かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

包み込む母性原理と切り離す父性原理--カウンセリングを語る(河合隼雄)

本書は四天王寺カウンセリング研修講座の講演録です。聴衆は主に学校の先生方で、当時は校内暴力が社会問題化していたという背景もあり、主に中高生にどう接していくかという点に主眼が置かれている。似たような話が形を変えて何度も出てきますが、そこから本質的なものが何であるかが浮かび上がってくるでしょう。
 
カウンセリングにはしばし相反する二つの相が伴います。例えばカウンセリングを少しかじった人なら誰でも知っているロジャーズ三原則というものがありますね。次のようなものです。
 
無条件受容(無条件の肯定的関心)・・・クライエントの表現したものがどんな内容であろうとも、それはその人の内的体験に基づいたその人なりの表出であるということを認め、批判や評価などの一切の価値判断をせず、ありのままに受容すること。
 
共感的理解・・・クライエントの「いま、ここ」にある私的な内面世界を、「as if(あたかも自分の事の様に)」感じ取ること。そして「as if(あたかも自分の事の様に感じ取る)」という態度をどこまでも失わないこと。
 
自己一致(真実性)・・・自身のなかに流れる感情や思考といった体験に対して、あるがままに驚く時は驚き、悲しむ時は悲しむ、という自身の内的体験と外的表出のとの間に不一致がないこと。
 
 
 
ロジャーズの説くところによれば、人は誰しも先天的に「自己を成長させ、実現する力(自己実現傾向)」と「自らの力で心と体を治していく力(自己治癒能力)」を持っており、植物が光・水・養分・空気があれば、生命本来の力でひとりでに育っていくように、人も心に適した環境さえあれば、その人の自己実現傾向・自己治癒能力が発現して症状や悩みが解消に向かうということになるとのこと。
 
そして、ここでいう「光・水・養分・空気」に当たるものが、カウンセラーの態度としての「受容・共感・自己一致」ということになります。
 
受容・共感・自己一致。これらひとつひとつはそれ自体は疑いもなく正しいのでしょう。ですが、この原則ほど言うは易く行うは難しというものはないということです。
 
例えば「今度教師をぶん殴ろうと思っている」などという子どもや、どう考えても怪しげな新興宗教の素晴らしさを延々と語る人など、どうにも同調できない意見をカウンセラーが表面的には「受容しているふり」をして聴きつつ、本心では否定している場合、その時点でもう「自己一致」していないことになりますね。
 
なので無条件受容と自己一致は矛盾する一面を孕んでいるわけです。
 
そのほかにも理論と実際、母性と父性、治療過程の明と暗。このような一見矛盾するかに見える二つの相がカウンセリングではしばし出てくる。そこで大局的見地からその本質を見極め、その矛盾を死に物狂いで統合しようして、初めてカウンセラーの態度は「生きた態度」になるということを、本書において河合先生は手を替え品を替え説いておられます。
 
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カウンセリングというのは、「しゃべっても聞いていなさい、黙っていても聞いていなさい」で、ともかく聞いていたらいいんだというぐらいの気持ちではじめたほうがいいのじゃないでしょうか。そうしているといろいろ出てきますので、出てきたことからぼくらが学ばせてもらう。これは何度繰り返してもいいぐらい大事なことだと思います。
 
河合隼雄「カウンセリングを語る(上)」より
 
 
上巻においてはカウンセリングの基本中の基本である「聴く」ことの重要性が繰り返し強調されています。まずは聴く、ひたすら聴く。カウンセラーというのはどんな話を聴いても、同じ話を何度もなんども繰り返し聴いても、常に生き生きとした共感を持って聴ける人でなければならないということです。
 
通常、人は他人の話を聞いているとついつい色々質問やアドバイスをしてしまいがちです。それはなぜかというと、いま聞いた話を早く自分の心の中のどこかに位置付けてラクになりたいからです。
 
そこを「最近、学校に行けていない」といえば「そうですか、学校に行けていないんですか」と、そのまま自分の心の中にポンと収めておく。同時にそこから湧き出てくる疑問達もいっぱい心の中で生かしておく。
 
かといって、絶対に質問やアドバイスをしてはいけないということではありません。そういう教条的な態度は「生きた態度」とは程遠いでしょう。要は相手の話を聞いて「共感したよ!」という力強いメッセージを発信し続けるというのがカウンセリングのイロハのイだということです。
 
つまり、カウンセリングとは本書の言うところの「自由にして保護された空間」の中で、クライアントが自らの悩みにどっぷり浸かって自分の力で立ち直っていくのをひたすら確信を持って待つ場であるとも言えます。
 
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そのときに、「おまえの気持ちはわかる」って言いだしたら、わかったら理不尽じゃないですからね。「おまえの気持ちはわからん」と言わないといけないんです。「わからんけど、こうなっとるんや」 と言わないといけないんです。そういう強さというものは、どこかでいるんです。
 
河合隼雄「カウンセリングを語る(下)」より
 
 
上巻が基礎編だとすれば下巻は応用編といえるでしょう。各学派や宗教、そして「たましい」との関係へとテーマは多彩に広がっていく。
 
とりわけ日本のカウンセリングにおける父性原理の必要性が強調されています。これは西洋に比べ母性原理的な要素が強い日本社会の構造を鑑みてのことなんでしょう。
 
父性原理とは究極的なところで言えば「お前に本は買ってやらん。だが俺は酒を飲む」という理不尽な禁止のことです。精神分析の用語で「陽性転移」というのがあるんですが、クライアントがカウンセラーを信頼して「この先生はわかってくれる」と嬉しくなると、信頼はいつしか依存へ変わり、あまり悩まなくなって治ろうと思わなくなることがあります。つまり、優しさだけではなく厳しさも必要であるということです。
 
ただ、河合先生も厳重に釘を刺しているように、これは決して「叱る教育が良い」などと言っているわけではない。
 
確かに、いわゆる「キレる子ども」の中には自分を問答無用で止めてくれる「父親的なもの」を探している場合もあるでしょう。けど一方で、例えば「見捨てられ不安」の強い子どもは圧倒的に「母親的なもの」が足りていない場合が多いわけです(「見捨てられ不安」というのは境界性パーソナリティ障害のケースにおいて顕著な特徴として見られます)。
 
あくまで大前提として「包み込む母性原理」があり、そのうえで「切り離す父性原理」をどこまで取り入れていくかという問題であることは注意を要します。カウンセリングにおいて時間、場所、料金を守るという原則が強調されるのは、限界を設ける父性原理としての意味もあります。本書が喩えで出しているように、ただ甘いだけのぜんざいよりも、ほんの少し塩を混ぜたぜんざいの方が美味しいということです。
 
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本書では通じて「なぜだかわかりますか?」という問いかけが非常に多く、読み手はここで一度立ち止まって考えさせられます。
 
また、一つのことを強調した後には「次にまた反対のことを言いますが」とか「間違わないようにしてくださいね」などと釘を刺し、読み手が「これはこうだ」という「型」には嵌らないように戒めている。
 
その語り口は穏やかで飄々としつつも、極めて熱く、信念と気迫に満ちている。カウンセリングのみならず対人援助領域全般、また普段の人間関係にも示唆を得る一冊でしょう。
 
上下巻ともそれなりのボリュームですが、講演録ということもあり、文章自体は極めて読みやすいです。ただやっぱりそれなりに自分の頭で考えながら読まないと身にはならないでしょうね。本書に書いてあるのはあくまで「河合先生の態度」であって、それを型通りに真似しようとしてもそれは決して自らの「生きた態度」にはならないということです。