かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自由意志なき自由を生きる--國分功一郎『中動態の世界』

*「私が歩く」とは能動なのか受動なのか

 
我々は日々あらゆる行為を「能動(する)」と「受動(される)」に分類しています。そして外形的にはまったく同じ行為でも状況次第で例えば「仕事をする」「家事をする」「勉強をする」という「能動(する)」にもなりますし「仕事をやらされる」「家事をやらされる」「勉強をやらされる」という「受動(される)」にもなります。では、この両者はどこで区別されるのでしょうか。
 
ここで「私は歩く」という単純な動作を考えてみましょう。私は歩く。その時「私」は「歩こう」という「意志」をもって、この「歩行する」という行為を自分で遂行しているように思えます。そうであれば「私は歩く」という動作は「能動(する)」であるといえそうです。
 
しかし「歩く」という動作は人体の全身に関わっています。人体には200以上の骨、100以上の関節、約400の骨格筋があります。これらがきわめて繊細な連携をとることではじめて「歩く」という動作が可能になるわけですが「私」はそうした複雑な人体の機構を自分の「意志」で動かそうと思って動かしているわけではありません。
 
このように「私」は「歩く」という単純な動作においても「私」は自分の身体をどう動かしているのかを明瞭に意識しているわけではなく、さらにはそもそも「歩こう」という「意志」が行為の最初にあるかどうかも疑わしいことになります。実際、現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに現れてくるといわれています。
 
しかしその一方で「私が歩く」という動作を「受動(される)」として「私が歩かされる」と捉えることもまた無理があると言わざるを得ないでしょう。やはり「私」は「歩く」という意志(らしきもの)を持って歩いていると感じていることは確かです。こうしてみると「私が歩く」という動作を強いて記述するとすれば「私において歩行が実現されている」とでもいうべき事態です。しかし、このような事態は能動とも受動ともいえないでしょう。
 
このように現実の事態や行為は能動と受動の二分法で記述し切れるものではありません。しかしそれにもかかわらず我々はこの区別を使わざるを得ません。それはどうしてなのでしょうか。以上のような問題意識から、本書『中動態の世界』はかつて言語に存在し、いまや喪われた「中動態 middle voice」の世界に深く潜っていきます。
 

* 意志と責任のパラドクス

本書はまず「能動(する)」と「受動(される)」の区分を「意志」と「責任」という概念から問い直します。先述したように常識的に考えると「能動(する)」と「受動(される)」の区別は「意志」の有無にあります。そこに意志があれば能動であり、そこに意志がなければ受動であるということです。
 
では改めて意志とは何でしょうか。意志とは一般に目的や計画を実現しようとする精神の働きを指しています。その意味で意志は「意識」と結びついており、自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことであると考えられます。その一方で「意志」はさまざまなことを意識しているにもかかわらず、そうして意識された事柄からは独立した自発的な判断であるとも考えられます。
 
つまり意志とは、自分以外のものに接続されているにもかかわらず、同時にそこから切断されていなければならない精神の作用ということになります。我々はそのような実は曖昧な概念を、しばし事態や行為の出発点に置き、その原動力と見做しています。
 
こうしてみると能動と受動の区別の曖昧さとは畢竟、このような意志の曖昧さに帰着するともいえるように思えます。そうであれば我々はそのような意志などという曖昧な概念はただちに投げ捨てた方がいいのでしょうか。もちろん問題はそう単純ではありません。
 
例えば授業に遅刻してきた二人の学生がいるとして、その一人は夜中までゲームをやってて遅刻し、もう一人は夜中まで母親の介護をしていて遅刻したとします。おそらく前者は普通に叱られて、後者は同情すらされるかもしれません。こうした両者への態度の相違は前者が能動的に夜更かしをしたのであり、後者は受動的に夜更かしをせざるをえなかったという相違に求められそうです。
 
しかしながらその一方で、明日は授業があるのに夜中までだらだらとゲームをしているような人間は一般的に「意志が弱い」と呼ばれるのではないでしょうか。それがなぜか遅刻した場面になると突如、彼/彼女は自分の意志で能動的に夜更かしをしていたと見做されることになります。
 
ここからわかるのは人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、何らかの理由で責任あるものとみなしてよいと判断されたときに能動的であったと解釈されることになるということです。つまり「意志」を有していたから「責任」を負わされるのではなく「責任」を負わせてよいと判断された瞬間に「意志」の概念が突然出現するということです。すなわち、意志とは責任が生じることの効果として現れるということです。そして、この論理は授業の遅刻などいう可愛らしいケースだけでなく違法薬物の摂取といった深刻なケースにも同じく妥当します。
 
このようにみると、あらゆる行為を能動か受動かに配分するということは不正確であるばかりか乱暴とすらいえるでしょう。けれども問題となる行為が殺人や性犯罪の場合はどうでしょうか。このような場合、我々は意志とか能動といった不正確で乱暴な概念を積極的に擁護せざるを得ないでしょう。
 
このことはあらゆる行為を能動と受動に区別することや、責任を負わすために意志の概念が急に召喚されたりすることには一定の社会的必要性があることを意味しています。意志は確かに幻想かもしれません。しかし決して蔑ろにはできない幻想です。本書が述べるように、意志など幻想であり、能動や受動の区別もまやかしだと主張することは「自らがこの概念や区別にすがらずにはいられなくなる場面が訪れるかもしれないことを想像できていないだけである」ということです。
 

* 中動態というミッシングリンク

 
ところで、このように意志が責任の効果であるとすれば、能動と受動の区別も何かの効果と言えるのではないでしょうか。では何がこの効果を発生させているのでしょうか。一見すると、先に述べた社会的必要性がこの問いに対する答えのように思えます。能動と受動の区別は責任を問うために社会が要請するものだったからです。しかし社会的必要性はこの区別をあくまで要請しているだけあって、それを効果として発生させているわけではありません。
 
つまり、社会的必要性は例えば「成年」と「未成年」の区別のような外的な規範でしかありませんが、能動と受動の区別は我々の思考の中でそれがまるで必然的な区別であるかのような内的な形式として作動しています。従って我々は能動でも受動でもない状態をそう容易には想像できません。
 
このような我々の思考の奥深くで作動する能動と受動の区別という効果を発生させているものは果たして何でしょうか。ここで本書は「能動 active」と「受動 passive」とは動詞の「態 voice」を示す文法用語であることに注目します。我々は英文法などを通じてこうした「態」について学びます。そこで教わる「態」は「能動態」と「受動態」の2つであり、その2つでしかありません。
 
しかしフランスの言語学者エミール・パンヴェニストによれば、実は能動態と受動態という区別はいかなる言語にも普遍的なものではないとされます。それどころか、このような区別を根底に置いているように思われるインド=ヨーロッパ語族の諸言語においてもこの区別は少しも本質的なものではなく、その歴史的発展においてかなり後世になって出現した新しい文法規則であることが分かっています。
 
さらにパンヴェニストによればかつては能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在しており、これが能動態と対立していたとされます。すなわち、もともと存在していたのは「能動態」と「受動態」の区別ではなく「能動態」と「中動態」の区別であったということです。
 
このような受動態でも能動態でもない「中動態」なる態が存在していたという事実からは次のような仮説を考えることができます。我々がほとんど自明のものであると思い込んでいる能動と受動の区別とは、能動態と受動態という文法上の、しかも全く普遍的ではない比較的新しく導入された区別が発生させている効果であり、能動と受動という粗雑な区別も、その導入時の矛盾の表れなのではないかということです。
 

* 中動態の思考

 
このようにかつてのインド=ヨーロッパ語族においては能動態でも受動態でもない「中動態」という態があまねく存在していたとされます。ここでいう「インド・ヨーロッパ語族」とは現在の英独仏露語などのもとになった諸言語のグループ(語族)のことを指しています。これに属する諸言語は古代(少なくとも8000年以上前)よりインドからヨーロッパにかけての広い範囲で用いられていたことが分かっています。
 
これらの諸言語が持つ動詞体系には長きにわたり能動態と受動態の対立は存在せず、その代わりに存在していたのが能動態と中動態の対立でした。受動態はずいぶん後にになってから中動態の派生形として発展したことが比較言語学によってすでに明らかになっています。
 
この意味で「中動態」という名称は不正確といえます。中動態という名称は中動態が表舞台から追いやられた後の能動態と受動態の対立のもとで作られたものであり、その意味するところは能動でも受動でもない「中間的なもの」ではありません。
 
この点、本書はパンヴェニストの議論を参照し、能動態と中動態の対立とは文の主語が動詞によって示される過程の「外」にあるか「内」にあるかの区別に基づくものであるといいます。すなわち、能動態とは動詞の示す過程が主語の「外」で完遂する事態を示しており、中動態とはその過程の「内」に主語が位置付けられる事態を示しているということです。
 
そして、このような意味における能動態においては現在のように「意志」の観念は前景化していません。これは能動態と中動態を対立させる言語は能動態と受動態を対立させる現在の言語とは異なった思考の条件を形成していたことを示唆しています。例えば能動態と中動態の対立が能動態と受動態の対立に置き換えられていく端境期に位置付けられる古代ギリシアの哲学者アリストテレスの哲学には意志の概念が欠如しています。
 

* 意志の不可能性

 
ところでハンナ・アーレントはその遺作となった『精神の生活』(1978)においてこのようなアリストテレスの哲学における意志概念の欠如に注目し、アリストテレスが提示したプロアイレシスと意志の相違を論じています。
 
ここでアリストテレスのいうプロアイレシスとは理性と欲望の相互作用のもとで生じる何ごとかを「選択する」能力をいいます。こうした意味でプロアイレシスとは過去からの帰結であるといえます。
 
これに対してアーレントは意志とはプロアイレシスのように過去からの帰結ではあってはならず、過去から切断された真正の時制としての未来への「絶対的な始まり」を司る能力であるといいます。
 
アーレントの述べる定義は意志の概念を責任に結びつける意志の日常的用法を哲学的に洗練されたものであるといえるでしょう。人は何らかの行為を自らの意志で開始したからこそ、その人はその行為の責任を問われるということです。
 
このようにアーレントは意志を「開始する能力」として定義することによって、意志と選択を峻別しました。けれども意志が仮にもしそのようなものであるとすれば、それはとても存在するとは思えない不可能なものである言わざるを得ないでしょう。
 

* 中動態の世界としてのスピノザ哲学

 
先述のように行為における意志の役割は脳神経科学の知見からも強い疑いの目が向けられています。もっとも意志を行為の原動力とみなす考え方が否定されたのは今に始まったことではありません。哲学の世界において、意志なるものの格下げを最も強く押し進めたのは17世紀のオランダの哲学者、スピノザです。
 
スピノザは「自由な意志」という概念を退け、意志は「自由な原因」ではなく「強制された原因」であるとします。スピノザによればいかなる物事にもそれに対して作用してくる原因があることから、意志についてもそれを決定し何ごとかを志向するよう強制する原因があるとされます。にもかかわらず「行為は意志を原因とする」と思ってしまうのは、我々の精神が物事の結果のみを受け取るようにできており、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまうからであるといいます。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまうのです。
 
そしてスピノザの哲学には中動態の世界に通じる概念が明確に存在します。その概念とは「内在原因 causa immanens」と呼ばれるものです。スピノザは主著『エチカ』において神と万物の関係をこの「内在原因」によって定義します。ここでスピノザのいう「神」とはキリスト教的な人格神ではなく、むしろこの宇宙あるいは自然そのものを指しています。
 
そうした「神即自然」という唯一の実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在します。すなわち、万物とは畢竟、神の一部であり、しかもその作用はどこまでも神の内に留まっており、神の外部はいかなる意味でも存在せず、それゆえに神は万物の内在原因なのであるということです。つまり、スピノザが描く世界とは世界のすべてが神即自然のなかで完結する中動態の世界であるといえます。
 

* 自由意志なき自由を生きる

 
もちろん神即自然そのものは中動態的であっても、その「変状」としての個物同士については、作用するものと作用を受けるものという能動/受動の区別は残り続けます。しかし、全ての個物の「内在原因」は神即自然である以上、ここでいう能動/受動とはその「変状」の質として捉えられます。すなわち個物の変状がその本質を十分に表現しているとき、その個物は能動であり、逆に個物の本質が外部からの刺激によって圧倒され、そこに起こる変状が個物の本質をほとんど表現できていないとき、その個物は受動であるということです。
 
すなわち、ここでの能動/受動とは「十分」とか「ほとんど」というような「度合い」のことを指しています。そうであれば、ある個物がどれだけ能動に見えても完全な能動はありえず、またある個物がどれだけ受動に見えても完全な受動はあり得ません。そしてこうした意味での能動/受動の相違はスピノザの哲学における「自由」と「強制」の相違に他ならなりません。
 
スピノザは自由意志を否定しました。しかしそれは自由を追い求めることとまったく矛盾しません。むしろありもしない自由意志なるものへの信仰こそが、我々が自らの本質を十分に認識すること、すなわち自由になることを妨げるものであるといえます。このようにスピノザの哲学とは自由意志を否定することで自由を志向する哲学です。換言すれば中動態の世界を生きるとは自由意志なき自由を生きるということです。
 
もとより、あらゆる事態や行為を能動と受動に切り分ける思考は社会を維持するため不可欠です。しかしその一方で、こうした能動と受動の二分法とは絶対的な真実ではなく、あくまで一つの思考法に過ぎないことも確かです。
 
こうした思考法とは別のしかたで世界を捉える思考法があることを中動態の世界は教えてくれます。そして、このような複数の思考法をゆるやかに往還することで日々生起するさまざまな事象のなかに、これまで見えてこなかったものが見えてくることもあるではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これから最果タヒに入門するためのおすすめ5冊

* きみの言い訳は最高の芸術(2016年)

⑴「過剰な何か」を刺し止める言葉
 
2007年に公刊された第一詩集『グッドモーニング』で第13回中原中也賞を受賞し、ゼロ年代の現代詩シーンに彗星の如く現れた最果タヒ氏はその後も現在に至るまで、詩作を軸としつつ小説、エッセイ、作詞といった多方面での活躍を続けており、いまや凋落気味とされる現代詩というジャンルにおいて例外的に破格のポピュラリティを獲得している詩人であるといえます。
 
最果作品の特徴をあえて端的に言い表すのであれば、一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めようとするその特異的な文体にあるといえるでしょう。例えば「虚構という『系』から『きみ』を救い出すこと」(早稲田文学2015年夏号所収)において栗原裕一郎氏が指摘するように「歌詞のようにポップだが、文が意味を結びそうになる手前で理解から逃れていく」という最果作品の核心には、おそらく「もやもやしたものをもやもやしたまま差し出す、いわば未然の感情を未然の状態のまま届けるべく言葉を並べようと」する詩想があるように思えます。 
 
ここで栗原氏のいう「未然の感情」とは、言葉にしてしまった瞬間に「死んでしまう」ような極めて微細な感情のことです。この点、2014年に公刊された第三詩集『死んでしまう系のぼくらに』のあとがきで最果氏はこう述べています。
 
「意味の為だけに存在する言葉は、時々暴力的に私達を意味付けする。その人だけのもやもやとした感情に、名前をつけること、それは、他人が決めてきた枠に無理やり自分の感情をおしこめることで、その人だけのとげとげとした部分は切り落とされ、皆が知っている「孤独」だとか「好き」だとかそういう簡単な気持ちに言い変えられる。」
 
(『死んでしまう系のぼくらに』より)

 

すなわち、この詩集の表題にある「死んでしまう系」とは「その人だけのもやもやとした感情=未然の感情」に「名前をつけること」で「死んでしまう」という「系=システム」のことを指しているのだと思われます。すなわち、最果氏の紡ぐテクストはこうした「系=システム」の以前に存在する言葉にできないはずの「未然の感情」をまさにその当の言葉によって掬い=救い出していく軌跡であるともいえるでしょう。
 
本書『きみの言い訳は最高の芸術』は最果氏が自身のブログに長年書き綴ってきた文章を中心にまとめたエッセイ集です。氏にとってのブログとは「呼吸」のような感覚に近いそうで「わたしが言葉を書くというより、言葉がわたしに書かせていると思うこともよくあった」と言います。
 
それゆえ、そのテクストは「思いもよらないことを書いていたり、あとで読んでもどうしてそんなことを書いたのかわからないものもある。私の中身がそこにあるというよりは、私が通過した痕跡がさざなみにように残るだけ」のものだったそうです。
 
こうした意味で本書を構成するテクストもまた、詩にかなり近い感覚で書かれているといえるでしょう。そして同時に本書では最果氏の創作に対する考え方が随所で語られており、これから最果作品に触れる上で良き手引き書ともなるように思えます。
 
⑵ 非意味的なコミュニケーションとしての詩
 
「言葉は簡単に、すべてを簡略化して、まったく違うものにしてしまう。クラスメイトと毎日昼食を食べて、音楽の話をするようになった、それだけでよかったのに、その関係性に「親友」と名付けてしまう。それだけで、きっとなにかが失われていた。自分だけの感情や関係を、他人に伝えるため、共有するため、たった一つの不思議な形をしていたそれらを、既存の概念に押し込んで、余計なものを削り落とした。そうでもしないと他人に伝えられないから。伝えられなかったら、「意味不明な子」って切り捨てられちゃうから。そう必死になっていた。けれど、実際のところ切り捨てられたそれらは本当に「余計なもの」だったのか?懸命に他人にわかってもらおうとしている一方で、自分の存在を否定し続けていた。そして、そうやって捨ててきたものを、人は永遠に思い出せない。」
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)

 

 
人は言葉を使って他者とコミュニケーションを行います。そして一般的にコミュニケーションとは発された言葉の意味を他者に理解されることを目的とします。そしてこうした「意味のあるコミュニケーション」において他者に理解できない言葉は文字通りの「意味不明な子」としてコミュニケーションの場から排除されることになります。
 
こうした中、最果氏は他者に理解されることのない「意味不明な子」を詩というかたちで掬い=救い出そうとします。すなわち、詩とは「意味のあるコミュニケーション」とは別のしかたでのコミュニケーション、いわば「非意味的なコミュニケーション」に開かれた表現であるといえるでしょう。ここでいう「非意味」とは「無意味」とは少し異なるものです。「無意味」は「意味がなくなる次元」をいいますが「非意味」とは「意味ではない次元」をいいます。
 
そして、このような「非意味的なコミュニケーション」としての詩は「意味のあるコミュニケーション」とは別様の可能性をもたらします。例えば千葉雅也氏は『勉強の哲学』(2017)において「勉強」の本質とは人が「自由」になるための「自己破壊」であるといい、こうした「自由」を得るための鍵として「言語」に注目し、特定の「環境のコード」から切り離された「ただの音」としての言語を同書は「器官なき言語」と呼び、言語を「道具的」にではなく「玩具的」に使用することで、自分を言語的に組み替えていくプロセスこそがが勉強における「自己破壊」であるといいます。
また千葉氏は『センスの哲学』(2024年)において「センス」をひとまず「直感的にわかる=直感的で総合的な判断力」として定義した上で、対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった「リズム」を即物的に捉えることを「センスの目覚め」であるといいます。
 
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると同書はいいます。
非意味的なコミュニケーションとしての詩はまさに言語の「玩具的」な使用であり、「意味」の手前で展開する「リズム」によって駆動しています。こうした意味で優れた現代詩に触れることは、読み手の「自己破壊」と「センスの目覚め」の契機であるといえるでしょう。
  
⑶ 玩具的なリズムと訂正可能性
 
もちろん詩の可能性はそれだけではありません。非意味的なコミュニケーションとしての詩はここからさらに、意味のあるコミュニケーションを揺り動かす動因ともなります。
 
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。このようなコミュニケーションの中でルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象を東浩紀氏は『訂正可能性の哲学』(2023年)においてルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキ言語哲学を参照し「訂正可能性」として理論化しています。

 

訂正可能性の哲学

訂正可能性の哲学

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まず、ウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。すなわち、人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしていますが、そこでは実は複数のゲームが重なり合っており、例えば「愛のゲーム」と「ハラスメントのゲーム」が紙一重のように、人は自分がいまどのようなルールのゲームをプレイしているかを原理的に知ることができないということです。これがウィトゲンシュタインが考える「言語ゲーム」であり、彼はこのような複数の言語ゲームの重なり合いを「家族的類似性」と呼びました。
 
そして、クリプキはこのようなウィトゲンシュタインの発見を『ウィトゲンシュタインパラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。同書においてクリプキは「クワス算」という「68+57」の解が「5」になる奇妙な演算を主張する懐疑論者を登場させ、この主張への論理的な反駁は不可能であり、クワス算が間違いであると見做すためには懐疑論者の主張を「訂正」する共同体が必要となるといいます。
  
もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずです。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に更新される「訂正可能性」を孕んだものとなります。そして、このようにあらゆるルールが「訂正可能性」を孕んでいるにも関わらず、皆が複数のゲームを「同じもの」としてプレイしているという逆説にはウィトゲンシュタインの提示した「家族的類似性」というイメージがぴたりと重なり合います。
 
こうしてみると、非意味的なコミュニケーションとしての詩とはまさに意味のあるコミュニケーションにとってのクワス算のようなものではないでしょうか。ある詩によって紡がれる玩具的なリズムはコミュニケーションの共同体における訂正可能性の契機となります。換言すれば一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めていく詩という営みは、一般的でありきたりな言葉のボキャブラリーを豊穣なものにしていく契機であるともいえるでしょう。そして本書で語られる言葉の端々からは、こうした詩の持つ可能性に対する信頼を感じ取ることができるように思えます。
 
「私は詩人です。小説や新聞の言葉が、物語や情報を伝えるために書かれるのに対し、詩にはそうした目的がない。そして、だからこそ私は、言葉によって切り捨てられたものを、詩の言葉でならすくいだせると信じている。詩の言葉は理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。私はそういう言葉がかわいくて仕方がなかった。」
 
「わたしという人間がどういう人間か問われたら、やっぱり、つまらない人間ですと思う。でも言葉がわたしの思ったくだらないことを拾いあげるとき、もはや誰の気持ちかもわからない言葉、世界のかけらとか、急な海の匂いとか、そういうものが絡まった糸のようについてきて、もう、わたしはわたしでいられなかった。そしてだからわたしは、やっと自分の人生がおもしろいと思えたんだ。」
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)

 

 

* コンプレックス・プリズム(2020年)

⑴ 感情に色づけられたコンプレックス
 
「劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか?劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てた方がありのままだったかもしれない。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、今、ここに、書いていきたい。」
 
(『コンプレックス・プリズム』より)

 

人は常に自分の自由意志に基づいて理性的に自律的に主体的に動いている--と思っていたりするわけです。しかし常にそうであるとは限りません。ある種のメンタルヘルスの疾病のように自分の意志とは異なる行動が生じてくるため悩んでいる人も多いでしょう。また「正常」な人でもその日常において自身の理性、自律性、主体性がどこかしら脅かされると感じられる現象にしばし遭遇します。
 
例えば前からよく知っている人なのにその人の前に行くと突然その名前をど忘れてしてしまったり、大事なところで妙な言い間違いをしてしまったり、また「なぜかわからないけどイライラする」とか「あいつはどうも虫が好かない」などと意味不明に感情を乱されてしまったりもします。  
 
この点、スイスの精神科医カール・グスタフユングは言語連想検査を通じて意識を統合する自我を脅かす何らかの感情に色付けられた無意識の心的作用を発見し、これを「コンプレックス(心的複合体)」と呼びました。こうしたコンプレックスが自我を完全に乗っ取ってしまう劇的な表れとして同一個人に異なった二つの人格が現れる二重人格や自分が複数存在として体験される二重身(分身体験)があります。
 
そして自我はその安定を図るためコンプレックスに対して様々な自我防衛の機制を用います。その代表格がコンプレックスを完全に抑え込んでしまう「抑圧」です。しかし、コンプレックスというのはなかなか簡単には抑圧できないので自我は次善の策として他の自我防衛の機制を発動させます。それは例えば、コンプレックスを他人に転嫁する「投影」であったり、コンプレックスとは全く逆の行為に走る「反動形成」であったり、コンプレックスとは似て非なる対象を選択する「代償」であったり、コンプレックスを取り込んでしまう「同一化」であったります。
 
本書『コンプレックス・プリズム』はこのような複雑で厄介な存在であるコンプレックスにさまざまな角度から光を当てていくエッセイ集です。先述のように最果作品の特徴とは一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めようとする特異的な文体にありますが、こうした「過剰な何か」の最たるものこそがまさにコンプレックスと呼ばれるものです。そうであれば本書はまさに書かれるべくして書かれた一冊といえるかもしれません。
 
⑵ 自我とコンプレックスのあいだ
 
本書の冒頭に置かれた「天才だと思っていた」というエッセイは「13歳。一体なんの天才なのかわからないけど、でも自分は確実に、何かの天才なのだと思っていた」という一文から始まり、なぜ「天才」だと思い込まないといけなかったのかというとそれは「どうしても必要な『言い訳』だったと今は思う」と述べられます。すなわち、ここには「天才」という言葉に結びついたコンプレックスがあるわけです。
 
「何を作ってみても、それが世界を変えるすばらしい出来、と盲目的に信じることはできなくて、ただただたくさんの傑作がある世界の中で、私は一人もぞもぞと何をしているんだろうなあ、と思った。それでも作るのをやめない、残そうとするのをやめない、そのために私は言い訳をしていかなくてはいけなくて、そこに必要な言葉が私にとっては「天才」だった。自信でもないし、傲慢でもなかった。自信過剰で恥ずかしいなんて、コンプレックスに思っていた当時の私に、違うよ、と言いたい。そんな強い言葉でしかもうはげますことができないぐらい、私は特別というものを失いかけて、崖の上にいる気がしていた、はやく、何者かにならなくちゃと雲の向こうを見つめていた。」
 
(『コンプレックス・プリズム』より)

 

ここでは「天才」という言葉の裏側に子どもの頃に持っていた「特別」を「大人」になることで失いかけていた13歳の焦燥を見出すことができるでしょう。すなわち、ここで「天才」という言葉は「特別」を喪失することに対する代償として機能しているわけです。
 
またその次の「わたしのセンスを試さないでください。」というエッセイでは他人の服のセンスを「ダサい」と断じる感覚への違和感が表明されています。
 
「ひとが、ダサいと平気で言うのは何なのだろう。本人はそれを選んできたのに、どうして他人がそれを否定できるのだろう。そりゃ、自分はそれを着ないなあ、とかあるのかもしれないけど、誰も着ろと言ってない。」
 
(『コンプレックス・プリズム』より)

 

ところがその後の「生きるには、若すぎる」というエッセイでは10代の頃から自身の抱える「ダサい」という感覚について述べられています。
 
「若いからなんだというのだろう、若さが終わったところで、わたしはなんにも真実を見つけ出していない。わたしにはまだ「ダサい」ぐらいの価値基準しかないだろう。そうして今はそれを、恥じているのかいないのか。変わったと言えばそこぐらいだ。わたしは恥じているのかいないのか。」
 
(『コンプレックス・プリズム』より)

 

こうして並べてみると前のエッセイで述べられている他人が断じる「ダサい」への違和感は後のエッセイで述べられている自身が抱え込む「ダサい」という基準に結びついたコンプレックスの投影であるともいえそうです。このように本書は時には表面的な矛盾を厭わずにコンプレックスと自我のあいだから生じる複雑な機制を丁寧に拾い出していきます。
 
⑶ 特異的なコンプレックス
 
「恋愛」というのも結局のところは一つのコンプレックスに帰着します。誰々さんが好きという感情とはその対象であるところの「誰々さんコンプレックス」であり、恋愛それ自体に対する憧憬や呪詛というのはまさしく「恋愛コンプレックス」です。この点、本書では「恋愛って気持ちわるわる症候群」というエッセイにおいて恋愛に対する屈折した距離感が述べられています。
 
「恋愛に関しての言葉はあまりにも多く、キャッチコピーも多数登場し、もはや商品を売りつけるには色恋を語ればOKとか思われてんじゃないの、なんて思う日もあります。実際、「あ、これは恋!」と思った暁にはちょっと高い化粧品もちょっと高い服も抵抗なく買ってしまうのだろうか。だとしら恋って商業的ですね、社会システムの潤滑油みたいな存在ですね。と、今でも斜に構えたようなことを書いてしまいそうになるけれど、恋はそれぐらい第三者からすると理不尽な、無根拠な、理解不能な存在であるため、だからこそ当人も自分を理性で説得できなくなるのだと思います。斜に構えてこその恋。ではないのか。などと、いうことが、当時わからなかったんですね。ただ本当に腹が立ち、信じられなくて気持ち悪かった。」
 
「恋愛はなんにも悪いことではなくて、しかしなんにもいいことでもなくて、神聖でもなくてロマンチックでもなくて、ただ二人の人間がこの人を大事にしようと決めただけの話であり、私が私の大事なぬいぐるみについて「これを大事に思っている」と説明したところで他人は「ふーん」ってなるんだから、愛もその程度の価値に落ち着いてほしいなと昔は思っていた。しかしそうなると、今度は愛に振り回されることが、美徳にもなんにもなくなるから、社会としては都合が悪いことであるのかもしれない。生きる上では仕方がないのかも。きもいのも過剰なのも絶対、否定はせんけど、必要悪みたいなもんなんですかねえ。そんな世界が一番きもい。」
 
(『コンプレックス・プリズム』より)

 

深層心理学の説くところによればコンプレックスは多層構造を成しており、あるコンプレックスの底には別のコンプレックスが潜んでいることもあるといわれます。そしてこのようなコンプレックスにおける多層構造の最深部にある根源的なコンプレックスとして、精神分析創始者であるジークムント・フロイトは両親に対する愛憎から生じる「エディプス・コンプレックス」を見出し、フロイトと決別して個人心理学を立ち上げたアルフレッド・アドラーは生来の劣等感に由来する「劣等コンプレックス」を見出しました。
 
ところが、ここで述べられている社会システム的な恋愛観に基づく「きもい」という感覚は、どうにもフロイトのいうエディプス・コンプレックスや、アドラーのいう劣等コンプレックスからは説明が難しい非定型的なコンプレックスのざわめきを示しているようにも思えます。
 
この点、ユングエディプス・コンプレックスと劣等コンプレックスの相違は結局のところは外向的なフロイトと内向的なアドラーという両者の根本的な態度の相違に帰着するものであったとして、コンプレックスは確かに多層構造を有しているけれども、その中のどれか一つのコンプレックスだけを特権化して根源的なコンプレックスとして位置付けることはできないと主張しました。
 
そうであれば本書のいう「きもい」という感覚もまたエディプス・コンプレックスや劣等コンプレックスには回収されない特異的なコンプレックスによって支えられているのかもしれません。そしてこれはいわゆる「ポスト・神経症の時代」と呼ばれる今日的な感覚とも合致しているように思えます。
 
以上、ここまで見てきたように本書は様々なコンプレックスを深く繊細に、そして時に色どり豊かな筆致で記述していきます。人は日常の様々な場面で自身の抱えるコンプレックスに遭遇します。コンプレックスとは一見すると自我にとって何とも厄介な存在であるといえますが、その一方でコンプレックスは自我の一面性を補償するものとして大きな役割を担うことがあります。ユングはこのような「心の相補性」に注目してコンプレックスの中に自我をより高みへと導く「個性化/自己実現」の過程を見出しています。
 
いわばコンプレックスにはこれまで生きてこれなかった半面としての可能性の在り処が示されているといえます。そして自身の抱えるコンプレックスに向き合う上で文学の言葉は大きな助けとなるはずです。こうした意味で本書は最果作品への入門書となり得る一冊であると同時に、自身が抱えるコンプレックスへと入門するための一冊ともなるでしょう。
 

* 十代に共感する奴はみんな嘘つき(2017年)

⑴ 差異と同一性
 
ところで最果作品が刺し止めようとする「過剰な何か」とは先に述べたように心理学的には「コンプレックス」の問題として現れることがありますが、哲学的には「差異」の問題として問い直す事ができるでしょう。通常、人は「同一性(おなじもの)」を基準としてそこから逸脱したものを「差異(ちがうもの)」として位置付けます。このような意味で人の経験は「同一性」なくしては成り立ちません。
 
しかし実際の経験の流れの中に身を浸してみると、事物の組成にせよ言葉の意味にせよ、世の中のあらゆる事象は常に同一ではなく変転してやまないことに気付かされることになります。すなわち「同一性」とはこのような事象の変転をある時点で便宜上切り出した断面であり、それはある種の理念でありフィクションに過ぎないものです。
 
少なくともポスト構造主義以降の哲学はこのような観点から同一性を捉え直しています。例えば「差異」の持つ固有性を追求した思想家として知られるジル・ドゥルーズは主著の一つである『差異と反復』(1968)において〈私〉という自我を自明の前提とせず「差異」が「反復」することで自我が立ち上がるプロセスを「現在」「過去」「未来」という三つの位相からなる「時間」として論じています。
 
すなわち、ドゥルーズによれば〈私〉という「同一性」は「差異」が「反復」する効果として生じることになるわけですが、この単なる効果に過ぎない〈私〉という「同一性」が一旦成立するやいなや、直ちにそれがあたかも「差異」に先行する自明の前提であるかの如き転倒が生じることになります。
 
「同一性」の手前には微細な「差異」の蠢く世界があるということ。およそ世界の中で何一つ同じものとしてとどまるものはないということ。こうした観点から「同一性」と「差異」の二項対立は「差異そのもの(あるいは差異そのものを内在する仮固定的な同一性)」へと脱構築されることになります。では言葉はこうした「差異そのもの」を捉えることができるのでしょうか。
 
こうした意味で「過剰な何か」を刺し止めようとする試みとは、換言すれば、それは「互いに理解できる形」としての言葉が持つ「同一性」の手前にある「人によってちょっとずつ違うもの」「ささいなこと、あいまいなこと」としての「差異」の蠢く世界を、やはり言葉によって掬い=救いだそうとする試みであるともいえます。こうした意味で本作『十代に共感する奴はみんな嘘つき』は最果作品の核心部をなす「同一性」と「差異」のせめぎ合いを思春期のこころの揺らぎに託して真正面から描き出した小説であるといえるでしょう。
 
⑵ 十代という季節
 
「感情はサブカル。現象はエンタメ。
つまり、愛はサブカルで、セックスはエンタメ。
私は生きているけれど、女子高生であることのほうが意味があって、自殺したどっかの同い年がニュースで流れて、ちょっと羨ましい。パスタが食べたいけどお金がないから、家でミートソースばかり作ってもらって食べている。バターを節約したパスタはちょっとだまになって食べづらい。」
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)
 

 

本作の主人公である高校生、唐坂和葉(カズハ)は常に周囲の環境に違和感を持ち、他者や世界に対して過剰な反発心を抱いています。カズハは他者との関わりの根拠を「愛」を範例とする「感情」と「セックス」に象徴される「現象」という二項対立に還元した上で「感情」をもとに行われるコミュニケーションを極度に唾棄する思考の持ち主であり、なかでも「共感」は彼女の中でどこまでも否定すべきものとみなされています。
 
「誰がこのまえ好きな先輩に告白したとか、誰がこのまえテストでカンニングして見つかったらしいとか、そういう話をだらだら聞いて、私はひとり電車が過ぎ去っていくのを見ていた。乗らないの、とかきいてはいけない。このホームでベンチに座って団子食べて語り合うのが青春であって、かけがえのない時の流れなんだから。鴨川のそばにすわって臭くはないかもしれないけど水の匂いを嗅ぐカップルを馬鹿にはできない。」
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)

 

カズハは同級生男子への告白をめぐるいざこざがきっかけでクラスの女子達からハブられてしまいますが、その一方でカズハから告白された(そして次の瞬間に振られた)当事者の「沢くん」は逆にカズハの独特のキャラに興味を持ち、何かと絡んでくるようになり、ここにカズハのクラスで孤立している「初岡」という女子が巻き込まれます。こうして本作はカズハ、沢くん、初岡という三者間が織りなすまったく噛み合わないコミュニケーションの様相を繊細かつ鋭い筆致で紡ぎ出していきます。
 
そんな折、京都の大学に7年間在籍しているカズハの兄が唐突に恋人と、さらに彼女の浮気相手である兄の親友を連れて帰ってきます。カズハの沢くんへの意味不明な告白の裏には兄に対して抱く複雑な感情があったようです。果たして兄の恋人(カズハいわく「ビッチ」)の浮気は自殺しそうな兄の親友を救うためという事情があり、彼女と結婚するという兄の言葉にカズハは激しく動揺します。
 
⑶ 感情と共感
 
「ビッチのやることは理解ができた。親友を救うために、愛を用いようとしなかった彼女を信頼できるとすら思った。私は愛なんて、セックスなんてわかんないけどそう思ったのだ。セックスでなんとかしようとしたならそれは、愛よりも筋の通った手段。感情ではなく現象だから。未来からも永遠に観測できる存在だから。愛は、消える、見えなくなる。あったのかすら、きっとおぼろげになってしまう、たぶん。それなのに結婚とかいう愛でビッチとの関係をつなぎ止めようとするお兄ちゃん。「愛じゃない、結婚だよ」とか言って「それに性行為はただの現象じゃないよ。そこには快楽がつきまとうだろ」とか言って。私の考えていることはわかるくせに「結婚」にはかたくなだから、私が見えていないものもふくめて全部、兄にだけ見えているのかもと思うとつらい。」
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)
 

 

なぜカズハはこうまで「感情」や「共感」を拒絶するのでしょうか。まず、そもそも「感情」とは言葉によって生み出されるものです。これに対して言葉以前に湧き上がる身体的、現実的な正体不明の感覚を「情動」といいます。このような「情動」は帰属主体が不明確であり、送り手と受け手が明瞭に分かれておらず、志向性を持っていません。つまり「情動」において伝播は直接的なものであるということです。
 
しかし、やがて人は言葉を習得する過程で自身の「情動」に名前をつけていくことになります。こうして「情動」の持つ強度は縮減され「嬉しい」とか「悲しい」といった言葉に分節された「感情」という同一性の中で処理されることになります。このような「感情」は帰属主体が明確であり、送り手と受け手が明瞭に分たれており、志向性を持っています。つまり「感情」において伝播は間接的なものとなるということです。
 
こうしたことから送り手と受け手の「感情」が同じであるという保証はどこにもないわけです。例えば送り手の「悲しい」という感情はそのまま受け手に伝わるわけではなく、受け手では、まず「彼女が悲しんでいる」という認知が生じ、ここから「いったい何があったのだろう」「やれ困ったな」「私がさっき言ったことがよくなかったのだろうか」「どうしてあげたらいいんだろう」といったさまざまな思考が派生し、その中から最適解と思われる応答を送り手に送り返すことになります。
 
こうしてみると送り手から発信された「感情」を受信した受け手が行う一連のプロトコル(約束事)としての「共感」とは「感情」に照準をあてる限りで、常にその「同一性」の手前にある「差異」を取り逃がしてしまう側面を持っているともいえます。すなわち、カズハの抱える感情や共感に対する苛立ちとは、畢竟「同一性」に対する「差異」の苛立ちであるともいえるでしょう。
 

* かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。(2015年)

⑴ 最果タヒとインターネット
 
最果氏は2005年から思潮社の『現代詩手帖』に投稿を始め、先述のように2007年に公刊した第一詩集『グッドモーニング』で中原中也賞を受賞していますが、それ以前の時期には「現代詩フォーラム」や「文学極道」といった投稿サイトで活動しており、また同時期には老舗日記サイトである「エンピツ」や「前略プロフィール」で知られる「CGIBOY」や「ヤプログ!」の前身となる「ヤプース!」といったWebサービスにも日記などを投稿していたようです。言うなれば現代詩人最果タヒゼロ年代初頭のインターネットから生み出されたといってもよさそうです。氏は次のように書いています。
 
「インターネットが小学生の頃からあって、多分中学に入って同時ぐらいに、不特定多数の人が見る場所で書くということを覚えたんです。で、それまではまあそんなに書いたりしていなかったのに、見ている人がいると思うとどんどん書けたし、楽しかったので、私にとって書くとは誰かに見られる前提で書く、というのとイコールなんです。」
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)
 

 

もっとも、最果氏のインターネットへの距離感は次のような発言を読むと、そう単純ではないというか、むしろある種の屈折を抱えているようにも思えます。
 
「でも実際に、こう、やろうと思った瞬間こそが楽しさ最高潮であって、実際にやってみたらたいして楽しくなかった、なんてことは結構ある。インターネットも私にとってはその類です。ネットの良さといえば、世界中と一瞬で繋がれるということ、世界って広い、と実感できるということかもしれないけれど、私が通常ネットで見ているものなんて自分のサイト関係だけだし、世界の広さなんて全く実感できていない。混んだ電車の中だとか、行列に並んでいる時間とか、そういう退屈な現実の中でスマホを握りしめて、私はいつだって別世界へ行けるんだ、と思っている時のほうがずっとネットの「広さ」を謳歌してる。ネット自体を愛しているというよりは、いつでもネットに触れられるというその余裕こそが大切なのかもしれない、なんてことを思います。」
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)

 

「インターネットが特別だとは思ったことはありません。インターネットがなかった世界が不自然だっただけ。人は、みんな人としてネットに写真や言葉を投稿しているのに、どうやっても閲覧者から現象としてしか捉えることができないでいる。本当に向こうに人間がいるのか、わからないし、どこかで信じてないと思ってしまう。現実世界でははっきりとした輪郭の中に、肉体として存在するわけだけれど、インターネットでは滲んでいく形しか姿を表せなくて、それが私にとってはむしろ自然なことに思えた。」
 
ユリイカ2017年6月号「特集=最果タヒ」より)

 

そして最果氏初の長編小説である本書『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』はこうした氏のインターネットに対する屈折した距離感をそのまま物語にした作品としても読めるでしょう。
 
⑵ インターネットの魔法と正義
 
魔法少女の攻略本(税抜価格・四百十九円)によると、フィクション・ノンフィクション問わず、魔法少女はロマンティックなものから力を借りて変身をするらしい。たとえば月や星、空や海といったそんなものによって、魔法という不思議現象は発生しているんだよ☆ なーんてことがそこには書かれていて、だからインターネットの力で魔法少女が変身できるのもナットクだね☆ と説明文は続いていた。」
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)

 

本作のあらすじはこうです。インターネットが高度に進化した世界を舞台する本作の主人公、あかり(織田日明)はインターネットの力で変身する魔法少女です。ちょっと遅刻が多いだけのごく普通の女子高生だった彼女は「ネット学習」という必須科目の出席不足を理由に国家公務員のおじさんから魔法少女業務を半ば無理やり押し付けられ、嫌々ながら日々インターネットの悪意によって生まれる魔物を退治してまわっていました。
 
そんな特別だけれども平凡なあかりの前に安楽さん(安楽栞)という安楽椅子探偵を名乗るアンドロイドが現れます。安楽さんはあかりの学校の風紀委員長からの依頼を受けて風紀違反の捜査に従事していました。そしてあかりはインターネットが不得手な安楽さんに懇願されて彼女の仕事を手伝う羽目になり、やがてインターネットをめぐる巨大な政治的陰謀に巻き込まれてしまいます。
 
「ネットは便利。ネットは便利、ネットは便利だ、ほとんど使えない私だってそれは断言できる。インターネット最高だねって言える。検索したらどんな情報でも出てくるよ、ニュースは早いし、好きな歌手の公式サイトも見られるよ、ネットは便利だ、すばらしいんだ。すてきなネットの力を借りて変身して、悪用しようとするバカをぶっつぶせるなら、それは私の自尊心が満たされて空も飛べそう。」
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)

 

インターネットの力によって魔法少女に変身するあかりはまさにインターネットから生まれた現代詩人最果タヒの分身ともいえそうです。もっともあかり自身はインターネットそれ自体に対してさしたる思い入れはなく、ネットをしないという安楽さんにインターネットは便利で素晴らしいから使ってみなよなどと激しく力説するのも、それは彼女がインターネットの素晴らしさを心から信じているからとかではなく、インターネットの素晴らしさを否定されてしまうと魔法少女の自分が「正義の味方」を名乗る根拠がなくなって単純に困るからです。
 
そして本作ではインターネットに対する両極端な「正義」を担う人物として、あかりを魔法少女にした国家公務員のおじさんこと文化庁のエージェントである榊とあかりの通う高校の生徒会長にして天才科学者である一時子がそれぞれ配置されています。
 
この点、インターネットを極端な形で否定する榊は以前から急速に成長を始めた「0」と呼ばれるインターネット上の集合人格知がやがて全人類を支配する未来を危惧しており、人類を守るため集合知「0」の暴走を止めるための「特効薬」となる対抗プログラムをどうにか見つけ出そうと暗躍しています。
 
これに対して、インターネットを極端な形で肯定する時子は集合知「0」の製作者でもあり、インターネットがさらに成長することで個人の境界線が曖昧になって皆が『みんな』として存在する世界に至る人類補完計画のようなものを密かに夢想しています。
 
こうした中であかりの導き手となる安楽さんのスタンスは極めてフラットです。彼女はインターネットそれ自体を悪いものともすばらしいものとも思っておらず、悪い結果が起きるのも良い結果が起きるのも包丁と一緒でインターネットを使う人間次第であると考えており、インターネットの進化を止めるのではなく共存する方法を探そうといいます。
 
⑶ みんなで世界を変えていけるということ
 
物語後半、榊から集合知「0」を倒すために魔法少女として協力を迫られたあかりはもはや何が「正義」なのかわからなくなり、この状況でいま自分はどうするべきなのかを自問自答して迷った末、安楽さんの言葉に背中を押される形で、魔法少女でも正義の味方でもない、ちょっと遅刻の多いだけのごく普通の女子高生として、インターネットの可能性を信じる「選択」ではなく、インターネットの可能性を信じる「人」を信じようとします。
 
「私がふるおうとしているものは、正義なんかじゃなくて身勝手な暴力なのかもしれないね。きっとそうに違いない。でも、その可能性を、その責任を、その汚さを、背負うことが力をふるうってことだと思うよ。それでもいいからふるいたい暴力を私は振るう。私は凡人だから、身勝手にしか、自分のためにしか力を使えないよ。
 
ごめん、インターネット。」
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)

 

そしてあかりは「あなたは何も知らない。私は何もかも知っている。正しく判断できるのは誰でしょうか」と問い糺す榊に対して次のように答えます。
 
「でも、世界は、インターネットは、おじさんのものじゃないです。」
 
(中略)
 
「正しい人とか、なにもかも分かっている人とかそういう人たちのものでもないです。正しかったら、頭がよかったら、世界を変えていいってわけじゃない。世界はみんなのものだから、みんなが変えていけばいい。それで間違ったことをしちゃった人がいたとしても。だから、おじさんの考え方なんて、関係ない。私は私が選択したい方法を選択します」
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)

 

もっとも、ここであかりは自身の正義を肯定しつつも自身とは別の正義を決して否定せず、この世界を一切の泡立ちのない透明で安定したものとしてではなく、サイダーのように様々な他者性の泡立ちがざわめくような脱構築的な発想で捉えています。
 
こうしてみると本作は「大きな物語」の語る「正義」に安住していた主体が「大きな物語」の不在に戸惑い、様々な「小さな物語」としての「正義」が乱立する中で自身の「正義」を「暴力」として引き受け直していくというゼロ年代的な正義論から出発しつつも、その「正義」の中に決断主義的に立て篭もり世界を友と敵の二項対立で切り分けることなく、そこからさらに世界中で泡立つ様々な未熟で迂闊な名もなき「正義」を包摂していくという2010年代的な正義論へ向かっているといえるでしょう。
 
「私たちはきちんとここにいて、だからここを変えていける。友達との関係を変えられる。学校の雰囲気を変えられる。地元の環境を変えられる。国を、世界だって、変えられる。微力と無力は大違いだよ。当事者でない人たちが、どこにもいないなら、無力な人だってどこにもいないのだ。」
 
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)
 

 

みんなで世界を変えていけるということ。ここには分かり合えなさを分かり合うことで他者(性)と手をつなぐというすぐれて脱構築的な倫理を見ることができるでしょう。いわば本作は「かわいいだけじゃない私たちの」中にある「過剰な何か」として表出する「かわいいだけの平凡」な「正義」を愛でる物語であったといえるでしょう。
 

* 夜空はいつでも最高密度の青色だ(2016年)

⑴ 詩と映画が交差するとき
 
2016年に公刊された第四詩集である本書『夜空はいつでも最高密度の青色だ』には、翌年に公開された石井裕也監督・脚本による本書をモチーフとした同名の映画が存在します。初期最果作品の到達点である本書の詩想に触れる上でこの映画がひとつの導きの糸となるでしょう。
 
映画の舞台は渋谷と新宿であり、主人公は二人の若い男女です。美香(石橋静河)は看護師として病院に勤務しながら、経済的に厳しい実家に仕送りをするため夜はガールズバーのアルバイトをしています。そして、慎二(池松壮亮)は工事現場の日雇い労働者として働き、木造アパートでギリギリの生活をしています。
 
ある日、看護師の同僚と合コンに行った美香は席を外した際、一人客で来店していた慎二とすれ違いざまに目が合います。その後、慎二は工事現場の同僚の智之(松田龍平)らと成り行きでガールズバーに行くことになり、たまたまその店で働いていた美香と遭遇します。その帰り道、人身事故で終電を無くして深夜の渋谷を歩いていた慎二は、仕事が終わり帰宅する途中の美香に声を掛けられます。
 
「なんでこんなに何回も会うんだろうね。東京には1000万人も人がいるのに、どうでもいい奇跡だね」
 
(映画『夜空はいつでも最高密度の青空だ』より)

 

その後、現場で脳卒中を起こして亡くなった智之の葬儀で慎二と美香は再会し、さらに後日、現場で怪我をした慎二が病院に行くと看護師として働く美香と出くわすことになります。
 
「また会えないか」と言う慎二に美香は「まあ、メールアドレスだけなら教えてもいいけど」と答え、2人はぎこちない交流を始めます。
 
⑵ 非意味的なコミュニケーションがもたらすもの
 
慎二は左目が見えておらず社会に適応できない不安を抱いています。そして場の空気がうまく読めず突然、脈絡のないことをとめどなく喋り始めてしまう癖を持っており、周囲から顰蹙を買うこともしばしばです。一方で、美香は幼少時に母を亡くし、死に対する不安を感じながら育ち、今は患者の死を当たり前のように受け入れなければならない日々を過ごしています。
 
この映画の大きな特徴の一つには、このような非意味的なコミュニケーションがあります。慎二が喋らないと美香は不安になり、代わりに自分が脈絡のない事をとめどなく喋り始めたりもします。慎二も美香も不安に駆られて非意味的に言葉を発し、時にはお互いの発する非意味な言葉同士が衝突したりもします。けれども、このような衝突からやがて2人の間に「分かり合えなさを分かりあう」という逆説的なコミュニケーションがもたらされることになります。
 
こうした本作が描く非意味的なコミュニケーションのあり方には、おそらく最果氏の紡ぐ詩と共通するアプローチを見出すことができるでしょう。ここで思い起こされるのは最果氏の次のような言葉です。
 
「詩を書くようになって、もっと曖昧なものを作るようになって、何言ってんのかわかんないって言われることも時々あったけれど、私はたぶんすべての人に対して何言っているかわかんないって思っている。むしろ何言っているのか分かったら気持ち悪いな、吐いちゃうな、ときっとどこかで考えている。分かってもらえないことや、わかってあげられないことが、ちゃんと心地よいままでいたい。わかんない部分があるからあなたと私は他人なんです。そういう態度でいたかった。」
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)

 

⑶ 突き抜けていくエクリチュール
 
そして、このような非意味性はこの映画のモチーフとなっている本書の冒頭に置かれた「青色の詩」にも極めて印象的な形で現れてます。この詩が概ね意味するところはフランスの精神分析ジャック・ラカンによる名高いテーゼ「性関係の不在」から「ひとまずは」読み解くことができるでしょう。
 
ラカンによれば人は言語の主体となることで言語によって捉えることのできない「過剰な何か」を喪失します(「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。」「塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。」)。
 
そしてその「過剰な何か」をラカンは「欲動」が満足した状態としての「享楽」といいます。けれども人は言語の主体である以上、決して「享楽」の境域に到達することはあり得ず、その周囲をひたすら空回りすることになります。この「享楽の不可能性」をめぐり空回りするだけの果てしない徒労こそが一般的に「人生」と呼ばれるものです(「きみがかわいそうだと思っている君自身を、誰も愛さない間、」「君はきっと世界を嫌いでいい。」)。
 
そしてこのような「享楽の不可能性」を男女関係で言い表せば「性関係の不在」ということになるわけです(「そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。」)。
 
ここには極めて逆説的なメッセージを読み取ることができるでしょう。人はどう足掻いたって「享楽」に辿り着けない、だから君が世界を嫌っていても全然おかしくない、性関係などどこにもない、恋愛なんて所詮はまやかしだ、世界はそもそもそういう風にできているんだから・・・そして、これは「愛」をどこか嘘くさいものと思っている美香の諦念とも重なり合います。
 
けれども同時に、この詩には以上のような「意味」に還元できない「非意味」があります。ここで鍵となる言葉がまさにこの詩の中心にやや唐突に置かれた「夜空はいつでも最高密度の青色だ」という文字=エクリチュールです
 
この一文の「意味」を強いて解釈すれば「隠極まれば陽となる」とか「絶望は転じて希望となる」などというやはり逆説的なメッセージです。けれども、その「意味」をそのまま詩の中に書いてしまっても、それはその辺に普通にありがちな、極めて凡庸なメッセージにしかならないでしょう。
 
むしろ重要なのは「夜空はいつでも最高密度の青色だ」というこのエクリチュール自体が持つ「ただの音」としてテクストの中を突き抜けていくような鮮烈なインパクトです。すなわち、この非意味的なエクリチュールこそが玩具的なリズムを持った器官なき言語として「青色の詩」というテクスト全体の意味に訂正の効果をもたらしているともいえるでしょう。
 
無限の意味の空回りをリズムで訂正するということ。それは畢竟、存在論的な不安を生成変化の脈動へ転換するということであるといえます。そして、こうした生成変化の脈動こそが最果作品が刺し止めようとする「過剰な何か」なのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「主人公」を生きるということ--宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』

*「価値」を創り出すということ

 
人は自分でも知らず知らずのうちに自ら作り出したさまざまなルールのなかで生きています。この点、行動療法では「言語」も「行動」の一つとして捉えられており、このうち言語の「話し手」の行動は「言語行動」といいます。とりわけ重要な言語行動として「マンド(何かの行為を要求する言語行動)」と「タクト(何かの事象を報告する言語行動)」の2つがあります。
 
これに対して言語の「聞き手」の行動を「ルール支配行動」といいます。「ルール支配行動」におけるルールは「話し手」の違いから「教示」と「自己ルール」に分類され「言語行動」の違いから「プライアンス(マンドに従うルール支配行動)」と「トラッキング(タクトに従うルール支配行動)」に分類されます。
 
そして、このような言語の「話し手」と「聞き手」は一人の人間のなかにも同居しています。例えば我々は日常において様々な事象をタクトしています。この点、ある事象を客観的に記述する言語行動を「純粋タクト」といい、ある事象を大げさに表現したり推論する言語行動を「不純タクト」といいます。例えば「友達に声をかけたけど反応がなかった」という言語行動は「純粋タクト」ですが「友達に声をかけたけど無視された」という言語行動は「不純タクト」です。
 
こうした話し手としての自分自身の「不純タクト」の積み重ねが聞き手としての自分自身の「不適切なトラッキング」を知らず知らずに強化することがあります。それゆえに行動療法においては、このような「不純タクトから不適切なトラッキングの強化へ」という悪循環を断ち切り「純粋タクトから適切なトラッキングの強化へ」という好循環を作り出していくための介入が行われることになります。
 
人は自分でも知らず知らずのうちに自ら作り出したさまざまなルールのなかで生きています。しかし同時に人は自身のルールを自身で創り出すこともできます。そして、こうしたルールの中でも人生のコンパスになるような大きなルールを行動療法では「価値」と呼びます。本作『成瀬は信じた道をいく』はこうした意味での「価値」をいかに創り出して、いかに実践していくかを物語る物語です。
 

* 何になるかより、何をやるか

本作は2024年本屋大賞を受賞した『成瀬は天下を取りに行く』の続編となります。前作では滋賀県大津市に住む主人公、成瀬あかりの中学2年から高校3年までのエピソードが収録されており、本作では高校3年から大学1年までのエピソードが収録されています。シリーズの公式サイトを見ると「かつてなく最高の主人公、現る!」「唯一無二の主人公、再び!」というキャッチコピーが並んでいます。ここまで「主人公」という要素を強調する小説も珍しい気がしますが、果たして彼女はいかなる意味において「主人公」なのでしょうか。
 
 
本作の冒頭に置かれたエピソード「ときめきっ子タイム」は成瀬という「主人公」の本質を端的に伝えるものです。大津市立ときめき小学校4年の北川みらいは10月の「ときめきっ子タイム(いわゆる総合学習の時間)」で地元で活躍している人を取材し発表することになり、班の皆に「ゼゼカラ」を取り上げたいと提案します。
 
「ゼゼカラ」とは前作で成瀬とその相方の島崎みゆきが中学の時に結成した漫才コンビです(「膳所からきましたゼゼカラです」が由来)。もともとはM-1グランプリにエントリーするためのコンビ名でしたが、いまも2人は「ゼゼカラ」として毎年8月に行われる地元の「ときめき夏祭り」で司会を務め、そこで漫才も披露しています。
 
今年のときめき夏祭りでサイフを落としたことが縁で成瀬と知り合ったみらいは、それ以来、ゼゼカラの「推し」になります。班の皆の同意を得たみらいはまず校長に取材を申し込みます(成瀬もときめき小学校の卒業生です)。校長が赴任した時点で成瀬は既に卒業していましたが、数々の(都市)伝説が語り継がれており、この学校ではかなり有名な存在だったようです。
 
次にみらい達はときめき夏祭りの実行委員長である吉峰マサルに取材しようとしていたところ、道端で偶然、成瀬本人と遭遇し、早速、次の土曜日に成瀬への取材が実現します。現在、高校3年で部活(かるた班)を引退し、京都大学の受験に向けて勉強中だという成瀬は「将来何になるんですか」という問いに対して「何になるかより、何をやるかのほうが大事だと思っている」と答えます。
 

* ACTにおける「価値」

 
この「何になるかより、何をやるかのほうが大事だと思っている」という何気ない台詞に成瀬という「主人公」の行動原理が集約されています。例えば第3世代の行動療法であるアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)のプロセスにおいてはクライエントの人生のコンパスとなる「価値」をいかに定立するかが重要な課題となりますが、成瀬のいう「何をやるか」とはまさにこうした意味での「価値」に相当します。
 
ACTでは「価値」というルールを創り出す手続きを「価値の作業」と呼びます。この「価値の作業」を行う際には次の3点が重要となります。第一に価値とは抽象的な感情や気分ではなく、具体的な行動に結びつくものです。第二に価値とは結果が仮に叶わなくとも、それを継続していきたいと思える行動のプロセスです。第三に価値とは何かの目的のための手段ではなく、ただ純粋に「それをやりたい」という理由から自由に選択したものであるということです。
 
前作でもシャボン玉を極めたり、閉店する西武大津店に通い詰めたり、坊主頭から髪の伸びる速さを検証したりと、成瀬の行動は一見すると完全に意味不明ですが、彼女はこれらの行為に一貫して「それをやりたい」という「価値」を見出していました。
 
その一方で成瀬は「やりたいこと」の結果にはあまり拘っておらず、前作において結局ゼゼカラはM-1グランプリの一回戦敗退となりますが、来年も出るのかと島崎に問われた成瀬は「来年になったらもっと別のことをやりたくなっているかもしれない。どちらにせよ、これで一生『M-1グランプリに出たことがある』といえるようになったな」と涼しげに答えています。
 
それゆえに京大受験もまた、成瀬にとっての「価値」は合格という「結果」ではなく受験という「プロセス」にあり、受験当日も「緊張はしていないが、やはりいつもの精神状態とは違うな。どんな問題が出るんだろうとか、早くやりたいなとか、気持ちが昂っている」と述べています。
 

* 宣言=コミットメントするということ

 
ところでACTでは何よりも「価値」は宣言=コミットメントされることで実質的な力を強めるといわれていますが、成瀬もやはり普段から自分の「やりたいこと」を周囲に公言しています。「大きなことを百個言って、ひとつでも叶えたら、「あの人すごい」になるという。だから日頃から口に出して種をまいておくことが重要なのだ」と成瀬はいいます。そして島崎がそれはほら吹きとどう違うのかと尋ねると、成瀬はしばらく考えた後、あっさりと「同じだな」と認めてしまいます。
 
もっとも実際に成瀬は大きなことを百個のうち一個どころではなく、かなりの割合で実現させています。例えば「いつか紅白歌合戦に出ようと思っている」というのもそのうちの一つです。「それは歌手として出るってこと?」という島崎の問いに対して成瀬は「できればそうしたいが、ライバルが多いから厳しい道になるだろう。まずはバックダンサーとか、そういうところでステージに立つのが近道だと思っている」とかなり現実的に実現可能なレベルで答えています。
 
そして大学生になって就任したびわ観光大使の初仕事でけん玉パフォーマンスを披露した成瀬は、その後、NHKの関係者に声をかけられたようで「けん玉チャレンジ」のメンバーとして見事、その年の紅白に出場することになり、ここで本作は大円団を迎えることになります。
 
ACTの臨床においてもクライエントが掲げる「価値」がその人の置かれた現状とうまく合致していないように見えることがあります。けれども掲げた「価値」がどのようなものであろうとも、それはどこかで日々の生活と必ずつながっています。そして一旦、周囲に宣言した以上はそれを実現するにはどうすればいいかをある程度、真剣に考えざるを得ないでしょう。こうした宣言=コミットメントによる効果を成瀬はよくわかっていたのではないでしょうか。
 

*「主人公」を生きるということ

 
國分功一郎氏は『暇と退屈の倫理学』(2011)において「暇と退屈」を生み出すとされる「豊かさ」の条件である「贅沢」の意味をフランスの思想家ジャン・ボードリヤールによる「消費」と「浪費」の区別から問い直し、物に付与される観念や意味としての「記号」を無限に享受する「消費」への抵抗の起点を「物そのもの」を享受する「浪費=贅沢」に見出していました。
 
その後、近年の國分氏は『目的への抵抗』(2023)において「浪費=贅沢」を「目的」からの逸脱として捉え返し、さらに『手段からの解放』(2025)において「浪費=贅沢」を「目的」と「手段」の連関から自由なものとして再定義しています。
 
つまり何かしらの目的-手段連関に囚われたものが「消費」であり、その外部に位置するものが「浪費=贅沢」であるということです。そして現代社会はいうまでもなく「消費」の論理に支配されており、そこから自由になる条件として「浪費=贅沢」の論理が位置付けられることになります。
 
さらにこの論理は物だけではなく時間にも適用できます。すなわち「消費」としての人生と「浪費=贅沢」としての人生があるということです。そうであれば、何かの目的のための手段としてではなく、ただ純粋に「それをやりたい」という理由から自由に選択された「価値」を生きるとは、まさに「浪費=贅沢」としての人生を生きるということに他なりません。
 
このように「何になるか」ではなく「何をやるか」に「価値」を見出す成瀬は自分の人生を「贅沢」なものとして生きています。それゆえにまさしく彼女は自身の人生における「主人公」を生きているといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

消費社会の論理と全体主義の論理--國分功一郎『目的への抵抗』『手段からの解放』

*「消費」の外部としての「浪費=贅沢」

 
國分功一郎氏が2011年に公刊した『暇と退屈の倫理学』は第2回紀伊國屋じんぶん大賞を受賞するなどその当初から人文書としては異例の話題を呼び、公刊から10年以上経つ現在でも幅広い層に読まれ続けるロングセラーとなり、2022年に公刊された文庫版の発行部数は累計40万部を突破したといわれています。
そのタイトルの通り、消費社会における「暇」をいかに生きて「退屈」といかに向き合うかを様々な観点から考察する同書は「暇と退屈」を生み出すとされる社会の「豊かさ」の条件である「贅沢」の意味をフランスの思想家ジャン・ボードリヤールによる「浪費」と「消費」の区別から問い直します。
 
ここでいう「浪費」とは必要を超えて物を受け取ること、吸収することをいいます。そして物の受け取りは物理的な限界があるため「浪費」はどこかでその享受者に「満足」をもたらします。これに対して「消費」は物それ自体ではなく物に付与された観念や意味としての「記号」を消費します。それゆえに消費に物理的な限界はなく、その享受者にいつまでも「満足」をもたらしません。
 
つまり消費社会とは人々がむしろ「浪費」による「贅沢」することを妨げる社会であるといえます。ここから本書はマルティン・ハイデガーの退屈論とヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界論を参照し「消費」とは一線を画する「浪費=贅沢」を取り戻すことを現代における〈暇と退屈の倫理学〉として提示しました。
 
このような同書の議論はいわゆる「大きな物語(リオタール)」が失墜した後の「終わりなき日常(宮台真司)」や「動物の時代(東浩紀)」として名指されるポストモダン状況に対する優れた処方箋でもありました。そしていま再び〈暇と退屈の倫理学〉は國分氏の近著『目的への抵抗』『手段からの解放』において、さらに深く問い直されることになります。
 

* コロナ禍と「例外状態」

『目的への抵抗』は2020年10月に東京大学教養学部主催「東大TV--高校生と大学生のための金曜特別講座」における講義(「新型コロナウィルス感染症対策から考える行政権力の問題」)と2022年8月に行われた「学期末特別講話」と題する特別授業(「不要不急と民主主義」)を、それぞれ「第一部 哲学の役割--コロナ危機と民主主義」と「第二部 不要不急と民主主義--目的、手段、遊び」として収録しています。
 
どちらの講義(講話)もコロナ危機を主題としています。両者を隔てる2年間はちょうどコロナ危機が最も強く社会を揺さぶった時期に当たります。國分氏はこれら二つの講義(講話)を収めた本書はコロナの訪れとともに考え始めたこと、そしてそれを突き詰めていった挙句に考え至ったことの記録になっていると述べています。
 
まず第一部ではイタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが取り上げられます。世界的な哲学者として知られているアガンベンは2020年2月26日のイタリアの新聞「イル・マニフェスト」紙に「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態 Lo stato d'eccezione provocato da un'emergenzaimmotivata」という論考を発表して物議を醸し出しました。この論考でアガンベンはコロナウィルスの拡大を防ぐという理由で実施されている緊急措置は「平常心を失った、非合理的で、まったく根拠のないものである」と指摘し「激しい移動制限」が行われ「正真正銘の例外状態」が引き起こされていると批判しました。
 
このようなアガンベンの批判の背景にあるのが同論考のタイトルにもある「例外状態 lo stato d'eccezione」という概念です。これは行政権が立法権を凌駕してしまう事態を指しています。つまり権力(行政権)は「例外状態」を巧妙に利用して民主主義を蔑ろにしたり人々の権利を侵害していくことがあることから、アガンベンはコロナ危機によって人々が「例外状態」を受け入れつつあることに危機を抱いたということです。
 

* アガンベンの主張における三つの論点

 
ところが--当時の状況を考えればやむを得ない部分もあるとは思いますが--このようなアガンベンの主張は端的にいえば「炎上」してしまいます。けれどもアガンベンは自身の主張を揺るがすことなく、翌月には「補足説明 chiarimenti」題された二つ目の論考を発表しています。國分氏はアガンベンのこの二つ目の論考から三つの論点を取り出しています。
 
第一の論点は「生存のみに価値を置く社会」とはいったい何なのかという点です。この問題をアガンベンは「剥き出しの生 nuda vita」という概念から説明します。ここでアガンベンは人間が「生きる」ということと、ただ「生存している」ということを区別していると本書はいいます。
 
第二の論点は「死者の権利」を蔑ろにしていいのかという点です。死んだ人間に然るべき敬意を払わない社会においては生きている人間たちの関係もだんだんおかしくなっていくのではないかということです。
 
第三の論点は「移動の自由」をどう考えるのかという点です。移動の自由とは数ある自由のなかの一つではなく、人間が不当な支配から逃れるための根本条件であるということです。
 
アガンベンのいう「例外状態」の究極形態とは言うまでもなくナチス・ドイツの「全権委任法」に他なりません。それゆえに本書はアガンベンの一連の主張を社会における哲学者の役割を果たしたものであると評価します。そしてこうした「例外状態」をめぐる問題意識は第二部において「目的と自由」の関係として問い直されることになります。
 

* 目的からの逸脱としての「浪費=贅沢」

 
第二部ではコロナ危機の当時よく耳にした「不要不急」という言葉を出発点として「目的と自由」の関係が論じられます。「不要不急」とは辞書的には「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」という意味です。つまり不要不急とは「必要」に関わっています。そして「必要」と呼ばれるものは何かの「ため」になされるものであり、そこには常に何かしらの「目的」が想定されています。
 
これに対してかつて『暇と退屈の倫理学』において論じられた「浪費=贅沢」の本質とは物そのものを楽しむことであり、ここには「目的」なるものからの逸脱があります。「目的」から「はみ出た部分」にこそ人は豊かさや充実感を感じます。ところが現代社会はあらゆるものを「目的」に還元し「目的」からはみ出るものを認めない社会になりつつあるのではないかと本書はいいます。
 
すなわち、ボードリヤールのいう消費社会の論理は現代社会においてはすべてを「目的」に還元する論理と共犯関係を結んでこの社会を覆いつつあるのではないかということです。つまり「不要不急」と呼ばれるものを排除する社会の傾向はコロナ以前から少しずつ進行していたのではないかということです。
 
ではそもそも「目的」とは何なのでしょうか。ここから本書はハンナ・アーレントによる「目的」の概念を参照します。彼女は『人間の条件』(1958)において「目的とはまさに手段を正当化するもの」であると定義しています。その一方でアーレントは『全体主義の起源』(1951)において全体主義が求める人間とは「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」であるといいます。
 
つまり全体主義における模範的な人間とは常に「目的」を意識して行動する人間であるということです。しかしこれは現代でいうところのいわゆる「意識の高い」人間像そのものではないでしょうか。つまりすべてを「目的」と「手段」の中に閉じ込める消費社会の論理を徹底した時、その先に現れるものとは全体主義が求める「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」であるということです。
 
そしてアーレントは「自由」の概念について「行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない」と述べています。つまり、行為にとって「目的」が重要な要因であることは間違いありませんが、行為は「目的」を超越する限りで「自由」であるということです。その意味で人間の「自由」とは広い意味での「贅沢」と不可分だと言ってよいと本書はいいます。こうしたことから本書は「目的への抵抗」を言祝ぎます。
 

* 嗜好品とカント哲学

『手段からの解放』は次の二つのパートから成り立っています。「第一章 享受の快--カント、嗜好品、依存症」は雑誌「新潮」2023年7月号に掲載された「享受の快--嗜好品、目的、依存症」という論文がもとになっており「第二章 手段化する現代社会」は2023年8月に東京大学駒場キャンパスで行われた講話の記録がもとになっています。第一章の論文を解説したものが第二章の講話であり、従って両者は基本的に同じ話をしています。本書がこのように構成されているのは、そこに記された考えがどのようにできあがってきたのかという過程を記録する企図からです。
 
そして、ここでは『暇と退屈の倫理学』で提示された「浪費=贅沢」の概念が一段と深化を遂げています。先述のように「浪費=贅沢」とは物そのものを楽しむことです。しかし、そもそも「楽しむ」とは果たして一体何なのでしょうか。本書はこの「楽しむ」という営みを「享受」という言葉で考えていきます。ここで本書が注目するものが「嗜好品」と呼ばれるものです。
 
「嗜好品」とは辞書的には「栄養のためでなく、味わうことを目的にとる飲食物」を指しています。例えばお茶やコーヒー、お酒、タバコなどです。興味深いことに「嗜好品」に相当する言葉は英語とフランス語には存在しないそうです。その一方で「嗜好品」という日本語はGenußmittelというドイツ語の翻訳語だそうです。ここでいうGenußは「享受」とも訳されます。ここから本書は18世紀ドイツを代表する哲学者、イマヌエル・カントの批判哲学を「享受 Genuß」を軸に読み解いていきます。
 
まず本書はカント哲学の全体像をフランスの哲学者ジル・ドゥルーズによる整理を通じて概観します。周知の通りカントの主著は『純粋理性批判』(1781)『実践理性批判』(1788)『判断力批判』(1790)といういわゆる「三批判書」と呼ばれるものですが、これらは人間の持つ三つの能力について論じたものです。そしてドゥルーズはこれら三つの著作の関係を「表象」「主体」「客体」からなる三つの関係によって以下のように整理しています。
 
純粋理性批判』は人の「認識能力」を論じたものであり、ここでは「表象」と「客体」の「一致」が問題となります。『実践理性批判』は人の「欲求能力」を論じたものであり、ここでは「表象」と「客体」の「因果関係」が問題となります。『判断力批判』は人の「感情能力」を論じたものであり、ここでは「表象」が「主体」に及ぼす「効果」が問題となります。そして「嗜好=享受」はこの「感情能力」に関わっています。
 

* カントにおける4つの快

 
カントによれば人間における「快」とは4種類しかないとされます。すなわち「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」です。これらのうち「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」は高次の快とされ「快適なもの」は低次の快とされます。そして「享受」の快はこの「快適なもの」に属しています。
 
ところで「善いもの」はもとより「こうあるべき」という「目的」そのものです。また「美しいもの」「崇高なもの」もやはり最終的には「こうあるべき」に達する「合目的性」の経験です。これに対して「快適なもの」にはこうした「目的」や「合目的性」が欠けています。そこには全く「べき」は見いだせないということです。つまり高次の快と低次の快は「目的」ないし「合目的性」の有無で区別されることになります。
 
ところがこの「快適なもの」が何かしらの「目的」のための「手段」と化した場合、これは「善いもの」から区別される「間接的に善いもの(有用善)」へと転化します。この「間接的に善いもの」は人に何かしらの「満足」をもたらしますが、カントのいうところの「快」からは除外されています。こうして「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」「間接的に善いもの」は次のような四象限へ整理されます。
 
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(『手段からの解放』から引用)
 

* 消費社会の論理と全体主義の論理

 
このような四象限のうち第三象限の「間接的に善いもの」だけが「手段」の概念を持っています。この「手段」の概念こそがカントのいう「快」が第三象限には適用されない理由を示しています。「間接的に善いもの」とは「これはあの目的を達成するための手段として有用である」という仕方のみで人に「満足」をもたらしています。
 
この点、本書は「目的」からも「手段」からも自由なはずの第四象限は「目的」と「手段」の連関に閉じられる第三象限に容易に転化するといい、こうした転化は危険な問題を孕んでいるといいます。例えばアルコールを酩酊状態それ自体を「享受」するのではなく、日々の辛さから一時的にでも逃れる「目的」のための「手段」として常用するのであれば、それは依存症のリスクと隣り合わせです。
 
またアーレントが『全体主義の起源』においていかなる「手段」をも正当化するものとして「目的」の概念を批判していたのも、結局のところは「最悪の手段」が「目的」によって正当化される危険性に他なりません。それゆえに本書は「手段からの解放」を訴えます。
 
『暇と退屈の倫理学』という本はもしかして、消費社会における「浪費=贅沢」を説く一見すると「優雅な」生き方を称揚する本としても読めてしまうかもしれません。けれども消費社会の論理とは依存症の論理と表裏の関係にあり、そしてそれは「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」を求める全体主義の論理とまっすぐにつながっているといえます。
 
こうした意味で同書が提示する「浪費=贅沢」という倫理とは消費社会における「目的への抵抗」と「手段からの解放」を志向するものであり、それはいわば毒と薬の両義性を孕んだパルマコンであるともいえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さまざまな「好き」のかたちに出会い直すために--松浦優『アセクシュアル・アロマンティック入門』

* LGBTQの片隅から

 
性の多様性を考察する比較的新しい学問領域であるクィアスタディーズは社会的には1980年代に世界各国のゲイコミュニティが直面したHIV/AIDSという問題を受けて、学問的にはフランス現代思想におけるポスト構造主義の影響の下で成立しました。日本語では「変な」「奇妙な」などと訳される「クィア」という言葉は、もともとは英語圏でゲイ男性に向けられた蔑称でしたが、やがて当事者たちによって戦略的に用いられるようになり、現在では性的マイノリティと呼ばれる当事者全体を包摂する意味を帯びるようになります。
 
このような経緯からとりわけ様々な性的マイノリティに光を当てていくクィアスタディーズは当初から当事者の「差異の主張」と「普遍性に基づく連帯」という二つの指向性が胚胎していました。ここでいう「差異の主張」とは性的マイノリティとされる当事者を主体化する指向性をいいます。そして「普遍性に基づく連帯」とは社会における規範的なセクュアリティやジェンダーを問い直す指向性をいいます。
 
この点、周知の通り性的マイノリティは近年において「LGBTQ」という「レズビアン Lesbian」「ゲイ Gay」「バイセクシュアル Bisexual」「トランスジェンダー Trancegender 」「クィア/クエスチョニング Queer/Questioning」の頭文字をつなげた言葉で呼称されるようになりました。もっともその一方で、こうしたLGBTQの中でも更に周縁化されがちな性的マイノリティもまた存在します。本書『アセクシュアル・アロマンティック入門』は「アセクシュアル」「アロマンティック」と呼ばれる性的マイノリティに光を当てていくことで「性」や「恋」といった「好き」の「当たり前」を問い直す一冊であるともいえます。
 

*「好きになる」とはどういうことか

本書はまず「はじめに--「好きになる」とは」においてまずその企図を次のように提示します。近年においては「LBGT」や「LGBTQ」といった言葉で性的マイノリティの認知度が高まり、そうした人々に対する差別を問題視する考え方も広まりつつあります。しかしながら従来のLGBTに関する議論から取りこぼされてきたセクシュアリティとして「アセクシュアル」と呼ばれる人々や「アロマンティック」と呼ばれる人々がいます。そしてこうしたアセクシュアルやアロマンティックについての議論は例外的な少数者に関する議論ではなく実は多くの人々にも深く関わっていると本書はいいます。
 
そもそも人が誰か「好きになる」とはどういうことなのでしょうか。答えはいろいろあるでしょう。性的に魅力を感じる、恋愛感情を抱く、美しいと感じる、面白いと思う、尊敬や憧れを覚える等々。「好き」という言葉には様々な要素が含まれています。そしてこれらの要素は必ずしも結びついているとは限りません。例えば性的魅力と恋愛感情は必ずしも結びついているとは限りません。あるいは性的欲望は必ずしも実際の性交渉への欲望に結びついているとは限りません。
 
そしてアセクシュアルやアロマンティックと呼ばれる人々はこうした「好きになる」という漠然とした枠組みでは捉えられないような経験を言語化していく過程で性や恋愛に関する認識を精緻化してきました。それゆえにアセクシュアルやアロマンティックに関する議論は一見ありふれた日常的な営みであるとみなされがちな「性」や「恋」をより深く理解する契機にもつながってきます。
 
またアセクシュアルやアロマンティックの人々は社会では「いないことにされている」という問題があります。やはり誰かに性的魅力を感じたり恋愛感情を抱くことは「当たり前」であるという考え方はいまも根強く残っており、日常的な場面のみならずメンタルヘルスの専門家であってもアセクシュアルやアロマンティックを一種の精神病理と結びつけて認識していることがあります。こうしたことから本書はアセクシュアルやアロマンティックの人々が社会で周縁化されている問題についても切り込んでいきます。
 

* 性的指向と恋愛的指向

 
続いて本書は第1章でアセクシュアル/アロマンテックに関する基本概念を概説します。この点、アセクシュアルという言葉は特定の権威ある団体や学者が定義した用語ではなく、当事者自身が自らのあり方を言語化するための用語として現れました。そのため論者や文脈によって異なる意味で用いられることがあります。
 
そのことを踏まえた上で本書はひとまずアセクシュアルとは「他者に性的に惹かれないという性的指向」であるという、もっともよく使われる定義を用いています。これは世界最大規模のセクシュアルコミュニティであるAVEN(Asexual Visibility and Education Network)のウェブサイトで掲げられている定義です。
 
アセクシュアルの「ア a」という接頭辞は「否定」を意味しています。つまり文法的に言えば「セクシュアルではない」という意味です。またここでいう「性的指向 sexual orientaion」とは「どの性別の人に対して性的に惹かれるのか」を表す言葉であり、異性愛や同性愛、バイセクシュアルやパンセクシュアル(性的に惹かれるかどうかの基準に性別が無関係であるセクシュアリティ)などが含まれます。つまりアセクシュアルはいわゆるLGB(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル)と並ぶカテゴリーとして用いられているということです。
 
次にアロマンティックとは「他者に恋愛的に惹かれないという恋愛的指向」のことをいいます。ここで重要なのは「性的」ではなく「恋愛的」という言葉が使われている点です。ここでいう「恋愛的指向 romantic orientation」とはどの性別の人に対して恋愛的に惹かれるのかを表す言葉です。アロマンティック以外の恋愛的指向として「ホモロマンティック(同性に対する恋愛的指向)」「ヘテロロマンティック(異性に対する恋愛的指向)」「バイロマンティック(男女どちらに対しても恋愛的に惹かれる指向)」「パンロマンティック(恋愛的に惹かれるかどうかに性別が関わらない指向)」があります。
 
そしてこの恋愛的指向と性的指向の区別は両者が必ずしも一致しないということを意味しています。恋愛的惹かれはないけれど性的に惹かれることがある場合や、逆に性的惹かれはないけれど恋愛的に惹かれることがある場合や、性的に惹かれる対象と恋愛的に惹かれる対象が異なる場合もあるということです。
 
これに対してアセクシュアルやアロマンティックではない人は「アローセクシュアル」「アローロマンティック」と呼ばれます。ここでいう「アロー allo」という接頭辞は「他のものに向かう」という意味で用いられています。異性に惹かれる人のみならず同性に惹かれる人であっても他者に惹かれるという意味では同じ括りに入ります。
 
なぜわざわざアローという言葉が使われるのかというと、アセクシュアルやアロマンティックでは「ない」人は「普通」であるという発想を問い直すためです。すなわち「普通」とされるマジョリティの人々のあり方も性的指向や恋愛的指向の一つとして位置付けられるものにすぎないということです。
 

* マイクロラベルという実践

 
このような様々な種類の「惹かれ」を切り分ける考え方を「スプリット・アトラクション・モデル split attraction model:SAM」と呼びます。例えば「異性に恋愛感情を抱きつつ、誰にも性的に惹かれない」という人は「ヘテロロマンティック・アセクシュアル」であり、また「誰にも恋愛感情は抱かず、どの性別の人にも性的に惹かれる」という人は「アロマンティック・パンセクシュアル」であり、あるいは「恋愛感情を抱く相手は同性で、セックスしたいと思う相手は異性だ」という人であれば「ホモロマンティック・ヘテロセクシュアル」であるといえます。
 
またアセクシュアル/アロマンティックとアローセクシュアル/アローロマンティックの間を連続的なスペクトラムとして捉える言葉として「グレーセクシュアル」や「グレーロマンティック」という言葉があります。さらに詳しい要素を言い表す言葉(マイクロラベル)として「デミセクシュアル/デミロマンティック(基本的に他者に性的/恋愛的に惹かれることはなく、情緒的なつながりができた相手にのみ性的/恋愛的惹かれを抱くことがある)」「リスセクシュアル/リスロマンティック(他者に性的/恋愛的に惹かれることはあるが、相手からその感情を返してほしいとは感じない)」「エーゴセクシュアル/エーゴロマンティック(性的/恋愛的表現を愛好したり性的/恋愛的空想をしたりするが、自ら性愛/恋愛に参与したいとは望まない)」などがあります。
 
そしてこのような様々なマイクロラベルを含めた総称としてAro/Aceという言葉が使われることがあります。アセクシュアルスペクトラムについて包括的に表す言葉がAceであり、アロマンテック・スペクトラムを包括的に表すのがAroです。このように一方でマイクロラベルの細分化によって多様な経験を言語化しつつ、他方でさまざまなマイクロラベルを包括する総称によって連帯を志向するという実践が当事者によって行われてきたと本書はいいます。
 
こうしたアセクシュアルやアロマンテックおよびマイクロラベルは自身が何者かを理解し、似たような経験やあり方をしている人同士のつながりを作るための言葉であると同時に、誰もが他者に性的/恋愛的に惹かれるものだという考え方が支配的な社会通念を問い直す言葉です。そしてそれはまさにクィアスタディーズの掲げる「差異の主張」と「普遍性に基づく連帯」に連なる営為であるといえるでしょう。
 

* 強制的性愛・恋愛伴侶規範・対人性愛中心主義

 
第2章では性科学や精神医学を参照しつつ英語圏と日本におけるAro/Aceの歴史的な位置付けが紹介され、第3章では日本におけるAro/Aceの人口割合やAro/Aceにおける属性と傾向が説明され、第4章ではAro/Aceの人々が被る差別や周縁化について述べられます。
 
第5章ではクィアスタディーズにおけるAro/Aceの研究が紹介されます。この点、クィアスタディーズではマジョリティを基準とする「規範」についての批判が重要視されますが、ここでセクシュアリティに関する規範としてまず挙げられるのが「異性愛を当然のものとして誰もが異性愛者であるはずだ」とみなす「異性愛規範 heteronormativity」です。
 
もっとも異性愛が相対化され同性愛差別が批判されたとしても、それでもなお取りこぼされる「誰もがセックスを欲望するはずだ」という思い込みを問い直すため生まれた概念が「強制的性愛 compulsory sexuality」です。また「一対一の恋愛や結婚には特別な価値がある」という思い込みは「恋愛伴侶規範 amatonormativity」と呼ばれます。
 
これらの概念は英語圏に由来するものですが、日本語圏でも草の根的に提起されてきた関連概念として「対人性愛中心主義」が挙げられます。これはマンガやアニメなどのいわゆる「二次元」の性的創作物を愛好しつつ生身の人間に性的惹かれを経験しない、という人々が使い始めた言葉です。本書がいうように、こうした人々は一見するとアセクシュアルとは無縁のように思われるかもしれませんが「生身の人間には性的惹かれを経験しない」という点でアセクシュアルの人々と重なる部分があるといえます。
 

* Aro/Aceの議論を通して見えてくるもの

 
第6章ではポスト構造主義を代表する思想家の一人であるミシェル・フーコーのテクストに依拠しながら、様々な性的/恋愛的な規範を生み出す「セクシュアリティの装置」が論じられ、第7章ではセクシュアリティと婚姻や親密性との結びつきが論じられ、第8章ではセクシュアリティジェンダーの関係が論じられます。
 
そして本書のまとめとなる第9章ではAro/Aceの議論を通して見えてくるものが論じられています。例えば「非モテ」と呼ばれる言葉の裏には恋愛経験や性経験がなければ「一人前」ではないかのような価値観があり、また「友達以上、恋人未満」という言葉の裏には恋愛の方が友情よりも強いという親密関係の序列化があります。けれどもAro/Aceをめぐる議論を知ることによって、こうした固定観念を相対化する思考を身につけることができるのではないでしょうか。
 
また本書はAro/Aceの観点からメディア表現や歴史資料を読み解く方法を提唱しています。その一つ目のアプローチはセクシュアリティに関するメディア表現を読み解く上で強制的性愛や恋愛伴侶規範という問題を念頭に置いておくということです。それによって「誰もが性的欲望を持っている」とか「性的惹かれや恋愛感情がなければ満ち足りた人生になりえない」などといった価値観を前提とした表現になっていないかといった問題提起ができるようになります。
 
その二つ目のアプローチはAro/Aceを自認している人物(キャラクター)だけに限定せずに、より広くAro/Ace「的」なあり方を見出していく読解方針です。すなわち、ある人物(キャラクター)におけるAro/Ace「的」な瞬間を拾い上げ、それがどのように描かれているか、どのように扱われているかといった点に注目するということです。こうした読解実践は歴史研究や文芸批評にこれまでにない新たな視座をもたらすことができるでしょう。
 

* さまざまな「好き」のかたちに出会い直すために

 
さらに本書はAro/Aceの観点からマンガやアニメなどの「二次元」の創作物を愛好する営みに関する議論を読み直していきます。例えば精神科医斎藤環氏は日本におけるオタク系文化を論じた古典的名著『戦闘美少女の精神分析』(2000)において「多重見当識」という概念で二次元と三次元において異なるセクシュアリティを持つ「おたくのセクシュアリティ」を論じていますが、このような意味での「多重見当識」を本書は性的指向と恋愛的指向を切り分けるスプリット・アトラクション・モデルと同じように、二次元での指向と三次元での指向を切り分ける「複数的指向」として読み直しています。
こうした視座からは例えば「フィクト・セクシュアル(虚構性愛:架空の存在に対して性的に惹かれるセクシュアリティ)」と呼ばれる人々の経験を言語化することができるでしょう。二次元というものの意義を考えることは、Aro/Aceの観点からも重要であると本書はいいます。
 
もとよりこうしたAro/Aceの観点は現代思想シーン全体にも多大なインパクトをもたらすものがあるように思われます。例えばゼロ年代を代表する批評家である東浩紀氏は『動物化するポストモダン』(2001)において近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘し、オタク系文化における「シュミラークル(マンガやアニメなどのコンテンツ)」と「データベース(コンテンツを生成する情報の束)」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しているといい、このようなポストモダンにおける主体もまた「シュミラークル」に没入する動物的欲求と「データベース」に介入する人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けています。
もっともその一方で東氏はこのような動物的欲求と人間的欲望の区別になぞらえて「性器的な欲求」と「主体的な「セクシュアリティ」」を区別したうえで、二次元の性的表現を愛好することは「ほとんどの場合」「主体的な「セクシュアリティ」」として(とりわけ男性オタクにとっては)引き受けられていないとしています。
 
しかしながら、上述したようにAro/Aceの観点から「多重見当識」を「複数的志向」として読み直した場合、東氏のいう「性器的な欲求」とは例えば「フィクト・セクシュアル」いった形で「主体的な「セクシュアリティ」」として引き受けられている(あるいは引き受けさせられている)可能性があるといえます。そうであれば、ここから「主体とは何か」「欲望とは何か」という大きなテーマがラディカルに問い直されることになるでしょう。
 
そして同時に本書は読書の醍醐味を再認識させてくれる一冊でもあるといえます。本年の新書大賞を受賞したベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)の著者である文芸評論家の三宅香帆氏は日本社会における労働と読書の関係を論じる同書において読書とは〈文脈〉によって紡がれるものであると述べています。すなわち読書とはある特定の〈文脈〉の下で開始されるものですが、その過程においてこれまでの自分にとって無関係だった〈文脈〉に出会うことこそが読書における醍醐味であるということです。
 
こうした意味でアセクシュアル/アロマンティックという〈文脈〉を切り口として、社会学クィアスタディーズ、ポスト構造主義サブカルチャー論といったさまざまな〈文脈〉に開かれた本書はこうした〈文脈〉を往還する中でこれまでにない新たな「好き」のかたちに出会い直すことができる一冊にもなるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

〈グレート・ゲーム〉の外部に立つということ--逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』

* 全体主義の起源と〈グレート・ゲーム

 
20世紀を代表する政治哲学者であるハンナ・アーレントは1951年に公刊した大著『全体主義の起源』においてヨーロッパの国民国家の一部が19世紀の帝国主義を経て、20世紀の全体主義を形成していくそのメカニズムを考察しています。同書においてアーレントは19世紀のイギリスとロシアの中央アジアをめぐる覇権争いを〈グレート・ゲーム〉と呼び、この〈グレート・ゲーム〉が人々を惹きつける理由をひとまずは帝国主義における「官僚制」に求めています。すなわち、イギリスの帝国主義を駆動したものとは人種差別的なイデオロギーではなく、優れた官僚組織によって管理されることで初めて社会は成立するという「官僚制」というイデオロギーであったとアーレントはいいます。
 
もっともその一方でアーレントはこうした「官僚制」のイデオロギーから生じる「責任感」に注目します。ここでいう「責任感」とは自分達イギリス人こそがこの土地の人々に責任があり、そのため他のヨーロッパ人(ロシア人)を駆逐する必要があるのだというものです。そして、こうした「責任感」が〈グレート・ゲーム〉にナショナリズムを超えた価値を見出す人々を生み出し、イギリスの帝国主義者たちの自己正当化に寄与することになります。
 
さらにここから植民地のヨーロッパ人たちの間に定着した〈グレート・ゲーム〉は一人歩きを始めます。アーレントはこの現象のメカニズムを〈グレート・ゲーム〉という言葉を普及させた児童文学作家ラドヤード・キップリングの小説『少年キム』の分析を用いて説明しています。アーレントはキム少年の冒険が読者を惹きつけるのは彼が「ゲームのためにゲームを愛した」からだと述べています。この点、アーレントは近代を「人間がもはや人生のための人生を生き、人生のための人生を愛するだけの力を奮い起こせなくなった」時代だと診断しています。こうしたことからアーレントはキムの物語に人生に「意味」を求める近代人の切実な欲望に応える構造を見出していきます。
 
キムの物語において〈グレート・ゲーム〉に没入する人々の目的は金銭でも出世でもましてやナショナリズムでもありません。彼らの目的は敵国によって自身に懸けられた賞金というゲームのスコアです。彼らは一様に「名を持たず、その代わりに番号と記号だけを持つ」ことこそが幸福であると見做します。そうなることで彼らは「他人の只中にいるひとりきりの人間」であることから解放されるからです。それは自分の物語を見つけて自己実現を果たすことによる解放ではなく、むしろ「個人」であることからの解放であるといえるでしょう。
 
こうして〈グレート・ゲーム〉において彼らは「個人」を抹消した匿名の存在として純粋にスコアという報酬を目指してプレイすることになり、このとき〈グレート・ゲーム〉は俗世間の価値から人間を解放し、生そのものを肯定してくれる装置と化します。これに対して本作『同志少女よ、敵を撃て』は第二次世界大戦という人類史上最も苛烈な〈グレート・ゲーム〉を生きる「個人」のあり方を描き出した作品であるといえます。
 

* 第三九独立小隊の少女たち

本作のあらすじは次のようなものです。第二次世界大戦下でもとりわけ凄惨を極めた独ソ戦(東部戦線)が開戦した1941年の翌年、本作の主人公である18歳の少女セラフィマが住むモスクワ郊外の小さな農村にドイツ軍が押し寄せるところから物語は始まります。
 
ドイツ軍はたちまち村人たちを惨殺し、セラフィマの母も謎めいた凄腕の狙撃手によって殺されてしまいます。そしてセラフィマもいよいよ殺されそうになったその刹那、ソ連軍(赤軍)が急襲し、彼女は元狙撃兵の女性兵士イリーナによって救われることになります。
 
村も母も失ったセラフィマはイリーナの「戦いたいか、死にたいか」という問いに対していったんは「死にたいです」と答えますが、ドイツ軍の収奪を防ぐ焦土作戦という名目で村と母を平然と焼き払うイリーナへの怒りから「ドイツ軍も、あんたも殺す!敵を皆殺しにして、敵を討つ!」と絶叫します。
 
こうしてイリーナへの復讐を誓うセラフィマは設立したばかりの狙撃訓練学校に入ることになり、そこで彼女は得難い友と出会うことになります。射撃大会優勝者のシャルロッタ、年長のヤーナ、カザフの猟師だったアヤ、ウクライナのコサックであるオリガ。彼女たちは皆、一言ではいえない秘密と経歴を持っていました。
 
そして過酷な訓練を経たセラフィマたちは見事、狙撃訓練学校を卒業し、イリーナが指揮する「第三九独立小隊」としてついに実戦を迎えることになります。こうして彼女たちはソ連軍による史上最大の反攻作戦「ウラヌス作戦」が展開され、第二次世界大戦史上最大の激戦地となったスターリングラードへと向かいます。
 

*『戦争は女の顔をしていない』との出会いから

 
本作は2022年の本屋大賞受賞作です。本作の著者である逢坂冬馬氏は本作を執筆するきっかけとなったのは2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの主著『戦争は女の顔をしていない』(1985)との出会いであったといいます。同書は独ソ戦に従軍した女性たちへの綿密なインタビューをもとに、これまでもっぱら男性たちの視点で語られてきた戦争を女性たちの視点から語り直した証言集です。逢坂氏は次のように述べています。
 
「当事者だからこそ語り得る世界、そのディテールの厚みに、感銘を受けました。どうしようもない現実の中で、戦わざるを得なかった女性たち。彼女たちをまた別の角度から立体的に照らし出すことができれば、きっと現代日本にも問いかけるべき小説になり得ると思いました」
 

 

本作には実在したソ連の女性狙撃手であるリュドミラ・パウリチェンコが登場します。第二次世界大戦においてソ連軍は実際に数多くの女性狙撃手を登用しています。リュドミラはその中でも確認戦果309名射殺という成績を残した天才狙撃手であり、1943年にはソ連邦英雄賞を受賞しています。
 
逢坂氏は本作を執筆するあたりリュドミラの回想録『最強の女性狙撃手』から「如何なる状況下でも一切動揺することがない、完成された本物のスナイパーの在り方を学びました」と述べています。また作中でも引用される『ドイツ国防軍兵士たちの100通の手紙』については「人を殺めることへの罪悪感が消失する瞬間を、まざまざと見せつけられました」と述べています。こうした史実に基礎付けられた本作は戦争という〈グレート・ゲーム〉のリアルを如実に描き出していきます。
 

* 動機の階層化

 
そして同時に本作は〈グレート・ゲーム〉のなかに投げ込まれた「個人」のあり方に光を当てていきます。狙撃訓練学校の「政治教育」という授業において自ら講師を務めるイリーナはセラフィマたち生徒に「なぜ赤軍は戦うか」という議題を提示します。次々と生徒たちが自らの戦う「動機」を語り始めたとき、イリーナは生徒たちの議論を遮って次のように述べます。
 
「個々の思いを否定はしないが、その気持ちで狙撃に向かえば死ぬ。動機を階層化しろ」
 
(本書より)

 

イリーナによれば「侵略者を倒せ」だの「ファシストを駆逐しろ」だのという「動機」は重要ですが、それは個人の心中にとどめておき、戦場へ行くまでの動機の「起点」とすべきものであるとされます。
 
「いざ戦地に赴き、敵を撃つとき、お前たちは何も思うな。何も考えるな。……考えるな、と考えてはいけない。ただ純粋に技術に身を置き、何も感じずに敵を撃て。そして起点へと戻ってこい。」
 
(本書より)
 
ここで重要なのはまず動機の「起点」を持ち、次に戦場ではその「起点」を一時的に手放すというプロセスです。もっともそれは戻るべき「起点」を必ず持たなければならないということを意味しています。こうしたイリーナが説く「動機の階層化」とはある面で戦争という〈グレート・ゲーム〉に呑み込まれない「個人」を確立するための知恵であったともいえるでしょう。
 

*〈グレート・ゲーム〉の「後」をいかに生きるか

 
上述したように本作には実在した女性狙撃手であるリュドミラ・パヴリチェンコも登場します。ソ連の「英雄」として、セラフィマたち狙撃兵を対象とした特別講義の講師として登場したリュドミラは冒頭から超一流の狙撃兵ならではの数々の技術について淀みなく語り続けます。彼女の講義はほぼ技術論に終始し、彼女が精神論について話したのはただ一度だけ、かつてイリーナが語った言葉と同様の「狙撃兵は動機を階層化しろ」と述べたときだけでした。
 
そして講義後の質疑応答でシャルロッタから「戦後、狙撃手はどのように生きるべき存在でしょうか」と問われたリュドミラは「誰か愛する人でも見つけろ。それか趣味を持て。生きがいだ。私としてはそれを勧める」と端的に答えますが、セラフィマにはその言葉に少なからぬ困惑を覚えてしまいます。
 
講義後、リュドミラの部屋に押しかけ「愛する人を持つか生きがいを持てとは、いかなる意味でしょうか」と問うセラフィマに対してリュドミラは家族を失った自分に残っていたのは狙撃だけであったといいます。
 
「射撃の瞬間、自らは限りなく無に近づく、極限まで研ぎ澄まされた精神は明鏡止水に至り、あらゆる苦痛から解放され、無心の境地で目標を撃つ。そして命中した瞬間に世界が戻ってくる。……覚えがあるだろう、セラフィマ」
 
「お前も、私も、もちろんイーラも、狙撃という魔術に魅了された。ネジ作りの達人がそうであったように、無心に至りその技術にのめり込んだ……そして、二人の夫を失った私は、309人のフリッツを殺し、負傷して、その世界から降ろされた」
 
「今度こそ、私には何も残されていない。わかったか、セラフィマ。私は言った。愛する人をもつか、生きがいを持て。それが、戦後の狙撃兵だ」
 
(本書より)

 

そこにセラフィマが見たものは「英雄」の姿ではなく「孤独で悲しみに満ちた一人の女性」でした。そしてそれはまさしく「動機の階層化」に失敗し〈グレート・ゲーム〉が強制終了した後の虚無を生きている人間の姿であったともいえるでしょう。
 

*〈グレート・ゲーム〉の外部に立つということ

 
その一方で本作には明確な意志を持って〈グレート・ゲーム〉の外部に立つ「個人」も登場します。セラフィマたちの部隊に帯同する看護師のターニャです。物語の終盤、負傷して病院で目覚めたセラフィマはかつて自分を撃ったドイツの少年を治療するターニャの姿を目の当たりにします。あなたは敵味方の区別なく治療するのかと問うセラフィマに対してターニャは躊躇なく次のように答えます。
 
「ああ。というよりも、治療をするための技術と治療をするという意志があたしにはあり、その前には人類がいる。敵も味方もありはしない。たとえヒトラーであっても治療するさ」
 
(本書より)

 

ネオプラグマティズムを代表するアメリカの哲学者リチャード・ローティはその主著である『偶然性・アイロニー・連帯』(1989)において「偶然性」に規定された「わたしたち」がたまたま持つ「終極の語彙」を「アイロニー」により再記述する「わたしたちの拡張」の結果として「連帯」が生じるといい、それは特定の理念やイデオロギーからではなく個別の人間が抱える苦しみや痛みに対する「想像力」や「共感」といった小さな断片を手がかりに創り上げられるものであると述べています。
 
まさにターニャはこうした敵と味方を超えたところから生じる「想像力」や「共感」を決して手放さない「個人」として〈グレート・ゲーム〉では「ない」いまこのときの「戦争という日常」において「治療」という名の「連帯」を生きていたといえます。そしてこうした「想像力」や「共感」から立ち上がる「連帯」の実践は、肥大化する情報環境においてますます動員と分断が加速していく現代の〈グレート・ゲーム〉の外部に立つための処方箋でもあるでしょう。いずれにせよ本作は単なる戦争小説を超えた相当に広い射程を持つ作品であることは間違いないように思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

映画における神話と倫理

* 映画への希望と失望

 
かつて「映画は世界の認識を変える」と素朴に信じられた時代がありました。リュミエール兄弟が1895年にシネマトグラフを公開して以降、ある時期までのフランスでは「映画」という新時代のメディアは従来の時空間の観念を変容させ、伝統的な芸術の枠組みさえ揺るがすだろうという期待を背負っていました。
 
その背景には第一次世界大戦を一つの契機として勃興した前衛芸術運動があります。ここで「前衛」と「映画」は等号で結び付けられ、1920年代のフランスにおいては様々なアヴァンギャルド映画が生み出されることになります。フランスを代表する作家・演劇家の一人であるアントナン・アルトーもまた当時、新時代のメディアとしての映画に魅せられた一人でした。アルトーは「魔術と映画」と題された1927年のテクストで次のように述べています。
 
映画は、人間の思考の曲がり角に、すり切れた言語がその象徴力を失い、精神が表象の戯れにうんざりする、まさにその点に到来する。
 
(アントナン・アルトー「魔術と映画」)

 

このように1920年代のフランスにおいて映画とは人間の認識を若々しく甦らせるための救世主の如き存在として祭り上げられていました。ところがこうしたフランスにおけるアヴァンギャルド映画の潮流は結局のところ、見果てぬ理想を追求する過剰なマニフェストだけが一人歩きした結果として観念的な思考実験に自閉して大衆性から遊離したものとなり、やがてトーキーの普及による無声映画の終焉とともに衰退の道を辿ることになります。アルトーは「魔術と映画」を書いた僅か数年後に「映画の早発的老衰」と題された1933年のテクストで次のように述べています。
 
トーキー以来、言葉による解明がイメージの自然発生的で無意識の詩をはばんでいるだけでなく、イメージの意味の言葉により説明と完成が、映画の限界を指し示している。
 
(アントナン・アルトー「映画の早発的老衰」)
 

* アンドレ・バザンヌーヴェル・ヴァーグ

 
こうして芸術としての映画は1920年代の無声映画時代に頂点に達するも、その美学的な独自性と社会的な批判力はトーキー以後に失われるという映画史観がとりわけ左翼系の映画理論家たちの間で形成されることになりました。ところが第二次世界大戦後、こうした従来の映画史観を180度転覆する画期的な映画批評を展開したのがフランス最大の映画批評家アンドレ・バザンです。
 
バザンは「リアリズム(現実主義)」という観点から映画史を捉え直し、おおよそ次のように主張します。1940年前後、ついに映画本来のポテンシャルを十全に発揮する諸々の潮流が現れ、アメリカではオーソン・ウェルズウィリアム・ワイラーが、フランスではジャン・ルノワールロベール・ブレッソンが、イタリアではロベルト・ロッセリーニを筆頭としたネオレアリスモの作家たちが「現実」を映し取る力に主眼を置いた新しい映画を続々と発表し始め、それは過度に形式主義的な実験の季節が終わったことから出来した映画における「第二の春」というべきものであったということです。
 
またバザンは映画評論の傍らでシネクラブを組織して旺盛な上映活動を展開し、1951年には伝説的な「カイエ・デュ・シネマ」誌を創刊します。同誌の寄稿者の中にはフランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダールエリック・ロメールクロード・シャブロルらといった後に映画史を一新する才能に充ち満ちたメンバーがいました。
 
フランス映画は第二次世界大戦後から「ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ばれる若い映画人たちによる刷新の運動が勃興する50年代にかけて批評と上映活動、そして創作が相互に高め合う極めて多産な時期を迎えることになりますが、その中核にいたのが他ならぬバザンです。彼が提示した映画史観は再び映画を来るべき芸術へと変え、そのことによって若い映画作家たちを鼓舞し、映画の未来を切り開いていきました。
 

* 映画とはリアリズムの芸術?

 
このように「リアリズム」という観点から映画史を捉え直したバザンは映画の使命とは世界を在りのままに映すことであると考えました。映画のカメラは人間の出来合いの知性を仲介させることなく、いわば直接的に世界そのものの姿を切り出すことができ、スクリーンに映るイメージは映画作家が然るべくそれを差し出す場合には手垢にまみれた意味を拭い取られ、現実よりも現実的な仕方で我々のまなざしに与えられると、このように映画をバザンは「リアリズムの芸術」として定式化します。
 
けれども現代おいてはバザンのいう「リアリズムの芸術」という映画の定式は受け入れ難いものとなっています。かつて映画の記録媒体はフィルムであり、確かにその限りで映画のイメージは「現実」の証拠となりうるものであり、光と影のかたちの痕跡がフィルムに定着したものが映画の技術的定義でした。
 
しかしながら現代における映画の記録媒体はもっぱらフィルムではなくデジタルデータであり、ひとたびデジタル化されたイメージは後からコンピュータ上でいくらでも加工することができます。言うなれば現代において「現実」とはいくらでも捏造可能なものであるということです。
 
畢竟、あらゆる映像は作為であり、作り手の価値観、無意識下の政治的信条が反映されていないということはありえません。それゆえに映画を「現実」の透明な写しとして受け入れるということは、実はその下に潜む意味や価値を無批判に許容することを意味しているといえるでしょう。
 

* リアリズムから自動性へ

 
こうしたリアリズム批判にはもっともな面もあるでしょう。けれども果たして、こうした批判によってバザンが探り当てようとした映画の力のすべてが無価値になってしまったといえるのでしょうか。この点、映画批評家の三浦哲哉氏は『映画とは何か』(2014)において、映画の持つ「直接的な力」をリアリズムではなく「自動性 automaticité,automatisme」という概念から再定義を試みます。
同書によれば「自動性」とは何より映画を映画たらしめる基礎的な要素であり、観客が映画に感情移入するための起点でもあります。「フランス映画思想史」という副題のついた同書ではフランス映画史を「自動性」という概念から捉え直すことを通じて、映画の持つ「直接的な力」を明らかにしていきます。
 
まず同書はフランスにおける科学映画のパイオニアとして知られるジャン・パンルヴェを論じています。パンルヴェはいわゆるフランス前衛映画運動が先細り、映画が世界の新しい認識をもたらすという理想が空疎な思考実験に陥ってしまった後も極めてユニークな活動を続けることができた異色のシネアストです。
 
前衛映画が華やかなりし1920年代においてシュルレアリスムと科学的観察の中間でキャリアをスタートさせたパンルヴェはその後もただひたすらタツノオトシゴやタコやミジンコといった水中生物を題材にした短編ドキュメンタリーを創り続けました。いわゆる「自然の神秘」を観客に垣間見せてくれる魅惑的な作品群を創る中でパンルヴェは顕微鏡カメラの先にある純粋な「自動運動」を再発見します。この「自動運動」へと沈潜することによりパンルヴェは「もはや有機物と無機物、生命と非生命とが区別されることのない映画に固有の地平を探し当てるだろう」と同書は述べています。
 

* 自動性の二つの局面

 
同書はここからアンドレ・バザンのリアリズム論を再考します。従来の標準的なバザン理解によれば、カメラという機械によって「現実」ないし「自然」そのものが人間の知性を媒介せずにある無垢な仕方で現れ、それこそが映画の力であり、またその力を最大限に引き出す態度こそがリアリズムだとされます。このような考え方はとりわけ映画作家の創作を導く原理として今もなお有効でありつづけています。しかし、こうした理解は映画におけるイメージとは映画以前から客観的に存在すると想定される「現実」の従属物であると見做す錯誤に陥る危険を孕んでいます。
 
これに対して同書はリアリズムによってバザンのすべてが言い尽くされるわけではなく、むしろバザンの論述には図式的な理解を拒む不透明さで充ち満ちているとして、バザンがその映画をめぐる思索を開始した1940年代の影響関係に遡り、彼のイメージ論が前提とする概念の布置を考え直すことにより、バザンが展開した議論とはむしろ「現実」に従属することのない「イメージ」の自律性こそを思考しようとしていたといいます。
 
すなわち、映画のもたらす自動的な保存の力により「現実」に対してイメージとしての「想像的なもの」が自律するということです。そしてこうした「想像的なもの」は時間の中で移ろいゆく「現実」に可逆的に影響を及ぼす起点となります。そのような動的なヴィジョンをバザンは素描したと同書はいいます。
 
つまり映画における「自動性」には二つの局面があるということです。第一にはカメラが自動的に事物を記録するという局面です。第二にはイメージが自動的に保存されることでこの社会の中で自律的な領域を形成するという局面です。そしてこのようなイメージによって形成される自律的な領域をバザンは「神話」と呼びました。
 
なお、こうした「現実」から自律した「想像的なもの」としてのイメージの領域をバザンとは異なる仕方で最も深く掘り下げた映画作家として同書はロベール・ブレッソンを取り上げています。カトリシズムのヴィジョンに深く浸された映画を作ったブレッソンの演出においてもやはり「自動性」の概念が中心的な役割を果たしています。彼の演出法は俳優の身体を「自動運動」の束に還元するというものであり、そこではブレッソンにおける宗教性が問題となります。こうしたことから同書は映画における「自動性」の淵源をブレッソンが絶えず参照したパスカルの神学的イメージ論に遡って考察していきます。
 

* 映画における神話と倫理

 
そして同書はフランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する一人である哲学者ジル・ドゥルーズの映画論『シネマ』(1983/1985)においてもその核心には「自動性」の概念があるといいます。ドゥルーズは映画における「自動性」を「世界への信」を再開させるための力として評価します。それはもはや素朴なリアリズムではありませんが、とりもなおさず、映画が観客を無媒介的な仕方で動かすことがあるということの肯定であります。
 
革命の季節を経て映画がアイロニカルな没入の対象として当然視されるようになった時代にドゥルーズは映画の直接的な力をもう一度見出そうとします。映画における「自動性」とは映画の黎明時代に世界を変える力を担うものと考えられたのだと、ドゥルーズは振り返ります。しかし現実にその力は国家に統制された産業と結びつくことにより観客を単なるファシズムのあやつり人形に変えてしまうこともあります。
 
けれどもその危機をもたらすのと同じ契機に新しい思考が生まれる可能性もあるのだとドゥルーズは述べます。すなわち、今ここにある「世界への信」を再開させるための小さなモメントとして、映画における「自動性」は新しい思考の端緒となり得るということです。
 
ドゥルーズは主著『差異と反復』(1968)において人間の思考とは自由になされるものではなく、何らかの「不法侵入」を受けることで強制的に始まるものであると述べています。こうしたドゥルーズの主張を國分功一郎氏は『暇と退屈の倫理学』(2011)において動物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界論を援用し次のように敷衍しています。
あらゆる動物は基本的にある特定の「環世界(その個体にとってのある具体的な世界象)」を生きています。これに対して人間は高度な環世界移動能力を有しています。ところがそれまでに獲得してきた環世界が何かの不法侵入を受け崩壊の危機に瀕した時、人はその環世界を再創造するため「不法侵入」してきた対象にとりさらわれることになります。
 
こうした環世界への「不法侵入」を契機としてドゥルーズのいうところの思考が開始されることになります。そしてこの間、人は環世界を移動することなくある特定の環世界に留まり続けることから、こうした状態を國分氏は〈動物になること〉と呼びます。
 
つまり人間の持つ可能性や創造性とは〈動物になること〉によって生み出されるということです。それゆえに國分氏は同書の結論部において、こうした〈動物になること〉を現代社会における倫理の一つとして位置付けます。
 
後年、ドゥルーズはあるインタビューで「なぜあなたは映画館にいくのか」と問われ「私は待ち構えているのだ」と答えています。すなわち、ドゥルーズは自分が〈動物になること〉が生じる瞬間を「待ち構えている」いうことです。そして彼にとってそのような瞬間が起きやすい場所こそが映画館であったのでしょう。
 
このようにかつてバザンが「神話」と呼んだ映画の「自動性」によって切り開かれるイメージが自律する領域とは、ドゥルーズのいう「世界への信」を再開するための場であり、そしてそれは〈動物になること〉が生じる瞬間を「待ち構えてる」場であり、現代における倫理が立ち上がる場であるといえるのではないでしょうか。