かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

少女の〈あはれ〉と天使の〈まなざし〉--私に天使が舞い降りた!1〜8(椋木ななつ)

 

気ままな天使たち/ハッピー・ハッピー・フレンズ(通常盤)
 

 

 
 

*「エス」から「おねロリ」へ

 
近代教育システムの確立に伴う「少女期」の出現や、1899年に公布された高等女学校令などを契機して、明治時代後期においては少女雑誌の創刊が相次ぎ、ここに「少女小説」というジャンルが誕生しました。「少女世界」「少女画報」といった少女雑誌には多くの著名な作家が文章や絵画を寄せ、少女小説は従来の家父長制社会における「家の娘」という呪縛から少女を解放して、近代的自意識の発露へと導く役割を果たしました。
 
初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性の一つとして知られるのは、少女同士の友愛や関係性を魅力的に描いている点にあります。そしてその背景には「エス」と呼ばれた当時の女学校文化があります。
 
エス」とはsisterhoodの頭文字Sからきた隠語で、女学校の上級生と下級生、あるいは同級生同士など、少女同士の擬似姉妹的な関係性をいい、その特徴は高尚かつ清純な精神性の称揚にあります。これは当時「変態性欲」として問題視されていた同性愛との差異化を図る意味合いと、家父長制社会が押し付ける「良妻賢母」という模範的女性像に抗う少女同士が結び合うというカウンターカルチャーとしての意味合いを持っていました。
 
戦後、男女の自由恋愛が普及するにつれて文化としての「エス」は衰退していきますが、その精神性は80年代において少女小説復権を掲げた氷室冴子作品を経て、その後「百合」というジャンルに引き継がれ、ゼロ年代以降は「マリア様がみてる今野緒雪)」や「ゆるゆり(なもり)」などの成功を受けて、現代サブカルチャー文化圏を規定するコードの一つとして定着するに至ります。
 
こうした中、かつて「エス」が宿していた「擬似姉妹的な関係性」をラディカルに強調した百合のサブジャンルが登場しました。これが「おねロリ」と呼ばれるジャンルです。
 
「おねロリ」が一つのジャンルとして認識されるようになったのはだいたい2017年頃だとされていますが、その前年11月から「ゆるゆり」と同じ「百合姫」で連載が開始され、2019年にはアニメ化を果たし、このジャンルの認知度を一気に引き上げた作品が本作「私に天使が舞い降りた!」です。
 
 

*「もにょ」っとした気持ち

 
本作の主人公である女子大生、星野みやこは小学5年生の妹、星野ひなたがある日連れて来た同級生である白咲花にかつてない不思議な気持ちを覚え、みやこは花とどうにかして仲良くなろうと努力するも、重度の人見知りが災いして挙動不審な言動を繰り返してしまう。
 
花にとってみやこの第一印象は最悪極まりないものでしたが、美味しいお菓子に釣られて流されるままに、花はみやこのコスプレ趣味に付き合わされることになります。自作衣装を着せた花を気持ち悪いくらいに興奮しながらカメラに納めていくみやこですが、あれほど人見知りな自身がなぜ花だけとは仲良くなりたいのかを自問した時、彼女は自分の中に「もにょ」っとした気持ちを発見することになります。
 
この「もにょ」っとした気持ちとは一体なんなのでしょうか?実は先に述べた少女小説の原点である「花物語」の中にも似たような構造を持ったお話があります。「山梔(くちなし)の花」というお話です。
 
 

*「花物語」における〈あはれ〉

 
とある地方の温泉地を病気療養のため訪れた年若き新進気鋭の女流彫刻家である滋子は、湯煙の中に一人の不思議な美しさを持つ物言わぬ少女と邂逅する。その少女の姿を人魚と重ね合わせた滋子は強いインスピレーションに打たれます。
 
この瞬間を同作は〈あはれ〉という言葉で表現しています。そして生来、口が聞けない少女の境遇に思いを寄せた滋子は、何かに取り憑かれたように一心不乱に少女をモチーフにした人魚像を彫り上げ、この畢竟とも言える作品を自らの名を告げることなく少女に進呈します。そしてこの物語は次のように結ばれます。
 
「審しんで、母なる人がその薄絹の覆いの布を颯と取り除くと、あっ、そこには、美しい大理石に刻まれた、生けるが如き人魚の像!左右に髪を分けて肩に流して、水より半身を浮かばせて、やさしき瞳に言葉に語れぬ悩みをこめた、その気高く寂しい顔よ、それは誰が俤に生き写しであったろう?あはれ。」
 
花物語より)
 
最後でまたしても〈あはれ〉という言葉が反復されます。人魚像を制作する滋子の情熱を駆り立てたのがまさにこの〈あはれ〉という感情でした。
 
なんとなく美談風に纏められた「山梔の花」から、一見して完全に遠い位置にあるみやこのコスプレ撮影ですが、両者は自らのうちに生じた内的事象を、どうにか美のかたちとして外的事象へ結晶させようと涙ぐましい努力を重ねる点で、その構造を共通にしていると言えるでしょう。すなわち、みやこを駆り立てる「もにょ」っとした感情の正体も、まさしくこの〈あはれ〉なのではないでしょうか。
 
 

*「不思議の国のアリス」と〈まなざし〉

 
そして同時に、花のコスプレ撮影に勤しむみやこの姿は「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロルの姿を想起させます。キャロルは童話作家としての顔の他に、むしろこちらが本業の数学者として顔、そして夥しい少女の写真を撮りまくったアマチュア写真家としてしての顔が知られています。また、キャロルとみやこはコスプレ趣味があることや、他人とのコミュニケーションが極端に苦手だった点でも共通しています。
 
この点、キャロルの少女写真の特徴として、しばしば少女の目線が撮影者であるキャロルへまっすぐに向けられている点から、キャロルにとっての少女が単なる撮影対象の関係以上の関係に見えることが指摘されています。こうした意味で、極めて印象的な目線をキャロルに向ける少女が、他ならない「アリス」のモデルとされる少女、アリス・プレザンス・リデルです。
 
童話のアリスといえばジョン・テニエル原案のふんわり金髪なロングヘア少女を想起しますが、実在のアリスの方は直毛黒髪なおかっぱ少女です。そして多くの写真においてアリスはまったく愛想がなく、むしろ不機嫌そうな表情でキャロルを睥睨しています。この辺り、みやこに写真を撮られる時の花の表情もまさにそんな感じです。
 
実際のところ、キャロルとアリスがどのような関係にあったのかはよくわかっていません。ただ「不思議の国のアリス」出版から15年後の1880年、アリスが他の男と結婚することになった年、キャロルはパッタリと写真をやめたそうです。
 
少なくともキャロルにとってアリスが特別な存在だったことは間違い無いでしょう。こうしてキャロルはアリスの〈まなざし〉に導かれるように、かの世界的名作を生み出したとも言えるでしょう。そしてそのスケールの違いはあれ、みやこも花の〈まなざし〉に導かれるように、少しずつですがその生き方を変容させていくことになります。
 
 

* 転移としての百合

 
従来のみやこの人見知りぶりは尋常ではなく、初対面の人とは目も合わせられない、近所のよく知っているおばさんとすらまともに会話ができない、買い物は喋らずに済ますことができる店じゃないと無理、人混みではマスクとサングラスが必須という有様です。
 
また、みやこは極度のネガティブ思考の持ち主であり、ひなたのクラスで「理想の姉」にでっち上げられているのを聞いた瞬間、すぐさま実際の自分が子供たちから幻滅されてボロカスに嘲笑される姿を想像して憂鬱になる始末です。
 
この点、社交不安障害(SAD:Social Anxiety Disorder)の特徴として、他人からネガティブな評価への過剰な恐怖心があります。SADの人の生活全般は「いかにして他人のネガティブな評価を避けるか」というテーマを中心に回っているとすら言えます。まさに、みやこもこれに近い状態と言えます。そしてこれは換言すれば「他者の欲望」を基準にして生きている状態です。
 
けれど、こうしたみやこの「欲望のあり方」を変える契機となったのが先にみた「もにょ」っとした〈あはれ〉でした。ここでみやこは自らの中に生じたこれまでにない感情の正体を掴みたいという「他者の欲望」ではない自らの欲望を懐きます。
 
こうして花に出会って以降、みやこは不器用ながらも確実に一歩ずつ、周囲の他者とのコミュニケーションを通じて、既知の場所から未知の場所へと自身を開き、新たな社会的紐帯を結び直していく試行錯誤の努力へと踏み出していきます。
 
そして、こうしたみやこの〈あはれ〉を生じさせたのが、花の〈まなざし〉でした。こうした構図を精神分析的なタームで言い表せば「転移」に相当します。すなわち、ここで花の〈まなざし〉はみやこの欲望の在り処として、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが言うところの「説明しがたいが私が君の中に愛している--君以上のもの」として、みやこの前に現前しているということです。こうした「転移としての百合」こそが、まさにかつての少女小説を駆動させていた「エス」の精神性だったのではないでしょうか。
 
 

* 包摂と調和の想像力

 
こうして見ると「私に天使が舞い降りた!」という本作のタイトルは、そして「天使のまなざし」というアニメ最終話サブタイトルは、本作のテーマをこれ以上なく的確に言い表しているといえるでしょう。
 
もっとも本作は、こうしたみやこと花の「転移としての百合」のみを特権的に「正統な百合」として位置付けているわけではありません。本作では他にも、みやことひなたの姉妹愛的な百合をはじめ、ひなたの同級生、姫坂乃愛のひなたに対する擬似恋愛的な百合や、同じく同級生の小乃森夏音と種村小依の共依存的な百合のみならず、みやこの同級生、松本香子のみやこに対する偏執狂的な百合さえも、決して全否定することはなく、むしろその関係性の過程をとても丁寧に描き出しています。
 
従来「百合」というジャンルはあえて明確な定義付けがされることなく、多様多彩な想像力を取り込みながら発展してきました。それは畢竟「百合」の精神が様々な百合の在り方を「排除」することなく「包摂」するものであったからではないでしょうか。こうした意味で本作は、多様多彩な百合が持つその特異性を包摂しつつ、なおかつ社会的紐帯という一般性へと、ゆるやかな調和を果たしていく豊穣な想像力を湛えているといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 

存在の問いと生の在り処--「ハイデガー『存在と時間』入門(轟孝夫)」

 

 

 
 

* 未完の欠陥商品

 
そのいかにも哲学書然とした荘厳なタイトルに重厚な記述。「20世紀最大の哲学書」として今も多くの人を魅了するマルティン・ハイデガーの主著「存在と時間」。同書は出版されるや否やドイツ内外で大きな反響を呼び、公刊後90年以上経った現在でも圧倒的な存在感を持って思想界に君臨し、ある人は同書を実存主義聖典と崇拝し、また、ある人は同書を禅の道に重ね合わせたりもします。
 
しかしこの本は、深く練成された哲学的思索の末に満を持して書かれた畢竟の書とかではなく、むしろバタバタと執筆された本であり、しかもその執筆動機はハイデガーの正教授就任という極めて世俗的な理由によるものでした。
 
1925年、マールブルク大学哲学部は当時、気鋭の若手哲学者として知る人ぞ知るところとなっていたハイデガーを正教授ポストの第一位として独文部省に提案するも、文部省はハイデガーの業績不足を理由に提案を却下します。そこでとにかく何か業績らしきものを出すようにと大学から急かされたハイデガーが、慌てて執筆し始めたのがこの「存在と時間」です。
 
執筆と印刷と校正が慌ただしく五月雨式で進んでいく中、何とかハイデガーは1926年6月にその一部のゲラ刷りを文部省に提出します。ところがその後、ハイデガーは何を思ったのか7月を過ぎた頃に突然、輪転機を止めさせて原稿の「書き換え」を始めます。その結果「存在と時間」の出版計画は急遽、上下巻の二分冊へと変更されることになります。
 
そして1927年4月、どうにか上巻の公刊にこぎつけるも、その後、自らの構想の破綻に気づいたハイデガーはついに下巻の刊行を断念します。つまり、いま我々が有り難がっている「存在と時間」という書物はあくまで「存在と時間(上)」でしかなく、しかもその全体の構想が破綻している本ということになります。すなわち、同書はこう言っては何ですが「未完の欠陥商品」であるとも言えます。
 
 

*「書かれなかった部分」から「存在と時間」を読み解く

 
このように「存在と時間」の成立過程は、傍目で見ると行き当たりばったりのような感すらあります。そして同書が未完に終わった主たる原因は執筆途中で生じたハイデガーの「書き換え」によるものだとされます。果たして「存在と時間」を書き進める中でハイデガーの中でどのような構想の変化が生じ、そのどこに破綻があったのでしょうか?
 
本書はこうした「書かれなかった部分」から「存在と時間」を読み解くハイデガー哲学入門書です。まずその第一章で「存在と時間」の成立過程が詳らかにされ、続く第二章、第三章、第四章では「存在と時間」の既刊部分の内容が検討され、これを受けて第五章では「存在と時間」の未刊部分の謎に迫ります。
 
この点、本書が一貫してこだわるキーワードが、まさにハイデガーの思索をハイデガーの思索たらしめる根本問題、すなわち「存在の意味への問い」です。つまり本書はハイデガーが遺した謎を、他でもないハイデガーに即して究明しようとする試みであるということです。
 
 

* 存在の意味への問い

 
ハイデガーは「存在と時間」とは「存在の意味への問い」を明らかにする書であると規定します。そしてハイデガーによれば、この「存在の意味への問い」とは、これまで二千数百年ものあいだ、西洋哲学の歴史の中で全く問われたことのなかった問いであるといいます。
 
もちろん、これまでの西洋哲学においてもアリストテレスの第一哲学以降、文字通りの「存在論」というジャンルが連綿と形成されてきました。けれどもハイデガーに言わせれば、これらが問うてきた「存在」とは「真の存在」ではなく、むしろ西洋哲学の歴史とは「存在忘却」の歴史ということになります。
 
この点、伝統的な存在論において「存在」とは「SはPである=本質存在(デアル)」と「Sがある=事実存在(ガアル)」という二つの意味に即して分析されてきました。けれども「本質存在(デアル)」にせよ「事実存在(ガアル)」にせよ、まず何らかの「存在者」が実体として先行して、その後に「本質存在(デアル)」や「事実存在(ガアル)」が了解されることになります。
 
これに対して、ハイデガーは、その「存在者」を実体としてではなく、その活動空間を構成するネットワーク全体のなかで了解します。どういうことでしょうか?
 
 

* 存在のネットワーク

 
本書が例示する「鳥が飛んでいる」というケースで考えてみましょう。ここで「鳥」は「存在者」であり、そして「飛んでいる」という「鳥のあり方」が「存在」ということになります。
 
この点、我々が「鳥」という「存在者」を思い浮かべるとき、常にそこには「鳥のあり方」という「存在」も同時を了解していることになります。このような了解によって「存在者」は「存在」するものとして現象することが可能になるます。
 
そして鳥が「飛んでいる」とはそれだけで独立した振る舞いではなく「餌を啄んでいる」「鳴いている」といった他の振る舞いとも結びついており、我々は鳥が飛んでいるのを見るときには、それと連関した他の振る舞いも一緒に理解しているわけです。さらにこの「飛んでいる」とは「森の中を飛んでいる」とか「海面を飛んでいる」など必ずその振る舞いは他の存在者のただなかにおいて起こっています。
 
つまり「鳥が飛んでいる」というあり方は、鳥のその他のあり方や他の存在者といった「存在のネットワーク」の中に関係づけられることによって、初めて了解されることになります。これがハイデガー存在論です。
 
 

* 存在の意味とは時間である

 
伝統的存在論ハイデガー存在論。このような両者の「存在の意味」の違いは「時間」をどのように把握するかに起因する、とハイデガーはいいます。「存在の意味とは時間である」。これが「存在と時間」における根本テーゼです。
 
この点、伝統的存在論における存在了解は「本質存在(デアル)」にせよ「事実存在(ガアル)」にせよ、存在者が今、目の前にありありとあるという「現前性」を意味しており、これは「現在」という時間によって規定されているということになります。これに対してハイデガー存在論における存在了解は存在者をその後景にある「存在のネットワーク」込みで了解する事を意味しており、これは「現在」のみならず「過去」や「将来」とも関わっているということです。
 
こうした洞察に基づいてハイデガーは伝統的存在論の限界を照らし出します。伝統的存在論は存在をもっぱら現前性としてのみ理解していますが、存在の根源的な現象には、単にある存在者が現前しているだけではなく、周囲の存在者との関係の中でその存在者が取りうる様々な可能的様態も含まれるということです。
 
 

*「未完」の原因と「転回」の真実

 
存在と時間」における「存在の意味への問い」という問題設定は同書を執筆していく中で生成されてきたものでした。そして、これを当初の問題設定である我々人間の「現存在」としてのあり方を問う、人間学的な実存論的分析に無理やり接続させて、どうにか一つにまとめようとしたけれども、いよいよ「存在の意味への問い」を深めていくうちに、まさにその実存論的分析こそが「存在の意味」の正しい認識を阻害していることが判明してしまいます。こうしてハイデガーは下巻の刊行が不可能であることを悟るわけです。
 
そういうわけで実は「存在と時間」という本は「存在の意味への問い」の解明を謳いながら、その解明の準備部分の時点で挫折してしまい、本来、解明するはずだった主題を解明する前に終わっているということです。
 
もちろんハイデガーは「存在の問い」それ自体を放棄したわけではなく「存在と時間」の挫折以後も「存在の真理を単純にいう」という試みが追求されていきます。ところが多くの人は「存在と時間」における実存論的分析をハイデガー哲学の中心的テーマそのものと見做してしまったため、こうした後期ハイデガーの試みは、何かもうわけのわからない神秘主義的言説にしか聞こえず、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきました。
 
けれども「書かれなかった部分」という観点から「存在と時間」を照らし出す時、ハイデガーは決して変節したのではなく、むしろそこには「存在者」と「現存在」の関係を統合的に把握しようとする一貫した問題意識を見出す事ができるでしょう。
 

 

*「あらしめる」ということ

 
「存在の問い」とは、我々の生の核心へと迫る問いでもあります。通常、人は周囲の存在者を自分の生にとって有用なのかそうでないかという位相だけで捉えてしまいます。けれども、これはハイデガーに言わせれば「現存在の非本来的な在り方」に他ならないわけです。こうした「存在忘却」は「死の忘却」を必ず伴っているからです。
 
当たり前ですが人はいつか死ぬ。けれど通常、多くの人にとって死は恐ろしいものです。だからからなるべく「死の可能性」を忘れていたい。けれどもハイデガーのいう「現存在の本来的な在り方」は「死の可能性」から目を背けない態度です。これは無闇に死に急いだり、ましてや死を賛美するとか、そういう態度とは全く違います。ここで問われているのは、常に「死の可能性」があるという現実を現実として受け止める静けさに他なりません。
 
こうした態度をハイデガーは「先駆的覚悟」といいます。すなわち「死の可能性」へと先駆するということです。そして「先駆的覚悟」により我々は「良心の呼び声」に従って生きることができる。こうした時、我々はあらゆる存在者をまさにそれ固有のあり方において「あらしめる」ことができるとハイデガーは言います。それは「死の可能性」を受け入れる事によって、むしろ「生の可能性」を拡大させる事ができるということです。
 
そして今まさしく、ハイデガー哲学の真価が問われる時代を我々は生きています。新型コロナ・ウィルスが全世界を席巻し、日常の至る所に「死の可能性」が転がっているこの現実に、否応なくとも我々は向き合わざるを得ない。こんな不安に満ちた時代を生きる上で、本書はきっと様々な示唆と、何かしらの光明を与えてくれる一冊となるでしょう。
 
 
 
 
 
 

「鬼」が跋扈する時代の虚構と現実--鬼滅の刃

 

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* 不安に満ちた時代の〈おはなし〉

 
臨床心理学者、河合隼雄氏は折に触れて、現代における〈おはなし〉の重要性を強調されていました。ここでいう〈おはなし〉とは人間の生死を基礎付ける物語のことを言います。
 
「聖書」や「古事記」などの古代の神話は、当時の人々が自分たちが生きるこの不可思議で理不尽な世界を了解するために紡ぎ出した〈おはなし〉でしたが、現代においても相変わらず我々は「なんでこうなった」とか「いつかこうなりたい」などという〈おはなし〉を依然として必要としています。この点、心理療法とはクライエントが自らの内に〈おはなし〉を見出して、その〈おはなし〉を生きていく過程を支援する営みであると、河合氏はいいます。
 
そして今、我々は新型コロナウィルスが席巻するこの不安に満ちた時代を生きるための〈おはなし〉を必要としているわけです。こうした時代の要請に対して、奇しくも見事な共鳴を果たしたのが「鬼滅の刃」という〈おはなし〉でした。
 
 

* 今さら聞けない「鬼滅」の基礎知識

 
もはや周知のことですが「劇場版鬼滅の刃・無限列車編」は11月末の現在、公開から僅か39日で興行収入250億円を越え「君の名は。」を抜き去って、ついにあの「千と千尋の神隠し」が君臨する日本映画の頂点に圧倒的速度で迫りつつあります。我々は今まさに映画史が塗り替わる瞬間に立ち会おうとしているわけです。
 
ここでやはり半ば「社会常識」と化してしまった本作の基礎知識を改めて整理してみます。まず本作のあらすじはこうです。時は大正。世の中では夜になると鬼が人を襲うという事件が起こっていた。主人公、竈門炭治郎は炭焼きをして家族の暮らしを支えていたが、ある日いつものように町に炭を売りに行った炭治郎が家に戻ると、一家は鬼に惨殺されており、唯一生き残った妹、竈門禰󠄀豆子は鬼と化していた。
 
禰󠄀豆子に襲われかけた炭治郎を救った鬼狩り、冨岡義勇は禰󠄀豆子を退治しようとするも、禰󠄀豆子は普通の鬼と何かが違う事に気づき、炭次郎に鬼殺隊へ入ることを勧める。「育手」である鱗滝左近次の下で2年間もの厳しい修行を積んだ炭次郎は見事、最終選別を突破して「鬼殺隊」に入隊する。こうして炭次郎は禰豆子を人間に戻す方法を探すため、同期の我妻善逸、嘴平伊之助とともに鬼狩りとして鬼との戦いに明け暮れる。
 
本作の人気に火がついたのは2019年4月のアニメ放送がきっかけです。本作単行本はアニメ放送以降、飛ぶように売れまくり、4月の時点で350万部だった発行部数は、11月には2500万部、2020年1月には4000万部、5月には6000万部、劇場版が公開された10月には史上最速で1億部を突破しました。
 
 

* 途中から始まり途中で終わる映画

 
この点、本作劇場版は原作漫画の7巻から8巻の部分に相当します。そして原作漫画は来月発売される23巻をもって完結します。つまり本作劇場版は「途中から始まり途中で終わる」という極めて「中途半端」な映画です。しかもさらに恐るべき事に、この映画はTVアニメの続きから普通に始まり、キャラクターや世界観の説明などの原作未読者、アニメ未視聴者向けの配慮が一切ない。そんな「一見お断り」な映画が、なぜこうまで文字通りの老若男女に至る幅広い層を魅了するのでしょうか?
 
確かに本作原作が週刊少年ジャンプの看板を張るに相応しい作品であることは疑いはないでしょう。ジャンプ伝統の「友情・努力・勝利」を体現したわかりやすい王道展開、シンプルでありながらも力強さを持った台詞回し、格好良さと可愛らしさの優れたバランス感覚、シリアスとギャグの絶妙な切り替え等々、その魅力はいくらでも挙げることができる。またアニメの製作を担当したufotableも緻密かつ華のある作画でアニメファンから高く評価されているスタジオです。本作には「空の境界」「Fate/stay night」といったTYPE-MOON作品で培ってきた長年のノウハウと美学が惜しみなく投入されています。
 
けれども、多くの評論家が異口同音に指摘するように、こういった作品の構成要素だけでは、さすがにここまでの異次元レベルの大ヒットは説明不可能です。こればかりは時代の気分と本作の物語が奇しくも共時的な布置を描き出した結果としか言いようがありません。
 
ここに来てますます猛威を振るうコロナウィルスへの対処策が目下、マスク、手洗い、ソーシャル・ディスタンスくらいしかないというこの現実の中で、驚異的な身体能力と再生能力を持つ鬼に対して、日輪刀と呼吸法だけで立ち向かう鬼殺隊の姿に感動し、勇気付けられた人は決して少なくはないと思います。
 
もちろん、このような巡り合わせの天運を呼び込んだのが、本作の持つ特異性にあることは言うまでもありません。そして、その特異性とは本作を支える「虚構」と「現実」に関する想像力に求めることができるのではないでしょうか。以下では、そのあたりをもう少し考えて書いてみたいと思います。
 
 

* 王道回帰と現代的批判力

 
まず本作はジャンプ作品の系譜的には「NARUTO」「BLEACH」「銀魂」といった「和風剣戟奇譚」の後継的な立ち位置になるかと思いますが、本作の随所に感じるのはむしろ90年代ジャンプ作品の影響です。
 
具体例を思いつくままにあげれば、炭次郎の熱さや実直さは「聖闘士星矢」の星矢や「ダイの大冒険」のダイの面影があり、敵である鬼の不気味さや儚さは「幽☆遊☆白書」の妖怪を彷彿させます。また「柱」や「十二鬼月」といった強キャラ集団はやはり「聖闘士星矢」の黄金聖闘士だったり、あるいは「るろうに剣心」の十本刀や「封神演義」の十天君などを想起させます。あと本作のギャグセンスはどことなく「セクシーコマンドー外伝・すごいよ‼︎マサルさん」のナンセンスに通じるものがあります。
 
こうした様々な「90年代感」が流れ込み、渾然一体となって蠢いているような空気感を本作には感じるところがあります。本作は親子でファンになるケースが多いと側聞しますが、これも本作の持つ「90年代感」と無関係ではないでしょう。おそらく本作に親世代の方は懐かしみを覚え、子供世代の方は新しさを感じたのではなかろうかと思われます。
 
そして同時に本作は「魔法少女まどか☆マギカ」や「進撃の巨人」と同様「外部からの脅威」を描く「絶望系ファンタジー」の構造を持っています。
 
もっとも「まどか」における「魔女」や「進撃」における「巨人」の正体は当初のうちは不明であり「進撃」の主人公、エレン・イェーガーの「駆逐してやる!」という有名な台詞が象徴するように、ここで作動するのはもっぱら「排除」の論理でした。これに対して、本作における「鬼」の正体が人間である事は当初から自明であり、むしろ炭治郎は禰󠄀豆子を始めとする鬼達を人間に戻すために奮闘しています。すなわち、ここでは「排除」に対して「包摂」の視点が導入されているという事です。
 
グローバル化の反作用としてのテロリズムやプレグジット、様々なクラスターや格差による社会の寸断、見たい現実と信じたい物語の中に引きこもるポスト・トゥルース的欲望など、2010年代はまさしく「排除の時代」でした。この点「魔法少女まどか☆マギカ・叛逆の物語」「この世界の片隅に」「天気の子」など、2010年代を象徴するアニメーション作品の多くは程度の差はあれ、こうした「排除の時代」に対する批判力を宿していました。そして「排除」に対して「包摂」の視点を導入する本作もまた、この系譜に連なると言えるでしょう。そういった意味で本作は少年漫画の王道に回帰しながらも現代的な批判力を備えた作品と言えます。
 
 

* ソーシャルスキル入門としての「鬼滅」

 
また一方で本作は、その設定や描写において、現代的なソーシャルスキルが導入されている点も大きな特徴でしょう。
 
例えば鬼殺隊の操身術である「全集中の呼吸」は、近年、精神医療からビジネスシーンに至る様々な分野で注目を集める「マインドフルネス」を容易に連想できます。マインドフルネスにおいては呼吸に意識を集中する「集中瞑想」や身体反応に気づく「洞察瞑想」といった訓練により脳の機能を活性化させて、注意制御能力、身体知覚能力、情動調整能力などのメンタルスキルを向上させていきます。本作でも炭次郎が修行の一環として瞑想を行うシーンが描かれています。
 
劇場版において一騎当千の圧倒的存在感を見せつけ、いまや時代のカリスマとなった「煉獄さん」こと炎柱、煉獄杏寿郎の名言の一つである「呼吸を極めれば様々なことができるようになる。なんでもできるわけではないが、昨日の自分より確実に強い自分になれる」という言葉は本当です。全集中の呼吸が鬼に立ち向かうための有用な技術であると同様、マインドフルネスもコロナ禍による不安のなかでメンタルを壊さないための有用な技術でしょう。
 
また炭次郎の振る舞いはアドラー心理学における「勇気づけ」そのものです。ジークムント・フロイトカール・グスタフユングとともに「心理学の三巨頭」と称されるアルフレッド・アドラーは、神経症を形成する歪んだライフスタイルとしての「劣等コンプレックス」から健全なライフスタイルである「共同体感覚」へ変容させていくための実践として「勇気づけ」の技法を提唱しました。
 
この点、本作はまさに「勇気づけ」の実践例集のようです。炭治郎は様々な場面で、自らを勇気づけ、仲間を勇気づけ、さらには敵である鬼さえも勇気づけます。こうした炭治郎の振る舞いは少年漫画の本来の読者層である子ども達に確実に良い意味での影響を与えているはずです。また炭次郎のみならず、鬼殺隊を統括する「お館様」こと産屋敷耀哉も「勇気づけ」に基づいたマネジメントを実践する組織のリーダー像を提示しているといえます。
 
マインドフルネスに勇気づけ。おそらくこうした本作の「実用的」「教育的」「自己啓発的」な側面が普段漫画やアニメを嗜まない層にまで訴求する一つの要因になったのではないでしょうか。
 
 

*「拡張現実」という想像力

 
こうしてみると、本作の特異性は少年漫画の王道や現代アニメーションの批判力といった「虚構」を極めた想像力と、ソーシャルスキルによってこの「現実」を多重化させる想像力の上に成り立っているように思えます。この点、2010年代を代表する評論家の一人である宇野常寛氏は、こうした「虚構」と「現実」を統合的に把握する想像力を「拡張現実」と呼んでいます。
 
「拡張現実」という想像力はいわば「他人の物語」を「自分の物語」に読み替えていく想像力です。そういった意味で、例えば二次創作やコスプレ、聖地巡礼が盛んな本作の消費傾向や、あるいは医療現場で子どもに採血や処置をするとき「全集中の呼吸だよ!」と言えばニュアンスがよく伝わるという話も拡張現実的な作用と言えるでしょう。
 
ここで「虚構」は「ここではない、どこか」を仮想する回路ではなく「いま、ここ」の「現実」へ深く潜っていく回路として機能しているということです。そしてこれはまさに河合氏がいうところの〈おはなし〉の持つ力でもあります。
 
いまや本作はコロナウィルスという「鬼」が跋扈する時代における〈おはなし=拡張現実〉として機能していると言えるでしょう。もっと率直に言えば、何かと気の滅入るこのご時世で、アニメや映画の話題で盛り上がれるのは本当に有難く、素晴らしい事だと思います。
 
 
 
 

言語からの自由と言語への自由--ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家(石川美子)

* 第一人者による伝記風入門書

 
人は言語に囚われた生き物です。我々の思考や経験、行動や習慣、あるいは趣味や嗜好の様式は、母国語という言語規則や身体的な言語感覚の他、その人が属する集団における言語運用によって統御されています。
 
こうした言語における作用の一つに「記号」があります。「記号」とはある言語共同体における「お約束」のことを言います。こうした「記号」という視点から、あらゆる文化現象を読み解いた批評家がロラン・バルトです。
 
本書はロラン・バルト研究の第一人者による伝記風入門書です。バルトはフランス現代思想における「構造主義」を代表する論客の一人としても知られています。この点、レヴィ=ストロースの人類学やジャック・ラカン精神分析学などと異なり、バルトの扱うテーマは文学、写真、広告、ファッションなど馴染み深いものばかりなので、本書はバルトの入門書と同時に、構造主義の入門書としても相応しい一冊とも言えます。
 
 

* 言語・文体・エクリチュール

 
ロラン・バルト第一次大戦中の1915年に、フランス北部の港町シェルブールで生まれました。海軍中尉であった父親はバルトが1歳にもならないうちに戦死。幼少期のバルトはフランス南西部の街バイヨンヌで母親、祖母、叔母に囲まれて過ごすことになります。とりわけ母親であるアンリエットはバルトにとって生涯を通じて大きな存在でした。
 
その後、バルトは9歳の時に母と共にパリに移住。パリでの生活は苦しいものでしたが、バルトは次第に頭角を現し、エリートとして将来を期待されます。ところがバカロレア(大学入学資格試験)の二次試験直前に肺結核を発症。20代の大半をサナトリウムで過ごす羽目になります。
 
1946年、ようやく病の癒えたバルトはパリに戻ってきました。しかしこの時すでに31歳。そろそろ真剣にこれからの身の振り方を考えねばならない時期となっていました。そんな折、バルトは友人のツテで、有力紙の文芸欄に寄稿する機会を得ます。こうして何年かにかけて同紙に執筆された論文をまとめたものがデビュー作「零度のエクリチュール(1953)」です。
 
同書においてバルトは文学において表現形式こそが作家の自由と責任と倫理を表すと主張します。この点、バルトによれば「言語」とは、その時代のあらゆる作家に共通した規則や慣習の総体であり、これに対して「文体」とは、一人の作家の身体や過去から生まれたその人固有の語り口やイメージです。
 
人はどちらも自由に選ぶことはできません。けれどもその中間にある「エクリチュール」は作家自らが責任を持って選び取ることができる表現形式や言葉づかいである、とバルトは言います。
 
例えるのなら「言語」が一般的な身体であり「文体」が属人的な身体だとすれば「エクリチュール」は身体がその都度その都度で自由にまとう衣服のようなものになります。すなわち、作家の「社会参加(アンガージュ)」とはまさにこの「エクリチュール」の選択によるものであるということです。
 
幼い時に父を亡くしたバルトは威圧的な存在や言葉を知らずに育ち、何かの意味や物語を「自然」として押し付けられることに拒否感を持っていました。「エクリチュール」とはこうした「自然」に対する嫌悪と恐れの表明でもありました。同書は大きな反響を呼び「エクリチュール」なる概念は広く受け入れられ、バルトは一躍、気鋭の批評家として注目されることになります。
 
 

* 記号学の展開

 
1954年から56年にかけて、バルトは「今月の小さな神話」という一連の短いエッセーを雑誌に連載することになります。同連載では様々な商品、広告、写真、映画、風俗といった大衆消費文化に潜む「神話」を暴き出していきます。ここでいう「神話」とは、かつてバルトが「零度のエクリチュール」において批判した「自然」としての意味や物語のことです。そしてこれらの文章をまとめて単行本化したのが「現代社会の神話(1957)」です。
 
同書には「今日における神話」という書き下ろしの論考が収録されています。ここで、バルトはフェルディナン・ド・ソシュールの構造言語学にヒントを得て「神話」を分析するための新しい理論として「記号学」を提唱します。
 
この点、ソシュール言語学において「シーニュ(記号)」とは「シニフィアン(意味するもの)」「シニフィエ(意味されるもの)」から成立しています。そしてバルトはこの三つ組の概念を用いて言語と神話の「構造」を明らかにしました。こうしてバルトはフランス思想界における「構造主義」を体現する論客の一人として位置づけられます。
 
 
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(本書より引用--Kindle位置:2482)
 
 
その後、バルトは自らの「記号学」をより洗練させていきます。その一つの到達点が、ファションに関する言語(モード雑誌)の分析を行った「モードの体系(1967)」です。ここで「自然/神話」は「コノテーション(共示)」という概念で示されます。こうしたバルトの一連の仕事は後にジャン・ボードリヤールポストモダン思想家の消費社会分析に引き継がれていきました。
 
 

* 作者の死と読者の誕生

 
「モードの体系」刊行の数ヶ月後、バルトは「作者の死」という論考を雑誌に発表します。この論考は発表当時はあまり注目されなかったものの、いまでは「作者の死」という言葉は批評家、ロラン・バルトの代名詞ともなっています。
 
同論考においてバルトは従来の批評において重要視されてきた「作者」を遠ざけ、代わりに「読者」をクローズアップさせます。バルトによれば、テクストは多様なエクリチュールからなっており、そのような多様性が集まる場所が「読者」であると言います。
 
そしてバルトは1968年のセミナーでバルザックの小説「サラジーヌ」の詳細な分析を通じて、物語の構造を明らかにするというより、むしろ文章や言葉が生まれる場に立ち会い、作品を「再エクリチュール」するという読書行為を提唱します。このセミナーの成果をまとめたものが「S/Z(1970)」です。
 
バルトは「作者の死」というセンセーショナルな言葉により「作者」というオリジナルに縛られることのない、それぞれの「読者」が「書くように読む」という自由で創造的な読書の快楽を肯定していきます。ここに「コノテーション」から逃れる「意味の複数性」を見出すことができます。そして、こうしたバルトの主張は現代日本のオタク系文化における「メディアミックス」や「二次創作」といった消費形態と共鳴するものがあるように思えます。
 
 

* バルトと日本文化

 
ところでバルトは大が付く親日家としても知られています。バルトが日本を初めて訪れたのは1966年5月。その時以来--本書の言葉で言えば--バルトは日本に「恋」をしたそうです。68年1月に3度目の滞在から帰国した彼は早速、日本文化論の著作の執筆に取り掛かります。こうして出版されたのが「記号の国(1970)」です。
 
日本での日々はバルトにとって驚きの連続だったようです。フランスの街の中心である教会と異なり、東京の中心である皇居には誰も入ることができず、東京では中心が空虚になっているのではないかとバルトは述べます。
 
あるいは料理の場合でも「すきやき」はフランス料理におけるメインディッシュに相当する中心がなく「天ぷら」は中心の具よりも周囲の衣の隙間を食べているかのようであるといいます。このようにバルトは日本で目にしたのは様々な形の「空虚な中心」でした。
 
そしてバルトを最も魅了した日本文化は「俳句」です。バルトは俳句を「理解しやすいものでありながら、何も意味していない」といいます。
 
例えば松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という句。「水の音」の後にはいかなる反響も、いかなる物語の展開もない。そこにはただ、言語の終焉としての断絶だけがある。
 
フランスの詩が短い表現の中にレトリックを駆使して意味を充満させているのに対して、俳句は意味を否定しているのではなく、むしろ「中断」させていると、バルトはいいます。
 
こうしてバルトは「意味の複数性」とは異なるもう一つの可能性を俳句の中に見出します。それは畢竟「意味の中断」であり、ここから産み出されたのが「ロマネスク」という概念です。ロマネスクとは西洋的な自我とは異なる空虚な「わたし」によって語られる断章的なエクリチュールのことです。「記号の国」以降、バルトの著作の多くは断章形式で書かれることになります。
 
そればかりでなく、バルトが最愛の母アンリエットの死に向き合う時にも俳句は導きの糸となりました。バルトは俳句における「それはかつてあった」という現実と「これだ!」という真実の驚くべき融合を写真の中にも見出します。こうしてアンリエットの少女期の写真を中心とした写真論「明るい部屋(1980)」が生まれました。
 

* 言語からの自由と言語への自由

 
言語を愛し、憎み、恐れつつも、最後は言語によって生かされた批評家、ロラン・バルト。本書が公刊された2015年はバルト生誕100年に当る年になります。現代においてバルトは批評家や理論家としてではなく、作家としての再評価が進んでいると言われています。
 
バルトは「単数的な意味の重み」から逃れていく「意味の複数性」や「意味の中断」を追求した点において、同時代を代表する哲学者であるジャック・デリダジル・ドゥルーズと共通した問題意識を持っていたと言えます。けれどもバルトが今だに人々を魅了してやまないのは、その理論や概念ではなく、まさしく彼の「エクリチュール」にあると、本書はいいます。
 
人は言語に囚われた生き物です。我々は例外なく、言語からの自由と言語への自由という問題に常に直面させられています。こうした問題を改めて深く考える上で、ロラン・バルトという人の生き様に学ぶところは多いでしょう。
 
 
 
 
 

価値を変える知の考古学--「ミシェル・フーコー 近代を裏から読む(重田園江)」

 

* フーコー愛に溢れた一冊

 
人は知らず知らずのうちにある種の固定観念で世界を捉えます。その固定観念の枠内にいる限り、時としてその世界は非常に生き辛いものとなります。こうした固定観念を解体するには、その固定観念が歴史的に生成されてきた過程を解き明かす作業が必要となります。こうした「知の考古学」の実践者として知られるのが構造主義/ポスト構造主義を代表するフランスの思想家、ミシェル・フーコーです。
 
本書は「監獄の誕生」という後期フーコーの代表作を切り口として、フーコーを饒舌に語り倒します。フーコーという人は扱うテーマや自らの立ち位置を絶えず変化させ続けたある種の捉えどころのなさを持っています。本書の言葉でいえば「龍」のような思想家です。けれどその真骨頂は、見慣れたこの世界をまるで見知らぬ場所に変えるところにあると本書は言います。すなわち、フーコーの好んだ言葉で言えば「価値を変えろ」ということです。より多くの人にフーコーの魅力を知ってもらおうするフーコー愛に溢れた一冊です。
 
 

* 狂気と構造

 
フーコーは事実上のデビュー作である博士論文「狂気の歴史(1961)」で、その表題通り「狂気」が歴史的にどのように取り扱われたのかをテーマにしています。
 
同書によれば16世紀のルネサンス期までは社会は狂気に対して極めて寛容であり、街中の至る所に「狂人」が闊歩し、狂気は人々の日常の一部となっていました。ところが17世紀中葉、フーコーのいう「古典主義時代」になって状況が一変します。大規模な収容施設がヨーロッパ中に作られ、そこには貧困者、怠け者、性病患者、濫費家、堕落した聖職者など、いわゆる「社会不適合者」と見做された人々が隔離されます。こうした人々の中に「狂人」も含まれることになりました。
 
「古典主義時代」は一般に「啓蒙の時代」と言われ「理性」に対する信頼が極めて大きかった時代です。ところがフーコーはこうした「理性」の支配は「非理性」を自らのうちから排除して、これを従属させることによって成立しているといいます。
 
そして18世紀末「古典主義時代」が終わり「近代」が幕をあけます。そして近代において狂気とは「精神の病」とされ、医学や心理学による「治療の対象」となり今に至っているわけです。こうした歴史を紐解いていくことで、フーコーは狂気をそれ単独で理解するのではなく、社会全体のレベルで排除と包摂の相補関係という「構造」において捉えようとするわけです。こうしてフーコー構造主義の思想家として世に知られることになります。
 
 

* 構造主義の司祭へ

 
構造主義フーコーを一気にスターダムへと押し上げたのが、構造主義の最盛期に出版された「言葉と物(1966)」です。
 
同書を貫くキーワードは何と言っても「エピステーメー」です。元々のギリシア語では「真の知識」を指していますが、フーコーはこれに独自の意味を持たせ「言葉と物」における「エピステーメー」とは、認識、思考とった知的活動を秩序づける視座や基盤のようなものを指しています。
 
この点、フーコーはこの「エピステーメー」は時代に応じて変化しているといいます。ここでも「狂気の歴史」におけるルネサンス、古典主義、近代の歴史区分が持ち出されます。
 
そして、フーコーは、ルネサンス期のエピステーメーは「類似」ないし「相似」であり、古典主義におけるエピステーメーは「同一性」と「相違性」であるとした上で、近代におけるエピステーメーこそが「人間」であるとフーコーは言います。
 
ここでいう「人間」とは人間に対する一つの見方のことをいいます。ここでフーコーが想定しているのは、カント的な経験的=先験的(超越論的)二重体としての「人間」です。あらゆる経験可能なものが認識可能なものになる場。こうした「人間」を前提として成立したのが生物学、経済学、言語学といった人間諸科学です。
 
ところがフーコーは「近代の終わり=現代」において「人間の死」を宣言します。ここが同書のハイライトです。ここでフーコーは、構造言語学文化人類学精神分析学などの当時を代表する構造主義諸科学に「人間」を終焉に導く可能性を見るわけです。
 
この本は極めてマニアックな内容にも関わらず、当時、菓子パンのように売れたと言われ、フーコーは「構造主義の司祭」とまで持ち上げられました。
 
 

* 構造主義から権力論へ

 
ところが1968年に起きたいわゆる「パリ5月革命」を契機として、フーコー構造主義から離脱し、いわゆる「権力論」へと転回します。
 
フーコーは1970年にアカデミズムの最高峰「コレージュ・ド・フランス」の教授に就任する一方で「DIP(監獄情報グループ)」の政治活動に参加する。そして、この成果をまとめたのが「監獄の誕生(1975)」です。同書においてフーコーは刑罰史を紐解きながら「権力」のあり方がどう変化したのかを解明していきます。
 
近代啓蒙思想絶対王政下における非人道的な身体刑を排して人道的な自由刑を導入した、というのが一般的な刑罰史のイメージでしょう。確かに近代啓蒙思想は、権力の恣意的な行使を制限し「法の支配」「罪刑法定主義」「被告人の人権擁護」などを打ち出し、刑罰体系に大きな変革をもたらしました。
 
けれどもその一方、実際の刑の執行においては近代啓蒙思想とは全く無関係な出自を持つ「規律」と呼ばれる様々な人間管理の技術が駆使されているとフーコーは指摘します。そしてこの様々な「規律」によって生み出されるのが「規律権力」です。
 
一般に権力という場合「上から下」への暴力的強制による支配としてイメージされます。ところが「監獄」における規律訓練の結果、囚人に生じるのは「常に監視されている」という視線の内面化であり、ここでは権力は「上から下」への外在的な支配ではなく、むしろ「下から上」への内在的な欲望として作動していることになります。
 
この規律権力を発動させる上で最も効率的な施設がイギリスの功利主義者ジェレミーベンサムによって考案された「パノプティコン(一望監視施設)」です。これは囚人を個別に空間配置し、できるだけ少数の監視者で、できるだけ多くの囚人を合理的に監視するシステムです。
 
そして、フーコーによれば、こうした権力のあり方は監獄だけではなく、学校、工場、病院、軍隊など、近代社会におけるあらゆる閉鎖空間の中に見出されます。つまり、監獄はこうした様々な場で行使される近代的権力のモデルとなっているということです。
 
 

* 規律権力と生権力

 
そして「監獄の誕生」出版の翌年、フーコーは「性の歴史」の第1巻として「知への意志(1976)」を公刊し、権力論をより広範な範囲で展開し始めます。ここで提出されたが「生権力」という概念です。
 
生権力とは人の生命を保証して秩序立てていく、文字通り「生命への権力」というべきものです。そして現代社会は規律権力と生権力が相補的に絡み合って並走することで成立しています。すなわち、我々は規律権力によってシステムに従順なイヌのように躾けられ、生権力によってシステムを回し車のごとく回し続けるネズミのような生を余儀なくされているということです。
 
安全で清潔で快適な社会を我々が至上善とする限り、人はどこまでも「権力」から逃れられません。けれどもその「権力」の行使において「目的」と「手段」がどこまで合理的な関連性を持っているかという事は不断に問い直されなければならないでしょう。その際に必要な態度が、まさしく「それはどこからやってきたのか」というフーコーの「考古学」的な思考に他ならないということです。
 
 
 
 
 
 
 
 

つぎはぎだらけの関係性を紡いでいくということ--星の子(今村夏子)

 

星の子 (朝日文庫)

星の子 (朝日文庫)

 

 

* 特異な文体と普遍的な寓話性

 
現代を代表する作家、村上春樹氏は小説とは作家と読者との「信用取引」で成立しているといいます。そして、その「信用維持」において氏がもっとも重視するのが「文体」です。村上氏によれば夏目漱石以来、日本の純文学が軽視してきたものの一つがこの「文体」であるといいます。確かに小説においては「主題」や「構造」も大事ですが、それ以前にまず、その「語り口=文体」に魅力がなければ人は誰も耳を傾けてくれないということも事実でしょう。
 
こうした意味で、今村夏子作品の「文体」は極めて特異的です。一見、サラサラと読めてしまう平明さを持ちながらも何というか、こういう言い方が適当かわかりませんが、そこにはある種の「世界に棲めてなさ感」を感じさせます。
 
例えば端的な日常風景の描写にしても、そのまなざしはどこかに不穏なズレを孕んでいる。こうした不穏なズレの積み重ねが今村作品における独特な世界観を創り上げています。
 
もっとも今村作品の魅力はその「文体」にとどまらない。今村作品が時として「世界文学」とまで評されるのは、まさしく村上作品がそうであるように「現代日本」という時代性や地域性を超越した普遍的な寓話性を内在させているからなのでしょう。
 
 

* 今村作品の入門には最適な一冊

 
今村夏子さんは大学卒業後、清掃関係のアルバイトなどを転々、29歳の時、バイト先から「明日休んでください」といわれたのがきっかけで、どういうわけか「小説を書こう!」と思い至ったそうです
 
そうして書き上げた「あたらしい娘」という作品が2010年、第26回太宰治を受賞。同作は「こちらあみ子」と改題されて単行本化され、2011年に第24回三島由紀夫賞受賞
 
思いがけない鮮烈なデビューを果たしてしまった当時の心境は「どうしよう。もう書くこともないのにほめられて」だったそうです。
 
三島賞受賞決定後の電話インタビューで今村さんは「今後書く予定はない」という趣旨のことを述べます。それから5年近く、2014年の文庫版「こちらあみ子」に併録された短編以外、作品の発表は途絶えていました。
 
ところが2016年、福岡で創刊された「たべるのがおそい」という名の地方文芸誌で唐突に新作が発表されます。この「あひる」という作品は第155回芥川賞候補に挙がり惜しくも受賞を逃すも、同作を収録した短篇集は第5回河合隼雄物語賞を受賞します。
 
そして、2017年に再び第157回芥川賞候補に挙がり、第39回野間文芸新人賞受賞したのが本作「星の子」です。その後2019年、周知のとおり今村さんは「むらさきのスカートの女」でついに第161回芥川賞を射止めることになります。
 
本作は今年、芦田愛菜さんが主演を務める映画となりました。このタイミングで今村作品に入門するには最適な一冊と言えるでしょう。
 
 

*「宗教」というテーマはどこから来たか

 
本作の主人公、林ちひろは虚弱体質児として生まれ、原因不明の湿疹がなかなか治らない。心配に駆られた両親はさまざまな民間療法を試した末、父親が会社の同僚から薦められた「金星のめぐみ」なる水を身体に塗ったところ、ちひろの湿疹はたちまち綺麗に治ってしまう。
 
この出来事をきっかけに、ちひろの両親は「金星のめぐみ」を販売する怪しげな宗教団体にはまり込んでいく。結果、ちひろは学校で浮いた存在になり、両親に反発したちひろの姉は失踪し、家計は困窮の一途をたどり、親戚関係は険悪になってしまう。
 
今村さんによれば本作は、かつてのバイト時代に頭に水を掛け合う高齢男女のペアを目撃したエピソード(!)に着想を得たそうです。実際に作中でも、ちひろの両親が頭にタオルを乗せて「金星のめぐみ」をお互いに掛け合うシーンがあります。本作の「宗教」というテーマは、こうしたモチーフの後から出てきたそうです。
 
 

* ちひろと両親の宗教観

 
あらすじの通り、本作はわりとシリアスな内容のはずなんですが、その描写はどことなくユーモラスです。ちひろは「こちらあみ子」のあみ子ほどネジのぶっ飛んだキャラではないんですが、やっぱり今村作品特有のどこかしら残念な感性の持ち主です。
 
そして、ちひろが「宗教」に向けるまなざしは限りなくフラットです。ちひろは必ずしも両親の宗教を否定しない。行事があればむしろ積極的に参加するし、体調が悪いときは両親のように頭にタオルを乗せたりもする。
 
「金星のめぐみ」がちひろの身体を救ったのかは本当のところわかりません(もしかして偶然「金星のめぐみ」の水質が体質的に合っていた可能性も否定できないでしょう)。けれども少なくとも両親が「金星のめぐみ」に縋ったのは、ちひろを救いたい真摯な一念からだったのは疑いようもない事実ですし、実際問題、いま両親から信仰を取り上げたからといって現状が好転するという保証はどこにもないわけです
 
ちひろはこうした現実に静かに寄り添っている。だからこそちひろは、いくら叔父から執拗に説得されても、いくら憧れの教師から罵倒されても、決して両親を見限ろうとはしない。ここで本作は「健全な常識」と「怪しいカルト」という形而上学的な二項対立を脱構築します。
 
そしておそらく、ちひろにとっての宗教は、両親のように盲目的な信仰の対象ではなく、両親や友人との関係性の触媒なんだと思います。いわば、両親の宗教が「現実から逃避するための虚構」だとすれば、ちひろの宗教は「現実と関係するための虚構」であるということです。
 
 

* つぎはぎだらけの関係性を紡いでいくということ

 
本作のラストは極めて多義的で様々な解釈があります。かなり不穏な雰囲気の中、話が唐突な感じで終わっているんですよね。そこから先にある不吉な末路を連想する解釈も当然成り立つでしょう。今村さん自身は「この家族は壊れてなんかないんだ」ということを書きたかったそうです。これに対して今村さんと対談した小川洋子さんは「でも、悪意のない家族だとしても、平和ではないということが残酷」と述べています。
 
あのラストは物語としてはあの家族にとってのひとまずの救いを描いたものと言っていいのではないでしょうか。もちろんそれは「ひとまず」でしかなく最終的な解決になっていない。先述したとおり両親とちひろの「宗教観」はすれ違っている。もしかしたら一生すれ違ったままかもしれません。
 
けれども我々の日常においても「同じ言葉」で話していても、お互いが「同じ意味」を共有しているとは限らないことは多いでしょう。いくら身を寄せあおうが、人は常にすれ違いからは逃れられない。けれどもコミュニケーションはそうした前提から始めなければならない。すなわち、分かり合えないことを分かり合うということです。そういったコミュニケーションの現実を、人と人とのつぎはぎだらけの関係性を、本作のあのラストは描いているようにも思えます。
 
 
 
 

【書評】わたしの哲学入門(木田元)

 

わたしの哲学入門 (講談社学術文庫)

わたしの哲学入門 (講談社学術文庫)

 

 

* 哲学の〈難しさ〉の正体

 
哲学とはなにか?これ自体が一つの哲学的問いであり、哲学とは今ひとつ実体のはっきりしないわけのわからない領域と言えます。にも関わらず哲学はいつの時代もその〈わけのわからなさ〉が不思議な魅力となり多くの人を惹きつけます。
 
本書はこうした哲学に関心があるけれど難しそうでとても近づけないと思っている人々の需要に応えるため、稀代の碩学が「きれいごと」を極力排して「下世話なうまい案内の仕方」で哲学の世界へ誘う入門書として書かれたものです。
 
では哲学はなぜ難しいのか?本書によれば、確かにその専門用語の難解さもあるものの、それ以上に哲学の〈難しさ〉の正体は「なぜそんなことを問題にしているのか」という「発想の動機」の分かりにくさがあるといいます。
 
例えば近代哲学の創始者として知られるルネ・デカルトの「方法序説」というテクストは文章自体は極めて平易なものですが、その内容といえば、いわゆる「方法的懐疑」から出発して、あの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という真理に至り、そこから「神の存在証明」という方法論的操作を経た上で「物体とはすなわち延長である」という物体観が提示されるというものです。
 
おそらく普通に読んだところで、この人は結局何がしたいのかよくわからないと思います。それはすなわち「問い」の手前にある「発想の動機」がわからないからです。
 
 

* 闇屋から哲学へ

 
そこで本書は哲学者がどういう切っ掛けで哲学的思索を行うようになったのか、その初発的動機を明らかにすることをもって読者を哲学の世界に招き入れようとします。ここで題材となる哲学者はほかでもない、本書の著者である木田元先生その人です。
 
木田先生は高名なハイデガー研究者として知られていますが、その青年期は相当ジェットコースターな人生を送っています。海軍兵学校時代の16歳の時に終戦を迎え、終戦直後のドサクサの中、テキ屋をやったり闇屋をやったりしてどうにか食いつなぎ、統制物資を闇に流して得た金で農林専門学校に入学。そこで青年期特有の実存的不安に駆られて古今東西の小説を貪り読み漁るようになる。そのうちにドストエフスキーに傾倒し、やたらと絶望ばかりする登場人物の心理を理解するためキルケゴールを読み始め、やがてハイデガーの「存在と時間」にたどり着く。そしてこの難解極まりない哲学書を読み解くために大学に入って哲学の勉強をすることを決意するわけです。
 
本書ではこのあたりの経緯がドストエフスキー作品やキルケゴール哲学の解説を交えながら詳細に記されています。果たして「存在と時間」を読むことで木田先生は長らく取り憑かれていた暗澹たる気分から解放されたそうです。けれどそれは「存在と時間」から何事かを学んだからではなく、ようやく自分のやりたいことが見えてきたからだと言います。つまり「存在と時間」の中に木田先生が発見したのは「答え」ではなく「問い」であったということです。
 
様々な哲学的思索を駆動させているのはこうした「問い」に対する「欲望」です。これはハイデガーや木田先生に限らず、ニーチェでもドゥルーズでも東浩紀さんでも、哲学者なら誰にでも言える事だと思います。すなわち、哲学入門の第一歩はこれから読み解こうとする哲学者を突き動している「欲望」の理解にあるということです。
 
 

*「存在と時間」から考える

 
「20世紀最大の哲学者」としても形容されるマルティン・ハイデガーの主著「存在と時間」は当初、上下二巻として構想されるも、1927年に上巻が公刊された直後、行き詰まりを感じたハイデガーは下巻の公刊を断念し、結局この本は未完に終わっています。
 
そして「存在と時間」という本は一般的には〈現存在〉--すなわち我々人間--の本来的あり方を示す「実存哲学の書」として知られています。けれどもハイデガー自身は公刊当時からこうした読まれ方を一貫して拒否しており、同書の究極的な目的は〈存在一般の意味の究明〉--人間に限らず、あらゆる事物が〈ある〉とはどういうことかという問い--であると言い続けていました。
 
もっとも実際に公刊された「存在と時間」において行われているのは〈現存在〉の分析であり、ハイデガーがいうような〈存在一般の意味の究明〉など行われてはいない。そうであれば〈存在一般の意味の究明〉は未完部分の下巻で行われる予定だったのであり、上巻の現存在分析はそのための準備作業だと理解せざるを得ない。
 
この点、本書によれば、幻に終わった下巻で遂行されるはずだったのはアリストテレス以来の伝統的存在概念の解体作業です。もともとハイデガーはそのキャリアをアリストテレス研究からスタートさせており、その研究を進めるうちに、アリストテレスのいう〈ある〉ということ、すなわち〈存在(ウーシア)〉とは「作り上げられて使用可能な状態で現前している」という意味であることに気づきます。つまり、ここでは〈存在=被制作性=現前性〉という定式が成り立つということです。
 
こうした〈存在=被制作性=現前性〉という存在概念は、ハイデガーによればアリストテレスに代表される古代存在論からスコラの中世存在論、さらにはデカルトやカントの近代存在論にまで受け継がれているといいます。
 
ところがハイデガーニーチェの著作に示唆を得て、この存在概念とは別の存在概念を視界に入れます。それはすなわち、ソクラテスのさらに以前、遥か彼方の古代ギリシアにおける存在概念です。当時のギリシア人にとって世界とは〈自然(フュシス)〉であり、万物はおのずから生成し消滅していくものとして捉えられていました。こうした古代ギリシアの自然観は古代日本における、万物を「葦牙の萌え騰がるが如く成る(古事記)」という自然観とも通底します。つまり、ここでは〈存在=自然=生成〉という定式が成り立つということです。
 
こうした広大な視界からハイデガーは西洋の伝統的存在概念を解体しようとしていたわけです。いわば「存在と時間」とは「西洋近代批判の書」として構想されたと言えます。けれどこれが未完になった事で(あるいはハイデガーが妙な思惑を絡めたせいで)同書が西洋近代思想の到達点のように受容されてしまった事はまさしく歴史の皮肉というべきでしょう。
 
 

*〈本質存在=デアル〉と〈事実存在=ガアル〉

 
本書はこうしたハイデガーの「存在と時間」を切り口として、西洋哲学を連綿として規定してきた〈存在とは何か〉という〈哲学〉の基本問題を詳らかにしていきます。この点、ソクラテス以前における〈自然(フュシス)〉という「始原の単純な存在」はプラトンアリストテレスを経由することで〈本質存在=デアル〉と〈事実存在=ガアル〉に区別され、ここに〈自然(フュシス)〉を超えた〈超自然的原理〉に駆動される〈形而上学〉が成立します。
 
ハイデガーによれば〈哲学〉とはこの〈形而上学〉なるギリシア由来の特殊な思考様式に他ならない。この点、プラトンは存在を〈イデア〉として捉え〈本質存在=デアル〉を優位に置きます。これに対してアリストテレスは存在を〈エネルゲイア〉として捉え〈事実存在=ガアル〉を優位に置きます。
 
そしてその後、2500年に渡って、この「プラトン主義」と「アリストテレス主義」というべき二つの対照的な世界観が様々な変奏を繰り返し〈哲学〉の世界を支配し続けることになります。これに対してハイデガーは、問題は〈本質存在=デアル〉と〈事実存在=ガアル〉の優劣ではなく、必要なのは存在をその始原の〈自然(フュシス)〉へ返してやることであると主張するわけです。
 
ところで日本語で〈ある〉とか〈存在〉と言われると我々は基本的に〈本質存在=デアル〉ではなく〈事実存在=ガアル〉に近いものを想起します。もっともそれは〈デアル〉に対置され〈デアル〉を抜き取られた形而上学的〈ガアル〉ではなく、様々な〈デアル〉を豊かに含んだ、まさに「葦牙の萌え騰がるが如く成る」ような〈ガアル〉です。こうしてみると、ハイデガーのいう〈自然(フュシス)〉としての「始原の単純な存在」というのは案外、我々日本人にとって馴染みの深い感覚だと思います。
 
 

*〈反哲学〉による〈哲学〉入門

 
このようなハイデガーによる西洋哲学史の見直しによって明らかにされたのは〈哲学〉というのは別に人類普遍の知とかではなく、特定の文化圏の特定の時代に成立した特殊な思考様式だったという事実です。こうした思想的営みをハイデガー自身は〈存在の回想〉などというよくわからない言い回しで呼んでいましたが、本書はよりダイレクトに〈反哲学〉と言います。
 
すなわち、本書は〈反哲学〉による〈哲学〉入門であるということです。ゆえに本書は西洋哲学史のほぼ全体を概観しつつも同時に〈哲学〉に付き纏う神秘的なヴェールを容赦なく剥ぎ取り、その核心部分を「ぶっちゃけこうだ」と暴露していきます。まさに〈哲学〉と〈反哲学〉の双方を極めた碩学だからこそなせる離れ業です。そしてその軽妙洒脱な語り口は読み物としてもこの上なく面白く、少なくとも〈哲学〉に対する妙な先入観は本書できれいさっぱりなくなるでしょう。そういった意味で、これ以上の〈哲学〉入門はないのかもしれません。