かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

データベースからアルゴリズムへ--三宅香帆『考察する若者たち』

* データベース消費の現在地

 
ゼロ年代を代表する批評家である東浩紀氏はその代名詞的著作である『動物化するポストモダン』(2001)において近代的な「大きな物語」が機能不全となった現代ポストモダンにおける個人の消費行動を「物語消費」から「データベース消費」への移行として定式化しました。
ここでいう「物語消費」とは個々の作品消費を通じてその作品の背後にある「大きな物語(世界観設定)」を消費する行動様式をいいます。これに対して「データベース消費」とは個々の作品消費を通じてその作品に登場するキャラクターにおける例えば「萌え要素」といった「データベース(非物語的な情報の束)」を消費する行動様式をいいます。
 
ここから東氏はポストモダンの主体を動物的欲求が全面に出て人間的欲望が形骸化した「データベース的動物」と呼び、日本社会においてポストモダンが大きく加速したといわれる1995年以降を「動物の時代」と位置づけます。
 
さらに氏はその続編『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)において従来の近代文学が目指した近代的現実を写生する「自然主義的リアリズム」に対するポストモダンの文学観として、漫画やアニメのような虚構を写生する「まんが・アニメ的リアリズム」と物語が複数に分岐していくゲーム経験を写生する「ゲーム的リアリズム」を提示しています。
こうしてゼロ年代においては、このような東氏が打ち出した数々の批評概念を軸に「ゼロ年代批評」と呼ばれる批評シーンが形成され華々しい議論が展開されることになりました。そしてこの令和の時代において東氏の議論を決定的に更新する一冊として本書『考察する若者たち』を読んでみたいと思います。
 

*「考察」の流行と報われ消費

本書によれば最近のZ世代を中心とした若年層ではドラマや映画を観た後すぐにその作品の「考察動画」や「考察記事」を検索する傾向があるそうです。こうした意味での「考察」という言葉が注目され始めたのは2019年のテレビドラマ『あなたの番です』がきっかけであると本書はいいます。2クール計20話という日本のテレビドラマとしては異例の長さで放送され、その最終話は視聴率19.4%を叩き出し、Twitter(現X)の世界トレンド1位を5回も獲得した同作は「考察ドラマ」と呼ばれています。つまり同作は制作側が意図的に作中に謎を仕掛け、その謎を視聴者が考察しSNSで拡散することを狙って作られた作品であるということです。
 
この『あな番』のヒットを契機に「考察ドラマ」は世間に広く浸透します。作品によっては制作側が特に「考察」を狙っていなくとも視聴者の方が勝手に「作者は隠された謎を仕掛けている」という前提で「考察」するケースもあるようです。そしてその傾向は小説や漫画やアニメなどの他のジャンルにも波及します。例えば昨年公開された『劇場版「鬼滅の刃」無限城編第一章 猗窩座再来』の大ヒットの裏側には同作の裏設定や伏線回収や小ネタにまつわる大量の「考察動画」が存在します。すなわち、ここから映画を観た観客が考察動画を見てその真偽を確認すべくまた映画を観に行くというサイクルが生じることになります。
 
このように若年層を中心とした令和の視聴者にとって「考察」とはフィクションを楽しむためのメジャーなひとつの手法となっていると本書はいいます。そしてその背景にただコンテンツを消費して満足するだけではなく、その時間を「意味ある時間」に変えたいという若年層の消費行動を見出し、このような消費行動を「報われ消費」と呼びます。つまりただ楽しい時間を過ごすだけじゃなく、その時間における報われるポイントがわかっていると手を伸ばしやすくなるということです。裏を返せばただ楽しい、面白いという感情だけではそのコンテンツを消費する時間は端的に無駄だと感じてしまうということです。
 
こうした若年層の消費行動を象徴する言葉として本書は2023年度講談社漫画賞総合部門を受賞した人気漫画『スキップとローファー』の「たぶんこれが最適解!」という台詞を引いています。同作が描く令和の高校生たちのように、若い世代は自分の行動に求められる、意味のある、正しそうな「最適解」を求めているということです。ではなぜ若い世代はこんなにも「最適解」にこだわるのでしょうか。これは単にZ世代がタイパやコスパがいいものを求めているという世代的な傾向だけではなく、そこには「令和特有の病」があると本書はいいます。
 

*「批評」から「考察」へ

 
本書は現代を「考察の時代」だといいます。先述のように考察とは作者が提示する(とされる)作品の謎を解く行為をいいます。本書によれば令和においては物語を読んだり観たりすることが、ただ読んだり観たりするのではなく、物語のなかに「謎」として置かれた「正解」を解くゲームになりつつあるということです。
 
これに対して平成以前は「批評の時代」であったと本書はいいます。ここでいう批評とは作者も把握していない作品の謎を解く営為をいいます。作者は作品の生みの親ですが、作者が作品のことを全て理解しているとは限りません。このような態度を批評はとっています。
 
両者は具体的にどう異なるのでしょうか。本書の例でいえば『となりのトトロ』(1988)を観て「じつは宮崎駿は”サツキとメイはすでに死んでいる”という設定を潜ませている」という解釈を行うのが考察です。これに対して「じつは”サツキとメイは幼いうちに日本で戦争によって亡くなった子どものメタファー”として捉えられる」という解釈を行うのが批評ということになります。
 
ここで重要なのは「作者の意図」への意識の有無です。批評から考察へ。こうしたフィクションを楽しむ人々の姿勢の変化を本書はフィクションを楽しむにあたり解釈を「作者の意図」として受け取ったほうが安心できる人が増えたということではないかと述べています。
 
換言すればそれは「正解」かどうかもわからない個人の解釈(感想)を知ってもちっとも面白くなく、それよりも作者が潜ませた「正解」を知ることの方が面白いという変化に他なりません。つまり考察には「正解」がどこかにあることから「わざわざ努力する価値がある」ということです。こうしたことから令和とは物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのではないかと本書はいいます。
 

*「推し」と「転生」

 
本書はこのような「報われたい」という消費感情から令和のヒットコンテンツを分析します。例えば「推し」という令和になって広く人口に膾炙した言葉があります。ここでいう「推し」とは自分が好きで、そして応援したり他人に勧めたりしたい対象のことをいいます。つまり自分が対象をとても好きだという感情に、さらに何らかのポジティヴな形で好きな相手と関わりたいという行動が追加された時に「推し」が成立することになります。
 
ところで「推し」が浸透する以前にある対象を好きだと思うことは「萌え」と呼ばれていました。先述のように東氏は『動物化するポストモダン』においてこうした「萌え」の根底にある消費行動を「データベース消費」と名づけたのでした。つまり「萌え」とは例えば「何となく自分はネコミミが好きだ」「何となく眼鏡のクールなキャラが好きだ」というデータベースから反応する反射的(動物的)な欲求であるということです。
 
本書は「推し」もやはりこうした「データベース消費」から生じる「萌え」の感情が根底にあるといいます。もっとも「萌え」はその対象が「変わる」ことを前提とする瞬間的な欲求であるのに対して「推し」とは「推し変」という言葉が示唆するように一瞬の感情ではなく継続的な行為であることが前提となっており、そこには自分の「推し」が何かしらの理想のゴール(例えば東京ドームで公演したり総選挙で1位になったり興行収入400億の男になったりなど)へ到達することでファンもまた「報われたい」という感情があるとします。
 
また「転生もの」というこれまた令和において一般化したジャンルがあります。ここでいう「転生」とは死後に他の場所(多くの場合は異世界)で生まれ変わり、前世の記憶を持ったまま新しく人生をやり直すことをいいます。この「転生もの」が流行する以前に流行していたのが「ループもの」というジャンルです。「ループもの」と呼ばれる作品では主人公は例えばヒロインを救うため何度も時空を超えて過去改変を試みることになります。
 
こうした「ループもの」をかつて東氏は「ゲーム的リアリズム」という概念で説明しました。これに対し本書は「転生もの」を「ガチャ的リアリズム」という概念で説明します。すなわち「転生もの」の物語の流行は「違うスペックに生まれてきたかった」というガチャ的な欲望に支えられているということです。
 
もっともこれは努力をせずとも無双できるチートな存在に生まれ変わりたいという欲望をただちには意味しません。現代の若年層は努力すれば成功するスペックとそうでないスペックがあることを肌感覚で感じており、ここでいうガチャ的欲望とは最初からガチャに当たって「努力すれば成功できるスペックに生まれてきたかった」という「報われたい」という欲望であるということです。
 

* TikTokとChatGPT

 
以上のように本書は「考察」「推し」「転生」といった令和に流行するヒットコンテンツから、あるいは「陰謀論」や「成長幻想」が流行する時代の傾向性から、その背景にある「報われたい」という感情を抽出します。そしてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームとしてTikTokを挙げています。
 
本書がいうようにTikTokの特徴とは短尺の動画が次々に大量にレコメンドされる点にあり、その報酬は大量の短尺動画を見て得られる脳内刺激にあります。そしてこうしたレコメンドはプラットフォームにおけるアルゴリズムによって決定されています。ここでいうアルゴリズムとはユーザーの好みを機械学習し、それに基づいて情報や広告を変えるシステムのことをいいます。
 
ここから本書は令和のヒットコンテンツとはすべてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームアルゴリズムのなかで生まれたものであると分析し、こうしたアルゴリズムにより同じ「界隈」に集まった(集められた)ユーザーが「正しさ」という報酬を求め「正解を提示する擬似親」としてChatGPTをはじめとする生成AIに依存しつつあるといいます。
 
考察したい、推したい、転生したい、気づきたい、成長したい、擬似親がほしい、正解がほしい、報われたい、こうした若者たちの姿は--アルゴリズムのレコメンドに押し流される私たちの姿そのものなのだ。
 
(『考察する若者たち』より)

 

* データベースからアルゴリズム

 
その一方で本書はアルゴリズムがもたらす最大公約的な「正解(に近い最適解)」によって発信者や受信者の個別性が失われていく状況に警鐘を鳴らします。すべてが最適化され最適解を求められる社会における「自分らしさ」とは畢竟、一般性から逸脱する特異性としての「生きづらさ」へと直結するからです。
 
もとより本書は「正解(最適解)」を求めることを否定はしません。誰も好き好んで失敗したくないのは当然です。しかし同時に本書はその「正解(最適解)」を目指す態度を補完するものとして「批評」的な態度という選択肢を提示します。つまり本書はここで「正解(最適解)」を求める態度と、その「正解(最適解)」から意図的に逸脱していく「批評」的な態度というダブルシステムを提案しているということです。
 
先述のように東氏は平成の時代を「データベース消費」が前面化した「動物の時代」と位置付けています。令和の時代においてこうした東氏の議論を本書の議論をもとに術語化するのであれば、それはデータベースを最適化するシステムとしてのアルゴリズムそれ自体を消費する「アルゴリズム消費」が前面化した「正解(最適解)の時代」というべきなのかもしれません。
 
かつて社会学者の見田宗介氏は「現実」を構成する「現実ならざるもの」としての「反現実」という視座から戦後日本社会を「理想の時代(1945年〜1960年)」「夢の時代(1960年〜1975年)」「虚構の時代(1975年以降)」に区分し、さらにこの議論を継承した大澤真幸氏は東氏の議論を参照しつつ1995年以降を「不可能性の時代」と名づけましたが、こうした「理想」「夢」「虚構」「不可能性」という反現実の表記法に倣えば令和の時代、すなわち2020年代における反現実とは、あるいは「正解(最適解)」といえるのかもしれません。
 
いまや我々の生きる「現実」は良くも悪くも「現実ならざるもの」としての「正解(最適解)」に規定されているといえるのではないでしょうか。こうした意味で「正解(最適解)」をいったんは受け入れつつも同時にそこから緩やかに逸脱していく術を提示する本書の批評的射程は極めて広範に及んでいるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

道しるべなき時代にあかりを灯す--宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』

* 承認の時代における「主人公」

 
2024年本屋大賞受賞作『成瀬は天下を取りに行く』(2023)は歴代本屋大賞受賞作の中でも極めて異色な作品であったように思えます。同作は滋賀県大津市を舞台に主人公である成瀬あかりの中学2年生の夏から高校3年生の夏までの出来事を描く本編5編と外伝を含めた全6編からなる連作短編集です。その第1編目である「ありがとう西武大津店」は次のようなあらすじです。
成瀬は14歳の夏休み前、幼馴染の島崎みゆきに「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」と唐突に告げます。成瀬はこれからコロナ禍の中で閉店を迎える西武大津店に閉店日まで毎日通い、夕方のローカル番組「ぐるりんワイド」の生中継に映るので島崎にはテレビをチェックしておいてほしいといいます。
 
島崎によれば成瀬は幼稚園に通っている頃から他の園児とは一線を画しており、走るのは誰よりも早く、絵を描くのも歌を歌うのも上手でひらがなもカタカナも正確に書け、その頃は誰もが「あかりちゃんはすごい」と持て囃していましたが、小学校に上がると1人でなんでもできる成瀬はその悪気のない振る舞いが周囲から「感じが悪い」と受け取られてしまい、5年生にもなると女子からは明確に無視されるようになります。
 
けれども本人はそんな周囲の目を全く気にすることなく、唐突に「島崎、わたしはシャボン玉を極めようと思うんだ」などと言い出したかと思えば、その数日後には「ぐるりんワイド」に天才シャボン玉少女として出演したりと、自身の好奇心の赴くままに日々を過ごしています。そんな成瀬の性格をよく知っている島崎は今回の「夏を西武に捧げる」というプロジェクトも「成瀬がまた変なことを言い出した」と淡々と受け止めます。
 
近年の本屋大賞受賞作をみると、そこには例えば壮大な医療ファンタジーである『鹿の王』(2014)やサスペンスと感動を高次元で両立させた『かがみの孤城』(2017)であったり、マイノリティが発する「声なき声」に耳を傾けていく『52ヘルツのクジラたち』(2020)や第二次世界大戦における女性兵士の苦闘と苦悩を描く『同志少女よ、敵を撃て』(2021)であったり、現代における「正しさ」の病理を抉り出す『流浪の月』(2019)や「生きる」という営為そのものに迫る『汝、星のごとく』(2022)であったりと、いずれも極めて「重厚」といえる作品が並んでいます。
 
ところが本作を最初に読んだ時の感想は正直なところ「えっ、これで終わり?」というものでした。先述した「重厚」な歴代受賞作の中に本作を並べてみると同作はどちらかといえば淡白な部類の物語になると思います。しかしながらいま思い返すとこの時は同作の持つ「重厚」を完全に見誤っていたと思います。すなわち、同作が描き出す「重厚」とはその「物語」ではなく、その主人公である「成瀬あかり」という「キャラクター」であり、同時に現代という時代に対して同作が行使する文学的批判力の源泉もまた、この「成瀬あかり」という「キャラクター」にあったといえるでしょう。
 
例えばソーシャルメディアのインプレッション数のように現代においては他者の「承認」が良くも悪くも個人の行動を規定する大きな価値基準として機能している傾向があるといえるでしょう。これに対してシャボン玉を極めたり、西武大津店に通い詰めたりといった成瀬の一見して脈絡のないように思われる奇矯な行動に一貫して見出せる価値基準は常に他者からの「承認」ではなく、あくまで自身の「好奇心」です。
 
では彼女はまったく他者に興味がないのかというとそんなことはなく、むしろ「承認」とは無関係なところで他者と関係し、時には他者に振り回されることもあります。そしてこのような絶妙なバランスから成り立つ「成瀬あかり」という「キャラクター」が持つ特異的な強度こそがおそらく、この「承認の時代」における「主人公」の理想的なあり方として幅広い共感を呼んだのではないでしょうか。
 
同作には『成瀬は信じた道をいく』(2024)という続編があり、この2冊は合わせて成瀬シリーズと呼ばれています。そしてこの成瀬シリーズの完結編となるのが去年12月に公刊された本作『成瀬は都を駆け抜ける』です。
 

* 失恋からハムエッグへ

本作の第1編目「やすらぎハムエッグ」のあらすじは次のようなものです。同編の語り手である坪井さくらは小さい頃からそこそこ勉強ができる子どもでしたが、勉強以外のことは何もかもが平均以下であり、親からは否定され同級生からはうっすらとバカにされている自分にコンプレックスを抱えて生きてきました。
 
そんな坪井のこころの支えは同じ学年の早田くんという男子で、勉強も運動もピアノも何でもできる彼は勉強以外は何もできない坪井にとっての「絶対的な道しるべ」となります。彼と同じ高校に進学した坪井は彼の第一志望の大学が京都大学だと知った瞬間、志望校を京大理学部に決め、見事を合格を勝ち取りますが、その喜びも束の間で合格を学校に知らせた折に教師から京大に合格したのは自分だけであると告げられます。果たして同じく京大を志望していたはずの早田くんはいつの間にか志望校を変え、東大に合格していたのでした。
 
こうして失意で迎えた京大の入学式、キャンパスの桜並木で履き慣れないパンプスに足を取られて転んだ坪井の前に現れて声をかけたのが同じく京大に入学した成瀬です。その後のガイダンス会場で坪井はびわ湖観光大使の衣装を身につけた成瀬を目撃し、スマホで検索してみると、観光大使の他に滋賀県膳所高校かるた班の主将だったとかゼゼカラというコンビでM-1グランプリに出場したとか大津市民短歌コンクールで入賞したとといった成瀬の華々しい経歴が見つかります。
 
翌日、理学部の教室で成瀬から声をかけられ、その流れでお昼を一緒にすることになった坪井はその風変わりなキャラクターにもかかわらず「人生におけるすべてのガチャで大当たりを引いている」成瀬が羨ましくて仕方がなく、そんな成瀬に少しでもあやかろうと早田くんの代わりに夢中になれる対象を成瀬に決めて欲しいと頼み込みます。そんな坪井に対して成瀬は料理はどうだといい、差し当たり「ハムエッグ丼」を作ることを薦めます。
 
これまで料理は家庭科の調理実習でしかしたことのなかった坪井でしたが材料や調味料を買い込み試行錯誤でどうにか完成させたハムエッグ丼に感激します。その日以来料理に傾倒することになった坪井はやがて早田くんへの想いを自然なかたちで手放すことができ、京都をいろいろと見て回りたいという成瀬とともに京都めぐりをはじめます。
 

* 教室の肯定

 
文芸評論家の三宅香帆氏は近著『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』(2025)において成瀬シリーズの魅力として「従来の「青春」物語を更新した」点にあるといいます。従来の青春をテーマとした小説においては「教室=学校」が閉鎖的で同調圧力が強く逃げることも許されない日本のムラ社会的な空間としての「ここ」の象徴として描かれており、こうした「ここ」の外部へ出ていく「ここではないどこかへ」という願望が教室を比喩として表現されていましたが、これに対して成瀬は「ここ(教室)」を肯定してみせます。
 
「成瀬シリーズの魅力のひとつは『青春は、悩まなくても面白い』と証明して見せたところにある」と三宅氏はいいます。成瀬は滋賀に住んでいて、滋賀から出ていこうともしないし、滋賀から出ていけないことを嘆きもせず、むしろ滋賀をとても愛していると同時に滋賀以外の場所を否定することもありません。「教室=地元の人間関係を肯定する青春、それが成瀬の日々なのだ」ということです。
 
こうしたことから三宅氏は従来の青春小説を「90年代:教室の外にある死」「00年代:教室の閉塞感」「10年代:教室からの解放」と定式化したうえで成瀬シリーズが表現したものは「20年代:教室の肯定」であるといいます。
 
「成瀬は「今ここ」を肯定し、そこで、やりたいことをやる。日本のムラ社会を否定せず、むしろムラ社会的地元のアイドルになることを、決して「ださい」ことと捉えない。滋賀こそが一番いい場所なのだ。成瀬にとって。」
 
(『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』より)

 

また三宅氏は同書の別の箇所でも成瀬シリーズの特色として「葛藤を”肯定”しない」点にあるといいます。成瀬は変人ですが彼女は自分が変人であることにほとんど葛藤しません。そして葛藤しない代わりに行動します。なぜなら自分がやりたいことが明瞭にわかっているからです。それゆえに氏は「成瀬は葛藤を肯定しない、新時代の青春小説なのだ」といいます。
 

* わたしは大きなことを百個言って、ひとつ叶えばいいと思っているんだ

 
そしてシリーズ完結となる本作も、こうした三宅氏が見立てる「ここではないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説のパラダイムシフトから読むことができます。もとより本作の舞台はこれまでの滋賀ではなくもっぱら京都ですが、成瀬にとっての京都は滋賀という「ここ」と並立するまた別の新たな「ここ」であるということです。
 
「京都を極めたい」という成瀬は偶然知り合った達磨研究会というサークルの面々と京都学派を代表する哲学者西田幾多郎が思索を深めた「哲学の道」を散策中、女子に奥手でやたら理屈っぽい達磨研の会長から「京都を極めることなど不可能ではないか」と疑念を呈されますが、あっさりと次のように答えます。
 
「わたしは大きなことを百個言って、ひとつ叶えばいいと思っているんだ」
 
(略)
 
「みんなは『極める』という到達点に注目するのだが、わたしはそこに至る道が重要だと思っている。ゴールにたどり着かなくても、歩いた経験は無駄じゃない」
 
(『成瀬は都を駆け抜ける』より)

 

このように「ここではないどこか」というあるのかないのかわからない「到達点」ではなく、あくまで「今ここ」にある「道」に価値を見出し「葛藤」することなく「行動」する成瀬は会長より進呈された観光ガイドからピックアップした百ヶ所に付箋を貼り付けて、そのすべてをクリアするといいます。そこに深い理由はありません。ただ単に「やりたいと思ったから」です。その一方で簿記系YouTuberぼきののかの炎上トラブルに巻き込まれたことがきっかけで夏休みを簿記二級の勉強に捧げたり、母親の成瀬貴美子とともに滋賀のローカル局びわテレの番組「ぐるりんワイド」に出演したりと多忙な日々を送ります。
 
もちろんその間にも「京都極め計画」は着々と進んでおり、ラストでは百ヶ所目である琵琶湖疏水をクリアして、地元である滋賀大津へと凱旋します。これは客観的にみれば単に京都の有名スポットを百ヶ所観光しただけとも言えますが、そこに至る「道」で起きた出来事や得られた出会いは成瀬にとっての代え難い財産になっていることは確かでしょう。ここにはまさに「ここ=都」を肯定すべく「行動する=駆け抜ける」という青春観が提示されているといえるでしょう。
 

* 道しるべなき時代にあかりを灯す

 
このような成瀬シリーズが描きだす「ここでははないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説におけるパラダイムシフトは、さらにより一般化して「人はどのように生きるのか」という主体化のあり方におけるパラダイムシフトとしても読むことができるでしょう。
 
例えば千葉雅也氏は『現代思想入門』(2022)においてこうした主体化のあり方を二通りの「有限化」として描き出しています。同書はまず人間は動物的本能を逸脱するある種の「過剰さ」を抱えた生き物であるという前提をとります。他の動物と異なり未完成な状態で生まれてくる人間の子どもは神経系的にまだまとまった存在ではないため、生まれてしばらくの間の子どもは過剰な刺激の嵐に晒され、世界はカオスの場として現れます。そして、このような過剰な認知エネルギーを(精神分析でいうところの「欲動」を)なんとか制限して「有限化」するプロセスが同書における「主体化」と呼ばれるものです。
同書が描くあるひとつの有限化=主体化とはイメージと言語の外部を構成する到達不可能な「謎」の周囲をひたすら空回りするような「近代的有限性」と呼ばれる有限化=主体化です。これに対して同書が描くもうひとつの有限化=主体化とは世界をひとつの「謎」をめぐる場ではなく複数的な「問題」が生起する場として捉え、生活のタスクをひとつひとつ完了させていく「古代的有限性」と呼ばれる有限化=主体化です。その上で同書は社会をまとめ上げる「大きな物語」が消滅したポストモダンにおける有限化=主体化として前者から後者へのパラダイムシフトを説いています。
 
こうしてみると三宅氏の見立てる「ここではないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説のパラダイムシフトとは千葉氏のいう「近代的有限性から古代的有限性へ」という有限化=主体化のパラダイムシフトとほぼ重なりあっているといえるでしょう。
 
例えば坪井のエピソードでいえば、早田くんという「絶対的な道しるべ」を失ってから成瀬に出会うまでの坪井はこれからの大学生活を、ひいてはこれからの人生を、どうやって生きていけばいいのかという決定的な「謎」の周りをひたすら空回りしていたといえます。そこに成瀬は「ハムエッグ丼を作る」という「問題」を差し出します。そしてこれが契機となり坪井は自炊という生活のタスクをひとつひとつ完了させることに夢中になりこれまでの「謎」の呪縛から解放されることになります。
 
「わたしは『まわりを明るく照らす子になるように』という願いを込めてあかりと名付けられたんだ」
 
(『成瀬は都を駆け抜ける』より)

 

これは本作のラスト近くで成瀬が急に思い出したように何気なくつぶやいた印象的な台詞ですが、この台詞にこそ本シリーズのテーマが極まっているように思えます。この台詞の通り彼女の生き方(有限化=主体化)は周囲にも緩やかだけれども確実に明るい変化をもたらしていきます。そして本シリーズが幅広い読者層の共感を獲得した所以はひとえにこうした成瀬の生き方にあるのでしょう。こうした意味において本作は青春小説という枠組みにとどまらず「大きな物語=絶対的な道しるべ」なき今という時代を照らし出す確かな「あかり」であるともいえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コンステレーションから物語へ--深緑野分『この本を盗む者は』

* コンステレーション

臨床心理学者の河合隼雄氏は京都大学最終講義「コンステレーション」で心理療法において見出される「物語」を「コンステレーション」の展開として語っています。ここでいう「コンステレーション」とは夜空にある星座を意味しています。「コン」とはもともと「ともに」という意味で「ステレーション」のステラとは「星」を意味しています。すなわち星がともにある=星座ということです。
河合氏が依拠するユング心理学を創始したスイスの精神科医カール・グスタフユングはこのコンステレーションという言葉を当初は言語連想検査を通じて発見した自我に相対する心的複合体であるコンプレックスに用いていましたが、やがてコンプレックスのさらに奥にあり、その基盤となる心的作用である元型に用いるようになりました。
 
とりわけユングは意識の枢要部である自我とは別に心全体の中心としての自己という元型を想定し、こうした自我と自己の相互作用を確立する自己実現の過程を「個性化の過程」と呼びました。こうしたことからユング派の心理療法においてはクライエントの自己実現の過程=個性化の過程をコンステレートしていくことが重視されています。
 
こうしたコンステレーションというものをわかりやすく表したものとして河合氏は曼荼羅を挙げており、曼荼羅のような表現はまさに世界全体を一つのコンステレーションとして読み切って表現していると述べています。実際にユングは自身の精神的危機を乗り越えるときにたくさんの曼荼羅の絵を描いています。すなわち人が人生のある局面において「私は世界をこう見たのだ」ということを表現したときに曼荼羅のような表現が現れるということです。
 
そして、こうした曼荼羅のような一瞬のコンステレーションを表現したものを展開していくと「物語」になると氏はいいます。夜空の星の姿を語ろうとしたときにギリシャ神話のような物語が生み出されたように、人間の心というのはコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っているといえます。つまり自己実現の過程とは個人が自分の中にある「物語」を見出していく過程であるといえるでしょう。
 
このようなコンステレーションから物語が生成されるプロセスを豊穣な世界観で描き出した小説として2021年本屋大賞ノミネート作であり今月から劇場版アニメーションが公開された『この本を盗む者は』を取り上げてみたいと思います。
 

* 本の家の娘と本の呪い

本作の舞台となる「読長町」はその名に違わず「本の町」として全国的に知られています。町には新刊書店や古書店のほか、翻訳小説や稀覯本や絵本など特定のテーマに特化した専門店やブックカフェなど全部で50店ほどの本に関係する店が点在しており、さらには書物を司る稲荷神を祀る読長神社まであり、休日になると多種多様な本好きで賑わっています。
 
この読長町の中心に位置する巨大書庫「御倉館」は全国的に有名な書物蒐集家だった御倉嘉市が創立し、その娘であるたまきが跡を継ぎ、現在はたまきの子であるあゆむとひるねの兄妹が管理しています。あゆむは柔道道場を経営する傍らで御倉館の管理人を兼任しており、ひるねは普段は御倉館で暮らし、館内の蔵書全てを読破しているという読書魔ですが普段は寝てばかりで生活能力は皆無です。
 
そしてあゆむの娘である御倉深冬がこの物語の主人公です。しかし深冬はとある事情から本にまつわるあらゆるものが嫌いで嫌いで仕方がなく「本の家」である御倉家に生まれてよかったことなどひとつもないと心底思っており、御倉館にもあまり近寄りたがらず、将来的には御倉館を売却したいとさえ思っています。
 
ある日、あゆむが事故に遭って入院し、ひるねの世話をするためやむを得ず御倉館を訪れた深冬は眠っているひるねが奇妙な御札を手にしているのに気が付きます。その御札には「この本を盗む者は、魔術的現実主義の旗に追われる」と書かれており、そこに突如、真白と名乗る真っ白な髪を持ち、犬に変身する少女が現れます。真白は御倉館の本が何者かに盗まれたために〈ブック・カース〉が発動したと深冬に告げます。
 

* 無意識としての物語世界

御倉館に仕掛けられた〈ブック・カース〉は一族以外の人間が館の外に一冊でも本を持ち出したら発動し、その呪いによって御倉町全体が本の物語の世界に変わり、本を盗んだ者は「物語の檻」に閉じ込められることになります。この呪いを解いて町を元に戻すにはその泥棒を捕まえるほかに方法はありません。
 
はじめはそんな荒唐無稽な話は信じなかった深冬ですが、一歩外に出ると果たして町は月がウィンクをし、大量の真珠の雨が降るマジックリアリズムの世界に変わっていました。こうして深冬は御倉館から本が盗まれるたびに「魔術的現実主義」の世界、「固ゆで玉子」の世界、「幻想と蒸気」の世界、そして「寂しい街」の世界といった具合にさまざまな「物語の檻」に閉じ込められることになります。
 
このように本作では主人公が様々な物語の世界に入り込んでしまい、その世界で起きる事件に巻き込まれるかたちで物語が展開していきます。これはユング派的な解釈でいえば「無意識の世界」への退行を表しているともいえるでしょう。
 
人間は意識の光を磨き上げることで文明を進歩させてきました。しかしそこで構築された意識が無意識の土壌からあまりにも切り離されたときそれは生命力を失ったものとなります。そこで我々にとって必要なことは意識の世界から無意識の世界へと還り、その間に望ましい関係を作り上げることではないだろうかと河合氏は述べています。
 
無意識の世界への退行はもっぱら病理的な現象として捉えられますが、ユングは退行における創造的な側面を認め、退行には病的な側面と創造的な側面があると主張しています。こうした退行現象は意識から無意識へと心的なエネルギーが流れ出ている状態といえますが、このエネルギーの流れがある時に反転し、それは無意識内の心的内容を意識内にもたらし、そこに新しい創造的な生き方が開示されてくるのを見ることがあります。
 
本作における深冬の本嫌いは無意識下のコンプレックスの作用であるといえるでしょう。ユングや河合氏は夢解釈などによって、こうしたコンプレックスを扱っていましたが、本作においてもまた物語の世界という「夢」のような領域で深冬は自身のコンプレックスをコンステレートとしていくことになります。
 

* グレートマザーとの対決

ところでこの深冬の本に対するコンプレックスは彼女の祖母であるたまきに起因します。小さい頃の深冬はそれなりに本好きの子供でしたが、たまきから「御倉の子」に相応しい存在になるべく徹底したスパルタ教育を叩き込まれたせいで徐々に本が嫌いになっていきます。さらに御倉館の中を見てみたいという「ふるほんずきのおねえさん」を御倉館に入れたことがたまきに発覚し「なぜ他人を信用するんだ」「この館にある本の価値は自分の命より重いと思え!」と激しく叱責されたことで深冬は決定的に本が嫌いになってしまいます。
 
そしてこのたまきこそが御倉館に〈ブック・カース〉を掛けた張本人です。深冬の曽祖父である嘉市は読書家をひとりでも増やそうと御倉館の書架を自由に開放し続けていましたが、その娘であるたまきは「本とは神聖なものである」という思想から嘉市の死後に御倉館の規律を厳格化し、200冊もの稀覯本が消失した事件をきっかけに館の開放を中止すると同時に読長神社の稲荷神と契約して館内の全ての本に〈ブック・カース〉を掛けてしまいます。
 
こうしてたまきは死んだ現在もなお深冬と御倉館を支配する存在として君臨し続けています。この点、先述したようにユングは無意識の深層に心の基盤作用としての「元型」の存在を想定していましたが、こうした元型の一つに「母なるもの」の元型である「グレートマザー(太母)」があります。生命を生み出す「母なるもの」のイメージはやはり生命の源泉である大地と結びつき、古代において生と死を司る地母神信仰を形成しました。例えば日本神話におけるイザナミは日本の国土を全て生み出した母なる神ですが、同時に黄泉の国を統括する死の神でもあります。
 
こうしたことから人間の無意識の深層を構成するグレートマザーの元型には「産み育てる」という肯定的な面と「呑み込む」という否定的な面が見出されることになります。この両義性はともに「母なるもの」の「包含する」機能の両面に他なりませんが、この両面のうちの「産み育てる」という肯定的な面のみが母性の本質として社会的に承認され、その一方で「呑み込む」という否定的な側面は常に人の無意識の中に存在して自我を脅かすことになります。本作において深冬はまさにこうした「呑み込む母」として君臨するたまきとの対決を通じて自身の元型をコンステレートしていくことになります。
 

* トリックスターの活躍 

では、グレートマザーが支配する無意識の世界で深冬をサポートする真白とはいかなる存在なのでしょうか。この点、ユングは意識の世界と無意識の世界をつなぐ元型として「トリックスター」という存在を想定します。ここでいうトリックスターは多くの神話や伝説などのなかで活躍するイタズラ者やペテン師として現れます。彼らはトリックを用いて権威に反抗し、ときには極端な上下の転倒をもたらすことになります。
 
このようなトリックスターの典型が「狐」です。狐が人を化かすというのはトリックスターの属性としての変幻自在性を如実に示すものといえます。本作でも稲荷神=狐の神の力で〈ブック・カース〉が発動すると本を盗んだ者は狐に変えられてしまいますが、これはトリックスターが無意識の世界への退行のトリガーとなることを考えると極めて示唆的な設定であるといえるでしょう
 
もちろんトリックスターは狐に限られません。例えば日本の昔話における「桃太郎」や「花咲爺」のように「犬」がトリックスターとして活躍する物語も多くみられます。そしてトリックスターは低次元においては単なるいたずら好きの破壊者として現れますが、高次元においては新しい秩序や建設をもたらす英雄的存在として現れます。
 
こうして観点からいえば、犬でも人間でもある(あるいはその両者でもない)真白はトリックスターとしてはかなり高次元の存在であり、それは同時に自我の生成過程で切り捨てられた「生きられなかった半面」である「影」の元型でもあり、さらには冒頭で述べたような「自己」の元型そのものであるともいえるでしょう。
 

* コンステレーションから物語へ

こうして深冬は真白に導かれて、あるいは真白と手を取り合うことで自己実現の過程をコンステレートしていくことになり、その結末において「私は世界をこう見たのだ」というコンステレーションを「物語」として紡ぎ出していくことになります。
 
ここで深冬が「御倉の子」であるという事実は1ミリも変わっていません。変わったのはこの事実を受け取る深冬の「物語」の方です。多くの人は人生において何らかの困難に直面したとき「なぜこうなったのか」と嘆くことになります。換言すればそれは「なぜこうなったのか」という「物語」を求めているということです。
 
もちろんここでいかなる「物語」を選び取ったとしても目下の困難という客観的な現実は何ひとつ変わることはありません。しかしそこでいかなる「物語」を選び取るかによって、その困難がもたらす「苦しみ」は全く異なってきます。こうした意味で深冬は「御倉の子」であるという「呪い=苦しみ」を解呪する「物語」を選び取ることになります。
 
こうしてみると本作はグレートマザー(=たまき)の脅威に怯え続ける幼い自我(=深冬)が無意識の世界(=物語の世界)でかつて自身が切り捨てた影(=真白)と和解することで、自身の自己と出会い直すというコンステレーションを物語として物語る物語であったといえるでしょう。
 
そして、このような「コンステレーションから物語へ」というユング的な自己実現の寓話をマジックリアリズム、ハードボイルド、スチームパンクといった多様多彩な物語世界を往還することで描き出していく本作は漫画やアニメなどの視覚メディアと極めて相性が良い作品でもあります。
 
2022年から2023年にかけて公刊された本作のコミカライズ版は原作小説が持つ魅力や潜勢力を十二分に引き出した珠玉の出来栄えであるといってよいでしょう。普段あまり小説を読まないのであればコミカライズ版の方から本作に入門するのいうのも良いかもしれません。
 
また今月から公開された劇場版アニメーションは中盤から終盤かけての展開が原作とはかなり異なっていますが、表層的なシナリオを変更することによって、むしろ「グレートマザーとの対決」という原作小説の核心部にあるテーマをより深く描き出すことに成功した映画であったように思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

破壊の快楽と制作の快楽--坂口安吾『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』

* プラットフォームから「庭」へ

 
批評家の宇野常寛氏は近著『庭の話』(2024)において今日の情報環境は社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こす「相互評価のゲーム(発信と承認の快楽が前面化したゲーム)」に支配されているとして、ソーシャルメディアに代表される「プラットフォームの時代」を内破するための方法を「庭」という比喩を用いて論じています。同書が提示する問題の所在は次のようなものです。
 
現代の人類社会の最上位レイヤーはローカルな国民国家からグローバルな市場へと変化し、そして世界を変える究極の手段はそのローカルな国民国家の法を選挙や革命で変える政治から、グローバルな市場にイノベイティヴな商品やサービスを投入する経済へと移行しましたが、ここから一つの大きな分断が生じることになります。
 
イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートは世界はいま「Anywhere」な人々と「Somewhere」な人々に二分されていると述べています。ここでいう「Anywhere」な人々、つまり「どこでも」生きていける人々とは今日のグローバルな情報産業や金融業のプレイヤー、クリエイティヴ・クラスの人々のことです。これに対して「Somewhere」な人々、つまり「どこかで」しか生きられない人々は20世紀以前の製造業を中心とした旧い産業に従事し、ローカルな国民国家の一員としての意識を持つ人々のことです。
 
そして「Somewhere」な人々がプレイするローカルな相互評価のゲームは、より上位の「Anywhere」な人々のプレイするグローバル資本主義というゲームの一部であり「Anywhere」な人々は「Somewhere」な人々の承認への欲望を可視化し、彼らのプレイする相互評価のゲームによって収益を上げる構造を作り上げており、その構造こそがソーシャルメディアに代表されるプラットフォームに他なりません。
 
20世紀を代表する政治哲学者の一人であるハンナ・アーレントは1951年に公刊した『全体主義の起源』で19世紀後半以降の帝国主義拡大の原動力を〈グレート・ゲーム〉を自己目的化してゲームそれ自体への没入した当時のヨーロッパ人の精神性にあったといいます。そして本書はこのような帝国主義の末期から100年を経た今日のプラットフォームにおいてアーレントのいう〈グレート・ゲーム〉は今日の情報技術と金融資本主義の結びつきの中で二重化されているといいます。
 
アーレントが『全体主義の起源』で示したのはこのようなゲームの自己目的化が人間とその社会を決定的に愚かにするという事実でした。そして今日における相互評価のゲームもまた多くの場合、世界における問題そのものや事物そのものを思考することよりも二項対立に単純化された問題についての賛否をめぐるコミュニケーションが重視され、その結果閉じたネットワークの内部でシェアされる情報は多様性を失っていき、承認だけが延々と交換されていくことになります。こうした相互評価のゲームに支配されたプラットフォームの時代を内破する方法について考えることが同書の主題となります。そしてその方法は「庭」という比喩によって語られます。
 
プラットフォームには人間間のコミュニケーションしか存在しません。しかし「庭」は異なります。「庭」は人間外の事物であふれる場所です。草木が茂り、花が咲き、そしてその間を虫たちが飛び交います。「庭」にはさまざまな事物が存在し、その事物同士のコミュニケーションが生態系を形成しています。しかし同時に「庭」とはあくまで人間の手によって切り出された場です。完全な人工物であるプラットフォームに対して「庭」という自然の一部を人間が囲い込み、そして手を加えた場は人工物と自然物の中間にあります。
 
だからこそ人間は生態系に介入し、ある程度まではコントロールできます。しかし完全にコントロールすることはできません。「庭」とはその意味で不完全な場所です。しかし、だからこそプラットフォームを内破する可能性を秘めています。つまり問題そのもの、事物そのものへのコミュニケーションを取り戻すためにはいまプラットフォームを「庭」に変えていくことが必要であると本書はいいます。こうした「庭」の条件とは次のようなものです。
 
まず「庭」とは第一に人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に人間がその生態系に関与できるが、完全に支配することはできない場所である必要があります。
 
そしてここでは人間が事物に対して「受動的な存在」になる時間が生まれる場所である必要があり、さらにそこは「共同体」であってはならず、むしろ人間を「孤独」にする場所でなければならないとされます。このような「庭」において人は事物とのコミュニケーションを通じて疑似的な「変身」を遂げることになると同書はいいます。

 

庭の話

庭の話

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もちろん「庭」の条件はひとつの場所ですべて満たされる必要はなく、むしろいくつかの機能を持つ「場所」の複合体としての都市があり、そのなかにどれだけこの「庭」の条件をある程度満たす場所を作ることができるかが問われます。そして同書はここで挙げた「庭」の条件をすべて満たす社会的な大状況として「戦争」を挙げています。ここで同書が取り上げる小説が坂口安吾の短編小説『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』です。
 

*「庭」の究極の条件

 
『戦争と一人の女』という小説は「野村」という語り手と、ある「女」との同棲生活を綴ったものです。物語の舞台は第二次世界大戦末期の日本のとある都市で、そこで野村は酒場で知り合った「女」と暮らしています。しかしその関係は戦争末期の破滅的な予感を背景にした刹那的なものであり、そこに未来の展望は一切感じられません。
 
この「女」はいわゆる不感症で、野村はその原因を彼女が長く水商売をしていたからだと考えています。もちろん現代の感覚からすればそれは偏見以外の何者でもないですが、ここで重要なのはその「汚れた」過去から不感症になってしまった彼女が野村の中で当時の破滅へと向かう日本という国家に重ね合わされているという点です。
 
つまり野村にとって自己と国家(戦争に敗れつつある日本)との関係とは、この先に何も生まないことが見えてしまっている恋人との終わりつつある関係のようなものであるということです。にもかかわらず野村がこの「女」と関係を続けるのは、彼が彼女=破滅へ向かう日本と一緒にみずからも破滅していくことに自己陶酔を見出しているからです。それゆえに野村は日本という国家が戦争に敗北することを自己の敗北のように受け止め、自己が手触りをともなって体験できる敗北を「女」との刹那的な関係に見出そうとしているわけです。
 
そしてこの物語を「女」の視点から描いた小説が『続戦争と一人の女』です。ここで「女」は戦争のもたらす世界の変化そのものに感動しています。野村が戦争と自己を重ねあわせ同一化しているのに対して「女」は戦争という「事物」の生態系をただ受け止め、戦争が一方的に自分を襲い、そして世界を変える可能性を示したことに魅入られています。
 
そこには自己が世界に関与し、影響を与えることをアイデンティティの中核に置く発想もなければ、他の誰かと承認を交換することの充足もありません。世界が自己と無関係に変化してしまうことに「女」はただ魅入られているということです。
 
この小説の結末近くで野村は戦争こそが彼女の真の恋人なのだと告げます。それは戦争こそが「女」の欲望を、つまり自己と無関係な世界の変化を体験することへの欲望をかなえているからに他なりません。彼女は同時代人たちの多くが求めていたように自己の存在を歴史という物語で意味づけようとしてはいないし、野村のように、その失敗に傷ついてもいません。彼女はただただ世界が戦火で燃え上がることに興奮しています。そしてここにおそらく「庭」の究極の条件が露呈していると宇野氏はいいます。
 

* 自己と無関係に世界が変化していくこと

 
確かに「戦争」という大状況は先述した「庭」の条件をことごとく満たしています。まず戦争は(悪い意味で)人間が人間外の事物とコミュニケーションを取る場といえます。20世紀に発生した戦争の機械化がもたらしたものは戦場における人間の事物化に他なりません。そして同時にこの戦争という状況下において人間は事物の側からアプローチを受けることになります。
 
そしてその事物たちは皮肉にも非常に豊かな生態系を獲得してしまっています。兵器のスペックとその運用、陸海空軍それぞれのメカニズムと戦術、戦略とその背景をなす政治的イシュー等々。これらの戦争にまつわる事物の生態系は人を惹きつけてやみません。だからこそ人間は戦争について語り始めると途端に饒舌になるのです。しかし、その反面人間は「戦争」という状況に関与できるけれど支配することはできませんし、いうまでもなく戦争は人間を孤独にします。
 
こうしたことから宇野氏は戦争とは究極の「庭」であるといいます。そして戦争はこれら「庭」の条件を総合したときに浮上する人間のあまり自覚されないがもっとも強い欲望に、おそらく承認の獲得に唯一対抗できる根源的な欲望を強く実現するといいます。
 
自己と無関係に世界が変化していくこと。そしてそれを実感できること。つまり世界が変わると信じられること。戦争はこの「庭」の最後の、そして究極の条件を満たすものとなります。このように「戦争」という状況について考えることで導き出され得るのは「庭」的な場所が究極的に辿り着かなくてはいけない価値の存在であるということです。
 
今日のグローバルに肥大した資本主義と情報技術のカップリングは人類に二つのゲームを与えています。一つ目は個人がグローバルな市場において何者かになるという自己実現を「する」というゲームです。そして二つ目は個人がそのグローバルな市場の一部であるプラットフォーム上で何者か「である」ことを確認するというゲームです。この二つのゲームは先述のように21世紀の〈グレート・ゲーム〉として深く結びついています
 
そうであればプラットフォームを内破する「庭」的な場所はこの「する(評価)」ことでもなければ「である(承認)」ことでもなく、この問いを無効化する回路を備えている必要があるということになります。換言すれば自己とは無関係に世界が変化することを体感できる回路が必要であるということです。そしてこのような「庭」がより大きな力を発揮するための別な条件がその外部にあり、この二つの条件が揃うことではじめて「庭」は正しく機能すると宇野氏はいいます。そしてここで鍵となるのが「制作」という概念です。
 

*「消費」から「制作」へ

 
かつて吉本隆明氏は1960年代の政治の季節の終わりに共同幻想(具体的には政治的イデオロギー)からの「自立」の根拠を対幻想(具体的には戦後中流的な家族形成)に求めましたが、消費社会が爛熟した1980年代になると「自立」の根拠を「消費」という回路に求めるようになります。換言すればこれは対幻想ではなく自己幻想に依拠して「自立」を試みるというプロジェクトです。そして、吉本思想の継承者と目される糸井重里氏は商品に「物語」を付与することで「(現代では相対的に価値が低下した)モノの消費」を「コトの消費」に近づけ、発信と承認の快楽が前面化した現代情報環境に抗おうとしています。
 
これに対して宇野氏は事物の「消費」ではなく事物の「制作」こそが共同幻想にも対幻想にも依存せず、市場からの評価からも共同体からの承認からも切断しうる「自立」の可能性を秘めた回路であるといいます。換言すれば自己が「何者かになる」こともないままその活動が世界を少しでも確実に変えていることを実感できるということです。
 
そのためにはまずラーメンが美味しいとか景色が美しいといった事物を「受け止める」主体として出発するところから始まります。この状態が加速すると人間は「どうしても欲しいがまだ世界に存在しないもの」を求めて「制作」を欲望するようになります。
 
この段階に達すると少なくとも一時的に「承認」からも「評価」からも切断され、人間が純粋に事物を通じて世界に関与する時間が訪れることになります。このように事物を「制作」すること。それこそが「する」ことと「である」ことの対立の外部に「も」成立する「自立」の回路であるということです。
 

* 中動態の世界の一時停止

 
こうした本書の議論は國分功一郎氏が2011年に公刊し、ベストセラーとなった哲学書『暇と退屈の倫理学』における議論を更新するものとしても読めます。國分氏は同書においてフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの消費社会論をベースに「退屈」とは消費社会が生み出すニューモデルとかブランドといった観念や記号を際限なく追い求め決して「満足」に至らない「消費」から生じるとして、その解決策として「消費」から「浪費」へ回帰すること、つまり事物についての観念や記号ではなく、事物それ自体を(過剰に)受け取ることで「満足」に至る「贅沢」という戦略を提示しました。
 
これに対して宇野氏は同書の公刊当時に比べると情報環境が劇的に変化してプラットフォーム上での発信と承認の快楽が前面化した現在では「退屈」を克服するだけでは済まなくなった「後の」問題が生じるとして「消費」から「浪費」への回帰という戦略のさらにその先に「制作」を位置付けます。そしてこのような「制作」の動機は事物の「浪費」に「満足」することなく失敗し続けることで生じるとして、このような「浪費」に失敗し続けるための場として事物とのコミュニケーションを通じて継続的な「変身」が生じる「庭」を位置付けています。
 
また國分氏はもうひとつの代表作『中動態の世界』においてインド・ヨーロッパ語族の文法研究史を参照し、現代の言語を規定する能動態と受動態のパースペクティヴはかつての能動態と中動態のパースペクティヴが変化したものであるとして、実質的に「中動態の世界」で思考していたと國分氏が位置付けるスピノザに依拠した「自由」へのアプローチを試みます。ここでいう「自由」とは「自己の本性の必然性に基づいて行為する」ことであり、換言すればそれはスピノザのいう物の本質としての「力(コナトゥス)」を発揮することに他なりません。
 
これに対して宇野氏は國分氏のいう「中動態の世界」は情報技術の進化によりすでに回復されてしまっていると考えます。少なくとも「相互評価のゲーム」に興じるプラットフォーム上のユーザーたちはスピノザのいうところの「自由」を悪い意味で享受しています。こうしたことから氏は「庭」においてはプラットフォーム上で拙速に回復されてしまった「中動態の世界」が機能しなくなる時間を手に入れる場所でなくてはならないといいます。このような「庭」において人間は完全に受動的な存在として事物に襲撃されて「傷」を負い、そしてその「傷」によって人間は「制作」に動機づけられることになるのです。
 

* 破壊の快楽と制作の快楽

 
そしてこの「制作」こそが「続戦争と一人の女」に登場した「女」の欲望にもっとも肉薄する回路となります。例え誰からも認められなくても、これまで存在しなかった事物が存在するようになるだけで世界は確実に変わり、このことを実感することで人間は孤独に、つまり共同性を介することなく世界に接続できると宇野氏はいいます。すなわち、これからの公共性の手がかりはここにあるということです。
 
それは「女」の愛した「戦争」のように自己の存在と無関係に世界が変化し、それを体験することの快楽は与えてくれませんが「承認」も「評価」も用いず個人と世界を結びつける点で両者は共通します。そのため「戦争」という「破壊」の快楽にもっとも肉薄できるのが「制作」の快楽なのであるということです。
 
「続戦争と一人の女」は吉本隆明的な語彙からいえば対幻想の敗北の物語です。野村は「女」との関係に敗戦する日本と自己の関係を重ね合わせています。これに対して彼女の「真の恋人」は戦争そのものです。彼女は野村のように自己を戦争というゲームのプレイヤーだと考えていません。彼女は戦争という事物の生態系の豊かさに、過剰さに、圧倒的な力に魅入られています。そこで氏は「戦争」ではないかたちで「女」の欲望に応える「平時の恋人」に「制作」を位置付けるべく、そのための条件として「庭」の外部において「庭」を機能させるための「人間の条件」を論じています。
 
ところで「自己と無関係に世界が変化していくこと」に対する欲望はなぜ根源的な欲望といえるのでしょうか。ここではカント哲学でいうところの「崇高」という感情がヒントとなりそうです。カントのいう「崇高」とは我々を圧倒する物凄いものに対して抱く感情です。その例としてアルプスの雄大な景色や猛烈な嵐が挙げられます。物凄いものに圧倒されるとは基本的に不快な感情のはずですが、その不快がやがて不思議な満足感に変わります。これが崇高です。
 
この点、カントは人間の心を「感性」「構想力」「悟性」「理性」という4つのアクターが働く職場のようなものだと考えます。こうした心においては「感性」が捉えたものを「悟性」が理解し、何らかの判断を下すことになりますが、この「感性」が捉えたものを図式化して「悟性」の理解を助ける役割を担うものが「構想力」です。
 
物凄いものに出会った時もこの構想力はその全体を把握しようと働きを始めます。しかし構想力は到底これを図式化できません。従って悟性も働きません。これは構想力にとって自らの無能を思い知らされる不愉快な状況です。これこそが物凄い対象に圧倒された時に最初に訪れる不快の正体です。
 
ところがそこに別のアクターが関わってきます。これが「理性」です。理性とは「理念」を扱う作用です。ここでいう「理念」とは例えば「宇宙全体」のような認識はできないけれども、考えることはできる対象をいいます。こうした理念を理性は構想力に突きつけ、この物凄いものの全体を把握するようプレッシャーをかけてきます。そこで構想力は奮起し、この理念に見合うものへと自らを高めようと決意します。こうした状況をカントの言葉でいえば「法則として理念との適合を実現すべきであるという自分の使命」を構想力が再認識するということです。
 
ここで理性と構想力は対立しています。しかし構想力のこの気づきは心という職場自体を活性化させることになります。そして人間の主観は全体として次のように考えます。自然に比べて人間はちっぽけな存在だけれども、人間にはそんな自然をも包み込む理念を作り出す力が備わっており、自然に負けない人間性を人間は備えていると。
 
物凄いものに圧倒されているという事実そのものがこれによって変わったわけではありません。物凄いものの経験の解釈の仕方が変わったのです。それゆえ物凄い風景自体が崇高なのではなく、物凄い風景に圧倒されるという不快な経験をきっかけとして人間が自分自身を再発見するという一人芝居のような過程の中で感じられるのが崇高の感情であり、その再発見の中に快があるということです。
 
この過程で発見される人間性は道徳性を含んでいるとカントはいいます。つまりこれは人間の目的、人間に備わっていた自分たちのあるべき姿の再発見でもあります。こうした意味で本作は戦争という巨大な悪のただなかで一人の人間のなかに「崇高」が生じる過程を描き出した作品であったといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これから國分功一郎に入門するためのおすすめ5冊

* 暇と退屈の倫理学(2011年)

⑴ 消費から浪費へ
 
現代日本を代表する哲学者の1人である國分功一郎氏が2011年に公刊した『暇と退屈の倫理学』は第2回紀伊國屋じんぶん大賞を受賞するなどその当初から人文書としては異例の話題を呼び、公刊から10年以上経つ現在でも幅広い層に読まれ続けるロングセラーとなり、2022年に公刊された文庫版の発行部数は累計40万部を突破したといわれています。
 
本書はまず序章において「暇と退屈」をめぐる問いを次のように構成します。人類の歴史とは大きくいえば「豊かさ」を目指して努力してきた歴史であるといえます。しかし人類が目指してきたはずの「豊かさ」が達成されてしまうと人は幸福になるどころか逆に不幸になってしまうという逆説があります。
 
例えばイギリスの哲学者バートランド・ラッセルは『幸福論』(1930)の中で現代(20世紀初頭)のヨーロッパ諸国の若者は自分の才能を発揮する機会がないため不幸に陥りがちだけれども、ロシアや東洋諸国はこれから創造するべき「新世界」があることから世界中のどこよりも幸福であるという趣旨のことを述べています。
 
もしも仮にラッセルのいうことが正しいのであれば「豊かさ」が実現された社会において人々は不幸になることになります。そうであればむしろ「豊かさ」など初めから追求しない方がいいということになります。しかしこれは何かがおかしくはないでしょうか。人類は「豊かさ」を目指してきたのになぜその「豊かさ」を素直に喜べないのでしょうか。
 
そもそも「豊かさ」とは何なのでしょうか。国や社会が豊かになればそこには二つの余裕が生まれます。金銭的な余裕と時間的な余裕です。ではこのような「豊かさ」を手にした人たちはその余裕を何に使うのでしょうか。「自分の好きなことをする」という答えが返ってきそうです。けれども、その「好きなこと」とは本当にやりたかった「好きなこと」なのでしょうか。ただ「暇」を潰し「退屈」を紛らわすため、それが「好きなこと」だと見做しているだけなのではないでしょうか。そもそも、なぜ人は「暇」のなかで「退屈」してしまうのでしょうか。こうして「暇」のなかでいかに生き「退屈」とどう向き合うべきかという問いが現れることになります。
 
こうした消費社会における「暇」と「退屈」を様々な観点から考察する同書は「暇と退屈」を生み出すとされる社会の「豊かさ」の条件である「贅沢」の意味をフランスの思想家ジャン・ボードリヤールによる「浪費」と「消費」の区別から問い直します。
 
ここでいう「浪費」とは必要を超えて物を受け取ること、吸収することをいいます。そして物の受け取りは物理的な限界があるため「浪費」はどこかでその享受者に「満足」をもたらします。これに対して「消費」は物それ自体ではなく物に付与された観念や意味としての「記号」を消費します。それゆえに消費に物理的な限界はなく、その享受者にいつまでも「満足」をもたらしません。
 
つまり消費社会とは人々がむしろ「浪費」による「贅沢」することを妨げる社会であるといえます。ここから本書はマルティン・ハイデガーの退屈論とヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界論を参照し「消費」とは一線を画する「浪費=贅沢」を取り戻すことを現代における〈暇と退屈の倫理学〉として提示しました。
 
⑵ ハイデガーの退屈論
 
ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』においてまず「退屈」を二つに分けて考えることを提案します。すなわち、まず「何かによって退屈させられている」という退屈の第一形式、次に「何かに際して退屈する」という退屈の第二形式です。
 
まず退屈の第一形式の例としてハイデガーは片田舎の駅で長時間列車を待ちながら周囲をウロウロしたり地面に絵を描いたりといった気晴らしをしている場面をあげています。次に退屈の第二形式の例としてハイデガーはパーティーで食事や会話や音楽を楽しんで帰宅した後、このパーティーで自分はで本当は退屈していたと気づく場面をあげています。
 
このように退屈の第一形式とは我々の外側から訪れる退屈であり、退屈の第二形式とは我々の内側から立ち昇ってくる退屈であるといえます。その意味で第一形式より第二形式の方が深い退屈であるともいえますが、退屈の第二形式もまだ気晴らしが可能な退屈です。
 
ところがハイデガーはここからさらに、もはや気晴らしすら不可能な最高度に深い退屈について考えようとします。それが「何となく退屈だ」という退屈の第三形式です。何となく退屈だ。なぜこれが最高度に深い退屈なのでしょうか。
 
この点、ハイデガーによれば先の二つの退屈は何らかの具体的な状況と関連していました。これに対してこの最高度に深い退屈は具体的な状況にかかわらず「何となく退屈だ」という声として突発的に現れ、さらにこの退屈においては気晴らしはもはや許されず、我々は退屈の声に耳を傾けることを強制されているといいます。
 
しかしこのような「何となく退屈だ」という最高度に深い退屈こそが人間におけるある可能性の表れであるとハイデガーは考えました。そしてその可能性とは「自由」のことに他なりません。人間は退屈できるがゆえに自由であるということです。そしてこの自由を最大限に発揮すべくハイデガーは「決断」せよと主張しました。
 
⑶ ユクスキュルの環世界論と〈動物になること〉
 
このようにハイデガーは退屈の第三形式における「決断」の重要性を強調します。しかし本書はハイデガーには「決断」を行った人間が「その後どうなるか」という視点がないことを指摘します。
 
例えばある何かしらの「決断」をした人間がいるとします。いったん「決断」を下した以上、彼はその内容に何としても従わなくてはなりません。ここで彼は「決断」の奴隷となります。そして、その決断を実行する過程でやがて彼にはまた再び第一形式の退屈が訪れてくることになります。つまり第三形式と第一形式は一つの同じ運動の一部であると捉えることができるということです。
 
ここで第二形式の特殊性が際立ってきます。気晴らしと退屈が独特な仕方で絡みあった退屈の第二形式こそは退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものです。よくよく考えれば人間は普段この第二形式を生きているといえます。
 
ハイデガーはこうした人間の姿を否定的に描きます。けれどもこれは不当な評価ではないでしょうか。なぜなら退屈の第二形式において描かれた気晴らしとはむしろ、人間が人間として生きることのつらさをやり過ごすために開発してきた知恵であるからです。
 
そして、その一方で人間に残された可能性はそれだけではありません。それは辛い人間的生から外れてしまう可能性です。この点、ユクスキュルは、ある生物が一個の主体として経験している具体的な世界像を「環世界」と呼び、全ての生物はそれぞれが異なる「環世界」を生きていると主張しました。人間もまた例外ではありません。
 
もちろん人間も動物も同じく「環世界」を生きる存在であるとしても、人間と動物はどこかやはり異なる存在であるといえるでしょう。この点、本書は人間はその他の動物に比べて極めて高い「環世界移動能力」を持っているといいます。そしてその高い環世界移動能力のゆえに退屈し、ハイデガーのいう第二形式のような気晴らしと退屈の絡みあった日常を生きることになります。しかしこの人間らしい生が崩れることがあります。それは何らかの衝撃によって己の環世界を破壊された人間が、そこから思考し始める時です。
 
この点、フランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する哲学者であるジル・ドゥルーズは思考を引き起こす契機として何かにショックを受ける「不法侵入」を挙げています。すなわち、ある人の生きる環世界に「不法侵入」してきた何らかの対象がその人を掴み離ない時、人はその対象によって〈とりさらわれ〉てしまい、その対象について思考することしかできなくなります。つまりこうした意味で人間は〈動物になること〉があるということです。 
 
こうして本書は三つの結論に至ります。その一つ目は本書を通読することで涵養された知見を用いて自分自身の〈暇と退屈の倫理学〉を開いていくことです。その二つ目は「消費」の外部としての「贅沢=浪費」を取り戻すことであり、そのためにはハイデガーのいう退屈の第二形式の中で「楽しむための訓練」を行うということです。その三つ目は〈動物になること〉を待ち構えることです。
 
このような本書の議論は近代社会におけるいわゆる「大きな物語(リオタール)」が失墜した後の「終わりなき日常(宮台真司)」や「動物の時代(東浩紀)」として名指されるポストモダン状況に対する優れた処方箋としても読まれました。そして本書が展開した「暇」と「退屈」をめぐる問いは國分氏の近著『目的への抵抗』『手段からの解放』において、さらに深く問い直されることになります。
 

* 目的への抵抗(2023年)

⑴ コロナ禍と「例外状態」
 
本書『目的への抵抗』は2020年10月に東京大学教養学部主催「東大TV--高校生と大学生のための金曜特別講座」における講義(「新型コロナウィルス感染症対策から考える行政権力の問題」)と2022年8月に行われた「学期末特別講話」と題する特別授業(「不要不急と民主主義」)を、それぞれ「第一部 哲学の役割--コロナ危機と民主主義」と「第二部 不要不急と民主主義--目的、手段、遊び」として収録しています。
 
どちらの講義(講話)もコロナ危機を主題としています。両者を隔てる2年間はちょうどコロナ危機が最も強く社会を揺さぶった時期に当たります。國分氏はこれら二つの講義(講話)を収めた本書はコロナの訪れとともに考え始めたこと、そしてそれを突き詰めていった挙句に考え至ったことの記録になっていると述べています。
 
まず第一部ではイタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが取り上げられます。世界的な哲学者として知られているアガンベンは2020年2月26日のイタリアの新聞「イル・マニフェスト」紙に「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態 Lo stato d'eccezione provocato da un'emergenzaimmotivata」という論考を発表して物議を醸し出しました。この論考でアガンベンはコロナウィルスの拡大を防ぐという理由で実施されている緊急措置は「平常心を失った、非合理的で、まったく根拠のないものである」と指摘し「激しい移動制限」が行われ「正真正銘の例外状態」が引き起こされていると批判しました。
 
このようなアガンベンの批判の背景にあるのが同論考のタイトルにもある「例外状態 lo stato d'eccezione」という概念です。これは行政権が立法権を凌駕してしまう事態を指しています。つまり権力(行政権)は「例外状態」を巧妙に利用して民主主義を蔑ろにしたり人々の権利を侵害していくことがあることから、アガンベンはコロナ危機によって人々が「例外状態」を受け入れつつあることに危機を抱いたということです。
 
⑵ アガンベンの主張における三つの論点
 
ところが--当時の状況を考えればやむを得ない部分もあるとは思いますが--このようなアガンベンの主張は端的にいえば「炎上」してしまいます。けれどもアガンベンは自身の主張を揺るがすことなく、翌月には「補足説明 chiarimenti」題された二つ目の論考を発表しています。國分氏はアガンベンのこの二つ目の論考から三つの論点を取り出しています。
 
第一の論点は「生存のみに価値を置く社会」とはいったい何なのかという点です。この問題をアガンベンは「剥き出しの生 nuda vita」という概念から説明します。ここでアガンベンは人間が「生きる」ということと、ただ「生存している」ということを区別していると本書はいいます。
 
第二の論点は「死者の権利」を蔑ろにしていいのかという点です。死んだ人間に然るべき敬意を払わない社会においては生きている人間たちの関係もだんだんおかしくなっていくのではないかということです。
 
第三の論点は「移動の自由」をどう考えるのかという点です。移動の自由とは数ある自由のなかの一つではなく、人間が不当な支配から逃れるための根本条件であるということです。
 
アガンベンのいう「例外状態」の究極形態とは言うまでもなくナチス・ドイツの「全権委任法」に他なりません。それゆえに本書はアガンベンの一連の主張を社会における哲学者の役割を果たしたものであると評価します。そしてこうした「例外状態」をめぐる問題意識は第二部において「目的と自由」の関係として問い直されることになります。
 
⑶ 目的からの逸脱としての「浪費=贅沢」
 
第二部ではコロナ危機の当時よく耳にした「不要不急」という言葉を出発点として「目的と自由」の関係が論じられます。「不要不急」とは辞書的には「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」という意味です。つまり不要不急とは「必要」に関わっています。そして「必要」と呼ばれるものは何かの「ため」になされるものであり、そこには常に何かしらの「目的」が想定されています。
 
これに対してかつて『暇と退屈の倫理学』において論じられた「浪費=贅沢」の本質とは物そのものを楽しむことであり、ここには「目的」なるものからの逸脱があります。「目的」から「はみ出た部分」にこそ人は豊かさや充実感を感じます。ところが現代社会はあらゆるものを「目的」に還元し「目的」からはみ出るものを認めない社会になりつつあるのではないかと本書はいいます。
 
すなわち、ボードリヤールのいう消費社会の論理は現代社会においてはすべてを「目的」に還元する論理と共犯関係を結んでこの社会を覆いつつあるのではないかということです。つまり「不要不急」と呼ばれるものを排除する社会の傾向はコロナ以前から少しずつ進行していたのではないかということです。
 
ではそもそも「目的」とは何なのでしょうか。ここから本書はハンナ・アーレントによる「目的」の概念を参照します。彼女は『人間の条件』(1958)において「目的とはまさに手段を正当化するもの」であると定義しています。その一方でアーレントは『全体主義の起源』(1951)において全体主義が求める人間とは「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」であるといいます。
 
つまり全体主義における模範的な人間とは常に「目的」を意識して行動する人間であるということです。しかしこれは現代でいうところのいわゆる「意識の高い」人間像そのものではないでしょうか。つまりすべてを「目的」と「手段」の中に閉じ込める消費社会の論理を徹底した時、その先に現れるものとは全体主義が求める「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」であるということです。
 
そしてアーレントは「自由」の概念について「行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない」と述べています。つまり、行為にとって「目的」が重要な要因であることは間違いありませんが、行為は「目的」を超越する限りで「自由」であるということです。その意味で人間の「自由」とは広い意味での「贅沢」と不可分だと言ってよいと本書はいいます。こうしたことから本書は「目的への抵抗」を言祝ぎます。
 

* 手段からの解放(2025年)

⑴ 嗜好品とカント哲学
 
本書『手段からの解放』は次の二つのパートから成り立っています。「第一章 享受の快--カント、嗜好品、依存症」は雑誌「新潮」2023年7月号に掲載された「享受の快--嗜好品、目的、依存症」という論文がもとになっており「第二章 手段化する現代社会」は2023年8月に東京大学駒場キャンパスで行われた講話の記録がもとになっています。第一章の論文を解説したものが第二章の講話であり、従って両者は基本的に同じ話をしています。本書がこのように構成されているのは、そこに記された考えがどのようにできあがってきたのかという過程を記録する企図からです。
 
そして、ここでは『暇と退屈の倫理学』で提示された「浪費=贅沢」の概念が一段と深化を遂げています。先述のように「浪費=贅沢」とは物そのものを楽しむことです。しかし、そもそも「楽しむ」とは果たして一体何なのでしょうか。本書はこの「楽しむ」という営みを「享受」という言葉で考えていきます。ここで本書が注目するものが「嗜好品」と呼ばれるものです。
 
「嗜好品」とは辞書的には「栄養のためでなく、味わうことを目的にとる飲食物」を指しています。例えばお茶やコーヒー、お酒、タバコなどです。興味深いことに「嗜好品」に相当する言葉は英語とフランス語には存在しないそうです。その一方で「嗜好品」という日本語はGenußmittelというドイツ語の翻訳語だそうです。ここでいうGenußは「享受」とも訳されます。ここから本書は18世紀ドイツを代表する哲学者、イマヌエル・カントの批判哲学を「享受 Genuß」を軸に読み解いていきます。
 
まず本書はカント哲学の全体像をフランスの哲学者ジル・ドゥルーズによる整理を通じて概観します。周知の通りカントの主著は『純粋理性批判』(1781)『実践理性批判』(1788)『判断力批判』(1790)といういわゆる「三批判書」と呼ばれるものですが、これらは人間の持つ三つの能力について論じたものです。そしてドゥルーズはこれら三つの著作の関係を「表象」「主体」「客体」からなる三つの関係によって以下のように整理しています。
 
純粋理性批判』は人の「認識能力」を論じたものであり、ここでは「表象」と「客体」の「一致」が問題となります。『実践理性批判』は人の「欲求能力」を論じたものであり、ここでは「表象」と「客体」の「因果関係」が問題となります。『判断力批判』は人の「感情能力」を論じたものであり、ここでは「表象」が「主体」に及ぼす「効果」が問題となります。そして「嗜好=享受」はこの「感情能力」に関わっています。
 
⑵ カントにおける4つの快
 
カントによれば人間における「快」とは4種類しかないとされます。すなわち「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」です。これらのうち「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」は高次の快とされ「快適なもの」は低次の快とされます。そして「享受」の快はこの「快適なもの」に属しています。
 
ところで「善いもの」はもとより「こうあるべき」という「目的」そのものです。また「美しいもの」「崇高なもの」もやはり最終的には「こうあるべき」に達する「合目的性」の経験です。これに対して「快適なもの」にはこうした「目的」や「合目的性」が欠けています。そこには全く「べき」は見いだせないということです。つまり高次の快と低次の快は「目的」ないし「合目的性」の有無で区別されることになります。
 
ところがこの「快適なもの」が何かしらの「目的」のための「手段」と化した場合、これは「善いもの」から区別される「間接的に善いもの(有用善)」へと転化します。この「間接的に善いもの」は人に何かしらの「満足」をもたらしますが、カントのいうところの「快」からは除外されています。こうして「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」「間接的に善いもの」は次のような四象限へ整理されます。
 

(『手段からの解放』から引用)
 
⑶ 消費社会の論理と全体主義の論理
 
このような四象限のうち第三象限の「間接的に善いもの」だけが「手段」の概念を持っています。この「手段」の概念こそがカントのいう「快」が第三象限には適用されない理由を示しています。「間接的に善いもの」とは「これはあの目的を達成するための手段として有用である」という仕方のみで人に「満足」をもたらしています。
 
この点、本書は「目的」からも「手段」からも自由なはずの第四象限は「目的」と「手段」の連関に閉じられる第三象限に容易に転化するといい、こうした転化は危険な問題を孕んでいるといいます。例えばアルコールを酩酊状態それ自体を「享受」するのではなく、日々の辛さから一時的にでも逃れる「目的」のための「手段」として常用するのであれば、それは依存症のリスクと隣り合わせです。
 
またアーレントが『全体主義の起源』においていかなる「手段」をも正当化するものとして「目的」の概念を批判していたのも、結局のところは「最悪の手段」が「目的」によって正当化される危険性に他なりません。それゆえに本書は「手段からの解放」を訴えます。
 
『暇と退屈の倫理学』という本はもしかして、消費社会における「浪費=贅沢」を説く一見すると「優雅な」生き方を称揚する本としても読めてしまうかもしれません。けれども消費社会の論理とは依存症の論理と表裏の関係にあり、そしてそれは「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」を求める全体主義の論理とまっすぐにつながっているといえます。こうした意味で同書が提示する「浪費=贅沢」という倫理とは消費社会=全体主義の論理に対して「目的への抵抗」と「手段からの解放」を志向するものであったといえるでしょう。
 

* はじめてのスピノザ(2020年)

⑴ スピノザ哲学の真髄を掴む
 
國分氏は現代思想シーンを代表する論客の1人であると同時に日本有数のスピノザ哲学の研究者としても知られています。本書『はじめてのスピノザ』は17世紀の哲学者バールーフ・デ・スピノザが展開した哲学の真髄を平明に論じる一冊です。スピノザ哲学は一般的に「汎神論」と言われています。「汎神論」とは森羅万象あらゆるものが「神」であるという考え方です。日本では「八百万の神々」のような多神教的な自然崇拝のイメージが馴染み深いですが、スピノザにおける「神」とはただ一つの「神」です。
 
ここで「神」とかいうワードが出てきた時点でもう何か胡散臭く感じるかもしれませんが、スピノザのいう「神」は一神教的な意味での神とはまったく異なります。スピノザ哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。言い換えれば「神に外部はない」ということです。スピノザのいう「神」とはこの宇宙を含めた「自然」そのものであり、我々を含めた万物はこの「神」の中にいます。これを「神即自然」といいます。これがスピノザ哲学の枢要部にある世界観です。
 
すなわち、スピノザのいう「神」とは人格を持った神ではなく、我々の生きるこの世界の「自然の法則」そのものです。こうした意味でスピノザは今日の自然科学的な発想から「神」を捉えているといえるでしょう。当時、スピノザキリスト教神学者から異端思想者として危険視されていましたが、もし神を絶対至高な存在者として捉えるのであれば、むしろスピノザがいうような「神」が現れ出ることになるはずです。
 
そしてスピノザは神を「自然」であるだけではなく「実体」であると定義しました。「実体」とは言葉の通り、実際に存在しているものです。すなわち、神こそがこの世界における唯一の「実体」であり、神だけが実際に存在しているということです。
 
そしてその神の「変状」が我々人間を含めた万物であるということです。ここでいう「変状」とは、あるものが一定の形態や性質を帯びる事をいいます。つまり神の一部が一定の形態と性質を帯びて発生したものがこの世界を構成する個物であるということです。要するに、我々は「神の一部」ということになります。
 
そしてこのような個物は「様態」と呼ばれます。ここでいう「様態」とは、特定の「モード(様式)」を意味します。つまりこの世界を構成する個物はそれぞれが神が存在したり作用したりする「モード(様式)」であるということです。すなわち、それぞれの個物は神が存在したり作用したりする「力」を「表現」しているということです。
 
このようにスピノザは物の本質を「力」として把握しています。このような「力」をスピノザは「コナトゥス conatus」と呼びます。コナトゥスとは「自分の存在を維持しようとして働く力」を指すラテン語です。これは医学や生理学でいう恒常性(ホメオスタシス)の原理に近いものです。
 
さらにスピノザは独特な仕方で「善」と「悪」を定義します。スピノザによれば「完全/不完全」という区別は人間が勝手に決めたものであり、自然界には「完全/不完全」の区別はなく、それ自体で「善」とされる存在も、それ自体で「悪」とされる存在もなく、「善」と「悪」は「組み合わせ」によって生じるものに過ぎないと考えました。
 
例えば毒性があることで知られるトリカブトという植物はそれ自体は別に「悪」ではなく、あくまで人間との「組み合わせ」によって「悪」になるということです。こうしたことから人間にとっての「善」とは、その人にとっての活動能力を増大させる「組み合わせ」であり「悪」とはその人にとって活動能力を低下させる「組み合わせ」なのであるとスピノザは考えました。
 
⑵ スピノザが考える「自由」
 
スピノザの主著『エチカ』(1677)では第一部で「神」が定義された後、第二部では人間の「精神」が論じられます。続く第三部では「感情」の起源が論じられ、第四部では「感情」の力が論じられます。そしてこの本が目指す最終目標は「自由」の究明に他なりません。最終部である第五部は「知性の能力あるいは人間の自由について」と題されています。果たしてスピノザの目指した「自由」とはいかなるものなのでしょうか。
 
「自由」というと普通「外部からの制約がない状態」を想起します。けれども、そもそも外部からの制約がまったくない状態などあり得ないでしょう。いま見たようにスピノザにとって、個物としての人間の本質とは「力」であり、人間にとっての「善」とは「組み合わせ」により活動能力が増大することでした。けれども、活動能力が増大するといっても、人間には身体や精神といった条件や制約があります。すなわち、ここで重要なのは与えられた条件や制約に従い、自身の力をうまく発揮できることです。そして、これがまさしくスピノザの考える「自由」です。スピノザは『エチカ』の冒頭で「自由」を次のように定義します。
 
自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身の身によって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる(第一部定義七)
 
(『エチカ』より)
 
 
まず前段によれば「必然性」に従うことが「自由」だということです。ここで言われる「必然性」とは先ほど述べたように、身体や精神といった条件や制約です。ゆえに人は生まれながらにして「自由」であるわけではありません。身体や精神を上手く使いこなせないからです。けれども、やがて人は試行錯誤を重ねて、身体や精神といった条件や制約を上手く生かす術を学んでいくことで、少しずつ「自由」になっていきます。
 
次に後段によれば「自由」の反対は「強制」であるということです。「強制」とは、その人に与えられた条件が無視されて外部の「原因」により何かを無理矢理押し付けられている状態をいいます。裏返せば「自由」とは自らが「原因」となることをいいます。ここでいう「原因」とは「結果」の中で自らの「力」を「表現」するものをいいます。このように自らの行為において自らの「力」を「表現」している状態をスピノザは「能動」と呼びます。これに対して、逆に自らの行為において外部の「力」をより多く「表現」している状態が「受動」です。すなわち「自由=能動」であるということです。
 
もっとも我々の行為はいつも多くの「原因」に規定されています。実際のところ、人は常に外部からの影響と刺激の中にあり、身体各器官は我々の意志とは関係なく複雑なメカニズムで自動的に動いています。つまり完全な「自由=能動」はあり得ません。もっとも完全な「自由=能動」にはなれなくとも、自らの「力」の「表現」の度合いを高めることで「受動」の部分を減らして「能動」の部分を増やすことができます。すなわち「自由=能動」の度合いを少しずつ高めていくことはできるわけです。
 
⑶ 自由意志など存在しない
 
このようにスピノザは「自由」を「あるかないか」ではなく「どのくらいあるか」という「度合い」で捉えています。要するに何が言いたいのかというと、スピノザのいう「自由」とは、いわゆる「自発性」のことではないということです。「自発性」とは外部の何者からの影響も命令も受けずに、自分が純粋な出発点となって何事かをなすことをいいます。このような意味での「自発性」が「自由意志」と呼ばれているものです。
 
スピノザは「自由意志」を否定します。確かに人は自らの中に「意志」らしきものがある事を感じていますし、スピノザもその事実は否定しません。けれどもその「意志」だけで自らの行為を制御しているわけではありません。なぜなら、いかなる行為にも「原因」があるからです。我々の行為は我々の「意志」が一元的に決定しているわけではなく、様々な要因の絡み合いの中で中で多元的に決定されているわけです。
 
しかしながら、その一方でスピノザは「意志」の存在を「意識」することは否定しません。スピノザは「意識」を「観念の観念」と呼びます。「観念の観念」とはややこしい言い回しですが、要するに「意識=観念の観念」とは精神の中に現れる何らかの「観念」に対して、反省的作用を加えることで生じるいわば「メタレベルの観念」です。
 
先述したように我々の行為は様々な要因によって多元的に決定されるのでした。そして「意識」もまた、その要因の一つになります。人間の精神の特徴は「意識」を高度に発達させ、それによって自らの行為を反省的に捉えるところにあります。それゆえ「意識」は行為の多元的要因の一つとして行為に影響を与えることができます。
 
「意識」は万能ではないですが無力ではありません。スピノザのいう「力」の「表現」としての「自由=能動」の度合いとは「意識」によるコミットメントの度合いと表裏の関係にあるといえます。つまり今このときの行為一つひとつに意識を向けるということは「自由=能動」を生きるということになるのでしょう。そして、こうしたスピノザ哲学における「自由」の問題を言語史という切り口から多角的に論じた一冊が『暇と退屈の倫理学』とならぶ國分氏の代表作である『中動態の世界』です。
 

* 中動態の世界(2017年)

⑴「私が歩く」とは能動なのか受動なのか
 
我々は日々あらゆる行為を「能動(する)」と「受動(される)」に分類しています。そして外形的にはまったく同じ行為でも状況次第で例えば「仕事をする」「家事をする」「勉強をする」という「能動(する)」にもなりますし「仕事をやらされる」「家事をやらされる」「勉強をやらされる」という「受動(される)」にもなります。では、この両者はどこで区別されるのでしょうか。
 
ここで「私は歩く」という単純な動作を考えてみましょう。私は歩く。その時「私」は「歩こう」という「意志」をもって、この「歩行する」という行為を自分で遂行しているように思えます。そうであれば「私は歩く」という動作は「能動(する)」であるといえそうです。
 
しかし「歩く」という動作は人体の全身に関わっています。人体には200以上の骨、100以上の関節、約400の骨格筋があります。これらがきわめて繊細な連携をとることではじめて「歩く」という動作が可能になるわけですが「私」はそうした複雑な人体の機構を自分の「意志」で動かそうと思って動かしているわけではありません。
 
このように「私」は「歩く」という単純な動作においても「私」は自分の身体をどう動かしているのかを明瞭に意識しているわけではなく、さらにはそもそも「歩こう」という「意志」が行為の最初にあるかどうかも疑わしいことになります。実際、現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに現れてくるといわれています。
 
しかしその一方で「私が歩く」という動作を「受動(される)」として「私が歩かされる」と捉えることもまた無理があると言わざるを得ないでしょう。やはり「私」は「歩く」という意志(らしきもの)を持って歩いていると感じていることは確かです。こうしてみると「私が歩く」という動作を強いて記述するとすれば「私において歩行が実現されている」とでもいうべき事態です。しかし、このような事態は能動とも受動ともいえないでしょう。
 
このように現実の事態や行為は能動と受動の二分法で記述し切れるものではありません。しかしそれにもかかわらず我々はこの区別を使わざるを得ません。それはどうしてなのでしょうか。以上のような問題意識から、本書『中動態の世界』はかつて言語に存在し、いまや喪われた「中動態 middle voice」の世界に深く潜っていきます。
 
⑵ 中動態というミッシングリンク
 
我々は普通、自身の行為を能動か受動かで区別します。この区別は上記のようにかなり粗雑な区別であるにもかかわらず、この能動と受動の区別は我々の思考の中でそれがまるで必然的な区別であるかのような内的な形式として作動しており、我々は能動でも受動でもない状態をそう容易には想像できません。
 
このような我々の思考の奥深くで作動する能動と受動の区別という効果を発生させているものは果たして何でしょうか。ここで本書は「能動 active」と「受動 passive」とは動詞の「態 voice」を示す文法用語であることに注目します。我々は英文法などを通じてこうした「態」について学びます。そこで教わる「態」は「能動態」と「受動態」の2つであり、その2つでしかありません。
 
しかしフランスの言語学者エミール・バンヴェニストによれば、実は能動態と受動態という区別はいかなる言語にも普遍的なものではないとされます。それどころか、このような区別を根底に置いているように思われるインド=ヨーロッパ語族の諸言語においてもこの区別は少しも本質的なものではなく、その歴史的発展においてかなり後世になって出現した新しい文法規則であることが分かっています。
 
さらにバンヴェニストによればかつては能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在しており、これが能動態と対立していたとされます。すなわち、もともと存在していたのは「能動態」と「受動態」の区別ではなく「能動態」と「中動態」の区別であったということです。
 
このような受動態でも能動態でもない「中動態」なる態が存在していたという事実からは次のような仮説を考えることができます。我々がほとんど自明のものであると思い込んでいる能動と受動の区別とは、能動態と受動態という文法上の、しかも全く普遍的ではない比較的新しく導入された区別が発生させている効果であり、能動と受動という粗雑な区別も、その導入時の矛盾の表れなのではないかということです。
 
このようにかつてのインド=ヨーロッパ語族においては能動態でも受動態でもない「中動態」という態があまねく存在していたとされます。ここでいうインド・ヨーロッパ語族とは現在の英独仏露語などのもとになった諸言語のグループ(語族)のことを指しています。これに属する諸言語は古代(少なくとも8000年以上前)よりインドからヨーロッパにかけての広い範囲で用いられていたことが分かっています。
 
これらの諸言語が持つ動詞体系には長きにわたり能動態と受動態の対立は存在せず、その代わりに存在していたのが能動態と中動態の対立でした。受動態はずいぶん後にになってから中動態の派生形として発展したことが比較言語学によってすでに明らかになっています。
 
この意味で「中動態」という名称は不正確といえます。中動態という名称は中動態が表舞台から追いやられた後の能動態と受動態の対立のもとで作られたものであり、その意味するところは能動でも受動でもない「中間的なもの」ではありません。
 
この点、本書はバンヴェニストの議論を参照し、能動態と中動態の対立とは文の主語が動詞によって示される過程の「外」にあるか「内」にあるかの区別に基づくものであるといいます。すなわち、能動態とは動詞の示す過程が主語の「外」で完遂する事態を示しており、中動態とはその過程の「内」に主語が位置付けられる事態を示しているということです。
 
⑶ 自由意志なき自由を生きる--中動態の世界としてのスピノザ哲学
 
そして、このような意味における能動態においては現在のように「意志」の観念は前景化していません。これは能動態と中動態を対立させる言語は能動態と受動態を対立させる現在の言語とは異なった思考の条件を形成していたことを示唆しています。
 
この点、哲学の世界において、意志なるものの格下げを最も強く押し進めたのは17世紀のオランダの哲学者スピノザです。スピノザは「自由な意志」という概念を退け、意志は「自由な原因」ではなく「強制された原因」であるとします。スピノザによればいかなる物事にもそれに対して作用してくる原因があることから、意志についてもそれを決定し何ごとかを志向するよう強制する原因があるとされます。にもかかわらず「行為は意志を原因とする」と思ってしまうのは、我々の精神が物事の結果のみを受け取るようにできており、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまうからであるといいます。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまうのです。
 
そしてスピノザの哲学には中動態の世界に通じる概念が明確に存在します。その概念とは「内在原因 causa immanens」と呼ばれるものです。スピノザは主著『エチカ』において神と万物の関係をこの「内在原因」によって定義します。ここでスピノザのいう「神」とはキリスト教的な人格神ではなく、むしろこの宇宙あるいは自然そのものを指しています。
 
そうした「神即自然」という唯一の実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在します。すなわち、万物とは畢竟、神の一部であり、しかもその作用はどこまでも神の内に留まっており、神の外部はいかなる意味でも存在せず、それゆえに神は万物の内在原因なのであるということです。つまりスピノザが描く世界とは世界のすべてが神即自然のなかで完結する「中動態の世界」であるといえます。
 
もちろん神即自然そのものは中動態的であっても、その「変状」としての個物同士については、作用するものと作用を受けるものという能動/受動の区別は残り続けます。しかし、全ての個物の「内在原因」は神即自然である以上、ここでいう能動/受動とはその「変状」の質として捉えられます。すなわち個物の変状がその本質を十分に表現しているとき、その個物は能動であり、逆に個物の本質が外部からの刺激によって圧倒され、そこに起こる変状が個物の本質をほとんど表現できていないとき、その個物は受動であるということです。
 
すなわち、ここでの能動/受動とは「十分」とか「ほとんど」というような「度合い」のことを指しています。そうであれば、ある個物がどれだけ能動に見えても完全な能動はありえず、またある個物がどれだけ受動に見えても完全な受動はあり得ません。そしてこうした意味での能動/受動の相違はスピノザの哲学における「自由」と「強制」の相違に他ならなりません。
 
スピノザは自由意志を否定しました。しかしそれは自由を追い求めることとまったく矛盾しません。むしろありもしない自由意志なるものへの信仰こそが、我々が自らの本質を十分に認識すること、すなわち自由になることを妨げるものであるといえます。このようにスピノザの哲学とは自由意志を否定することで自由を志向する哲学です。換言すれば中動態の世界を生きるとは自由意志なき自由を生きるということです。
 
もとより、あらゆる事態や行為を能動と受動に切り分ける思考は社会を維持するため不可欠です。しかしその一方で、こうした能動と受動の二分法とは絶対的な真実ではなく、あくまで一つの思考法に過ぎないことも確かです。
 
こうした思考法とは別のしかたで世界を捉える思考法があることを中動態の世界は教えてくれます。そして、このような複数の思考法をゆるやかに往還することで日々生起するさまざまな事象のなかに、これまで見えてこなかったものが見えてくることもあるではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

体験を経験へと言語化する技術--小さな美術館の学芸員『忙しい人のための美術館の歩き方』

* 芸術を変えるきっかけとなった「展覧会」

 
芸術作品を鑑賞するという行為はかつてはごく限られた階層の人のみに許された娯楽でした。中世やルネサンスの頃は芸術家は常に教会や君主や資産家といったパトロンからの発注を受けて作品を制作していました。このような構造が崩れるきっかけとなったのが「展覧会」の登場です。
 
1648年、フランスで王立絵画・彫刻アカデミー(通称アカデミー)が創立されます。当時はルイ14世絶対王政を敷いていた時期であり、芸術も王の支配下におこうとしたのアカデミー創設の目的であったとされます。18世紀に入るとこのアカデミー会員たちの作品発表の場として、展覧会が定期開催されるようになります。アカデミーの展覧会は1725年からルーブル宮殿の一室サロン・カレで開かれるようになったことからサロンと呼ばれるようになります。
 
その後、時代とともに国家主導ではない在野の展覧会も開催されるようになっていき、この展覧会という制度により芸術家は不特定多数の人に向けた自己表現としての作品を発表するようになります。つまり展覧会の登場により現在のようなアーティスト像が出来上がったということです。
 
日本における展覧会開催のきっかけとなったのは1873年のウィーン万国博覧会です。この万博に日本は国として初めて公式参加し、日本の工芸品が海外で高く評価されていることを知った政府は殖産興業の一環として海外向け工芸品の生産を強化する方針を立て、1877年には第1回内国勧業博覧会が開催されています。
 
この博覧会は上野公園内に複数の展示館を仮設して開催されましたが、その建物の一つに「美術館」という名称が付けられました。これが日本初の「美術館」となります(そもそも「美術」という言葉自体が万博参加に際して作られた急造新語でした)。
 
明治時代半ばになると大小様々な美術団体が競うように展覧会を開催するようになり、日本においても展覧会に行って美術鑑賞をするという行為が徐々に普及しつつありました。それにともないヨーロッパ同様に日本でも不特定多数に向けて自己表現として作品を発表するというアーティスト像が浸透し始めます。
 
そして戦後の高度経済成長期には当時の日本の勢いを物語るように海外から超希少な美術品、文化財を日本に持ってきて展示する特別展が次々と開催されました。オリンピックイヤーの1964年には国立西洋美術館において行われた「ミロのヴィーナス特別公開」の総入場者数は83万人を記録し、翌1965年には東京国立博物館において行われた「ツタンカーメン展」の入場者総数は130万人を記録し、1974年には同じく東京国立博物館で行われた「モナ・リザ展」での総入場者数は150万人を記録しています。
 
1980年代に入ると美術館の建設ラッシュが始まり大都市以外でも展覧会がコンスタントに行われるようになり、1987年の総入場者数は「モナ・リザ展」が開催された1974年の340万人に並び、それ以降はさらに総入場者数が急角度で上昇し、80年代から90年代前半にかけてはまさに日本の展覧会の黄金時代を迎えることになります。
 
いうなればかつて美術館とは非日常のエンターテイメントを体験できる大衆娯楽の場所だったといえます。しかし現在において美術館という場所は多くの人々にとってどちらかといえば「敷居の高い」場所と化しているのではないでしょうか。こうした美術館の魅力の再発見とその「歩き方」をわかりやすく解説する一冊が本書『忙しい人のための美術館の歩き方』です。
 

* 美術館とタイパ至上主義

本書の著者である小さな美術館の学芸員氏(これはnoteのペンネームに由来するそうです)の本業は名前の通り都内の某美術館の学芸員であり、現在では美大でも教鞭を取っているそうです。本書はまず第1章「タイパの真逆にある美術館」で現在の美術館の利用状況を概観します。
 
国立アートリサーチセンターが毎年継続的に行なっているインターネット調査「美術館に関する意識調査」(関東・関西で各8000人を対象とした大規模なスクリーニング調査)の2023年度調査結果によれば「年に1回程度」以上の頻度で美術館に行く人が回答者全体の中で占める割合は関東エリアでは2015年に26.7%だったのが、2023年には19.2%まで減少しており、逆に「美術館にまったく行かない」と答えた人は2015年では全体の29.0%だったものが2023年では33.6%まで増加しています。この傾向は関西エリアでも同様だったようです。
 
さらに本書が注目するのは来館者のメイン層の二極化です。同調査で年に1回以上美術館を訪れる人の割合に多い年齢層に注目すると、男性の場合は1位が60〜79歳で20.4%、2位が20〜29歳で19.4%。逆に最も低いのが40〜49歳で10.4%です。女性の場合も1位は60〜79歳で27.9%、2位が20〜29歳で27.0%。最下位はやはり40〜49歳で16.5%です。
 
そしてこれは本書の推測ですが20〜29歳の層の大半は就職前の学生である可能性が高く、このことを勘案すれば働き始める前の人と働き終えた後の人が比較的美術館に足を運んでおり、いわゆる「現役世代」と呼ばれる年齢層が美術館から最も足が遠のいていることになります。
 
では現役世代が美術に関心がないかというと、必ずしもそういうわけではないようで、2010年代後半から「美術はビジネスパーソンに必須の教養である」というテーマのビジネス書が続々と発刊されており、それなりにヒットをしていたりします。その背景には2010年代前半に流行した思考トレーニングとしての「ロジカル・シンキング」の限界を打破する「アート・シンキング」へと人々の期待が寄せられていると考えられています。
 
つまりここにはビジネスで活路を見出すために美術に注目しているのも現役世代であれば美術館に最も足を運ばないのも現役世代という大いなる矛盾が存在しています。この矛盾を本書は可処分時間を合理的に使用するタイム・パフォーマンスが重視される昨今の「タイパ至上主義」という風潮から説明しています。つまり、行くのに手間もお金も時間もかかるのに行っても明確な効果が事前にわからない美術館とはタイパの真逆にある存在であるということです。
 

* それでもなぜ人は美術館に行くのか

 
こうした「タイパ至上主義」という風潮のなかで、それでも美術館に行くことには大きな意味があることを本書は主張します。こうした観点から第2章「美術鑑賞の変遷」では、そもそも美術館で鑑賞を楽しむという習慣がどのように日本に根付いたかが紐解かれ、第3章「美術館の新たな取り組み」ではしばらく美術館に行っていない人のための最新の美術館事情が解説されています。
 
続いて第4章「SNS時代の美術館 鑑賞する側が主役になる」では展覧会の探し方、必携の持ち物、展覧会の回り方、メモの取り方、美術を語るための実践ワークなど美術館を楽しむための具体的な方法が説明されています。
 
そして第5章「結局、美術館に行く意味って何?」では忙しなく生きている人にこそ美術館が必要な理由がとことん語られます。本書のタイトルを『忙しい人のための美術館の歩き方』に決めたのは何よりもこのメッセージを伝えたかったからだと本書はいいます。
 
たしかに美術はすぐに役立つものではありません。無駄に思えるかもしれません。そして美術館の存在は不要不急の筆頭と言われるかもしれません。それは認めます。全部認めた上で、この章では「だからこそ美術館が必要なんだ!」という大逆転を決めたいと思います。
 
(本書より)

 

こうしたことから本書の肝は最終章の第5章であり、手っ取り早くそこだけ読んでもらっても構わないとも述べられています。もちろんタイパ至上主義の現代における美術館の立ち位置を明確にすることは文化行政や社会教育といった文脈においても極めて重要な意義があることはまず疑いないでしょう。
 
もっともその一方で『忙しい人のための美術館の歩き方』という本書のタイトルに惹かれる読者層であれば、ある程度は美術館に関心があり機会があればぜひ足を運んでみたいと思っているけれども何らかの理由で躊躇しているという方も多いかと思われます。そういった読者にとってはむしろ文字通りの「美術館の(実際の)歩き方」を現役学芸員ならではの視点から指南する第4章こそが本書の真の読みどころになるようにも思えます。
 

*「展覧会レポート」のすすめ

 
この第4章では美術館における基本的な鑑賞の心得が説明された後、実りある鑑賞に必要な「体験」を「経験」に変えるための秘訣が語られています。この点「体験」も「経験」も英語にすればどちらも同じexperienceという単語になりますが、日本語では明確に意味が異なってきます。
 
ここでいう「体験」とは特に意識しなくとも次々と重ねることができるものであり、そしてどんどん忘れていくものです。しかしさまざまな体験をすると、自分の中に何かが消えずに残ることもあり、そこで自分の中に引き出しが一つでも増えたなら、それは自分の中で「体験」が「経験」に変わったということです。
 
経験は決して色あせません。人それぞれ自分だけの経験を重ねていくことで、他の誰とも違う唯一無二の「私」になっていくのです。
 
(本書より)

 

そして「体験」をこうした意味での「経験」に変えるため大きな役割を果たすものがアウトプットであると本書はいいます。具体的には短くてもいいので何かしらの形で「展覧会レポート」を書いてみて、出来ればSNSやブログなどで発信してみるというプロセスです。その効能として本書は⑴文章にするために調べ物をするので理解が深まるという点と⑵自分でも気づかなかった感情を認識できるという点と⑶言語化することで記憶に定着するという点をあげています。
 
これらの効能をひとまとめにすると「体験が経験になる」という表現になります。そしてこうした「展覧会レポート」を書くために本書は鑑賞メモを取ることを勧めており、そのメモの取り方のコツや注意点なども詳細に解説されています。
 

* 体験を経験へと言語化する技術

 
この第4章は大きくいえば美術館における「体験」を「経験」へと言語化するための技術を論じたものであるといえます。このように「技術」というと何かこう、心のこもっていない表面的で小手先の鑑賞方法のようにも聞こえてしまうかもしれませんが、少なくとも「体験」を「経験」へと言語によって組み立て直す=構造化するには、そのための手順=技術を押さえておくことが必要になってくることは確かであり、こうした意味での「技術」とは美術鑑賞に限らず様々なコンテンツにおいて「体験」を「経験」に変える上で必要とされるものです。
 
例えば三宅香帆氏は『「好き」を言語化する技術』(2024)において学校などで教えられがちな「ありのままの感想を書けばいい」という一見常識的なアドバイスに異議を申し立て「技術を駆使してこそ、いい感想文が書けるようになる」と主張し、コンテンツ(本書のいう「推し」)の魅力を語る上で重要なものとして「自分の感情」と「文章の工夫」と「妄想力」をあげ、推しに対して生じた感情を「共感」と「驚き」に大別した上で、その感情が生じた理由を深く掘り下げていく「感情を言語化=細分化する」という手法を提案しています。
また三宅氏は『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』(2025)において話が面白い人になるには本や漫画を読んだりドラマや映画などを観ることが必要だけれども、ただ漫然と読んだり観るのではなく「鑑賞」として取り入れることが重要であり、そこには作品を「解釈」するための「技術」が必要になるといい、読んだり観たものを話の「ネタ」に変えるための「比較(ほかの作品と比べる)」「抽象(テーマを言葉にする)」「発見(書かれていないものを見つける)」「流行(時代の共通点として語る)」「不易(普遍的なテーマとして語る)」という五つの「技術」をあげています。
そして本書もまた三宅氏と同様に実りある鑑賞体験には「技術」が必要であるという立場から美術館ならではの鑑賞体験を言語化していくための「技術」に光を当てていきます。先述のように美術館になかなか足が向かない理由の一つとして、行くのに手間もお金も時間もかかるのに行っても明確な効果が事前にわからないという点が挙げられていますが、こうした言語化の技術は「それを実際に使ってみたい!」という美術館に行くための理由を少なくともひとつ、生み出すことになるのではないでしょうか。こうした意味で本書は「タイパ至上主義」の現代における美術館の意義を説く一冊であると同時に、美術館に関心があるけれど未だ躊躇している読者が最初の一歩を踏み出すために必要な知見と勇気をもたらす一冊にもなるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

法哲学という思考ツール--住吉雅美『あぶない法哲学』

* 法原理を根本から問い直す

 
世界的な哲学者として知られるジョルジョ・アガンベンは2020年2月26日のイタリアの新聞「イル・マニフェスト」紙に「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態 Lo stato d'eccezione provocato da un'emergenzaimmotivata」という論考を発表して物議を醸し出しました。この論考でアガンベンはコロナウィルスの拡大を防ぐという理由で実施されている緊急措置は「平常心を失った、非合理的で、まったく根拠のないものである」と指摘し「激しい移動制限」が行われ「正真正銘の例外状態」が引き起こされていると批判しました。
 
このようなアガンベンの批判の背景にあるのが同論考のタイトルにもある「例外状態 lo stato d'eccezione」という概念です。これは行政権が立法権を凌駕してしまう事態を指しています。つまり権力(行政権)は「例外状態」を巧妙に利用して民主主義を蔑ろにしたり人々の権利を侵害していくことがあることから、アガンベンはコロナ危機によって人々が「例外状態」を受け入れつつあることに危機を抱いたということです。
 
ところが--当時の状況を考えればやむを得ない部分もあるとは思いますが--このようなアガンベンの主張は端的にいえば「炎上」してしまいます。けれどもアガンベンは自身の主張を揺るがすことなく、翌月には「補足説明 chiarimenti」と題された二つ目の論考を発表して自身の主張の論点を明確にしています。
 
アガンベンのいう「例外状態」の究極形態とは言うまでもなくナチス・ドイツの「全権委任法」に他なりません。いま冷静に考えればアガンベンの主張はパンデミックで混乱に陥った社会に警鐘を鳴らす哲学者の役割を果たしたものであると理解できるでしょう。
 
ここでアガンベンが問題としているのは「三権分立」という法原理です。こうした法原理を根本から問い直し、そこから既存の法体系や具体的な法現象に考察を加える哲学分野を「法哲学」といいます。このような法哲学への平明な入門書であると同時に世間一般的に「ただしい」とされる常識を揺るがす「あぶない」思考へと誘う一冊が本書『あぶない法哲学』です。
 

* 法哲学の天使の顔と悪魔の顔

そもそも哲学とは既成の知を徹底的に疑い〈存在すること〉の根拠はなんであるかを探求し続ける思考です。我々が自明としている常識を問い直し、思い込みを問い質し、そして真理の探求へと向かいます。
 
法哲学は、法律に対してその思考を向けます。つまり人間社会のさまざまなルールの中で、なぜ法律だけが国家権力による強制力を持つことができるのか、そのような法律を成立させ存在させるものは何かを問います。
 
また、果たして議会で制定される法律だけが法なのか、制定法を凌ぐより高次の法があるのではないか、あるいは制定法よりも人間社会の多様な営みの中で自生する法こそが重要なのではないか、などと考えたりもします。
 
本書は法哲学には二つの顔、つまり「天使の顔」と「悪魔の顔」があると思うと述べています。ここでいう「天使の顔」とは民法とか刑法といった実定法学に協力し、それがより良く正義を実現できるよう改革するための指針を示すことです。一方で「悪魔の顔」とは現行法体系の基礎原理やそれを支える人間社会の習俗とか常識それ自体を徹底的に疑い、容赦なく批判していくことです。
 
本書は「常識に楯突く思考のレッスン」という副題が示すとおり、どちらかといえば「悪魔の顔」としての法哲学の入門書になります。本書は社会問題の解決手段として法律を万能視する立場には与せず、法律は所詮世界を回す諸システムの中の一つでしかないという立場から、法律を相対化して自分の頭で自由に考える力を鍛錬するための学問として法哲学を位置付けています。
 

* 正義の在り処を問い直す--現代正義論

 
ところでいま「正義」という言葉を何の説明もなく使いましたが、法哲学的にはこの「正義」なる概念ももちろん自明のものではなく「そもそも正義とは何か」という議論があります。ここではこの「正義」をめぐる議論を本書を参考にしつつみていきましょう。
 
まず「正義」という言葉の英語であるjusticeには「裁判」という意味もあります。実際に日本の最高裁判所のほか世界の多くの裁判所には「正義の女神像」が置かれています。この像は右手に剣を、左手に秤を持ち、目は閉じているか目隠しをしています。剣は正義の行使を表しており、秤は原告と被告で対立する主張を公平に扱うことを表しています。
 
この「正義の女神像」が意味しているのは正義の行使とはいずれも自分の言い分が正しいと信じて疑わない対立する両当事者を秤以外の基準によって判断を左右されることなく、公平に扱う営みだということです。目隠しの意味は(諸説あるようですが)女神が両当事者についての予断や先入観、偏見を持たないようにすることだと解されています。両者の主張とは無関係な情報(例えば両者の容姿など)が入ったらその判断が歪められてしまうからです。
 
そしてこのような裁判即ち正義は何か不正が生じた時に発動されます。法と裁判はその不正によって生じた不平等(損害)を是正(原状回復)するという形で実現されます。つまり正義とは本来、利害や主張が異なる人々を公平に扱い、平等の実現を目指すものです。
 
このような公平と平等を志向する正義は「形式的正義」と呼ばれます。こうした正義の原点は古代ギリシアの神話に登場する大神ゼウスの娘であるディケーという女神が示した「各人に彼に相応しいものを与えよ」という言葉に由来します。これに対してある社会における「正しさ」を志向する正義は「実質的正義」と呼ばれます。もちろんその「正しさ」とは何かについては様々な議論があることは言うまでもないでしょう。
 
この点、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは先述したディケーのいう「各人に彼に相応しいものを与えよ」という言葉を分析し正義の内容を次のように分類します。アリストテレスはまず正義を「適法的正義(法に従った行為)」と「特殊的正義(平等の実現)」に分類します。さらに後者は「分配的正義(各人の価値に応じて財や名誉を与えること)」「矯正的正義(生じた不平等をなくし、原状回復すること)」「交換的正義(共同体の中で異なる物財を交換するために等価にすること)」へと分類されます。
 
このアリストテレスの正義の分類は現代でも正義を語るときに必ず参照されるものです。この分類が現代においても議論の焦点となっている理由は、分配的正義の「各人の価値に応じて財や名誉を与える」という定義の意味について様々な意見が出され、その答えが一致しないからです。これが法哲学における「現代正義論」と呼ばれる論争領域です。
 

* 無知のヴェールと正義の二原理--ロールズ

 
この論争の口火を切ったのがアメリカの哲学者ジョン・ロールズです。ロールズは当時常識とされていた政策哲学である「功利主義(社会における最大多数の最大幸福を追求する立場)」に対して、誰の自由と権利も犠牲にすることなく社会全体の福利を増大させるような原理を新たな時代の「正義」として提起しました。
 
まず彼は人々に次のような想像を求めます。多様な人々が集まってゼロの状態から今後自分たちが安心して暮らせる社会を作るための話し合いをしています。その議場には若者も高齢者も金持ちも貧乏人もいます。このままだと皆が皆自分に有利な主張をし続けて話し合いはいつまでもまとまらないでしょう。
 
そこでロールズはこの会議に参加している人々に「無知のヴェール veil of ignorance」をかぶせることを提案します。このヴェールをかぶせると人々は自身が属している人種、国籍、性別、年齢、地位などといった具体的属性をすっかり忘れてしまいます(と想定します)。そうすることで人々はどんな属性を持つ人にとっても有利にも不利にもならないような公共的な提案を行うはずだとロールズは考えました。
 
またロールズは人々は誰でも将来について病気や事故や失業などでいつ不遇な立場に陥るかもしれないと悲観的に考え、なおかつ誰もが生涯にわたって絶対に自分だけは損をしたくないと考えるとも想定し、それゆえに議場の人々は万が一自分が最悪な境遇に陥ったとしても人間らしく生活できるような社会制度を求めるだろうと考えます。そんな人々が結果として全員一致で合意するであろうものが以下のような正義の二原理です。
 
第一原理:誰もが、最も広範にわたる基本的諸自由に対する、他者の同様な自由と両立する平等な権利を持つべきである。
 
第二原理:以下の二つの目的を満たす場合のみ、社会的・経済的不平等が設けられる。
 
①最も不遇な人々にとって最大限の利益となり、結果として、全員の利益となることが合理的に期待される場合。
 
②公正な機会の平等が成立しているという条件のもとですべての人に諸々の職務や地位へのアクセスが可能となる場合。
 
(『あぶない法哲学』より引用)

 

この正義の二原理においては第一原理が常に優先されることになり、第二原理はあくまで第一原理を実現するための手段です。第二原理の①はすでにある不平等を是正するため累進課税貧困層支援といった不平等な政策を認める条件を示す「格差原理」と呼ばれるものです。そして第二原理の②はどんな立場の人にも進学や就職といった機会を平等に保障する「公正な機会均等原理」と呼ばれるものです。
 

* 自由と贈与--ノージック 

 
以上がロールズが提示した正義論ですが、この議論には当然穴があります。ロールズが正義の二原理を正当化できたのは「誰もが自分の将来に対して悲観的だから保険をかけたがる」というネガティヴな人間観があります。これは別名「マキシミン原理」と呼ばれる起こるかもしれない損失をできるだけ最小限に止めようという考え方です。
 
確かにこの原理を前提とすれば誰もが格差原理や機会均等原理を含む正義の二原理を選ぶと言えそうです。とりわけこういう判断は何かとローリスクな選択肢を好む日本人的な思考に馴染みやすいものがあるでしょう。しかし大成功も大失敗も可能性のレベルにおいてはどこまでも同等です。大失敗を恐れるあまり同程度に起こりうる大成功のチャンスをみすみす逃す選択ばかりではつまらないと考える人だっているでしょう。このような人生とはギャンブルだと考える人間がロールズのいう正義の二原理を選ぶとは限りません。
 
こうした視点からロールズの正義論に反対したのがロバート・ノージックです。ノージックは「人はみな異なる。全員が住むべき最善の社会が一つしかないという考えは、私には信じられない」という立場から、マキシミン原理だけが人間の考え方ではないから、それに基づく正義の二原理だけが正義ではないと主張します。
 
こうしたことからノージックは「社会契約説」で知られる17世紀の思想家ジョン・ロックに倣い個人が(他者の自由を侵害しない限り)自分が望む生き方を貫く生き方を尊重し、個人は生まれながらに自分の身体、生命、自由を所有しており、それを守ること、侵害されないことを自然権として持っているとして、自分が所有する自分の身体を使って自分の思うように生きること、また自分の身体による労働で獲得したものを自分の財産として支配できると主張します。
 
それゆえにノージックが描く理想社会は異なった人々がそれぞれ自分が望む生き方を試すことができるコミュニティを随意に作り、結果として複数の多様なコミュニティが並立している状態です。ではそこで弱者救済はどのようなかたちでなされるかというと、それは人々の自発的な贈与によってなされるべきであるとノージックは考えます。
 
こういう考え方が成り立つ背景にはキリスト教的な隣人愛があるといわれます。すなわち、神の教えに従えば富は隣人の幸せに役立つのではなければ意味がないため、富はまず隣人に、次いで自分に与えるという道徳観です。実際にアメリカでは大成功を収めたセレブたちが日本円にして何億円もの額を慈善団体に寄付することは珍しくなく、ノージックが弱者救済を人々の自発的な贈与に期待したのもこうした文化的背景もあるのでしょう。
 

* 法哲学という思考ツール

 
こうしたロールズノージックの議論の相違は個人の「才能」をどのように考えるかという点にも関わっています。この点、ノージックは個人の身体同様に才能も生まれながらに身につけているから必然的に本人に帰属すると考えます。しかしロールズはそうは考えません。個人の才能の有無とは人々の生まれが偶然であると同じく、自然が分配した偶然の結果であると考えます。
 
もちろん、こうした才能を持つ者がそれによって獲得した報酬を得ることの正当性をロールズは否定するわけではありませんが、それはその才能を教育や鍛錬によって自ら育てたこと、そして「その才能を自分の善だけでなく他人の善にも寄与するために使った」ことによって正当化されると考えます。ここには「才能」とは偶然の所産だから自分のためだけではなく他人の暮らしを良くするためにも使うべきだという考えが示唆されています。
 
それゆえにロールズは人々が持つ多様な才能を社会の共通資産として組織化することによって社会的協働における相互の有利化をいっそう充実させることに重きを置きます。これがいわゆる「才能は社会の共通資産である」というロールズ哲学のキャッチフレーズです。以上のようなロールズノージックの対立を軸に形成された論争領域が「現代正義論」と呼ばれるものです。
 
このような「正義」をめぐる問題のほかにも「法律」「国家」「身体」「生命」「自由」といったテーマを原理的に問い直す思考を本書はわかりやすく提示します。こういうと法哲学というのは健全な常識を生きる善良な市民にはあまり関係ない抽象的な思考実験に閉じた学問のようにも聞こえてしまいそうですが、もちろんそうではありません。むしろ、法哲学的は日常をより深く読み解き、よりよく生きるための有益な思考ツールであるとさえいえるでしょう。
 
例えば小説や映画やアニメといったコンテンツにおける物語では多くの場合、善悪の二項対立が描かれます。しかしそこで描かれる「善」と「悪」の振り分けはあくまでその物語の都合に過ぎません。その物語においては「善」に振り分けられた側だけではなく「悪」に振り分けられた側にも、もちろん何らかの「正義」は存在します。
 
こうした「善」と「悪」に振り分けられたそれぞれの「正義」を、それこそ「正義の女神像」のように目隠しをして(登場人物の容姿とかキャラクターデザインなどを一切無視して)その論理だけに注目して公平に検討してみると物語の都合から「悪」に振り分けられた「正義」にもある種の真理を見出すことだってあるでしょう。このように法哲学的な思考はさまざまな「正義」をその表面的な善悪を超えてより深く読み解きます。そしてそれは物語のみならず、この現実においても異なる「正義」に立つ他者を理解するための手がかりともなるのではないでしょうか。