かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「誤配」に満ちた「私小説」--ゲンロン戦記(東浩紀)

*「誤配」の実践拠点

 
東浩紀氏はその鮮烈なデビュー作「存在論的、郵便的(1998)」において、フランスの哲学者、ジャック・デリダのある時期における実験的な著作群の読解を通じて、テクスト/コミュニケーション上に「幽霊」として出現する様々な「声」の騒めきを「郵便空間」として理論化しました。
 
次いで氏の代名詞的著作である「動物化するポストモダン(2001)」では、二次創作を愛好するオタクの消費行動分析を通じて「データベース」と「シュミラークル」からなるポストモダンの二層構造が考察されました。
 
そしてゼロ年代における氏の総決算的著作となった「一般意志2.0(2011)」では、18世紀の社会思想家、ジャン・ジャック・ルソーが提示した「一般意志」を参照点として、情報技術で可視化された大衆の欲望と専門家の熟議が「一般意志2.0」というインターフェイス上でせめぎ合う新しい民主主義のかたちが構想されました。
 
フランス現代思想サブカルチャー批評に公共哲学。一見バラバラな事象を扱っているように思えるこれらの著作は「コミュニケーションの失敗=誤配」という東氏独自の問題意識によって貫かれています。東氏の哲学は一貫して「誤配」を肯定する哲学です。そして、こうした氏の哲学の実践拠点となったのが、2010年に氏が創業した「ゲンロン」という会社ということになります。
 
 

* 動員と分断の時代

 
ゼロ年代」という時代はインターネットこそが新しい民主主義のかたちを創出するという理想が素朴に信じられた時代でした。そしてソーシャルメディアの出現により、遂にインターネットが世界を変えるという夢が現実味を帯びたように思われました。 東氏の「一般意志2.0」もこうした時代の空気感の中で書かれた本でした。
 
確かにSNSは民主主義の風景を確実に変えました。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たしました。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動SNS抜きには語れません。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災福島第一原発事故を契機として急速に普及し、2010年代中盤には「SEALDs」のような新しいデモの形を生み出しました。このようにSNSは人々を「動員」する原動力となりました。
 
しかしSNSがもたらした負の効果も無視できません。2016年のイギリスにおける国民投票によるEU離脱、2017年のアメリカにおけるドナルド・トランプ政権誕生といった出来事に象徴されるように、SNSは人々を「分断」する原動力にもなります。
 
こうした意味で2010年代とはSNSによる「動員と分断の時代」と言えます。「一般意志2.0」の時点での東氏はSNSによる「誤配」の加速を期待していましたが、現実においてSNSは世界を容易に友と敵に切り分けて、むしろ「誤配」を排除するメディアとなってしまいました。
 
 

*「観客=誤配の主体」の創出

 
こうした時代においてゲンロンはSNSの生み出す負の効果に抗う「別の可能性」に賭け金を置きます。その「別の可能性」とは本書の副題である「『知の観客』をつくる」ということです。
 
現代においてはファクトとエヴィデンスに基づいて「正解」を提示するスマートなコミュニケーションが持て囃される風潮が加速しています。けれども本当に意味での創造性は一見、無駄としか思えない「コミュニケーションの失敗=誤配」の中に宿る、と氏はいいます。こうした「誤配」を愛でる主体を創出するということ。それが「『知の観客』をつくる」ということです。
 
こうした「観客」は「消費者」でも「信者」でもありません。この点、貨幣と商品の等価交換の論理だけで動くのが「消費者」であり、等価交換とは全く別の論理で動くのが「信者」です。これに対して、等価交換の論理で動きつつもその外部にある「剰余=誤配」を愛でる主体が「観客」ということになります。
 
ゆえにゲンロンはまずは等価交換=ビジネスであることに拘ると氏は言います。ゲンロンはあくまで「商品」を売り、そこで等価交換が成立している限りで「観客」はその商品を買う。
 
けれどもゲンロンの「商品」には等価交換を意図的に失敗させる「剰余=誤配」を忍び込ませている。この「剰余=誤配」こそが「観客」の「予測=欲望」を変形させ、新たな創造性の回路を開く事になるということです。
 
 

*「放漫経営」から「意識改革」へ

 
もっともゲンロンという会社が当初からこういう価値を掲げていたわけではありません。むしろこうした価値は、この悪戦苦闘の10年の中で見出されたものでした。
 
ゲンロン(創業時名称:合同会社コンテクチュアズ)は2010年4月に創業されました。そして同年12月に創刊された「思想地図β vol1」は人文系雑誌としては異例の3万部の大ヒットを成し遂げます。
 
一見、順風満帆なスタートと思いきやその直後、当時の代表による預金使い込み事件が発覚。やむなく東氏が代表に就任するも氏は会社経営においては全くの素人で「売上」と「利益」の区別さえよくわかっておらず、以降のゲンロンは「放漫経営」に突入します。
 
減っていく資金に嵩む借金。起死回生の一発逆転に走る東氏。福島第一原発観光地化計画の炎上。山積みの問題を残して去っていく社員達。顧問税理士も逃げ出すめちゃくちゃな経理
 
こうした様々な失敗を経て、一から会社を立て直すべく、領収書の打ち込みや紙ベースのファイル作成といった地道な事務作業を行う中で、氏の中に「意識改革」が生じ「経営の身体」が起動します。
 
当初の氏は、ゲンロンという組織においてはコンテンツを生み出すクリエイターこそが主であり、事務などは所詮外注で賄える従に過ぎないと考えていました。そして会社経営に必要な作業は全てオンラインで完結し、オフラインにおける物理的環境など不要であるとも考えていました。
 
けれども様々な失敗を繰り返す中で、氏は会社経営の本体とは、むしろ事務とオフラインにあるという認識に至ります。こうした経験から氏は「なにか新しいことを実現するには、いっけん本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかりを追求するとむしろ新しいことは実現できなくなる」という逆説があると言います。
 
 

* 苦境を救った「誤配」

 
そんな中、放漫経営の産物の一つであった「ゲンロンカフェ」でのニコ生配信や、たまたま始めた「ゲンロンスクール」が思わぬ好評を呼びます。ゲンロンはもともと「若手論客が集まる出版社」として構想されました。ところがいつの間にか肝心の「若手論客」はいなくなり出版事業も暗礁に乗り上げた。そんな中で、ゲンロンの苦境を救ったのがカフェとスクールという二つの「誤配」から生まれた事業でした。こうした「誤配」に満ちたゲンロンの事業から氏が得た洞察を一つの哲学として練り上げて提示したのが「ゲンロン0--観光客の哲学」です。
 
同書は3万部の大ヒットとなりました。しかしこの成功でまたも氏は足元を掬われてしまう。経営状況が良くなったことで再び巨大計画を夢想し始めて、やがてまた再び杜撰な経理が発覚する。経理担当社員とのトラブルが発端となり次々に社員やアルバイトが辞めていく中で氏は精神的に病んでしまい、2018年暮れのゲンロン解散騒動、代表交代劇に至ります。
 
 

*「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」

 
けれども、この代表交代劇が図らずも功を奏します。様々な社内改革の結果、ゲンロンにこれまでにない多様性が持ち込まれ、その支持層を拡大させることになりました。
 
そして、こうしたお家騒動を振り返り、氏はゲンロンの創業以来ずっと「ぼくみたいなやつ」を仲間にしたいといういわゆる「ホモソーシャル的」な無意識の欲望に取り憑かれていたことに気付きます。そして現実にゲンロンの苦境を救ったのは、現代表である上田洋子氏や、現時点で唯一の新卒社員である徳久倫康氏を始めとする「ぼくみたいじゃないやつ」でした。
 
「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」。ここにもまたクリエイターと事務、オンラインとオフライン同様の「本質的なこと/本質的でないこと」の逆説を見ることができるでしょう。
 
 

*「誤配」に満ちた「私小説

 
本書巻末付録のゲンロン社史に記された事実だけを眺めると、東氏とゲンロンの歩んだこの10年は薄氷の綱渡りの連続にしか見えないでしょう。そしておそらく現在も、氏とゲンロンは「誤配」の最大の敵とも言える新型コロナウィルスの直撃に見舞われ経営的には決して安泰とは言えないはずです。
 
しかしそれでも本書における東氏の語り口はそんな悲壮さを微塵も感じさせず、むしろユーモラスであり、なおかつ謙虚です。そこにはこのコロナ禍すらも「誤配」として受け止めている「余裕」さえも感じさせます。
 
本書は東氏自身が言うように、ある意味で「私小説」のような観を呈しています。けれども本書は「いわゆる私小説」にありがちな自宅の庭になんとかの花が咲いたとか、そういった何気ない平凡な「日常」が淡々と記述されていく類の本ではありません。むしろ恐ろしいまでにアクロバティックかつジェットコースターな「日常」が哲学的洞察を交えて語られる本です。
 
本書はこれまで哲学に親しんでこなかった読者諸兄氏でも一気に読めてしまう本であると同時に、気がついたらなぜか哲学の入り口に立たされているという不思議な読書経験をもたらす本だと思います。そういった意味で本書もまた「誤配」に満ちた一冊と言えるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 

【書評】デリダ 脱構築と正義(高橋哲哉)

 

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

 

 

* 形而上学と反-哲学

 
西洋哲学史プラトン哲学の註釈史であるという有名な言葉があります。西洋哲学の父は周知の通りプラトンの師であるソクラテスですが、ソクラテス自身は何も書き記さなかった人ですので、ソクラテスの言葉を書き記したプラトンの哲学をもって西洋哲学は始まったとされます。
 
そしてプラトンが創始した哲学は別名「形而上学」と呼ばれています。形而上学は世界を「現前/不在」「内部/外部」「本質/派生」「主体/対象」などといった階層秩序的な二項対立へ切り分けることで構築されてきました。近代の自然科学の発展を支えたのも、まさしくこうした形而上学的思考に他なりません。
 
こうした形而上学に対して叛旗を翻したのが、しばし20世紀最大の哲学者と形容されるマルティン・ハイデガーです。ハイデガーの主著である「存在と時間」はこうした形而上学の歴史を「解体」することで、歴史の彼方に置き去りにされた根源的な「存在」の経験を問うという巨大な構想を持つものでした。
 
けれども、ハイデガーは、形而上学の解体をまさに形而上学の言葉で行おうとしたため「存在と時間」の構想は破綻し同書は未完の憂き目を見る。その後、同書はハイデガーの意に反して形而上学の極みともいえる「実存哲学の聖典」として祀りあげられた。その一方で、同書の真の目的であった「存在の問い」を遂行し続けた後期ハイデガーの言説は何かわけのわからない秘教的言説のように思われ、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきました。
 
いわばハイデガー哲学とは形而上学の「解体」を目指した「反-哲学」と呼べるものです。こうしたハイデガーの「反-哲学」を「脱構築」の名において継承したのが、フランスの(反)哲学者、ジャック・デリダです。
 
 

* スタンダードなデリダ入門書

 
デリダの代名詞である「脱構築(デコンストリュクシオン)」とは、ハイデガーの用語である「解体(デストルクチオーン)」の仏訳語であり、既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」する事を言います。デリダはこうした「脱構築」を武器にプラトンをはじめとした古今東西の様々なテクストについて極めて斬新な読解を提示していきました。
 
この点、日本においてデリダという人は80年代のニューアカデミズムブームの頃からジル・ドゥルーズと並ぶ「ポスト・構造主義」の代表格として認識されてはいたものの、長らく本格的なデリダ入門書は存在していませんでした。1998年に刊行された本書は日本語圏における初のデリダ入門書ということになります。そして現在でも、デリダの思想を理解しようとする上でまずは誰もがくぐり抜けるべきスタンダードな入門書として、その地位は揺らいではいないでしょう。
 
 

* 脱構築の実践過程

 
本書は、その第一章で1998年時点までのデリダの生涯を簡にして要を得た伝記的記述で紹介した後、続く第二章ではデリダの「脱構築」の実践過程を初期の代表的テクストである「プラトンのパルケマイアー」に則して読み解いていきます。
 
プラトンパルマケイアー」においてデリダが「脱構築」したのは「パロール(音声言語)/エクリチュール(文字言語)」の二項対立です。この点、伝統的な形而上学的価値観においては、発話者本人が現前して直接語りかける「パロール」こそが真理を誤謬なく伝える特権的なメディアと位置付けられ、発話者本人が不在の「エクリチュール」とは真理に誤謬を招きいれる危険があることから、あくまでもパロールの補助的なメディアとして位置付けられていた。
 
こうしたパロール優位の考え方を「音声中心主義」といいます。そして、デリダによれば、この「音声中心主義」は「ロゴス中心主義」と結びつき、表音文字であるアルファベットの優位性からくる「西洋中心主義」として世界の思考を隠然と支配している。この点、構造主義言語学の祖であるフェルデナン・ド・ソシュールも、西洋文明を批判していたはずの人類学者レヴィ=ストロースもこの「西洋中心主義」の思考から逃れてはいない。
 
確かにアルファベットはまぎれもない表音文字であり「音声から文字へ」という動きは否定し難いわけです。そこでデリダは従来のパロールエクリチュールの根源に「原-エクリチュール」を想定する事で「パロール/エクリチュール」の二項対立を脱構築します。
 
ここでいう「原-エクリチュール」とは「原初の文字」とかではなく、言語を構成する諸差異を産出した「差異化の運動」それ自体のことです。これをデリダは「差延ディフェランス)」と呼びます。言語という構造の根源には差延という力動があるという事です。
 
 

* 新たな「決定」の思想

 
こうしてデリダ脱構築を用いて形而上学による階層秩序的二項対立を解体していきます。けれどもこうしたデリダの手法に対しては諸方面から、真偽善悪の秩序を揺るがせる危険思想だ、健全な理想の意義を否定するニヒリズムだ、退廃的で無責任な知的遊戯だ云々、といった批判が浴びせられました。
 
これに対して本書は脱構築とは新たな「決定」の思想だと主張します。こうした「決定」の思想としてのデリダ論が第三章以降で展開されます。
 
確かに脱構築は「決定不可能性」の経験を強調します。しかし肝心なのは脱構築は「決定不可能性」にとどまるものではなく、まさにその「決定可能性」を経由することで、形而上学的な決定を超えた「決定」を呼び込む思想でもあるということです。
 
こうしたデリダの「決定」の思想は80年代半ば以降の「法」「政治」「宗教」の問題にコミットする著作群において前景化します。
 
 

* 脱構築とは正義である

 
1989年、デリダはイェシヴァ大学で行われたシンポジウムの基調講演「法の力」において「脱構築とは正義である」という有名なテーゼを打ち出します。その論理は次のようなものです。⑴法は本質的に脱構築可能である。⑵一方、もしも正義それ自体が法の外に存在するのであれば、それは脱構築不可能である。⑶同様に、もしも脱構築それ自体が存在するとすれば、それは脱構築不可能である。⑷ゆえに脱構築とは正義である。
 
これはもちろん本書が釘を刺すように、ジャック・デリダの哲学が正義であるとか、ジャック・デリダその人こそが正義の人であるとか、そんな陳腐な言説ではありません。では、ここでデリダのいう「正義」とは一体、なんでしょうか?
 
この点、法は様々な事象を合法/違法といった形而上学的二項対立として記述することで、特定の領域における普遍的な秩序を構築します。しかし法の起源は秩序なきところに秩序を無理やり創設した暴力的な営みに他ならない。デリダが言う所の「力の一撃=原エクリチュールの一撃」である。つまり法とはいわば「決定不可能性」を暴力的に決定した産物に他ならない。そうであるがゆえに法は「脱構築可能」なものとなる。
 
そしてこうした法における脱構築が生じるのは「脱構築不可能」な正義が法の外にあるからです。そしてこのような正義とは特異的な他者への応答、すなわちデリダのいう「まったき他者」への応答に他なりません。
 
 

* 正義の在り処

 
もっとも法と正義は対立しない。確かに正義は法のかたちにより十分に現前することは決しないけれど、法の廃棄によって正義が現前することも決してない。従って正義は法を通して、法の絶えざる脱構築のプロセスによってしか追求し得ない。
 
そして、法はどうあっても他者への暴力を孕んでいる。こうした現実を前提にした上で脱構築は「暴力のエコノミー」における「最小の暴力」を通して、際限なく正義の方に向かっていくしかない。
 
このように脱構築は普遍性と特異性、あるいは計算可能性と計算不可能性の究極的両立を目指します。そしてそれはまさに「決定不可能性」というアポリアを、今この瞬間の有限な環境において無限の責任として引き受ける「決定」に他ならない。
 
しかしデリダはまさにその「決定不可能性」というアポリアを引き受けた「決定」こそが、まさしく正義の条件となるといいます。つまり脱構築とは、アポリアとしての「正義に狂う」ということです。
 
 

* 正義と誤配のあいだ

 
このようにデリダのいう「正義」とは形而上学的二項対立的な「正義/悪」でいう正義ではなく、むしろこうした「正義/悪」を脱構築したいわば「悪としての正義」です。
 
我々は日常的についつい世界を形而上学的二項対立な「正義/悪」に切り分けて、自分を「正義」の側に置きたがります。けれどデリダが戒めるのはまさしく我々のこうした形而上学的な思考ないし態度に他なりません。
 
畢竟、誰かにとっての「正義」は誰かにとっての「悪」でしかない。「悪」という言葉に語弊があるのであれば「欲望」と言い換えてもいいでしょう。
 
普遍的な「正義」が失墜した現代においては人の数だけ「正義=欲望」があると言えます。ゆえにそこで「正義=欲望」と「正義=欲望」の間に不可避的なコミュニケーションの失敗が生じてきます。
 
こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」の問題を正面から扱ったのが、本書刊行直後に出版された東浩紀さんによる独創的なデリダ論「存在論的、郵便的」です。
 
同書は極めて難解なことで知られる中期デリダのテクスト群にフォーカスする事で「いわゆるデリダ」とは異なる「もう1人のデリダ」を際立たせていきます。この本は本当に面白いです。その論証過程は、あたかも推理小説を読むかのような知的刺激に満ちており、同書の登場により日本のデリダ受容状況は一変したといえるでしょう。
 
もっとも同書は東氏の博士論文がベースとなっており、いささかハードルが高い本である事も確かです。同書を読み解くための準備作業として「いわゆるデリダ」の基本的理解が必要となります。こうした「いわゆるデリダ」の案内役としても、本書は最適な一冊と言えるでしょう。
 
 
 
 
 

物語を紡ぎなおすという事--ジョゼと虎と魚たち(2020年)

 

 

 

* 物語の力を描き出した物語

 
人が世に棲まうためには、その人の生を基礎付けるための内的幻想、すなわち「物語」を必要とします。
 
「物語」は人が生きていく中で生じる様々な出来事を了解する媒介となります。この点、現代における最も強力な「物語」は「科学」でしょう。「科学」はさまざまな出来事に対して明晰な説明を与えます。けれども、人は自らが遭遇したあらゆる出来事を「科学」だけで割り切れるとは限りません。
 
とりわけ不幸な出来事に直面した時、人は「科学的説明」という客観的な「物語」とは別に、その出来事が「その人にとって」どういう意味を持つのかという主観的な「物語」を必要とします。
 
こうした意味での「物語」が持つ力を、まさに「物語」として描き出した作品が、昨年末に公開されたアニメーション映画「ジョゼと虎と魚たち」です(以下、ネタバレあります)。
 
 
 

* 全く新しいジョゼの物語

 
芥川賞作家、田辺聖子氏による同名の短編集(1985年刊行)に収録された本作の原作小説は、僅か30頁足らずの分量ながら極めて耽美的かつ退廃的な世界観を持った珠玉の小品です。そして犬童一心氏が監督を務めた同作の実写映画(2003年公開)は、原作の持つ特異的な世界観をさらに深め押し広げることで、ゼロ年代初頭に一世を風靡した「セカイ系」の臨界点へと到達した日本映画史に残る傑作となりました。
 
だから「ジョゼ」がアニメーションとして再び映画化されるという話を聞いた時は本当に驚きました。今更何を作ろうというのか、どう考えてもあの映画以上のものが作れるはずがないと、普通にそう思いました。けれども他方でティザービジュアルとして提示された、気だるそうに机に突っ伏していながら強い何かを宿した眼差しをこちらへ向けるジョゼの姿にはどこか惹かれるものがありました。
 
そのうち、もしかしてこの映画はただの懐古趣味ではなく、これまでのジョゼを打ち破る、全く新しいジョゼを本気で描き出そうとしているのではないかという、そんな気もしてきました。
 
果たしてその予感は的中しました。これまで原作小説と実写映画が築きあげてきた世界観を踏まえた上で、現代的なアップデートを成し遂げた「物語」として、ジョゼは再びスクリーンに帰ってきました。
 
 

* 転倒するセカイ

 
本作の中盤までのあらすじはこうです。海洋生物学を専攻する大学生、鈴川恒夫は、自身の夢である留学の資金を貯めるため、バイトを掛け持ちする日々を送っていた。そんなある日、バイト帰りの恒夫は坂道を転げ落ちてきた車椅子の女性、山村クミ子こと「ジョゼ」を偶然助け出す。
 
生来、下肢に障害を持つジョゼは祖母である山村チヅの庇護の下、これまでずっと他人と関わらず自分だけの閉じた世界の中で生きてきた。24歳らしからぬ少女めいた髪型と服装。その性格は高飛車かつ人見知りで情緒不安定。ジョセにとって外の世界とは「恐ろしい猛獣ばかり」の世界でしかなかったが、恒夫は成り行きからチヅにジョゼの世話を託され「管理人」としてジョゼを外の世界に連れ出していく。
 
「難病少女」と「優しい青年」の「心温まる交流」。こうした本作の中盤までの展開は、確かに典型的な「セカイ系」構造の反復といえます。けれども、本作は中盤以降でその構造を見事に転倒させてしまいます。
 
 

* 夢と現実と物語

 
本作中盤において、恒夫はこれまで彼の生を基礎付けてきた「物語」を完全に破壊される事になります。この点について本作は、極めて詳細な医学的説明を行なっています。けれど、むしろその説明が詳細であればあるほど、まさに医療技術は「身体」は修復できても「物語」を修復できないということが如実に描き出されるわけです。
 
けれども恒夫が機能回復訓練をやり抜き、再び留学のチャンスを掴むには新しい「物語」が必要だった。そうした中で、ジョゼが優しい絵と共に紡ぎ出したのはまさしく、恒夫にとっての新たな「物語」でした。
 
そして、こうした「物語」の創造はジョゼにとっても大きな転機になりました。庇護者であった祖母が逝去した後、1人になったジョゼは今後の身の振り方を考えなくてはならなかった。「絵で生きていく」という仄かな夢を懐き始めていたジョゼに対して、近所の民生委員は夢ではなく現実を見ろと説教する。また「恋敵」である舞は恒夫はジョゼに同情しているだけだと言い放つ。こうした容赦なき「現実」を前に、ジョゼは「夢」を切り捨て「自立」しようと決意します。
 
けれど恒夫を救うため「物語」を創造する中で、自らの「夢」を再発見したジョゼは「夢」を手放さないままに「現実」を生きていく「自立」の道を選び取ります。すなわち、ジョゼもここで祖母の死を乗り越える為の自らの「物語」を様々なめぐりあわせの中で紡ぎなおしていったという事です。
 
 

* 物語を紡ぎなおすという事

 
物語を紡ぎなおすという事。それはいわば内的意味での「死と再生」に他ならなりません。そしてそれは、お仕着せの「正しい物語」なき現代を生きるすべての人にとっての普遍的なテーマと言えるでしょう。
 
そういった意味で、本作はセカイ系の臨界を突破して、瑞やかな「愛のかたち」を提示するとともに、現代に相応しい「死と再生」を描き出した作品だといえます。
 
原作が「昭和のジョゼ」であり、実写映画が「平成のジョゼ」だとすれば、今回のアニメーション映画は疑いなく名実ともに「令和のジョゼ」と呼ぶに相応しい作品です。「物語」は人を救えるんだということを、本作から改めて教わりました。シナリオ、キャラクター、演出、作画、美術、音楽等々、すべてが素晴らしい完璧な映画でした。
 
 
 
 
 
 

【書評】源氏物語と日本人(河合隼雄)

 

 

 

*「自分の物語」を見出すということ

 
人は生きていく上で「物語」を必要としてます。ここでいう「物語」とは自らの生を世界の中に基礎付けるための内的な幻想のことです。
 
この点「物語」は人が生きていく中で生じる様々な出来事を了解する媒介となります。こうした意味での「物語」の役割を担ったのが、古代においては「神話」「宗教」であり、現代においては「科学」ということになります。
 
現代において「科学」はさまざまな出来事に対して明晰な説明を与えます。けれども、人は自らが遭遇したあらゆる出来事を「科学」だけで割り切れるとは限りません。とりわけ不幸な出来事や理不尽な出来事に直面した場合は「科学」による「客観的な物語」とは別に、その出来事が「その人にとって」どういう意味を持つのかという「主観的な物語」が必要となるでしょう。
 
また「物語」は人が生きていく上での道標を示します。この点、かつては多くの社会が「スタンダードな物語」を持っていました。けれど価値観が多様化した現代において我々は「スタンダードな物語」無きところで、それぞれが「自分の物語」を見出していかなければならないという事です。
 
こうした「自分の物語」を見出した先駆的な例として、我が国の代表的古典文学である「源氏物語」を読み解いていくのが本書です。
 
 

*「源氏物語」とは「紫式部の物語」

 
源氏物語」は、平安時代の貴族社会を舞台に、主人公の光源氏の栄光と没落を描いた王朝物語です。作者である紫式部はあまり高位と言えない貴族の娘として生まれました。26歳頃、父親と同年齢ほどの男性と結婚し、一人の娘をもうけた後、夫と死別。この頃から「源氏物語」を書き始めたとされています。
 
こうして紡ぎ出された物語はやがて評判を呼び、時の権力者、藤原道長にその才気を見出された紫式部は、道長の娘である中宮彰子の教育係として宮中に出仕。その後も道長の支援の下、紫式部は「源氏物語」の執筆を続け、最終的に全54帖、400詰原稿用紙換算で2400枚におよぶ長編作品として完成させました。
 
先述したように「源氏物語」の主人公は光源氏という男性です。彼は容姿、地位、財産、教養、趣味どれをとっても最高レベルのステータスを持つ男性として設定されています。しかし物語全体を通読した河合氏が光源氏に抱いた印象はその「影の薄さ」です。
 
これはどういうことか。この点につき色々と思案した結果、氏は「源氏物語」とは「光源氏の物語」ではなく「紫式部の物語」であると結論します。
 
 

* 紫マンダラ

 
すなわち、光源氏の周囲にいる女性たち全てが作者である紫式部の分身であるということです。紫式部はこれまでの自らの半生を振り返り、自己の内面と向き合ううちに、彼女の内界に様々な変化に富む女性達の群像を見出した。
 
それは例えば優しく見守る「母」として、または誠実で忍耐強い「妻」として、時には激しく嫉妬する「娼」として、あるいは何かと反抗的な「娘」として出現する。そしてこれらの女性達の群像全てが、他ならないこの「私」なんだと、彼女は思った。
 
そして、紫式部は自らの内界に現れた無数の女性群像を一つの物語の中に統合するため、一人の男性を必要とした。このいわば「便利屋」的存在として召喚された男性こそが光源氏です。ゆえに光源氏は形式的には主人公ですが、実質的には主人公ではないということです。
 
そして本書は、こうした紫式部の内界に生じた女性群像を「紫マンダラ」として構図化します。この曼荼羅はまず、登場人物の女性たちが光源氏を軸として「母」「妻」「娼」「娘」のカテゴリーに配置される形を取ります。
 
こうして浮かび上がった「紫マンダラ」の全領域を走破していくのが、紫式部がとりわけ強く同一視した光源氏の正妻格である紫の上です。ここで紫式部「母」「妻」「娼」「娘」を一人の女性像として統合します。
 
さらに物語はここで終わりません。光源氏の死後、次世代の物語である「宇治十帖」においては、大君、浮舟という女性たちの物語を経て、最終的にはもはや男性との関係で自らの居場所を見出さない自由な存在としての、女性の在り方が描き出されることになります。
 
 

*「個の確立」における男性の物語と女性の物語

 
本書の著者である河合隼雄氏は、かつて小渕内閣で「21世紀日本の構想」という懇談会の座長を務めています。そして、その報告書をまとめるにあたり、氏が強調したのは「個の確立」です。
 
「個の確立」とは何でしょうか?この点、ユング派の分析家、エーリッヒ・ノイマンは西洋近代的な「個の確立」の範例として「英雄物語」を挙げています。ヨーロッパの昔話に数多く見られる「英雄物語」の根本的な枠組みは、一人の英雄が誕生し、怪物を退治し、最後は姫君とめでたく結ばれるというものです。
 
「英雄=自我」の誕生から「怪物=無意識」との対決を経て「姫君=幸福」と結合する。西洋近代的な「個の確立=自我の確立」とはこのような過程を通じて果たされるということです。
 
それゆえに、ノイマンは「個の確立=自我の確立」こそが近代においては、男女問わずに重要であるといいます。けれども「英雄物語」とは「力強い男性」が「か弱い女性」を救い出すという、言うなれば「男性の物語」です。
 
このような「男性の物語」を女性が敢えて生きようとする時、やはりそこには色々な無理が生じてきます。また男性であっても「男性の物語」を生きられない、あるいは生きたくない人だっているでしょう。
 
それゆえに、河合氏は「男性の物語」のオルタナティブとしての「女性の物語」による「個の確立」こそが現代においては、やはり男女問わずに重要であるといいます。そして紫式部という人は、恐るべきことに今から1000年以上も前に「女性の物語」による「個の確立」を、すなわち「自分の物語」を見出していたということです。
 
 

* 現代につながる想像力

 
「男性の物語」から「女性の物語」へ。こうした視点でみると、我が国のサブカルチャーの中には案外と、その随所に「女性の物語」を見出せるように思えてきます。
 
例えば、大正期に確立した「少女小説」というジャンルは、旧来的な家父長制社会を支える「家の娘」という呪縛から逃れていく主体として「少女」のイメージを提示しました。
 
初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性の一つとして知られるのは、少女同士の友愛を魅力的に描いている点にあります。そしてその背景には「エス」と呼ばれた当時の女学校文化があります。「エス」とはsisterhoodの頭文字Sからきた隠語で、女学校の上級生と下級生、あるいは同級生同士など、少女同士の擬似姉妹的な関係性をいい、その特徴は高尚かつ清純な精神性の称揚にあります。その後、男女の自由恋愛が普及するにつれて文化としての「エス」は衰退していきますが「少女小説の精神」は連綿と受け継がれ、現代においては「百合」という一大ジャンルの中に流れ込んでいます。
 
また、ゼロ年代的想像力における「セカイ系」から「日常系」へという変遷も「男性の物語」から「女性の物語」への変遷として捉えることができるでしょう。
 
この点「セカイ系」においては「無垢な少女」に守られる「無力な少年」が自らの矮小さを「自己反省」する事をもって「成熟」だと見做す構図がありました。これに対して「日常系」を生きる少女達はもはや異性間の性愛的関係を軸として自らのパーソナリティを記述したりはしない。彼女達は同性間の友愛的関係の中で自らのパーソナリティを記述して、生成変化させていくわけです。
 
光源氏から紫式部へ。家の娘から少女へ。セカイから日常へ。およそ1000年前に紫式部が切り開いた道はその後、近代を経て現代に至るまで、様々な想像力によって幾度となく辿り直され、踏み固められた道でもあります。こうした「近代を超える物語」「現代につながる物語」として「源氏物語」を読む時、そこには単なる「代表的古典文学」という旧来的枠組みには収まらない豊かな味わいと、様々な発見があるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

【書評】おはなしの知恵(河合隼雄)

 

新装版 おはなしの知恵 (朝日文庫)

新装版 おはなしの知恵 (朝日文庫)

 

 

* 人は「おはなし」を必要とする

 
臨床心理学者、河合隼雄氏は折に触れて「私は私である」というアイデンティティ(自我同一性)の源泉としてファンタジーの重要性を強調されていました。ここでいうファンタジーとは個人の生を基礎付ける内的意味での「物語」をいいます。これが本書のいう「おはなし」です。
 
「聖書」や「古事記」などの古代の神話は、当時の人々が自分たちが生きるこの不可解で理不尽な世界を了解するために生み出した「おはなし」でした。そして現代においても相変わらず我々は「おはなし」を必要としています。
 
確かに科学やテクノロジーの目覚ましい発展は我々の生活を飛躍的に豊かにしてきました。けれども、それだけで人生の全ての問題を解決できるわけではありません。
 
生きていく上で我々は様々な不可解で理不尽な「現実」に遭遇します。その際たるものが「死」の問題です。当たり前ですが人はいつか必ず死ぬ。けれども、実際に親しい人の死に直面した時、また自らの死を宣告された時、その「死」についていくら医学的見地から詳細に説明されたとしても、やはり「なぜなのか」「どうあるべきか」という問いが残り続けるでしょう。
 
この点、自然科学の理論も「おはなし」の一種ではあります。けれども、自然科学の語る「おはなし」があまりにも明晰に物事を説明し過ぎるが故に、我々は自然科学的事実こそが「現実」の全てだと錯覚し、かえって「現実」を見失ってしまっているところがあります。こうした意味での「現実」を捉えて、心に収めて生きていく上で、我々は自然科学の「おはなし」に囚われない視点を持つ必要があるということです。
 
 

* 内界の出来事として「おはなし」を読む

 
この点、神話や昔話などは現代の「科学的」な視点からすれば荒唐無稽で非論理的なものばかりです。けれども、自然科学的事実の外にある「現実」を捉えるために必要なのは、むしろそういった荒唐無稽で非論理的な「おはなし」であるともいえます。そこで本書は、神話や昔話などの「おはなし」が蔵する深い「知恵」を臨床心理学の見地から詳らかにしていきます。
 
本書は「おはなし」を1人の人間の内界(こころの中)で生じた出来事として読むという視点を提示しています。この点、我々の「こころ」は大きく「意識」と「無意識」に分けられます。我々が持つ「私は私である」という認識は、我々の「意識」の枢要をなす「自我」という心的作用によるものです。ところがこうした自我の統合性を乱す別の心的作用が、我々が普段は意識することのない心的領域である「無意識」に存在します。
 
そして河合氏が依拠するユング派の理論によれば、意識の枢要をなす「自我」とは別に、意識と無意識の双方を含めた心全体の中心部に「自己」と呼ばれる「こころの基礎部分」を仮定します。こうした「自己」は、ある時には「母なるもの--グレートマザー」として、ある時には「生きられなかった半面--影」として、またある時には「他なる性--アニマ/アニムス」として、様々なかたちをとって顕現し、我々の心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力となります。そして、こうした再統合の過程をユング派では「個性化の過程」ないし「自己実現の過程」と呼びます。
 
こうした視点から本書は古今東西の様々な「おはなし」を読み解いていきます。例えば「桃太郎」は日本的な自我意識と無意識の関係性について、ある種の「範例」を示す「おはなし」と言えます。また「白雪姫」は「内閉期」を迎えた少女と「母なるもの」の「対決」について、イタリア民話の「怖いものなしのジョヴァンニン」は「生きられなかった半面」との付き合い方について、七夕伝承やナホバ・インディアンの神話は「他なる性」の分離と調和について、それぞれ雄弁に語っている「おはなし」として読めるでしょう。
 
 

*「正しいおはなし」が機能しない時代

 
かつて社会共通の価値観というべき「正しいおはなし」が機能していた時代において、人がその社会の構成員となる必要条件はこの「おはなし」を信じる事であり、信じない者はその社会において「悪」して排除されました。
 
けれども「正しいおはなし」の下で社会全体が思考停止しまえば、その先には悲惨な末路が待っています。かつての日本が「神州不滅」とか「大東亜共栄圏」などといった「おはなし」に国家全体が酔いしれて破滅へ向かった歴史は周知の通りです。
 
これに対して、現代は「正しいおはなし」が機能していない時代と言えます。こうした意味で現代は確かに「自由な時代」になったとも言えますが、当然ながら、それに伴い生じる様々な問題へ対処していくことも必要となりました。そして、そこで必要とされる能力は、大まかに言えば、以下のようなものが考えられます。
 
 

* 特定の「おはなし」を絶対化しない「批判力」

 
まず現代においては「正しいおはなし」という後ろ盾がない事から、そもそも「正しさ」とは何かが、よくわからないという問題があります。
 
この時、一番危険なのは狂信的な政治思想やカルト的な宗教教義など、とんでもない「おはなし」に「正しさ」を求めてしまう事です。「おはなし」は人を生かす側面と同時に、人を殺す側面も持っています。我々はどのように素晴らしく見える「おはなし」でも決して絶対視することなく、常にこれを批判的に観る視点を欠かしてはならないという事です。すなわち、ここで必要なのは特定の「おはなし」を絶対化しない「批判力」という事になります。
 
 

* 異なる「おはなし」と関係する「共感力」

 
同時に現代においては、異なる「おはなし」を生きる他者といかに関係していくかという問題があります。
 
この点、ある人がどのような「おはなし」を選ぶかは、根源的には「好きか嫌いか」というその人の個人的趣味の領域に関わります。例え自分がどれだけ好きな「おはなし」であっても、相手も好きになってくれるとは限りません。
 
従って、異なる「おはなし」を生きる他者と関係する上で生産的な態度とは、自分の好きな「おはなし」を生きつつも、他者の好きな「おはなし」をできる限り共感的に理解しようと努める態度という事になるでしょう。すなわち、ここで必要なのは異なる「おはなし」に関係していく「共感力」という事になります。
 
 

* 様々な「おはなし」と日常をつなぐ「想像力」

 
また現代においては、小説、映画、ドラマ、アニメ、ゲームといった形で市場に溢れ返る「おはなしの洪水」にどのようにコミットするかという問題があります。
 
これは換言すれば、こうした「おはなしの洪水」を「虚構」として単純に「消費」して満足するだけでなく「現実」の中でいかに「活用」するかという問題です。
 
比較的身近な活用例としては、ある作品を通じて他者とのコミュニケーションを円滑にしたり、ある作品に縁ある土地を「聖地巡礼」したりする営みがあるでしょう。もう少し高度な活用例だと、ある作品を素材とした批評、二次創作、コスプレといった営みが挙げられるでしょう。さらに高度な活用例になると、河合氏のように、ある作品を心理療法における参照枠として用いる営みなどが考えられるでしょう。
 
いずれにせよそこで「おはなし」は我々の日常をより豊かで創造的なものにするための媒介者として機能しているということです。こうした「おはなし」の「活用」は現代思想の文脈において「拡張現実」と呼ばれます。すなわち、ここで必要なのは様々な「おはなし」と日常をつなぐ「想像力」という事になります。
 
 

*「おはなし」を書き換えていくということ

 
特定の「おはなし」を絶対化しない「批判力」。異なる「おはなし」と関係する「共感力」。様々な「おはなし」と日常をつなぐ「想像力」。こうした力を涵養する上でも「おはなしの知恵」に学ぶ意義は大きいでしょう。
 
人はその生において、環境、立場、人間関係といった様々な変化、あるいは病気、事故、挫折といった様々な試練に遭遇する中で、それまでの自身を基礎付けてきた「おはなし」が上手く機能しなくなる事がしばしあります。
 
そんな時、我々は自身の「おはなし」を書き換えていかなければなりません。それは時に苦しみを伴う過程となるでしょう。こうした過程を乗り越える上で、様々な「おはなしの知恵」はきっと助けとなるはずです。すなわち「おはなしの知恵」とは「生きていくための知恵」に他らないという事です。
 
 
 
 
 
 
 
 

【書評】こころの処方箋(河合隼雄)

 

こころの処方箋(新潮文庫)

こころの処方箋(新潮文庫)

 
 

*「常識」なき時代の「常識」を問う

 
現代とはある意味で「常識」の失墜した時代です。時に誰かの「常識」は別の誰かの「非常識」となり得ます。ソーシャルメディアにおける「炎上」も突き詰めれば、こうした「常識」対「常識」の諍いに起因する事が多いでしょう。
 
ではこのような「常識」を異にする他者と関係していく上で必要な「常識」とはなんでしょうか。ここで我々は、いわば「常識」なき時代における「常識」とは何かという困難な問いに直面します。
 
こうした困難な問いへ答えていく道を今なお照射し続ける決定的な一冊が、臨床心理学の第一人者にして戦後日本を代表する「知の巨人」の1人でもある河合隼雄先生の不世出の名著「こころの処方箋」です。
 
全55講からなる本書は河合氏曰く、皆がすでに「腹の底」では知っているはずの「常識」を売り物にした本です。そしてその中で「常識中の常識」というべき「常識」が、本書の巻頭に置かれた「人の心などわかるはずがない」ということになるでしょう。
 
ここで河合氏は、心の専門家が専門家たる所以は、人の心が「わかる」という点にあるのではなく、むしろ人の心が「わからない」ということを「確信を持って知っている」という点にあると言います。すなわち、他者の心に触れる上で求められる態度とは、人の心の動きを既知の知識に当てはめようとする「閉じた態度」ではなく、その未知の可能性に注目し続けていく「開かれた態度」であるということです。そして、こうした「開かれた態度」は我々の日常的なコミュニケーションにおいても常に念頭に置いておくべき在り方といえるでしょう。
 
このように本書が示す「常識」は我々に対して、何か型にはまった「正しい生き方」を押し付けようとするものでは決してありません。すなわち、本書のいう「常識」とは、臨床心理学の深い知見に裏打ちされた「学識」であると同時に、心理療法家として「こころの現場」に対峙し続けた経験からくる「見識」と言うべきものであります。そしてそれは我々がこの「常識」なき時代を「常識」に則しながらも、自由かつ豊かに生きていくための、まさしく「処方箋」と呼ぶべきものでしょう。
 
本書をより深く理解する上では、先生のご専門であるユング心理学にある程度は通じていた方が良いでしょう。ここではユング心理学のエッセンスともいえる「コンプレックス(Complex)」「コンステレーション(Constellation)」「コミットメント(Commitment)」という「三つのC」を本書に則してご紹介させて頂きます。裏返して言えば本書はこの「三つのC」の具体的な応用編ということです。もしユング心理学に本格的な興味を惹かれた方は河合先生の主著「ユング心理学入門」をぜひお読みいただければと思います。
 
 

* コンプレックスという可能性の在り処

 
我々が持つ「私は私である」という認識は、我々の「意識」の枢要をなす「自我」という心的作用によるものです。ところが我々の「無意識」にはこうした自我の統合性を乱す別の心的作用が存在します。
 
今日では「ユング心理学」の名で呼ばれる分析心理学の創始者カール・グスタフユングは言語連想実験を通じてこうした無意識下の心的作用を発見し、これを「コンプレックス」と名付けます。こうしたことから、ユング心理学は時に「コンプレックスの心理学」とも呼ばれます。
 
コンプレックスが本当に全くない、という人は人はあまりいないと思います。人は自らのコンプレックスを意識してしまうと、それを認めたくないがために「自我防衛」を働かせ、コンプレックスを外界に投影して、他人を非難し始めたりします(10-イライラは見通しのなさを示す)。
 
この点、河合氏は人の心の中での出来事は大体「51対49」くらいのところで勝負がついていることが多いと言います。無意識下において、ある傾向とこれに相反する傾向が「51対49」でせめぎ合う結果、人は傍から見れば不可解としか言えない行動にでてしまうということです(16-心の中の勝負は51対49のことが多い)。
 
誰だって自分の抱えているコンプレックスと向き合うことは苦しい経験です。けれども河合先生はコンプレックスそれ自体は常に否定されるべきものではないと言います。コンプレックスとは、それまで目を背けて来た未知の可能性の在り処を示す「一種の方向指示盤」としての役割を持って出現してきているということです(48-羨ましかったら何かやってみる)。
 
そして、ここで重要なことは「私には何とかというコンプレックスがある」などとコンプレックスを知的に理解しようとする態度ではなく、ともかくも自らのコンプレックスに飛び込み、これを生きてみるという態度です。それがすなわち「コンステレーション」と「コミットメント」ということになります。
 
 

* めぐりあわせとしてのコンステレーション

 
ユングは意識の枢要をなす「自我」とは別に、意識と無意識の双方を含めた心全体の中心部に「自己」と呼ぶ「こころの基礎」というべき「元型」を仮定します。こうした「自己」は、ある時には「他なる性--アニマ/アニムス」として、またある時には「生きられなかった半面--影」として、様々なかたちをとって顕現し、我々の心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力となります(4-絵に描いた餅は餅よりも高価なことがある/11-己を殺して他人を殺す)。
 
こうした再統合の過程をユングは「個性化の過程」ないし「自己実現の過程」と呼びます。この点、ユングによれば、ある個人の「自我」が自らの「自己」と対決すべき時期が到来した時、そこで生じている内的現実に呼応するような「めぐりあわせ」というべき外的現実が起きるといいます。それは例えば、ある種の精神疾患かもしれませんし、人生における挫折や喪失かもしれません。
 
けれどいずれにせよ、こうした「めぐりあわせ」の裏には「自我」がいよいよ「自己」との対決を試みている努力の表れがあるということです。そこでユング心理学では、このような内的現実と外的現実を「個性化の過程」「自己実現」に向けた共時的布置、すなわち「コンステレーション」として把握することを重視するわけです。
 
日々生活していれば、大なり小なりのトラブルに遭遇します。そんな時、大抵人は「なんでこんな時に」と思うわけです。もし人生がうまくいっていない時に悪いことが起きれば「なんでこんな時に」と思うし、人生がうまくいっている時に悪いことが起きてもやはり「なんでこんな時に」と思うはずです。
 
こうした人生の危機に直面した時に重要なのは「なんでこんな時に」ではなく「まさに今だからこそ」という発想の転換なのでしょう。そう考えることで、思考の悪循環は切断され、そこから思わぬ新たな局面が切り開かれてくることもあるかもしれません。つまり、いま生起した事象の中に一つの「めぐりあわせ」を見出すということです(29-生まれ変わるためには死なねばならない)。
 
 

* コミットメントにおけるしたたかさとしなやかさ

 
「コミットメント」とは端的には「関係」ということになります。普通、我々は他者に対して「正しい」人間として「正しい」振る舞いによって「関係」しようとします。もとより「正しい」とは社会生活を営む上で大事な前提です。けれど本書に言わせれば「正しい」という「だけ」の「関係」では何ひとつ「コミットメント」していないという事になります(3-100%正しい忠告はまず役に立たない)。
 
では、本書のいう本当の意味での「コミットメント」とはなんでしょうか。それは時として果敢にリスクを取り、自らの全霊を賭して事に臨む「覚悟」を必要とします(12-100点以外はダメな時がある)。けれど同時にけっしてユーモアを手放さない「余裕」も必要です(13-マジメも休み休み言え)。そしてそこには「うそという常備薬」と「真実という劇薬」をいかに使い分けるかという匙加減を見極める「知恵」も必要となってきます(32-うそは常備薬 真実は劇薬)。
 
こうしてみると「コミットメント」とは本当に難しいものだと思います。おそらく「コミットメント」とはある種、清濁を呑み合わせるかの如き「したたかさ」「しなやかさ」を必要とするのでしょう。けれど、こうした「したたかさ」「しなやかさ」を自在に扱うには、自らの「コンプレックス」から自由になる必要があります。「コンプレックス」に囚われたまま、表面だけを取り繕った「コミットメント」は必ずその下地が露呈することになるでしょう。
 
すなわち、ここでやるべきことは三つ。まずは自分の内定現実である「コンプレックス」と向き合うこと。次にこの内定現実を「コンステレーション」として外的現実へ統合すること。そして統合された内的-外的現実へ「コミットメント」していくということです。そういった意味で「コンプレックス」「コンステレーション」「コミットメント」という「三つのC」は相互に不可分の関係にあるという事です。
 
 

* 生きている手ごたえ

 
本書の最終講「すべての人が創造性を持っている」において河合先生は、人は誰でもその内にその人だけの「創造の種子」を持っていると言います。そして、その「創造の種子」から芽生えたものが、家庭、学校、会社、社会といった帰属集団の価値観とたまたま一致するのであれば、その人は自らの「創造性」を「個性」として伸ばしていくことができる一方、帰属集団の価値観とたまたま異なれば、その人は自らの「創造性」を帰属集団に適応していくため圧迫せざるを得ず、その代償として時に「こころの不調」や「問題行動」を「創造」してしまうことになるでしょう。
 
この「たまたま」は本当に紙一重なんだと思います。本来的には誰もが持っているその人だけの「創造性」に優劣などは決してないはずです。それゆえ心理療法はこうした意味での「創造性」に注目します。すなわち心理療法とは、クライエントが自らの「創造性」を再発見する営みであると共に、その「創造性」を手放さないままに「普遍性」へと調和を果たしていく過程を支援していく営みでもあるということです。そして、こうした営みの中で「創造される作品」とはまさに、その人だけが持つ「生きている手ごたえ」と呼ぶべきものではないでしょうか。
 
「幸福のロールモデル」という「常識」が完全に失墜し、もはや何が「正しい生き方」なのかわからないこの不安に満ちた時代において、こうした「生きている手ごたえ」は人の確かな幸福の在り処を示しています。そして本書が示す様々な「常識」達はきっと、あなただけの「創造」を営む助けとなってくれるでしょう。
 
 
ここまでお読みくださって有難うございます。本年は誰にとっても本当に大変な一年だったと思います。きっと来年は良い年でありますように。
 
 
 
 
 
 
 

少女の〈あはれ〉と天使の〈まなざし〉--私に天使が舞い降りた!1〜8(椋木ななつ)

 

気ままな天使たち/ハッピー・ハッピー・フレンズ(通常盤)
 

 

 
 

*「エス」から「おねロリ」へ

 
近代教育システムの確立に伴う「少女期」の出現や、1899年に公布された高等女学校令などを契機して、明治時代後期においては少女雑誌の創刊が相次ぎ、ここに「少女小説」というジャンルが誕生しました。「少女世界」「少女画報」といった少女雑誌には多くの著名な作家が文章や絵画を寄せ、少女小説は従来の家父長制社会における「家の娘」という呪縛から少女を解放して、近代的自意識の発露へと導く役割を果たしました。
 
初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性の一つとして知られるのは、少女同士の友愛や関係性を魅力的に描いている点にあります。そしてその背景には「エス」と呼ばれた当時の女学校文化があります。
 
エス」とはsisterhoodの頭文字Sからきた隠語で、女学校の上級生と下級生、あるいは同級生同士など、少女同士の擬似姉妹的な関係性をいい、その特徴は高尚かつ清純な精神性の称揚にあります。これは当時「変態性欲」として問題視されていた同性愛との差異化を図る意味合いと、家父長制社会が押し付ける「良妻賢母」という模範的女性像に抗う少女同士が結び合うというカウンターカルチャーとしての意味合いを持っていました。
 
戦後、男女の自由恋愛が普及するにつれて文化としての「エス」は衰退していきますが、その精神性は80年代において少女小説復権を掲げた氷室冴子作品を経て、その後「百合」というジャンルに引き継がれ、ゼロ年代以降は「マリア様がみてる今野緒雪)」や「ゆるゆり(なもり)」などの成功を受けて、現代サブカルチャー文化圏を規定するコードの一つとして定着するに至ります。
 
こうした中、かつて「エス」が宿していた「擬似姉妹的な関係性」をラディカルに強調した百合のサブジャンルが登場しました。これが「おねロリ」と呼ばれるジャンルです。
 
「おねロリ」が一つのジャンルとして認識されるようになったのはだいたい2017年頃だとされていますが、その前年11月から「ゆるゆり」と同じ「百合姫」で連載が開始され、2019年にはアニメ化を果たし、このジャンルの認知度を一気に引き上げた作品が本作「私に天使が舞い降りた!」です。
 
 

*「もにょ」っとした気持ち

 
本作の主人公である女子大生、星野みやこは小学5年生の妹、星野ひなたがある日連れて来た同級生である白咲花にかつてない不思議な気持ちを覚え、みやこは花とどうにかして仲良くなろうと努力するも、重度の人見知りが災いして挙動不審な言動を繰り返してしまう。
 
花にとってみやこの第一印象は最悪極まりないものでしたが、美味しいお菓子に釣られて流されるままに、花はみやこのコスプレ趣味に付き合わされることになります。自作衣装を着せた花を気持ち悪いくらいに興奮しながらカメラに納めていくみやこですが、あれほど人見知りな自身がなぜ花だけとは仲良くなりたいのかを自問した時、彼女は自分の中に「もにょ」っとした気持ちを発見することになります。
 
この「もにょ」っとした気持ちとは一体なんなのでしょうか?実は先に述べた少女小説の原点である「花物語」の中にも似たような構造を持ったお話があります。「山梔(くちなし)の花」というお話です。
 
 

*「花物語」における〈あはれ〉

 
とある地方の温泉地を病気療養のため訪れた年若き新進気鋭の女流彫刻家である滋子は、湯煙の中に一人の不思議な美しさを持つ物言わぬ少女と邂逅する。その少女の姿を人魚と重ね合わせた滋子は強いインスピレーションに打たれます。
 
この瞬間を同作は〈あはれ〉という言葉で表現しています。そして生来、口が聞けない少女の境遇に思いを寄せた滋子は、何かに取り憑かれたように一心不乱に少女をモチーフにした人魚像を彫り上げ、この畢竟とも言える作品を自らの名を告げることなく少女に進呈します。そしてこの物語は次のように結ばれます。
 
「審しんで、母なる人がその薄絹の覆いの布を颯と取り除くと、あっ、そこには、美しい大理石に刻まれた、生けるが如き人魚の像!左右に髪を分けて肩に流して、水より半身を浮かばせて、やさしき瞳に言葉に語れぬ悩みをこめた、その気高く寂しい顔よ、それは誰が俤に生き写しであったろう?あはれ。」
 
花物語より)
 
最後でまたしても〈あはれ〉という言葉が反復されます。人魚像を制作する滋子の情熱を駆り立てたのがまさにこの〈あはれ〉という感情でした。
 
なんとなく美談風に纏められた「山梔の花」から、一見して完全に遠い位置にあるみやこのコスプレ撮影ですが、両者は自らのうちに生じた内的事象を、どうにか美のかたちとして外的事象へ結晶させようと涙ぐましい努力を重ねる点で、その構造を共通にしていると言えるでしょう。すなわち、みやこを駆り立てる「もにょ」っとした感情の正体も、まさしくこの〈あはれ〉なのではないでしょうか。
 
 

*「不思議の国のアリス」と〈まなざし〉

 
そして同時に、花のコスプレ撮影に勤しむみやこの姿は「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロルの姿を想起させます。キャロルは童話作家としての顔の他に、むしろこちらが本業の数学者として顔、そして夥しい少女の写真を撮りまくったアマチュア写真家としてしての顔が知られています。また、キャロルとみやこはコスプレ趣味があることや、他人とのコミュニケーションが極端に苦手だった点でも共通しています。
 
この点、キャロルの少女写真の特徴として、しばしば少女の目線が撮影者であるキャロルへまっすぐに向けられている点から、キャロルにとっての少女が単なる撮影対象の関係以上の関係に見えることが指摘されています。こうした意味で、極めて印象的な目線をキャロルに向ける少女が、他ならない「アリス」のモデルとされる少女、アリス・プレザンス・リデルです。
 
童話のアリスといえばジョン・テニエル原案のふんわり金髪なロングヘア少女を想起しますが、実在のアリスの方は直毛黒髪なおかっぱ少女です。そして多くの写真においてアリスはまったく愛想がなく、むしろ不機嫌そうな表情でキャロルを睥睨しています。この辺り、みやこに写真を撮られる時の花の表情もまさにそんな感じです。
 
実際のところ、キャロルとアリスがどのような関係にあったのかはよくわかっていません。ただ「不思議の国のアリス」出版から15年後の1880年、アリスが他の男と結婚することになった年、キャロルはパッタリと写真をやめたそうです。
 
少なくともキャロルにとってアリスが特別な存在だったことは間違い無いでしょう。こうしてキャロルはアリスの〈まなざし〉に導かれるように、かの世界的名作を生み出したとも言えるでしょう。そしてそのスケールの違いはあれ、みやこも花の〈まなざし〉に導かれるように、少しずつですがその生き方を変容させていくことになります。
 
 

* 転移としての百合

 
従来のみやこの人見知りぶりは尋常ではなく、初対面の人とは目も合わせられない、近所のよく知っているおばさんとすらまともに会話ができない、買い物は喋らずに済ますことができる店じゃないと無理、人混みではマスクとサングラスが必須という有様です。
 
また、みやこは極度のネガティブ思考の持ち主であり、ひなたのクラスで「理想の姉」にでっち上げられているのを聞いた瞬間、すぐさま実際の自分が子供たちから幻滅されてボロカスに嘲笑される姿を想像して憂鬱になる始末です。
 
この点、社交不安障害(SAD:Social Anxiety Disorder)の特徴として、他人からネガティブな評価への過剰な恐怖心があります。SADの人の生活全般は「いかにして他人のネガティブな評価を避けるか」というテーマを中心に回っているとすら言えます。まさに、みやこもこれに近い状態と言えます。そしてこれは換言すれば「他者の欲望」を基準にして生きている状態です。
 
けれど、こうしたみやこの「欲望のあり方」を変える契機となったのが先にみた「もにょ」っとした〈あはれ〉でした。ここでみやこは自らの中に生じたこれまでにない感情の正体を掴みたいという「他者の欲望」ではない自らの欲望を懐きます。
 
こうして花に出会って以降、みやこは不器用ながらも確実に一歩ずつ、周囲の他者とのコミュニケーションを通じて、既知の場所から未知の場所へと自身を開き、新たな社会的紐帯を結び直していく試行錯誤の努力へと踏み出していきます。
 
そして、こうしたみやこの〈あはれ〉を生じさせたのが、花の〈まなざし〉でした。こうした構図を精神分析的なタームで言い表せば「転移」に相当します。すなわち、ここで花の〈まなざし〉はみやこの欲望の在り処として、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが言うところの「説明しがたいが私が君の中に愛している--君以上のもの」として、みやこの前に現前しているということです。こうした「転移としての百合」こそが、まさにかつての少女小説を駆動させていた「エス」の精神性だったのではないでしょうか。
 
 

* 包摂と調和の想像力

 
こうして見ると「私に天使が舞い降りた!」という本作のタイトルは、そして「天使のまなざし」というアニメ最終話サブタイトルは、本作のテーマをこれ以上なく的確に言い表しているといえるでしょう。
 
もっとも本作は、こうしたみやこと花の「転移としての百合」のみを特権的に「正統な百合」として位置付けているわけではありません。本作では他にも、みやことひなたの姉妹愛的な百合をはじめ、ひなたの同級生、姫坂乃愛のひなたに対する擬似恋愛的な百合や、同じく同級生の小乃森夏音と種村小依の共依存的な百合のみならず、みやこの同級生、松本香子のみやこに対する偏執狂的な百合さえも、決して全否定することはなく、むしろその関係性の過程をとても丁寧に描き出しています。
 
従来「百合」というジャンルはあえて明確な定義付けがされることなく、多様多彩な想像力を取り込みながら発展してきました。それは畢竟「百合」の精神が様々な百合の在り方を「排除」することなく「包摂」するものであったからではないでしょうか。こうした意味で本作は、多様多彩な百合が持つその特異性を包摂しつつ、なおかつ社会的紐帯という一般性へと、ゆるやかな調和を果たしていく豊穣な想像力を湛えているといえるでしょう。