* 賛否が二極化した映画
1937年8月に公刊された吉野源三郎氏の著書『君たちはどう生きるか』は作家の山本有三らが中心となって編集した「日本少国民文庫」という全16巻からなる子供向け教養叢書の最終巻であり、同文庫の編集主任も務めた吉野氏は戦後、岩波書店の雑誌『世界』の初代編集長を務めており、今日では戦後民主主義を代表する進歩的知識人の1人として知られています。
同書の大まかなあらすじとしては「コペル君(地動説を主唱したコペルニクスに由来するあだ名)」と呼ばれる中学二年生の主人公の少年、本田潤一が、叔父さんとの対話を通じて、この社会で生きていくことの意味について考え人間的に成長していくというものです。同書は児童文学の形をとった教養教育の古典として複数の出版社で出版され戦後広く読み継がれてきました。そして同書に感銘を受けた読者の1人に少年の頃の宮崎駿氏がいました。
そして同書公刊からちょうど80年後となる2017年2月、前作『風立ちぬ』を最後に長編アニメーション映画からの引退を公言していた宮崎氏が長編映画の制作に復帰していることが明らかにされ、同年10月には次回作のタイトルが『君たちはどう生きるか』であることが明らかになります。
それからさらに5年が経過した2022年12月、1枚のポスタービジュアルと共に本作の公開日が2023年7月14日に決定したことが告知されますが、それ以降本作に関する情報は公式からは一切発信されることはなく、インターネット上でさまざまな憶測が飛び交う中で本作は公開日を迎えることになります。
果たしてこの徹底した情報封鎖が功を奏したのかどうかはよくわかりませんが、本作は公開4日間で興行収入20億円を突破する好スタートを切ることになりました(8月28日時点での興行収入は74.1億円であると報道されています)。しかしその一方でインターネット上における本作の評価に関しては賛否が二極化しており、とりわけ否定的な意見としてそのストーリーのわかりづらさを上げるものが多く見受けられました。このわかりづらさは宮崎氏ご自身も自覚されているようで、2月に都内で極秘で行われたらしい初号試写では「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」というコメントを出しています。
確かに本作は一回観ただけではわけがわからない映画であることはほとんど疑いないでしょう。では、このわかりづらさは一体何に起因するのでしょうか。
(この先は本作に関するネタバレを含みますので何卒ご留意ください)
* 母を亡くした少年と謎のアオサギ--序盤のあらすじ
本作序盤のあらすじはこうです。物語は太平洋戦争が始まってから三年目のある日、本作の主人公の少年、眞人が実母のヒサコを病院の火災で喪うところから始まります。その一年後、軍需工場の経営者である父親の勝一はヒサコの妹、夏子と再婚し、一家は夏子の実家へ工場ごと疎開することになります。その時、夏子はすでに父親の子供を身籠もっていました。
眞人は疎開先の屋敷の外れに建っている塔の館が不思議と気になります。その館はかつて大伯父によって建てられ、その後大伯父はその中で忽然と姿を消したと夏子はいいます。
転校初日、学校にうまく馴染めないままその帰り道で地元の少年たちから暴行を受けた眞人は道端の石で自分の頭を傷つけて深い傷を負います。帰宅後、眞人が自室で寝込んでいると、突如部屋に入り込んできた怪しげなアオサギから「母君のご遺体を見ていらっしゃらないでしょう。あなたの助けを待っていますぞ」と告げられます。
眞人は母親と瓜二つの歳若き女性である夏子に対する距離の取り方がわからず、彼女に対してそっけない態度をとり続けていました。件のアオサギが残した羽で自作の弓矢を製作している最中、眞人は夏子らしき人影が森の中へと入っていくところを目撃しますが特に気にも留めませんでした。ところがその後、眞人は自室にあった吉野源三郎の著書『君たちはどう生きるか』の中に書き込まれていた母ヒサコのメッセージに気付き同書を読み進めるうちに涙が止まらなくなります。
そして、その日の夕暮れに夏子が失踪したことで屋敷の皆が大慌てになる中で眞人は屋敷を切り盛りする七人のばあやの一人であるキリコとともに夏子の後を追って塔の館の内部に潜入します。ここでアオサギに偽物のヒサコを見せられて怒った眞人は自作した矢を放ち、嘴を穿たれたアオサギは半鳥人のサギ男の姿から戻れなくなってしまいます。そして眞人は塔の最上階にいる謎の人物により「下の世界」へ誘われていきます。
* 戦後日本社会における「母性のディストピア」
このように本作はひとまずのところは「母性」の喪失をめぐる物語であるといえそうです。この点「母性」の喪失は戦後日本文学の大きな主題をなしています。例えば戦後日本を代表する文芸批評家である江藤淳氏はその主著である『成熟と喪失』(1967)において当時の文学的潮流のひとつを成していた「第三の新人」と呼ばれる作家たちの作品群から近代社会における〈母〉の動揺と崩壊を読み取り、戦後日本における「成熟」の条件とは〈母〉を見棄てることによる「喪失感の空洞」のなかに湧いて来る「悪」を引き受けることであると主張しています。
そして宮崎駿という作家もまた、こうした戦後日本的な「母性」の磁場にとらわれた1人であったといえるでしょう。この点、批評家の宇野常寛氏はその名も『母性のディストピア』(2017)という著作において戦後日本社会論という大きな文脈の中で宮崎駿という作家を論じています。
まず同書の問題設定は大まかにいうと次のようなものです。かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは当時、日本社会の精神性を「12歳の少年」と呼びましたが、その後、サンフランシスコ体制と日米安保という「アメリカの影」の下で「12歳の少年」に留め置かれた戦後日本が見出した成熟観とは「12歳の少年」のままでの成熟の仮構であり、それは「アメリカの影」による実質的な「政治」の不可能性を「文学」における自己完結的な「政治ごっこ」運動で代替し、現実から切断された空虚な理想を掲げることに意味を見出すという極めてアイロニカルな成熟観です。
こうした成熟観は戦後日本を長らく規定した左右のイデオロギーにおいて「(現実的にはそれが不可能と知りながら)あえて」その「偽悪(例えば憲法9条改正/再軍備)」ないし「偽善(例えば憲法9条護持/武力放棄)」を引き受けるという「あえて」の論理として現れます。そして、このような「あえて」の論理によって「矮小な父性」が「偉大な父性」を僭称する自己完結運動には、その不毛な演技を無条件に承認してくれる「肥大化した母性」が必要とされます。このような「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託構造を同書は「母性のディストピア」と呼びます。
こうした問題設定から出発した同書はいわゆる「アトムの命題(記号的身体で自然主義的成熟を描く矛盾)」を孕む戦後アニメーションには戦後日本社会を規定した「母性のディストピア」が強く表現されているとして、宮崎駿、富野由悠季、押井守といった戦後アニメーションを代表する作家の軌跡を検証し、ここで宮崎氏を「母性のディストピア」を「母性のユートピア」として読み替えた作家であるとして位置付けます。どういうことでしょうか。
* 母性・少女性・ニヒリズム
この点、宮崎氏の作品には「飛ぶ」という表現が頻出しますが、これを近代的/男性的自己実現のメタファーだと考えるのであれば、これまでの宮崎作品は基本的にこの「飛ぶ=近代的/男性的自己実現」ことの不可能性というニヒリズムから出発した上で何らかの回路を用いて「飛ぶ」ことの擬似的な回復を図るという構図に規定されてきたといえます。
まず『未来少年コナン』(1978)『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)『天空の城ラピュタ』(1986)『紅の豚』(1992)におけるコナン、ルパン、パズー、ポルコ・ロッソといった男性主人公は皆それぞれラナ、クラリス、シータ、ジーナといったヒロインの承認によって「飛ぶ」ことが可能となります。つまりここには近代的/男性的自己実現の不可能性を母性へ依存することで疑似的に回復するという回路があります。
そしてその一方で、宮崎氏の描くヒロインにはもう一つの系譜が存在します。それは『風の谷のナウシカ』(1984)『となりのトトロ』(1988)『魔女の宅急便』(1989)における「空を飛ぶ少女」たちです。ナウシカはメーヴェを操り、サツキとメイはトトロやネコバスと共に、キキは箒に跨る魔法少女として、それぞれ文字通り空を飛び回ります。つまりここには近代的/男性的自己実現の不可能性を少女性に代行させることで擬似的に回復するという回路があります
ところがその後、宮崎氏の作品世界からは「空を飛ぶ少女」というモチーフが後退していくことになります。それはすなわち、少女たちが「飛ぶ」ための「空」としてのエコロジー思想(ナウシカ)や、昭和30年代の理想化された農村共同体(トトロ)や、消費社会の小市民的欲望(魔女急)といったものが思想的には脆弱な短期的なトレンドに終わり、宮崎氏が世界に対する肯定性を見出せなくなったことを意味しています。
そして同時に氏が長らく書き継いできたマンガ版『風の谷のナウシカ』が完結を迎え、ここで氏が到達したもはや世界は変えられないというニヒリズムをそのまま前面化させた映画が奇しくも宮崎駿の名を世界的なスターダムに押し上げた『もののけ姫』(1997)となります。
同作には「飛ぶ」というイメージがほぼ登場しません。主人公のアシタカも「もののけ姫」ことサンも「飛ぶ」ことはできず、そして多くのもののけ達もみな地を這い回り人間たちのと血みどろの抗争の中で傷ついていきます。同作の中核にあるのは自然と文明の対立というナウシカ以来、宮崎氏が反復してきた問題設定ですが、この問いに対して氏は最初から「答え」を放棄しており、アシタカの台詞が象徴するように「曇りなき眼で世界を見る」ことしかできません。このような倫理的で正しくみえるかもしれないけれど事実上無内容な同作の態度表明は氏が世界に対する肯定性を見出せなくなった端的な表れといえるでしょう。
* 母性によるナルシシズムの記述法としての『風立ちぬ』
このように1980年代までの宮崎作品においては「飛ぶ=近代的/男性的自己実現」を擬似的に回復させるための回路として母性への依存と少女性への代行が並走していましたが、1990年代になると世界に対する肯定性としての少女性が後退すると同時にニヒリズムが前面化し、このニヒリズムを糊塗すべくゼロ年代においてはいよいよ肥大化した母性と矮小な父性との結託がより強化されていくことになります。
『千と千尋の神隠し』(2001)の千尋はハクの飛行を保証する事実上の〈母〉として機能する少女であり、その関係性は『ハウルの動く城』(2004)のソフィーとハウルの関係性として反復されます。そして『崖の上のポニョ』(2008)になると宗介とポニョの冒険は全てがグランマーレという巨大な母性の胎内から一歩も出ないものとなります。そして同作においては母胎のイメージが「死後の世界」のイメージと結びついている、と宇野氏は指摘しています。
宮崎氏は同作の公開前後に行われた半藤一利氏との対談において、戦艦大和をかっこいいと思う自分と戦ってきた、かっこいいと思ってはいけないんじゃないかという気持ちがあったという趣旨の言葉を述べています。この発言にあるように宮崎氏は表向きの反戦平和思想の裏にある戦闘兵器への憧憬というある種の矛盾を抱え込んだ作家でした。そうした矛盾がまさに前景化した作品がこの『風立ちぬ』であったといえるでしょう。
ゼロ戦の設計者として知られる堀越二郎の半生を堀辰雄の同名小説に着想を得て脚色した同作は関東大震災から太平洋戦争前夜に至る時期を舞台にした物語です。同作の主人公、二郎は少年期から飛行機の魅力に取り憑かれ、イタリアの航空技術者、カプローニへの憧憬を募らせるようになり、いつかカプローニのような「美しい飛行機」をつくることが人生の目標となっていきます。ところが二郎が実際に追求した「美しい飛行機」とは、カプローニが夢見た大勢の家族を乗せて飛ぶ大型旅客機ではなく、ただひたすら「飛ぶ」という機能美に特化した戦闘機でした。
ここには現代を代表するアニメーション作家、宮崎駿の建前と本音がそのまま表出しているように思えます。従来のスタジオジブリ作品は多くの観客へ夢と希望を与えるファンタジー(=建前)と宮崎氏個人の戦闘兵器へのフェティシズム(=本音)という微妙なバランスの上で成り立っていました。そして同作はこの本音の部分をいよいよ隠すことなく全面化させているわけです。
もちろんここで宮崎氏は自身のフェティシズムをそのまま公的に肯定することはできません。そこでこの建前と本音の分裂に承認を与える役割を担うのが同作のヒロインである菜穂子です。
関東大震災の折、二郎は菜穂子と初めて出会い、その後ドイツ留学から帰国した二郎は避暑地にて菜穂子と運命的な再会を果たし二人は恋に落ちます。菜穂子は重い結核にかかっていることを告白しますが、二郎はそれを受け入れて二人は婚約します。その後、二郎は主力戦闘機の設計者に抜擢される一方で、菜穂子の症状は悪化の一途を辿っていきます。
先が長くないことを覚った菜穂子は無理を押して療養先の病院を抜け出し二郎の元に駆けつけます。こうして二人は短くも幸せな結婚生活を営む事になります。菜穂子は自らの身を顧みず妻として二郎を献身的に支え、果たして二郎は新型戦闘機(九試単座戦闘機)の開発に成功しました。けれどもまもなく菜穂子は亡くなり、二郎の畢竟の作ともいえるゼロ戦はあの戦争における破壊と殺戮の象徴となりましたが、それでも二郎は、菜穂子の存在を支えに「生きねば」と決意し、ここで映画は幕を閉じることになります。
つまり、ここで菜穂子は「美しい飛行機」を作るという二郎の物語に承認を与える母性としての役割を担っていることになります。かくして肥大化した母性は宮崎駿という作家が抱え込んでいた建前と本音、公と私、政治と文学の解離を救済する存在として顕現することになります。確かにこのようなナルシシズムの記述法は宇野氏のいう「母性のディストピア」に規定された戦後日本社会の成熟観そのものであるともいえそうです。
こうしたことから宮崎氏は自身が描き続けた世界が肥大化した母胎に閉じた死の海(=母性のディストピア)であることを自覚しながらも、あかたもそこが自由な空(=母性のユートピア)であるかのように見せかける綺麗な「嘘」を吐き続けた作家であり、それが宮崎駿にとってのアニメーションという虚構の使命だったに違いないと、宇野氏は述べています。
* 13個の石と「悪意」--中盤以降のあらすじ
では本作において「母性」はいかに超克されたのでしょうか、あるいは超克されなかったのでしょうか。
本作の中盤以降の展開は次のようなものです。「下の世界」に着いて早々にペリカンの大群に襲われた眞人は若き日のキリコに助けられます。ここでのキリコの仕事はこの世界の住人と「ワラワラ」という人に転生する前の魂たちを食べさせるために魚を獲ることです。しかし同時にワラワラたちはペリカンたちの食料でもあり現世に生まれ出る前に食べられてしまうものも多数います。瀕死の老ペリカンは眞人に海には魚がほとんどおらずワラワラたちを食べるしか生きる術がないという話をした後に力尽きてしまいます。
翌日、眞人はアオサギと和解して夏子を探しに行くようキリコから助言され旅立ちます。一方で現実世界では大捜索が行われる中でばあやの一人が眞人の父親に屋敷の外れにある洋館は明治維新の少し前に落下した塔を覆い隠したものであること、ヒサコは若い頃に神隠しに逢い1年後に全く同じ姿のままで帰ってきたことを打ち明けます。
その頃、獰猛な巨大インコたちに襲われていた眞人は炎を操る謎の少女ヒミに導かれ夏子のいる石の塔に向かいます。この塔が上の世界と同じ塔であると気づいた眞人に対してヒミはどの世界にも同じ塔は存在するといいます。そして塔の中の石造りの産屋で再会した夏子から「嫌い」と罵倒された眞人はこの時、初めて彼女を「お母さん」と呼びます。
産屋を追い出されて巨大インコたちに捕まった眞人は夢の中で大伯父と邂逅することになります。ここで大伯父は「下の世界」は自分が積み上げた積み木でバランスを保っていると説明して眞人に自分の仕事を継ぐように迫りますが、眞人は「それは木じゃない、石だ、墓と同じ悪意の石だ」と断ります。
その後、巨大インコたちを統率するインコ大王の妨害を乗り越えて眞人は塔の上で大伯父と再び邂逅することになります。ここで大伯父は今度は13個の穢れていない石を見せ、これを3日に一つずつ積み上げて世界のバランスを取る自分の役目を引き継いで欲しいと眞人に頼みます。
大伯父はこの仕事は自らの血を引継ぐ悪意のない人間しか出来ないといいます。しかし眞人は自分の石で殴ってできた傷を指して「この傷は自分でつけました。僕の悪意の印です。僕はその石には触れません。夏子お母さんと自分の世界に戻ります」と宣言します。そして怒り狂ったインコ大王が積み木を崩したことで「下の世界」は崩壊を始め、眞人はヒミとキリコと別れ、夏子とともに現実世界に帰還します。
* 宮崎氏の自伝的作品?
この点、本作は宮崎氏の自伝的作品であるという解釈があります。確かに主人公の眞人の父親の勝一同様に宮崎氏のお父様は宮崎航空機製作所という工場を経営しており、戦時中はゼロ戦の風防を製造しています。また、どこか軽薄な勝一の性格には宮崎氏曰く「デカダンスな昭和のモダンボーイ」であったお父様の性格が投影されているのかもしれません。また夭折した眞人の母親ヒサコと異なり宮崎氏のお母様は71歳まで健在だったそうですが、宮崎氏の幼少時に9年間結核を患っており、氏は母親におんぶしてもらえなかった幼少期の思い出を語っています。おそらく幼少期の氏にとって「母性」は象徴的な意味で不在であったのでしょう。もしかして氏がこれまで執拗に描き続けてきた「母性」とはこうした原風景に由来しているのかもしれません。
このように本作を宮崎氏の自伝的作品という位置付けから解釈するのであれば、眞人が負った頭部の傷は宮崎氏が少年の日に出会った漫画やアニメーションであり「下の世界」とはアニメ業界あるいはスタジオジブリともいえそうです。そうであればアオサギは鈴木敏夫氏ないし高畑勲氏といった氏にとっての盟友かもしれないし、大伯父は手塚治虫氏や徳間康快氏といった氏にとっての先人あるいは恩人ともいえるかもしれません(鈴木氏は自身がアオサギのモデルだと述べているようです)。さらに想像を重ねていけばワラワラを食べるペリカンは大戦時に本土を空襲したB29爆撃機のようにも見えてきますし、巨大インコは宮崎氏の作品をこれまで批判してきた同業者や批評家、そして観客の似姿のようでもあります。
そしてキリコはドーラや湯婆婆の系譜に属する主人公を後見する「母性」であり、ヒミはラナやシータの系譜に属する主人公を承認する「母性」といえます(同時にナウシカやサンといった戦闘美少女のイメージも重なり合っているでしょう)。しかも何よりヒミは主人公の母親ヒサコその人でもあります。こうした「母性」の支援を受けて眞人=宮崎氏は精神的な成熟を遂げていくわけです。
この限りでいえば確かに本作は「母性」に深く規定された作品であり、宇野氏のいうところの「母性のディストピア」の圏内にあるといえます。しかしながら同時に本作はこうした解釈から逸脱していく過剰性を(とりわけ後半部分において)様々に抱え込んでいます。そして、この過剰性ゆえに本作は極めてわかりづらい映画となっているともいえるでしょう。
* もうひとつの「原作」としての『失われたものたちの本』
ところで本作の企画元となった本として吉野氏の著作『君たちはどう生きるか』以外にジョン・コナリーというアイルランド出身の小説家が2006年に出版した『失われたものたちの本(The Book of Lost Thing)』という小説が知られています。2015年に出版された同作の邦訳に宮崎氏は「ぼくをしあわせにしてくれた本です」という推薦文を寄せています。また鈴木プロデューサーは本作の企画時に宮崎氏から「読んでみてください」と渡された本がこの『失われたものたちの本』であったことを示唆しています。
この小説も本作と同じく舞台は第二次世界大戦下で主人公はやはり母親を亡くしたディヴィッドという少年で、ドイツ軍の暗号解読に関わる仕事をしている主人公の父親がローズという女性と再婚することになります。父親からローズを紹介されたディヴィッドは発作を起こしてしまい、以降彼には本達の声が聴こえるようになります。
ローズはすでに妊娠しており、ディヴィッドたちはローズの屋敷に移り住みますが、そこには大伯父が昔、神隠しにあったという部屋があります。新しい母親とうまくいかず父親との仲も険悪になってしまったディヴィッドはひとりで本ばかり読んでいました。そして「私は死んでいないの」という母親の呼び声を聴いた彼は墜落してきたドイツ軍機の爆発に巻き込まれる形で御伽噺の国へと飛ばされてしまいます。
このようにディヴィッドと眞人とほぼ同様の境遇から別世界へと誘われています。この点、カササギの姿に化けてディヴィッドを別世界に誘う「ねじくれ男」はアオサギ/サギ男に相当します。また、この世界では主人公を導く存在として序盤では木こりが登場し、中盤ではローランドという騎士が登場しますが、彼らはそれぞれキリコ、ヒミに相当します。そして、この世界を治める王様はやはり主人公の大叔父であり、国を滅ぼそうとするループと呼ばれる狼男は巨大インコに相当します。こうした対応関係からすれば同作が『君たちはどう生きるか』の事実上の原作であると考えて差し支えないようにも思えます。
* トリックスターとしてのアオサギ/サギ男
そして同作において「ねじくれ男」は作中で「トリックスター」と名指されています。ここでいうトリックスターとは世界中の至る所の神話、伝説などに登場する道化的な役回りを担う存在で、限りなく悪に近い側面と限りなく英雄に近い側面という両義的な性格を持っています。二つの領域の境界に出没し旧来の秩序を破壊して新しい秩序を創造する役割を担ったりもするトリックスターは紙一重で悪になったり英雄になったりします。日本においてもトリックスターという存在は文化人類学者の山口昌男氏の著書『アフリカの神話的世界』(1971)を通じて広く知られるようになりました。
この点、分析心理学の創始者として知られるスイスの精神科医カール・グスタフ・ユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を考え「自己」を中心に心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく過程を「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んでいますが、このような過程においてトリックスターは時として大きな作用を及ぼします。
こうしたユング的な視点から、アオサギ/サギ男がトリックスターであり、眞人が自我であると見るならば、生まれる前の魂であるワラワラを抱え込む「下の世界」は生と死を司る母性の元型である「グレートマザー」に相当するといえます。また下の世界の住人であるペリカンや巨大インコはグレートマザーがしばし魂や精神を表す「鳥」のイメージと結びつけられるところから了解されます。
そうであればヒミは女性像の元型である「アニマ」に相当し、キリコは母性とアニマを仲介する「シスターアニマ」に相当するといえそうです。こうしてみると本作は自我(眞人)がグレートマザーの世界へトリックスターに誘われアニマ/シスターアニマに助けられて、ユングのいうところの「個性化/自己実現」を歩む過程を描いていることになり、この場合、大伯父は自己の元型が具現化したユングのいう「老賢者」に相当するといえるでしょう。
* 宮崎駿と「君たち」の物語
このように『失われたものたちの本』を起点として本作を読み解いた時、本作は「自伝的作品」とはまったく別の仕方で解釈することが可能となります。
まずアオサギ/サギ男を「鳥の外皮を被り空を飛ぶ中年男性」としてみれば、ここから容易に宮崎氏がかつて自画像として描き出した『紅の豚』のポルコ・ロッソを想起することができるでしょう。また、よく知られた解釈に倣い13個の積み木を宮崎氏の監督作品数に準えるのであれば、13個の積み木を司る大伯父とは世界的アニメーション作家として偶像化された宮崎駿のイメージといえます。そして「下の世界」は歴代宮崎作品の集合体とでもいうべき世界であり、その住人たちは皆カリチュアライズされた歴代宮崎作品のキャラクターたちであるといえるでしょう。
そうであれば眞人が誰に相当するかも自ずと明らかになります。それはまさに他ならぬ本作のタイトルにある「君たち」ということになるでしょう。
本作の観客であるところの「君たち」は宮崎氏に誘われてその作品世界を旅して、最後に氏からこの世界を継ぐように求められます。それはまさしくグレートマザーの母胎としての「母性のディストピア」を「母性のユートピア」に読み替えてきた宮崎氏の「嘘」で創り上げられた虚構の世界です。
けれども本作において「君たち」は自身の「悪意」を理由にこの虚構の世界を拒絶します。すなわち、ここでいう「悪意」とはまさしく宮崎氏の「嘘」を看破する力に他なりません。果たして本作の最後でこれまで宮崎氏の創り上げてきた虚構は完全に崩壊し「君たち」はこの現実を生きていくことになります。それゆえに氏は問いかけます。君たちはどう生きるのか、と。
* 母性をめぐるふたつの生
このように本作は宮崎氏の自伝的要素と『失われたものたちの本』にインスパイアされた要素が重なり合って成立している作品であるといえます。そして両者はそれぞれ氏の「生きてきた半面(母性に呪縛された生)」と「生きられなかった半面(母性を内破する生)」であるといえます。
すなわち、賛否両論を巻き起こした本作のわかりづらさとはおそらく、この「生きてきた半面(母性に呪縛された生)」と「生きられなかった半面(母性を内破する生)」という二つの位相を整理統合することなく重なり合った形のままで提示した点に起因しているのではないでしょうか。
けれどもまさにそうであるがゆえに、観客としての「君たち」は宮崎氏の「生きてきた半面(母性に呪縛された生)」と「生きられなかった半面(母性を内破する生)」という二つの位相のあいだで、他ならぬ「君たちはどう生きるか」という問いを思考し続けることになるでしょう。こうした意味で本作は不世出のアニメーション作家宮崎駿の抱え込んだ矛盾に満ちた幻想を削ることなくそのままに極めて高純度な形でアニメーションへと昇華させたかつてないほどに「贅沢」な映画であったといえるのではないでしょうか。