* ポスト・セカイ系としての「日常系」
1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と言われるポストモダン状況がより加速したと言われています。従来、人々に「正しい生き方」を付与していた社会共通の規範や価値観への信頼性が低下したポストモダンにおいては「生きる意味とは何か」という「自意識の問い」が前景化してくる事になります。
この点「新世紀エヴァンゲリオン(1995)」は「人類補完計画」による「おめでとう」という黙示録を仮構し、このエヴァの想像力を引き継いだ「セカイ系」と呼ばれる作品群は「無力な少年」が「無垢な少女」に救われる「優しいセカイ」の物語を処方しました。
これらはいずれも「世界の果て」へ超越する想像力により「自意識の問い」を救済しようとした試みといえるでしょう。
これに対して「世界の果て」へ超越する想像力から出発しつつ、いつのまにか「世界の片隅」というべきこの日常の中に着地するのが「涼宮ハルヒの憂鬱(2003)」という作品でした。
ハルヒという作品がもたらしたのは「生きる意味」とは「ここではない、どこか」という彼岸ではなく「いま、ここ」の此岸の中にこそあるという価値観の転換でした。
* 「自己反省」から「日常の再発見」へ
「日常系」と呼ばれる作品は多くの場合その原作は4コマ漫画であり、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれます。そして作中において男性キャラは前面に出ることはなく、恋愛的な要素は極めて周到に排除されているのも特徴です。
そして、ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は別名「空気系」とも呼ばれたりもします。
こうした「日常系」はいわゆる「萌え要素のデータベース消費」の一つの形態として「セカイ系」に取って代わり登場した面も確かにあるにはありますが、その一方で「セカイ系」から「日常系」に至る想像力の変遷の中にはゼロ年代における成熟観の変遷をも見て取る事もできます。
この点、セカイ系が「ぼくときみ」という閉じた関係性の中で「自己反省」する事を成熟と見做す想像力と言えます。これに対して、日常系は「わたしたち」という開かれた関係性の中で「日常を再発見」する事で成熟を積み重ねる想像力と言えるでしょう。そして本作はこうした「日常系」のトラディショナルというべき作品です。
* 交歓の中で芽生える可能性に対する信頼
本作の主人公、ゆのは憧れのやまぶき高校美術科に合格後、学校の前にある学生アパート「ひだまり荘」に入居します。
ゆのは自分の夢が見つからない事に対して密かなコンプレックスを抱えています。けれど同じひだまり荘に住む同級生の宮子、上級生の沙英やヒロ、下級生の乃莉やなずな、そして茉里たちとの賑やかしい日々を過ごして行く中で、ゆっくりと、しかし着実に自分の在り方を見出していきます。
ひだまり荘の面々は同じ高校に通うというゆるい括り以外、生まれ育ったバックボーンも違えば、それぞれが描く未来図も違います。
こうした異なる物語を生きる者同士の交歓の中で芽生える可能性に対する信頼こそが、本作を支えている思想であり、これは一種のフォーマットとして後に続く日常系作品に大きな影響を与えています。
* 「ひとまずの気づき」としての「ひだまり」
ゆのは「自分の夢」を見つけ出せない事から、しばしば周りに抽象的な問いを投げかけます。これはいわばポストモダン的な「自意識の問い」の変奏に他なりません。
これに対して、ひだまり荘の面々を始めとした本作のキャラ達は、ゆのに「決定的な答え」ではなく「ひとまずの気づき」を与えます。
「決定的な答え」はある意味で唯一無二の道標を照らし出す光明となるかもしれません。けれども、そのあまりにも強烈な眩しさの中に絶対的な信仰を見出してしまうと、それ以外のものが見えなくなってしまうという危険と表裏にあるとも言えます。
一方で「ひとまずの気づき」は、自分と周りを見つめ直す場所をその都度、創り出す柔らかなひだまりと言えるでしょう。
絶対的な「光明」ではなく暫定的な「ひだまり」。そう、本作はまさしく「ひだまり」を描き出しているという事です。
こうしてみると「ひだまりスケッチ」というタイトル以上に本作に相応しいタイトルはないのではないでしょうか。
* 茉里というキャラが示唆するもの
本作は8巻において、これまでずっとひだまり荘の精神的支柱を担っていた沙英とヒロが卒業します。このエピソードはいつも涙なしには読めない感動的なものですが、ともかくもここでひだまりの物語は一旦は区切りを迎える事になります。
茉里は「対をなすパートナー」の不在ゆえに他のメンバーにランダムに絡んできます(乃莉に対してはやや百合っ気が出てますが)。そこで彼女は場の空気を適度に切断したり掻き混ぜたりするトリックスター的役割を演じています。
* 「つながり」の希望と病理
こうした「ひだまり」の変化の背景には、あるいは時代の要請する成熟観の変化を見て取る事ができるのではないでしょうか。
「大きな物語」の失墜が意識され始めた90年代末の成熟観がどのような「小さな物語」にいかに回帰するかを問うものだとすれば「大きな物語」の失墜がもはや自明の前提となったゼロ年代のそれは「小さな物語」同士がいかに関係していくかを問うものでした。
こうした問いに対して、ゼロ年代のひだまりをはじめとした日常系は「つながり」というひとつの洗練された回答を提出しました。また現実世界でも、ソーシャルメディアの急速な普及を背景とした「動員の革命」に象徴される様に「つながり」こそが世界を変えるというどこか希望めいた空気感がありました。
異なる他者同士の交歓から芽生える可能性への信頼。「つながり」は一見して理想的な関係性の有り様に思えます。ただ、こうした「つながり」とは異なる物語を生きる他者同士の関係性から生じるいわば「新しい小さな物語」でもあります。
もちろんこうした「つながり」自体は悪いものではありません。けれども、この「つながり」がやがて固定化してしまうと、その内側には同調圧力を発生させ、その外側には排除の論理が作動するという、かつての「セカイ」と同様の負の側面が生じてくるわけです。
実際に2010年代のインターネット界隈で生じた傾向は、世界を友敵に切り分け、失敗した人間には集団で嬉々として石を投げつける「つながりの病理」というべきものでした。
こうした事から、2010年代における現代思想シーンでは「つながりのセカイ化=接続過剰」から「切断と再接続」による新たな関係性を模索する言説が前景化します。例えば「弱いつながり(東浩紀)」「動きすぎてはいけない(千葉雅也)」「遅いインターネット(宇野常寛)」など、時代をリードする思想には必ずこうした「切断と再接続」の通奏低音が流れています。
* ばらばらの個々のままでの「かかわり」
接続過剰からの切断と再接続。「つながり」という物語へ回収される事のない、ばらばらの個々のままでの「かかわり」という関係性。
こうした思潮の高まりの中に本作の変化を位置付ける事はできないでしょうか。少なくとも茉里が加わった2010年代中盤以降の「ひだまり」が描き出す関係性の有り様は「ひだまり荘」という「つながり」と、そこに回収されない個々の「かかわり」が並走しているようにも思えます。
そしてまさにこうした「つながり」と「かかわり」が複雑にクロスオーバーしているのが本作最新10巻最後の文化祭エピソードです。文化祭目前、講評で構図の悪さを指摘され落ち込んでいたゆのはひだまり荘の「つながり」の中で自分を取り戻し、そしてひだまり荘内外における様々な「かかわり」を通じて見事、高校最後の文化祭を成功へと導きます。
ばらばらの物語達によるばらばらのままでのコラージュ。あのプラ板チャームはそのひとつの断片なのかもしれません。ゆのちゃん達にとっての最後の文化祭は10巻の節目を飾るに相応しい、ひだまりの魅力が集大成された珠玉のエピソードでした。本作はいつも読み返す度に何気無い日常の中にある煌めきを、様々な形での幸福の在り処を教えてくれます。2020年代のひだまりがどのような風景を見せてくれるか楽しみです。