* ポストメディア時代の思想家
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)は1968年にフランスで起きたいわゆる「5月革命」を駆動させた「欲望」の奔流を原理的に考察し、1970年代の大陸哲学最大のムーブメントを巻き起こした哲学書として知られています。同書の主旋律を成すのはその極めて激越なまでの精神分析批判です。この点、精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは19世紀末、当時謎の奇病とされたヒステリーをはじめとする神経症の治療法を試行錯誤する中で、その原因が幼児期の性生活に由来する性的欲望と性的空想のなかにある事を突き止めて、幼児期の性生活の中核には異性の親に愛着を持つ一方で同性の親に対する憎悪を抱くという「エディプス・コンプレックス」という心的葛藤があることを発見しました。
そしてこの「エディプス・コンプレックス」なる一見して奇怪なフロイト神話を構造言語学の知見を用いて再解釈したのが構造主義の代表的論客として知られるフランスの精神分析家ジャック・ラカンです。ラカンはエディプス・コンプレックスを「象徴界(言語の領域)」という「シニフィアンの構造」を統御するシニフィアンである〈父の名〉の導入として捉え、この〈父の名〉が正常に導入されているか否かを基準として、人の心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかへと鑑別しました。
こうしたフロイト=ラカンが提示するエディプス・コンプレックスに規定された「神経症=いわゆる正常」という構図を同書は真正面から批判し、精神分析のオルタナティヴとして、いわば「神経症の精神病化」というべき「分裂分析」を提示することになります。同書においてドゥルーズ&ガタリが目指したのはいわばエディプス・コンプレックスに規定された欲望を内破する多様多彩な欲望の表出であり、こうした同書の企図はやがて同書の続編として公刊された『千のプラトー』(1980)において「リゾーム(根茎)」という概念へ昇華されることになります。
ここでいう「リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいいます。この点「ツリー(樹木)」は1本の幹を中心に根や枝葉が広がり階層化されており、我々が一般的に「秩序」と呼ぶものの特性を備えています。これに対して、リゾームには全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただ限りなく連結して、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖からなります。こうしたリゾームという言葉によって、ドゥルーズ&ガタリは、旧来の家父長的規範性からの逃走と偶然的接続による多様な生のなかに、単なるカオスではない別の秩序の多様な可能性を見出していくのでした。
ところで同書の2人の著者のうちの1人であるドゥルーズがポスト構造主義を代表する思想家として(あるいは20世紀後半を代表する哲学者として)現代思想や哲学、社会学、メディア研究、映画研究といったさまざまな分野で数多くの批評家や研究者によって繰り返し検討に付され続けているのに比較するならば、同書のもう1人の著者であるガタリが単独で言及される機会は少なかったといえます。こうした状況のなかで今年公刊された本書『フェリックス・ガタリの思想』は新たなメディア=技術環境が成立した「ポストメディア時代」を先取りした思想家としてガタリに光を当てていく一冊であるといえます。
* 精神医療と社会運動のあいだで
あらためてフェリックス・ガタリとはどのような思想家なのでしょうか。ガタリは1930年にパリ北西部郊外に生まれ、10代後半からジャン=ポール・サルトルの実存主義に傾倒したことで左翼運動に関与することになり、大学入学後はラカンの薫陶を受け、学生たちからは「ラカン」というあだ名(!)をつけられるほど当時はラカンに魅了されていたそうです。
その後、1954年に精神科医ジャン・ウリの誘いに応じ、ラボルド精神病院に勤務して精神病患者の治療に従事します。その間、1968年5月にフランス全土で展開された学生運動・社会闘争に参加し、さらに監獄情報グループ(GIP)の運動に加わり、精神医療制度の変革を求める「制度論研究グループ」を設立して精神医療改革の中心メンバーとして活躍し、1990年代にはフランスの緑の党に所属して環境運動にも積極的にコミットするなど、1992年に急逝するまで社会を変革するための政治・社会運動で指導的役割を担い続けました。
彼の思索の集大成的な論考である「三つのエコロジー」はそのタイトルが示すように現代社会の危機と病理とその解決の方途を「環境エコロジー」と「社会的エコロジー」そして「精神的エコロジー」という三つのエコロジー=生態学という巨視的な視点から考究するものです。すなわち、ガタリにとって自然を物理的対象として位置付け単なる開発の対象とする思考の構造を抜本的に見直し環境破壊を食い止めようという課題(環境エコロジー)は、宗教や人種や階級やジェンダーやセクシュアリティが複雑に交差した差別や抑圧を乗り越えるべく社会的関係をエコロジカルに変革する課題(社会的エコロジー)や、人間の活動を支える価値の支配的様式を反省して精神のエコロジーを再構築する課題(精神的エコロジー)と決して決して切り離すことができない三位一体の課題であったということです。
そして彼の死後から30年近くが経過したいま「人新世」と呼ばれる地球規模の時間軸でみても急激な環境変化が続く危機的状況は、かつてガタリが「三つのエコロジー」で語ったように一刻の猶予のない切実な現代社会の課題となっているといえるでしょう。
* 制度論的精神療法とは何か
ガタリの思想の原点は彼の生涯の職場であったラボルド精神病院における実践にあります。ガタリによれば彼がラボルドで働き始めた当時、フランスの精神医療はその多くの場合「ほとんど動物を飼うような管理システムで精神病を扱っていたので、患者は一日中そこいらをぐるぐる歩き回り、頭を壁に打ち付け、叫んだり殴り合ったりし、汚物や糞尿のなかにうずくまっているといった光景が普通」であったとされます。
そのような環境を抜本的に見直し、病院の制度や集団性を根本的に改革する運動こそがラボルドでガタリの実践した「制度論的精神療法」です。この点、ウリによれば「制度論的精神療法」とは異質な諸領域や行動を組み合わせて欲望を循環させるためのさまざまな「仕掛け」を組み立てるための制度分析のことをいいます。そしてラボルドにおいてガタリが取り組んだ仕事とは、まさにこうした領域や行動が常に変化しながら循環する横断的な制度を構成すること、そして常にその制度を見直し、不断に再組織化することでした。
その実践はガタリ自身が述べるところによれば、まず「病院の横断的委員会、とくに患者のクラブを発展させる」ことであり、具体的には「全体集会、書記局、在院患者とスタッフが同等の立場で運営する協同委員会、1日を活性化するための基盤委員会、新聞発行、絵画、裁縫、鶏小屋、園芸など、あらゆる種類の「作業所」をつくる」仕事になります。もっとも、このような新たな組織化を行うには医療看護のスタッフだけではなく、掃除や食器洗いなどを行う施設管理のスタッフ全員の協力が不可欠であり、さらには全員が横断的にさまざまな役割を分担して引き受けるという困難な課題が生じます。
こうした課題を解決するための一つのツールとして、ガタリがその重要性を繰り返し指摘する「図表=ダイアグラム(役割分担表)」という一覧表があります。ガタリは後年この「図表=ダイアグラム」という概念を精緻化させ「抽象機械」という概念へと結実させることになります。
*「宇宙」を切り開くということ
集団行動、作業所の運営、精神療法など、日々の日常生活を織りなす施設のさまざまな活動を患者やスタッフや精神科医が責任をもって担う制度論的精神療法の本質的な方向性はあくまでも「看護する者と看護される者の関係、ならびに在院患者と病院職員の関係から差別をなくす方向に向かう」ことにありました。この点、課題解決ツールである「図表=ダイアグラム」と密接に結びついている「横断性」というガタリ独自の概念の萌芽はこの具体的・経験的な実践に由来しています。
そして、在院患者と病院職員と医師の横断的関係の構成とは一方的な精神科医による「治療」や「教育」ではなく、日常生活の中での多種多様な応答を関係を通じて、精神病患者それぞれが「世界との関係」を切り結ぶことで独自の「宇宙」を切り開いていける多様な接触点を絶えず作り出すという目的に到達するための「仕掛け」であり、こうした「仕掛け」の構築こそが制度論的精神療法の主眼であったといえます。
1972年に刊行されたガタリの著作『精神分析と横断性』のなかに収録された「制度論的精神療法入門」「制度論的精神療法に関する哲学者のための考察」「転移」といった論考においてはガタリ自身の実践を通した制度論的精神療法の課題と方法そしてその哲学的含意が検討され「横断性」の概念から精神分析への批判的検討が行われています。これらの論考はいずれも1950年代の経験を踏まえて1960年代前半に執筆されたものですが、こうしたガタリの実践を踏まえた考察が『アンチ・オイディプス』における革新的な議論へと結実したことは疑いないでしょう。
* ドゥルーズ&ガタリをガタリの側から読む
本書の序章「アール・ブリュット ガタリの思考の原点」ではガタリの思索を理解する上でもっとも適切な入口として「アール・ブリュット」が取り上げられます。日本では「生の芸術」や「素朴芸術」と訳されてきたアール・ブリュット(art brut)とは「野生の/原始的な/洗練されていない」という多義的な意味を持っています。ガタリとドゥルーズは『千のプラトー』の中の「リトルネロ」において「アール・ブリュットは、領土性の運動の中で表現の質料を形成し、解放している」と述べています。このようなアール・ブリュットにおける「表現の質料」が文字という記号を「非-シニフィアン」に解放し、その解放から特異な「宇宙」を造形していくと本書は述べます。そして、ガタリを理解する上で最重要となる概念がこの「宇宙」に他なりません。
第Ⅰ部「実存」ではラボルド精神病院で直面した当時の精神医学や精神分析が抱えた問題、政治運動を経験する中で浮かび上がった社会組織や政治組織などあらゆる集団に顕在化した問題、そしてこれらの問題の基底に存在する発話行為をめぐる権力的な非対称性を前にした時に生起する「いかに生きるべきか、いかに生きるべきなのか」という問いにどう向き合っていくのかという「実存」の問題をめぐるガタリの思索が辿り直されます。
第Ⅱ部「非-シニフィアン」では従来の言語学や記号学が等閑視していたこの「非-シニフィアン」という領域の「発見」と、この領域を照らし出すための「言葉」を探りあて、理論化を進めるべくガタリが手探りで歩んだ二つのルート、すなわちチャールズ・サンダース・パースの記号論の内在的検討とイェルムスレウ言語学の批判的検討という二つのルートが読み解かれます。
第Ⅲ部「マシーン=機械」ではこれまでに検討した「マシーン=機械」概念が晩年の著作『カオスモーズ』においてより精緻化されていることが論じられるとともに「統合的資本主義」というガタリの現代社会認識がデジタル・テクノロジーの進展に関する鋭い洞察を基盤として展開されており、現時点においても先駆的な議論であったことを踏まえ、このようなガタリの思考の現在のメディア研究、ネットワーク社会研究への寄与が論じられます。
従来『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』といったドゥルーズ&ガタリの著作は(少なくとも一般向けの解説においては)もっぱら哲学的な切り口から、いうなれば「ドゥルーズの側から」読み解かれることが多かったように思います。けれども彼らの著作の前提にはガタリがラボルドで繰り広げてきた制度論的精神療法の実践があることは確かです。そうであれば彼らの著作は「ドゥルーズの側から」のみならず、こうした精神医療の現場において試行錯誤を積み重ねてきた「ガタリの側から」読み解くことにより、初めて哲学と現実を切り結んでいく実り豊かな領野が立ち現れてくるのではないでしょうか。