かぐらかのん

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イロニーからユーモアへの折り返し--「動きすぎてはいけない(千葉雅也)」

* 生成変化の哲学

 
1960年代、フランス現代思想のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷しました。実存主義とはジャン=ポール・サルトル「実存は本質に先立つ」というキャッチコピーが端的に言い表すように、個人がその人独自の「実存」を切り拓いていく主体的自由を励ますものでした。こうした実存主義を真正面から批判したのが人類学者、クロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義です。
 
構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。レヴィ=ストロースの緻密な論証に対してサルトルは有効な反論を提出できず、たちまち構造主義は時代のモードへと躍り出ました。
 
ところがこうした状況は1960年代後半には早くも更新される事になります。すなわち「構造」それ自体に内在する構造を不安定化させる部分、無意識的綻びに注目し、そこを起点とした「構造の変化」を考えようとする思潮が前景化する。こうした一連の思潮を一般に「ポスト構造主義」といいます。
 
例えばミシェル・フーコーは、西洋近代社会に対する独自の「考古学」を通じ「社会という構造」が一定のメジャーな価値観を維持するため、自らの綻びを「狂気」「倒錯」「犯罪」といったマイナーな性の様態に仮託してこれを排除する有様を鋭利な筆致で描出します。
 
またジャック・デリダは一見、首尾一貫するかに見える「テクストという構造」に伏在している綻びの箇所を皮肉たっぷりに暴き出す「脱構築」によって一世を風靡しました。
 
そして、こうした「ポスト構造主義」の思潮の中でもっとも大きなインパクトを放ったのが、ジル・ドゥルーズが立ち上げた「生成変化」の哲学です。
 
「生成変化」とは言うなれば「自己という構造」の変化の事です。端的にいえば、ドゥルーズの哲学とは限りある生を限りなく肯定する哲学であり、楽しく生きる事への応援歌と言えるでしょう。
 
 

* ツリーからリゾーム

 
ドゥルーズといえば精神分析家フェリックス・ガタリとの共著「アンチ・オイエディプス--資本主義と分裂症(1972)」によってフランス内外に衝撃を与えた事でよく知られています。
 
「アンチ・オイエディプス」は68年5月にフランスを揺さぶった学生・労働者の反体制運動、いわゆる「5月革命」を木霊させた多方向に炸裂する欲望をテーマとして、1970年代の大陸哲学において最大の旋風の一つを巻き起こしました。そしてその続編である「千のプラトー--資本主義と分裂症2(1980)」は本国フランスでは冷遇されたものの、世界と、そして日本に途方も無いインパクトを与えました。
 
千のプラトー」は「アンチ・オイエディプス」で示された多方向へ欲望するダイナミズムを「リゾーム」という概念によって再定義します。「リゾーム(根茎)」とは「ツリー(樹木)」に対する概念です。これまでの社会(=モダン)は、国家や家父長といった特権的中心点(根・幹)へ派生的要素(枝・葉)が垂直的に従属する「ツリー」によって規定されていました。これに対して、これからの社会(=ポストモダン)は、特権的中心点なくして様々な関係性が水平的に展開する「リゾーム」によって言い表せるということです。
 
ツリーからリゾームへ。リゾーム的に思考せよ。こうした企てこそが、古い社会を解体して新しいポストモダンの地平を切り開く。こうしたドゥルーズ&ガタリのメッセージは革命の夢が潰えた時代の閉塞感に対する解毒剤となった。これが一般的な「いわゆるドゥルーズ」のイメージです。
 
 

* 「パラノ・ドライブ」から「スキゾ・キッズ」へ

 
こうした「いわゆるドゥルーズ」は1980年代の日本において熱狂的に歓迎されました。その導線となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の「構造と力(1983)」と「逃走論(1984)」です。
 
浅田氏は、多方向へ逃走しリゾーム的に生成変化する主体を「スキゾ・キッズ」と呼びます。「スキゾ」とはスキゾフレニア(分裂症)を理想化したものです。これに対して(体制/反体制にかかわらず)ひとつの排他的イデオロギーに執着する事をパラノイア(妄想症)に擬え「パラノ」と言います。
 
浅田氏は「健康化された分裂症」としての「スキゾ・キッズ」への生成変化を現代的な生き方として称えます。近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へ。こうした氏の提唱する軽やかな生き方はバブル景気へと向かいつつあった80年代消費社会の爛熟とも同調し「スキゾ・パラノ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞しました。
 
 

* 「接続」と「非意味的切断」

 
本書はこうした従来の「いわゆるドゥルーズ」のイメージに対して一石を投じ、ドゥルーズ哲学の読み直しを試みます。
 
この点「千のプラトー」におけるリゾームの第一原理は「接続の原理」であり「いわゆるドゥルーズ」はこうした絶えざる接続の中での変幻自在な生成変化を肯定するものでした。
 
ところが「千のプラトー」においては「接続の原理」の裏に「非意味的切断の原理」が見え隠れします。
 
ツリーからの切断を「意味的切断」だとすれば、リゾームからの切断は「非意味的切断」という事になります。意味的切断と非意味的切断。つまり本書の読解によれば、浅田氏の言う「逃走」は二度加速する事になるわけです。
 
 

* イロニーからユーモアへの折り返し

 
この点〈接続的ドゥルーズ〉の背景には、存在全体の連続性における差異化のプロセスにあらゆる事物を内在させるベルクソンスピノザ主義があるとされます。
 
これに対して本書によれば〈切断的ドゥルーズ〉の背景には、デビュー作の「経験論と主体性」以来、再浮上を繰り返したヒューム主義があります。そしてその核心は、同一性なき事象の「連合」による主体化と、その表裏の関係をなす「解離」にあります。
 
本書はその前半でドゥルーズ哲学史背景を丁寧に遡り〈接続的ドゥルーズ〉に対する〈切断的ドゥルーズ〉を際立たせた上で、その後半で「切断しつつの再接続」からの「器官なき身体への個体化(主体化)」へ至る可能性を論じます。
 
〈接続的ドゥルーズ〉が「ここではない、どこか(潜在性)」へ向かうイロニー的遡行だとすれば〈切断的ドゥルーズ〉とは「いま、ここ(現働性)」から「別のいま、ここ」へ向かうユーモア的折り返しになります。
 
イロニーからユーモアへの折り返し。本書で鮮烈に示された「個体化」の実践技法は氏のベストセラー「勉強の哲学」において「勉強の三角形」として、より洗練された形で提示される事になります。
 
 

* 生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない

 
「いわゆるドゥルーズ」の魅力は「リゾーム」という一語に極まる「めちゃくちゃ」へと向かう華やかさと危うさにあります。
 
けれども本書によれば、ドゥルーズは「華やかさ」と「危うさ」の裏で、同時に「慎重さ」をも求めていたということです。あらゆる事物が渾然一体となる「めちゃくちゃ」とは、いわばオーバードーズの彼方、自己破壊の極点であり、そこに到達してしまえば、もはや次の生成変化はあり得ない。持続可能な生成変化を行う上では、オーバードーズの回避が必要となる。そのために「接続過剰」の手前での「いい加/減な切断=非意味的切断」が必要となるということです。
 
この点、晩年のドゥルーズは「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を残しています。
 
生成変化とは「或るめちゃくちゃ」と「別のめちゃくちゃ」の間にある「と」にある。すなわち「差異」とはリゾームの際限なき接続をエコノマイズ(節約)するところに生じるということです。
 
 

* 「いい加/減」な生き方

 
本書はドゥルーズ研究の最先端を示す一冊であると同時に、何かと「つながり」が強調される「接続過剰」な現代における「いい加/減」な生き方を考えさせてくれる一冊でもあるでしょう。
 
我々は日々生起する理不尽な現実に直面した時に「これさえなければ」「あれさえあれば」とつい何かの幻想に執着してしまいがちです。けれども、ここでイロニーからユーモアへ折り返し「こうも言えるのではないか」と新しい視点から再び現実に着地し直してみる。こうした営みを経由する事で思わぬ所で物事が上手く行ったりもするわけです。
 
そういった意味で、現実をゆるやかに受け止めつつも変えていく日常実践の哲学としても本書は読めるのではないでしょうか。