かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

つながるはずのないものをつなげるということ--竜とそばかすの姫

* 公共性と普遍性

 
よく知られるように細田守氏は映画制作における「公共性」と「普遍性」への志向をしばし公言します。過去の発言をみるに、氏にとって「公共性」とは、いわゆる「アニメファン」を超えた幅広い層への訴求力を意味しており、一方で氏にとって「普遍性」とは、明るく楽しい娯楽性と映像史における革新性の両立を意味しているようです。
 
そして氏の作品を観れば、少なくとも細田映画の志向する「公共性」と「普遍性」とは誰も傷つかない「無難な作品」とは程遠いところにあることがわかるでしょう。だからこそ氏の新作が公開されるたびに様々な文脈で激しい賛否両論が巻き起こり、我々はその度に社会における公共性とは何か、人としての普遍性とは何かを考えさせられる事になります。
 

* インターネットの病理と希望

 
細田氏の代表作の一つ「サマーウォーズ(2009)」はソーシャルメディアが普及し始めたゼロ年代後半という時代における「公共性」と「普遍性」を志向した作品であるといえます。 
 
同作では近未来的な情報ネットワークと前近代的な大家族ネットワークという一見すると相反的な二つのネットワークの連関が産み出す力で、情報ネットワークの暴走の産み出す「悪」へと抗っていく構図が提示されました。
 
このような構図はゼロ年代初頭に世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリマイケル・ハートの手による政治哲学書「帝国」が描き出したグローバル環境化における市民運動モデルとしての「マルチチュード」を容易に想起させます。 おそらく同作にはソーシャルメディアの普及した未来が産み出すある種の希望が託されていたのではないでしょうか。
 
そして今年公開の最新作「竜とそばかすの姫」は、端的に言えばサマーウォーズのアップデート版となります。あの頃は多分に未来予測的であったインターネットの病理が今回は現実認知的に描き出されます。
 
グローバル資本主義ポリティカル・コレクトネスを至上原理として戴く2010年代のインターネットは世界を共感と排除で切り分ける二分法的思考を加速させました。本作はこうしたインターネットの病理に焦点を当て、その上で「つながるはずのないものをつなげる」という、インターネットの原点にあるはずの希望を再び肯定しようとした物語といえます。
 

* 細田映画のベストアルバム

 
こうした「SW2.0」とも呼べる基本的構図の上に、本作では歴代細田映画を駆動させた様々な要素がこれでもかというくらいに投入されます。
 
例えば「時をかける少女(2006)」において真琴は偶然手に入れたタイムリープ能力で何度も同じ時間を繰り返しますが、本作の主人公、すずもまた現実世界で失った歌声をインターネット上の仮想世界〈U〉で取り戻します。ここには「世界を作り直す欲望」が引き継がれています。
 
また「おおかみこどもの雨と雪(2012)」では「おおかみおとこ」と結ばれ子をもうけた花は都会を離れ農村へ移り住み、周囲の支援を受けて2人の「おおかみこども」を育てあげる母へ成長します。こうした「異形の者との邂逅」「少女から母へ」「地域社会の絆」というモチーフは本作でもしっかりと反復されます。
 
あるいは「バケモノの子(2015)」の終盤で九太が、長らく疎遠だった父と向き合ったように、本作でもすずは終盤でやはり長らく溝ができていた父との対話を再開します。
 
そして「時かけ」以降から前作「未来のミライ(2018)」に至るまで、細田映画の中で徐々に前景化してきた「あちら側」と「こちら側」の「二層往還構造」は本作においては現実世界と〈U〉の世界という、全く別様のリアリズムで描き分けられる二つのアニメーションの往還へと昇華されました。
 
そういった意味で本作は細田映画のベストアルバム的集大成、あるいは幕の内弁当的詰め込みの上にさらに新たな境地を切り拓いた作品であるとも言えるでしょう。
 

* つながるはずのなものをつなげるということ

 
そして今回、もっとも賛否両論を呼んだのが終盤の展開です。それまでが映画的カタルシスにそれなりに満ちた展開だっただけに、終盤を駆動させる一見独特の倫理観は、多くの観客を当惑させました。けれど、いま改めて考えてみると、ここで提示される細田氏の倫理観は2010年代的な時代思潮と本質的な部分ではリンクしているようには思います。
 
「つながりこそが、ボクらの武器。」というキャッチフレーズを掲げたサマーウォーズから本作の間に横たわる2010年代とは、まさにその「つながり」の希望がやがて失望に変わっていった時間でした。それゆえに2010年代の現代思想サブカルチャーには「つながり」がもたらす共感と排除の病理を乗り越えたところで「つながるはずのないものをつなげる」ための想像力が要請されてきました。このような時代的潮流が本作終盤では極めて先鋭的な形で表出しているようにも思えます。
 
おそらく本作は綺麗にまとめようとすれば、それこそいくらでもやりようがあったはずだと思います。ただ、そうやって本作を綺麗にまとめてしまうと、ここまでの賛否両論は巻き起こらず、本作は夏休み娯楽大作に相応しい、文字通り一夏限りの「無難な作品」となったでしょう。
 
そういった意味で本作は、2020年代におけるつながりと個の関係性を問い直した作品であり、ここに細田映画の志向する公共性と普遍性を見ることができるでしょう。おそらく本作は記録に残り記憶に刺さる細田映画の代表作となるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ゼロ年代における政治と文学--ひぐらしのなく頃に/ひぐらしのなく頃に解

* 原作ゲームの特異性

 
周知の通り本作の原作ゲームはかなり特異なスタイルを取っています。本作の原作ゲームは見かけ上は典型的な美少女ゲームインターフェイスを踏襲しています。「美少女ゲーム」というジャンルの起源は1980年代に遡りますが、いわゆる「葉鍵」以後の美少女ゲームはもっぱらシナリオ分岐型の恋愛ADVが主流となります。こうした典型的な美少女ゲームにおいてプレイヤーは「トゥルーエンド」を目指し、何度も同じ時間を繰り返す事になります。
 
ところが本作の原作ゲーム「ひぐらしのなく頃に」では、選択肢によるシナリオ分岐が発生しません。その代わりに昭和58年6月の雛見沢村という同一の場所と時間を舞台に異なる物語が何度も反復されることになります。そしてそのほとんどの結末が惨劇で終わるわけですが、これは典型的な美少女ゲームにおける数々のバッドエンドに相当します。すなわち本作は選択肢によるシナリオ分岐こそ生じないものの、その物語の中に美少女ゲームの構造を内在させていると言えます。
 

* プレイヤーの隠喩としての羽生

 
本作中盤において、これまで繰り返されてきた物語は本作の真の主人公といえる少女、古手梨花の繰り返してきた平行世界だった事が判明します。そして本作終盤では梨花の随伴者であるオヤシロさま=羽入が物語へと介入することになります。
 
この羽入というキャラクターは原作ゲームにおけるプレイヤーの隠喩です。選択肢によるシナリオ分岐が生じない本作の原作ゲームにおいてプレイヤーは繰り返される惨劇をただ眺める事しかできません。すなわち、これまで梨花が繰り返してきた平行世界において生じる惨劇をただただ傍観する事しかできなかった羽入はプレイヤーのアバターとして機能します。
 
そして本作の最終章「祭囃し編」において、ついに羽入=プレイヤーはゲーム世界へと降り立ち、物語内のキャラクターだけでは解決不可能であった事態を見事に解決します。ここに本作のゲームとしてのカタルシスがあります。
 

* ゲーム的リアリズム環境分析的読解

 
この点、東浩紀氏は本作は一方で「小説のようなゲーム」であり、かつ他方で「ゲームのような小説」でもあるといいます。つまりこの作品は単純にゲームとしては大きく退化した上で再び、ゲーム的リアリズムの作品内への再導入を試みる「ゲームのような小説のようなゲーム」とでも呼ばれる作品です。
 
こうした制作手法を東氏は「ゲーム的リアリズム」と呼びます。「ゲーム的リアリズム」とは、ゲームやインターネットといった「コミュニケーション志向メディア」が産み出すメタ物語が小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」を侵食する境界線上で発生する、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を読み取る想像力をいいます。 
 
そして、このような「ある作品が受容される環境」を現実と作品の間に挟み込む読解技法として、東氏は「環境分析的読解」を提唱し、従来の素朴な読解技法である「自然主義的読解」と対置させます。
 
この点「自然主義的読解」は作品に内在する「物語的主題」を読み解いていくことになります。これに対して「環境分析的読解」は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていくわけです。 では本作の構造的主題とは何でしょうか?
 

* 世界をやり直す欲望

 
この点、そもそも美少女ゲームとはゲームを通じプレイヤーが擬似的に「父になる」という欲望を叶えるメディアです。こうした美少女ゲームにおける欲望をより純化したものが、ゲーム的リアリズムを駆動させる「世界をやり直す」という欲望です。そして、本作はこの「世界をやり直す」という欲望を真正面から無邪気なまでに肯定します。これが本作における構造的主題といえます。
 
こうした本作の構造的主題を現実逃避を夢想するイノセントな想像力として片付けることは容易いでしょう。けれども本作が描き出すような一見して荒唐無稽な奇跡への祈りこそが、むしろこの現実を生きていくための処方箋として機能することもまた確かです。
 
たとえば認知行動療法には「シナリオ法」という技法があります。これは認知の歪み(自動思考)を適正化する為の技法の一つで、全てが破滅に向かっていくというシナリオと奇跡が起きて全てが好転するという二つの極端なシナリオの両方を考えてみることで、その中間にある現実的なシナリオが見えてくるというものです。
 
こうした意味で奇跡への祈りは決して無駄ではない。たとえこの世界が救いなき世界であったとしても、次の世界はきっと素晴らしい世界なのかもしれない。そして、この世界で積み重ねた努力は、きっと次の世界につなぐ事ができるかもしれない。だから人は時としてこうした御伽噺に救われるのです。
 

* ゼロ年代的想像力における政治と文学の再統合

 
また本作はゼロ年代的想像力における「政治と文学」の一つの回答でもあります。 この点、ゼロ年代前期においては、経済成長神話の崩壊に伴う社会的自己実現への信頼低下を背景に他者性なき母性的承認を希求するセカイ系的想像力が一世を風靡しました。これに対して、ゼロ年代中期においては、米同時多発テロ新自由主義的政策による格差拡大といった社会情勢を背景に様々なセカイが決断主義的に正義を奪い合うバトルロワイヤル系想像力が台頭しました。
 
こうしてセカイ系において一旦切断された「政治(正義と悪の記述法)」と「文学(ナルシシズムの記述法)」はバトルロワイヤル系の台頭により再統合を求められることになります。この点、本作は「昭和58年6月」というバトルロワイヤル状況(政治)にゲーム的リアリズム(文学)によって介入します。ここで「政治と文学」は様々な物語(シュミラークル)を生成するシステム(データベース)をハッキングする欲望のもとに再統合される事になります。
 
そういった意味で本作は、物語(シュミラークル)とシステム(データベース)から成るポストモダン的二層構造における実存の在り処を照らし出した作品と言えます。本作がゼロ年代的創造力を体現する代表作の一つに数えられるのは故なきことではないでしょう。
 
 
 
 
 
 

【書評】ねじまき鳥クロニクル(村上春樹)

* メッセージを探す営みとしての小説

 
村上春樹氏にとって「小説を書く」というのは一つの自己治療の営みであったといいます。氏にとって何かメッセージがあるから小説を書くのではなく、自分の中にどのようなメッセージがあるかを探し出すために小説を書くそうです。
 
時は1970年代後半、20代も終わりに差し掛かった村上氏は、自分でもうまく言えないこと、説明できないことを小説という形にしてみたいという思いに駆られます。こうして生み出された村上氏のデビュー作「風の歌を聴け」は、従来の文学とは一線を画した全く新しい文学を提示します。
 
アフォリズムに満ちたスタイリッシュな文体により鮮明に打ち出されたのが、あの「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」という倫理です。「デタッチメント」とは「かかわりの無さ」ということです。では氏は何かからデタッチメントしようとしたのか。
 
 

* ビッグ・ブラザーからのデタッチメント

 
村上氏が早稲田大学に入学したのは1968年ですが、この時期の日本は学生運動の最盛期でした。日本中の多くの若者が「革命」を夢見て政治へのコミットメントを志していた。
 
村上氏はおそらく当時の学生運動のあり方についていけない部分があったのではないでしょうか。氏は当時を振り返り、必ずしもはっきりしない政治的意思をどうコミットするかという方法論としての選択肢がものすごく少なかった事が悲劇だった気がするという趣旨を述べています。
 
そして、周知のように学生運動は1972年の連合赤軍事件を境に下火になり、時代の気分は瞬く間にコミットメントからデタッチメントへと切り替わった。そして次第に消費社会の爛熟により、革命の欲望は消費の欲望によって代替されていきます。
 
これは現代思想の文脈では「大きな物語の失墜」と呼ばれます。「大きな物語」とは個人の生を規定する社会的イデオロギーのことです。そしてこの「大きな物語」の想定的な語り手を、評論家の宇野常寛氏はジョージ・オールウェルの小説「1984」に準え「ビッグ・ブラザー」と呼びます。
 
いわば当時は「ビッグ・ブラザーの解体期」にあった。そして、村上氏はこうした時代の変遷をいち早くとらえ、勝手に解体していく「ビッグ・ブラザー」からの「デタッチメント」を志向した。つまり「デタッチメント」とは「政治と文学の切断」です。そして、ここには「既にもうそうなっているのだから仕方がない」という諦観の境地もあります。
 
 

*「影」を切り離すということ

 
風の歌を聴け」では1970年の夏の出来事が8年後の視点から語られます。同作では「僕」と「鼠」という二人の対照的な青年が登場します。この点、村上氏の分身としての「僕」は「ビッグ・ブラザー」からのデタッチメントを志向する一方、「鼠」は時代の変化に戸惑い、何かにコミットメントしようと足掻いている。
 
「鼠」という存在は「僕」の影のような存在です。いわば「僕」の「生きられなかった半面」が影として「鼠」に投影されている。そして続く「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」と作を重ねるごとに「鼠」の存在感は次第に薄れていく。
 
そして「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では「鼠」のイメージを引き継ぐ「影」が登場する。「影」は主人公である「僕」の文字通りの「影」です。物語冒頭で「僕」の意識内世界である「世界の終わり」において「僕」と「影」は切り離され、同作ラストで「僕」はついに「世界の終わり」から「影」を放逐してしまう。こうして「政治(鼠=影)」と「文学(僕)」は完全に切断され、村上文学におけるデタッチメントの美学は完成したかのように見えました。
 
 

* リトル・ピープルへのコミットメント

 
ところが「鼠=影」の亡霊は生きていた。村上氏はコミットメントから逃れることができなかった。結局「デタッチメント」というのはそれ自体既にコミットメントの一種です。ビッグ・ブラザーの解体期であった1980年代だからこそ、終わりゆくものを葬送する「デタッチメント(という名のコミットメント)」は有効に機能したといえます。
 
けれども1990年代に入り「大きな物語の失墜」は決定的となり「ビッグ・ブラザー」は完全に解体されてしまう。そして「ビッグ・ブラザー」亡き後の新たな秩序を宇野氏は村上氏の後年の小説「1Q84」に準え「リトル・ピープル」と呼びます。ここから「リトル・ピープル」が産み出す「悪」へいかにコミットメントするかという問題が生じます。
 
ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ。時代のさらなる変化は村上氏に(一旦切り離したはずの)「政治(鼠=影)」と「文学(僕)」の再統合を要請しました。かくして1995年前後に氏は「デタッチメントからコミットメントへ」というあの有名な転回を果たします。
 
 

*「悪」と対峙するということ

 
本作「ねじまき鳥クロニクル」はこうした問題意識のもとで執筆されました。同作のあらすじはこうです。主人公、岡田亨はある日突然失踪した妻クミコの消息を辿る過程で、次々に奇妙な人物たちと邂逅し、やがて岡田はクミコ失踪の裏には彼女の兄である綿谷昇の暗躍があることを突き止める。
 
新進気鋭の政治家として今や時代の寵児である綿谷には人の精神を汚染し、欲望を暴走させる特殊な能力を持っていた。果たしてクミコは綿谷が支配する闇の世界の中に囚われていた。クミコの声にならない声を聴き取った岡田は、綿谷を斃しクミコを闇の世界から光の世界へと連れ戻すべく、リトル・ピープルが産み出す「悪」と対峙する。そしてそれは具体的には「壁抜け」として遂行されます。
 
 

* 二つの世界のコンステレーション

 
本作終盤の展開はこうです。岡田は近所の曰く付きの空き家の枯れた井戸の底から「壁抜け」により精神世界へと入り込む。そこで岡田は(精神世界の)綿谷が何者かにバットで殴打され意識不明の重体となっており、犯人は岡田とよく似た特徴を持っている事を知る。
 
そしてホテルの一室で岡田は(精神世界の)クミコと邂逅する。クミコの傍らにはなぜか綿谷を殴打したと思われるバットがあった。
 
そこにナイフを持った謎の男が現れる。バットを手にした岡田は男の執拗な攻撃を潜り抜け、ついに岡田は男を「完璧なスイング」で捉え撲殺する。その後、現実世界に帰還した岡田は、現実世界でも綿谷が突然、脳溢血を起こし再起不能になっている事を知る。
 
多分この男こそがリトル・ピープルの産み出す「悪」そのものでしょう。そしてこの精神世界での「悪」の撲殺と現実世界での綿谷の再起不能は、ユング心理学でいうところのコンステレーション共時的布置)を描き出しているように思えます。
 
 

* 暴力とつながりの物語

 
このように本作が極めてアクロバティックな想像力で描き出すのはコミットメントにおける二つの位相です。
 
第一に本作はリトル・ピープルの「悪」に対して「暴力」によってコミットメントします。もちろんそれは暴力の単純な肯定ではない。というよりも人間とはそもそもが暴力的な存在です。本作ではノモンハンでの皮剥ぎだとか新京での脱走兵虐殺などといった「歴史的な暴力」が執拗に描き出されます。人の歴史とは本質的には暴力の歴史です。問題なのはその暴力性に無自覚な事でしょう。そして、こうした逃れられない「暴力」を引き受ける倫理的な態度こそがリトル・ピープルが産み出す「悪」から一線を画する正義となります。その意味で本作は「暴力」の物語です。
 
第二に本作はリトル・ピープルの「悪」に対して「つながり」によってコミットメントします。一旦は断絶したクミコとの「つながり」は、加納マルタとクレタの姉妹、笠原メイ、間宮中尉、そして赤坂ナツメグとシナモンの母子といった、様々な人との奇妙な「つながり」の連鎖によって再び回復します。そして、こうした予期せぬ「つながり」から生じる誤配は「井戸」や「バット」といった形となり、リトル・ピープルが産み出す「悪」を迎え撃つ武器となります。その意味で本作は「つながり」の物語です。
 
暴力とつながりの物語。こうしたコミットメントにおける二つの位相はリトル・ピープルがもたらすコミットメントのあり方を真正面から問うたゼロ年代的想像力を先取りしたものと言えます。
 
本作は村上氏がコミットメントのあり方を模索し始めた時期の作品であり、様々な実験が入り乱れ、その全体像の統一的な理解が困難な作品であることも確かでしょう。けれども洗練されていないが故の力強い輝きをこの作品が持っていることも、また確かなことだと思います。
 
 
 
 
 

「母なるもの」からの解放と祝福--空の青さを知る人よ

* 母なるものへの囚われ

 
ユング派分析家としても知られる臨床心理学者、河合隼雄氏は不登校児における「グレートマザー」の元型作用を指摘していましたが、岡田麿里さんの自伝「学校に行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで(2017)」はまさにこうしたユング的な臨床例として読めてしまいます。
 
同書で岡田氏がユーモアを交えながらかなり赤裸々に綴る不登校時代の屈折したエピソードの中には、後に岡田麿里脚本をしばし彩る「母なるものへの囚われ」とでもいうべきモチーフの原風景を見出す事ができます。
 
ここでいう「母なるもの」とは実際の母親に限らず、いわば河合先生が言う「グレートマザー」を体現する存在をいいます。自伝から拝察するに岡田さんの場合は周囲を山に囲まれた盆地である秩父という土地自体がグレートマザーとして立ち現れていたようにも思えます。
 
そして、グレートマザーは「育て慈しむ」という明の部分のみならず「呑み込む」という暗の部分を持ち合わせています。こうしたグレートマザーの暗の部分が「母なるものへの囚われ」として、しばし岡田脚本を規定しているように思えるわけです。
 
 

* 母と子の物語たち

 
例えば「true tears(2008)」のヒロイン石動乃絵は祖母の死別をきっかけに泣けなくなってしまい、もう1人のヒロイン湯浅比呂美は主人公の母親である仲上しをりと折り合いが悪かった。また「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(2011)」の主人公宿海仁太は幼馴染の本間芽衣子の死がトラウマになっていた。あるいは「心が叫びたがっているんだ。(2015)」のヒロイン成瀬順は両親の離婚がきっかけに喋れなくなり、以来実母との折り合いが悪い。これらの作品は「母なるものへの囚われ」を「子」の視点から描き出していると言えます。
 
そして「さよならの朝に約束の花をかざろう(2018)」においては、不老長寿の種族、イオルフの少女マキアは人間の孤児エリアルを拾い育てるが、エリアルは長じるにつれて歳を取らず実母でもないマキアとの関係に葛藤を抱えることになる。同作は「母なるものへの囚われ」を「母」の視点から描き出していると言えます。
 
 

*「母なるもの」からの解放としての「失恋」

 
そして本作でも「母なるものへの囚われ」というモチーフはしっかり生きています。主人公、相生あおいは高校を卒業したら地元秩父を出て東京でバイトしながらバンドで天下を取ると決めている。あおいは山に囲まれた地元秩父を(まるでかつての岡田さんのように)「巨大な牢獄」だと呼ぶ。そしてあおいは両親が他界して以来親代わりになってくれた姉あかねに対して感謝と反発が入り混じるアンビバレントな感情を懐いていた。
 
あおいは乃絵や順と同様、思い込みで世界を色々と勝手に決めつける実に岡田麿里的少女です。そしてやはり乃絵や順がそうであったように、あおいもまた「失恋」によって「母なるもの」から解放されるという、これまた岡田麿里的失恋譚の美しい反復があります。
 
 

*「母なるもの」を祝福する「失恋」

 
もっとも、あおいの「失恋」には乃絵や順のそれとは決定的に異なる点があります。ここでトリックスターとしての役割を果たすのが、かつて姉の恋人であった金室慎之介の「生き霊」として現れる「しんの」です。
 
超平和バスターズ三部作の特徴のひとつに、主人公あるいはヒロインの心的世界における幻想が現実世界に実体化して登場する点にあります。「あの花」では不登校になった仁太の前に芽衣子が「幽霊」として帰ってくる。また「ここさけ」で順は「玉子の妖精」の呪いにより声が出せなくなる。そして本作であおいの前に「しんの」は13年前の高校生の姿で「生き霊」として登場します。
 
あおいにとってしんのは「生き霊」ですが、しんのからすれば13年後へのタイムスリップです。状況を理解したしんのはあかねと現在の慎之介が寄りを戻せば自分は慎之介と融合できると推測するが、その一方であおいはかつてと変わらず自分を可愛がってくれるしんのに想いを寄せていく。
 
けれども、あおいは自分を育てる為にあかねが日々綴っていた養育ノートを発見し、自分はしんのと同じくらいにあかねのことが大好きなんだと自覚する。こうしてあおいの奮闘によりしんのはあかねと再開し、果たして慎之介とあかねは結ばれる。そして物語は「ああ空--くっそ青い」というあおいのモノローグによって静かに幕を下ろす。
 
ここには「true tears」「ここさけ」を乗り越えた瑞やかな結末があります。乃絵や順の「失恋」は相手から「選ばれなかった」結果としての、いわば受動的な失恋です。これに対して、あおいの「失恋」は姉の幸せを願い、自らが「選び取った」結果としての、いわば能動的な失恋です。こうした意味で本作は「母なるもの」からの解放と同時に「母なるもの」を祝福する「失恋」の物語であったように思えます。
 
 

* 井戸の底から見上げた空の青さ

 
またその一方で、本作は「しんの」から13年後の、31歳の「大人」になった慎之介が再びかつての理想を取り戻す物語でもあります。
 
本作のタイトルの由来は作中にも出てくる諺「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」にあります。この諺の由来は中国の「荘子-秋水篇」の一節「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」にありますが、日本に伝わった後「されど空の青さを知る」という一節が付け加えられました。
 
本作の舞台となる秩父市は周囲を山に囲まれた盆地であり、まさしくかつての慎之介は良くも悪くも「井の中の蛙」であったわけです。その後、故郷という「井戸」から外に出た慎之介は世間という「大海」を知り、よくあるくだらない大人になっていく。けれども慎之介は「井の中の蛙」であったかつての自分とめぐりあう事で、再び「井戸」の底へ降り、かつて憧憬した「空の青さ」へ再び出会うことができた。
 
あおいの物語と慎之介の物語。2つの物語が交差し共鳴するところに、子供から大人になり、そして大人から子供になり直すという生成変化のアレンジメントが描き出されていく。本作は社会で疲弊した大人へ手向けられた瑞々しい青春映画であったと思います。
 
 
 
 
 

幻想を横断していくということ--空電の姫君(冬目景)

 
 

* 否定神学--冬目景作品の通奏低音

 
冬目景作品の魅力は、その退嬰的な心理描写と瑞々しい日常描写が織りなす独特な世界観にありますが、その作品世界の多くはある種の否定神学的な幻想によって規定されています。そしてこうした想像力の源泉はおそらく氏のデビューした90年代前半という時代性に由来すると思われます。
 
バブル経済と冷戦構造の崩壊によって幕を開けた1990年代はそれまでの日本社会を規定していた「戦後」という名の「大きな物語」の失墜が明らかになり始めた時代となりました。こうした時代の変化を批評家の東浩紀氏はラカン精神分析のタームに依拠して「象徴界の機能不全」と表現しました。「大きな物語」を失った社会においては、各個人を接続する象徴的秩序が上位審級としてもはや機能していないということです。
 
その結果、いわゆる「政治と文学」の断絶と呼ばれる問題が生じます。かつて文学(実存)を語ることは、これすなわち政治(社会)を語ることでした。ところが象徴界が機能不全に陥ると、政治(社会)の問題は家族や恋人や友人といった身近な小世界へ矮小化される一方で、文学(実存)の問題は象徴界の外部という接近不可能な領域へと旋回することになります。
 
こうしたことから90年代においては「性愛」「死」「心的外傷」「近親相姦」「世界のおわり」といった文学的記号を導入する事で象徴界の外部としての「不可能性」を描き出す否定神学的な想像力が台頭しました。こうした想像力は後に「セカイ系」という言葉によりひとつのジャンルとして名指される事になります。
 
 

* ZERO・羊のうたイエスタデイをうたって

 
冬目さんの初の連載作品「ZERO(1995)」もまた、こうした否定神学的な想像力に強く規定された作品となりました。同作では退学処分になった少女が学校に立て篭もり生徒を惨殺し、最後は学校もろとも自爆して死ぬという悲劇的な結末を迎えます。
 
以来、冬目作品においては否定神学的な幻想に取り憑かれたヒロインがしばし登場します。例えば初期の代表作である「羊のうた(1996〜2002)」における高城千砂は発作的に他人の血が欲しくなる奇病を抱えていましたし、また長期連載となった代表作「イエスタデイをうたって(1998〜2015)」における森ノ目榀子も夭折した幼馴染の思い出を引き摺っていました。
 
そして両作において彼女たちは主人公をめぐり、もう一人のヒロインと三角関係のドラマを展開します。そしていずれも終始優勢なのは前者ですが、最後に主人公と結ばれるのはいずれも後者であるという点でも両作は共通しています。すなわち、ここには否定神学的な幻想へ抗う構図を見ることができるでしょう。
 
 

* 性愛的なものから友愛的なものへ

 
そして本作もまたこうした構図を引き継いでいます。もっとも、それは従来のような異性間における性愛的略奪からなる三角関係として描かれるのではなく、むしろ同性間における友愛的交歓と「居場所」をめぐるヘゲモニーの二重構造として描き出されることになります。
 
本作のあらすじはこうです。主人公、保坂磨音はミュージシャンの父親からロックを聴かされて育ち、長じた今や高校生離れしたギターテクを持つ一方で、ネガティヴ思考で内向的な性格からまったく友達ができず、灰色の高校生活を送っていた。そんな磨音の前に天性の歌声を持つミステリアスな転校生、支倉夜祈子が現れる。
 
一見、地味でオタクな磨音と派手でリア充な夜祈子という完全に対照的な容姿と性格を持った両者ですが、古いロックが好きという共通項から二人は親友と呼べる関係になります。
 
その一方で磨音はある日、ロックバンドとしてプロデビューを目指す大学生、高瀬と日野に出会う。彼らのバンド「アルタゴ」はかつてプロデビュー直前まで漕ぎ着けながら、中心メンバーである高瀬の弟、チアキが事故死して以来、活動が停滞していた。
 
磨音のギターに魅了された高瀬は死んだ弟の残した曲を完成させたいと磨音を説得する。アルタゴは磨音の父がかつて所属したバンドと同じ境遇にあった。磨音の父親、保坂拓海はかつて一部でカリスマ的人気を誇ったTHE AMBER JACKのギタリストであったが、7年前にリーダーである南島の事故死をきっかけにバンドは解散していた。
 
アルタゴに父のバンドを重ね合わせた磨音は同情心からとりあえず音源作りのサポートとして参加。最終的には高瀬達に泣き落とされる形で正式メンバーとしてバンドに加入することになる。
 
もともと本作は「空電ノイズの姫君」というタイトルで幻冬社月刊バーズで連載されていたんですが、同誌が休刊となったため講談社のイブニングに移籍して連載を再開したという経緯があります。よって本作の単行本は「空電ノイズの姫君(3巻)」と「空電の姫君(3巻)」の計6巻で、冬目作品では「イエスタデイをうたって(全11巻)」「黒鉄(全10巻)」「羊のうた(全7巻)」に次ぐ長編となります。 
 
 

* 磨音と夜祈子の幻想

 
先述の通り「羊」や「イエスタデイ」では幻想に取り憑かれたヒロインともうひとりのヒロインの間で主人公をめぐる三角関係が展開されます。これに対して、本作では磨音も夜祈子も共に幻想に取り憑かれています。
 
磨音の中では父のバンドの思い出が今でも幻想として生きていた。亡きリーダー・南島の「大きくなったらウチのバンドに誘うかな」という言葉を磨音はいまだに忘れられず、その幻想はアルタゴへ投影され、今やアルタゴは磨音にとって何者にも代え難い「居場所」になっていた。
 
一方の夜祈子もまた母親という幻想に呪縛されていた。幼い頃、実母が自殺未遂に居合わせた夜祈子は、その後、施設、祖母の家、叔母の家と居所を転々として、今でも血塗れの母親が倒れている光景のフラッシュバックに悩まされていた。
 
天性の歌声を持つ夜祈子に高瀬はチアキの遺稿であるラブソングのゲストボーカルを依頼する。そんな大事な曲は歌えないと固辞する夜祈子であったが、夜祈子の過去を知った磨音は夜祈子に歌うように背中を押す。
 
果たして夜祈子のステージはSNSで話題となり、夜祈子はなし崩し的にアルタゴのメインボーカルとなる。以降、CDデビュー、ワンマンライブ、10万人フェス参加とアルタゴの快進撃は止まらない。けれどもフェスを前にして磨音との想いのすれ違いがきっかけで夜祈子は姿を消す。
 
 

* 幻想を横断していくということ

 
唐突な夜祈子の失踪に「最悪だ」と憤慨する磨音。けれどもフェスのステージが終わった後、その真意に気づきます。
 
磨音にとって夜祈子は掛け替えのない親友である一方、夜祈子のアルタゴ加入については一貫して消極的で、夜祈子が加入した後も常に複雑な思いを抱えていた。
 
おそらくそれは夜祈子の加入によりバンドの色が塗り変わり、アルタゴが自分の「居場所」ではなくなってしまうことへの無意識的不安の現れのように思えます。夜祈子が自分が悪者になるのを承知で身を引いたのは、こうした磨音の不安に気づいたからでしょう。
 
もっとも最後には磨音は自らの幻想への執着に気づき、夜祈子もまた自らの幻想と向き合うための旅へ出る。そして、それぞれがいつかの再開を願いつつ物語は幕を閉じる。幻想を横断していくということ。それはまさしく夜祈子の言う「転がる石のように」前に進んでいく営みなのかもしれません。ここには「羊」や「イエスタデイ」とは別の形で幻想を乗り越えていく構図を見ることができるでしょう。
 
 

* セカイとつながりの間で

 
いわゆる「セカイ系」から出発したゼロ年代サブカルチャーにおける想像力の運動は、複数の「セカイ」の衝突をいかに止揚させるかという問いに規定されていました。そのひとつの到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯を描く想像力でした。
 
冬目景作品には珍しい女子高校生同士の交歓を描きだす本作もまた、一面ではこうしたゼロ年代的「つながり」の系譜を引き継いでいるといえます。
 
けれども、そこから更に本作は「否定神学的な幻想(=セカイ)」を再導入することで「つながり過剰」がもたらすホーリズムに抗うという想像力へと跳躍しています。そういった意味で本作はこれまでの冬目作品が深化させてきたテーマの2010年代における見事な変奏曲といえるでしょう。
 
 
 
 

コミットメント過剰の時代における倫理としてのデタッチメント--世界のおわりとハードボイルド・ワンダーランド(村上春樹)

 
 

* ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル

 
戦後社会学を牽引した社会学者、見田宗介氏は「現実」という言葉の三つの反対語である「理想」「夢」「虚構」を「反現実」と呼びました。こうした「反現実」という観点から見田氏は、戦後日本社会を三つの時代に区切りました。
 
すなわち、プレ高度経済成長期(1945年から1960年頃)が「理想の時代」であり、高度経済成長期(1960年頃から1970年前半)が「夢の時代」であり、ポスト高度経済成長期(1970年後半以降)が「虚構の時代」という事です。
 
そして、見田社会学を継承した大澤真幸氏は見田氏の三区分を1970年を境に「理想の時代」と「虚構の時代」の二区分へ整理し直した上で、1995年以降の時代を「不可能性の時代」として規定します。そして、こうした時代区分を大澤氏は「第三者の審級の撤退(と裏口からの回帰)」というメカニズムから説明します。
 
これに対して、宇野常寛氏は大澤氏のいう「第三者の審級の撤退(と裏口からの回帰)」という二面性をより明確に際立たせた「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という対概念を提出します。ここで宇野氏のいう「ビッグ・ブラザー」とは「国民国家」のメタファーであり、かたや「リトル・ピープル」とは「グローバル資本主義」のメタファーです。
 
この対概念を用いて、宇野氏は「理想の時代/虚構の時代/不可能性の時代」という時代区分を「ビッグ・ブラザーの時代/ビッグ・ブラザーの解体期/リトル・ピープルの時代」として捉え直します。極めてざっくり言えば、要するに戦後日本社会の変遷とは国家というイデオロギーが市場というシステムの中に呑み込まれていく過程であったということです。そして、こうした時代区分における「ビッグ・ブラザーの解体期」を象徴する作家が村上春樹氏です。
 
 

* デタッチメントという倫理--政治と文学の切断

 
1970年代末、村上氏のデビュー作「風の歌を聴け(1979)」から始まるいわゆる「鼠三部作」においては「鼠」と「僕」という二人の対照的な青年が登場します。この点「鼠」は「ビッグ・ブラザーの時代」の終焉に戸惑いを隠せません。これに対して、村上氏の分身としての「僕」は「ビッグブラザーの解体期」を自覚的に受け入れていこうとします。
 
ここで鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」と後に呼ばれる倫理でした。すなわち、これは「政治と文学」における「政治」から「文学」を一旦切断して「ビッグ・ブラザーの時代」から距離を置く態度です。
 
こうした「デタッチメント」という美学がいよいよ完成を見ることになったのが「鼠三部作」に続く長編第4作目となる本作です。
 
 

* 二つの物語

 
全40章からなる本作は「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」というそれぞれ世界を異にする二つの物語が交互に進行し、やがて両者の関係性が徐々に明らかになるという構造となっています。
 
この点「ハードボイルド・ワンダーランド」は、現実世界を生きる「私」の物語です。「計算士」という暗号処理の仕事を生業として、やはり「やれやれ」が口癖である「私」は、ある日、謎の老博士から秘密の研究所に呼び出され「シャフリング(自らの深層心理をブラックボックスにした情報の暗号化)」を用いた仕事の依頼を受けたのがきっかけで計算士と記号士の抗争に巻き込まれていく。そして「私」は老博士の孫娘から「世界の終り」を告げられる。
 
そして「世界の終り」は、周囲を壁に囲まれ、一角獣が生息する謎の街で生きる「僕」の物語です。この街の人々は「心」を亡くし安らかな日々を送っている。一方「影」を引き剥がされ、記憶のほとんどを失っている「僕」は図書館で「夢読み」として働く一方で「影」の依頼により「街の地図」を作る作業を続け、少しずつ街の謎に迫っていく。
 
 

* 世界の終わりで責任を取るということ

 
果たして「世界の終り」の正体とは「ハードボイルド・ワンダーランド」における「私」が意識の消滅によって閉じ込められた無意識世界でした。そして本作の結末で「僕」は「世界の終り」からの脱出の機会(=意識の復活)を得ながらも、自らが産み出した「世界の終わり」の中に留まる道を選択する。
 
それも街の人々のように「心」を亡くして永遠の時間を生きるのではなく「心」を持ったまま永遠の時間に耐えるという恐るべき過酷な道です。けれども「僕」はそれが「責任」をとることなのだといいます。
 
世界の終りで責任を取るということ。すなわち「ハードボイルド・ワンダーランド(政治)」から「世界の終り(文学)」を切断するデタッチメントです。ここで本作が示しているのはビッグ・ブラザーとは無関係にリトル・ピープルとして生きていく道です。そういった意味で、この時点における村上氏は来るべき「リトル・ピープルの時代」をいち早く捉えていたと言えるでしょう。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ--政治と文学の再接続

 
そしてその後、いよいよ本格的に「リトル・ピープルの時代」を迎えた1995年前後の時期、周知の通り村上氏はあの「デタッチメントからコミットメントへ」と呼ばれる転回を果たすことになります。
 
ここではリトル・ピープルが産み出す新たな「悪」のイメージをいかに記述するのかという、かつて一旦切断した「政治」と「文学」の再接続が真正面から問われることになります。
 
こうした氏の問題意識は当時執筆された大作「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」において明確に打ち出されています。もっとも、この時点ではまだリトル・ピープルの産み出す新しい「悪」の形は朧げにしか捉えられていなかった。
 
けれど同作の刊行中、あの地下鉄サリン事件が発生し、新しい「悪」の形は現実世界の方から氏の予想を超える形で出現する。その後、氏は事件関係者への綿密な取材を経て、改めてリトル・ピープルの産み出す「悪」に対峙したのが超大作「1Q84(2009〜2010)」です。
 
 

* コミットメント過剰の時代における倫理としてのデタッチメント

 
では、本作はもう既に乗り越えられた過去の遺物なのかというと、もちろんそうではありません。
 
グローバル化/ネットワーク化の極まった現代において、我々はわざわざリトル・ピープルへとコミットメントするまでもなく、もはや既に我々自身がリトル・ピープルとしてコミットメントさせられています。
 
今や我々はリトル・ピープル同士のコミットメント過剰により世界を友敵に切り分ける動員と分断の時代を生きています。こうしたコミットメント過剰な中で真に倫理的なコミットメントがあるとすれば、その鍵はむしろデタッチメントに求められるのではないでしょうか。
 
言うなれば、我々はそれぞれの「世界の終わり(文学)」を抱えつつ「ハードボイルド・ワンダーランド(政治)」の現実を生きています。我々の日常にもしばし「ハードボイルド・ワンダーランド」のような理不尽な存在や出来事が遠慮なく襲来してきます。こうした現実と対峙する上で為すべきなのは自らの「世界の終わり」と向き合い、その「街の地図」を丁寧に書き上げていく事ではないでしょうか。
 
デタッチメントからのコミットメント。切断からの再接続。こうした視点から本書を読み返してみた時、そこにはまた新たな発見があるように思えます。
 
 
 
 
 

ループの先にある日常--リトルバスターズ!

 
 

*「他者性なき世界」と美少女ゲーム

 
美少女ゲーム」とはある意味で時代の徒花のようなジャンルです。1995年以降の日本社会は「戦後」という「大きな物語」を失った本格的なポストモダン状況へと突入したと言われています。この点、批評家の東浩紀氏は「物語消費」から「データベース消費」へという消費行動様式の変容の中に、ポストモダンにおける一般的傾向を見出して、1995年以降を「動物の時代」として規定しました。そして、社会学者の大澤真幸氏は東氏の議論を受け、ポストモダンの本質を「第三者の審級」の撤退による「他者性なき世界=不可能性」の希求へ求め、1995年以降を「不可能性の時代」として規定しました。
 
こうした時代状況を体現する文化として、美少女ゲームというジャンルは産声を上げたのでした。そのひとつの完成形がゲームブランドKeyより発売された「Kanon(1999)」であり、美少女ゲームにおける「萌え」と「泣き」の文法を確立させた同作はいわゆる「泣きゲー」の先駆けであるとともに「セカイ系」の萌芽ともなった作品でもあります。
 
 

* マルチエンドシステムとループ構造

 
通常、美少女ゲームにおいては、プレイヤーは主人公に同一化し、ある特定のヒロインと繊細なまでの「純愛」を添い遂げる。けれでもその一方で、プレイヤーは複数のシナリオを俯瞰して複数のヒロインを「攻略」することを目指すわけです。
 
つまりプレイヤーの中では、キャラクターレベルでの「 小さな恋の物語における純粋性(=反家父長的感覚)」と、プレイヤーレベルでの「物語を産出するシステム全体を支配するかの如き全能性(=超家父長的感覚)」という矛盾した感覚が解離的な形で共存しているということです。まさに「他者性なき世界」という不可能性を可能にしているかの如きです。
 
このように美少女ゲームにおいては通常、選択肢次第で異なったヒロインの物語に分岐していくマルチエンドシステムが採用されています。そこでプレイヤーは各エンドを回収する為、ゲームをクリアする度に最初の「共通ルート」に戻り、同じ時間軸を何度も延々とプレイする事になる。
 
そうするうちにプレイヤーはあたかもこの世界が果てしないループを続けているかの如き錯覚に陥ってくる。こうしたゲームシステムを逆手に取り、美少女ゲームにおいては物語/世界観のレベルでループ構造を導入する作品も少なくない。その代表作として「AIR(2000)」「CLANNAD(2004)」「ひぐらしのなく頃に(2002〜2006)」「STEINS;GATE(2009)」などが知られています。
 
 

* 野球チームを作る・・・チーム名は、リトルバスターズだ!

 
そして2007年に発売されたKey4作目に当たる本作もまた、こうしたループ構造の系譜に属しています。そのあらすじはこうです。
 
「強敵が現れたんだ、君の力が必要なんだ」
 
主人公、直枝理樹は幼少時、棗恭介、棗鈴、井ノ原真人、宮沢謙吾と共に、悪を成敗する正義の味方、ひと呼んで「リトルバスターズ」を結成した。皆とのお祭り騒ぎの日々。ただただ楽しくて、いつまでもこんな時間が続けばいい--当時、両親を亡くし塞ぎこんでいた理樹にとって恭介たちが差し伸べた手はまさしく救いの手でもあった。
 
時は流れて、皆は高校生になった。そんなある日、3年生である恭介が就職活動から帰って来た。やがて来る別離の時。理樹はかつての面々に「昔みたいにみんなで何かしない?」と問いかける。それを聞いた恭介は「今しか出来ない事をしよう」と答え、たまたま近くに置いてあったボールを拾い上げてこう宣言する。
 
「野球チームを作る・・・チーム名は、リトルバスターズだ!」
 
こうして理樹たちは練習と新メンバー集めに明け暮れて、様々な困難を乗り越えて、ついに練習試合にこぎつける。今がずっと続けばいいのに、いつまでも--いつまでも、このままで。「最高の仲間たち」に囲まれた理樹は改めて、心からそう願ったのであった。
 
 

* Refrain--惨劇を乗り越えていくということ

 
こんな風にまあ、アニメ第1期はものすごくピースフルな感じで終わるんですが、続く第2期(〜Refrain〜)では一転、びっくりするくらいに重苦しい展開の連続となります。そして土壇場でこの世界がループしている事が判明するんですね。
 
もっとも、ここがまさしく本作の真骨頂です。この点、先にあげた「AIR」「CLANNAD」「ひぐらしのなく頃に」「STEINS;GATE」といったループ系作品がまさにそうであるように、美少女ゲームにおけるループというのは基本的にその先にある何らかの「惨劇(大抵はメインヒロインの死)」を回避するための手段として用いられるんですね。
 
ところが、本作のループはむしろその「惨劇」を乗り越えて、さらにその先を生き抜くための手法--Refrain--として用いられます。ここには、美少女ゲームというジャンルに対する本作の批評性を見る事ができるでしょう。もっといえば、ここから「ループするセカイ(=美少女ゲーム)ではなく、一回限りのこの日常を生きろ」という美少女ゲームユーザーに対する叱咤の--あるいは期待の--声すら聞こえてくるようにも思えます。
 
もちろん、それは美少女ゲームというジャンルを全否定しない限りでの、いわゆる「安全に痛いパフォーマンス」の枠組みの中でなされる事ではありますが、少なくともその後景にある「他者性なき世界」という欲望に対する自己反省を迫ったことは確かでしょう。そういった意味で本作は「セカイから日常へ」というゼロ年代後半におけるトレンドの変遷に対する美少女ゲームというジャンルからの優れた回答であったように思えます。