かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「宇宙」を切り開くということ--伊藤守『フェリックス・ガタリの思想』

* ポストメディア時代の思想家

 
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ精神分析家フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)は1968年にフランスで起きたいわゆる「5月革命」を駆動させた「欲望」の奔流を原理的に考察し、1970年代の大陸哲学最大のムーブメントを巻き起こした哲学書として知られています。同書の主旋律を成すのはその極めて激越なまでの精神分析批判です。この点、精神分析創始者であるジークムント・フロイトは19世紀末、当時謎の奇病とされたヒステリーをはじめとする神経症の治療法を試行錯誤する中で、その原因が幼児期の性生活に由来する性的欲望と性的空想のなかにある事を突き止めて、幼児期の性生活の中核には異性の親に愛着を持つ一方で同性の親に対する憎悪を抱くという「エディプス・コンプレックス」という心的葛藤があることを発見しました。
 
そしてこの「エディプス・コンプレックス」なる一見して奇怪なフロイト神話を構造言語学の知見を用いて再解釈したのが構造主義の代表的論客として知られるフランスの精神分析ジャック・ラカンです。ラカンエディプス・コンプレックスを「象徴界(言語の領域)」という「シニフィアンの構造」を統御するシニフィアンである〈父の名〉の導入として捉え、この〈父の名〉が正常に導入されているか否かを基準として、人の心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかへと鑑別しました。
 
こうしたフロイトラカンが提示するエディプス・コンプレックスに規定された「神経症=いわゆる正常」という構図を同書は真正面から批判し、精神分析オルタナティヴとして、いわば「神経症の精神病化」というべき「分裂分析」を提示することになります。同書においてドゥルーズ&ガタリが目指したのはいわばエディプス・コンプレックスに規定された欲望を内破する多様多彩な欲望の表出であり、こうした同書の企図はやがて同書の続編として公刊された『千のプラトー』(1980)において「リゾーム(根茎)」という概念へ昇華されることになります。
ここでいう「リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいいます。この点「ツリー(樹木)」は1本の幹を中心に根や枝葉が広がり階層化されており、我々が一般的に「秩序」と呼ぶものの特性を備えています。これに対して、リゾームには全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただ限りなく連結して、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖からなります。こうしたリゾームという言葉によって、ドゥルーズ&ガタリは、旧来の家父長的規範性からの逃走と偶然的接続による多様な生のなかに、単なるカオスではない別の秩序の多様な可能性を見出していくのでした。
 
ところで同書の2人の著者のうちの1人であるドゥルーズポスト構造主義を代表する思想家として(あるいは20世紀後半を代表する哲学者として)現代思想や哲学、社会学、メディア研究、映画研究といったさまざまな分野で数多くの批評家や研究者によって繰り返し検討に付され続けているのに比較するならば、同書のもう1人の著者であるガタリが単独で言及される機会は少なかったといえます。こうした状況のなかで今年公刊された本書『フェリックス・ガタリの思想』は新たなメディア=技術環境が成立した「ポストメディア時代」を先取りした思想家としてガタリに光を当てていく一冊であるといえます。
 

* 精神医療と社会運動のあいだで

あらためてフェリックス・ガタリとはどのような思想家なのでしょうか。ガタリは1930年にパリ北西部郊外に生まれ、10代後半からジャン=ポール・サルトル実存主義に傾倒したことで左翼運動に関与することになり、大学入学後はラカンの薫陶を受け、学生たちからは「ラカン」というあだ名(!)をつけられるほど当時はラカンに魅了されていたそうです。
 
その後、1954年に精神科医ジャン・ウリの誘いに応じ、ラボルド精神病院に勤務して精神病患者の治療に従事します。その間、1968年5月にフランス全土で展開された学生運動・社会闘争に参加し、さらに監獄情報グループ(GIP)の運動に加わり、精神医療制度の変革を求める「制度論研究グループ」を設立して精神医療改革の中心メンバーとして活躍し、1990年代にはフランスの緑の党に所属して環境運動にも積極的にコミットするなど、1992年に急逝するまで社会を変革するための政治・社会運動で指導的役割を担い続けました。
 
彼の思索の集大成的な論考である「三つのエコロジー」はそのタイトルが示すように現代社会の危機と病理とその解決の方途を「環境エコロジー」と「社会的エコロジー」そして「精神的エコロジー」という三つのエコロジー生態学という巨視的な視点から考究するものです。すなわち、ガタリにとって自然を物理的対象として位置付け単なる開発の対象とする思考の構造を抜本的に見直し環境破壊を食い止めようという課題(環境エコロジー)は、宗教や人種や階級やジェンダーセクシュアリティが複雑に交差した差別や抑圧を乗り越えるべく社会的関係をエコロジカルに変革する課題(社会的エコロジー)や、人間の活動を支える価値の支配的様式を反省して精神のエコロジーを再構築する課題(精神的エコロジー)と決して決して切り離すことができない三位一体の課題であったということです。
 
そして彼の死後から30年近くが経過したいま「人新世」と呼ばれる地球規模の時間軸でみても急激な環境変化が続く危機的状況は、かつてガタリが「三つのエコロジー」で語ったように一刻の猶予のない切実な現代社会の課題となっているといえるでしょう。
 

* 制度論的精神療法とは何か

 
ガタリの思想の原点は彼の生涯の職場であったラボルド精神病院における実践にあります。ガタリによれば彼がラボルドで働き始めた当時、フランスの精神医療はその多くの場合「ほとんど動物を飼うような管理システムで精神病を扱っていたので、患者は一日中そこいらをぐるぐる歩き回り、頭を壁に打ち付け、叫んだり殴り合ったりし、汚物や糞尿のなかにうずくまっているといった光景が普通」であったとされます。
 
そのような環境を抜本的に見直し、病院の制度や集団性を根本的に改革する運動こそがラボルドでガタリの実践した「制度論的精神療法」です。この点、ウリによれば「制度論的精神療法」とは異質な諸領域や行動を組み合わせて欲望を循環させるためのさまざまな「仕掛け」を組み立てるための制度分析のことをいいます。そしてラボルドにおいてガタリが取り組んだ仕事とは、まさにこうした領域や行動が常に変化しながら循環する横断的な制度を構成すること、そして常にその制度を見直し、不断に再組織化することでした。
 
その実践はガタリ自身が述べるところによれば、まず「病院の横断的委員会、とくに患者のクラブを発展させる」ことであり、具体的には「全体集会、書記局、在院患者とスタッフが同等の立場で運営する協同委員会、1日を活性化するための基盤委員会、新聞発行、絵画、裁縫、鶏小屋、園芸など、あらゆる種類の「作業所」をつくる」仕事になります。もっとも、このような新たな組織化を行うには医療看護のスタッフだけではなく、掃除や食器洗いなどを行う施設管理のスタッフ全員の協力が不可欠であり、さらには全員が横断的にさまざまな役割を分担して引き受けるという困難な課題が生じます。
 
こうした課題を解決するための一つのツールとして、ガタリがその重要性を繰り返し指摘する「図表=ダイアグラム(役割分担表)」という一覧表があります。ガタリは後年この「図表=ダイアグラム」という概念を精緻化させ「抽象機械」という概念へと結実させることになります。
 

*「宇宙」を切り開くということ

 
集団行動、作業所の運営、精神療法など、日々の日常生活を織りなす施設のさまざまな活動を患者やスタッフや精神科医が責任をもって担う制度論的精神療法の本質的な方向性はあくまでも「看護する者と看護される者の関係、ならびに在院患者と病院職員の関係から差別をなくす方向に向かう」ことにありました。この点、課題解決ツールである「図表=ダイアグラム」と密接に結びついている「横断性」というガタリ独自の概念の萌芽はこの具体的・経験的な実践に由来しています。
 
そして、在院患者と病院職員と医師の横断的関係の構成とは一方的な精神科医による「治療」や「教育」ではなく、日常生活の中での多種多様な応答を関係を通じて、精神病患者それぞれが「世界との関係」を切り結ぶことで独自の「宇宙」を切り開いていける多様な接触点を絶えず作り出すという目的に到達するための「仕掛け」であり、こうした「仕掛け」の構築こそが制度論的精神療法の主眼であったといえます。
 
1972年に刊行されたガタリの著作『精神分析と横断性』のなかに収録された「制度論的精神療法入門」「制度論的精神療法に関する哲学者のための考察」「転移」といった論考においてはガタリ自身の実践を通した制度論的精神療法の課題と方法そしてその哲学的含意が検討され「横断性」の概念から精神分析への批判的検討が行われています。これらの論考はいずれも1950年代の経験を踏まえて1960年代前半に執筆されたものですが、こうしたガタリの実践を踏まえた考察が『アンチ・オイディプス』における革新的な議論へと結実したことは疑いないでしょう。
 

* ドゥルーズ&ガタリガタリの側から読む

 
本書の序章「アール・ブリュット ガタリの思考の原点」ではガタリの思索を理解する上でもっとも適切な入口として「アール・ブリュット」が取り上げられます。日本では「生の芸術」や「素朴芸術」と訳されてきたアール・ブリュット(art brut)とは「野生の/原始的な/洗練されていない」という多義的な意味を持っています。ガタリドゥルーズは『千のプラトー』の中の「リトルネロ」において「アール・ブリュットは、領土性の運動の中で表現の質料を形成し、解放している」と述べています。このようなアール・ブリュットにおける「表現の質料」が文字という記号を「非-シニフィアン」に解放し、その解放から特異な「宇宙」を造形していくと本書は述べます。そして、ガタリを理解する上で最重要となる概念がこの「宇宙」に他なりません。
 
第Ⅰ部「実存」ではラボルド精神病院で直面した当時の精神医学や精神分析が抱えた問題、政治運動を経験する中で浮かび上がった社会組織や政治組織などあらゆる集団に顕在化した問題、そしてこれらの問題の基底に存在する発話行為をめぐる権力的な非対称性を前にした時に生起する「いかに生きるべきか、いかに生きるべきなのか」という問いにどう向き合っていくのかという「実存」の問題をめぐるガタリの思索が辿り直されます。
 
第Ⅱ部「非-シニフィアン」では従来の言語学記号学が等閑視していたこの「非-シニフィアン」という領域の「発見」と、この領域を照らし出すための「言葉」を探りあて、理論化を進めるべくガタリが手探りで歩んだ二つのルート、すなわちチャールズ・サンダース・パース記号論の内在的検討とイェルムスレウ言語学の批判的検討という二つのルートが読み解かれます。
 
第Ⅲ部「マシーン=機械」ではこれまでに検討した「マシーン=機械」概念が晩年の著作『カオスモーズ』においてより精緻化されていることが論じられるとともに「統合的資本主義」というガタリ現代社会認識がデジタル・テクノロジーの進展に関する鋭い洞察を基盤として展開されており、現時点においても先駆的な議論であったことを踏まえ、このようなガタリの思考の現在のメディア研究、ネットワーク社会研究への寄与が論じられます。
 
従来『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』といったドゥルーズ&ガタリの著作は(少なくとも一般向けの解説においては)もっぱら哲学的な切り口から、いうなれば「ドゥルーズの側から」読み解かれることが多かったように思います。けれども彼らの著作の前提にはガタリがラボルドで繰り広げてきた制度論的精神療法の実践があることは確かです。そうであれば彼らの著作は「ドゥルーズの側から」のみならず、こうした精神医療の現場において試行錯誤を積み重ねてきた「ガタリの側から」読み解くことにより、初めて哲学と現実を切り結んでいく実り豊かな領野が立ち現れてくるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Critically Queer--藤高和輝『バトラー入門』

* クィアスタディーズとパフォーマティヴィティ

 
性、特にセクシュアルマイノリティに光を当てる学問分野であるクィアスタディーズは社会的には1980年代に世界各国のゲイコミュニティが直面したHIV/AIDSという問題を受けて、学問的にはフランス現代思想におけるポスト構造主義の影響の下で成立しました。その基本的な視座は大きくいえば以下の三つとなります。
 
その一つ目が「差異に基づく運動の連帯」という視座です。クィアスタディーズは多様なセクシュアルマイノリティをそれらの差異を隠蔽することなく関連づけて考察することを目指します。その二つ目が「否定的な価値づけの積極的な引き受けによる価値転倒」という視座です。そもそも「クィア」という言葉は男性同性愛者やトランスジェンダー女性に対するかなり暴力的な侮蔑語(日本語で言えば「オカマ」に相当するような言葉)であった「クィア」という言葉をあえて自ら用いることで、その内実やイメージを定義する力を当事者に取り戻そうとする考えがクィアスタディーズの根底にはあります。その三つ目が「アイデンティティの両義性や流動性に対する着目」というの視座です。クィアスタディーズにおいては従来のマイノリティ研究が前提としていた「アイデンティティは一貫しているべき」というその発想の弊害ないし功罪こそが問い直されることになります。
 
以上の三つの視座から観た時、クィアスタディーズの最大公約数的説明とはほとんどの場合、セクシュアルマイノリティを、あるいは少なくとも性に関する何らかの現象を、差異に基づく連帯・否定的な価値の転倒・アイデンティティへの疑義といった視座に基づいて分析・考察する学問ということになります。そして、こうしたクィアスタディーズを支える最重要概念の一つがアメリカの哲学者ジュディス・バトラーの提示した「パフォーマティヴィティ Performativity」という概念です。性に関する人々の思考の枠組みを一変させたこの概念の成立には、もともとジョン・L・オースティンという言語哲学者が生み出した語をジャック・デリダが批判的に書き換え、デリダの影響を受けたバトラーがこの語をジェンダーにおいて展開したという経緯があります。
 
まずオースティンは言葉の辞書的な意味の伝達だけではなく、それ自体行為でもあるような言語使用のスタイルがあり、また両者は厳密には分けられないと考えました。例えば「彼の研究室は14階にある」という発言はまさに彼の研究室が14階にあるという事実を意味しており、それは各語の辞書上の意味を正しい文法知識で連結させた意味そのままを伝達しているとされます。他方「私は明日14時に研究室に行くことを約束します」という発言は約束するという事態の記述ではなく、それ自体が実際に約束するという行為です。オースティンは前者をコンスタンティヴ(事実確認的)な発言、後者をパフォーマティヴ(行為遂行的)な発言と呼んで区別し、さらには「足元に猫がいるよ」という発言が単に猫の存在を記述しているのではなく「その猫を踏むなよ」という警告にもありうるように、発言をコンスタンティヴなものとパフォーマティヴなものの二種類にはっきりと分けることはできないと指摘しました。
 
次にデリダは、オースティンがコンスタンティヴという表現を用いる時に想定している「辞書的な意味」というものに疑問を投げかけました。そもそも語や句は日常において繰り返し使用され、かつその使用は一度として同じ文脈を持ちません。すなわち、それはいつどこで誰に向かって発するのか、それは呼びかけなのか質問なのか独り言なのか、それらの要素がすべて一致することはあり得ません。そうであれば語や句はその意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した「辞書的な意味」が綻びることによってむしろ成立可能になっているともいえます。
 
そして、このように言語が「辞書的な意味」の綻びによって成立可能となるのならば、言語の根本的な特徴とは繰り返し使用されることでその「辞書的な意味」を超えてしまうパフォーマティヴな側面ということになり、こうした言語のパフォーマティヴな特徴はジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。
 
一見、言語の持つ「意味」とはあたかも実際の言語使用の前から存在しているかのように見えます。しかしバトラーは言語のコンスタンティヴな「意味」とされるものは、絶えずパフォーマティヴに産出される言語使用の最大公約数的特徴に過ぎないとして、こうしたことから「男らしさ」「女らしさ」もまた、まさにそのようなあらかじめ決まっていたかのように見えるものに過ぎないと考えました。
 
このようなバトラーの「パフォーマティヴィティ」の概念は1980年代を通じて整理されてきたセックスとジェンダーの二分法に異議を唱えることでフェミニズムの営みを大きく前進させることになりました。それまでセックスは生物学的な性差であり、ジェンダー社会学的な性差であるとして、後者は可変的で改善の余地はあるけれども前者は身体のつくりの違いなので変えようがないと説明されてきました。しかしバトラーはこの「変えようのなさ」とは畢竟、身体や性に関する言語使用の最大公約数的特徴にすぎず「辞書的な意味」を超えるという言語のパフォーマティヴな特徴から、この「変えようのなさ」もまたずれたり、綻びたりするかもしれないと考えました。
 
クィアスタディーズはこうしたバトラーの思想に触発される形で発展を遂げてきました。先述した三つの基本的視座もまた、このような性に関する根本的な「変えようのなさ」の無根拠性を暴くバトラーの主張の含意を解きほぐす形で練り上げられていったものであるといえます。このようにクィアスタディーズの枢要部をなすバトラーの思想をまさしくクィアなアプローチで読み解いていく一冊が本書『バトラー入門』です。
 

*『ジェンダー・トラブル』の非公式ファンブック

そのタイトルの通り、本書はバトラーの理論を紹介・解説する本です。しかし、そのプロローグにおいて「ただし、一風変わった、ヘンテコな、つまりはクィアな方法で」とあります。つまり本書はいわゆる「哲学的な切り口」からバトラーの理論を紹介・解説する本では「ない」本であるということです。
 
もちろんバトラーの著作においては上述のような哲学的な議論が行われています。しかし、そこにばかり目を向けてしまうとバトラーがきわめて具体的な場面、その現場のなかにいて、そのなかで理論を展開しているという事実が見えにくくなってしまうと本書は言います。こうしたことから本書は「あまり哲学的ではない方法」によって、むしろ「哲学的には些末にみえる点」に拘り、絵が浮かぶような具体的なイメージを伝えてくれる言葉や文章、エピソードに注目するところからバトラーの理論に切り込んでいきます。
 
それゆえに本書は哲学系の入門書によくあるような著作順に考察するといったよくある方法も取らないし、バトラーの著作の中の章立てとかにも拘泥することなく、それよりもどうやったら面白く、興味深く、魅力的にバトラーの理論を語れるか、ただその一点にこだわりたいと藤高氏はいいます。
 
そして本書のもう一つの特徴はバトラーの主著、というよりも「代名詞」である『ジェンダー・トラブル』に拘っていく点にあります。それは同書を深く理解することこそが、バトラーの理論の核心を理解することでもあるからです。すなわち「言ってしまえば、本書はバトラーの『ジェンダー・トラブル』の非公式ファンブック」「一介の『ジェンダー・トラブル』ファンが書いたファンジン」であり、それが「『ジェンダー・トラブル』を紹介するのにもっとも適った方法である」ということです。
 

* brave--より正確なボキャブラリーに向けて

 
そこで本書は第1章では『ジェンダー・トラブル』第2章注22における「brave」という単語に注目するところから話を始めています。この注22ではエスター・ニュートンとシャーリー・ウォルトンの「 The Misunderstanding:Toward a More Precise Sexual Vocabulary 」(1984)という論文について言及がなされています。この論文を執筆したニュートンはブッチのレズビアンで、ウォルトンヘテロセクシュアルな女性だそうです。ここでいう「ブッチ」とは「男らしいジェンダー表現をしているレズビアン」をいい、これに対して「女らしいジェンダー表現をしているレズビアン」は「フェム」と呼ばれます。
 
1960年代のある日、ニュートンウォルトンは「実験の精神で」セックスを行いますが「その出来事は次第に失速していって、終わることになった」そうです。その原因をニュートンは当初「シャーリーは『ノーマル』だから、感じなかったのだ」と考えていましたが、その後ニュートンは当時自分は「ブッチならトップ(能動的)/フェムならボトム(受動的)」と思い込んでいたことに気付かされます。
 
今でこそ例えばBL作品などで見た目のジェンダー表現がただちにいわゆる「タチ/ネコ」や「攻め/受け」を決定するとは限らないという認識はある程度共有されていますが、当時はニュートンのような「クィアな」人物でさえも「ブッチならトップ/フェムならボトム」という暗黙の了解を自明のものとしていたという事実は極めて重要です。
 
こうしたことから、この「 The Misunderstanding:Toward a More Precise Sexual Vocabulary 」という論文はその副題にあるように「より正確なボキャブラリーに向けて」実験的に新たな概念を提示することを試みたものであり、実際ニュートンらは同論文において「エロティック・アイデンティティ」「エロティック・ロール」「エロティック・アクト」といった概念群を提示しています。そして、こうしたニュートンらの分析をバトラーは「欲望のスタイル」と「ジェンダーのスタイル」との間の「不連続性 discontinuities」をまさに身をもって示す「勇気ある brave」試みだと評価しています。そしてまさに、このような「不連続性」の肯定こそが『ジェンダー・トラブル』の核心にあるものであると本書は述べています。
 

* ジェンダーの意味を増やすこと

 
第2章ではこうしたジェンダーの「不連続性」を劇的に示すものとしてクィア・カルチャーの一種である「ドラァグ(ゲイの大げさな女装やレズビアンの過剰な男装)」から冒頭に述べたバトラーの「パフォーマティヴィティ」の概念が検討され、第3章ではアレサ・フランクリンの歌う「ナチュラル・ウーマン」の歌詞の一節を切り口として「男/女」というジェンダーの構築が「異性愛」という制度と不可分の関係にあることが論じられます。そして本書は第4章において『ジェンダー・トラブル』が目指したものとは「ジェンダーをなくすこと」ではなく「ジェンダーの意味を増やすこと」であったといいます。
 
この点「ジェンダーをなくす」という発想は「いまある権力をなくして、それを超えてしまおう」という発想ですが、バトラーはそのような戦略を取りません。それは「権力」とその「向こう側」という対立軸を設定してしまうと、かえって権力の抑圧形態を強大なものとして固定するという発想につながってしまうからです。
 
これに対して「ジェンダーを増やす」ということは、いまある権力の体制のなかでいろいろな組み合わせのジェンダーを増やしていくことで、硬直した「二つのジェンダー」という規範の「自然性」や「自明性」を問うという発想です。そしてそれはすでに社会に存在している「たくさんのジェンダー」の「理解可能性」を拡張する試みであったと本書はいいます。
 

* Critically Queer

 
もともとバトラーはフェミニズムの理論家であり『ジェンダー・トラブル』という本もなによりもまずフェミニズムの書として書かれたものでした。ところが同書が出版された1990年にテレサ・ド・ラウレスがクィア理論を提唱したことが契機となり「クィア理論の古典」として同書は「事後的に」読まれることになりました。そして1993年に出版された『問題=物質となる身体』の最終章においてバトラーは自身のクィア論を展開していますが、この最終章の原題は「Critically Queer」となっています。ここでは「Critically」という副詞が用いられていることから、この「Critically Queer」とは「批判的にクィアしよう」と訳せます。
 
先に述べたようにかつてニュートンは「ブッチならトップ/フェムならボトム」という思い込みに気づくことで「勇気ある brave」試みへと至りました。またバトラー自身も1990年代はレズビアンであると公言していましたが、現在においては自らをノンバイナリーであると公言するようになります。そして今日においては「異性愛/同性愛」という二項対立から従来抹消されてきた「アセクシュアル(他者に対する性的惹かれを経験しないこと)」や「アロマンティック(他者に対して恋愛的に惹かれないこと)」といったさまざまな非-セクシュアリティに光が当てられ始めています。こうした数々の営為はいずれもバトラーのいう「Critically Queer」という実践に他ならないでしょう。
 
このように「クィア」とは、ある一定の確定記述の束に閉じられた名詞的なカテゴリーでなく、常に訂正可能性の契機に開かれた動詞的な実践であるということです。さらに換言するとそれは常に自己ならざるものとしてのさまざまな他者性の泡立ちに満ちた世界を生きていくための倫理ともなるでしょう。こうした意味でクィアという実践にはジェンダーのみならず社会におけるあらゆる領域で「ただしさ」が求められる現代という時代に対峙するためのエチカが宿っているといえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

日常の中に生じる崇高--最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』

* いかにして現代詩と「和解」するか

 
詩人の渡邊十絲子氏は『今を生きるための現代詩』(2013)において自身が詩を書き始めた1980年代に比べて現代では詩というジャンルそのものが凋落の一途を辿っていることを指摘し、現代詩が敬遠される理由としてそもそも日本人は詩との出会いがよくないことを挙げています。
おそらく大多数の人にとって詩との出会いは小学校や中学校の授業で使う国語教科書の中だと思います。あらゆる経験が初めてのものとして身の周りに満ち溢れる子ども時代のうちに「よいもの」「美しいもの」として半ば強制的に詩を与えられ、それは「読みとくべきもの」だと教えられ、この行のこういう技巧は作者のこういう感情を効果的に伝えているなどと解説された後、その理解度をテストされます。こうした子ども時代の経験が詩に触れる心理的ハードルを高くしてしまう一因となっていることは確かでしょう。
 
けれどもその一方で人がなにかを突然好きになったり、その魅力に引きずり込まれる時には、その対象の「意味」とか「価値」以前に、ただただ「かっこいい」「かわいい」「おもしろい」「目がはなせない」などといったごく自然な態度があります。そうであれば現代詩もまた、詩が持つ「意味」や「価値」の追求を離れて、自然な態度で自由に読むところから始めてもよいはずです。
 
例えば日常の中で何気なく出会った一片の詩の中に何かしらの魅力を発見したとして、その魅力についていろいろな思索を自由にめぐらせていくうちに、いつのまにかそれが普遍的な解釈に合流していくような可能性がひらけてきたり、ときに詩を書いた本人による解釈さえも更新することがあるでしょう。こうしたことから同書はとかく難解なものとされがちな現代詩との「和解」を勧めています。
 
現代詩とは世の中にすでに実在していて皆がよく知っている「もの」や「こと」を改めて凝った言い方で表現しようとするものではなく、まして人生訓をふくんだ寓話のようなものでもありません。詩とは畢竟、純粋な「ことば」であり、文字という形で記録され、不特定の誰かに読まれる用途が決められていない存在です。そしてそれは時として日常の秩序に揺さぶりをかけ、我々に未体験の局面をもたらすものでもあります。
 
このような魅力と可能性を持つ現代詩とずっと出会い損ね続けていくのは勿体無いことだと思います。そこで以下ではどのようなかたちで我々は現代詩と「和解」できるかを、いまや凋落気味とされる詩というジャンルにおいて例外的に圧倒的なポピュラリティを獲得している現代詩人、最果タヒ氏による最新詩集『恋と誤解された夕焼け』を題材として探っていきたいと思います。
 

* 杣道をかえるということ

先述のように現代詩は「意味」や「価値」を離れて自然な態度で自由に読んでよいものです。もっとも「自由に読む」といっても、やはりその手前に何かしらの手がかりというか、道標となるべきものがあった方がよいでしょう。そこでひとまずは一流の詩人による解釈に学んでみたいと思います。
 
現代日本を代表する詩人の1人として知られる吉増剛造氏は本書の書評において「読み返すたびに、最果タヒ詩篇は、杣道をかえる」と述べています。そして氏は本書の「花束の詩」を引き「これも、咄嗟に“刃物”が最終行で“刃”に変ったことの衝撃を“ハ”としかいいえない、迷い=驚きの現場のような難路に杣道はさしかかっていたらしい。さらに、あるいはこの“ハ”は、別乾坤からの幽かな声であったのかも知れなかった」と述べています。
 
ここで吉増氏のいう「杣道」とは、おそらくマルティン・ハイデガーの論文集『杣道』を念頭においていると思われます。氏は近著『詩とは何か』(2021)という詩論においてハイデガーについて何度か言及しています。ふつう「杣道」とは森の中の下草に覆われた細い通路のことをいいますが、同書において氏はこの「杣道」について「恐る恐るその小径を辿ってゆくと、ふっと、森の中の小さな開けた場所に出ることがある」といいます。
そして続けて氏は「その「開けた場所」のことをハイデガーは「真理」の比喩として使っているようなのですが、真理という大袈裟な言葉は私はむしろ避けたいと思うのですが、やはりなにかそのような、「ほんとうのこと」への小さな小さな、細い小径を辿る行為に、これからこの本で私が試みますことは、通じるような予感が今、いたしてきております」と述べています。
 
こうしてみると氏は「花束の詩」という「杣道」のさなかで「“ハ”としかいいえない」という「迷い=驚き」に直面したことで、その先にあるはずの「開けた場所」としての「真理」あるいは「ほんとうのこと」を、むしろ脱構築してしまうかのような「別乾坤からの幽かな声」を聴き取ったとも言えそうです。
 
では果たして、このような「迷い=驚き」はどこから生じたものでしょうか。ここで注目すべきはこの「花束の詩」では2行目と5行目に「刃物」という言葉が繰り返し現れた後に最終行で「刃」という言葉が現れているという点にあります。すなわち、ここには「刃物」という「反復」に対する「刃」という「差異」から構成されるひとつなぎの「リズム」があるということがわかります。
 

* 意味からリズムへ

 
ここでいま我々は現代詩を自由に読むためのひとまずの道標として「リズム」を見出したことになります。そこで、ここからは「リズム」について深い洞察を与えてくれる千葉雅也氏の近著『センスの哲学』(2024)を参照してみたいと思います。同書はいわゆる「センス」と呼ばれるものを努力では何ともならないものとは考えずに、むしろ人を解放し、より自由にしてくれる可能性を開くものとして育てていくための方法を論じています。
まず同書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで同書はまず、このような理想的なモデルを再現するというゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると同書はいいます。
 
そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった様々な要素の「でこぼこ」としての「リズム」を即物的に捉えるということです。
 
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると同書はいいます。
 
渡邊氏が述べるように、おそらく大多数の人にとって詩との出会いとは国語教科書の中であり、それは「よいもの」「美しいもの」であり「読み解くべきもの」として半ば強制的に与えられます。つまりそこには「詩の正しい読み方」という「理想的なモデル」を正確に再現しなければならないという暗黙の想定があります。けれども、このような「詩の正しい読み方=理想的なモデル」をめぐるゲームを降りて、その詩から聴こえてくる「リズム」に耳を傾けていく時、そこにはただただ「かっこいい」「かわいい」「おもしろい」「目がはなせない」などといった自然な態度が自ずから回帰してくるのではないでしょうか。
 

* いないいないばあの原理

 
そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つの捉え方は生成変化論と存在論という哲学の二つの立場に対応します。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが千葉氏のいうリズム経験です。
 
この点、小説などの物語の基本形式とは大きくいえば「0」から「1」へと「欠如を埋める」ものとして捉えられます。つまり、物語に感情移入するとはその「0」から「1」へという「ビート」にシンクロするということです。
 
こうした「0」から「1」へと「欠如を埋める」というもっともシンプルな物語の起源を精神分析の始祖ジークムント・フロイトは「快原理の彼岸」という論文で「Fort-Da いないいないばあ」という子どもの遊びに求めました。そして千葉氏はこの「いないいないばあ」という遊びには「いないいない=0」と「ばあ=1」という存在論的な「ビート」を生成変化論的な「うねり」に書き換えることで「欠如」をめぐる不安を乗り越えていく契機が含まれているといい、これを「いないいないばあの原理」と呼びます。
 
こうしてみると吉増氏が取り上げた「花束の詩」の背後にはまさにこのような「いないいないばあの原理」が作動しています。まず「刃物」という対象とある程度の距離を取った言葉が「刃」という対象の生々しい現前を示す言葉に置き換えられることで対象との距離に「0と1」という「ビート」が生じます。さらに「刃物」という2文字が「刃」という1文字に圧縮されることで対象それ自体に「うねり」が生じます。すなわち「“ハ”としかいいえない」という吉増氏の「迷い=驚き」とは畢竟「いない(刃物)」「いない(刃物)」「ばあ(刃)」というリズムによって引き起こされたものであるといえるのではないでしょうか。
 

* 予測誤差としての享楽

 
このように同書の議論によれば「センスの良さ=リズム感がいい」とは「でこぼこをどう並べるか」という問題となります。そして、このような「並び」において「つながり」よりも「切断」を重視するような展開は「0→1」という「予測」を裏切る「予測誤差」を生み出します。この点、イギリスの神経科学者カール・フリストンらは生物のいろんな機能は「予測誤差を最小化する」という原理で説明できるという「自由エネルギー原理」と呼ばれる理論を提唱しました。すなわち、この「予測誤差を最小化する」という原理からいえば人はバラバラに見える並びにも何らかの意味あるいは物語を見出そうとしているということです。
 
つまり人間は予測通りに物事が生じる「快」がベースにあることから、ある反復の後に差異がくるという「不快」の経験を習慣化=リズム化しようとします。しかしながら、その一方で本来「不快」なはずのものである差異=予測誤差それ自体にある種の快を見出すことがしばしあります。こうした人間の一見矛盾する行動原理をフロイトは「死の欲動」という概念によって理論化し、予測誤差がもたらす「不快かつ快」といった状態をフランスの精神分析ジャック・ラカンは単純な「快楽」と区別して「享楽」と呼びました。
 
最果作品の最も大きな特徴はこうした「予測誤差」の過剰なまでの「溢れ」にあるといって良いでしょう。本書でも例えば「きみの手のひらは星を捕まえることができる。ぼくがそれを証明する。たとえ燃え尽きても。(流れ星の詩)」「桜の花びらもきみも まつげで光が転んだ音がして、笑い声が聞こえます(透明な水)」「体の中にヒヤシンスが咲いている、夏だからかなあ、と思う(生前の夏)」「人間としてお互いを見ない方が程よい世界になります、なります、なりますと、青信号が鳴いている(ボランティア)」「ぼくはこうやって美しい心が使い捨てにされていく世界が、雪の降る街みたいで好きだった(世界線)」といったような日常的な文脈からすれば不可解としかいいようのないパッセージが頻出します。
 
通常、読み手にとって文意が読み取れないことは「不快」な体験になるはずです。けれども時としてその「文字の並びそれ自体」というリズムの中に読み手は予測誤差がもたらす「不快かつ快」としての「享楽」を発見することがあるということです。
 

* 日常の中に生じる崇高

 
このように「センスが良い=リズム感がいい」とは基本的には、反復(規則性)に対して差異(逸脱)が適度なばらつきで起きる状態をいいます。すなわち、完全に規則的ではないし、まったくランダムでもないというバランスがおおよそ「美」と呼ばれるものです。古い美学理論で「美」は「調和」という言葉と結び付けられますが、それは「反復と差異」の調和であるといえるでしょう。
 
近代哲学を確立したイマヌエル・カントはその主著の一つである『判断力批判』において「美」とは事物と自由に戯れるような状態として考えました。すなわち、完璧な円や正方形といった規則的なものではなく、そこから逸脱する「戯れ」こそに「美」があるというのがカントの見方です。そして、このような「美」を逸脱してしまうような圧倒的なスケールや威力を感じさせるものをカントは「崇高」と呼びました。
 
一般的に「センスが良い」というのはカント的な「美」の意味合いでいわれることが多いでしょう。その場合「反復と差異」の調和が想定されています。しかし現代においてはこうした「反復と差異」のバランスの崩れがより芸術的だと見做されることがあります。つまり差異が生じる予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると「美」的になり、その予測誤差が大きく、もはやどうなるかわからないという偶然性が強まっていくと「崇高」的になるということです。
 
こうしたカント的な区分からいえば最果作品もその多くは「美」よりも「崇高」の側に傾いているといえるでしょう。けれども、そこで描き出される「崇高」とは我々の生きる日常から隔絶した世界にあるようなものではなく、それは例えば「創世記、冷たい飲み物を飲んでいる夏の時間、ぼくは部活に行かなくちゃいけない、でもいま教室を出たら、上空が濁る気がしていた(放課後婚)」や「体には優しくしきれなかった過去の断片がいくつもあり、それはかんたんに、夕焼けの色にかどわかされて、いなくなる(世界線)」といったような、この日常に中において破断的に内在する生の手触りの中に見出されるものです。
 
おそらく、こうした「日常」という反復の中で不意に生じる「崇高」という差異から紡ぎ出されていくリズムのつらなりこそが最果作品における圧倒的なポピュラリティを支えているようにも思えます。そしてそれは時として「ビート」と「うねり」をともなったいのちの「心音」として聴こえてくることもあるのではないでしょうか。
 
誰かの心音になるような形で、言葉が届くことはある。
そう信じているから、私は詩を書いています。
 
(本書あとがきより)

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

柳田国男の山人論からアソシエーションへ

* 柳田国男の山人論

 
日本民俗学の祖、柳田国男はその初期において『後狩詞記』(1909)『遠野物語』(1910)をはじめとする一連の民間伝承に関する論考を発表していますが、そこでのテーマとしているものの一つに「山人」の問題があります。ここでいう「山人」とは日本列島に先住していた狩猟採集民で、後に農耕民によって山に追いやられた存在であるとされます。この「山人」はその実在を確かめることはできず、彼らは多くの場合「天狗」のような妖怪として表象されています。
 
この「山人」の問題についての柳田の主な関心は「山人」の存在が一般の人々の信仰生活にどのような影響を及ぼしているかにありました。柳田は日本列島の先住民である「山人」の持っていた「山の神」に対する信仰が一般の人々の信仰生活に一定の影響を与えているとして、日本人の宗教意識の原像を明らかにするには、それを構成している一つの要素として「山人」の生活と信仰を捉える必要があると考えていました。
 
そして、この「山人」をめぐる柳田の総決算的な著作である『山の人生』(1926)では『遠野物語』に収録された伝承を関連する各地の伝承も参照しながら理論的な検討が行われています。ところが、それ以後どういうわけか柳田は「山人」の問題を直接的には扱わなくなってしまいます。このことから戦後、1970年代以降においてポスト構造主義やポスト・コロニアリズムの観点から「山人」への関心を放棄した柳田の民俗学は彼が「常民」と呼ぶ稲作農民に偏重した民俗学であり、当時のナショナリズムと深く結びついた「一国民俗学」であるという批判を呼ぶことになります。
 
こうした批判の中、文芸批評家の柄谷行人氏は「柳田国男論」(1986)という論考において柳田が「常民」と呼ぶものは本来、農民だけではなく漂泊民や芸能民や被差別民も含む概念であることから、柳田のいう「常民」を農民中心主義だとして批判するのは不当であると主張しました。そして、比較的近年の著作である『遊動論 柳田国男と山人』(2014)において柄谷氏はあらためてこれまでの柳田批判に答える形で、確かに柳田は山人について論じるのをやめたけれども、それは山人論を放棄することを意味していないと主張しました。ここで鍵となるのが氏が同書で提示する「遊動性」という概念です。
 

* 農政論と山人論のあいだ

柳田は1900年(明治33年)に24歳で東京帝国大学を卒業して農商務省に入省しますが、同時に早稲田大学で「農政学」の講義を始め、1902年には法制局参事官となり農政学の研究に専念します。
 
柳田が官僚になった当時、支配的であった農政論は東京帝国大学教授、横井時敬が説く「農業国本論」でした。言うまでもなく明治国家の政策は根本的には「富国強兵」にありましたが、横井の考えでは「富国」に必要なものが商工業であり「強兵」のため不可欠なものが農業ということになります。それゆえに横井は「小農(小作人)」の保護政策を唱えましたが、それは現実には「大農(不在地主)」を容認することにつながりました。
 
これに対して、柳田の構想した農業政策は農家が国家に依存せず協同組合による「協同自助」を図ろうとするものです。そして柳田はそのような「協同自助」の理想形を調査旅行で訪れた宮崎県西北部の椎葉村に見出しました。同村につき柳田は「此山村には、富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピヤ』の実現で、一の奇蹟であります」とまで書いています。
 
このような椎葉村の人々との邂逅を契機に柳田は「山人」に関心を持ち始めるようになります。もちろん椎葉村の人々は焼畑と狩猟に従事する「山民」でしたが、日本列島の先住民たる「山人(の末裔)」ではありません。しかし「山民」における「協同自助」の観念は「山人」の持っていた「遊動性」に由来してます。
 
その後、先述のように柳田は山人について論じるのを(表面上は)やめますが、柄谷氏によれば柳田の山人論には二つの意味があります。第一にそれは先住民、異民族を意味しています。第二にそれは柳田がかつて椎葉村にみた遊動性・ユートピア性を意味しています。柳田は山人論を放棄したという場合、通常は第一の意味で語られます。しかし第二の意味では柳田は山人論を放棄しておらず、むしろ絶えずそれを追求していたと氏はいいます。
 

* 柳田の固有信仰論

 
そして柄谷氏によれば、柳田は山人に迫る手がかりを日本における「固有信仰」に求めようとしていました。すなわち、柳田のいう「固有信仰」とは稲作農民の社会が成立する以前の狩猟採集段階に由来するものであり、それゆえに「固有信仰」の探究とは実は「山人」の探求に他ならないということです。
 
柳田が推定する固有信仰とは次のようなものです。人は死んで間もない時は強い穢れを持つ「荒みたま」ですが、子孫の供養や祭りをうけて浄化され、やがて「御霊」となり、この御霊の融合体である祖霊神は「氏神」と呼ばれます。
 
祖霊は故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守ります。生と死の二つの世界の往来は自由であり、祖霊は盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となります。また個別的な霊は一つの御霊に融合してもその個別性がなくなることはなく、御霊は現世に生まれ変わってくることもあります。
 
柳田のいう固有信仰の特徴は祖霊は血縁の遠近や、あるいは生前の地位や貢献度とは関係なく平等に扱われる点にあり、その核心は祖霊と生者の相互的信頼にあります。そして柳田が特に重視したのは祖霊がどこにも行けるにもかかわらず、生者のいるところから離れないという点にあり、それは子孫の祀りや供養に応えてそうするのではなく、自発的にそうするとされています。
 
すなわち、そこには何かしらの見返りを期待する互酬的な関係ではなく、何も見返りを期待しない家族愛的な関係を見出すことができます。ここに柄谷氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に注目する最大の理由があります。
 

*「外部」「他者」としての「山人」と交換様式論

 
こうした一連の議論は柳田国男の再評価にとどまらず、柳田のいう「山人」がこれまで柄谷氏が一貫して追求してきた「他者」や「外部」といったテーマを体現する存在であったことと深く結びついています。
 
柄谷氏はデビュー作『畏怖する人間』(1972)において小林秀雄江藤淳吉本隆明に続く次世代を担う評論家として注目されますが、氏にとって文芸批評とは単なる文学作品の解釈でなく、あくまで自身の実存的な危機意識に基づく「存在の自覚」「自己の資質の検証」というべき思索であり、やがて氏は文芸批評そのものからの脱却を試みるようになり、この脱却作業において「他者」や「外部」といった概念が提出されることになります。さらに、こうした「他者」や「外部」の問題は後期になると、それらとの邂逅や交流の問題へとシフトして、ついには共同体と共同体のあいだの「交換」という問題に行き着きます。
 
柄谷氏は後期の主著である『世界史の構造』(2010)において「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」という3つの「交換」のあり方から社会や歴史を論じています。ここでいう「交換様式A(互酬)」とは北アメリカの北西岸に広がる「ポトラッチ」のように互いに贈与をし合う「交換」をいい「交換様式B(略取-再配分)」とは王と臣民の関係のように征服者が略取によって得た富をあらためて自分に従う側に再配分する「交換」をいい「交換様式C(商品交換)」とは近代市民社会に広く流布している貨幣を媒介とする「交換」をいいます。
 
このような「交換」の三つ組の概念はもともと経済人類学者カール・ポランニーによって社会統合の基礎概念として提出されたものですが、柄谷氏はこの概念を利用しながらもポランニーとは異なった独自の構想を発展させていくことになります。この点、柄谷氏によればこれら3つの「交換」はそれぞれが持つ固有の権力に基づいた社会を構成することになります。すなわち、まず「交換様式A(互酬)」は「掟」に基づく「ネーション」を構成します。次に「交換様式B(略取-再配分)」は「暴力(武力)」に基づく「国家」を構成します。そして「交換様式C(商品交換)」は「貨幣」に基づく「資本」を構成します。そして近代社会においてはこれらの3つの「交換」が三位一体として一つの複合体を構成しており、このような「交換」の複合体を柄谷は「ボロメオの環」に準えています。
 

* 遊動民とアソシエーション

 
このように柄谷氏は近代における「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」からなる共時的な相補的構造を論じるとともに、同じ交換様式論を使って近代に至るまでの社会構成体の通時的な展開過程を説明します。
 
ここで氏はカール・マルクスが『経済学批判』で挙げている初期氏族社会の無階級原始社会、農業と専制を特徴とするアジア的生産様式、古代の奴隷制社会、中世の封建制ブルジョワ的資本主義的生産様式といった5つの発展形態を踏まえつつ、自身の立てた交換様式論に照合して社会構成体の展開過程を次のように分類します。
 
すなわち⑴交換様式A(互酬)を特徴とする氏族的社会構成体と⑵交換様式B(略取-再分配)を特徴とするアジア的社会構成体、古典古代社会構成体、封建的社会構成体と⑶交換様式C(商品交換)を特徴とする資本主義的社会構成体という分類です。その上で氏は交換様式A(互酬)を特徴とする氏族的社会構成体において「定住」を強調します。つまり、論理的にはそれ以前には「定住」がなかった遊動的な段階があることを想定しています。
 
こうして交換様式Aの彼岸に「遊動民」という特別な観念が立ち上がることになります。そしてこのような「遊動民」によって行われる「交換」のあり方を氏は「交換様式D(氏はしばしこれをXと表現しています)」として位置付けます。
 
この新たに立てられた「交換様式D(ないしX)」には「交換様式A」と同じく互酬の原理が当てられていますが「交換様式D」は「交換様式A」への単純な回帰ではなく、それを否定しつつも、高次元において回復するものであると氏はいいます。そして、このような「交換様式D」に対応する社会構成体ないし運動体を氏は「アソシエーション」と呼びます。すなわち、氏はこの「アソシエーション」の理念を体現する「遊動民」の範例を柳田が探求した山人論ないし固有信仰論に見出していたということです。
 

* 観光客と分析家のディスクール

 
このように、交換様式Dとは定住を開始する前の遊動民にみられる「交換」のあり方です。遊動民においては生産物を蓄積することができないため、その生産物は共同体間で平等に分配されることになります。また他の部族と遭遇した場合に戦争を避けるために贈与を行うことがあったとしても、その遭遇は一期一会のものであるため、返礼の義務は発生しません。このように遊動民は交換様式Bや交換様式Cとは無縁であり、つまり交換様式Dは資本制的な結合体に回収されないものとなります。
 
もっとも柄谷氏自身は具体的にこの「交換様式D」につきあいまいな規定しか明示しておらず、氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に見出そうとした「アソシエーション」とはいかなる実践を表すのかという問いはいまだに開かれています。
 
例えば東浩紀氏は『観光客の哲学』(2017)においてナショナリズムグローバリズムからなる二層構造を往還する誤配の主体として「観光客」という概念を提唱し、そのアイデンティティを「市民社会」と「国家」の後に回帰してくる「家族」の脱構築的な新たなあり方に求めています。
 
そして東氏は柄谷氏のいう「ネーション」「国家」「資本」とは、それぞれ氏のいう「家族」「国家」「市民社会」に対応するものであるとして、柄谷氏のいう「アソシエーション」を「家族」の「高次元での回復」として捉え直しています。こうした観点から氏は『観光客の哲学』の続編である『訂正可能性の哲学』(2023)において「家族」という概念をあらゆる訂正可能性に開かれた解釈共同体として提示しています。
また松本卓也氏は『享楽社会論』(2018)においてフランスの精神分析ジャック・ラカンの理論を援用し柄谷氏のいう「交換様式D」はちょうどラカンが「分析家のディスクール」を「資本主義からの出口」と評したことに対応するとしています。
 
この点、現代ラカン派において「分析家のディスクール」とは精神分析の始祖ジークムント・フロイトが唱えた「エディプス・コンプレックス」のような既存の知(S2)の専制を脱し、主体の自体性愛的な享楽(身体の出来事)が刻まれた一つのシニフィアン(S1)の析出を目指していると考えられています。
 
そして、このシニフィアン(S1)は新たな主体化の核となり、己の人生を非エディプス的な特異的=単独的なかたちで新たに生き直すことを可能とするものとして、それは人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な圧力に抗い「すべてではない(すなわち、決して「すべて」を構成しない)」という生のあり方を発明し、その生のあり方を生きることにつながるであろうと氏は述べています。
 
確かに柄谷氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に見出そうとした「アソシエーション」の核心にある「遊動性」とはナショナリズムグローバリズムからなる二層構造や、人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な力を訂正あるいは撹乱する潜勢力を持っているように思えます。そうであれば、こうした現代思想において提示された視座から改めて、柳田民俗学が描き出した軌跡を辿り直してみることもできるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

柳田国男と氏神信仰

* 学問救世としての民俗学

 
日本民俗学創始者柳田国男は1875年(明治8年)に兵庫県の神東群辻川村(現在の神崎郡福崎町)に生まれ、1900年(明治33年)に東京帝国大学卒業と同時に農商務省に入省し、それからほぼ20年ものあいだ官僚として農業政策に携わり、その間には産業組合など農業団体との関係で講演や視察のため全国各地をまわり、いくつかの農政論の著作を発表する傍らで、今日知られる代表的著作の一つである『遠野物語』(1910)をはじめとする民間伝承に関する著作や論考を書いています。
 
 
1913年(大正2年)からほぼ4年間、柳田は『郷土研究』という雑誌を発行し、そこに農政論的視点からの農民生活についての論考と一連の民間伝承に関する論考を執筆します。このような柳田の郷土研究(農村生活研究)は農民生活の現状と農業改革の現実的可能性を追求するという農政論的な問題意識につながるものであり、こうした観点から柳田は安定的な経営が可能な自作小農によって日本農業が担われるべく様々な政策的提言を行います。
 
けれども柳田の提言は当時の農政主流において受け入れられず、1919年(大正8年)に貴族院議長徳川家達との確執により貴族院書記官長を辞職した柳田は官界から離れることになり、その翌年、当時、国際連盟事務次長であった新渡戸稲造の勧めで国際連盟委任統治委員に就任しジュネーヴに赴任します。
 
この渡欧は柳田にとって大きな転機となりました。ヨーロッパ滞在中、ジュネーヴ大学の講義を聴講するとともにヨーロッパ各地を訪れた柳田は、そこで欧米の人文社会科学の最先端と本格的に接触し、それまでの自身の学問を新たな方法でもう一度立て直そうとします。
 
1922年(大正12年)、関東大震災の報を受けた柳田は委任統治委員の職を辞して急遽、帰国し、災後の人々の生活の惨状を目の当たりにしたことで「本筋の学問のために起つ」と決意し、日本における民俗学の方法的確立と研究者の組織化にむけて力を注いで行きます。そこには学問の力で人々を救い、より良い社会を作っていこうとする「学問救世」という柳田の強い願いがあり、この願いこそが柳田民俗学を駆動させるモチーフとなります。
 
そして、このような経緯から立ち上げられた柳田民俗学の枢要部に位置するものが「氏神信仰」という民間信仰研究です。ここでいう「氏神信仰」とは各地域に大体一つは存在する小さな神社に祀られている「氏神さま」「産土さま」「お宮さま」などと呼ばれる神様(氏神)に対する信仰をいいます。柳田はこのような「氏神信仰」こそが日本人の宗教意識の原基形態をなし、人々の内面的な倫理意識と深く関わるものであるとみていました。
 

* 氏神信仰における神観念

 
氏神」とは各々の家の代々の祖霊の融合体を神として祀ったものであり、しばしば「御先祖様」とも呼ばれます。この点、ある地域の氏神は家系の違う人々によって共同で信仰されていますが、古代ではひとつの集落の住民はだいたい単一の家系としての「氏」によって構成されており、個々の氏はそれぞれが集落を形成しながら各々の氏神を信仰していたと柳田は見ています。
 
柳田によれば本来、氏神は血縁的な氏族集団と彼らが占有してる一定の土地との結合を保障するものと考えられており、その意味で氏神は氏族の土地の境を守り、氏族の成員を守護する神とみられていました。ふつう氏神は特定の名前を持たないか、そうでない場合でもその名を口にすることは禁じられていました。なお氏神を「ウブスナ」と呼ぶことがありますが、これは本居にいます神、産土に祭られたまう神、つまり生まれ在所の神という意味です。
 
先述のように氏神は代々の祖霊の融合したものですが、人々は死後すぐに祖霊と融合して神になるわけではなく、死後一定期間ののち、死のけがれから清まり浄化されてから氏神に融合し一体化するものと観念されていました。その期間に年数は各地に様々な伝承がありますが、柳田はほぼ30年前後と推定しています。それゆえに死者の霊には氏神に融合した「みたま」とその年限に達していない「荒忌のみたま」があり、その中でも死後1年未満のものは「荒年の初みたま」「新精霊」などと呼ばれています。また子孫に供養されない霊や怨念を持った霊などの霊は一般に「外精霊」「無縁」と呼ばれ、病虫害や天候不良や伝染病などの災厄をもたらすとされています。
 
そして浄化された霊が融合していく氏神は柳田によれば現世から完全には断絶せず、氏人の居住地からあまり遠くない山の頂きに止まっており、年々時を定めて子孫の家に行き通い長く家の成員をまもり郷土をまもるものと信じられていました。このように氏神信仰は子孫が絶えず、家系が続いていく「家の永続」が重要な意味を持っていました。この「家の永続」の問題が人々の生きがいや価値観に軽視しえない影響を与えており、日本人のいわゆる家族主義の根幹を成していると柳田はみていました。
 
柳田によれば氏神はもともと他の神と一緒にまつられ合祀されることが可能な性質を持っており、こうしたことから「八幡」「天神」「祇園」「賀茂」「春日」「鹿島」「香取」「諏訪」「白山」「熊野」「住吉」「稲荷」「出雲」「愛宕」といった有名な大神をそれぞれの氏神と一緒に祀るという風習が一般化していったとされます。しかし、それは祭神の交代を意味するものではなく、もとの氏神に合祀された神が融合した一体の神と見做されていました。そして、このような氏神信仰を柳田はしばし日本独自の「固有信仰」であるといいます。
 

* 氏神信仰における信仰儀礼

 
このような「氏神信仰」における信仰儀礼について柳田は「祭日」「神地」「神供」「神屋」「神態」に分けて議論を展開しています。
 
「祭日(神事が行われる期日)」における大祭としての春祭と秋祭があります。春祭は本来農作の豊凶を占い豊作を祈願する信仰行事であり、ほぼ田植まえ苗代の支度に取り掛かろうとする頃に行われていました。秋祭は秋の稲の収穫された後に行われるもので、農作物も豊かで供物の品も揃い、もともとは1年もうちでもっとも大きく賑やかな祭でした。
 
また夏祭は元は稲の成長の災いを防ぐ年中行事の一つでしたが、中世ごろから市街地への人口集中などによって流行した疫病が農村に入ってくると、都市で発生した御霊信仰による華やかな祭礼の形式の夏祭が農村に流入するようになります。夏祭に各地で行われる「盆踊り」については稲の病虫害や疫病をもたらす悪霊を足踏み荒らかに追い払おうとしたものがもとかたちであるといわれています。そのほか節句その他の種々の年中行事も元は神祭を基礎にしたものとされています。
 
「神地(神事が執り行われる場所)」は一般に村にある神社とされていますが、かつては常設の神社はなく、ふだん山の上にとどまっている氏神を祭礼時に里の清浄な地に迎え、そこに臨時の仮屋を立ててまつるのが一般的でした。氏神の祭は特定の自然物、ふつうは特殊な樹が神の憑く依代とされ、主要な神事はおもにその樹のもとでなされ、氏神はそこからさらに神の代人として託宣を語る巫女に憑依するものと考えられていました。
 
「神供(神への供物)」については柳田のみるところ、神の食物として様々な収穫を供えるだけでなく、神と人々が食事をともにするためのものでした。この神に供え物をすすめ、それを神と人とが一緒に食する相饗(直会)は氏神信仰において神祭の必須の要件をなしています。例えば3月3日の「桃の節句」や5月5日の「端午の節句」など、1年の節目節目に行われる節句とは「節供(節日の供物)」であり、必ず何らかの供物をささげて神と人とが共同で飲食する行事でした。
 
そして神供の中でも特に稲は特殊な意味を担っており、これは稲に力の根源となり得るものが宿っているという古い信仰に由来します。また米から作られる酒も神供として、とりわけ相饗における聖なる飲物として重視されていました。
 
「神屋(神事を主宰する者)」は柳田によれば、大家族制のもとでは正統直系の血縁系譜を持つ家父長とその妻たる主婦(家刀自)に祭祀執行権があり、殊に主婦が氏神の託宣を語る巫女として重要な位置を占めていました。もっともその後、氏神への有力な神々の勧請に伴い、専門職としての巫女集団が各地で勢力を拡大するようになり、さらにその後、託宣自体があまり行われなくなると巫女の役割も周辺的付随的なものへと位置付けられていくようになります。
 
「神態(神事の具体的内容)」は、神をたたえその来歴をかたる「神歌」「神語り」が最も枢要な部分を構成しており、柳田によればこの神語りは原初的には氏神信仰における神話といいうるものでした。しかしながら、この氏神信仰における神話はかなり古い時期に忘れ去られ、もはやそのままのものとしては残っておらず、僅かに「昔話」「伝説」「語り物」などのかたちでその残影をとどめています。
 

* 氏神信仰と国家神道

 
こうして柳田は神観念と信仰儀礼の両面から氏神信仰の全体像を明らかにしようとしましたが、それは彼にとって一つの「神道」として把握されています。しかし、この柳田が探求した神道としての氏神信仰は当時のいわゆる「国家神道」とはその性質を異にするものとして位置付けられています。
 
第二次世界大戦終結まで大日本帝国の事実上の国教とされてきた国家神道は地域の神社に対する人々の氏神信仰を制度的にその体系の一環として組み込んでいましたが、柳田の研究は人々の氏神信仰をこの国家神道の体系から切り離そうとするものでした。
 
柳田にとって氏神信仰こそが日本における「固有信仰」であり、日本人の心性をその内奥において規定しているものでした。村々の氏神信仰は現実には仏教や道教修験道などの後世の様々な文化の影響を受けて様々なかたちに変容していますが、柳田によれば祖霊、祖神をまつるという氏神信仰本来の姿は古くから「固有信仰」として全国に共通のもので、何らかのかたちでその痕跡を残しており、現在(柳田が生きていた当時)もなお村落の人々をはじめ国民の大多数によって信じられ、人々の生き方の核として連綿として持続してきたものであるとされています。
 
もちろんこのような柳田の主張については様々な異論があります。中でも氏神とは祖霊ではなく、異界から訪れる「まれびと」ではないかという折口信夫の批判がよく知られています。ただ少なくとも近代日本における氏神信仰を神観念と信仰儀礼の両面から描き出した点では柳田の業績にかわるものは現在のところ見当たらず、いずれにせよ近世以降における日本人の精神生活を理解する上で氏神信仰の問題は軽視し得ない重要性を持っていることは疑いないでしょう。
 

* 生命論としての柳田民俗学

 
このようにしてみると、柳田のいう「氏神」とは共同体を意味づけ正当性を付与する超越的他者であり、彼が詳らかにした「固有信仰」とは「氏神」によって共同体を基礎付ける「大きな物語」に他なりません。すなわち、柳田はこうした「固有信仰=大きな物語」から日本社会における精神性を担保しようとしていました。
 
もちろん、ポストモダン状況が加速する現代において、こうした柳田のいう「固有信仰」が「大きな物語」として機能する余地はもはや無いと言わざるを得ないでしょう。けれども柳田の残した一連の仕事はまったく別の観点から読み直すことができるように思えます。すなわち、それは「生命」という観点です。
 
例えば精神病理学者である木村敏氏はその「生命論的転回」の嚆矢となった著作『あいだ』(1988)において次のような仮説を提示します。
 
この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。
 
木村敏『あいだ』より)
生命の実体や起源についての研究は現代における先端科学の中心的課題の一つであることはいうまでもなく、この先いつか生命の構造が余すところなく解明される日が来るかもしれません。もっとも、そのような科学によって解明される「生きているもの(生命物質の生命活動)」としての生命とはまた別の位相で「生きていること(生命それ自身の存在様式)」としての生命をいかに捉えるかは依然としてひとつの哲学的な課題であり続けるでしょう。こうした観点から木村氏が仮設する「生命一般の根拠とのつながり」の一つの顕現として柳田の議論は読み直せるようにも思えます。
 
そして、こうした意味で柳田のいう「固有信仰」を生命論的観点から捉え直し、より普遍的なモデルとして更新した想像力として『同時代ゲーム』(1979)から『懐かしい年への手紙』(1987)を経て『燃えあがる緑の木』(1993〜1995)へと至る大江健三郎氏の一連の仕事が挙げられます。
大江氏は『同時代ゲーム』の単行本付録の対談において柳田への強い共感を表明しており、同作で大江氏が描き出した《村=国家=小宇宙》はかつて柳田が『遠野物語』で描き出した遠野盆地を想起するものがあります。そして大江氏は『懐かしい年への手紙』において主人公である「K」の導き手である「ギー兄さん」に柳田のいう「固有信仰」を語らせており、さらにその事実上の続編である『燃えあがる緑の木』ではこうした「固有信仰」が、より普遍的な「世界モデル」へと純化されることになります。
 
「人々は、この谷に生まれ育ち、一度は多様な世界である谷間の外に出るが、やがてふたたび源としての谷に帰ってきます。谷間に流れる川は、本来の地形にあわせて流れると同時に、登場人物の動きからすれば、逆にも流れています。仮想された地形には逆勾配があるのです。「流出」の勾配と同時に、「帰還」の勾配があります。」
 
「なぜ、逆の勾配が発生するのでしょうか。「四国の谷の森」に、この谷に生まれた人びとが死を迎えると、魂は森の樹木の根から、空に向かって昇っていくからです。森には、人を帰還させる力がある。そのように「場所に力がある」のです。つまり、Kは、流出=生、帰還=死という〈生と死の場〉の仮想された地形を構築しています。それが、Kが描出したひとつの「世界モデル」なのです。」
 
大江健三郎『燃えあがる緑の木』より)
 
こうしてみると柳田における「固有信仰」の探究とは「生命一般の根拠とのつながり」としての「世界モデル」の探究であったともいえるものであり、今後はこうしたより根源的なパースペクティヴから柳田の仕事は捉え直されていくのではないでしょうか。そしてその試みは、かつて柳田の志した「学問救世」という理念につながっていくものであるようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

昭和のジョゼ、平成のジョゼ、令和のジョゼ--田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』

* 女性障害者の恋愛と性

 
芥川賞作家、田辺聖子氏が1984年に発表した短編小説「ジョゼと虎と魚たち」は原作発表から19年後の2003年に実写映画化(監督:犬童一心)されたことがきっかけで注目を集め、さらにその17年後の2020年にはアニメーション映画化(監督:タムラコータロー)を果たし、いまや時代を超えた普遍性を獲得し、日本文学史上において特異的な輝きを放つ作品の一つとなりました。僅か30頁足らずの分量ながら極めて耽美的かつ退廃的な世界観を持った珠玉の小品として知られる本作はおそらく日本で初めて女性障害者の恋愛と性を描き出し、可視化されづらい障害者のジェンダーセクシュアリティの問題に文学表現としていち早くアプローチを試みた作品でもあります。
本作のあらすじは次のようなものです。本作の主人公、ジョゼ(山村クミ子)は下肢に原因不明の麻痺があり、幼い頃から車椅子生活を送っています。ジョゼの母親は彼女が赤ん坊の時に家を出てしまっており、一時期は父親とその再婚相手の女性と連れ子の4人で暮らしていましたが、継母から鬱陶しがられた彼女は施設に入れられて、その後、17歳の時に祖母に引き取られ、25歳に至るまで世間から隔絶した孤独な生活を送っていました。
 
ある夜、祖母が目を離した隙に通りすがりの不審者によって車椅子ごと坂道に突き落とされたジョゼはたまたま通りかかった大学生の恒夫に助けられ、この出来事をきっかけに恒夫はジョゼの家に顔を出すようになります。
 
ジョゼは恒夫よりも2歳上ですが小柄で市松人形のような少女然とした外見をしており、その性格は人見知りで情緒不安定。読書好きで「ジョゼ」という自称もフランスの作家、フランソワーズ・サガンの小説のヒロインに由来します。けれどもその反面、ジョゼは就学免除で学校に通っていなかったことから、その知識にはかなり偏りがあります。
 
これまで家と施設以外の世界を知らなかった彼女にとって恒夫は外の風を運んでくれる存在となりました。ジョゼは恒夫だけには常に高飛車な物言いをしますが、恒夫はその「いばり」は「甘えの裏返し」なのではないかと推測していました。
 
その後、就職活動のためしばらくジョゼと疎遠になっていた恒夫が久しぶりにジョゼの家を訪ねると、祖母はすでに亡くなっており、ジョゼは引っ越していることが判明します。転居先のアパートを訪ねた恒夫の前にやつれ果てたジョゼが現れ、心配する恒夫に対して「来ていらん!もう来んといて!」と激昂したかと思えば、帰ろうとする恒夫に「帰ったらいやや」と縋りつき、その夜、二人は結ばれます。
 
翌日、ジョゼは「虎を見たい」と恒夫にせがみ、二人は動物園に行きます。檻の前で虎の咆哮に怯えるジョゼは恐ろしさで身震いしながら恒夫にすがりつき「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに」といいます。
 
その後、ジョゼと恒夫は「新婚旅行」という名目で九州の海底水族館に行きます。ジョゼは水族館の海底トンネルの美しさに「恐怖に近い陶酔」を覚えます。その夜更け、カーテンを払った窓から月光が差し込み、まるで海底洞窟の水族館のような部屋の中でジョゼは「アタイたちは死んだんや」と独りごちます。
 
それからずっと、恒夫はジョゼと「共棲み」という名の同棲生活を続けています。ジョゼは家事をゆっくりとこなし、お金を大事に貯め、一年に一度、恒夫と二人で旅に出ます。恒夫がいつジョゼの下から去るかわからないけれども、側にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思っています。そしてジョゼが幸福を考えるとき、それは死と同義語であり、ジョゼにとっての「完全無欠な幸福は、死そのもの」でした。
 

* ケアの倫理という視点

 
2003年の実写映画化を契機として本作を本格的に論じる批評が数多く現れるようになりますが、そこで本作はもっぱら女性障害者が自己肯定や生きる強さを獲得する物語として、もしくは障害者と非障害者との理想的な共生のあり方を映し出す物語として読み解かれてきました。
 
こうした従来の評価を踏まえつつ、武内佳代氏は「田辺聖子ジョゼと虎と魚たち」--ケアの倫理と読むことの倫理(『クィアする現代日本文学』(2022)所収)」において本作結末においてジョゼが辿り着いた「完全無欠な幸福は、死そのもの」という心境を改めて「ケアの倫理」という観点から読み直しています。
 
一般的に「ケア」とは子ども、高齢者、障害者、病人などに対する世話、気遣い、介助、介護、看護といったことを指す言葉であり、多かれ少なかれケアされる側の依存とニーズが伴うものです。そのため自律的な市民を要請する近代リベラリズムにおいてはケアされる側は依存的で自律的ではない存在として社会的・政治的価値を切り下げられてきました。こうした傾向は1980年代以降から個人の自由と市場原理を称揚するネオリベラリズムの世界的な高まりによりさらに拍車がかかることになります。そうした中でむしろ積極的に依存を包摂する社会構築を目指す考え方が「ケアの倫理 the cthics of care 」です。
 
「ケアの倫理」はアメリカの心理学者であるキャロル・ギリガンが1982年に公刊した『もうひとつの声』で提唱して以来、哲学、政治学社会学といったさまざまな学問領域に影響を及ぼした考え方です。同書においてギリガンは道徳発達に関する調査結果を近代以降の社会で道徳的発達の指標とされてきた「正義の理念」ではなく「ケアの倫理」という観点からその再評価を行いました。ここでいう「正義の理念」とは自由意志をもった自律的な道徳的主体を前提として公平と普遍性を重視しています。これに対してギリガンの提唱した「ケアの倫理」は関係性の網の目のなかで個々人は決して完全に自律的ではなく常に相互依存の関係を結んでいることを前提と捉え、その人その人が置かれた具体的・個別的な文脈と関係性を重視しています。
 
そのため「ケアの倫理」は近代社会で必ずしも自律的な主体ではないケアされるものとして子ども、高齢者、障害者、病人などの存在や彼らのケアを負担する存在のニーズにどう答えていくかといった「正義の理念」からは導かれない問いを積極的に引き受けることになります。換言すれば「ケアの倫理」とは互いにケアし合い依存し合う関係性を中心化することによって、いかなる者であろうとも取り残すことはない非抑圧的・非暴力的な平等社会を構想する思考であり、この理念のもとで個々人は「具体的他者のニーズへの応答」を引き受けることになります。
 

* 1980年代における障害者へのまなざし

 
まず同書はジョゼの「アタイ」という自称に注目します。ジョゼが自身を「アタイ」と呼ぶのはもともとは継母の連れ子の真似から始まっており、そこには自分も連れ子のように実父と継母に可愛がられたい、すなわち「ケアされたい」という切実なニーズがあります。しかし実父と継母のもとでこのニーズは決して満たされることはありませんでした。
 
またジョゼを施設から引き取った祖母は実父や継母に比べればまだ優しかったものの、(たとえ孫を好奇の目に晒すまいという温情かもしれないにせよ)障害者に対する差別的なまなざしを世間と共有し、ジョゼの行動を厳しく制限していました。そして何よりジョゼ自身もこれまでの生い立ちから「ケアされたい」というニーズを主張することに対して強い後ろめたさを抱え込んでいました。
 
現在でこそ、障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)の見地から「障害」を従来のように個人的な心身の機能障害(インペアメント)とみなす「医療モデル(個人モデル)」を相対化するモデルとして障害を社会的に構築された障壁(ディスアビリティ)とみなす「社会モデル」が打ち出され、従来は障害者個人の「わがまま」としか見做されなかったさまざまなニーズが社会的に承認され、障害者と非障害者の社会的分断の解消を目指すノーマライゼーションの取り組みが推進されつつあります。
 
けれども本作発表当時の1980年代前半はまだこのような「社会モデル」による障害の概念が社会に根付いておらず、障害者の日常的な不自由の原因はあくまで障害者個人に帰すべきものと見做されていました。それゆえにジョゼがケアされたいというニーズの表明を断念し、孤立した生活を送ってきたのはこのような当時の障害をめぐる社会のまなざしと表裏の関係にあるといえます。
 
とりわけ祖母との外出中に通りすがりの何者かがジョゼを車椅子ごと坂道に押し出した事件はジョゼが障害者であるがため社会から「悪意」を常時向けられ続けていることを如実に物語っています。この「悪意」はジョゼを「生きるに値しない命」とみなす優生思想的なまなざしに他ならず、こうした「生きるに値しない命」としての自己像を内面化していたからこそ彼女は社会に対するニーズの表明を断念するようになったともいえます。
 

* ディスアビリティとジェンダー

 
けれどもジョゼは見知らぬ他者から明確な「悪意」を向けられたまさにその出来事において通りがかりの別の見知らぬ他者である恒夫に命を救われることになります。これはおそらくジョゼにとって初めて見知らぬ他者から与えられた「生きるに値する生」としての承認を意味したはずです。
 
その後、ジョゼは恒夫にだけはそれこそ「わがまま」に映るほどのニーズを表明していきます。これに対して恒夫はジョゼの高飛車な物言いを障害者の「わがまま」とは捉えず、その言葉に裏にあるジョゼが直接的には表明できない潜在化されたニーズを読み取っていき、ジョゼの室内移動用の器具をこしらえたり、トイレの補助台などの取り付けについて業者に掛け合うなど、いつの間にかジョゼの具体的なニーズに応じて、その生活上のディスアビリティを取り除いていくケアを実践していきます。
 
もっとも、ジョゼにとって恒夫は何よりも「異性のパートナー」としてのケア役割を担う存在に他なりません。本書が指摘するように女性障害者はディスアビリティとジェンダーという二重拘束による抑圧状況の下、しばし性的な存在として搾取される一方で性的な存在であることを否認されるという理不尽な困難に直面します。例えば本作においてジョゼは一人暮らしを始めた後、同じアパートに住む「お乳房さわらしてくれたらなんでも用したる」と言い寄ってくる中年男性に悩まされていました。その一方でかつて継母から「ややこしい」と疎まれ施設に放り込まれた理由はジョゼに生理が始まったことが原因であり、このことはジョゼが恋愛、結婚、出産といった性的な身体とは切り離されて捉えられていたことを物語っています。
 
けれどもジョゼは恒夫との性体験を経て女性としての性的主体性を獲得し、彼女にとって「一ばん怖いもの」である「虎」を恒夫と一緒に見にいくことで健常者中心主義的な社会の「悪意」から守ってくれる男性が自分の傍らにいるという女性像の獲得に至ります。
 
しかしながらその一方で、ジョゼは恒夫と夫婦のような生活を始めてからも、恒夫を「夫」とは呼ばず「管理人」と呼んでいます。すなわち、ジョゼが同棲相手の恒夫に表立って期待できる役割はあくまで自身の介護をしてくれる施設の「管理人」であり、その意味でこの「管理人」という呼称はジョゼが恒夫との結婚を自ら主体的に断念していることの証左であるともいえます。
 
そして現実においても1983年に行われた聞き取り調査によれば当時、結婚を諦めている肢体不自由な女性障害者が数多くいたことがわかっています。つまり、パートナーを「管理人」と呼び、結婚したいというニーズを断念し、意識化さえ拒否しようとするジョゼは当時の女性障害者そのものの表象ともいえるでしょう。
 

* 完全無欠な幸福の彼岸

 
ともあれ恒夫との「共棲み」においてジョゼは料理や洗濯といった家事労働を通して「夫」をケアする「妻」の役割を仮初ながらも引き受けることで「完全無欠な幸福」を覚えるに至ります。ここでジョゼのニーズは十全に満たされたかにも見えます。しかし問題はジョゼはこうした「完全無欠な幸福」を「死そのもの」であると感じている点にあります。
 
確かにこのような「完全無欠な幸福」と「死」を連結させる本作の語りは究極の甘美な感情を文学的に表現したものにすぎないとも読めなくもないでしょう(フランスの精神分析ジャック・ラカンもある時期においては、快原則の彼岸としての「享楽」を「死」と同義のものとして捉えていました)。けれども、この恒夫との「共棲み」といういつ終わるともしれない刹那的な関係は「結婚」に対するニーズの意識化さえ拒否された結果であるとも読めます。
 
すなわち、ここでジョゼはこのような恒夫との刹那的な関係を意識の上では「完全無欠な幸福」と感じてはいるけれど、その無意識下における絶望的な閉塞感の痕跡が「死そのもの」という言葉として回帰しているともいえます。そして、この逆説的なジョゼの「幸福」な姿は、1980年代の女性障害者に背負わされた絶望的な閉塞感を表象するものと読めるでしょう。
 
もっとも、その一方で、このようなジョゼが直面する絶望的な閉塞感の裏側には当時は意識化自体が困難であったであろう「妻」という固定的なジェンダー役割、ひいては女性というジェンダー・アイデンティそのものからも解放された多様なニーズの顕在可能性が胚胎していたとも言えるでしょう。
 
換言すれば本作は同時代的には当事者にも非当事者にも誰にも認知できないような「非認知ニーズ」をも顕在化させる倫理的な可能性に開かれた作品であったということです。こうした意味で「昭和のジョゼ」というべき原作小説が胚胎していた多様なニーズの顕在可能性に対する優れた回答こそが、あるいは「平成のジョゼ」としての2003年の実写映画であり、さらには「令和のジョゼ」である2020年のアニメーション映画であったといえるでしょう。
 

*「共棲み」の「重み」を描いた「平成のジョゼ」

 
まず2003年の実写映画はストーリーの大きな流れとしてはおおむね原作を踏まえたシナリオとなっていますが、原作にはない恒夫とジョゼの「共棲み」の顛末までが描かれています。この点、原作の「新婚旅行」は映画では恒夫が実家の法事にジョゼを連れて行き両親に紹介するという状況に置き換えられています。そして、その出発前に児童福祉施設時代の幼馴染から恒夫と結婚するのかと問われたジョゼは「あるわけないがなそんなこと」とにべもなく返します。
果たしてジョゼが直感した通り、帰省する途中で心境の変化が生じた恒夫は土壇場で法事への参加を取りやめてしまいます。その後、ジョゼは宿泊先を探している最中にたまたま見かけた「お魚の館」という名前のラブホテルに泊まりたいと言い出し、困惑する恒夫に向かって「ごほうびにこの世の中でいちばんエッチなことしてもええよ」などと言い募ります。
 
「お魚の館」での性行為の後、貝殻を模したベッドで眠りこける恒夫の横でジョゼは回遊魚の立体映像を見つめながら「深い深い海の底、ウチはそっから泳いできたんや」「いつかアンタがおらんようになったら、迷子の貝殻みたいに一人ぼっちで海の底をころころころころ転がり続けることになるんやろ」と静かに呟きます。ここでも原作同様に結婚に対するニーズの断念が反復して描かれています。
 
その数ヶ月後、恒夫はジョゼとの「共棲み」を解消することになり、その理由として彼は「僕が逃げた」と回想します。この点、先の旅行中、恒夫が車椅子を拒否するジョゼをおぶって移動する場面が象徴的に描かれていますが、結局のところ恒夫は障害を抱え「(祖母のいうところの)こわれもん」であるジョゼを「家族」として背負って生きていく「重み」に耐えられなかったということなのでしょう。
 
そして映画の結末においてジョゼから「逃げた」恒夫はその喪失感、あるいはその罪悪感からこれみよがしに泣き崩れます。けれども当のジョゼは恒夫が去った後の日常を電動車椅子を使って淡々と生きていきます。この映画の結末は原作における「完全無欠な幸福=死」に閉じられた世界から、多様な生の可能性に開かれた世界に彼女がその一歩を踏み出していったことを示しているようにも思われます。
 

* 新境地を開いた「令和のジョゼ」

 
いずれにせよ2003年の実写映画が原作小説の持つ世界観を損なうことなく拡張し、なおかつ深化させることに成功した素晴らしい映画であったことは確かです。だからこそ「ジョゼ」がアニメーションとして再び映画化されるという話を聞いた時は本当に驚きました。いまさら何を作ろうというのか、どう考えてもあの映画以上のものが創れるはずがないと、普通にそう思いました。
 
けれども他方でティザービジュアルとして提示された、気だるそうに机に突っ伏していながら強い何かを宿したまなざしをこちらへ向けてくるジョゼの姿にはどこか惹かれるものがありました。そのうち、もしかしてこの映画はただの懐古趣味ではなく、これまでの「ジョゼ」を打ち破る全く新しい「ジョゼ」を本気で描き出そうとしているのではないかという、そんな気もしてきました。
 
 
本作の中盤までのあらすじはこうです。海洋生物学を専攻する大学生、恒夫(鈴川恒夫)は、自身の夢である海外留学の資金を貯めるため、バイトを掛け持ちする日々を送っていました。そんなある日、バイト帰りの恒夫は車椅子ごと坂道を転げ落ちてきたジョゼを偶然助け出します。
 
これまで祖母(山村チヅ)の庇護の下、ずっと閉じた世界の中で生きてきたジョゼにとって外の世界とは「恐ろしい猛獣ばかり」の世界でしかありませんでした。けれどもチヅからジョゼの世話を託された恒夫は「管理人」としてジョゼを外の世界に連れ出していき、恒夫とともに世界のさまざまな騒めきと彩りを知ったジョゼはやがて「外は怖いだけやない」と思い至るようになります。
 
この点、原作小説からおよそ36年後に公開された映画である本作では世界観設定が大幅に更新され、とりわけ中盤以降はこれまでにないまったく新たな展開が描き出されることになります。何より本作の大きな変更点としてジョゼに「絵が描ける」という特技が追加されており、海外留学を目指す恒夫の夢に感化されたジョゼはやがて自身も「絵を仕事にしたい」という夢を懐くようになります。そして、このジョゼが描く絵から紡ぎ出される「物語」こそが恒夫を、そしてジョゼ自身を救うことになります。
 

* 物語を紡ぎ直すということ

  
祖母の死後、ジョゼから「管理人」の「最後の仕事」として再び海に連れて行くよう頼まれた恒夫はその帰路でジョゼを庇って交通事故に遭い、重傷を負います。その結果、恒夫は医師から脚と手に障害が残る可能性を告げられ、折角まとまりかけていた留学の話も白紙となってしまいます。
 
ここで恒夫はこれまで自身を基礎付けてた「物語」を完全に喪失することになります。人が世に棲まいその生を基礎付けるためには、その人にとっての内的幻想である「物語」を必要とします。こうした意味での「物語」は人の過去と現在の出来事を了解する媒介であると同時に未来へ歩むための道標となります。
 
それゆえに恒夫が機能回復訓練をやり抜き、留学のチャンスを再び掴むには新しい「物語」が必要でした。そうした中で、ジョゼが優しい絵と共に紡ぎ出したのはまさしく、恒夫のこれからの生を基礎付けるための新たな「物語」でした。
 
そして同時に、こうした「物語」の創造はジョゼにとっても大きな転機になりました。祖母亡き後、独りで生きていかなければならない現実に直面したジョゼは「絵で生きていく」という夢を手放し「自立」の道を模索することになります。けれども恒夫を救うため「物語」を創造する中で、自らの夢を再発見したジョゼはその夢を手放さないままにこの現実を生きていく「自立」の道を選び取ります。すなわち、ジョゼもここで祖母の死を乗り越え、自らの「物語」を様々なめぐりあわせの中で紡ぎ直していくことになります。
 

* 昭和のジョゼ、平成のジョゼ、令和のジョゼ

 
物語を紡ぎ直すということ。それは「ケアの倫理」にまっすぐに応える実践に他なりません。ジョゼは恒夫からケアされることで自身の中に眠っていた「非認知ニーズ」である「絵を仕事にしたい」という夢を懐くことができました。そして彼女はまさしくその絵から紡ぎ直される「物語」によって恒夫をケアし、さらには自分自身をケアするに至ります。ここにはまさしく互いにケアし合い依存し合う理想的な「共棲み=自立」を見出すことができるでしょう。
 
いまにしてみれば「昭和のジョゼ」というべき原作小説は当時としては優れた「ケアの倫理」を体現する作品でしたが、そこにはやはり当時の社会状況を反映したディスアビリティとジェンダーをめぐる二項対立が温存されたままになっていました。これに対して「平成のジョゼ」としての2003年の実写映画はこうした二項対立の限界性を暴き出した作品であるといえます。
 
そして「令和のジョゼ」である本作はこうした二項対立を見事に脱構築したその先で、原作小説がもともと胚胎させていた「共棲み=自立」という名のケアの可能性を現代に相応しいかたちで瑞々しく描き出した作品であったといえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

民俗学とはいかなる実践か

* 民俗学という知

 
民俗学はまずイギリスに起こりました。1846年、イギリスの作家、ウィリアム・トムスが従来の古俗や古謡の総称としてフォークロアの術語を提唱し、その内容は「伝統的信仰伝説および庶民のあいだに行われている風習、生活様式、慣習、宗教儀礼、民謡、諺」を包含するものでした。1878年、ロンドンに民俗学協会が発足し、次いでスペイン、フランス、ドイツ、アメリカに順次、民俗学の研究団体が作られ、次第にその学問的基盤が整備されていきます。
 
一方で日本の民俗学は江戸時代中期の本居宣長平田篤胤などの国学の系譜に連なるものであり、大正から昭和にかけて在野の研究者を糾合する形で柳田國男(1875〜1962)が体系化を果たした学問であるとされています。昭和10年代の柳田による日本民俗学の体系化は『民間伝承論』(1934)、『郷土生活の研究法』(1935)、『国史民俗学』(1935)の中で説かれています。
 
日本民俗学の基礎概念の一つに「常民」があります。この「常民」を一つの文化概念としてみるならば、それは水田耕作農耕民の日常生活文化の総体を捉えている概念であり、この「常民」の分析概念として用意されたのが「ハレ」と呼ばれる非日常時空間と「ケ」と呼ばれる日常的時空間です。
 
このようにいうと民俗学とはいかにも一昔前の農村部における庶「民」の風「俗」を分析する「学」のようにも思えます。確かに例えば戦後民俗学の泰斗、宮田登氏の手による入門書『民俗学』(1990)を見ると「ムラとイエ」「稲作と畑作」「盆と正月」「カミとヒト」「妖怪と幽霊」といったテーマが並んでおり、こうしたイメージは完全に間違いとはいえないでしょう。けれどもそのようなイメージは少なくとも現代においては民俗学の学問的本質ではありません。
 

*「普通の人々」の「日々の暮らし」を解き明かすということ

 
一般に学問分野はその対象によって定義づけられていると思われています。例えば経済を対象とするのが経済学、物理を対象とするのが物理学ということです。ですが、これは必要条件であっても十分条件ではありません。例えば『万葉集』という歌集がありますが、これを古代和歌として研究するなら日本文学ですが、古代日本語として研究すれば日本語学であり、歌謡の内容から古代社会を研究するなら日本史学となります。
 
このように学問分野はその対象だけでは決まりません。どんな目的で、どんな対象を、どんな方法で研究するのか、その相関関係が学問分野を決定します。ということは民俗学は民俗を研究する学問だというだけではなお不十分であり、何のためにどのような方法で民俗を研究するのか、その相関こそが問われなければならないということです。
 
では、まず民俗学の目的は何でしょうか。この点、菊地暁氏は『民俗学入門』(2022)において「普通の人々」の「日々の暮らし」が現在に至った来歴を解き明かすことである、というのが柳田の考えであったといいます。世の中をより良く改めるには、現状がいかにして生み出され、問題点がどこにあるかを踏まえることが不可欠であり、その認識なくしては改良することもおぼつきません。すなわち、民俗学の目的とは「未来をより良くするために現在とそれを生み出した過去を正しく知ること」にあります。
 

* 民俗学における資料

 
もっとも、この「未来をより良くするために現在とそれを生み出した過去を正しく知ること」という目的は民俗学のみならず歴史科学、さらには人文・社会科学一般にも当てはまりそうな課題設定であり、このレベルでの民俗学の独自性はほとんどないようにも見えます。しかしながら民俗学の独自性は目的そのものではなく、この課題に対する「対象」と「方法」の設定にあります。
 
この点、時を超えて伝わる資料は「文字」「モノ」「記憶」の三種類に大別できます。そして「文字」を扱うのが文献史学(歴史学)で「モノ」を扱うのが考古学であり、これに対して「記憶」を扱うのが民俗学ということもできるでしょう。では、このような様々な資料のうち「普通の人々」の「日々の暮らし」が現在に至った来歴を解明するのにふさわしいものは果たしてどれでしょうか。通常、歴史を調べる際に用いられるのは史料(文字資料)です。だがそこから「普通の人々」の「日々の暮らし」を辿ることができるのかという問いに柳田は明確に「否」と答えました。
 
「愛すべきわが邦の農民の歴史を、ただ一揆嗷訴と風水虫害の連続のごとくしてしまったのは、遠慮なく言うならば記録文書主義の罪である」(『国史民俗学』)と柳田はいいます。これはまさに卓見というべきでしょう。すなわち、近世の農民について書き残すのは読み書き能力を有していた支配者階級がほとんどですが、彼らの関心事はもっぱら自身の収入源である年貢の納入にあり、それゆえに彼らは何かアクシデントが生じるとやれ「一揆嗷訴」だの「風水虫害」だのと大慌てで収入源の危機を文字として記録し、ここからステレオタイプな「天災に苦しみ一揆に荒れ狂う」という農民像が出来上がります。つまり文字資料は「特別な人々」による「特別な出来事」の記録であり、ここから「普通の人々」の「日々の暮らし」を捉えることはできないということです。
 

* 資料としての私(たち)

 
こうした文字資料の限界を突破すべく見出されたのが「民俗資料」です。それは「普通の人々」の「日々の暮らし」そのものであり、極論すればそうした暮らしを営む私(たち)自身のことです。箸を使って食事をしたり、畳の上で正座をしたり、日本語でコミュニケーションをするといった私たちの「日々の暮らし」における様々な日常的営みは生物学的本能ではなく後天的学習によって獲得されます。しかもこうした所作は今現在の行為でありながら確実に過去の人々から受け継がれた「歴史」を有しています。
 
それゆえに私(たち)自身が「歴史」を宿した「資料」であるといえます。そしてその「歴史」は単体からは不可視ですが、大量のデータの比較を通じて空間差から時間差を抽出することで可視化することができます。ここに「特別な人々」の「特別な出来事」の記録たる文字資料の不完全性を補完しうる「普通の人々」の「日々の暮らし」そのものである「資料としての私(たち)」という可能性が立ち上がります。このような「私(たち)が資料である」というコペルニクス的転回こそが、民俗学という学問による最大の方法論的貢献であると菊地氏は述べています。
 
 
この点、柳田はこのような「民俗資料」を「有形文化」「言語芸術」「心意現象」に分類しています。これは「三部分類」と呼ばれています。その第一部「有形文化」は日々の暮らしの物質的側面であり、物体として可視的に存在するゆえに目によって観察ができるため、それは誰でも採集が可能なものです。その第二部「言語芸術」は暮らしの中にある言葉の営みであり、口から語られ耳で聴き取られるものであるため、それは当該言語を理解する者によって採集されます。
 
そして、その第三部「心意現象」は人の心に刻まれ心で感じるものであることから、それは「同郷人」によって採集されることになります。なお、ここでいう「心意現象」の典型は「〇〇をしてはいけない」という「禁忌」であり、また「同郷人」とはこのような「心意現象」を共有できる広い意味での当事者を意味しています。
 

* 民俗学とはいかなる実践か

 
このように民俗学では「資料としての私(たち)」から出発する学問です。そのためには自らに刻み込まれた「歴史」を解き放つべく、自らの五感を研ぎ澄ました観察力を練成する必要があると同時に「歴史」を刻み込まれた他者との比較が必須となります。それゆえに「資料保持者」としての私(たち)の一人ひとりが「研究分担者」として採集と比較の実践に参加することが要請されます。
 
それゆえに民俗学とは自らの資料性を媒介として認識を立ち上げる方法論的挑戦であり、それがとりもなおさず、そのような方法的主体の連携を構築する運動論的挑戦ともなるのであると菊池氏は述べています。いわば民俗学とは「普通の人々」の「日々の暮らし」の底にある「歴史」に降り立つことで、いまここの日常を多重化していくための知であるといえるでしょう。
 
また、こうしてみると民俗学はどこか精神分析に通じるところがあるように思えます。精神分析が何かしらの症状を通じて分析主体に宿る「(他者の)欲望」を詳らかにするように、民俗学も例えば「禁忌」といった日常的な風習を通じて「資料としての私(たち)」に宿る「(他者の)歴史」を詳らかにしていきます。
 
そして、こうした自身のうちに宿る「歴史」を詳らかにすることにより、我々の日常を規定する様々な思考や観念を改めて俯瞰的に捉え直すことが可能になるでしょう。こうした意味で民俗学は我々の日常に根ざした「歴史」を解き明かすことで、その「歴史」から自由になるための実践であるといえるでしょう。