*「誤配」の実践拠点
東浩紀氏はその鮮烈なデビュー作「存在論的、郵便的(1998)」において、フランスの哲学者、ジャック・デリダのある時期における実験的な著作群の読解を通じて、テクスト/コミュニケーション上に「幽霊」として出現する様々な「声」の騒めきを「郵便空間」として理論化しました。
次いで氏の代名詞的著作である「動物化するポストモダン(2001)」では、二次創作を愛好するオタクの消費行動分析を通じて「データベース」と「シュミラークル」からなるポストモダンの二層構造が考察されました。
そしてゼロ年代における氏の総決算的著作となった「一般意志2.0(2011)」では、18世紀の社会思想家、ジャン・ジャック・ルソーが提示した「一般意志」を参照点として、情報技術で可視化された大衆の欲望と専門家の熟議が「一般意志2.0」というインターフェイス上でせめぎ合う新しい民主主義のかたちが構想されました。
フランス現代思想にサブカルチャー批評に公共哲学。一見バラバラな事象を扱っているように思えるこれらの著作は「コミュニケーションの失敗=誤配」という東氏独自の問題意識によって貫かれています。東氏の哲学は一貫して「誤配」を肯定する哲学です。そして、こうした氏の哲学の実践拠点となったのが、2010年に氏が創業した「ゲンロン」という会社ということになります。
* 動員と分断の時代
「ゼロ年代」という時代はインターネットこそが新しい民主主義のかたちを創出するという理想が素朴に信じられた時代でした。そしてソーシャルメディアの出現により、遂にインターネットが世界を変えるという夢が現実味を帯びたように思われました。 東氏の「一般意志2.0」もこうした時代の空気感の中で書かれた本でした。
確かにSNSは民主主義の風景を確実に変えました。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たしました。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動もSNS抜きには語れません。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災と福島第一原発事故を契機として急速に普及し、2010年代中盤には「SEALDs」のような新しいデモの形を生み出しました。このようにSNSは人々を「動員」する原動力となりました。
しかしSNSがもたらした負の効果も無視できません。2016年のイギリスにおける国民投票によるEU離脱、2017年のアメリカにおけるドナルド・トランプ政権誕生といった出来事に象徴されるように、SNSは人々を「分断」する原動力にもなります。
こうした意味で2010年代とはSNSによる「動員と分断の時代」と言えます。「一般意志2.0」の時点での東氏はSNSによる「誤配」の加速を期待していましたが、現実においてSNSは世界を容易に友と敵に切り分けて、むしろ「誤配」を排除するメディアとなってしまいました。
*「観客=誤配の主体」の創出
こうした時代においてゲンロンはSNSの生み出す負の効果に抗う「別の可能性」に賭け金を置きます。その「別の可能性」とは本書の副題である「『知の観客』をつくる」ということです。
現代においてはファクトとエヴィデンスに基づいて「正解」を提示するスマートなコミュニケーションが持て囃される風潮が加速しています。けれども本当に意味での創造性は一見、無駄としか思えない「コミュニケーションの失敗=誤配」の中に宿る、と氏はいいます。こうした「誤配」を愛でる主体を創出するということ。それが「『知の観客』をつくる」ということです。
こうした「観客」は「消費者」でも「信者」でもありません。この点、貨幣と商品の等価交換の論理だけで動くのが「消費者」であり、等価交換とは全く別の論理で動くのが「信者」です。これに対して、等価交換の論理で動きつつもその外部にある「剰余=誤配」を愛でる主体が「観客」ということになります。
ゆえにゲンロンはまずは等価交換=ビジネスであることに拘ると氏は言います。ゲンロンはあくまで「商品」を売り、そこで等価交換が成立している限りで「観客」はその商品を買う。
けれどもゲンロンの「商品」には等価交換を意図的に失敗させる「剰余=誤配」を忍び込ませている。この「剰余=誤配」こそが「観客」の「予測=欲望」を変形させ、新たな創造性の回路を開く事になるということです。
*「放漫経営」から「意識改革」へ
もっともゲンロンという会社が当初からこういう価値を掲げていたわけではありません。むしろこうした価値は、この悪戦苦闘の10年の中で見出されたものでした。
ゲンロン(創業時名称:合同会社コンテクチュアズ)は2010年4月に創業されました。そして同年12月に創刊された「思想地図β vol1」は人文系雑誌としては異例の3万部の大ヒットを成し遂げます。
一見、順風満帆なスタートと思いきやその直後、当時の代表による預金使い込み事件が発覚。やむなく東氏が代表に就任するも氏は会社経営においては全くの素人で「売上」と「利益」の区別さえよくわかっておらず、以降のゲンロンは「放漫経営」に突入します。
こうした様々な失敗を経て、一から会社を立て直すべく、領収書の打ち込みや紙ベースのファイル作成といった地道な事務作業を行う中で、氏の中に「意識改革」が生じ「経営の身体」が起動します。
当初の氏は、ゲンロンという組織においてはコンテンツを生み出すクリエイターこそが主であり、事務などは所詮外注で賄える従に過ぎないと考えていました。そして会社経営に必要な作業は全てオンラインで完結し、オフラインにおける物理的環境など不要であるとも考えていました。
けれども様々な失敗を繰り返す中で、氏は会社経営の本体とは、むしろ事務とオフラインにあるという認識に至ります。こうした経験から氏は「なにか新しいことを実現するには、いっけん本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかりを追求するとむしろ新しいことは実現できなくなる」という逆説があると言います。
* 苦境を救った「誤配」
そんな中、放漫経営の産物の一つであった「ゲンロンカフェ」でのニコ生配信や、たまたま始めた「ゲンロンスクール」が思わぬ好評を呼びます。ゲンロンはもともと「若手論客が集まる出版社」として構想されました。ところがいつの間にか肝心の「若手論客」はいなくなり出版事業も暗礁に乗り上げた。そんな中で、ゲンロンの苦境を救ったのがカフェとスクールという二つの「誤配」から生まれた事業でした。こうした「誤配」に満ちたゲンロンの事業から氏が得た洞察を一つの哲学として練り上げて提示したのが「ゲンロン0--観光客の哲学」です。
同書は3万部の大ヒットとなりました。しかしこの成功でまたも氏は足元を掬われてしまう。経営状況が良くなったことで再び巨大計画を夢想し始めて、やがてまた再び杜撰な経理が発覚する。経理担当社員とのトラブルが発端となり次々に社員やアルバイトが辞めていく中で氏は精神的に病んでしまい、2018年暮れのゲンロン解散騒動、代表交代劇に至ります。
*「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」
けれども、この代表交代劇が図らずも功を奏します。様々な社内改革の結果、ゲンロンにこれまでにない多様性が持ち込まれ、その支持層を拡大させることになりました。
そして、こうしたお家騒動を振り返り、氏はゲンロンの創業以来ずっと「ぼくみたいなやつ」を仲間にしたいといういわゆる「ホモソーシャル的」な無意識の欲望に取り憑かれていたことに気付きます。そして現実にゲンロンの苦境を救ったのは、現代表である上田洋子氏や、現時点で唯一の新卒社員である徳久倫康氏を始めとする「ぼくみたいじゃないやつ」でした。
「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」。ここにもまたクリエイターと事務、オンラインとオフライン同様の「本質的なこと/本質的でないこと」の逆説を見ることができるでしょう。
*「誤配」に満ちた「私小説」
本書巻末付録のゲンロン社史に記された事実だけを眺めると、東氏とゲンロンの歩んだこの10年は薄氷の綱渡りの連続にしか見えないでしょう。そしておそらく現在も、氏とゲンロンは「誤配」の最大の敵とも言える新型コロナウィルスの直撃に見舞われ経営的には決して安泰とは言えないはずです。
しかしそれでも本書における東氏の語り口はそんな悲壮さを微塵も感じさせず、むしろユーモラスであり、なおかつ謙虚です。そこにはこのコロナ禍すらも「誤配」として受け止めている「余裕」さえも感じさせます。
本書は東氏自身が言うように、ある意味で「私小説」のような観を呈しています。けれども本書は「いわゆる私小説」にありがちな自宅の庭になんとかの花が咲いたとか、そういった何気ない平凡な「日常」が淡々と記述されていく類の本ではありません。むしろ恐ろしいまでにアクロバティックかつジェットコースターな「日常」が哲学的洞察を交えて語られる本です。
本書はこれまで哲学に親しんでこなかった読者諸兄氏でも一気に読めてしまう本であると同時に、気がついたらなぜか哲学の入り口に立たされているという不思議な読書経験をもたらす本だと思います。そういった意味で本書もまた「誤配」に満ちた一冊と言えるでしょう。