かぐらかのん

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【書評】おはなしの知恵(河合隼雄)

 

新装版 おはなしの知恵 (朝日文庫)

新装版 おはなしの知恵 (朝日文庫)

 

 

* 人は「おはなし」を必要とする

 
臨床心理学者、河合隼雄氏は折に触れて「私は私である」というアイデンティティ(自我同一性)の源泉としてファンタジーの重要性を強調されていました。ここでいうファンタジーとは個人の生を基礎付ける内的意味での「物語」をいいます。これが本書のいう「おはなし」です。
 
「聖書」や「古事記」などの古代の神話は、当時の人々が自分たちが生きるこの不可解で理不尽な世界を了解するために生み出した「おはなし」でした。そして現代においても相変わらず我々は「おはなし」を必要としています。
 
確かに科学やテクノロジーの目覚ましい発展は我々の生活を飛躍的に豊かにしてきました。けれども、それだけで人生の全ての問題を解決できるわけではありません。
 
生きていく上で我々は様々な不可解で理不尽な「現実」に遭遇します。その際たるものが「死」の問題です。当たり前ですが人はいつか必ず死ぬ。けれども、実際に親しい人の死に直面した時、また自らの死を宣告された時、その「死」についていくら医学的見地から詳細に説明されたとしても、やはり「なぜなのか」「どうあるべきか」という問いが残り続けるでしょう。
 
この点、自然科学の理論も「おはなし」の一種ではあります。けれども、自然科学の語る「おはなし」があまりにも明晰に物事を説明し過ぎるが故に、我々は自然科学的事実こそが「現実」の全てだと錯覚し、かえって「現実」を見失ってしまっているところがあります。こうした意味での「現実」を捉えて、心に収めて生きていく上で、我々は自然科学の「おはなし」に囚われない視点を持つ必要があるということです。
 
 

* 内界の出来事として「おはなし」を読む

 
この点、神話や昔話などは現代の「科学的」な視点からすれば荒唐無稽で非論理的なものばかりです。けれども、自然科学的事実の外にある「現実」を捉えるために必要なのは、むしろそういった荒唐無稽で非論理的な「おはなし」であるともいえます。そこで本書は、神話や昔話などの「おはなし」が蔵する深い「知恵」を臨床心理学の見地から詳らかにしていきます。
 
本書は「おはなし」を1人の人間の内界(こころの中)で生じた出来事として読むという視点を提示しています。この点、我々の「こころ」は大きく「意識」と「無意識」に分けられます。我々が持つ「私は私である」という認識は、我々の「意識」の枢要をなす「自我」という心的作用によるものです。ところがこうした自我の統合性を乱す別の心的作用が、我々が普段は意識することのない心的領域である「無意識」に存在します。
 
そして河合氏が依拠するユング派の理論によれば、意識の枢要をなす「自我」とは別に、意識と無意識の双方を含めた心全体の中心部に「自己」と呼ばれる「こころの基礎部分」を仮定します。こうした「自己」は、ある時には「母なるもの--グレートマザー」として、ある時には「生きられなかった半面--影」として、またある時には「他なる性--アニマ/アニムス」として、様々なかたちをとって顕現し、我々の心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力となります。そして、こうした再統合の過程をユング派では「個性化の過程」ないし「自己実現の過程」と呼びます。
 
こうした視点から本書は古今東西の様々な「おはなし」を読み解いていきます。例えば「桃太郎」は日本的な自我意識と無意識の関係性について、ある種の「範例」を示す「おはなし」と言えます。また「白雪姫」は「内閉期」を迎えた少女と「母なるもの」の「対決」について、イタリア民話の「怖いものなしのジョヴァンニン」は「生きられなかった半面」との付き合い方について、七夕伝承やナホバ・インディアンの神話は「他なる性」の分離と調和について、それぞれ雄弁に語っている「おはなし」として読めるでしょう。
 
 

*「正しいおはなし」が機能しない時代

 
かつて社会共通の価値観というべき「正しいおはなし」が機能していた時代において、人がその社会の構成員となる必要条件はこの「おはなし」を信じる事であり、信じない者はその社会において「悪」して排除されました。
 
けれども「正しいおはなし」の下で社会全体が思考停止しまえば、その先には悲惨な末路が待っています。かつての日本が「神州不滅」とか「大東亜共栄圏」などといった「おはなし」に国家全体が酔いしれて破滅へ向かった歴史は周知の通りです。
 
これに対して、現代は「正しいおはなし」が機能していない時代と言えます。こうした意味で現代は確かに「自由な時代」になったとも言えますが、当然ながら、それに伴い生じる様々な問題へ対処していくことも必要となりました。そして、そこで必要とされる能力は、大まかに言えば、以下のようなものが考えられます。
 
 

* 特定の「おはなし」を絶対化しない「批判力」

 
まず現代においては「正しいおはなし」という後ろ盾がない事から、そもそも「正しさ」とは何かが、よくわからないという問題があります。
 
この時、一番危険なのは狂信的な政治思想やカルト的な宗教教義など、とんでもない「おはなし」に「正しさ」を求めてしまう事です。「おはなし」は人を生かす側面と同時に、人を殺す側面も持っています。我々はどのように素晴らしく見える「おはなし」でも決して絶対視することなく、常にこれを批判的に観る視点を欠かしてはならないという事です。すなわち、ここで必要なのは特定の「おはなし」を絶対化しない「批判力」という事になります。
 
 

* 異なる「おはなし」と関係する「共感力」

 
同時に現代においては、異なる「おはなし」を生きる他者といかに関係していくかという問題があります。
 
この点、ある人がどのような「おはなし」を選ぶかは、根源的には「好きか嫌いか」というその人の個人的趣味の領域に関わります。例え自分がどれだけ好きな「おはなし」であっても、相手も好きになってくれるとは限りません。
 
従って、異なる「おはなし」を生きる他者と関係する上で生産的な態度とは、自分の好きな「おはなし」を生きつつも、他者の好きな「おはなし」をできる限り共感的に理解しようと努める態度という事になるでしょう。すなわち、ここで必要なのは異なる「おはなし」に関係していく「共感力」という事になります。
 
 

* 様々な「おはなし」と日常をつなぐ「想像力」

 
また現代においては、小説、映画、ドラマ、アニメ、ゲームといった形で市場に溢れ返る「おはなしの洪水」にどのようにコミットするかという問題があります。
 
これは換言すれば、こうした「おはなしの洪水」を「虚構」として単純に「消費」して満足するだけでなく「現実」の中でいかに「活用」するかという問題です。
 
比較的身近な活用例としては、ある作品を通じて他者とのコミュニケーションを円滑にしたり、ある作品に縁ある土地を「聖地巡礼」したりする営みがあるでしょう。もう少し高度な活用例だと、ある作品を素材とした批評、二次創作、コスプレといった営みが挙げられるでしょう。さらに高度な活用例になると、河合氏のように、ある作品を心理療法における参照枠として用いる営みなどが考えられるでしょう。
 
いずれにせよそこで「おはなし」は我々の日常をより豊かで創造的なものにするための媒介者として機能しているということです。こうした「おはなし」の「活用」は現代思想の文脈において「拡張現実」と呼ばれます。すなわち、ここで必要なのは様々な「おはなし」と日常をつなぐ「想像力」という事になります。
 
 

*「おはなし」を書き換えていくということ

 
特定の「おはなし」を絶対化しない「批判力」。異なる「おはなし」と関係する「共感力」。様々な「おはなし」と日常をつなぐ「想像力」。こうした力を涵養する上でも「おはなしの知恵」に学ぶ意義は大きいでしょう。
 
人はその生において、環境、立場、人間関係といった様々な変化、あるいは病気、事故、挫折といった様々な試練に遭遇する中で、それまでの自身を基礎付けてきた「おはなし」が上手く機能しなくなる事がしばしあります。
 
そんな時、我々は自身の「おはなし」を書き換えていかなければなりません。それは時に苦しみを伴う過程となるでしょう。こうした過程を乗り越える上で、様々な「おはなしの知恵」はきっと助けとなるはずです。すなわち「おはなしの知恵」とは「生きていくための知恵」に他らないという事です。