物語は一旦は幕を下ろしました。その後、続編の構想が幾度なく再浮上する過程で企画されたスマートフォン向けアプリゲームが本作『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』です。
本作は2016年9月に「〜シャフト40周年記念〜MADOGATARI展」において製作が発表され、2017年8月22日にiOSアプリとAndroidアプリがリリースされました。原作アニメのプロデューサーである岩上敦弘氏は本作の企画の経緯について「アニメの新作までまだもう少し時間がかかりそうなため『まどか☆マギカ』のキャラクターが活躍するタイトルを作りたいというアイデアがきっかけ」と語っています。
正直なところをいえば、当初このゲームには大して期待していませんでした。なぜなら本作には「まどか」のシナリオを担当した虚淵玄氏が参加していなかったからです。けれど実際にゲームをやってみると思いのほか、そのシナリオの高い完成度に驚かされました。本作は名実共に「まどか」の名を冠するに相応しい物語だったと断言できます。そしてこの度「マギレコ」は2024年7月31日をもってサービス終了となり、約7年の歴史に幕を閉じることになります。
* ソーシャルゲームの運命とマギレコの立ち位置
本作のサービス終了につき発売元のアニプレックスは「現状においてサービスの品質を維持した運営の継続が困難であるという判断になった」と説明しています。この点、ソーシャルゲームの「平均寿命」はだいたい2年半から3年とされていますが、この「平均寿命」あたりできっちりサービス終了となるタイトルは意外と少なく、長期にわたり運用されるタイトルと短期の運用でサービス終了となるタイトルに二極化されているともいわれます。
そもそもソーシャルゲームを運用する上での目標はひとまずはリクープ(投資費用の回収)にありますが、短期の運用でサービス終了となるケースはこのリクープが早々に不可能であると判断された場合です。利益が出ていない場合はもちろん、たとえ利益が出ていてもリクープに数年を要することが見込まれる場合は開発リソースを有効活用する必要があることから、当該タイトルはサービス終了となります。
つまりリクープが比較的早期に見込めると判断された場合、そのタイトルは長期にわたり運用されることになります。けれども、たとえリクープに到達した後でも今後の利益がマイナスにしかならないことが見込まれるのであれば、やはり当該タイトルはサービス終了となり、ユーザーは資本主義の諸行無常を垣間見ることになります。
もっとも、今冬に11年ぶりの新作映画である『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』の公開を控えたこのタイミングでの本作のサービス終了はこうした単純な運用上の問題だけではないようにも思えます。
もちろん現在のマギレコの収支状況がどのようになっているかは分かりませんが、すでに本作のメインストーリーが完結してから1年10ヶ月が経過しており、そのサービス終了の告知に先立ち、その後継的な位置にある新作アプリゲーム『魔法少女まどか☆マギカ Magia Exedra』のリリースが予告されていることから、本作のこのタイミングでのサービス終了はまどか☆マギカというコンテンツ全体の中でいえば、むしろこの先のシリーズ展開を見据えた上での満を持して迎えたサービス終了であったともいえるかもしれません。
* 魔法少女の真実とドッペル
「まどか」の原作アニメのあらすじは次のようなものです。物語は鹿目まどかが街を蹂躙する巨大な怪物と戦う少女、暁美ほむらを目撃し、謎の白い生物、キュゥべえから「僕と契約して、魔法少女になってよ」と告げられる夢を見るところから幕を開けます。その後「魔女の結界」に迷いこんでしまったまどかと友人の美樹さやかは魔法少女、巴マミに救われ、キュゥべえから魔法少女になるよう勧誘を受けることになります。街の人々を守るため魔女と戦うマミの勇姿を目の当たりにした2人は魔法少女へ強い憧れを抱きますが、まもなくマミは魔女との戦いで惨殺されることになります。
まどかが魔法少女への憧れとその現実の間で葛藤を繰り返す一方で、さやかは想い人の怪我を治す為、キュゥべえと契約して魔法少女となります。そこに新たな魔法少女、佐倉杏子が現れ、ほむらを加えた魔法少女同士の仁義なき抗争の火蓋が切って落とされ、刻々と悪化する情況の中で、やがて「魔法少女の真実」が徐々に明かされていきます。
キュゥべえの正体はインキュベーターという地球外生命体であり、彼らは宇宙の寿命を伸ばす為にエントロピーに逆立するエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」がもたらす感情エネルギーに着目し、そのエネルギーを効率的に搾取する為のシステムを開発します。これが「魔法少女」です。
キュゥべえ=インキュベーターと契約し、一つの願いと引き換えに魔法少女となった少女は、その魂を身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されます。そして極限まで穢れを溜め込んだソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移します。かくて魔法少女は魔女となり、インキュベーターはその際に生まれる莫大な感情エネルギーを回収するわけです。
つまり、魔法少女とはその敵であると思っていた魔女のまさしく前駆体的存在であったということです。これが「魔法少女の真実」です。ところが本作ではこうした魔法少女の悲劇的な運命に終止符を打つかの如き革命的なシステムが発明されます。これが「ドッペル」です。
* 魔法少女たちの仁義なき抗争
本作の第1部「幸福の魔女編」のあらすじは次のようなものです。本作の主人公である環いろははあるときから頻繁に見知らぬ少女が出ている夢を見るようになり、その夢の真相を知るべく夢を見るきっかけとなった新興都市「神浜市」を訪れます。そこでキュゥべえの特異的個体である「小さいキュゥべえ」に触れ、夢に出てきた少女が自身の記憶からなぜか消去されてしまっていた妹、環ういであったことを思い出したいろはは妹を探し出すことを決意します。
その一方でいろはは七海やちよ、由比鶴乃、深月フェリシア、二葉さなをはじめとした神浜市の魔法少女らと懇意となり、彼女らと共に神浜市に出現する「ウワサ(うわさ)」と呼ばれる謎の現象を解決するうちに魔法少女結社「マギウス」を名乗る魔法少女たちと邂逅し、あの「魔法少女の真実」を聞かされます。そして、魔法少女を魔女化の運命から解放すべくマギウスが開発したシステムが「ドッペル」です。
「ドッペル」とは端的にいえば「魔女化の代替行為」です。ソウルジェムに極限まで溜め込まれた穢れはドッペル発動により魔法少女の魔力へ変換され、魔法少女は魔女化することなく魔女の力を制御できます。このようにしてみると、ドッペルは全ての魔法少女をその運命から解放する福音のようにも思えます。
けれどもマギウスの目的はあくまでも自らの欲望の成就にあり、魔法少女の救済など所詮は目的に至るための手段でしかなく、その為、彼女達は魔法少女はもちろん、無辜の一般人も平気で犠牲にします。こうしたことから、いろは達はマギウスと対峙することになります。
そして、さらに本作の第2部「集結の百禍編」においてはこのような「ドッペル」の基盤となる「自動浄化システム」をめぐり、いろは達の「神浜マギアユニオン」は「プロミスドブラッド」「時女一族」「ネオマギウス」といったそれぞれが異なる主義主張を掲げる魔法少女勢力との間で熾烈な抗争を展開することになります。
* 現代政治哲学の縮図としての「まどか」
このようにしてみると本作における「いろはの物語」とは畢竟、様々なクラスターによる友敵の分断が加速する2010年代以降における現実の反映といえます。そして、こうした現実を踏まえた上で「いろはの物語」は「まどかの物語」に対して批評的応答を試みているようにも思えます。
この点「まどかの物語」はまさに現代政治哲学の縮図でもありました。言うなれば、キュゥべえは最大多数の最大幸福を重視する「功利主義」の立場を、マミとさやかは不遇な人々の救済を重視する「リベラリズム」の立場を、杏子とほむらは自由意志による主体的選択を重視する「リバタリアニズム」の立場をそれぞれ代弁しています。
こうした中、まどかは最終話においてすべての魔法少女が魔女になる前に消滅する世界を願います。そして続けて彼女は次のように言います。「神様でもなんでもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる」と。
このようなまどかの願いは現代政治哲学においては「コミュニタリアニズム」と呼ばれる立場から読み解くことができます。コミュニタリアニズムの代表的論客として知られるアメリカの政治哲学者、マイケル・サンデルによれば、個人を基礎づける「生の物語」は常の我々の属するコミュニティの物語と結びついており、それゆえにある制度が「正義」に値するか否かは、当該コミュニティを規定する名誉や美徳といった「共通善」に照らしあわせなければならないとされますが、まさしく、まどかは魔法少女というコミュニティの物語を書き換える事で、彼女が「希望」と呼ぶ魔法少女の「共通善」を称揚したといえるでしょう。
* 分かり合えなさのなかで手をつなぐ
しかしながら様々な主義主張を掲げた魔法少女勢力が友敵に別れて仁義なき抗争を繰り返す本作は「まどかの物語」が称揚した魔法少女の「共通善」など幻想に過ぎないことを突きつけます。こうした中、特定の「共通善」によることなく魔法少女同士の連帯を基礎付けようとする「いろはの物語」は現代政治哲学においてリチャード・ローティに代表される「ネオプラグマティズム」に相当するといえるでしょう。
ローティは初の単著である『哲学と自然の鏡』(1979)において世界には永遠普遍の真理や究極の本質などという必然的なものはなく、それはその時々の「ことばづかい」によってつくられる(歴史の中で変わりうる)偶然的なものであると主張しました。そして代表的著作である『偶然性・アイロニー・連帯』(1989)において「偶然性」に規定された「わたしたち」がたまたま持つ「終極の語彙」を「アイロニー」により再記述する「わたしたちの拡張」の結果として「連帯」が生じるとして、人々の「ことばづかい」をめぐるコミュニケーション実践こそが現代における哲学に課された使命であるとしました。
そして、本作においていろはが様々な魔法少女と繰り返してきた真摯な対話はまさにこうした「ことばづかい」の違いによる互いの「分かり合えなさ」を分かり合い、手をつなぐためのコミュニケーション実践であったようにも思えます。こうした意味で本作は2010年代以降の現実に誠実に対峙した想像力によって、かつてまどかが願った「希望」の在り処をより高い解像度で描き出した物語を展開してきたといえるでしょう。