かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

中動態と訂正可能性

* 中動態からみた「悪の愚かさ」

 
『暇と退屈の倫理学』(2011)で知られる國分功一郎氏はもう一つの代表作である『中動態の世界--意志と責任の考古学』(2017)においてかつて言語に存在し、今や喪われた「中動態 middle voice」に注目することで「意志」や「責任」を問い直す議論を展開しています。かつてのインド=ヨーロッパ語族においては能動態でも受動態でもない「中動態」という態があまねく存在していたとされます。ここでいう中動態とはどのような事態を表す言葉なのでしょうか。
 
例えば「殴る」という動詞があるとして「わたしがあなたを殴る」というのは能動態による表現であり「あなたがわたしに殴られる」というのは受動態による表現です。両者は同じ動作を逆から捉えていますが、動作の主体である「わたし」と動作の客体である「あなた」がはっきりと分けられ、対立して位置付けられている点は共通しています。
 
けれども「殴る」という動詞は、そのような主客の分割ができない場面で使われることがあります。例えば「わたしがわたしを殴る」といった再帰的な動作や「わたしは殴られた感じになった」というふうに表現される心理的に打ちのめされているという継続的な動作を名指す場合があります。前者では主体と客体は一致していますし、後者ではそもそも主体がはっきりしません。このような動作を表す時にかつて古代言語で使われたカテゴリが中動態であったと考えられます。
 
このように中動態とは能動と受動の対立から見えてこない領域を開くものであるといえます。この点、東浩紀氏は昨年末に公刊した新著『平和と愚かさ』(2025)に収められた「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」(2020)という論考(以下、本論考)において、こうした中動態という視点から加害と被害の対立からはこぼれ落ちてしまう「悪の愚かさ」という問題を論じています。
 

* 悪の愚かさを記憶するということ

 

平和と愚かさ

平和と愚かさ

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本論考は「2」とあるように同じく『平和と愚かさ』に収められた「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」(2019)の続編となる論考です。同論考において氏はある種の悪や害について考えるためには加害と被害の対立を超える必要があるという問題提起をおこなっています。人は誰でも自分の醜い部分は忘れたいし、そもそも自身の加害性=悪に無自覚なことが多く、それゆえに加害者は害を忘れがちです。これに対して被害者は害を忘れることはありません。それゆえに彼らは害に意味を、換言すれば物語を与えます。被害者あるいはその遺族にとって害が無意味になされたという事実こそが耐え難いからです。
 
こうしたことから同論考は旧日本軍(七三一部隊)が中国東北部で行った人体実験とそれを主題にしたハルビンの博物館(侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館)の展示を例に、この「忘却」と「意味」の対立は「数」と「固有名」の対立に重なることを示しています。加害者は犠牲者から名を奪い数として殺し、やがて忘却します。他方で被害者は博物館や慰霊碑においてまずは被害者の名を回復し、それによって追悼し記憶することになります。
 
しかし同論考は悪の本当の残酷さとは、その悪に何の意味もないことであり、犠牲者は無作為に選ばれ無意味に殺されているに過ぎないとして、この無作為や無意味を「悪の愚かさ」と呼びます。こうしたことから忘却と記憶、数と固有名を対立させる博物館や慰霊の論理ではまさにその「無=愚かさ」こそが見えなくなってしまうのではないかといいます。
 
そこで同論考はハルビンの他にもキーウやクラルフでかつての収容所や虐殺の地の周囲に団地が建設されている事実に注目し「悪の愚かさ」の記憶を、すなわち、固有名を剥奪されて匿名的に生じた大量死の記憶を、名を回復された個人の生へと変形されることなく、団地に象徴される大量生という形で匿名的に記憶するという可能性を見出します。そして同論考の続編となる本論考では、この「悪の愚かさ」という、やや文学がかった表現を哲学的な概念へと練成するため、國分氏の中動態論が導入されることになります。
 

* イヤイヤながらやってしまった

 
本論考はまず國分氏の議論を冒頭で述べたように要約し、その上で、國分氏がこのような中動態の存在を前提とすると「意志」や「責任」といった概念が部分的に解体されてしまうと指摘している点に注目します。
 
現代における法制度は一般的に、人間は自分のやりたいことをやるか、やりたくないことをやらされるかのどちらかだという前提を取っています。前者であれば刑罰や損害賠償といった責任が発生しますし、後者であればこうした責任は発生しません。前者では人間は行為の能動的な主体だとみなされ、後者では人間は他人の行為の受動的な客体とみなされるからです。
 
けれども実際には世の中には自発的にやりたかったわけではなく、暴力によって強制されたわけでもないけれど「イヤイヤながらやってしまった」という事例が溢れかえっており、こうした事例における行為者は主体とも客体ともいえない立場にあるといえます。
 
國分氏はわかりやすい例としていじめ行為における被害者が加害者に進んで金銭を渡すというケース(いわゆるカツアゲ)をあげています。こうしたケースにおいて加害者は金銭の提供は決して強制ではなく、被害者の自発性に基づいていたと主張するでしょう。しかし、ここではその被害者の自発性こそがまさに強制されていえるでしょう。
 
本論考はこのような「自発性の強制」という論理を被害者のみならず加害者にも適用します。例えば集団で行われるいじめ行為の参加者を問いただしたとして、彼らの多くは強制されたわけではないけれど、かといって自発的に参加したわけでもなく、何となく場の空気に流されて「イヤイヤながらやってしまった」と答えるでしょう。つまり加害もまた中動態的に主体と客体が未分化のところで生じることがあるということです。
 
以上の議論は本論考のテーマである「悪の愚かさ」の問題と深く関係しています。ここで本論考は第二次世界大戦中に中国人を10人ほど「何げなし」に生体解剖したという元軍医の証言を参照し「悪の愚かさ」とはこのような「イヤイヤながらやってしまった=自発性の強制」という加害者の中動態的な態度によって生み出されているといいます。つまり「悪の愚かさ」を記憶するにはどうしたらよいかという問いは、能動でも受動でもない、加害の中動態的な性格をどのように記憶すればよいのかという問いに置き換えることができるということです。
 

* 中動態と原子力

 
さらに本論考は國分氏が『原子力時代における哲学』(2019)で展開した議論を取り上げます。同書は核兵器と原発の本質は同じものであるという立場から、なぜ20世紀の哲学者は核兵器にはこぞって反対を唱えたのに、原発すなわち「核の平和利用」にはほとんど反対しなかったのかと問い、そうした哲学者の中でほとんど唯一の例外がマルティン・ハイデガーであるといいます。確かにハイデガーは1995年の講演「放下」で軍事利用だけでなく平和利用も含めて原子力技術そののものが危険だという立場をはっきりと打ち出しています。ではなぜ20世紀の哲学者は原子力に抵抗できず、ひとりハイデガーだけが原子力の危険性を指摘できたのでしょうか。
國分氏はその謎を解くため中沢新一氏が『日本の大転換』(2011)で展開する原子力観を参照し、人類の文明は(あるいは地球という生態圏そのものは)太陽という「外部」からの「贈与」により成り立っているが、原子力は人類は太陽からの「贈与」がなくても生きていける可能性を拓くものだったといいます。そして、まさにこの「贈与」の排除への欲望こそが20世紀の哲学者が原子力に抵抗できなかった理由であるとして、そこに「失われた神のごとき全能感を取り戻そうとするナルシシズム」を見出し、しかしだからこそ、こうした全能感を「乗り越えて成長していかなければならない」と主張します。
 
そこで氏はまさにその全能感の克服のために求められるものがハイデガーの上記講演名でもある「放下 Gelassenheit」の思想だといいます。これは「させる」「するがままにしておく」という意味の動詞の過去分詞から作り出された名詞であり「放り出されていること」「委ねられていること」といった含意を持ち、ハイデガーの哲学においては人がある行為を能動的に行うのではなく「させられる」という感覚のもとで行うこと、あるいはその感覚の想起を意味しています。つまりそれは能動でも受動でもない、中動態の想起を意味しているということです。
 
こうしたことからひとは放下=中動態を想起することで幼稚なナルシシズムを克服し、太陽からの「贈与」を肯定し、原子力への依存を断ち切ることができると氏は言います。つまり原子力批判には中動態の思考が必要なのだということです。
 
もっとも本論考はこの國分氏の原子力をめぐる議論に違和感を表明します。理由は二つあります。その第一の理由は國分氏によるハイデガーの過大評価です。ハイデガーは確かに原子力を批判しましたが、彼の哲学ではそもそもあらゆる「技術」が古代ギリシアにまで遡って批判されるべきものであり、原発批判もその「技術」批判の延長線上で現れたにすぎないということです。
 
その第二の理由は國分氏はそもそも問いの展開を間違っているというものです。『原子力時代における哲学』は核兵器と原発は本質的に同じものなのに、人々はなぜ後者の誘惑に抵抗できなかったのか、という問いから出発したにもかかわらず、その同じものが彼らにはなぜ違うものに見えたのかという問いではなく、ハイデガーというそもそも両者に違いを見出さなかった哲学者に近づいてしまいます。それゆえに原子力には幼稚な全能感が反映されているという同書の結論は、それは人が原子力に惹かれる理由になっているだけであり、なぜ核兵器には惹かれずに原発には惹かれるのかという、その違いを説明する理由にはなっていないということです。
 

* 悪意のない殺人者と憎悪のない犠牲者が住まう楽園

 
このように國分氏の原子力論は大きな問題があるものの、原子力の害について考えるとき、中動態が鍵になるという洞察は確かに的を射ていると本論考はいい、ここからドイツの哲学者ギュンター・アンダースとフランスの科学哲学者ジャン=ピエール・デュピュイの議論を参照し、原子力と中動態のつながりをより具体的に論じていきます。
 
反核運動で知られるアンダースは1958年に第4回原水爆禁止世界大会のために来日し、その時、広島の被爆者と対話し、彼らが原爆投下の責任者への憎しみをほとんど語らないことに驚き、そこで彼は「悪意のない殺人者と憎悪のない犠牲者が住まう楽園」と記しています。もちろんこれはアイロニーであり、彼はその状況にこそ原爆という悪=害の本質を見出しています。
 
誰が何をしてどのように結果が起きたのかという事実関係は皆知っているにもかかわらず、原爆投下においては行為の起点にある意志とその結果の間にあまりに「巨大な距離」があるため加害者も被害者もその間につながりを感じられなくなり、害はまるで自然に起きた災害のように知覚されてしまいます。この「行為の連関」の「分裂」により作り出された倫理的麻痺を彼は後に「アポカリプス不感症」と呼んでいます。
 
すなわち、アンダースはここでまさに加害の中動態的性格を問題にしており、核兵器の加害は中動態的に起きるから危険だと主張しているといえます。さらにデュピュイはこうした中動態的麻痺をより広く破局的な災害一般において現れる文明の問題として考え、実際に2011年の福島第一原発事故を語る際に「悪意のない殺人者と憎悪のない犠牲者が住まう楽園」というアンダースの言葉を引いています。そして、こうした議論を踏まえ本論考は次のように述べます。
 
原子力はあまりにも複雑かつ巨大で、行為と結果のつながりを破壊する技術だった。ほんとうは、それを利用する人間の意志が善だろうが悪だろうが、関係なく悪が生まれると考えねばならなかった。にもかかわらず、20世紀の人々は、その中動態的性格を無視して、利用者の意志によって技術が区別できると考えた。それが彼らが核兵器と原発を区別した理由であり、「原子力の平和利用」の誘惑に勝てなかった理由である。國分の問いには、本来はそのように答えなければならない。そしてそのように答えることではじめて、ぼくたちは原子力についての哲学を、悪についての普遍的な哲学へと開くことができるのである。
 
(『平和と愚かさ』より)

 

 

* 中動態と訂正可能性

 
以上のように悪とは本来、中動態的な性格を持っているものであるといえます。もっともその一方で、社会においてあらゆる行為は「意志」の有無により能動か受動かに振り分けられます。そして一般的に悪は、故意や過失といった程度の差はあれ、何かしらの加害の「意志」を持った能動的主体として記述され、それゆえに「責任」を問われます。
 
しかし國分氏が指摘するように「意志」とは極めて曖昧な概念であり、実際のところは加害の「意志」があったから「責任」が生じるのではなく、むしろ別の何らかの理由から「責任」を負わして良いと判断されたからこそ、急に「意志」なる概念が召喚されているといえます。では、なぜそういうことが生じるのでしょうか。ここには言語におけるコミュニケーションの本質的な条件が露呈しているように思われます。
 
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。
 
そして、このようなコミュニケーションの中でルールが絶えず「じつは・・・だった」と「訂正」されていく現象を東氏は『訂正可能性の哲学』(2023)においてルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキの言語哲学を参照して「訂正可能性」という名で理論化しています。

 

訂正可能性の哲学

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すなわち、子どもの遊びにおいて最初は「かくれんぼ」だったものが「じつは鬼ごっこだった」というようにいつのまにか変わってしまうように、悪の中動態的性格によってなされた行為も、その行為に対して責任を負わせて良いと判断された瞬間に「じつは」の論理で訂正され、意志を持った能動的行為として記述されることになるということです。
 
もちろんあらゆる行為を能動と受動に区別することや、責任を負わすために意志の概念が急に召喚されることには一定の社会的必要性があることは言うまでもないでしょう。意志は確かにある種の幻想かもしれません。しかし蔑ろにはできない幻想です。けれどもその一方で、ここで消去されてしまうのがまさに本論考のいう「愚かさ」の問題です。こうした意味で人間の「愚かさ」を捉える上で中動態と訂正可能性は不可分の関係をなしているといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

平和における隔離と共生、あるいは、ねじまき鳥クロニクル

* 観光客と訂正可能性から考える平和論

 
日本における現代思想の古典的名著『動物化するポストモダン』(2001)で知られる批評家の東浩紀氏は近年において「観光客」と「訂正可能性」という概念を軸にした哲学を展開しています。氏は『観光客の哲学』(2017年)において現代を「ナショナリズム」と「グローバリズム」という二つの層が折り重なって併存する「二層構造の時代」と位置づけ、今世紀初頭に世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『帝国』(2000)が描き出すグローバリズム(帝国)における市民運動の担い手である「マルチチュード」を先行モデルとしつつも、ネグリたちのいう「マルチチュード(否定神学的マルチチュード)」が抱え込む神秘主義的な欠陥を回避すべく、ネットワーク理論の知見を導入し、人間社会というネットワークの「つなぎかえ=誤配」を担う主体である「観光客(郵便的マルチチュード)」を構想しました。
 
ここでいう「否定神学」とは存在しえないものとは存在しないことによって存在するという逆説的な修辞を指しています。これに対して「郵便」とは存在し得ないものは端的に存在し得ないけれども、さまざまな「誤配(コミュニケーションの失敗)」の効果で存在しているかのような効果を及ぼすという現実的な観察を指すといいます。
 
すなわち、ネグリたちの「マルチチュード(否定神学的マルチチュード)」の連帯とは、連帯が存在しないことによって存在するとされていますが、本書のいう「観光客(郵便的マルチチュード)」の連帯とは、絶えず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまうということです。この両者の性格の相違を本書は端的に前者がコミュニケーションなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションすると述べています。
 
そして東氏は同書の続編である『訂正可能性の哲学』(2023年)において「観光客」がもたらす「誤配」の作用をルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキの言語哲学を参照し「訂正可能性」という概念から理論化しています。
 
20世紀を代表する哲学者の1人であるウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。すなわち、人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしていますが、そこでは実は複数のゲームが重なり合っており、例えば「愛のゲーム」と「ハラスメントのゲーム」が紙一重のように、人は自分がいまどのようなルールのゲームをプレイしているかを原理的に知ることができないということです。
 
このようなウィトゲンシュタインの発見をクリプキは『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。ここでクリプキは加算の解が125以上の場合は総じて5になるという「クワス算」なる奇妙な演算を主張する懐疑論者を登場させ「68+57=5」が「間違い」かどうかは原理的には確定できず「68+57=5」を「間違い」と見做すには「68+57=5」が「正しい」という主張を「訂正」する共同体が必要となるということです。
  
もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずです。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に流動するものであり、しかもいつの間にか更新されてしまう「訂正可能性」を孕んでいるということです。
 
こうしてみると現代においては誰もが無自覚な「観光客」であり、社会という名の共同体は常に「訂正可能性」に開かれているといえます。こうした「観光客」と「訂正可能性」という概念から「平和」を問い直す一冊が昨年末に公刊された東氏の新著『平和と愚かさ』(2025)です。
 

* 戦争と平和の対立を問い直す

 

平和と愚かさ

平和と愚かさ

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本書はタイトルの通り「平和」と「愚かさ」を主題とした著作です。本書は全三部から構成されており、第一部が議論の中心であり、第二部と第三部には関連して書かれた論考が収められています。本書に収録された論考はいずれも、国外の特定の場所への旅と関わった紀行文スタイルで書かれています。この意味で本書は「観光客の哲学」の実践編であると氏は述べています。
 
第一部の論考「平和について、あるいは考えないことの問題」において同書は「戦争と平和は対立する」という一見正しそうな常識的な直感を問い直していきます。素朴に考えれば「平和」とは「戦争をしない」ことであり、だから両者は対立するわけでして、それ以上でもそれ以下でもないように思えます。けれども少し考えれば、ここでいう「戦争」と「平和」の境界は極めて曖昧です。
 
例えばロシアは2022年2月から続くウクライナへの侵略を「特別軍事作戦」と呼称しており、あくまで「戦争」ではないという建前をとっています。またイスラエルは2023年10月にパレスチナに侵攻し、2025年6月にイランを爆撃していますが、そこでも宣戦布告は行われず「戦争」ではないという体裁で、なし崩し的に武力が行使されています。
 
加えて本書が取り上げるのが「認知戦」という名の「戦争」です。ここでいう「戦争」とは、敵対する国家の市民社会に積極的に働きかけて、市民の認知を変え、自国に有利な状況を作り出す試みのことをいいます。これは露骨なプロパガンダのみならず、極論すれば文化交流やスポーツ交流すらも認知戦であるとも考えることができるでしょう。こうしてみると一見「平和」とみなされる状況でも国家は実は広義の「戦争」を戦い続けているともいえるでしょう。
 
では翻って「平和」とは何を意味するのでしょうか。一見平和だとしてもその裏には結局のところ見えない戦争があるのだとしたら、永遠に続く戦争こそが現実で平和とは一種の幻想に過ぎないということになるでしょう。ロシアがウクライナに侵攻を始めて以降、急速に平和について語りにくくなったのは、そのような概念自体の弱さだったからではないかと本書はいいます。
 
とはいえ、戦争はいやだ平和がいいという訴えが愚かだとして退けられるようでは、それこそ戦争が永遠に続く世界しかやってきません。それゆえに「平和」の概念について改めて考え直すことが必要になるというのが本書の出発点となります。
 

*「考えないこと」の広がりとしての平和

 
ここから本書は先述した「戦争と平和は対立する」という常識的直感を「平和においては戦争が欠けている」と定式化し直しています。平和には戦争が「欠けている」がゆえに戦争と平和は対立するといういうことです。次に同書はこの「欠けている」という意味を現実の武力に関わる欠如ではなく、むしろ思考に関わる欠如だと捉え直すことを提案します。つまり平和だと感じる状況において、人は戦争を戦っていないだけでなく、そもそも戦争について「考えていない」ということ、少なくとも考えないことが許されているという点が重要になるということです。
 
もちろん当然のことながら、平和時にも戦力は存在し、軍人や外交官や国際政治の専門家は常に戦争の可能性を考えており「戦争が欠けている」ことなど決してありません。しかし平和時においてほとんどの市民はそんなことは考えていないというもやはり事実でしょう。むしろ逆に、ほとんどの市民が日常的に戦争の可能性を強く意識する状況に陥ったときこそ、もはや人はそれを平和とは呼ばないでしょう。だとすればそのような思考の欠如とそれに伴う安心感、弛緩した心理状態こそが平和を平和たらしめる本質ではないかと本書はいいます。
 
それゆえに一旦戦争が始まると平和について語ることは原理的に難しくなってしまいます。平和から戦争へ以降するとは、戦争について考えないことが許される状態から皆が戦争について考えねばならない状態への移行に他なりません。そして、そのような移行が一旦完了してしまうと、もはやかつての平和は悪の放置にしか感じられず、敵国と平和に共存し交流していた過去は道徳的な誤りとしか感じられなくなってしまうでしょう。実際にそれこそが2022年の日本で対ロシア世論が急速に硬化した時に起きたことであり、そこで叫ばれる「平和」とはいわゆる「平和ボケ」と呼ばれる平和ではなく、しばし「反戦」と呼ばれる「平和を取り戻すために戦う」というある種の戦争を意味しているといえます。
 
このように本書は平和を「考えないこと」の広がりで定義します。つまり平和について考えるとは「考えないこと」について考えるということです。これは哲学的にいえば「思考不可能なもの」について考えるということでもあります。そしてこの「考えないこと」の問題は本書のもう一つの主題である「愚かさ」の問題とも関係しています。
 

* 考えない平和と考える平和

 
ここから本書は氏が実際に旧ユーゴスラビア諸国を「観光客」として歴訪した経験をもとにした哲学的な洞察が展開されることになります。まず本書は1990年代におけるユーゴスラビア紛争の歴史を紐解きつつ「平和の質」には民族をはじめとする利害を異に集団同士を物理的に遠ざけるか否かという相違から「隔離の平和」と「共生の平和」があるといい、両者をそれぞれ「考えない平和」と「考える平和」へ対応させています。いくら気に入らない相手でも目に入れなければ自然と考えなくなっていくでしょうし、あるいは考えないふりをすることが許されるようになるでしょう。「隔離の平和」とはこうした環境をつくることで維持される表面的な「考えない平和」であり「共生の平和」とは常に集団間の利害調整に配慮することが必要な「考える平和」です。
 
本書のように平和を「考えないこと」の広がりで定義するのであれば平和の理念形とは「隔離の平和」ということになるでしょう。確かに「共生の平和」の理想は美しいですが、それは常に集団間の利害衝突に晒された不安定なものであるといえます。しかしその一方で完全な「隔離の平和」の達成も不可能であるといえます。程度の差はあれ政治的・文化的に異なる他者との共生は実際問題として避けられず、現実として我々は他者との「共生の平和」を生きている事になります。
 
つまり「平和=考えないこと」という定義における「隔離の平和」が理念形だとすれば「共生の平和」は現実形ということになります。もっとも、こうした「共生の平和」においては他者との衝突の可能性が常にあるにもかかわらず、多くの人はそれを意識していないこともまた事実です。これは裏返せば多くの人の「考えないこと」を守るため、誰かが隣人との利害を調整し、友好を維持するため「考えている」ことを意味しています。しかし「平和=考えないこと」という定義からは、そのような「共生の平和」を「考えている」存在については「考えないこと」が必要であり、少なくともそうしたふりをする必要があるということです。
 
換言すると、こうした「平和=考えないこと」という感覚は、ふりという演技、あるいは嘘によって紙一重のところで危うく成り立っているものといえます。だから、ひとたび誰かがそんなの嘘だ、ちゃんと考えろ!と叫んだ瞬間に、この「平和=考えないこと」の感覚は崩落し、これまでの「平和」は「じつは平和ではなかった」という形で訂正されることになります。つまり「平和=考えないこと」の思考不可能性は「じつは平和ではなかった」の訂正可能性によって生み出されている、ともいえるでしょう。何よりここで重要なのは、そのような過去の読み替えにおいて「じつは」と声を上げるのは大抵が「平和=考えないこと」による被害者であるということです。
 
こうして「平和=考えないこと」という感覚は意図的に、あるいは無自覚的に他者に加害をなす「愚かさ」に結びつく事になります。それゆえに理念形としての「隔離の平和(考えない平和)」の正当性は常に現実形としての「共生の平和(考える平和)」における訂正可能性に開かれていることで初めて担保されるということになるといえるでしょう。さらにこの「考えない/考える」が螺旋状に絡み合っていく関係性は本書の最後の論考「哲学とは何か、あるいは客的-裏方的二重体」において「客的」と「裏方的」の関係性から考察されており、ここから現代における哲学のあり方が再定義されることになります。
 

* 平和における隔離と共生、あるいは、ねじまき鳥クロニクル

 
本書は一見広い意味での国際政治を論じた本に見えるかもしれませんが、本書の平和論の射程は国際社会における大文字の「平和」のみならず、個人間のコミュニケーションにおける「平和」にも等しく妥当します。例えば本書は第二部の論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」において「悪の愚かさを記憶する」ための試みとして村上春樹氏の小説『ねじまき鳥クロニクル』(1994〜1995)を論じていますが、あの小説はいってみれば、ある家庭が「じつは平和ではなかった」ことが明らかになっていく様相を描いた作品であったともいえるでしょう。
同作の主人公である岡田トオルは妻クミコと世田谷の一軒家でそれなりに平穏な生活を過ごしていましたが、2人の結婚を機に飼い始めた猫が失踪したことをきっかけに夫婦間に不穏な空気が漂い始め、ある日突然クミコは失踪してしまいます。このクミコの失踪にトオルは困惑し、6年間の「平和」だったはずの夫婦生活を次のように振り返っています。
 
「それでも僕とクミコは少しずつ、自分の体や心を「我々の家庭」という新しい単位のために同化させていった。2人で一緒にものを考え、ものを感じる訓練をかさねた。自分たちの身に起こる様々なものごとを「自分たちのもの」として受け止め、共有しようと努めた。もちろんうまく行くこともあれば、行かないこともあった。しかし僕らはそんな試行錯誤をむしろ新鮮なものとして、楽しんでいたと思う。それにもし激しい衝突があっても、僕らは抱き合って忘れてしまうことができた。」
 
(『ねじまき鳥クロニクル』より)

 

 
ところが物語の中盤でトオルのもとへクミコからの長い手紙が届きます。その内容をかいつまんでいえば、クミコはこの3ヶ月近く、仕事の関係で知り合った男性と性的な関係を持っており、その関係を解消させた現在ではトオルに対する罪悪感を感じているといいつつも、結婚前からも結婚してからもトオルに対して「本物の性的な快感」を持つことができなかったと告白し、手紙の最後はこのまま離婚するのがお互いにとって一番いい方法だと思うから、申し訳ないけど何も言わずに同意してほしいという趣旨の文で結ばれています。手紙を読み終わり、これまでの夫婦関係が「じつは平和ではなかった」という事実を突きつけられたトオルは静かにビールを飲み干し、次のように内省します。
 
「僕はクミコについてのいったい何を知っていたのだろうと僕は思った。僕は空になったビールの缶を静かに握り潰し、それをごみ箱に投げ捨てた。僕が理解していると思っていたクミコは、そして何年にもわたって僕が妻として抱いて交わっていたクミコは、結局のところクミコという人間のほんの僅かな表層に過ぎなかったのだろうか。(略)だとしたら、僕とクミコが2人で過ごしてきたこの6年という歳月はいったい何だったのだろう。そこには何の意味があったのだろう。」
 
(『ねじまき鳥クロニクル』より)

 

 
もっともこのクミコの告白は決して降って沸いたような唐突なものではなく、彼女は失踪前から様々なかたちでトオルに自分の抱える闇を訴えるサインを出していましたが、トオルはそのサインにまったく気づくことなく、クミコの抱える闇に向き合うことが出来ていませんでした。いわばトオルが「我々の家庭」という閉鎖空間で「隔離の平和(考えない平和)」を享受している間、クミコはトオルとの「共生の平和(考える平和)」を紙一重のところで維持していたともいえるでしょう。
 
その一方で本作ではクミコが失踪する前後から、トオルの前に次々に奇妙な人物たちが現れ始め、やがてトオルはクミコ失踪の裏には彼女の実兄である綿谷ノボルの暗躍があることを突き止めます。新進気鋭の政治家として今や時代の寵児であるノボルには人の精神を汚染し、欲望を暴走させる特殊な能力を持っており、果たしてクミコは綿谷が支配する闇の世界の中に囚われていました。クミコの声にならない声を聴き取ったトオルは、クミコを闇の世界から光の世界へと連れ戻すべくノボルと対決することを決意し、その対決は今や村上作品の代名詞ともいえる「井戸」からの「壁抜け」として遂行されることになります。
 
1994年から1995年にかけて公刊されたこの『ねじまき鳥クロニクル』という小説は戦後日本を支えた「大きな物語」が失墜し、地下鉄サリン事件が発生した当時の時代状況と見事なまでの共時的な布置を描いているといえます。平たくいえば同作は大きな物語(=夫婦関係)が破綻して、カルト宗教(=綿谷ノボル)に囚われたヒロインを救う物語であるといえるでしょう。しかしながらその一方でトオルとクミコという2人の関係性に焦点を当てるのであれば、同作は「隔離の平和」が破綻した後「共生の平和」の新たなかたちを模索する物語であったといえるでしょう。
 
もちろん同作の着地点には様々な意見があります。しかし少なくとも同作が描き出したトオルとクミコのあいだにある「平和の非対称性」という構図は家庭、職場、学校など社会の至る所に見出すことができることは確かです。こうした意味で「平和」を問い直すとはすぐれて公共的な問いであると同時に、他者との関係性を、あるいは世界のありようや生き方そのものを問い直すという極めて個人的な問いにもつながっているといえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

享楽的こだわりとしてのレコード--村上春樹『古くて素敵なクラシック・レコードたち』

* レコードの魅力とは何か

 
音を記録、再生する技術は1877年にトーマス・エジソンが発明した蓄音機に始まり、エミール・ベルリナーによって円盤式レコードが開発されてからは音楽の大量複製と流通が可能となります。もっとも20世紀前半に普及したSP(Standard Play)レコードの片面再生時間は僅か約3〜5分に過ぎず、この短い再生時間は録音内容を制限し、特に長大なクラシック音楽では一つの作品を複数枚に分割して収録する必要がありました。
 
ところが1948年、アメリカのコロムビア社がLP(Long Play)レコードを発表したことでこうした状況は一変します。LPレコードの片面再生時間は約20〜30分であり、これは一般的なクラシックの交響曲を1枚〜少数枚で完結できるようになったことを意味しています。その結果、LPレコードの普及は演奏解釈の自由度を高めると同時に全曲演奏を基準とする鑑賞様式を確立し、クラシック音楽の裾野を飛躍的に拡大させることになります。さらに1950年代後半にはステレオ録音が実用化され、音場の広がりや臨場感が大きく向上し、1960〜70年代にかけてはレコード産業の最盛期を迎え、多くの名演奏・名録音が制作されることになります。
 
ところが1980年代に普及したコンパクトディスク(CD)は雑音の少なさや耐久性、取り扱いの容易さから瞬く間にレコードに取って代わる存在になります。さらに1990年代に入るとCDの音声データをコンピュータ上でリッピングする技術的基盤が確立し、2000年代以降はインターネット回線の高速化に伴う音楽データのダウンロード販売やストリーミング配信が普及し、この変化は音楽の制作、流通、消費の各段階において従来の業界構造を大きく変容させることになります。
 
もっともその一方で近年においてレコードはアナログ特有の音質、ジャケットを含む物質的価値、再生行為そのものがもたらす能動的な鑑賞体験といったものが再評価され、単純な利便性を競う媒体としてではなく、音楽鑑賞の質や経験の深さを重視する文化的価値を持つ媒体として位置づけ直されています。
 
では、果たしてレコードの持つ真の魅力とはいかなるものなのでしょうか。ここでは現代日本を代表する不世出の作家、村上春樹氏が数百枚に及ぶクラシック・レコードの魅了を語り倒す本書『古くて素敵なクラシックレコードたち』を取り上げてみたいと思います。
 

* レコード蒐集家、村上春樹

周知のように村上氏は小説家としての顔のほかに、翻訳家やエッセイストやラジオDJやマラソンランナーなどといった様々な顔を持っていますが、こうした様々な顔のうちの一つに「レコード蒐集家」としての顔があります。小説家デビュー前はジャズ喫茶「ピーター・キャット」を経営していた氏の音楽に対する造形は極めて深く、音楽をテーマとした著作として音楽評論集『意味がなければスイングはない』(2005)や対談集『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(2011)があります。
 
氏はレコードをかれこれ60年近く(2021年当時)集めて続けており、これは趣味というよりもう「宿痾」に近いかもしれないといいます(そして小説家なのに本にはなぜかそれほどの執着はないらしいです)。氏によればこれまで集めてきたのは主にジャズ・レコードですが、クラシック音楽も昔から好きでジャズほどではないにせよそこそこの数のレコードを蒐集しており、中古レコード店に行くとまずジャズのコーナーをめぐり、そこに目ぼしいものがなかったときはクラシックのコーナーに移り(手ぶらで帰るのも寂しいので)何か面白そうなものがあれば買い込んで帰るそうで、いま自宅にあるLPレコード・コレクションのおおよその内訳はジャズが7割、クラシックが2割、ロック・ポピュラーが1割というところだそうです。
 
この点、氏はジャズレコードに関しては「いちおうコレクターの端くれとして、それがオリジナル盤(初回プレス盤)かどうかとか、ジャケットの痛み具体はどうかとか、盤質がどうかとか、そういう細部にある程度こだわる」そうですが、クラシックに関しては特にそういうコレクター的なこだわりはないようで「稀少盤を集めるよりは、バーゲン箱をせっせと漁っている方がずっと楽しい」といいます。
 
こうしたことから氏がどのようなクラシック・レコードを買うのかという基準とは、演奏家や作曲者といった内容的な要素の他に「ジャケットが素敵なのでつい買ってしまうこともあるし、ただ『安いから』という理由で買ってしまうこともある」ということで、この演奏家はコンプリートしようという系統的な目論みはなく、また世間的な「名盤」のようなものにも興味はなく、ダメ元で面白そうなものを適当な価格(できるだけ安い価格)で行き当たりばったりのように買い込むケースが多く、所有しているクラシックレコードには統一的な傾向はなく、かなりバラバラだそうです。
 

* まるでひなびた温泉のお湯のように

 
本書は主にそういう「結果的に集まってしまった」レコードたちを中心に紹介する本ということになります。つまりこれは「あくまで個人的な趣味・嗜好に偏した本」であって、そこには系統的・実用的な目的はなく「これがこの曲のベスト盤だ!」みたいなガイドブック的意図も皆無で「私はこんな珍しいレコードを所有しています」とひけらかすことが目的でもなく、ただ単に「たまたま買い込んだレコードの中で、個人的になかなか気に入っているものを棚から引っ張り出してきて、『ほら、こんなものもありますよ』」とお見せするだけのもの」と氏は述べます。
 
では、そんな本が何の役に立つかというと氏は「『いや、あまり役に立たないかもしれません』と正直に答えるしかない」と述べつつも「でも、クラシック音楽を愛好する方なら、ページを繰って、ジャケット写真を目にしているだけで、ある程度親密な気持ちになっていただけるのではないかと推測する(希望する)」といいます。
 
氏はときどき1時間くらいぼんやり床に座って気に入ったレコード・ジャケットを次から次へと手に取って眺めたり、時々匂いを嗅いでみたりすることもあるそうで「それだけでけっこう安らかな気持ちになれる」といいます。古いレコードにはLPレコードにしかないオーラのようなものがこもっており、そのオーラが「まるでひなびた温泉のお湯のように僕の心を芯からじんわりと癒してくれる」と氏はいいます。
 
この点、LPレコードの美点として氏は「レコード盤の手入れをしてあげればそのぶん音が良くなる(これを氏は『レコードの恩返し』と呼びます)」「オーディオ周りを整備すれば、音質が向上するというメリットがある」という点に加えて「ジャケットのサイズがCDよりずっと大きいということ」をあげており、次のように述べています。
 
気に入ったレコードのジャケットを眺めているだけで、そこにある音楽の世界に、ひとつ違う入り口から入っていくことができる。あるいは僕はものの形にこだわりすぎているのかもしれない。でもそうなっちゃったんだから仕方ないじゃないか、とある程度開き直っている。だって人生なんて結局のところ、ほとんど意味を持たない偏りの集積にすぎないのだから。
 
(『古くて素敵なクラシックレコードたち』より)

 

* 小説家のあり方と牡蠣フライ理論

 
村上氏はかつて「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」(『雑文集』(2011)収録)において「小説家とは何か」と質問されたとき、だいたいいつも「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と答えていると述べています。
 
なぜ多くを観察をしなくてはならないかというと、多くの正しい観察のないところに多くの正しい描写はあり得ないからであり、なぜわずかしか判断を下さないのかというと、最終的な判断を下すのは読者であって作者ではないからです。「小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅力的なかたちにして読者にそっと(べつに暴力的にでもいいのだけど)手渡すことにある」と氏は述べます。
 
また、氏は良き物語を作るために小説家がなすべきこととして「結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ」といいます。すなわち、氏のいう「判断」とはその仮説の集積の「個人的な並べ替え作業」であり、換言すれば「精神の組成パターンの組み替えのサンプル」であり「そのサンプリング作業を通じて、読者は生きるという行為に含まれる動性=ダイナミズムを、我がことのようにリアルに『体験』することになる」ということです。
 
そして「自分とは何か?」という問いとは(氏の定義する)小説家にとっては「あまりにも自明な問いかけ」であるといいます。小説家とはその「自分とは何か?」という問いを「別の総合的なかたちに(つまり物語のかたちに)置き換えていくことを日常の仕事にしている」からです。
 
ここで氏は「就職試験で『原稿用紙4枚以内で自分自身について説明せよ』という問題が出たとしてどうすればよいか」という読者からの質問に答えるかたちで、原稿用紙4枚以内で自分自身について書くのは不可能でも、例えば「牡蠣フライ(のような特定の対象)」について書くことによって、書き手と牡蠣フライとのあいだの相関関係や距離感が自動的に表現され、突き詰めればそれは自分自身について書くことになるのではないかという「牡蠣フライ理論」を提案します。
 
「小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書き続ける人間のことである」と氏はいいます(そして実際に「牡蠣フライの話」という例文も載せています)。こうした意味で本書は氏のいう「牡蠣フライ理論」でクラシック・レコードを語る本であるといえるのではないでしょうか。
 

* 享楽的こだわりとしてのレコード

 
本書は氏のいうところの「結果的に集まってしまった」レコードたちを中心に紹介する「あくまで個人的な趣味・嗜好に偏した本」です。しかしそれだけに本書では氏の小説に登場する楽曲のレコードもいくつか紹介されており、いわば「クラシック・レコード」という切り口から村上作品の世界観に迫ることのできる本となっており、さらにはクラシック・レコードを対象として「牡蠣フライ理論」で書かれた「村上春樹という作家」について語った本であるともいえるでしょう。
 
この点、千葉雅也氏は『勉強の哲学』(2017)においてアイロニーからユーモアへ折り返した上でこのユーモアの過剰を非意味的な「享楽的こだわり」で切断し、そこにさらにアイロニーをかけていくという自己精神分析的な「深い勉強」を提示していますが、こうした観点からいえば本書が語る「結果的に集まってしまった」レコードたちはまさに村上春樹という作家の基底部をなす「意味を持たない偏りの集積」としての「享楽的こだわり」を示しているといえるでしょう。
 
実際のところ本書においては楽曲や作曲家やアーティストの解説的な要素はかなり抑え目で、そのレコードがいかに素晴らしいか(あるいはそうでないか)という村上氏の「享楽的こだわり」に満ちた語り口が全面に出ています。あたかも氏が自宅でレコードをかけながら親しい来客にその魅了を率直に(かつハイテンションで)語っているかのような臨場感を持つ本書はクラシック音楽の愛好家にとっては極めて贅沢な一冊となるでしょう。
 
またその一方でクラシック音楽に興味はあるけれどもまだそこまで知識がないという場合は、とりあえず同じ楽曲をCDやサブスクリプションなどで探してきて、インターネットで楽曲や作曲家やアーティストといった固有名詞を検索つつ本書を読むとよいかもしれません。こうした読み方をするのであればおそらく本書は村上春樹による(極めて偏った、しかし豊穣な語り口による)またとないクラシック入門書になるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

データベースからアルゴリズムへ--三宅香帆『考察する若者たち』

* データベース消費の現在地

 
ゼロ年代を代表する批評家である東浩紀氏はその代名詞的著作である『動物化するポストモダン』(2001)において近代的な「大きな物語」が機能不全となった現代ポストモダンにおける個人の消費行動を「物語消費」から「データベース消費」への移行として定式化しました。
ここでいう「物語消費」とは個々の作品消費を通じてその作品の背後にある「大きな物語(世界観設定)」を消費する行動様式をいいます。これに対して「データベース消費」とは個々の作品消費を通じてその作品に登場するキャラクターにおける例えば「萌え要素」といった「データベース(非物語的な情報の束)」を消費する行動様式をいいます。
 
ここから東氏はポストモダンの主体を動物的欲求が全面に出て人間的欲望が形骸化した「データベース的動物」と呼び、日本社会においてポストモダンが大きく加速したといわれる1995年以降を「動物の時代」と位置づけます。
 
さらに氏はその続編『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)において従来の近代文学が目指した近代的現実を写生する「自然主義的リアリズム」に対するポストモダンの文学観として、漫画やアニメのような虚構を写生する「まんが・アニメ的リアリズム」と物語が複数に分岐していくゲーム経験を写生する「ゲーム的リアリズム」を提示しています。
こうしてゼロ年代においては、このような東氏が打ち出した数々の批評概念を軸に「ゼロ年代批評」と呼ばれる批評シーンが形成され華々しい議論が展開されることになりました。そしてこの令和の時代において東氏の議論を決定的に更新する一冊として本書『考察する若者たち』を読んでみたいと思います。
 

*「考察」の流行と報われ消費

本書によれば最近のZ世代を中心とした若年層ではドラマや映画を観た後すぐにその作品の「考察動画」や「考察記事」を検索する傾向があるそうです。こうした意味での「考察」という言葉が注目され始めたのは2019年のテレビドラマ『あなたの番です』がきっかけであると本書はいいます。2クール計20話という日本のテレビドラマとしては異例の長さで放送され、その最終話は視聴率19.4%を叩き出し、Twitter(現X)の世界トレンド1位を5回も獲得した同作は「考察ドラマ」と呼ばれています。つまり同作は制作側が意図的に作中に謎を仕掛け、その謎を視聴者が考察しSNSで拡散することを狙って作られた作品であるということです。
 
この『あな番』のヒットを契機に「考察ドラマ」は世間に広く浸透します。作品によっては制作側が特に「考察」を狙っていなくとも視聴者の方が勝手に「作者は隠された謎を仕掛けている」という前提で「考察」するケースもあるようです。そしてその傾向は小説や漫画やアニメなどの他のジャンルにも波及します。例えば昨年公開された『劇場版「鬼滅の刃」無限城編第一章 猗窩座再来』の大ヒットの裏側には同作の裏設定や伏線回収や小ネタにまつわる大量の「考察動画」が存在します。すなわち、ここから映画を観た観客が考察動画を見てその真偽を確認すべくまた映画を観に行くというサイクルが生じることになります。
 
このように若年層を中心とした令和の視聴者にとって「考察」とはフィクションを楽しむためのメジャーなひとつの手法となっていると本書はいいます。そしてその背景にただコンテンツを消費して満足するだけではなく、その時間を「意味ある時間」に変えたいという若年層の消費行動を見出し、このような消費行動を「報われ消費」と呼びます。つまりただ楽しい時間を過ごすだけじゃなく、その時間における報われるポイントがわかっていると手を伸ばしやすくなるということです。裏を返せばただ楽しい、面白いという感情だけではそのコンテンツを消費する時間は端的に無駄だと感じてしまうということです。
 
こうした若年層の消費行動を象徴する言葉として本書は2023年度講談社漫画賞総合部門を受賞した人気漫画『スキップとローファー』の「たぶんこれが最適解!」という台詞を引いています。同作が描く令和の高校生たちのように、若い世代は自分の行動に求められる、意味のある、正しそうな「最適解」を求めているということです。ではなぜ若い世代はこんなにも「最適解」にこだわるのでしょうか。これは単にZ世代がタイパやコスパがいいものを求めているという世代的な傾向だけではなく、そこには「令和特有の病」があると本書はいいます。
 

*「批評」から「考察」へ

 
本書は現代を「考察の時代」だといいます。先述のように考察とは作者が提示する(とされる)作品の謎を解く行為をいいます。本書によれば令和においては物語を読んだり観たりすることが、ただ読んだり観たりするのではなく、物語のなかに「謎」として置かれた「正解」を解くゲームになりつつあるということです。
 
これに対して平成以前は「批評の時代」であったと本書はいいます。ここでいう批評とは作者も把握していない作品の謎を解く営為をいいます。作者は作品の生みの親ですが、作者が作品のことを全て理解しているとは限りません。このような態度を批評はとっています。
 
両者は具体的にどう異なるのでしょうか。本書の例でいえば『となりのトトロ』(1988)を観て「じつは宮崎駿は”サツキとメイはすでに死んでいる”という設定を潜ませている」という解釈を行うのが考察です。これに対して「じつは”サツキとメイは幼いうちに日本で戦争によって亡くなった子どものメタファー”として捉えられる」という解釈を行うのが批評ということになります。
 
ここで重要なのは「作者の意図」への意識の有無です。批評から考察へ。こうしたフィクションを楽しむ人々の姿勢の変化を本書はフィクションを楽しむにあたり解釈を「作者の意図」として受け取ったほうが安心できる人が増えたということではないかと述べています。
 
換言すればそれは「正解」かどうかもわからない個人の解釈(感想)を知ってもちっとも面白くなく、それよりも作者が潜ませた「正解」を知ることの方が面白いという変化に他なりません。つまり考察には「正解」がどこかにあることから「わざわざ努力する価値がある」ということです。こうしたことから令和とは物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのではないかと本書はいいます。
 

*「推し」と「転生」

 
本書はこのような「報われたい」という消費感情から令和のヒットコンテンツを分析します。例えば「推し」という令和になって広く人口に膾炙した言葉があります。ここでいう「推し」とは自分が好きで、そして応援したり他人に勧めたりしたい対象のことをいいます。つまり自分が対象をとても好きだという感情に、さらに何らかのポジティヴな形で好きな相手と関わりたいという行動が追加された時に「推し」が成立することになります。
 
ところで「推し」が浸透する以前にある対象を好きだと思うことは「萌え」と呼ばれていました。先述のように東氏は『動物化するポストモダン』においてこうした「萌え」の根底にある消費行動を「データベース消費」と名づけたのでした。つまり「萌え」とは例えば「何となく自分はネコミミが好きだ」「何となく眼鏡のクールなキャラが好きだ」というデータベースから反応する反射的(動物的)な欲求であるということです。
 
本書は「推し」もやはりこうした「データベース消費」から生じる「萌え」の感情が根底にあるといいます。もっとも「萌え」はその対象が「変わる」ことを前提とする瞬間的な欲求であるのに対して「推し」とは「推し変」という言葉が示唆するように一瞬の感情ではなく継続的な行為であることが前提となっており、そこには自分の「推し」が何かしらの理想のゴール(例えば東京ドームで公演したり総選挙で1位になったり興行収入400億の男になったりなど)へ到達することでファンもまた「報われたい」という感情があるとします。
 
また「転生もの」というこれまた令和において一般化したジャンルがあります。ここでいう「転生」とは死後に他の場所(多くの場合は異世界)で生まれ変わり、前世の記憶を持ったまま新しく人生をやり直すことをいいます。この「転生もの」が流行する以前に流行していたのが「ループもの」というジャンルです。「ループもの」と呼ばれる作品では主人公は例えばヒロインを救うため何度も時空を超えて過去改変を試みることになります。
 
こうした「ループもの」をかつて東氏は「ゲーム的リアリズム」という概念で説明しました。これに対し本書は「転生もの」を「ガチャ的リアリズム」という概念で説明します。すなわち「転生もの」の物語の流行は「違うスペックに生まれてきたかった」というガチャ的な欲望に支えられているということです。
 
もっともこれは努力をせずとも無双できるチートな存在に生まれ変わりたいという欲望をただちには意味しません。現代の若年層は努力すれば成功するスペックとそうでないスペックがあることを肌感覚で感じており、ここでいうガチャ的欲望とは最初からガチャに当たって「努力すれば成功できるスペックに生まれてきたかった」という「報われたい」という欲望であるということです。
 

* TikTokとChatGPT

 
以上のように本書は「考察」「推し」「転生」といった令和に流行するヒットコンテンツから、あるいは「陰謀論」や「成長幻想」が流行する時代の傾向性から、その背景にある「報われたい」という感情を抽出します。そしてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームとしてTikTokを挙げています。
 
本書がいうようにTikTokの特徴とは短尺の動画が次々に大量にレコメンドされる点にあり、その報酬は大量の短尺動画を見て得られる脳内刺激にあります。そしてこうしたレコメンドはプラットフォームにおけるアルゴリズムによって決定されています。ここでいうアルゴリズムとはユーザーの好みを機械学習し、それに基づいて情報や広告を変えるシステムのことをいいます。
 
ここから本書は令和のヒットコンテンツとはすべてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームアルゴリズムのなかで生まれたものであると分析し、こうしたアルゴリズムにより同じ「界隈」に集まった(集められた)ユーザーが「正しさ」という報酬を求め「正解を提示する擬似親」としてChatGPTをはじめとする生成AIに依存しつつあるといいます。
 
考察したい、推したい、転生したい、気づきたい、成長したい、擬似親がほしい、正解がほしい、報われたい、こうした若者たちの姿は--アルゴリズムのレコメンドに押し流される私たちの姿そのものなのだ。
 
(『考察する若者たち』より)

 

* データベースからアルゴリズム

 
その一方で本書はアルゴリズムがもたらす最大公約的な「正解(に近い最適解)」によって発信者や受信者の個別性が失われていく状況に警鐘を鳴らします。すべてが最適化され最適解を求められる社会における「自分らしさ」とは畢竟、一般性から逸脱する特異性としての「生きづらさ」へと直結するからです。
 
もとより本書は「正解(最適解)」を求めることを否定はしません。誰も好き好んで失敗したくないのは当然です。しかし同時に本書はその「正解(最適解)」を目指す態度を補完するものとして「批評」的な態度という選択肢を提示します。つまり本書はここで「正解(最適解)」を求める態度と、その「正解(最適解)」から意図的に逸脱していく「批評」的な態度というダブルシステムを提案しているということです。
 
先述のように東氏は平成の時代を「データベース消費」が前面化した「動物の時代」と位置付けています。令和の時代においてこうした東氏の議論を本書の議論をもとに術語化するのであれば、それはデータベースを最適化するシステムとしてのアルゴリズムそれ自体を消費する「アルゴリズム消費」が前面化した「正解(最適解)の時代」というべきなのかもしれません。
 
かつて社会学者の見田宗介氏は「現実」を構成する「現実ならざるもの」としての「反現実」という視座から戦後日本社会を「理想の時代(1945年〜1960年)」「夢の時代(1960年〜1975年)」「虚構の時代(1975年以降)」に区分し、さらにこの議論を継承した大澤真幸氏は東氏の議論を参照しつつ1995年以降を「不可能性の時代」と名づけましたが、こうした「理想」「夢」「虚構」「不可能性」という反現実の表記法に倣えば令和の時代、すなわち2020年代における反現実とは、あるいは「正解(最適解)」といえるのかもしれません。
 
いまや我々の生きる「現実」は良くも悪くも「現実ならざるもの」としての「正解(最適解)」に規定されているといえるのではないでしょうか。こうした意味で「正解(最適解)」をいったんは受け入れつつも同時にそこから緩やかに逸脱していく術を提示する本書の批評的射程は極めて広範に及んでいるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

道しるべなき時代にあかりを灯す--宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』

* 承認の時代における「主人公」

 
2024年本屋大賞受賞作『成瀬は天下を取りに行く』(2023)は歴代本屋大賞受賞作の中でも極めて異色な作品であったように思えます。同作は滋賀県大津市を舞台に主人公である成瀬あかりの中学2年生の夏から高校3年生の夏までの出来事を描く本編5編と外伝を含めた全6編からなる連作短編集です。その第1編目である「ありがとう西武大津店」は次のようなあらすじです。
成瀬は14歳の夏休み前、幼馴染の島崎みゆきに「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」と唐突に告げます。成瀬はこれからコロナ禍の中で閉店を迎える西武大津店に閉店日まで毎日通い、夕方のローカル番組「ぐるりんワイド」の生中継に映るので島崎にはテレビをチェックしておいてほしいといいます。
 
島崎によれば成瀬は幼稚園に通っている頃から他の園児とは一線を画しており、走るのは誰よりも早く、絵を描くのも歌を歌うのも上手でひらがなもカタカナも正確に書け、その頃は誰もが「あかりちゃんはすごい」と持て囃していましたが、小学校に上がると1人でなんでもできる成瀬はその悪気のない振る舞いが周囲から「感じが悪い」と受け取られてしまい、5年生にもなると女子からは明確に無視されるようになります。
 
けれども本人はそんな周囲の目を全く気にすることなく、唐突に「島崎、わたしはシャボン玉を極めようと思うんだ」などと言い出したかと思えば、その数日後には「ぐるりんワイド」に天才シャボン玉少女として出演したりと、自身の好奇心の赴くままに日々を過ごしています。そんな成瀬の性格をよく知っている島崎は今回の「夏を西武に捧げる」というプロジェクトも「成瀬がまた変なことを言い出した」と淡々と受け止めます。
 
近年の本屋大賞受賞作をみると、そこには例えば壮大な医療ファンタジーである『鹿の王』(2014)やサスペンスと感動を高次元で両立させた『かがみの孤城』(2017)であったり、マイノリティが発する「声なき声」に耳を傾けていく『52ヘルツのクジラたち』(2020)や第二次世界大戦における女性兵士の苦闘と苦悩を描く『同志少女よ、敵を撃て』(2021)であったり、現代における「正しさ」の病理を抉り出す『流浪の月』(2019)や「生きる」という営為そのものに迫る『汝、星のごとく』(2022)であったりと、いずれも極めて「重厚」といえる作品が並んでいます。
 
ところが本作を最初に読んだ時の感想は正直なところ「えっ、これで終わり?」というものでした。先述した「重厚」な歴代受賞作の中に本作を並べてみると同作はどちらかといえば淡白な部類の物語になると思います。しかしながらいま思い返すとこの時は同作の持つ「重厚」を完全に見誤っていたと思います。すなわち、同作が描き出す「重厚」とはその「物語」ではなく、その主人公である「成瀬あかり」という「キャラクター」であり、同時に現代という時代に対して同作が行使する文学的批判力の源泉もまた、この「成瀬あかり」という「キャラクター」にあったといえるでしょう。
 
例えばソーシャルメディアのインプレッション数のように現代においては他者の「承認」が良くも悪くも個人の行動を規定する大きな価値基準として機能している傾向があるといえるでしょう。これに対してシャボン玉を極めたり、西武大津店に通い詰めたりといった成瀬の一見して脈絡のないように思われる奇矯な行動に一貫して見出せる価値基準は常に他者からの「承認」ではなく、あくまで自身の「好奇心」です。
 
では彼女はまったく他者に興味がないのかというとそんなことはなく、むしろ「承認」とは無関係なところで他者と関係し、時には他者に振り回されることもあります。そしてこのような絶妙なバランスから成り立つ「成瀬あかり」という「キャラクター」が持つ特異的な強度こそがおそらく、この「承認の時代」における「主人公」の理想的なあり方として幅広い共感を呼んだのではないでしょうか。
 
同作には『成瀬は信じた道をいく』(2024)という続編があり、この2冊は合わせて成瀬シリーズと呼ばれています。そしてこの成瀬シリーズの完結編となるのが去年12月に公刊された本作『成瀬は都を駆け抜ける』です。
 

* 失恋からハムエッグへ

本作の第1編目「やすらぎハムエッグ」のあらすじは次のようなものです。同編の語り手である坪井さくらは小さい頃からそこそこ勉強ができる子どもでしたが、勉強以外のことは何もかもが平均以下であり、親からは否定され同級生からはうっすらとバカにされている自分にコンプレックスを抱えて生きてきました。
 
そんな坪井のこころの支えは同じ学年の早田くんという男子で、勉強も運動もピアノも何でもできる彼は勉強以外は何もできない坪井にとっての「絶対的な道しるべ」となります。彼と同じ高校に進学した坪井は彼の第一志望の大学が京都大学だと知った瞬間、志望校を京大理学部に決め、見事を合格を勝ち取りますが、その喜びも束の間で合格を学校に知らせた折に教師から京大に合格したのは自分だけであると告げられます。果たして同じく京大を志望していたはずの早田くんはいつの間にか志望校を変え、東大に合格していたのでした。
 
こうして失意で迎えた京大の入学式、キャンパスの桜並木で履き慣れないパンプスに足を取られて転んだ坪井の前に現れて声をかけたのが同じく京大に入学した成瀬です。その後のガイダンス会場で坪井はびわ湖観光大使の衣装を身につけた成瀬を目撃し、スマホで検索してみると、観光大使の他に滋賀県膳所高校かるた班の主将だったとかゼゼカラというコンビでM-1グランプリに出場したとか大津市民短歌コンクールで入賞したとといった成瀬の華々しい経歴が見つかります。
 
翌日、理学部の教室で成瀬から声をかけられ、その流れでお昼を一緒にすることになった坪井はその風変わりなキャラクターにもかかわらず「人生におけるすべてのガチャで大当たりを引いている」成瀬が羨ましくて仕方がなく、そんな成瀬に少しでもあやかろうと早田くんの代わりに夢中になれる対象を成瀬に決めて欲しいと頼み込みます。そんな坪井に対して成瀬は料理はどうだといい、差し当たり「ハムエッグ丼」を作ることを薦めます。
 
これまで料理は家庭科の調理実習でしかしたことのなかった坪井でしたが材料や調味料を買い込み試行錯誤でどうにか完成させたハムエッグ丼に感激します。その日以来料理に傾倒することになった坪井はやがて早田くんへの想いを自然なかたちで手放すことができ、京都をいろいろと見て回りたいという成瀬とともに京都めぐりをはじめます。
 

* 教室の肯定

 
文芸評論家の三宅香帆氏は近著『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』(2025)において成瀬シリーズの魅力として「従来の「青春」物語を更新した」点にあるといいます。従来の青春をテーマとした小説においては「教室=学校」が閉鎖的で同調圧力が強く逃げることも許されない日本のムラ社会的な空間としての「ここ」の象徴として描かれており、こうした「ここ」の外部へ出ていく「ここではないどこかへ」という願望が教室を比喩として表現されていましたが、これに対して成瀬は「ここ(教室)」を肯定してみせます。
 
「成瀬シリーズの魅力のひとつは『青春は、悩まなくても面白い』と証明して見せたところにある」と三宅氏はいいます。成瀬は滋賀に住んでいて、滋賀から出ていこうともしないし、滋賀から出ていけないことを嘆きもせず、むしろ滋賀をとても愛していると同時に滋賀以外の場所を否定することもありません。「教室=地元の人間関係を肯定する青春、それが成瀬の日々なのだ」ということです。
 
こうしたことから三宅氏は従来の青春小説を「90年代:教室の外にある死」「00年代:教室の閉塞感」「10年代:教室からの解放」と定式化したうえで成瀬シリーズが表現したものは「20年代:教室の肯定」であるといいます。
 
「成瀬は「今ここ」を肯定し、そこで、やりたいことをやる。日本のムラ社会を否定せず、むしろムラ社会的地元のアイドルになることを、決して「ださい」ことと捉えない。滋賀こそが一番いい場所なのだ。成瀬にとって。」
 
(『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』より)

 

また三宅氏は同書の別の箇所でも成瀬シリーズの特色として「葛藤を”肯定”しない」点にあるといいます。成瀬は変人ですが彼女は自分が変人であることにほとんど葛藤しません。そして葛藤しない代わりに行動します。なぜなら自分がやりたいことが明瞭にわかっているからです。それゆえに氏は「成瀬は葛藤を肯定しない、新時代の青春小説なのだ」といいます。
 

* わたしは大きなことを百個言って、ひとつ叶えばいいと思っているんだ

 
そしてシリーズ完結となる本作も、こうした三宅氏が見立てる「ここではないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説のパラダイムシフトから読むことができます。もとより本作の舞台はこれまでの滋賀ではなくもっぱら京都ですが、成瀬にとっての京都は滋賀という「ここ」と並立するまた別の新たな「ここ」であるということです。
 
「京都を極めたい」という成瀬は偶然知り合った達磨研究会というサークルの面々と京都学派を代表する哲学者西田幾多郎が思索を深めた「哲学の道」を散策中、女子に奥手でやたら理屈っぽい達磨研の会長から「京都を極めることなど不可能ではないか」と疑念を呈されますが、あっさりと次のように答えます。
 
「わたしは大きなことを百個言って、ひとつ叶えばいいと思っているんだ」
 
(略)
 
「みんなは『極める』という到達点に注目するのだが、わたしはそこに至る道が重要だと思っている。ゴールにたどり着かなくても、歩いた経験は無駄じゃない」
 
(『成瀬は都を駆け抜ける』より)

 

このように「ここではないどこか」というあるのかないのかわからない「到達点」ではなく、あくまで「今ここ」にある「道」に価値を見出し「葛藤」することなく「行動」する成瀬は会長より進呈された観光ガイドからピックアップした百ヶ所に付箋を貼り付けて、そのすべてをクリアするといいます。そこに深い理由はありません。ただ単に「やりたいと思ったから」です。その一方で簿記系YouTuberぼきののかの炎上トラブルに巻き込まれたことがきっかけで夏休みを簿記二級の勉強に捧げたり、母親の成瀬貴美子とともに滋賀のローカル局びわテレの番組「ぐるりんワイド」に出演したりと多忙な日々を送ります。
 
もちろんその間にも「京都極め計画」は着々と進んでおり、ラストでは百ヶ所目である琵琶湖疏水をクリアして、地元である滋賀大津へと凱旋します。これは客観的にみれば単に京都の有名スポットを百ヶ所観光しただけとも言えますが、そこに至る「道」で起きた出来事や得られた出会いは成瀬にとっての代え難い財産になっていることは確かでしょう。ここにはまさに「ここ=都」を肯定すべく「行動する=駆け抜ける」という青春観が提示されているといえるでしょう。
 

* 道しるべなき時代にあかりを灯す

 
このような成瀬シリーズが描きだす「ここでははないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説におけるパラダイムシフトは、さらにより一般化して「人はどのように生きるのか」という主体化のあり方におけるパラダイムシフトとしても読むことができるでしょう。
 
例えば千葉雅也氏は『現代思想入門』(2022)においてこうした主体化のあり方を二通りの「有限化」として描き出しています。同書はまず人間は動物的本能を逸脱するある種の「過剰さ」を抱えた生き物であるという前提をとります。他の動物と異なり未完成な状態で生まれてくる人間の子どもは神経系的にまだまとまった存在ではないため、生まれてしばらくの間の子どもは過剰な刺激の嵐に晒され、世界はカオスの場として現れます。そして、このような過剰な認知エネルギーを(精神分析でいうところの「欲動」を)なんとか制限して「有限化」するプロセスが同書における「主体化」と呼ばれるものです。
同書が描くあるひとつの有限化=主体化とはイメージと言語の外部を構成する到達不可能な「謎」の周囲をひたすら空回りするような「近代的有限性」と呼ばれる有限化=主体化です。これに対して同書が描くもうひとつの有限化=主体化とは世界をひとつの「謎」をめぐる場ではなく複数的な「問題」が生起する場として捉え、生活のタスクをひとつひとつ完了させていく「古代的有限性」と呼ばれる有限化=主体化です。その上で同書は社会をまとめ上げる「大きな物語」が消滅したポストモダンにおける有限化=主体化として前者から後者へのパラダイムシフトを説いています。
 
こうしてみると三宅氏の見立てる「ここではないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説のパラダイムシフトとは千葉氏のいう「近代的有限性から古代的有限性へ」という有限化=主体化のパラダイムシフトとほぼ重なりあっているといえるでしょう。
 
例えば坪井のエピソードでいえば、早田くんという「絶対的な道しるべ」を失ってから成瀬に出会うまでの坪井はこれからの大学生活を、ひいてはこれからの人生を、どうやって生きていけばいいのかという決定的な「謎」の周りをひたすら空回りしていたといえます。そこに成瀬は「ハムエッグ丼を作る」という「問題」を差し出します。そしてこれが契機となり坪井は自炊という生活のタスクをひとつひとつ完了させることに夢中になりこれまでの「謎」の呪縛から解放されることになります。
 
「わたしは『まわりを明るく照らす子になるように』という願いを込めてあかりと名付けられたんだ」
 
(『成瀬は都を駆け抜ける』より)

 

これは本作のラスト近くで成瀬が急に思い出したように何気なくつぶやいた印象的な台詞ですが、この台詞にこそ本シリーズのテーマが極まっているように思えます。この台詞の通り彼女の生き方(有限化=主体化)は周囲にも緩やかだけれども確実に明るい変化をもたらしていきます。そして本シリーズが幅広い読者層の共感を獲得した所以はひとえにこうした成瀬の生き方にあるのでしょう。こうした意味において本作は青春小説という枠組みにとどまらず「大きな物語=絶対的な道しるべ」なき今という時代を照らし出す確かな「あかり」であるともいえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コンステレーションから物語へ--深緑野分『この本を盗む者は』

* コンステレーション

臨床心理学者の河合隼雄氏は京都大学最終講義「コンステレーション」で心理療法において見出される「物語」を「コンステレーション」の展開として語っています。ここでいう「コンステレーション」とは夜空にある星座を意味しています。「コン」とはもともと「ともに」という意味で「ステレーション」のステラとは「星」を意味しています。すなわち星がともにある=星座ということです。
河合氏が依拠するユング心理学を創始したスイスの精神科医カール・グスタフユングはこのコンステレーションという言葉を当初は言語連想検査を通じて発見した自我に相対する心的複合体であるコンプレックスに用いていましたが、やがてコンプレックスのさらに奥にあり、その基盤となる心的作用である元型に用いるようになりました。
 
とりわけユングは意識の枢要部である自我とは別に心全体の中心としての自己という元型を想定し、こうした自我と自己の相互作用を確立する自己実現の過程を「個性化の過程」と呼びました。こうしたことからユング派の心理療法においてはクライエントの自己実現の過程=個性化の過程をコンステレートしていくことが重視されています。
 
こうしたコンステレーションというものをわかりやすく表したものとして河合氏は曼荼羅を挙げており、曼荼羅のような表現はまさに世界全体を一つのコンステレーションとして読み切って表現していると述べています。実際にユングは自身の精神的危機を乗り越えるときにたくさんの曼荼羅の絵を描いています。すなわち人が人生のある局面において「私は世界をこう見たのだ」ということを表現したときに曼荼羅のような表現が現れるということです。
 
そして、こうした曼荼羅のような一瞬のコンステレーションを表現したものを展開していくと「物語」になると氏はいいます。夜空の星の姿を語ろうとしたときにギリシャ神話のような物語が生み出されたように、人間の心というのはコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っているといえます。つまり自己実現の過程とは個人が自分の中にある「物語」を見出していく過程であるといえるでしょう。
 
このようなコンステレーションから物語が生成されるプロセスを豊穣な世界観で描き出した小説として2021年本屋大賞ノミネート作であり今月から劇場版アニメーションが公開された『この本を盗む者は』を取り上げてみたいと思います。
 

* 本の家の娘と本の呪い

本作の舞台となる「読長町」はその名に違わず「本の町」として全国的に知られています。町には新刊書店や古書店のほか、翻訳小説や稀覯本や絵本など特定のテーマに特化した専門店やブックカフェなど全部で50店ほどの本に関係する店が点在しており、さらには書物を司る稲荷神を祀る読長神社まであり、休日になると多種多様な本好きで賑わっています。
 
この読長町の中心に位置する巨大書庫「御倉館」は全国的に有名な書物蒐集家だった御倉嘉市が創立し、その娘であるたまきが跡を継ぎ、現在はたまきの子であるあゆむとひるねの兄妹が管理しています。あゆむは柔道道場を経営する傍らで御倉館の管理人を兼任しており、ひるねは普段は御倉館で暮らし、館内の蔵書全てを読破しているという読書魔ですが普段は寝てばかりで生活能力は皆無です。
 
そしてあゆむの娘である御倉深冬がこの物語の主人公です。しかし深冬はとある事情から本にまつわるあらゆるものが嫌いで嫌いで仕方がなく「本の家」である御倉家に生まれてよかったことなどひとつもないと心底思っており、御倉館にもあまり近寄りたがらず、将来的には御倉館を売却したいとさえ思っています。
 
ある日、あゆむが事故に遭って入院し、ひるねの世話をするためやむを得ず御倉館を訪れた深冬は眠っているひるねが奇妙な御札を手にしているのに気が付きます。その御札には「この本を盗む者は、魔術的現実主義の旗に追われる」と書かれており、そこに突如、真白と名乗る真っ白な髪を持ち、犬に変身する少女が現れます。真白は御倉館の本が何者かに盗まれたために〈ブック・カース〉が発動したと深冬に告げます。
 

* 無意識としての物語世界

御倉館に仕掛けられた〈ブック・カース〉は一族以外の人間が館の外に一冊でも本を持ち出したら発動し、その呪いによって御倉町全体が本の物語の世界に変わり、本を盗んだ者は「物語の檻」に閉じ込められることになります。この呪いを解いて町を元に戻すにはその泥棒を捕まえるほかに方法はありません。
 
はじめはそんな荒唐無稽な話は信じなかった深冬ですが、一歩外に出ると果たして町は月がウィンクをし、大量の真珠の雨が降るマジックリアリズムの世界に変わっていました。こうして深冬は御倉館から本が盗まれるたびに「魔術的現実主義」の世界、「固ゆで玉子」の世界、「幻想と蒸気」の世界、そして「寂しい街」の世界といった具合にさまざまな「物語の檻」に閉じ込められることになります。
 
このように本作では主人公が様々な物語の世界に入り込んでしまい、その世界で起きる事件に巻き込まれるかたちで物語が展開していきます。これはユング派的な解釈でいえば「無意識の世界」への退行を表しているともいえるでしょう。
 
人間は意識の光を磨き上げることで文明を進歩させてきました。しかしそこで構築された意識が無意識の土壌からあまりにも切り離されたときそれは生命力を失ったものとなります。そこで我々にとって必要なことは意識の世界から無意識の世界へと還り、その間に望ましい関係を作り上げることではないだろうかと河合氏は述べています。
 
無意識の世界への退行はもっぱら病理的な現象として捉えられますが、ユングは退行における創造的な側面を認め、退行には病的な側面と創造的な側面があると主張しています。こうした退行現象は意識から無意識へと心的なエネルギーが流れ出ている状態といえますが、このエネルギーの流れがある時に反転し、それは無意識内の心的内容を意識内にもたらし、そこに新しい創造的な生き方が開示されてくるのを見ることがあります。
 
本作における深冬の本嫌いは無意識下のコンプレックスの作用であるといえるでしょう。ユングや河合氏は夢解釈などによって、こうしたコンプレックスを扱っていましたが、本作においてもまた物語の世界という「夢」のような領域で深冬は自身のコンプレックスをコンステレートとしていくことになります。
 

* グレートマザーとの対決

ところでこの深冬の本に対するコンプレックスは彼女の祖母であるたまきに起因します。小さい頃の深冬はそれなりに本好きの子供でしたが、たまきから「御倉の子」に相応しい存在になるべく徹底したスパルタ教育を叩き込まれたせいで徐々に本が嫌いになっていきます。さらに御倉館の中を見てみたいという「ふるほんずきのおねえさん」を御倉館に入れたことがたまきに発覚し「なぜ他人を信用するんだ」「この館にある本の価値は自分の命より重いと思え!」と激しく叱責されたことで深冬は決定的に本が嫌いになってしまいます。
 
そしてこのたまきこそが御倉館に〈ブック・カース〉を掛けた張本人です。深冬の曽祖父である嘉市は読書家をひとりでも増やそうと御倉館の書架を自由に開放し続けていましたが、その娘であるたまきは「本とは神聖なものである」という思想から嘉市の死後に御倉館の規律を厳格化し、200冊もの稀覯本が消失した事件をきっかけに館の開放を中止すると同時に読長神社の稲荷神と契約して館内の全ての本に〈ブック・カース〉を掛けてしまいます。
 
こうしてたまきは死んだ現在もなお深冬と御倉館を支配する存在として君臨し続けています。この点、先述したようにユングは無意識の深層に心の基盤作用としての「元型」の存在を想定していましたが、こうした元型の一つに「母なるもの」の元型である「グレートマザー(太母)」があります。生命を生み出す「母なるもの」のイメージはやはり生命の源泉である大地と結びつき、古代において生と死を司る地母神信仰を形成しました。例えば日本神話におけるイザナミは日本の国土を全て生み出した母なる神ですが、同時に黄泉の国を統括する死の神でもあります。
 
こうしたことから人間の無意識の深層を構成するグレートマザーの元型には「産み育てる」という肯定的な面と「呑み込む」という否定的な面が見出されることになります。この両義性はともに「母なるもの」の「包含する」機能の両面に他なりませんが、この両面のうちの「産み育てる」という肯定的な面のみが母性の本質として社会的に承認され、その一方で「呑み込む」という否定的な側面は常に人の無意識の中に存在して自我を脅かすことになります。本作において深冬はまさにこうした「呑み込む母」として君臨するたまきとの対決を通じて自身の元型をコンステレートしていくことになります。
 

* トリックスターの活躍 

では、グレートマザーが支配する無意識の世界で深冬をサポートする真白とはいかなる存在なのでしょうか。この点、ユングは意識の世界と無意識の世界をつなぐ元型として「トリックスター」という存在を想定します。ここでいうトリックスターは多くの神話や伝説などのなかで活躍するイタズラ者やペテン師として現れます。彼らはトリックを用いて権威に反抗し、ときには極端な上下の転倒をもたらすことになります。
 
このようなトリックスターの典型が「狐」です。狐が人を化かすというのはトリックスターの属性としての変幻自在性を如実に示すものといえます。本作でも稲荷神=狐の神の力で〈ブック・カース〉が発動すると本を盗んだ者は狐に変えられてしまいますが、これはトリックスターが無意識の世界への退行のトリガーとなることを考えると極めて示唆的な設定であるといえるでしょう
 
もちろんトリックスターは狐に限られません。例えば日本の昔話における「桃太郎」や「花咲爺」のように「犬」がトリックスターとして活躍する物語も多くみられます。そしてトリックスターは低次元においては単なるいたずら好きの破壊者として現れますが、高次元においては新しい秩序や建設をもたらす英雄的存在として現れます。
 
こうして観点からいえば、犬でも人間でもある(あるいはその両者でもない)真白はトリックスターとしてはかなり高次元の存在であり、それは同時に自我の生成過程で切り捨てられた「生きられなかった半面」である「影」の元型でもあり、さらには冒頭で述べたような「自己」の元型そのものであるともいえるでしょう。
 

* コンステレーションから物語へ

こうして深冬は真白に導かれて、あるいは真白と手を取り合うことで自己実現の過程をコンステレートしていくことになり、その結末において「私は世界をこう見たのだ」というコンステレーションを「物語」として紡ぎ出していくことになります。
 
ここで深冬が「御倉の子」であるという事実は1ミリも変わっていません。変わったのはこの事実を受け取る深冬の「物語」の方です。多くの人は人生において何らかの困難に直面したとき「なぜこうなったのか」と嘆くことになります。換言すればそれは「なぜこうなったのか」という「物語」を求めているということです。
 
もちろんここでいかなる「物語」を選び取ったとしても目下の困難という客観的な現実は何ひとつ変わることはありません。しかしそこでいかなる「物語」を選び取るかによって、その困難がもたらす「苦しみ」は全く異なってきます。こうした意味で深冬は「御倉の子」であるという「呪い=苦しみ」を解呪する「物語」を選び取ることになります。
 
こうしてみると本作はグレートマザー(=たまき)の脅威に怯え続ける幼い自我(=深冬)が無意識の世界(=物語の世界)でかつて自身が切り捨てた影(=真白)と和解することで、自身の自己と出会い直すというコンステレーションを物語として物語る物語であったといえるでしょう。
 
そして、このような「コンステレーションから物語へ」というユング的な自己実現の寓話をマジックリアリズム、ハードボイルド、スチームパンクといった多様多彩な物語世界を往還することで描き出していく本作は漫画やアニメなどの視覚メディアと極めて相性が良い作品でもあります。
 
2022年から2023年にかけて公刊された本作のコミカライズ版は原作小説が持つ魅力や潜勢力を十二分に引き出した珠玉の出来栄えであるといってよいでしょう。普段あまり小説を読まないのであればコミカライズ版の方から本作に入門するのいうのも良いかもしれません。
 
また今月から公開された劇場版アニメーションは中盤から終盤かけての展開が原作とはかなり異なっていますが、表層的なシナリオを変更することによって、むしろ「グレートマザーとの対決」という原作小説の核心部にあるテーマをより深く描き出すことに成功した映画であったように思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

破壊の快楽と制作の快楽--坂口安吾『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』

* プラットフォームから「庭」へ

 
批評家の宇野常寛氏は近著『庭の話』(2024)において今日の情報環境は社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こす「相互評価のゲーム(発信と承認の快楽が前面化したゲーム)」に支配されているとして、ソーシャルメディアに代表される「プラットフォームの時代」を内破するための方法を「庭」という比喩を用いて論じています。同書が提示する問題の所在は次のようなものです。
 
現代の人類社会の最上位レイヤーはローカルな国民国家からグローバルな市場へと変化し、そして世界を変える究極の手段はそのローカルな国民国家の法を選挙や革命で変える政治から、グローバルな市場にイノベイティヴな商品やサービスを投入する経済へと移行しましたが、ここから一つの大きな分断が生じることになります。
 
イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートは世界はいま「Anywhere」な人々と「Somewhere」な人々に二分されていると述べています。ここでいう「Anywhere」な人々、つまり「どこでも」生きていける人々とは今日のグローバルな情報産業や金融業のプレイヤー、クリエイティヴ・クラスの人々のことです。これに対して「Somewhere」な人々、つまり「どこかで」しか生きられない人々は20世紀以前の製造業を中心とした旧い産業に従事し、ローカルな国民国家の一員としての意識を持つ人々のことです。
 
そして「Somewhere」な人々がプレイするローカルな相互評価のゲームは、より上位の「Anywhere」な人々のプレイするグローバル資本主義というゲームの一部であり「Anywhere」な人々は「Somewhere」な人々の承認への欲望を可視化し、彼らのプレイする相互評価のゲームによって収益を上げる構造を作り上げており、その構造こそがソーシャルメディアに代表されるプラットフォームに他なりません。
 
20世紀を代表する政治哲学者の一人であるハンナ・アーレントは1951年に公刊した『全体主義の起源』で19世紀後半以降の帝国主義拡大の原動力を〈グレート・ゲーム〉を自己目的化してゲームそれ自体への没入した当時のヨーロッパ人の精神性にあったといいます。そして本書はこのような帝国主義の末期から100年を経た今日のプラットフォームにおいてアーレントのいう〈グレート・ゲーム〉は今日の情報技術と金融資本主義の結びつきの中で二重化されているといいます。
 
アーレントが『全体主義の起源』で示したのはこのようなゲームの自己目的化が人間とその社会を決定的に愚かにするという事実でした。そして今日における相互評価のゲームもまた多くの場合、世界における問題そのものや事物そのものを思考することよりも二項対立に単純化された問題についての賛否をめぐるコミュニケーションが重視され、その結果閉じたネットワークの内部でシェアされる情報は多様性を失っていき、承認だけが延々と交換されていくことになります。こうした相互評価のゲームに支配されたプラットフォームの時代を内破する方法について考えることが同書の主題となります。そしてその方法は「庭」という比喩によって語られます。
 
プラットフォームには人間間のコミュニケーションしか存在しません。しかし「庭」は異なります。「庭」は人間外の事物であふれる場所です。草木が茂り、花が咲き、そしてその間を虫たちが飛び交います。「庭」にはさまざまな事物が存在し、その事物同士のコミュニケーションが生態系を形成しています。しかし同時に「庭」とはあくまで人間の手によって切り出された場です。完全な人工物であるプラットフォームに対して「庭」という自然の一部を人間が囲い込み、そして手を加えた場は人工物と自然物の中間にあります。
 
だからこそ人間は生態系に介入し、ある程度まではコントロールできます。しかし完全にコントロールすることはできません。「庭」とはその意味で不完全な場所です。しかし、だからこそプラットフォームを内破する可能性を秘めています。つまり問題そのもの、事物そのものへのコミュニケーションを取り戻すためにはいまプラットフォームを「庭」に変えていくことが必要であると本書はいいます。こうした「庭」の条件とは次のようなものです。
 
まず「庭」とは第一に人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に人間がその生態系に関与できるが、完全に支配することはできない場所である必要があります。
 
そしてここでは人間が事物に対して「受動的な存在」になる時間が生まれる場所である必要があり、さらにそこは「共同体」であってはならず、むしろ人間を「孤独」にする場所でなければならないとされます。このような「庭」において人は事物とのコミュニケーションを通じて疑似的な「変身」を遂げることになると同書はいいます。

 

庭の話

庭の話

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もちろん「庭」の条件はひとつの場所ですべて満たされる必要はなく、むしろいくつかの機能を持つ「場所」の複合体としての都市があり、そのなかにどれだけこの「庭」の条件をある程度満たす場所を作ることができるかが問われます。そして同書はここで挙げた「庭」の条件をすべて満たす社会的な大状況として「戦争」を挙げています。ここで同書が取り上げる小説が坂口安吾の短編小説『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』です。
 

*「庭」の究極の条件

 
『戦争と一人の女』という小説は「野村」という語り手と、ある「女」との同棲生活を綴ったものです。物語の舞台は第二次世界大戦末期の日本のとある都市で、そこで野村は酒場で知り合った「女」と暮らしています。しかしその関係は戦争末期の破滅的な予感を背景にした刹那的なものであり、そこに未来の展望は一切感じられません。
 
この「女」はいわゆる不感症で、野村はその原因を彼女が長く水商売をしていたからだと考えています。もちろん現代の感覚からすればそれは偏見以外の何者でもないですが、ここで重要なのはその「汚れた」過去から不感症になってしまった彼女が野村の中で当時の破滅へと向かう日本という国家に重ね合わされているという点です。
 
つまり野村にとって自己と国家(戦争に敗れつつある日本)との関係とは、この先に何も生まないことが見えてしまっている恋人との終わりつつある関係のようなものであるということです。にもかかわらず野村がこの「女」と関係を続けるのは、彼が彼女=破滅へ向かう日本と一緒にみずからも破滅していくことに自己陶酔を見出しているからです。それゆえに野村は日本という国家が戦争に敗北することを自己の敗北のように受け止め、自己が手触りをともなって体験できる敗北を「女」との刹那的な関係に見出そうとしているわけです。
 
そしてこの物語を「女」の視点から描いた小説が『続戦争と一人の女』です。ここで「女」は戦争のもたらす世界の変化そのものに感動しています。野村が戦争と自己を重ねあわせ同一化しているのに対して「女」は戦争という「事物」の生態系をただ受け止め、戦争が一方的に自分を襲い、そして世界を変える可能性を示したことに魅入られています。
 
そこには自己が世界に関与し、影響を与えることをアイデンティティの中核に置く発想もなければ、他の誰かと承認を交換することの充足もありません。世界が自己と無関係に変化してしまうことに「女」はただ魅入られているということです。
 
この小説の結末近くで野村は戦争こそが彼女の真の恋人なのだと告げます。それは戦争こそが「女」の欲望を、つまり自己と無関係な世界の変化を体験することへの欲望をかなえているからに他なりません。彼女は同時代人たちの多くが求めていたように自己の存在を歴史という物語で意味づけようとしてはいないし、野村のように、その失敗に傷ついてもいません。彼女はただただ世界が戦火で燃え上がることに興奮しています。そしてここにおそらく「庭」の究極の条件が露呈していると宇野氏はいいます。
 

* 自己と無関係に世界が変化していくこと

 
確かに「戦争」という大状況は先述した「庭」の条件をことごとく満たしています。まず戦争は(悪い意味で)人間が人間外の事物とコミュニケーションを取る場といえます。20世紀に発生した戦争の機械化がもたらしたものは戦場における人間の事物化に他なりません。そして同時にこの戦争という状況下において人間は事物の側からアプローチを受けることになります。
 
そしてその事物たちは皮肉にも非常に豊かな生態系を獲得してしまっています。兵器のスペックとその運用、陸海空軍それぞれのメカニズムと戦術、戦略とその背景をなす政治的イシュー等々。これらの戦争にまつわる事物の生態系は人を惹きつけてやみません。だからこそ人間は戦争について語り始めると途端に饒舌になるのです。しかし、その反面人間は「戦争」という状況に関与できるけれど支配することはできませんし、いうまでもなく戦争は人間を孤独にします。
 
こうしたことから宇野氏は戦争とは究極の「庭」であるといいます。そして戦争はこれら「庭」の条件を総合したときに浮上する人間のあまり自覚されないがもっとも強い欲望に、おそらく承認の獲得に唯一対抗できる根源的な欲望を強く実現するといいます。
 
自己と無関係に世界が変化していくこと。そしてそれを実感できること。つまり世界が変わると信じられること。戦争はこの「庭」の最後の、そして究極の条件を満たすものとなります。このように「戦争」という状況について考えることで導き出され得るのは「庭」的な場所が究極的に辿り着かなくてはいけない価値の存在であるということです。
 
今日のグローバルに肥大した資本主義と情報技術のカップリングは人類に二つのゲームを与えています。一つ目は個人がグローバルな市場において何者かになるという自己実現を「する」というゲームです。そして二つ目は個人がそのグローバルな市場の一部であるプラットフォーム上で何者か「である」ことを確認するというゲームです。この二つのゲームは先述のように21世紀の〈グレート・ゲーム〉として深く結びついています
 
そうであればプラットフォームを内破する「庭」的な場所はこの「する(評価)」ことでもなければ「である(承認)」ことでもなく、この問いを無効化する回路を備えている必要があるということになります。換言すれば自己とは無関係に世界が変化することを体感できる回路が必要であるということです。そしてこのような「庭」がより大きな力を発揮するための別な条件がその外部にあり、この二つの条件が揃うことではじめて「庭」は正しく機能すると宇野氏はいいます。そしてここで鍵となるのが「制作」という概念です。
 

*「消費」から「制作」へ

 
かつて吉本隆明氏は1960年代の政治の季節の終わりに共同幻想(具体的には政治的イデオロギー)からの「自立」の根拠を対幻想(具体的には戦後中流的な家族形成)に求めましたが、消費社会が爛熟した1980年代になると「自立」の根拠を「消費」という回路に求めるようになります。換言すればこれは対幻想ではなく自己幻想に依拠して「自立」を試みるというプロジェクトです。そして、吉本思想の継承者と目される糸井重里氏は商品に「物語」を付与することで「(現代では相対的に価値が低下した)モノの消費」を「コトの消費」に近づけ、発信と承認の快楽が前面化した現代情報環境に抗おうとしています。
 
これに対して宇野氏は事物の「消費」ではなく事物の「制作」こそが共同幻想にも対幻想にも依存せず、市場からの評価からも共同体からの承認からも切断しうる「自立」の可能性を秘めた回路であるといいます。換言すれば自己が「何者かになる」こともないままその活動が世界を少しでも確実に変えていることを実感できるということです。
 
そのためにはまずラーメンが美味しいとか景色が美しいといった事物を「受け止める」主体として出発するところから始まります。この状態が加速すると人間は「どうしても欲しいがまだ世界に存在しないもの」を求めて「制作」を欲望するようになります。
 
この段階に達すると少なくとも一時的に「承認」からも「評価」からも切断され、人間が純粋に事物を通じて世界に関与する時間が訪れることになります。このように事物を「制作」すること。それこそが「する」ことと「である」ことの対立の外部に「も」成立する「自立」の回路であるということです。
 

* 中動態の世界の一時停止

 
こうした本書の議論は國分功一郎氏が2011年に公刊し、ベストセラーとなった哲学書『暇と退屈の倫理学』における議論を更新するものとしても読めます。國分氏は同書においてフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの消費社会論をベースに「退屈」とは消費社会が生み出すニューモデルとかブランドといった観念や記号を際限なく追い求め決して「満足」に至らない「消費」から生じるとして、その解決策として「消費」から「浪費」へ回帰すること、つまり事物についての観念や記号ではなく、事物それ自体を(過剰に)受け取ることで「満足」に至る「贅沢」という戦略を提示しました。
 
これに対して宇野氏は同書の公刊当時に比べると情報環境が劇的に変化してプラットフォーム上での発信と承認の快楽が前面化した現在では「退屈」を克服するだけでは済まなくなった「後の」問題が生じるとして「消費」から「浪費」への回帰という戦略のさらにその先に「制作」を位置付けます。そしてこのような「制作」の動機は事物の「浪費」に「満足」することなく失敗し続けることで生じるとして、このような「浪費」に失敗し続けるための場として事物とのコミュニケーションを通じて継続的な「変身」が生じる「庭」を位置付けています。
 
また國分氏はもうひとつの代表作『中動態の世界』においてインド・ヨーロッパ語族の文法研究史を参照し、現代の言語を規定する能動態と受動態のパースペクティヴはかつての能動態と中動態のパースペクティヴが変化したものであるとして、実質的に「中動態の世界」で思考していたと國分氏が位置付けるスピノザに依拠した「自由」へのアプローチを試みます。ここでいう「自由」とは「自己の本性の必然性に基づいて行為する」ことであり、換言すればそれはスピノザのいう物の本質としての「力(コナトゥス)」を発揮することに他なりません。
 
これに対して宇野氏は國分氏のいう「中動態の世界」は情報技術の進化によりすでに回復されてしまっていると考えます。少なくとも「相互評価のゲーム」に興じるプラットフォーム上のユーザーたちはスピノザのいうところの「自由」を悪い意味で享受しています。こうしたことから氏は「庭」においてはプラットフォーム上で拙速に回復されてしまった「中動態の世界」が機能しなくなる時間を手に入れる場所でなくてはならないといいます。このような「庭」において人間は完全に受動的な存在として事物に襲撃されて「傷」を負い、そしてその「傷」によって人間は「制作」に動機づけられることになるのです。
 

* 破壊の快楽と制作の快楽

 
そしてこの「制作」こそが「続戦争と一人の女」に登場した「女」の欲望にもっとも肉薄する回路となります。例え誰からも認められなくても、これまで存在しなかった事物が存在するようになるだけで世界は確実に変わり、このことを実感することで人間は孤独に、つまり共同性を介することなく世界に接続できると宇野氏はいいます。すなわち、これからの公共性の手がかりはここにあるということです。
 
それは「女」の愛した「戦争」のように自己の存在と無関係に世界が変化し、それを体験することの快楽は与えてくれませんが「承認」も「評価」も用いず個人と世界を結びつける点で両者は共通します。そのため「戦争」という「破壊」の快楽にもっとも肉薄できるのが「制作」の快楽なのであるということです。
 
「続戦争と一人の女」は吉本隆明的な語彙からいえば対幻想の敗北の物語です。野村は「女」との関係に敗戦する日本と自己の関係を重ね合わせています。これに対して彼女の「真の恋人」は戦争そのものです。彼女は野村のように自己を戦争というゲームのプレイヤーだと考えていません。彼女は戦争という事物の生態系の豊かさに、過剰さに、圧倒的な力に魅入られています。そこで氏は「戦争」ではないかたちで「女」の欲望に応える「平時の恋人」に「制作」を位置付けるべく、そのための条件として「庭」の外部において「庭」を機能させるための「人間の条件」を論じています。
 
ところで「自己と無関係に世界が変化していくこと」に対する欲望はなぜ根源的な欲望といえるのでしょうか。ここではカント哲学でいうところの「崇高」という感情がヒントとなりそうです。カントのいう「崇高」とは我々を圧倒する物凄いものに対して抱く感情です。その例としてアルプスの雄大な景色や猛烈な嵐が挙げられます。物凄いものに圧倒されるとは基本的に不快な感情のはずですが、その不快がやがて不思議な満足感に変わります。これが崇高です。
 
この点、カントは人間の心を「感性」「構想力」「悟性」「理性」という4つのアクターが働く職場のようなものだと考えます。こうした心においては「感性」が捉えたものを「悟性」が理解し、何らかの判断を下すことになりますが、この「感性」が捉えたものを図式化して「悟性」の理解を助ける役割を担うものが「構想力」です。
 
物凄いものに出会った時もこの構想力はその全体を把握しようと働きを始めます。しかし構想力は到底これを図式化できません。従って悟性も働きません。これは構想力にとって自らの無能を思い知らされる不愉快な状況です。これこそが物凄い対象に圧倒された時に最初に訪れる不快の正体です。
 
ところがそこに別のアクターが関わってきます。これが「理性」です。理性とは「理念」を扱う作用です。ここでいう「理念」とは例えば「宇宙全体」のような認識はできないけれども、考えることはできる対象をいいます。こうした理念を理性は構想力に突きつけ、この物凄いものの全体を把握するようプレッシャーをかけてきます。そこで構想力は奮起し、この理念に見合うものへと自らを高めようと決意します。こうした状況をカントの言葉でいえば「法則として理念との適合を実現すべきであるという自分の使命」を構想力が再認識するということです。
 
ここで理性と構想力は対立しています。しかし構想力のこの気づきは心という職場自体を活性化させることになります。そして人間の主観は全体として次のように考えます。自然に比べて人間はちっぽけな存在だけれども、人間にはそんな自然をも包み込む理念を作り出す力が備わっており、自然に負けない人間性を人間は備えていると。
 
物凄いものに圧倒されているという事実そのものがこれによって変わったわけではありません。物凄いものの経験の解釈の仕方が変わったのです。それゆえ物凄い風景自体が崇高なのではなく、物凄い風景に圧倒されるという不快な経験をきっかけとして人間が自分自身を再発見するという一人芝居のような過程の中で感じられるのが崇高の感情であり、その再発見の中に快があるということです。
 
この過程で発見される人間性は道徳性を含んでいるとカントはいいます。つまりこれは人間の目的、人間に備わっていた自分たちのあるべき姿の再発見でもあります。こうした意味で本作は戦争という巨大な悪のただなかで一人の人間のなかに「崇高」が生じる過程を描き出した作品であったといえるでしょう。