かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

最終兵器に花束を--世界の果てには君と二人で(高橋しん)

 

* 戦後日本的なアイロニズムとしての「セカイ系

 
戦後日本を代表する批評家である江藤淳氏は、その主著「成熟と喪失」において当時の文学的潮流のひとつを成していた「第三の新人」と呼ばれる作家たちの作品を題材にして、伝統的に母性原理が強いとされる日本社会における「成熟」の条件を論じています。氏は「第三の新人」を代表する作家の1人である安岡章太郎氏の小説「海辺の光景」は近代社会に直面した「母」の動揺と崩壊を描き出した作品であるとして、ここから戦後日本社会における「成熟」の条件とは「(母を見棄てたことによる)喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの悪を引き受けること」であると主張します。
 
そして氏はこうした「悪」を引き受ける「成熟」の主体を「治者」と呼び、やはり「第三の新人」を代表する作家の1人である庄野潤三氏の小説「夕べの雲」に「治者の文学」を見ることになります。同作の主人公はすでに「母」が崩壊してしまった世界であたかも「父」である「かのように」日々を生きています。この点、伝統的に父性原理の強い西欧社会における「成熟」とは「父=近代的市民」になる事を指しています。けれども江藤氏のいう「成熟=治者」とは「父=近代的市民」になるのではなく、むしろ「母=前近代的世界」を見棄てるという「悪」を引き受ける事で、あたかも「子」が「父」である「かのよう」に振る舞う事をいいます。
 
こうした氏の成熟観には、たとえそれが無意味である事を知りつつ「あえて」それを行う事に美学を見出すという戦後日本的なアイロニズムのひとつの変奏曲を見出す事ができるでしょう。そして、こうした戦後日本的なアイロニズムゼロ年代のオタク系文化において一世を風靡した「セカイ系」という潮流においてもまた見事に反復されているといえるでしょう。
 

* セカイ系という言葉の起源

 
セカイ系」という言葉が初めて公に用いられたのは2002年10月31日、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の掲示板に投稿された「セカイ系って結局なんなのよ」というタイトルのスレッドだとされています。
 
そこで管理人のぷるにえ氏は「セカイ系」とは「エヴァっぽい作品」に、わずかな揶揄を込めつつ用いる言葉であるとし、これらの作品の特徴として「たかだが語り手自身の了見を「世界」などという誇大な言葉で表現したがる傾向」があると述べています。
 
そして、ここでいう「エヴァ」というのは、言うまでもなく、あの「新世紀エヴァンゲリオン」のことを指しています。TV放映開始当初のエヴァは「究極のオタクアニメ」としてスタートしました。細かいカット割りや晦渋な言い回しの台詞の随所に垣間見える、宗教、神話、映画、SF小説からの膨大な引用。このようなカルト的世界観はいわゆる「オタク」と呼ばれる人々の知的欲求ないし快楽原則を最大限に刺激するものでした。ところが後半、エヴァの物語は破綻をきたして行きます。映像の質は回を追うごとに落ちて行き、それまでに撒き散らされた「アダム」「リリス」「人類補完計画」といった謎への回答は完全に放棄され、物語の視点は登場人物の内面に移って行きます。
 
エヴァ終盤で描かれたのは、庵野秀明自身の「自意識の問い」そのものであったと言われています。すなわち、エヴァは終盤で、唐突に「究極のオタクアニメ」から「オタクの文学」に転向したわけです。このような転向は当然オタク層から激しい論難を浴びせられる事になります。けれども皮肉にも「オタクの文学」としてのエヴァの内省性は一般層への幅広い共感を呼び、エヴァは社会現象となりました。
 
端的に言えば「セカイ系」とは、このエヴァ後半で前景化した「自意識の問い」への返歌であるということになります。つまり、巨大ロボット、戦闘美少女、ミステリーといったオタク系文化におけるジャンルコードの中で「〈私〉とは何か」「〈世界〉とは何か」という「自意識の問い」を過剰に語る作品群こそが本来的な「セカイ系」と呼ばれるものになります。
 

* セカイ系の再定義

 
このように「セカイ系」とは、もともとはエヴァ後半で前景化した「自意識の問い」に焦点を当てた一人語りの激しい作品を指していました。ところがゼロ年代中盤以降、文芸批評の分野において注目を集めた「セカイ系」は次のように再定義されることになります。
 
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的大問題に直結する作品群」
 
批評家の東浩紀氏らが中心となり発刊された同人誌「美少女ゲームの臨界点(2004)」によるこの有名なセカイ系の定義は、東氏の主唱する「象徴界の失墜」という理論に対応しています。すなわち、現代思想に大きな影響を及ぼすフランスの精神分析家、ジャック・ラカンは人間の精神活動を「想像界(イメージ領域)」「象徴界(言語領域)」「現実界(言語領域の外部)」という三つの位相で捉えていますが、東氏によれば「大きな物語」が失墜したポストモダン状況が加速する現代においては、このラカンにおける「象徴界」の機能が失調しており、あたかも「想像界」と「現実界」が直結したかのような感覚が強くなっているということです。東氏は次のように述べます。
 
僕たちは象徴界が失墜し、確固たる現実感覚が失われ、ニセモノの満ちたセカイに生きている。その感覚をシステムで表現すればループゲームに、物語で表現すればセカイ系になるわけだ。
 
 (「美少女ゲームセカイ系の交差点」より)

 

要するに、ここでセカイ系は「組織」とか「敵」といった「世界観設定(象徴界)」を積極的に排除して「ヒロイン(想像界)」と「世界の果て(現実界)」を直結させる構造として再定義されることになります。そしてこうした構造の下では主人公の実存はヒロインの母権的承認によって担保され、主人公の「自意識の問い」はヒロインを--すなわち「母」を--救えない己の無力さへと向けられることになります。
 
ここにはまさしくあの「(母を見棄てたことによる)喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの悪を引き受けること」という江藤氏の規定した成熟の条件が見事なまでに表れています。言うなればセカイ系とは極めて戦後日本的成熟観を引き継いだ想像力であり、その本質は到達不可能な「世界の果て=外部」を仮構し、その周囲をひたすら空回りし続ける否定神学的な欲望にあるといえるでしょう。
 

* 最終兵器彼女

 
最終兵器彼女」という作品は、このようなセカイ系を象徴する不朽の名作の一つに位置付けられています。高橋しん氏により2000年1月から2001年10月まで「ビッグコミックススピリッツ」で連載された同作はTVアニメ、OVA、ゲーム、実写映画といったメディアミックスを通じて幅広い支持を獲得し、現在、単行本発行部数は400万部を突破しています。
同作のあらすじはこうです。北海道の高校に通うシュウジとちせは、ほんのちょっとした偶然からカップルになってしまい、付き合うといっても何をしていいのかわからず、無理に恋人同士を演じようとして却ってぎくしゃくしてしまう。けれども二人はお互い本音を吐露し、改めて「好きになっていこう」と歩み寄っていく。しかしその矢先、札幌に現れた謎の爆撃機の大編隊が都市部へ無差別空爆を行い、10万人以上の死者、行方不明者が発生する。その惨劇の最中、シュウジは戦場で身体から金属の翼と機関砲を生やしたちせと遭遇する。そう、果たしてちせの正体は世界の命運を握る「最終兵器」であった。
 
同作最大の特徴は登場人物が吐露する極めて繊細な心理描写にあります。同作では時にページを埋め尽くすほどの濃密なモノローグが展開され、そこでは「生きていく」「恋していく」という人の生の営みの根源が繰り返し問われていきます。しかし、その一方で本作の「戦争」の目的や「敵」の正体などについては一切説明がなく、また、ちせの最終兵器としての技術的メカニズムもほとんど不明なままです。要するに「世界観設定」の構築が完全に放棄されているのも本作の特徴です。
 
激しい自意識語り、少女と世界の直結、世界観設定の排除。こうした点で言えば、本作はセカイ系という概念に極めて忠実な作品と言えるでしょう。そもそも「最終兵器(現実界)」と「彼女(想像界)」を並置させたそのタイトルがすでにセカイ系の本質を正面から名指しています。
 
もっとも「セカイ系」という言葉が一般化したのは2002年以降であり、本作が連載されていたのはそれ以前の2000年から2001年の間であることから、本作はセカイ系を代表する作品というより、むしろセカイ系という概念を産み出した作品の一つと呼ぶ方が正確なのかもしれません。
 

* セカイ系=引きこもり? 

 
本作を含むセカイ系作品が一斉を風靡した背景には当時の時代状況というものを考えるべきでしょう。90年代後半からゼロ年代初頭という時期、就職氷河期は長期化し、戦後日本を曲がりなりにも支えていた終身雇用や年功序列といった昭和的ロールモデルも破綻の兆しを見せ始めていました。すなわち、従来のような意味での「父」となることが難しい時代になったということです。こうした時代の転換により実存的不安に曝されることになった人々は、ひとまず「母」の承認の下でその実存を確保しようとしました。ある意味でセカイ系とは時代の急性期を乗り切るための処方箋として機能していたともいえるでしょう。
 
そして、こうしたセカイ系作品に対してクリティカルな批判を提出したのが宇野常寛氏のデビュー作「ゼロ年代の想像力(2008)」です。氏は同書において「新世紀エヴァンゲリオン」に代表される想像力は90年代後半における社会的自己実現への信頼低下を背景とした「引きこもり/心理主義的」な「古い想像力」であり、ゼロ年代においては米同時多発テロ構造改革路線による格差拡大といった社会情勢を背景として、いまや「引きこもっていたら殺される」という「サヴァイヴ感」を反映した「開きなおり/決断主義的」な「新しい想像力=ゼロ年代の想像力」が台頭していると主張します。
 
こうした枠組みを前提として、氏はゼロ年代初頭に花開いた「セカイ系」とはいわば「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」というべき時代遅れの想像力であると断じ去り、安易な母性的承認に引きこもるだけのセカイ系でもなく、究極的には無根拠の正義を振りかざして不毛な動員ゲームを繰り広げるだけの決断主義でもない「ポスト決断主義」の想像力こそがいま求められていると論じます。
  

* シュウジとちせの「サヴァイヴ感」

 
確かに宇野氏の指摘の通り、セカイ系とは今や乗り越えられた一つのジャンルであることは疑いないでしょう。けれどもその一方で「セカイ系」という言葉が流通する以前の作品である本作はセカイ系一般には収まりきれないある種の「過剰さ」をも抱え込んだ作品でもあります。
 
例えば同作の後半、シュウジとちせは故郷を離れて、海の見える街で暮らし始めます。そこでちせはラーメン屋、シュウジは漁協で大人達に混じって泥まみれになって働き、日々の生計を立てていく姿が仔細に描き出されます。「戦争」という非日常が二人の日常を侵食していき、徐々にちせが人格崩壊を起こしていく中で、二人は最後の最期のぎりぎりまで日常の側に留まりに「戦争」という非日常に抗おうとしていました。こうした過酷な現実と格闘する二人の姿は「セカイ系=引きこもり」というイメージからは最も遠い姿であるといえるでしょう。
 
ここにはまさに宇野氏のいう「引きこもっていたら殺される」という「サヴァイヴ感」が全面的に打ち出されています。そういった意味で同作は「世界の果て=外部」を仮構する想像力に依拠しつつも、その一方でいわば「世界の片隅=内部」で格闘する想像力をも胚胎させていたといえます。
 

*「その後」を描いた物語

 
そして本編の連載終了から5年後に公刊された短編集「世界の果てには君と二人で」では、まさにこの「世界の片隅=内部」で格闘する想像力をもって「世界の果て=外部」を仮構する想像力に抗っていく光跡を見出す事ができます。
 
まず本編の連載終盤に執筆された一つ目の短編「世界の果てには君と二人で。あの光が消えるまでに願いを。せめて僕らが生き延びるために。この星で。」では、ちせが戦場に飛んで行く瞬間を偶然一緒に見た中学生の男子と女子の小さな物語が描かれます。その不自然なまでに長大なタイトルが示すようにセカイ系的自意識に極めて自覚的な同作では、そのバカバカしさを承知の上で「世界の果て=外部」をあえて仮構することで「世界の片隅=内部」を生き抜いていく想像力が打ち出されています。
 
次に本編の連載が終了した翌年に執筆された二つ目の短編「LOVE STORY ,KILLED.」では、とある兵士と女子高生の交流とその末路が兵士の「お守り」である「銃弾」の視点から語られます。ここでは「世界の果て=外部」なき「世界の片隅=内部」における端的で無惨な現実が描き出されます。
 
そしてこの短編集が公刊された年に執筆された三つ目の短編「スター★チャイルド」はなんと本編の「その後」を描いた物語です。
 

*「セカイ」から「せかい」へ

 
世界が滅びた後、生き残った僅かな人類は争いを亡くし武器を棄て、かつての最終兵器であったちせを破壊の神と畏れ奉り、地底の「セカイ」で細々と暮らしていました。そして、この星の中で子ども達は神の名をもつ御子「ちーちゃん」、鬼っ子と呼ばれて蔑まれた「あーちゃん」、唯一の男の子で御子の許嫁の「マーちゃん」の3人しかいません。
 
ある日「ちーちゃん」が死に、やむなく最後の御子として「あーちゃん」が選ばれます。御子に選ばれる事は死を意味することを直感した彼女は偶然起こった地震に乗じて地底の「セカイ」から逃走し、神の偶像である一振りの剣を片手に追いかけてくる大人達を皆殺しにします。
 
こうして、この星に存在する人間は「あーちゃん」と「マーちゃん」の二人きりとなりました。そして光の射す大地の割れ目を通じて二人が地底の「セカイ」から外の「せかい」に出たその時に「あーちゃん」は神の御名「チセ」を名乗り、再びこの星に「人」が生まれることになりました。
 
この短編では「セカイ」と「せかい」という言葉が明確に書き分けられています。すなわち、ここには「世界の果て=外部」を仮構する「セカイ」を内破して「世界の片隅=内部」しかない「せかい」の歴史をゼロから紡ぎ始めるという想像力を見出すことができるでしょう。そういった意味でこの短い後日譚は最終兵器彼女という作品自体にある種の救いをもたらすと同時に、同作を規定し続けてきた「セカイ系」という呪縛を自ら乗り越えようとした作品であるように思えます。