* きみの言い訳は最高の芸術(2016年)
⑴「過剰な何か」を刺し止める言葉
2007年に公刊された第一詩集『グッドモーニング』で第13回
中原中也賞を受賞し、
ゼロ年代の現代詩シーンに彗星の如く現れた
最果タヒ氏はその後も現在に至るまで、詩作を軸としつつ小説、エッセイ、作詞といった多方面での活躍を続けており、いまや凋落気味とされる現代詩というジャンルにおいて例外的に破格のポピュラリティを獲得している詩人であるといえます。
最果作品の特徴をあえて端的に言い表すのであれば、一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めようとするその特異的な文体にあるといえるでしょう。例えば「虚構という『系』から『きみ』を救い出すこと」(
早稲田文学2015年夏号所収)において
栗原裕一郎氏が指摘するように「歌詞のようにポップだが、文が意味を結びそうになる手前で理解から逃れていく」という最果作品の核心には、おそらく「もやもやしたものをもやもやしたまま差し出す、いわば未然の感情を未然の状態のまま届けるべく言葉を並べようと」する詩想があるように思えます。
ここで栗原氏のいう「未然の感情」とは、言葉にしてしまった瞬間に「死んでしまう」ような極めて微細な感情のことです。この点、2014年に公刊された第三詩集『死んでしまう系のぼくらに』のあとがきで最果氏はこう述べています。
「意味の為だけに存在する言葉は、時々暴力的に私達を意味付けする。その人だけのもやもやとした感情に、名前をつけること、それは、他人が決めてきた枠に無理やり自分の感情をおしこめることで、その人だけのとげとげとした部分は切り落とされ、皆が知っている「孤独」だとか「好き」だとかそういう簡単な気持ちに言い変えられる。」
(『死んでしまう系のぼくらに』より)
すなわち、この詩集の表題にある「死んでしまう系」とは「その人だけのもやもやとした感情=未然の感情」に「名前をつけること」で「死んでしまう」という「系=システム」のことを指しているのだと思われます。すなわち、最果氏の紡ぐテクストはこうした「系=システム」の以前に存在する言葉にできないはずの「未然の感情」をまさにその当の言葉によって掬い=救い出していく軌跡であるともいえるでしょう。
本書『きみの言い訳は最高の芸術』は最果氏が自身のブログに長年書き綴ってきた文章を中心にまとめたエッセイ集です。氏にとってのブログとは「呼吸」のような感覚に近いそうで「わたしが言葉を書くというより、言葉がわたしに書かせていると思うこともよくあった」と言います。
それゆえ、そのテクストは「思いもよらないことを書いていたり、あとで読んでもどうしてそんなことを書いたのかわからないものもある。私の中身がそこにあるというよりは、私が通過した痕跡がさざなみにように残るだけ」のものだったそうです。
こうした意味で本書を構成するテクストもまた、詩にかなり近い感覚で書かれているといえるでしょう。そして同時に本書では最果氏の創作に対する考え方が随所で語られており、これから最果作品に触れる上で良き手引き書ともなるように思えます。
⑵ 非意味的なコミュニケーションとしての詩
「言葉は簡単に、すべてを簡略化して、まったく違うものにしてしまう。クラスメイトと毎日昼食を食べて、音楽の話をするようになった、それだけでよかったのに、その関係性に「親友」と名付けてしまう。それだけで、きっとなにかが失われていた。自分だけの感情や関係を、他人に伝えるため、共有するため、たった一つの不思議な形をしていたそれらを、既存の概念に押し込んで、余計なものを削り落とした。そうでもしないと他人に伝えられないから。伝えられなかったら、「意味不明な子」って切り捨てられちゃうから。そう必死になっていた。けれど、実際のところ切り捨てられたそれらは本当に「余計なもの」だったのか?懸命に他人にわかってもらおうとしている一方で、自分の存在を否定し続けていた。そして、そうやって捨ててきたものを、人は永遠に思い出せない。」
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)
人は言葉を使って他者とコミュニケーションを行います。そして一般的にコミュニケーションとは発された言葉の意味を他者に理解されることを目的とします。そしてこうした「意味のあるコミュニケーション」において他者に理解できない言葉は文字通りの「意味不明な子」としてコミュニケーションの場から排除されることになります。
こうした中、最果氏は他者に理解されることのない「意味不明な子」を詩というかたちで掬い=救い出そうとします。すなわち、詩とは「意味のあるコミュニケーション」とは別のしかたでのコミュニケーション、いわば「非意味的なコミュニケーション」に開かれた表現であるといえるでしょう。ここでいう「非意味」とは「無意味」とは少し異なるものです。「無意味」は「意味がなくなる次元」をいいますが「非意味」とは「意味ではない次元」をいいます。
そして、このような「非意味的なコミュニケーション」としての詩は「意味のあるコミュニケーション」とは別様の可能性をもたらします。例えば千葉雅也氏は『勉強の哲学』(2017)において「勉強」の本質とは人が「自由」になるための「自己破壊」であるといい、こうした「自由」を得るための鍵として「言語」に注目し、特定の「環境のコード」から切り離された「ただの音」としての言語を同書は「器官なき言語」と呼び、言語を「道具的」にではなく「玩具的」に使用することで、自分を言語的に組み替えていくプロセスこそがが勉強における「自己破壊」であるといいます。
また千葉氏は『センスの哲学』(2024年)において「センス」をひとまず「直感的にわかる=直感的で総合的な判断力」として定義した上で、対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった「リズム」を
即物的に捉えることを「センスの目覚め」であるといいます。
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると同書はいいます。
非意味的なコミュニケーションとしての詩はまさに言語の「玩具的」な使用であり、「意味」の手前で展開する「リズム」によって駆動しています。こうした意味で優れた現代詩に触れることは、読み手の「自己破壊」と「センスの目覚め」の契機であるといえるでしょう。
⑶ 玩具的なリズムと訂正可能性
もちろん詩の可能性はそれだけではありません。非意味的なコミュニケーションとしての詩はここからさらに、意味のあるコミュニケーションを揺り動かす動因ともなります。
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼
ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。このようなコミュニケーションの中でルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象を
東浩紀氏は『訂正可能性の哲学』(2023年)においてルートヴィッヒ・
ウィトゲンシュタインとソール・
クリプキの
言語哲学を参照し「訂正可能性」として理論化しています。
まず、
ウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『
哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。すなわち、人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしていますが、そこでは実は複数のゲームが重なり合っており、例えば「愛のゲーム」と「ハラスメントのゲーム」が
紙一重のように、人は自分がいまどのようなルールのゲームをプレイしているかを原理的に知ることができないということです。これが
ウィトゲンシュタインが考える「
言語ゲーム」であり、彼はこのような複数の
言語ゲームの重なり合いを「家族的類似性」と呼びました。
そして、
クリプキはこのような
ウィトゲンシュタインの発見を『
ウィトゲンシュタインの
パラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。同書において
クリプキは「
クワス算」という「68+57」の解が「5」になる奇妙な演算を主張する
懐疑論者を登場させ、この主張への論理的な反駁は不可能であり、
クワス算が間違いであると見做すためには
懐疑論者の主張を「訂正」する共同体が必要となるといいます。
もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずです。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に更新される「訂正可能性」を孕んだものとなります。そして、このようにあらゆるルールが「訂正可能性」を孕んでいるにも関わらず、皆が複数のゲームを「同じもの」としてプレイしているという逆説には
ウィトゲンシュタインの提示した「家族的類似性」というイメージがぴたりと重なり合います。
こうしてみると、非意味的なコミュニケーションとしての詩とはまさに意味のあるコミュニケーションにとっての
クワス算のようなものではないでしょうか。ある詩によって紡がれる玩具的なリズムはコミュニケーションの共同体における訂正可能性の契機となります。換言すれば一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めていく詩という営みは、一般的でありきたりな言葉の
ボキャブラリーを豊穣なものにしていく契機であるともいえるでしょう。そして本書で語られる言葉の端々からは、こうした詩の持つ可能性に対する信頼を感じ取ることができるように思えます。
「私は詩人です。小説や新聞の言葉が、物語や情報を伝えるために書かれるのに対し、詩にはそうした目的がない。そして、だからこそ私は、言葉によって切り捨てられたものを、詩の言葉でならすくいだせると信じている。詩の言葉は理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。私はそういう言葉がかわいくて仕方がなかった。」
「わたしという人間がどういう人間か問われたら、やっぱり、つまらない人間ですと思う。でも言葉がわたしの思ったくだらないことを拾いあげるとき、もはや誰の気持ちかもわからない言葉、世界のかけらとか、急な海の匂いとか、そういうものが絡まった糸のようについてきて、もう、わたしはわたしでいられなかった。そしてだからわたしは、やっと自分の人生がおもしろいと思えたんだ。」
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)
* コンプレックス・プリズム(2020年)
⑴ 感情に色づけられたコンプレックス
「劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか?劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てた方がありのままだったかもしれない。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、今、ここに、書いていきたい。」
(『コンプレックス・プリズム』より)
人は常に自分の自由意志に基づいて理性的に自律的に主体的に動いている--と思っていたりするわけです。しかし常にそうであるとは限りません。ある種の
メンタルヘルスの疾病のように自分の意志とは異なる行動が生じてくるため悩んでいる人も多いでしょう。また「正常」な人でもその日常において自身の理性、自律性、主体性がどこかしら脅かされると感じられる現象にしばし遭遇します。
例えば前からよく知っている人なのにその人の前に行くと突然その名前をど忘れてしてしまったり、大事なところで妙な言い間違いをしてしまったり、また「なぜかわからないけどイライラする」とか「あいつはどうも虫が好かない」などと意味不明に感情を乱されてしまったりもします。
この点、スイスの
精神科医カール・グスタフ・
ユングは言語連想検査を通じて意識を統合する自我を脅かす何らかの感情に色付けられた無意識の心的作用を発見し、これを「コンプレックス(心的複合体)」と呼びました。こうしたコンプレックスが自我を完全に乗っ取ってしまう劇的な表れとして同一個人に異なった二つの人格が現れる二重人格や自分が複数存在として体験される二重身(分身体験)があります。
そして自我はその安定を図るためコンプレックスに対して様々な自我防衛の機制を用います。その代表格がコンプレックスを完全に抑え込んでしまう「抑圧」です。しかし、コンプレックスというのはなかなか簡単には抑圧できないので自我は次善の策として他の自我防衛の機制を発動させます。それは例えば、コンプレックスを他人に転嫁する「投影」であったり、コンプレックスとは全く逆の行為に走る「反動形成」であったり、コンプレックスとは似て非なる対象を選択する「代償」であったり、コンプレックスを取り込んでしまう「同一化」であったります。
本書『コンプレックス・プリズム』はこのような複雑で厄介な存在であるコンプレックスにさまざまな角度から光を当てていくエッセイ集です。先述のように最果作品の特徴とは一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めようとする特異的な文体にありますが、こうした「過剰な何か」の最たるものこそがまさにコンプレックスと呼ばれるものです。そうであれば本書はまさに書かれるべくして書かれた一冊といえるかもしれません。
⑵ 自我とコンプレックスのあいだ
本書の冒頭に置かれた「天才だと思っていた」というエッセイは「13歳。一体なんの天才なのかわからないけど、でも自分は確実に、何かの天才なのだと思っていた」という一文から始まり、なぜ「天才」だと思い込まないといけなかったのかというとそれは「どうしても必要な『言い訳』だったと今は思う」と述べられます。すなわち、ここには「天才」という言葉に結びついたコンプレックスがあるわけです。
「何を作ってみても、それが世界を変えるすばらしい出来、と盲目的に信じることはできなくて、ただただたくさんの傑作がある世界の中で、私は一人もぞもぞと何をしているんだろうなあ、と思った。それでも作るのをやめない、残そうとするのをやめない、そのために私は言い訳をしていかなくてはいけなくて、そこに必要な言葉が私にとっては「天才」だった。自信でもないし、傲慢でもなかった。自信過剰で恥ずかしいなんて、コンプレックスに思っていた当時の私に、違うよ、と言いたい。そんな強い言葉でしかもうはげますことができないぐらい、私は特別というものを失いかけて、崖の上にいる気がしていた、はやく、何者かにならなくちゃと雲の向こうを見つめていた。」
(『コンプレックス・プリズム』より)
ここでは「天才」という言葉の裏側に子どもの頃に持っていた「特別」を「大人」になることで失いかけていた13歳の焦燥を見出すことができるでしょう。すなわち、ここで「天才」という言葉は「特別」を喪失することに対する代償として機能しているわけです。
またその次の「わたしのセンスを試さないでください。」というエッセイでは他人の服のセンスを「ダサい」と断じる感覚への違和感が表明されています。
「ひとが、ダサいと平気で言うのは何なのだろう。本人はそれを選んできたのに、どうして他人がそれを否定できるのだろう。そりゃ、自分はそれを着ないなあ、とかあるのかもしれないけど、誰も着ろと言ってない。」
(『コンプレックス・プリズム』より)
ところがその後の「生きるには、若すぎる」というエッセイでは10代の頃から自身の抱える「ダサい」という感覚について述べられています。
「若いからなんだというのだろう、若さが終わったところで、わたしはなんにも真実を見つけ出していない。わたしにはまだ「ダサい」ぐらいの価値基準しかないだろう。そうして今はそれを、恥じているのかいないのか。変わったと言えばそこぐらいだ。わたしは恥じているのかいないのか。」
(『コンプレックス・プリズム』より)
こうして並べてみると前のエッセイで述べられている他人が断じる「ダサい」への違和感は後のエッセイで述べられている自身が抱え込む「ダサい」という基準に結びついたコンプレックスの投影であるともいえそうです。このように本書は時には表面的な矛盾を厭わずにコンプレックスと自我のあいだから生じる複雑な機制を丁寧に拾い出していきます。
⑶ 特異的なコンプレックス
「恋愛」というのも結局のところは一つのコンプレックスに帰着します。誰々さんが好きという感情とはその対象であるところの「誰々さんコンプレックス」であり、恋愛それ自体に対する憧憬や呪詛というのはまさしく「恋愛コンプレックス」です。この点、本書では「恋愛って気持ちわるわる症候群」というエッセイにおいて恋愛に対する屈折した距離感が述べられています。
「恋愛に関しての言葉はあまりにも多く、キャッチコピーも多数登場し、もはや商品を売りつけるには色恋を語ればOKとか思われてんじゃないの、なんて思う日もあります。実際、「あ、これは恋!」と思った暁にはちょっと高い化粧品もちょっと高い服も抵抗なく買ってしまうのだろうか。だとしら恋って商業的ですね、社会システムの潤滑油みたいな存在ですね。と、今でも斜に構えたようなことを書いてしまいそうになるけれど、恋はそれぐらい第
三者からすると理不尽な、無根拠な、理解
不能な存在であるため、だからこそ当人も自分を理性で説得できなくなるのだと思います。斜に構えてこその恋。ではないのか。などと、いうことが、当時わからなかったんですね。ただ本当に腹が立ち、信じられなくて気持ち悪かった。」
「恋愛はなんにも悪いことではなくて、しかしなんにもいいことでもなくて、神聖でもなくてロマンチックでもなくて、ただ二人の人間がこの人を大事にしようと決めただけの話であり、私が私の大事なぬいぐるみについて「これを大事に思っている」と説明したところで他人は「ふーん」ってなるんだから、愛もその程度の価値に落ち着いてほしいなと昔は思っていた。しかしそうなると、今度は愛に振り回されることが、美徳にもなんにもなくなるから、社会としては都合が悪いことであるのかもしれない。生きる上では仕方がないのかも。きもいのも過剰なのも絶対、否定はせんけど、必要悪みたいなもんなんですかねえ。そんな世界が一番きもい。」
(『コンプレックス・プリズム』より)
深層心理学の説くところによればコンプレックスは多層構造を成しており、あるコンプレックスの底には別のコンプレックスが潜んでいることもあるといわれます。そしてこのようなコンプレックスにおける多層構造の最深部にある根源的なコンプレックスとして、
精神分析の
創始者である
ジークムント・フロイトは両親に対する愛憎から生じる「
エディプス・コンプレックス」を見出し、
フロイトと決別して個人心理学を立ち上げたア
ルフレッド・
アドラーは生来の劣等感に由来する「劣等コンプレックス」を見出しました。
ところが、ここで述べられている社会システム的な恋愛観に基づく「きもい」という感覚は、どうにも
フロイトのいう
エディプス・コンプレックスや、
アドラーのいう劣等コンプレックスからは説明が難しい非定型的なコンプレックスのざわめきを示しているようにも思えます。
この点、
ユングは
エディプス・コンプレックスと劣等コンプレックスの相違は結局のところは外向的な
フロイトと内向的な
アドラーという両者の根本的な態度の相違に帰着するものであったとして、コンプレックスは確かに多層構造を有しているけれども、その中のどれか一つのコンプレックスだけを特権化して根源的なコンプレックスとして位置付けることはできないと主張しました。
そうであれば本書のいう「きもい」という感覚もまた
エディプス・コンプレックスや劣等コンプレックスには回収されない特異的なコンプレックスによって支えられているのかもしれません。そしてこれはいわゆる「ポスト・
神経症の時代」と呼ばれる今日的な感覚とも合致しているように思えます。
以上、ここまで見てきたように本書は様々なコンプレックスを深く繊細に、そして時に色どり豊かな筆致で記述していきます。人は日常の様々な場面で自身の抱えるコンプレックスに遭遇します。コンプレックスとは一見すると自我にとって何とも厄介な存在であるといえますが、その一方でコンプレックスは自我の一面性を補償するものとして大きな役割を担うことがあります。
ユングはこのような「心の相補性」に注目してコンプレックスの中に自我をより高みへと導く「個性化/
自己実現」の過程を見出しています。
いわばコンプレックスにはこれまで生きてこれなかった半面としての可能性の在り処が示されているといえます。そして自身の抱えるコンプレックスに向き合う上で文学の言葉は大きな助けとなるはずです。こうした意味で本書は最果作品への入門書となり得る一冊であると同時に、自身が抱えるコンプレックスへと入門するための一冊ともなるでしょう。
* 十代に共感する奴はみんな嘘つき(2017年)
⑴ 差異と同一性
ところで最果作品が刺し止めようとする「過剰な何か」とは先に述べたように心理学的には「コンプレックス」の問題として現れることがありますが、哲学的には「差異」の問題として問い直す事ができるでしょう。通常、人は「同一性(おなじもの)」を基準としてそこから逸脱したものを「差異(ちがうもの)」として位置付けます。このような意味で人の経験は「同一性」なくしては成り立ちません。
しかし実際の経験の流れの中に身を浸してみると、事物の組成にせよ言葉の意味にせよ、世の中のあらゆる事象は常に同一ではなく変転してやまないことに気付かされることになります。すなわち「同一性」とはこのような事象の変転をある時点で便宜上切り出した断面であり、それはある種の理念でありフィクションに過ぎないものです。
少なくとも
ポスト構造主義以降の哲学はこのような観点から同一性を捉え直しています。例えば「差異」の持つ固有性を追求した思想家として知られる
ジル・ドゥルーズは主著の一つである『差異と反復』(1968)において〈私〉という自我を自明の前提とせず「差異」が「反復」することで自我が立ち上がるプロセスを「現在」「過去」「未来」という三つの位相からなる「時間」として論じています。
すなわち、
ドゥルーズによれば〈私〉という「同一性」は「差異」が「反復」する効果として生じることになるわけですが、この単なる効果に過ぎない〈私〉という「同一性」が一旦成立するやいなや、直ちにそれがあたかも「差異」に先行する自明の前提であるかの如き転倒が生じることになります。
「同一性」の手前には微細な「差異」の蠢く世界があるということ。およそ世界の中で何一つ同じものとしてとどまるものはないということ。こうした観点から「同一性」と「差異」の二項対立は「差異そのもの(あるいは差異そのものを内在する仮固定的な同一性)」へと
脱構築されることになります。では言葉はこうした「差異そのもの」を捉えることができるのでしょうか。
こうした意味で「過剰な何か」を刺し止めようとする試みとは、換言すれば、それは「互いに理解できる形」としての言葉が持つ「同一性」の手前にある「人によってちょっとずつ違うもの」「ささいなこと、あいまいなこと」としての「差異」の蠢く世界を、やはり言葉によって掬い=救いだそうとする試みであるともいえます。こうした意味で本作『十代に共感する奴はみんな嘘つき』は最果作品の核心部をなす「同一性」と「差異」のせめぎ合いを思春期のこころの揺らぎに託して真正面から描き出した小説であるといえるでしょう。
⑵ 十代という季節
私は生きているけれど、女子高生であることのほうが意味があって、自殺したどっかの同い年がニュースで流れて、ちょっと羨ましい。パスタが食べたいけどお金がないから、家でミートソースばかり作ってもらって食べている。バターを節約したパスタはちょっとだまになって食べづらい。」
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)
本作の主人公である高校生、唐坂和葉(カズハ)は常に周囲の環境に違和感を持ち、他者や世界に対して過剰な反発心を抱いています。カズハは他者との関わりの根拠を「愛」を範例とする「感情」と「セックス」に象徴される「現象」という二項対立に還元した上で「感情」をもとに行われるコミュニケーションを極度に唾棄する思考の持ち主であり、なかでも「共感」は彼女の中でどこまでも否定すべきものとみなされています。
「誰がこのまえ好きな先輩に告白したとか、誰がこのまえテストで
カンニングして見つかったらしいとか、そういう話をだらだら聞いて、私はひとり電車が過ぎ去っていくのを見ていた。乗らないの、とかきいてはいけない。このホームでベンチに座って団子食べて語り合うのが青春であって、かけがえのない時の流れなんだから。鴨川のそばにすわって臭くはないかもしれないけど水の匂いを嗅ぐ
カップルを馬鹿にはできない。」
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)
カズハは同級生男子への告白をめぐるいざこざがきっかけでクラスの女子達からハブられてしまいますが、その一方でカズハから告白された(そして次の瞬間に振られた)当事者の「沢くん」は逆にカズハの独特のキャラに興味を持ち、何かと絡んでくるようになり、ここにカズハのクラスで孤立している「初岡」という女子が巻き込まれます。こうして本作はカズハ、沢くん、初岡という
三者間が織りなすまったく噛み合わないコミュニケーションの様相を繊細かつ鋭い筆致で紡ぎ出していきます。
そんな折、京都の大学に7年間在籍しているカズハの兄が唐突に恋人と、さらに彼女の浮気相手である兄の親友を連れて帰ってきます。カズハの沢くんへの意味不明な告白の裏には兄に対して抱く複雑な感情があったようです。果たして兄の恋人(カズハいわく「ビッチ」)の浮気は自殺しそうな兄の親友を救うためという事情があり、彼女と結婚するという兄の言葉にカズハは激しく動揺します。
⑶ 感情と共感
「ビッチのやることは理解ができた。親友を救うために、愛を用いようとしなかった彼女を信頼できるとすら思った。私は愛なんて、セックスなんてわかんないけどそう思ったのだ。セックスでなんとかしようとしたならそれは、愛よりも筋の通った手段。感情ではなく現象だから。未来からも永遠に観測できる存在だから。愛は、消える、見えなくなる。あったのかすら、きっとおぼろげになってしまう、たぶん。それなのに結婚とかいう愛でビッチとの関係をつなぎ止めようとするお兄ちゃん。「愛じゃない、結婚だよ」とか言って「それに性行為はただの現象じゃないよ。そこには快楽がつきまとうだろ」とか言って。私の考えていることはわかるくせに「結婚」にはかたくなだから、私が見えていないものもふくめて全部、兄にだけ見えているのかもと思うとつらい。」
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)
なぜカズハはこうまで「感情」や「共感」を拒絶するのでしょうか。まず、そもそも「感情」とは言葉によって生み出されるものです。これに対して言葉以前に湧き上がる身体的、現実的な正体不明の感覚を「情動」といいます。このような「情動」は帰属主体が不明確であり、送り手と受け手が明瞭に分かれておらず、志向性を持っていません。つまり「情動」において伝播は直接的なものであるということです。
しかし、やがて人は言葉を習得する過程で自身の「情動」に名前をつけていくことになります。こうして「情動」の持つ強度は縮減され「嬉しい」とか「悲しい」といった言葉に分節された「感情」という同一性の中で処理されることになります。このような「感情」は帰属主体が明確であり、送り手と受け手が明瞭に分たれており、志向性を持っています。つまり「感情」において伝播は間接的なものとなるということです。
こうしたことから送り手と受け手の「感情」が同じであるという保証はどこにもないわけです。例えば送り手の「悲しい」という感情はそのまま受け手に伝わるわけではなく、受け手では、まず「彼女が悲しんでいる」という認知が生じ、ここから「いったい何があったのだろう」「やれ困ったな」「私がさっき言ったことがよくなかったのだろうか」「どうしてあげたらいいんだろう」といったさまざまな思考が派生し、その中から最適解と思われる応答を送り手に送り返すことになります。
こうしてみると送り手から発信された「感情」を受信した受け手が行う一連の
プロトコル(約束事)としての「共感」とは「感情」に照準をあてる限りで、常にその「同一性」の手前にある「差異」を取り逃がしてしまう側面を持っているともいえます。すなわち、カズハの抱える感情や共感に対する苛立ちとは、畢竟「同一性」に対する「差異」の苛立ちであるともいえるでしょう。
* かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。(2015年)
最果氏は2005年から
思潮社の『
現代詩手帖』に投稿を始め、先述のように2007年に公刊した第一詩集『グッドモーニング』で
中原中也賞を受賞していますが、それ以前の時期には「現代詩フォーラム」や「文学極道」といった投稿サイトで活動しており、また同時期には老舗日記サイトである「エンピツ」や「
前略プロフィール」で知られる「CGIBOY」や「
ヤプログ!」の前身となる「
ヤプース!」といった
Webサービスにも日記などを投稿していたようです。言うなれば現代詩人
最果タヒは
ゼロ年代初頭のインターネットから生み出されたといってもよさそうです。氏は次のように書いています。
「インターネットが小学生の頃からあって、多分中学に入って同時ぐらいに、不特定多数の人が見る場所で書くということを覚えたんです。で、それまではまあそんなに書いたりしていなかったのに、見ている人がいると思うとどんどん書けたし、楽しかったので、私にとって書くとは誰かに見られる前提で書く、というのとイコールなんです。」
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)
もっとも、最果氏のインターネットへの距離感は次のような発言を読むと、そう単純ではないというか、むしろある種の屈折を抱えているようにも思えます。
「でも実際に、こう、やろうと思った瞬間こそが楽しさ最高潮であって、実際にやってみたらたいして楽しくなかった、なんてことは結構ある。インターネットも私にとってはその類です。ネットの良さといえば、世界中と一瞬で繋がれるということ、世界って広い、と実感できるということかもしれないけれど、私が通常ネットで見ているものなんて自分のサイト関係だけだし、世界の広さなんて全く実感できていない。混んだ電車の中だとか、行列に並んでいる時間とか、そういう退屈な現実の中で
スマホを握りしめて、私はいつだって別世界へ行けるんだ、と思っている時のほうがずっとネットの「広さ」を
謳歌してる。ネット自体を愛しているというよりは、いつでもネットに触れられるというその余裕こそが大切なのかもしれない、なんてことを思います。」
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)
「インターネットが特別だとは思ったことはありません。インターネットがなかった世界が不自然だっただけ。人は、みんな人としてネットに写真や言葉を投稿しているのに、どうやっても閲覧者から現象としてしか捉えることができないでいる。本当に向こうに人間がいるのか、わからないし、どこかで信じてないと思ってしまう。現実世界でははっきりとした輪郭の中に、肉体として存在するわけだけれど、インターネットでは滲んでいく形しか姿を表せなくて、それが私にとってはむしろ自然なことに思えた。」
そして最果氏初の長編小説である本書『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』はこうした氏のインターネットに対する屈折した距離感をそのまま物語にした作品としても読めるでしょう。
⑵ インターネットの魔法と正義
「
魔法少女の攻略本(税抜価格・四百十九円)によると、フィクション・ノンフィクション問わず、
魔法少女はロマンティックなものから力を借りて変身をするらしい。たとえば月や星、空や海といったそんなものによって、魔法という不思議現象は発生しているんだよ☆ なーんてことがそこには書かれていて、だからインターネットの力で
魔法少女が変身できるのもナットクだね☆ と説明文は続いていた。」
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)
本作のあらすじはこうです。インターネットが高度に進化した世界を舞台する本作の主人公、あかり(織田日明)はインターネットの力で変身する
魔法少女です。ちょっと遅刻が多いだけのごく普通の女子高生だった彼女は「ネット学習」という必須科目の出席不足を理由に国家公務員のおじさんから
魔法少女業務を半ば無理やり押し付けられ、嫌々ながら日々インターネットの悪意によって生まれる魔物を退治してまわっていました。
そんな特別だけれども平凡なあかりの前に安楽さん(安楽栞)という
安楽椅子探偵を名乗るアンドロイドが現れます。安楽さんはあかりの学校の風紀委員長からの依頼を受けて風紀違反の捜査に従事していました。そしてあかりはインターネットが不得手な安楽さんに懇願されて彼女の仕事を手伝う羽目になり、やがてインターネットをめぐる巨大な政治的陰謀に巻き込まれてしまいます。
「ネットは便利。ネットは便利、ネットは便利だ、ほとんど使えない私だってそれは断言できる。インターネット最高だねって言える。検索したらどんな情報でも出てくるよ、ニュースは早いし、好きな歌手の公式サイトも見られるよ、ネットは便利だ、すばらしいんだ。すてきなネットの力を借りて変身して、悪用しようとするバカをぶっつぶせるなら、それは私の自尊心が満たされて空も飛べそう。」
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)
インターネットの力によって
魔法少女に変身するあかりはまさにインターネットから生まれた現代詩人
最果タヒの分身ともいえそうです。もっともあかり自身はインターネットそれ自体に対してさしたる思い入れはなく、ネットをしないという安楽さんにインターネットは便利で素晴らしいから使ってみなよなどと激しく力説するのも、それは彼女がインターネットの素晴らしさを心から信じているからとかではなく、インターネットの素晴らしさを否定されてしまうと
魔法少女の自分が
「正義の味方」を名乗る根拠がなくなって単純に困るからです。
そして本作ではインターネットに対する両極端な「正義」を担う人物として、あかりを
魔法少女にした国家公務員のおじさんこと
文化庁のエージェントである榊とあかりの通う高校の生徒会長にして天才科学者である一時子がそれぞれ配置されています。
この点、インターネットを極端な形で否定する榊は以前から急速に成長を始めた「0」と呼ばれるインターネット上の集合人格知がやがて全人類を支配する未来を危惧しており、人類を守るため
集合知「0」の暴走を止めるための「特効薬」となる対抗プログラムをどうにか見つけ出そうと暗躍しています。
これに対して、インターネットを極端な形で肯定する時子は
集合知「0」の製作者でもあり、インターネットがさらに成長することで個人の境界線が曖昧になって皆が『みんな』として存在する世界に至る
人類補完計画のようなものを密かに夢想しています。
こうした中であかりの導き手となる安楽さんのスタンスは極めてフラットです。彼女はインターネットそれ自体を悪いものともすばらしいものとも思っておらず、悪い結果が起きるのも良い結果が起きるのも包丁と一緒でインターネットを使う人間次第であると考えており、インターネットの進化を止めるのではなく共存する方法を探そうといいます。
⑶ みんなで世界を変えていけるということ
物語後半、榊から
集合知「0」を倒すために
魔法少女として協力を迫られたあかりはもはや何が「正義」なのかわからなくなり、この状況でいま自分はどうするべきなのかを自問自答して迷った末、安楽さんの言葉に背中を押される形で、
魔法少女でも正義の味方でもない、ちょっと遅刻の多いだけのごく普通の女子高生として、インターネットの可能性を信じる「選択」ではなく、インターネットの可能性を信じる「人」を信じようとします。
「私がふるおうとしているものは、正義なんかじゃなくて身勝手な暴力なのかもしれないね。きっとそうに違いない。でも、その可能性を、その責任を、その汚さを、背負うことが力をふるうってことだと思うよ。それでもいいからふるいたい暴力を私は振るう。私は凡人だから、身勝手にしか、自分のためにしか力を使えないよ。
ごめん、インターネット。」
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)
そしてあかりは「あなたは何も知らない。私は何もかも知っている。正しく判断できるのは誰でしょうか」と問い糺す榊に対して次のように答えます。
「でも、世界は、インターネットは、おじさんのものじゃないです。」
(中略)
「正しい人とか、なにもかも分かっている人とかそういう人たちのものでもないです。正しかったら、頭がよかったら、世界を変えていいってわけじゃない。世界はみんなのものだから、みんなが変えていけばいい。それで間違ったことをしちゃった人がいたとしても。だから、おじさんの考え方なんて、関係ない。私は私が選択したい方法を選択します」
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)
もっとも、ここであかりは自身の正義を肯定しつつも自身とは別の正義を決して否定せず、この世界を一切の泡立ちのない透明で安定したものとしてではなく、サイダーのように様々な他者性の泡立ちがざわめくような
脱構築的な発想で捉えています。
こうしてみると本作は「
大きな物語」の語る「正義」に安住していた主体が「
大きな物語」の不在に戸惑い、様々な「小さな物語」としての「正義」が乱立する中で自身の「正義」を「暴力」として引き受け直していくという
ゼロ年代的な正義論から出発しつつも、その「正義」の中に
決断主義的に立て篭もり世界を友と敵の二項対立で切り分けることなく、そこからさらに世界中で泡立つ様々な未熟で迂闊な名もなき「正義」を包摂していくという2010年代的な正義論へ向かっているといえるでしょう。
「私たちはきちんとここにいて、だからここを変えていける。友達との関係を変えられる。学校の雰囲気を変えられる。地元の環境を変えられる。国を、世界だって、変えられる。微力と無力は大違いだよ。当事者でない人たちが、どこにもいないなら、無力な人だってどこにもいないのだ。」
(『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』より)
みんなで世界を変えていけるということ。ここには分かり合えなさを分かり合うことで他者(性)と手をつなぐというすぐれて
脱構築的な倫理を見ることができるでしょう。いわば本作は「かわいいだけじゃない私たちの」中にある「過剰な何か」として表出する「かわいいだけの平凡」な「正義」を愛でる物語であったといえるでしょう。
⑴ 詩と映画が交差するとき
2016年に公刊された第四詩集である本書『
夜空はいつでも最高密度の青色だ』には、翌年に公開された
石井裕也監督・脚本による本書をモチーフとした同名の映画が存在します。初期最果作品の到達点である本書の詩想に触れる上でこの映画がひとつの導きの糸となるでしょう。
映画の舞台は渋谷と新宿であり、主人公は二人の若い男女です。美香(
石橋静河)は看護師として病院に勤務しながら、経済的に厳しい実家に仕送りをするため夜は
ガールズバーのアルバイトをしています。そして、慎二(
池松壮亮)は工事現場の日雇い労働者として働き、木造アパートでギリギリの生活をしています。
ある日、看護師の同僚と合コンに行った美香は席を外した際、一人客で来店していた慎二とすれ違いざまに目が合います。その後、慎二は工事現場の同僚の智之(
松田龍平)らと成り行きで
ガールズバーに行くことになり、たまたまその店で働いていた美香と遭遇します。その帰り道、人身事故で終電を無くして深夜の渋谷を歩いていた慎二は、仕事が終わり帰宅する途中の美香に声を掛けられます。
「なんでこんなに何回も会うんだろうね。東京には1000万人も人がいるのに、どうでもいい奇跡だね」
(映画『夜空はいつでも最高密度の青空だ』より)
その後、現場で
脳卒中を起こして亡くなった智之の葬儀で慎二と美香は再会し、さらに後日、現場で怪我をした慎二が病院に行くと看護師として働く美香と出くわすことになります。
「また会えないか」と言う慎二に美香は「まあ、メールアドレスだけなら教えてもいいけど」と答え、2人はぎこちない交流を始めます。
⑵ 非意味的なコミュニケーションがもたらすもの
慎二は左目が見えておらず社会に適応できない不安を抱いています。そして場の空気がうまく読めず突然、脈絡のないことをとめどなく喋り始めてしまう癖を持っており、周囲から顰蹙を買うこともしばしばです。一方で、美香は幼少時に母を亡くし、死に対する不安を感じながら育ち、今は患者の死を当たり前のように受け入れなければならない日々を過ごしています。
この映画の大きな特徴の一つには、このような非意味的なコミュニケーションがあります。慎二が喋らないと美香は不安になり、代わりに自分が脈絡のない事をとめどなく喋り始めたりもします。慎二も美香も不安に駆られて非意味的に言葉を発し、時にはお互いの発する非意味な言葉同士が衝突したりもします。けれども、このような衝突からやがて2人の間に「分かり合えなさを分かりあう」という逆説的なコミュニケーションがもたらされることになります。
こうした本作が描く非意味的なコミュニケーションのあり方には、おそらく最果氏の紡ぐ詩と共通するアプローチを見出すことができるでしょう。ここで思い起こされるのは最果氏の次のような言葉です。
「詩を書くようになって、もっと曖昧なものを作るようになって、何言ってんのかわかんないって言われることも時々あったけれど、私はたぶんすべての人に対して何言っているかわかんないって思っている。むしろ何言っているのか分かったら気持ち悪いな、吐いちゃうな、ときっとどこかで考えている。分かってもらえないことや、わかってあげられないことが、ちゃんと心地よいままでいたい。わかんない部分があるからあなたと私は他人なんです。そういう態度でいたかった。」
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)
そして、このような非意味性はこの映画のモチーフとなっている本書の冒頭に置かれた「青色の詩」にも極めて印象的な形で現れてます。この詩が概ね意味するところはフランスの
精神分析家
ジャック・ラカンによる名高いテーゼ「性関係の不在」から「ひとまずは」読み解くことができるでしょう。
ラカンによれば人は言語の主体となることで言語によって捉えることのできない「過剰な何か」を喪失します(「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。」「塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。」)。
そしてその「過剰な何か」を
ラカンは「欲動」が満足した状態としての「享楽」といいます。けれども人は言語の主体である以上、決して「享楽」の境域に到達することはあり得ず、その周囲をひたすら空回りすることになります。この「享楽の不可能性」をめぐり空回りするだけの果てしない徒労こそが一般的に「人生」と呼ばれるものです(「きみがかわいそうだと思っている君自身を、誰も愛さない間、」「君はきっと世界を嫌いでいい。」)。
そしてこのような「享楽の不可能性」を男女関係で言い表せば「性関係の不在」ということになるわけです(「そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。」)。
ここには極めて逆説的なメッセージを読み取ることができるでしょう。人はどう足掻いたって「享楽」に辿り着けない、だから君が世界を嫌っていても全然おかしくない、性関係などどこにもない、恋愛なんて所詮はまやかしだ、世界はそもそもそういう風にできているんだから・・・そして、これは「愛」をどこか嘘くさいものと思っている美香の諦念とも重なり合います。
この一文の「意味」を強いて解釈すれば「隠極まれば陽となる」とか「絶望は転じて希望となる」などというやはり逆説的なメッセージです。けれども、その「意味」をそのまま詩の中に書いてしまっても、それはその辺に普通にありがちな、極めて凡庸なメッセージにしかならないでしょう。
無限の意味の空回りをリズムで訂正するということ。それは畢竟、
存在論的な不安を生成変化の脈動へ転換するということであるといえます。そして、こうした生成変化の脈動こそが最果作品が刺し止めようとする「過剰な何か」なのではないでしょうか。