かぐらかのん

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【書評】源氏物語と日本人(河合隼雄)

 

 

 

*「自分の物語」を見出すということ

 
人は生きていく上で「物語」を必要としてます。ここでいう「物語」とは自らの生を世界の中に基礎付けるための内的な幻想のことです。
 
この点「物語」は人が生きていく中で生じる様々な出来事を了解する媒介となります。こうした意味での「物語」の役割を担ったのが、古代においては「神話」「宗教」であり、現代においては「科学」ということになります。
 
現代において「科学」はさまざまな出来事に対して明晰な説明を与えます。けれども、人は自らが遭遇したあらゆる出来事を「科学」だけで割り切れるとは限りません。とりわけ不幸な出来事や理不尽な出来事に直面した場合は「科学」による「客観的な物語」とは別に、その出来事が「その人にとって」どういう意味を持つのかという「主観的な物語」が必要となるでしょう。
 
また「物語」は人が生きていく上での道標を示します。この点、かつては多くの社会が「スタンダードな物語」を持っていました。けれど価値観が多様化した現代において我々は「スタンダードな物語」無きところで、それぞれが「自分の物語」を見出していかなければならないという事です。
 
こうした「自分の物語」を見出した先駆的な例として、我が国の代表的古典文学である「源氏物語」を読み解いていくのが本書です。
 
 

*「源氏物語」とは「紫式部の物語」

 
源氏物語」は、平安時代の貴族社会を舞台に、主人公の光源氏の栄光と没落を描いた王朝物語です。作者である紫式部はあまり高位と言えない貴族の娘として生まれました。26歳頃、父親と同年齢ほどの男性と結婚し、一人の娘をもうけた後、夫と死別。この頃から「源氏物語」を書き始めたとされています。
 
こうして紡ぎ出された物語はやがて評判を呼び、時の権力者、藤原道長にその才気を見出された紫式部は、道長の娘である中宮彰子の教育係として宮中に出仕。その後も道長の支援の下、紫式部は「源氏物語」の執筆を続け、最終的に全54帖、400詰原稿用紙換算で2400枚におよぶ長編作品として完成させました。
 
先述したように「源氏物語」の主人公は光源氏という男性です。彼は容姿、地位、財産、教養、趣味どれをとっても最高レベルのステータスを持つ男性として設定されています。しかし物語全体を通読した河合氏が光源氏に抱いた印象はその「影の薄さ」です。
 
これはどういうことか。この点につき色々と思案した結果、氏は「源氏物語」とは「光源氏の物語」ではなく「紫式部の物語」であると結論します。
 
 

* 紫マンダラ

 
すなわち、光源氏の周囲にいる女性たち全てが作者である紫式部の分身であるということです。紫式部はこれまでの自らの半生を振り返り、自己の内面と向き合ううちに、彼女の内界に様々な変化に富む女性達の群像を見出した。
 
それは例えば優しく見守る「母」として、または誠実で忍耐強い「妻」として、時には激しく嫉妬する「娼」として、あるいは何かと反抗的な「娘」として出現する。そしてこれらの女性達の群像全てが、他ならないこの「私」なんだと、彼女は思った。
 
そして、紫式部は自らの内界に現れた無数の女性群像を一つの物語の中に統合するため、一人の男性を必要とした。このいわば「便利屋」的存在として召喚された男性こそが光源氏です。ゆえに光源氏は形式的には主人公ですが、実質的には主人公ではないということです。
 
そして本書は、こうした紫式部の内界に生じた女性群像を「紫マンダラ」として構図化します。この曼荼羅はまず、登場人物の女性たちが光源氏を軸として「母」「妻」「娼」「娘」のカテゴリーに配置される形を取ります。
 
こうして浮かび上がった「紫マンダラ」の全領域を走破していくのが、紫式部がとりわけ強く同一視した光源氏の正妻格である紫の上です。ここで紫式部「母」「妻」「娼」「娘」を一人の女性像として統合します。
 
さらに物語はここで終わりません。光源氏の死後、次世代の物語である「宇治十帖」においては、大君、浮舟という女性たちの物語を経て、最終的にはもはや男性との関係で自らの居場所を見出さない自由な存在としての、女性の在り方が描き出されることになります。
 
 

*「個の確立」における男性の物語と女性の物語

 
本書の著者である河合隼雄氏は、かつて小渕内閣で「21世紀日本の構想」という懇談会の座長を務めています。そして、その報告書をまとめるにあたり、氏が強調したのは「個の確立」です。
 
「個の確立」とは何でしょうか?この点、ユング派の分析家、エーリッヒ・ノイマンは西洋近代的な「個の確立」の範例として「英雄物語」を挙げています。ヨーロッパの昔話に数多く見られる「英雄物語」の根本的な枠組みは、一人の英雄が誕生し、怪物を退治し、最後は姫君とめでたく結ばれるというものです。
 
「英雄=自我」の誕生から「怪物=無意識」との対決を経て「姫君=幸福」と結合する。西洋近代的な「個の確立=自我の確立」とはこのような過程を通じて果たされるということです。
 
それゆえに、ノイマンは「個の確立=自我の確立」こそが近代においては、男女問わずに重要であるといいます。けれども「英雄物語」とは「力強い男性」が「か弱い女性」を救い出すという、言うなれば「男性の物語」です。
 
このような「男性の物語」を女性が敢えて生きようとする時、やはりそこには色々な無理が生じてきます。また男性であっても「男性の物語」を生きられない、あるいは生きたくない人だっているでしょう。
 
それゆえに、河合氏は「男性の物語」のオルタナティブとしての「女性の物語」による「個の確立」こそが現代においては、やはり男女問わずに重要であるといいます。そして紫式部という人は、恐るべきことに今から1000年以上も前に「女性の物語」による「個の確立」を、すなわち「自分の物語」を見出していたということです。
 
 

* 現代につながる想像力

 
「男性の物語」から「女性の物語」へ。こうした視点でみると、我が国のサブカルチャーの中には案外と、その随所に「女性の物語」を見出せるように思えてきます。
 
例えば、大正期に確立した「少女小説」というジャンルは、旧来的な家父長制社会を支える「家の娘」という呪縛から逃れていく主体として「少女」のイメージを提示しました。
 
初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性の一つとして知られるのは、少女同士の友愛を魅力的に描いている点にあります。そしてその背景には「エス」と呼ばれた当時の女学校文化があります。「エス」とはsisterhoodの頭文字Sからきた隠語で、女学校の上級生と下級生、あるいは同級生同士など、少女同士の擬似姉妹的な関係性をいい、その特徴は高尚かつ清純な精神性の称揚にあります。その後、男女の自由恋愛が普及するにつれて文化としての「エス」は衰退していきますが「少女小説の精神」は連綿と受け継がれ、現代においては「百合」という一大ジャンルの中に流れ込んでいます。
 
また、ゼロ年代的想像力における「セカイ系」から「日常系」へという変遷も「男性の物語」から「女性の物語」への変遷として捉えることができるでしょう。
 
この点「セカイ系」においては「無垢な少女」に守られる「無力な少年」が自らの矮小さを「自己反省」する事をもって「成熟」だと見做す構図がありました。これに対して「日常系」を生きる少女達はもはや異性間の性愛的関係を軸として自らのパーソナリティを記述したりはしない。彼女達は同性間の友愛的関係の中で自らのパーソナリティを記述して、生成変化させていくわけです。
 
光源氏から紫式部へ。家の娘から少女へ。セカイから日常へ。およそ1000年前に紫式部が切り開いた道はその後、近代を経て現代に至るまで、様々な想像力によって幾度となく辿り直され、踏み固められた道でもあります。こうした「近代を超える物語」「現代につながる物語」として「源氏物語」を読む時、そこには単なる「代表的古典文学」という旧来的枠組みには収まらない豊かな味わいと、様々な発見があるのではないでしょうか。