結論からいえばこれは社会常識的に妥当な処理でしょう。しかしながら何故これを大多数の人がこのような処理を「妥当」だと感じてしまうのか?というその理由を色々と考察するのはそれなりに面白いものがあります。
これを仮に「芸術の論理」と名付けます。そして上記リンクはそのような区別は「芸術カースト」だと批判しています。
論理としては大変明快です。ただ、ここでの規制基準は「芸術の論理」ではないんだと思うんですよ。どうしてもそれだけでは回収しきれない要素があるからです。
めぐみが弟(幼児)をモデルにして描いた裸体図です。
めぐみの絵にはモザイクがかかっていない。いや、もちろん局部はマサムネの頭の位置でごく自然に見えないんですが、モザイクという「処理」で「露骨に隠されていない」という点が沙霧のそれと異なっています。
そして何より、めぐみの絵は主観的には20歳の成人男性を描いていることになっています。
ここに、割礼を得ていない=去勢されていない成人男性という点でダビデ像との間に共通項が得られるわけです。
以上のような対置構造から、沙霧ちゃんのエロマンガの規制理由が反射的に浮かび上がってきます。
お分かりでしょうか?結論から言えば、この区別は「去勢の論理」によるということです。
なかなか難解な定義ですが、要するに子供が母親(養育者)と近親相姦的に欲望し合う関係を父親(第三者)によって禁止されている状態を言い表しています。
ここで子供→沙霧ちゃん(=製作者)、母親→視聴者、父親→社会倫理と置き換えてみます。すると、どうなるか?
まず沙霧ちゃんはエロマンガ(の局部描写)を見せて、視聴者を欲望させたいわけですが、視聴者の欲望は社会倫理に統制されており、沙霧ちゃんが視聴者を欲望させようとすれば、必然的に社会倫理との間で緊張感を孕むことになります。
結果、沙霧ちゃんは、原作や円盤の売り上げとかアニメの2期などといった生存戦略(現実的父)の必要上、自らのエロマンガ(想像的対象)にモザイク処理(象徴的負債)を施し、視聴者を欲望させることを断念せざるを得ないという関係が成立します。
去勢の論理というのは突き詰めて言えば父親(=社会倫理)による享楽の独占であり、もっと言えば「お前のものは俺のもの。俺のものも俺のもの」というジャイアニズムに他ならないのですが、これは表現規制をはじめ、社会のあらゆる至る所にわりと潜んでおり、それが「公共の福祉」などといった、もっともらしい言葉を伴って巧みな形で現前しているわけです。
【追記】
ご指摘の通り、最初の文章が言葉足らずでした。意図としては、モザイクという処理の有無で切り分けたつもりだったんですが・・・投稿した次の日、論旨が不明確なことに気づいて本文を訂正しました。お返事が遅れて失礼しました。ブクマ&コメントありがとうございます( ´ ▽ ` )ノ