かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

行動療法の現在--「はじめてまなぶ行動療法(三田村仰)」

 

はじめてまなぶ行動療法

はじめてまなぶ行動療法

 

 

 

* 行動療法と認知行動療法

 
現代心理療法シーンにおける主流を占める行動療法・認知行動療法の歴史は大まかに3つの世代に分けられます。
 
1950年代、南アフリカで戦争神経症の治療を行っていたジョゼフ・ウォルピが「系統的脱感作」を開発して以降、行動療法は科学的な心理療法として注目を集めます。この時期の行動療法で重視されたのは、パブロフの犬アルバート坊やの実験で知られる「レスポンデント条件付け」と呼ばれる学習原理です。このレスポンデント条件付けを神経症治療に応用したものが系統的脱感作でして、これは後にはエクスポージャーという技法へと発展していきました。これが第1世代です。
 
その後、行動療法はアルバート・エリスの「論理情動療法」やアーロン・ベックの「認知療法」と合流して「認知行動療法」と呼ばれるようになります。認知行動療法では「うつ」や「不安」といった症状毎の介入パッケージが開発され、これらは多くのセラピストが実践可能となるようマニュアル化されました。こうして1970年代に認知行動療法心理療法の代名詞となります。これが第2世代です。
 
 

* 要素的実在主義と文脈主義

 
もっとも認知行動療法は様々な理論の寄り合い所帯として発展していった為、症例毎の介入パッケージはそれぞれ微妙に違った理論に基づいていたりするわけです。そこで複数の診断カテゴリーに当てはまるようなクライエントや、例えば「引きこもり」といった非定型的な悩みを持つクライエントにどう対応するのかという問題が残ります。
 
そんな中、1990年代になると、マインドフルネス認知療法メタ認知療法を始めとする新しいアプローチの心理療法が登場します。これが第3世代です。
 
こうした3世代の変遷を経た現在、行動療法・認知行動療法には英国系の「要素的実在主義」と米国系の「文脈主義」という世界観の異なる二つの系譜があることが整理されてきました。
 
先に述べた第1世代と第2世代の行動療法・認知行動療法は「要素的実在主義」の系譜に属します。これに対して第3世代の多くのアプローチは「文脈主義」という異なった系譜に属しています。これが本書で重点的に取り上げられる「臨床行動分析」です。
 
 

行動分析学とABA

 
臨床行動分析の起源はバラス・スキナーが立ち上げた行動分析学にあります。行動分析学では「オペラント条件付け」という原理を重視します。先述したレスポンデント条件付けが条件刺激と条件反応からなる受動的な学習原理であるのに対して、オペラント条件付けは、先行事象、行動、結果事象の三項随伴性からなる能動的な学習原理ということになります。
 
そして、この行動分析学に基づく実践として知られているものに応用行動分析(Applied Behavior Analysis:ABA)があります。ABAは、重度の知的障害や発達障害を抱える子どもたちを対象として、周囲の人や物といった環境を適切に調整することで、適応的行動の獲得や問題行動の解決を図る療育実践であり、現在では児童発達支援の分野において広く普及しています。
 
 

* 症状の治癒から人生の質の向上へ

 
そして今世紀に入ると行動分析学では「関係フレーム理論」という人間の思考や言語の核となる原理を扱うようになります。こうして行動分析学は臨床行動分析として心理療法の分野にも進出を果たします。この臨床行動分析の仲間にはアクセプタンス&コミットメント・セラピー、弁証法的行動療法、行動活性化、機能分析心理療法が含まれます。こうした新しい世代の行動療法に共通する特徴は大まかには次の通りです。
 
⑴ 文脈と機能を重視すること。
 
⑵ 症状の治療を超えてクライエントの人として生きる機能を重視すること。
 
⑶ 理論や技法をセラピスト側にも向けること。
 
⑷ これまでの行動療法や認知行動療法の延長に位置付けられること。
 
⑸ 人間の抱える大きなテーマも積極的に扱うということ。
 
すなわち、第1世代、第2世代において専ら主眼に置かれたのは「症状の治癒」でしたが、第3世代において目指されるのは「人生の質」それ自体の向上にあるという事です。
 
 

* 環境を変えることで行動を変える

 
本書は行動療法の基礎から最先端の動向までを平易に概説する入門書です。もっとも本書が目指すのは行動療法における技法全般の表面的理解ではなく、むしろその根底を支える基本原理の本質的理解です。
 
例えば、我々は日々の気分の落ち込みを改善しようとして認知行動療法のコラム法に取り組んだり、日々の仕事の生産性を上げようとしてマインドフルネスの瞑想を実践したりするわけです。けれどもコラム法にせよ瞑想にせよその他のいずれの技法にせよ、その基本原理の本質的理解なくしては、具体的な状況に即して自在に運用することは難しいでしょう。本書が光を当てるのはまさにこの部分になります。
 
わりと誤解されがちですが、行動療法はある人の「行動」それ自体ではなく、その行動を取り巻く「環境」にアプローチします。人の行動は主体的な思考や選択よってなされていると見せかけて、実はかなりの部分を周囲の環境に規定されています。すなわち、自分を変えたいと思うのであれば、まずは自分を取り巻く環境を変えるべきであるということです。
 
ではその環境をどのように変えれば良いのでしょうか?もとよりその処方は、人それぞれにしてその時々で異なります。けれど、ともかくも自分なりに何らかの処方を見つけ出していく上で、きっと本書は良き道標となると思います。
 
 
 
 
 
 

宮廷愛から誤配へ--「イエスタデイをうたって afterword」

 

* まさかのアニメ化

 
独特の画風と世界観でカルト的な人気を誇る冬目景先生の代表作「イエスタデイをうたって」が連載完結から5年を経てまさかのアニメ化となりました。アニメで果たしてあの原作の雰囲気を再現できるのか少し心配でしたが、出来上がったアニメは想像以上のクオリティの高さでイエスタデイの物語を極彩色に描き出してくれました。
 
アニメでは一層際立つリクオのヘタレっぷり、圧倒的キープ力を誇る魔性の女と化した榀子先生、そしてひたすらマジ天使なハルちゃん。11巻の原作を1クールへと実に上手にまとめています。これもまた、ひとつのイエスタデイ。動画工房さんの仕事ぶりにはただただ脱帽するばかりです。
 
 

* 自己変革と愛の讃歌

 
原作のあらすじはこうです。大学卒業後、コンビニでフリーター生活を続けている魚住陸生(リクオ)は大学時代の同級生である森ノ目榀子に密かな恋心を抱いていたが、一方で榀子は早逝した幼馴染、早川湧との思い出にしがみつき、そこから前に進めないでいた。
 
一方、偶然の出会いからリクオを慕う野中晴(ハル)は、かつての副担任でもあった榀子にリクオを巡って「宣戦布告」をするが長らく二番手の位置から動けない。また、湧の弟である早川浪は榀子を追いかけて上京してくるが榀子は浪に対して弟以上の感情を持てずにいた。
 
こうしたなかなかもどかしい人間模様を軸として物語は進み戻りつつ、ゆっくりと進んでいく。本作のテーマは原作1巻のサブタイトルに大体集約されています。すなわち「社会のはみ出し者は自己変革を目指す」「愛とはなんぞや?」です。
 
 

* ロストジェネレーション世代への応援歌として

 
本作の連載がスタートした90年代後半は、平成不況の長期化による就職氷河期の真っただ中で、世にはリクオのように大学を出ても就職するあてのないフリーターが急増した時代でした。
 
いま思うとあの時代は、これまでのように新卒一括採用で就職し、終身雇用や年功序列のレールの上で生きて行くという昭和的ロールモデルが崩壊して行く中、新たな社会的自己実現オルタナティブが模索されはじめていた過渡期でもありました。
 
そういう意味で本作は時代とのめぐり合わせ悪く不遇をかこった多くのロストジェネレーション世代への応援歌ともいえます。そして連載開始から17年の歳月を経て2015年に原作が完結。さらにそこから5年を経て今回のアニメ化に至ったわけです。それだけ本作には時代を超越した幅広い共感を呼び起こす魅力があるということなのでしょう。
 
 

* 冬目景ワールドへの導入本

 
本書「イエスタデイをうたってafterword」はアニメ放映にあわせて公刊されたファンブック的な書籍です。冒頭の「イエスタデイをうたって特別編-11・S14」は原作11巻最終話の後日談です。実にリクオとハルらしい、ぐだぐだしながらもちょっとずつ前に進んでいく日常が描かれています。
 
あとはアニメ化にあたっての冬目景先生インタビューと対談、作品紹介、イエスタデイ番外編と短編集。内容の半分くらいは10年くらい前に出版された「イエスタデイをうたってEX」の再掲となっています。
 
短編のうちの1本で、今回新規収録された「夏の姉」は隠れた良作。ジェンダートラブルという現代的な論点を扱っていて新境地を開いた感があります。アニメから入った方は是非、本書をとっかかりにして、退廃的かつ瑞やかな冬目景ワールドにぜひ触れていただきたいところです。
 
 

* 「羊のうた」から考える

 
この点、冬目景作品でまずお勧めなのが、イエスタデイと並ぶ冬目氏のもう一つの代表作である「羊のうた」です。イエスタデイの世界観、恋愛観を理解する上で同作は極めて重要な補助線となります。
 
同作のあらすじはこうです。本作の主人公、高城一砂は幼い頃に母親を亡くして以来、父親の友人である江田夫妻の元で育てられ、現在ではごく普通の高校生活を送っていたがある日、一砂は同級生の八重樫葉の左手の赤い絵の具を見て奇妙な感覚に襲われる。
 
そして久しぶりに訪れた高城の家で、一砂は1歳違いの姉、高城千砂と再会。そこで一砂は吸血鬼のように発作的に他人の血が欲しくなるという「高城の病」を知る。
 
千砂は幼少期から「高城の病」に犯されており、加えて生来病弱で余命幾ばくもない。そして一砂もまた「高城の病」の発病を感じていた。千砂は自らの手首を傷つけ一砂に血を与え、やがて2人はお互い寄り添うように暮らし始める。そして一砂に仄かな想いを抱く八重樫はただ状況を傍観するしかなかった。
 
このように「羊のうた」という作品においては、ひたすら破滅へと向かうかの如き重苦しい物語が展開されます。そしてその根幹にあるのは「死」という絶対的な「外部」が作品世界の全てを駆動させている否定神学構造です。
 
こうした否定神学構造はイエスタデイでもより洗練された形で反復されます。榀子は死んだ湧を、リクオはかつての榀子を、それぞれ至高の何かへと昇華してしまい、そこからなかなか動けない。このようにある他者を絶対的な「外部」と同一視してしまう否定神学的な恋愛観を「宮廷愛」と言います。
 
本作を読んでいて感じるもどかしさの源泉はここにあります。もっとも連載開始当時の90年代後半において、こうした恋愛観は「純愛」とか「セカイ系」などという形で、ポストモダン大きな物語の失墜に対する時代の処方箋、虚構の時代の名残雪として機能していた部分はあるにはありました。
 
 

* 宮廷愛から誤配へ

 
けれどもイエスタデイはこうした羊のうた的なもの、否定神学的な宮廷愛を乗り越える物語であったと言えるでしょう。
 
ハルは「コイなんて錯覚じゃん?一度錯覚したら何らかの結果が見えるまで止まんないんだと思う」と言います。恋は錯覚、単なる誤配。おそらくこれが身も蓋もない現実なのかもしれません。けれど人は面倒な生き物でして、こうした偶然的な現実の中にも何がしかの必然的な真実を見出したがったりするわけです。
 
こうした意味で、宮廷愛とはある意味で現実の隠蔽装置に他ならない。真実とは所詮、虚構にすぎない。恋は錯覚、単なる誤配。リクオも榀子も散々周り道をした挙句、土壇場でようやくこうした身も蓋もない現実を、2人は受け入れていくのでした。
 
誤配を誤配として素直に肯定する事は案外と難しいことです。翻って考えるに我々の人生も誤配の連続ではないでしょうか。けれども誤配を愛でるところから始まる関係性だってあるでしょう。イエスタデイの物語はそんな誤配だらけのぐだぐだな周り道を穏やかに肯定しているようにも思えたりもするわけです。
 
 
 
 
 

二層構造の時代における新たな公共性--「哲学の誤配(東浩紀)」

 

 

* 二層構造の時代における哲学

 
1994年、かつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏と柄谷行人氏が編集委員を務める「批評空間」第Ⅱ期第3号に「幽霊に憑かれる哲学--デリダ試論」と題された論文が掲載されました。著者の名は東浩紀。当時まだ東大教養学部の大学院生でした。
 
東氏はその後も「批評空間」に一連のデリダ論を発表。これらの論考は大幅な加筆修正を経て98年に「存在論的、郵便的--ジャック・デリダについて」として上梓されます。近代を規定した「否定神学システム」の外部を問う同書は浅田氏による激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の俊英として脚光を浴びることになります。
 
ところがその後、東氏は浅田氏や柄谷氏と対立を深め距離を置くようになり、2000年代における氏の活動はインターネットの普及を背景とした情報社会論やアニメ・ゲーム・ライトノベルを中心としたサブカルチャー論が中心となります。
 
東氏の代名詞的著作とも言える「動物化するポストモダン(2001)」において提示されたのは「データベース的欲望」と「シュミラークル的欲求」の乖離というポストモダンにおける二層構造モデルでした。こうした「二層構造の時代」における新たな民主主義を構想したのが、ゼロ年代における氏の総決算とも言える「一般意志2.0(2011)」です。
 
そして2010年代における氏の活動は自ら創業した「ゲンロン」を拠点としたある種の哲学的実践へとシフトします。このような実践を踏まえて「二層構造の時代」の時代における主体的成熟のあり方を「観光」という概念へ昇華したのが近著「観光客の哲学(2017)」ということになります。
 
 

* 誤配とは自由である

 
本書は「一般意志2.0」と「観光客の哲学」の韓国語版刊行の際に行われたインタビューと、中国における講演の草稿を加えた構成になっています。
 
韓国での氏はもっぱら「動物化するポストモダン」のイメージが強く、いまだ「サブカルチャー批評」の書き手として受容されているそうです。本書のインタビューはそうした「誤解」を解く目的もあるにはあるけれども、氏自身としてはそうした誤解が「正される」ことをそれほど望んではいないと言います。
 
そうした「誤解」により日本では届かなくなってしまった人に氏の文章が「誤配」されるのであれば、それはそれで素晴らしいと氏は言います。「誤配」とはすなわち「自由」であり、政治や公共的な感覚もまた本来はそのような「誤配=自由」の上でしか育たないということです。
 
ポストモダンにおいてはもはや「大きな物語」は機能しておらず、人は「大きな非物語(データベース)」から産出される無数の「小さな物語(シュミラークル)」の中で自足するしかない。東氏は「存在論的、郵便的」以降、一貫してこうした無数の「小さな物語」同士の横断的コミュニケーションの中で生じる郵便的超越性--すなわち「誤配」について原理的な考察を行ってきた人でした。乱立する「小さな物語」同士の中で「誤配」をいかにして産み出していくか。本書のタイトルである「哲学の誤配」とはまさにそういうことなのでしょう。
 
 

* 熟議とデータベースのあいだ

 
「一般意志2.0」においてはデータベースと熟議が交差する新たな民主主義の形が構想されました。ここで同書は社会契約説で知られる18世紀の政治哲学者、ジャン=ジャック・ルソーが提出した「一般意志」という概念に参照点を求めます。
 
ルソーによれば人民相互が社会契約を締結した結果「人民の特殊意志の総和=全体意志」から「相殺しあうもの」を除した上で残る「数学的差異の総和=一般意志」が成立するとされます。
 
そして統治システムとはこうした「一般意志」を忠実に執行する機関に過ぎず、人民は統治システムが「一般意志」を忠実に執行していないと判断すればいつでも統治システムを改変できる「革命権」を持っている事になります。
 
しかし18世紀当時は「一般意志」などどう考えても具現化不可能な仮設的概念に過ぎず、ルソーの主張は荒唐無稽な空想の域を出ませんでした。けれども現代における情報テクノロジーの進展は「一般意志」をある種のデータベースとして具現化させる事が可能だと同書は言います。これが「一般意志2.0」です。
 
もっとも、よくある誤解のように本書は従来型の議会制民主主義から「一般意志2.0」による直接民主主義への転換を説くものではありません。むしろ従来型の議会制民主主義における「熟議」の再興を図るものです。
 
従来、政治においては「熟議(理性的討論)」によるコミュニケーションこそが私的利害の集積を公共善へと変化させると信じられてきました。けれども、ポストモダン状況が加速して公共性の多様化、複雑化が進む現代社会においては「大文字の公共」というべき熟議の前提条件が喪失し、今や民主主義における熟議は機能不全に陥っています。
 
そこで同書は社会に蠢く様々な「つぶやき」を可視化した「データベース(一般意志2.0)」を構築することで、「熟議」と「データベース」が並走してせめぎ合う新たな公共性の創出を提案しているわけです。
 
 

* 強いつながりと弱いつながり

 
熟議とデータベースのせめぎ合いによる新たな公共性の創出。2010年代当初、東氏はこうした「夢」を当時普及し始めたSNSに託していました。
 
そして10年。周知の通りSNSに対する評価は「期待」から「失望」に変わっていきました。今やSNSは人間関係を友敵に切り分け、見たいもの信じたいものだけに囲まれて、ただだた際限なく自己幻想を肥大化させていくだけのツールになってしまいました。要するにこの10年で明らかになったのは、いくら情報テクノロジーが進化したところで、使う人間が進化しなければ世界は何一つ変わらないという、普通に考えてみればごくあたりまえの事実でした。
 
この点「存在論的、郵便的」の頃の東氏は「誤配」はネットワークの効果として自然に発生すると考えていました。けれどもネットワークの現実はむしろ「誤配」を排除する方向に作用することが明らかになったわけです。
 
こうした状況を前提として、2010年代の東氏は情報空間と現実空間を組み合わせることで「誤配」を考えるようになります。ここでキーワードとなるのが「弱いつながり(2014)」において提示される「観光」という概念です。
 
結局のところSNSがもたらしたのはその内側には同調圧力が発生し、その外側には排除の論理が作動するという「強いつながり」でした。こうした「強いつながり」から自由となり、ネットの海により深く潜る為に必要なのは、むしろネットの外の現実にある「弱いつながり」ということになります。そして「観光」とはこうした「弱いつながり」の中で「誤配」の確率を能動的に高めていく営みに他ならないということです。
 
 

* 郵便的マルチチュードとしての観光客

 
こうして浮上した「能動的誤配」としての「観光」というキーワードを哲学的概念にまで錬成したのが「観光客の哲学」です。同書はナショナリズムグローバリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズム、規律権力と環境管理型権力といった様々な観点から「二層構造の時代」の特質を明らかにした上で、こうした「二層構造の時代」における抵抗の基点として同書は「郵便的マルチチュード=観光客」を位置付けます。
 
マルチチュード」とは今世紀初頭、世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリマイケル・ハートの共著「〈帝国〉」において、グローバル環境で生じる市民運動を哲学的に評価する為に用いられた概念です。もっとも同書によればネグリ的なマルチチュードは実際のところ「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学マルチチュード」であり、その内実は「愛」「無垢」「歓び」などといったよくわからないものに頼る、端的に言えば感動的だが無意味な、ある種の信仰告白でしかないわけです。
 
そこで同書は「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」といった現代ネットワーク理論に依拠することで「否定神学マルチチュード」が抱える理論的・実践的困難を乗り越えたものとして「郵便的マルチチュード=観光客」を提示することになります。
 
 

* 「憐れみ」によって手を取り合うということ

 
出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考える。一見、無意味な回り道こそが思いがけない豊かな可能性を開いていく。こうした「観光客」のあり方は「一般意志2.0」の根底にある人間観とも繋がります。「一般意志2.0」で参照されたルソーは人間嫌いの思想家でした。彼はそもそも人間とは他人が嫌いで、孤独を愛する生き物だと考えた。にも関わらず、なぜ人は社会を作るのか。
 
ルソーが示した答えは「憐れみ」でした。ルソーによれば「憐れみ」とは、目の前で苦しんでいる人へ、深く考えることなく手を差し伸べる感情のことを言います。もし「憐れみ」がなければ人類などとうの昔に滅んでいた、とルソーはいう。本来、孤独を愛するはずの人は「憐れみ」によって社会を作ったということです。そういった意味で「観光客」のもたらす「誤配」とは、本来的に分かり合えない人と人が--イデオロギーによる連帯でも共感によるつながりでもない--「憐れみ」から手を取り合う事で新たな公共性を創出する起点となるということでしょうか。
 
「観光」という言葉はとても良い響きを持っていると思います。まさしくそれは否定神学システムの外部に光を観るということです。誤配のない世界において人は自分が想定した以上の出来事に出会うことはなく、そこに本当の意味での思考も創造性も生まれないでしょう。「正解」を求める人生から「誤配」を愛でる人生へ。東氏の批評活動はフランス現代思想に始まり情報社会論、サブカルチャー論、公共哲学、人生哲学とこれまで多岐に渡っていますが、一見バラバラに見えるこれらの領域は、その深層では驚くほど相互にリンクしあっています。本書はこうした東哲学の核心点と時代毎の処方の変遷の関係を現時点から振り返る事ができる良き(再)入門書として読めるのではないかと思います。
 
 
 
 

対話による「新しい現実」の創出--「オープンダイアローグがひらく精神医療(斎藤環)」

 

オープンダイアローグがひらく精神医療

オープンダイアローグがひらく精神医療

 

 

 

* オープンダイアローグとは何か

 
フィンランドの西ラップランド地方トルニオ市にあるケロプダス病院のスタッフを中心に開発された「オープンダイアローグ(OD)」は、従来、薬物や入院が必須と考えられていた急性期の統合失調症を「対話」の力で寛解に導くことで精神医療に大きなインパクトをもたらしました。
 
現在、ODはシステム/実践/世界観の三つの領域において体系化され、今や精神医療の領域のみならず、福祉、教育、司法、ビジネスといった様々な領域で注目を集め始めています。
 
ODが日本で広く知られるきっかけとなったのは2013年7月に上映されたダニエル・マックラー監督の映画「オープンダイアローグ」です。本書の著書である斎藤環氏もこの映画をきっかけにODの存在を知ったそうです。
 
斎藤氏といえばラカン精神分析を始めとする力動的精神医学を基盤とした臨床家、批評家としてよく知られています。ところがODの存在を知って以降、斉藤氏は自身のアイデンティティとも言える力動的精神医学の立場をかなぐり捨ててまでODの実践・普及に取り組み始めます。本書は斎藤氏が様々な媒体で発表したODに関する論考をまとめたものであり記述に重複などが多いですが、氏のODに賭ける並ならぬ情熱がよく伝わってくる一冊です。
 
 

* チームによる対話の促進

 
ODの実践は一見、極めてシンプルです。クライアントやその家族から電話などで支援要請を受けたら24時間以内に治療チームが結成され、クライアントの自宅を訪問。治療チームと本人、家族、友人知人らの関係者が車座になって対話が行われます。
 
この対話においてはすべての参加者に平等に発言の機会が与えられます。ミーティングは1回につき1時間から1時間半程度。ミーティングの最後にファシリテーターが結論をまとめます。本人抜きではいかなる決定もされないことも重要な原則です。何も決まらなければ「何も決まらなかったこと」が確認されることになります。このミーティングはクライアントの状態が改善するまで、ほぼ毎日のように続けられる場合もあります。
 
このようにODの特色は治療者側が「チーム」で介入する点にあります。チームは精神科医、看護師、臨床心理士などで構成されますが、チーム内での序列はありません。皆が自律したセラピストとして対等の立場で対話に加わります。
 
そして、今後の治療方針を決める治療者同士の話し合いも患者側の前で行われます。これは「リフレクティング」と呼ばれる家族療法家のトム・アンデルセンによって開発された技法です。
 
診断、見通し、治療方針に関する議論を全て患者の前で開示することで、さらなる対話が促進され患者の意思決定も容易になるということです。むしろ患者の目の前で話し合えないような情報にはろくなものがないとさえ斎藤氏は言います。
 
 

* 「モノローグ」から「ダイアローグ」へ

 
こうしてODでは対話の場に参加者の言葉が投入されることで、自律性的に作動する対話システム(対話クラウド)が形成されます。対話システムが作動する目的はその作動それ自体がであり、こうした作動の結果として、患者の中で「新しい現実」が創出され、その副産物、ないし廃棄物として症状の改善や治癒が降ってくるというイメージです。
 
ODにおいてありがちな誤解に「つながりによって主体を溶解させる手法」というものがありますが、斎藤氏はそうではないといいます。ケロプダス病院のセラピスト、ミア・クルッティ氏の言葉を借りるのであれば、ODは「あなたが主体的に振る舞える場所」を見出すという帰結をもたらします。
 
斎藤氏が考えるODのイメージは「モノローグ(独り言)」の病理性を「ダイアローグ(対話)」へと開いていくというものです。多くの異質の声がひしめく「ポリフォニー」の空間の中で、お互いの視点や価値観の「違い」を分かち合っていくことで、関係性のネットワークが修復・再生され、患者の主体性が回復するということです。
 
 

* 新たな「言葉」を生み出す営み

 
ODには複数の理論的背景があります。思想的には社会構成主義ポストモダン思想、治療理論としてはシステム論的家族療法やナラティブ・セラピー、リフレクティング・プロセスといった複数の技法との関連が深いと言われます。
 
とりわけ重要とされる二つの理論的支柱がG・ベイトソンの「ダブルバインド理論」とM・バフチンの「詩学」です。前者はODのシステム論的なバックボーンをなしており、後者は対話そのものの治療的意義を基礎づけています。
 
この点、バフチンによれば、あらゆる発話は応答を求めており「言語にとって応答の欠如ほど恐ろしいものはない」とされる。これは人間がモノローグを脱してダイアローグを必然的に志向する存在と見なされるためだということです。
 
バフチンはその多声性概念において「意味」というものは語り手と聴き手のやりとりの中でしか生じないことと言います。そうした事から、ODでは有意義な対話を生成するため、治療チームは患者や他の参加者のメンバーの語りをていねいに傾聴し、その全てに応答していきます。そしてその応答は、相手の発言内容に即しながらも、さらなる別の問いかけの形を取ることになります。
 
すなわち、対話の行間に滲み出る患者の苦しみとか悲しみなどといった感情を参加者間で共有し、患者の苦悩を言い表す新たな言葉を生み出して行く営みこそが、ODにおける重要な治療資源となるということです。このように「モノローグ」を受容しつつも新たに問い直すということが「ダイアローグ」だとすれば、ODの本質はカウンセリングというより哲学的対話に近いのかもしれません。
 
長らく薬物療法中心の「内科モデル」を志向してきた精神医学は、近年、徐々のその限界性が自覚されつつあります。そして、いま再認識されつつあるのは「つまるところ人間は人間によってしか癒されない」という単純な事実であると本書は言います。こうした潮流の中でODが普及することで、我々が精神医療に抱くイメージは随分と違うものになるかもしれません。
 
 
 

スパイスカレーを知る上での新基準--「私でもスパイスカレー作れました!(印度カリー子・こいしゆうか)」

 

 

 

* スパイスカレーの教科書

 
「何十種ものスパイス調合」「工程が複雑」「料理上級者向け」「普通はお店で食べるもの」等々。何かと敷居の高さを感じてしまう「スパイスカレー」が圧倒的に身近になる一冊。本書は単なるレシピ集ではなく、スパイスカレーの「構造そのもの」を明らかにします。まさに「スパイスカレーの教科書」といえます。
 
 

* スパイスの調合は重要ではない

 
本書によれば、スパイスカレーは「具材(食材や調味料)」と「ベース(水やヨーグルトなど)」そして「スパイス」によって構成されています。このような階層構造の中で「変えない部分」と「変えていい部分」をラディカルに把握する事により無限の応用が可能となるわけです。
 
そして、本書で使う基本スパイスはわずか3種類。「クミン」「ターメリック」「コリアンダー」です。
 
「クミン」は別名ウマゼリと呼ばれる植物の種の部分。消化促進作用があると言われます。カレーのメインの香りを担います。
 
ターメリック」は別名ウコンと呼ばれる植物の根の部分。抗酸化作用・肝機能促進作用があると言われます。カレーの色付けを担います。また、土のような香りは縁の下の力持ち的存在感を持っています。
 
コリアンダー」は別名パクチーと呼ばれる種の部分。抗菌作用があると言われます。カレーのとろみを担います。また、爽やかな香りはスパイス達のまとめ役となります。
 
この3つのスパイスは基本的に辛くありません。辛みをつけるにはチリペッパー(唐辛子)やブラックペッパー(黒胡椒)を加えることになります。
 
本書ではクミンをボーカル、ターメリックをベース、コリアンダーをギターに例えていますが、この比喩からすればチリペッパーやブラックペッパーはドラムというところでしょうか。ともかく基本はこの3種類(+1)であり、その他は「あればなお良い」という事です。すなわちスパイスカレーにおいてスパイスの調合で悩むのは全く本質的ではないということです。
 
 

* 30分位で理想的なスパイスカレーが出来てしまった

 
そもそも我々がイメージする「いわゆるカレー」はイギリス由来の煮込み料理です。これに対して本書のいう「スパイスカレー」はインド由来の炒め料理であり、両者は全く似て非なるものになります。
 
ところが我々は「いわゆるカレー」のイメージに引きずられ「スパイスカレー」に対しても「飴色玉ねぎを作らなくてはいけない」とか「隠し味の妙が味の決め手になる」などといったある種の強迫観念を抱いてしまいがちです。本書はこうしたありがちな強迫観念も見事に解体します。
 
個人的には「味付けは塩」というのは本当にコペルニクス的驚愕でした。さらには「食材を切る」という、料理が苦手な人にとっては極めて高いハードルも全て省略可能とする時短テクニックを本書は惜しげもなく披露します。こうして本書はスパイスカレーの纏う神秘的なヴェールをざくざくと剥がして、その本質を際立たせていきます。
 
いや、本当に恐るべき本です。実際、本書に書いてある通りにやったら、これまでの試行錯誤は一体何だったのだろうかというくらい理想的なスパイスカレーが30分位で、ごく普通に出来てしまいました。
 
 
 
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* 「技法」としてのスパイスカレー

 
本書の原案を担当する印度カリー子さんは19歳の時にスパイスに出会って以来、これまでに500種類ものカレーを作り、現在はスパイスショップの運営を手掛ける一方、東大の大学院で食品科学の観点から香辛料の研究にも取り組んでいるそうです。本書の実践と理論のバランスの良さはカリー子さんのこうした経歴にもよるものなのでしょう。
 
そんなカリー子さんの夢はスパイスカレーが家庭料理として普及し、そこからさらに素晴らしい食文化が生まれてくる事だと、本書のあとがきで述べられています。そうした夢へ至る一里塚に本書はあるのでしょう。実際に本書通りにスパイスカレーを作ってみることで我々の中にある「カレーとはこういうもんだ、スパイスとはこういうもんだ」という固定観念は確実に変わるはずです。
 
固定観念の脱コード化は人の思考を自由にします。こうして「スパイスカレー」を固有名詞の「料理」としてではなく、普段使っている味噌や醤油などと同様に、素材の味を引き出すための「技法」として捉える事ができた時、そこから様々な豊かな発想が生まれてくるのではないでしょうか。本書はスパイスカレーを知る上での新基準と言える本だと思います。
 
 
 
 

ひだまり荘へ花束を--「ひだまりスケッチ1〜10(蒼樹うめ)」

 

* ポスト・セカイ系としての「日常系」

 
1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と言われるポストモダン状況がより加速したと言われています。従来、人々に「正しい生き方」を付与していた社会共通の規範や価値観への信頼性が低下したポストモダンにおいては「生きる意味とは何か」という「自意識の問い」が前景化してくる事になります。
 
この点「新世紀エヴァンゲリオン(1995)」は「人類補完計画」による「おめでとう」という黙示録を仮構し、このエヴァの想像力を引き継いだ「セカイ系」と呼ばれる作品群は「無力な少年」が「無垢な少女」に救われる「優しいセカイ」の物語を処方しました。
 
これらはいずれも「世界の果て」へ超越する想像力により「自意識の問い」を救済しようとした試みといえるでしょう。
 
これに対して「世界の果て」へ超越する想像力から出発しつつ、いつのまにか「世界の片隅」というべきこの日常の中に着地するのが「涼宮ハルヒの憂鬱(2003)」という作品でした。
 
ハルヒという作品がもたらしたのは「生きる意味」とは「ここではない、どこか」という彼岸ではなく「いま、ここ」の此岸の中にこそあるという価値観の転換でした。
 
そして、このハルヒが示したポスト・セカイ系というべき想像力を引き継ぐ作品群がゼロ年代中盤以降、一躍脚光を浴びる事になります。これがいわゆる「日常系」と呼ばれる作品群です。
 
 

* 「自己反省」から「日常の再発見」へ

 
「日常系」と呼ばれる作品は多くの場合その原作は4コマ漫画であり、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれます。そして作中において男性キャラは前面に出ることはなく、恋愛的な要素は極めて周到に排除されているのも特徴です。
 
そして、ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は別名「空気系」とも呼ばれたりもします。
 
こうした「日常系」はいわゆる「萌え要素のデータベース消費」の一つの形態として「セカイ系」に取って代わり登場した面も確かにあるにはありますが、その一方で「セカイ系」から「日常系」に至る想像力の変遷の中にはゼロ年代における成熟観の変遷をも見て取る事もできます。
 
この点、セカイ系が「ぼくときみ」という閉じた関係性の中で「自己反省」する事を成熟と見做す想像力と言えます。これに対して、日常系は「わたしたち」という開かれた関係性の中で「日常を再発見」する事で成熟を積み重ねる想像力と言えるでしょう。そして本作はこうした「日常系」のトラディショナルというべき作品です。
 
 

* 交歓の中で芽生える可能性に対する信頼

 
本作の主人公、ゆのは憧れのやまぶき高校美術科に合格後、学校の前にある学生アパート「ひだまり荘」に入居します。
 
ゆのは自分の夢が見つからない事に対して密かなコンプレックスを抱えています。けれど同じひだまり荘に住む同級生の宮子、上級生の沙英やヒロ、下級生の乃莉やなずな、そして茉里たちとの賑やかしい日々を過ごして行く中で、ゆっくりと、しかし着実に自分の在り方を見出していきます。
 
ひだまり荘の面々は同じ高校に通うというゆるい括り以外、生まれ育ったバックボーンも違えば、それぞれが描く未来図も違います。
 
こうした異なる物語を生きる者同士の交歓の中で芽生える可能性に対する信頼こそが、本作を支えている思想であり、これは一種のフォーマットとして後に続く日常系作品に大きな影響を与えています。
 
 

* 「ひとまずの気づき」としての「ひだまり」

 
ゆのは「自分の夢」を見つけ出せない事から、しばしば周りに抽象的な問いを投げかけます。これはいわばポストモダン的な「自意識の問い」の変奏に他なりません。
 
こうした「自意識の問い」に対して「人類補完計画」とか「優しいセカイ」などという「決定的な答え」を与えたのがかつてのエヴァセカイ系でした。
 
これに対して、ひだまり荘の面々を始めとした本作のキャラ達は、ゆのに「決定的な答え」ではなく「ひとまずの気づき」を与えます。
 
「決定的な答え」はある意味で唯一無二の道標を照らし出す光明となるかもしれません。けれども、そのあまりにも強烈な眩しさの中に絶対的な信仰を見出してしまうと、それ以外のものが見えなくなってしまうという危険と表裏にあるとも言えます。
 
一方で「ひとまずの気づき」は、自分と周りを見つめ直す場所をその都度、創り出す柔らかなひだまりと言えるでしょう。
 
絶対的な「光明」ではなく暫定的な「ひだまり」。そう、本作はまさしく「ひだまり」を描き出しているという事です。
 
こうしてみると「ひだまりスケッチ」というタイトル以上に本作に相応しいタイトルはないのではないでしょうか。
 
 

* 茉里というキャラが示唆するもの

 
本作は8巻において、これまでずっとひだまり荘の精神的支柱を担っていた沙英とヒロが卒業します。このエピソードはいつも涙なしには読めない感動的なものですが、ともかくもここでひだまりの物語は一旦は区切りを迎える事になります。
 
そしてその代わりに新しくひだまり荘に入居したのが新一年生の茉里です。ここで注目すべきは、茉里には従来のひだまり荘メンバーのような「対をなすパートナー」がいないという点です。
 
茉里は「対をなすパートナー」の不在ゆえに他のメンバーにランダムに絡んできます(乃莉に対してはやや百合っ気が出てますが)。そこで彼女は場の空気を適度に切断したり掻き混ぜたりするトリックスター的役割を演じています。
 
この茉里というキャラクターの投入はなかなか示唆的なものがあります。というのはこの時期から本作が描き出すキャラクター同士の関係性の有り様が微妙な変化を見せているようにも思えるからです。
 
 

* 「つながり」の希望と病理

 
こうした「ひだまり」の変化の背景には、あるいは時代の要請する成熟観の変化を見て取る事ができるのではないでしょうか。
 
大きな物語」の失墜が意識され始めた90年代末の成熟観がどのような「小さな物語」にいかに回帰するかを問うものだとすれば「大きな物語」の失墜がもはや自明の前提となったゼロ年代のそれは「小さな物語」同士がいかに関係していくかを問うものでした。
 
こうした問いに対して、ゼロ年代のひだまりをはじめとした日常系は「つながり」というひとつの洗練された回答を提出しました。また現実世界でも、ソーシャルメディアの急速な普及を背景とした「動員の革命」に象徴される様に「つながり」こそが世界を変えるというどこか希望めいた空気感がありました。
 
異なる他者同士の交歓から芽生える可能性への信頼。「つながり」は一見して理想的な関係性の有り様に思えます。ただ、こうした「つながり」とは異なる物語を生きる他者同士の関係性から生じるいわば「新しい小さな物語」でもあります。
 
もちろんこうした「つながり」自体は悪いものではありません。けれども、この「つながり」がやがて固定化してしまうと、その内側には同調圧力を発生させ、その外側には排除の論理が作動するという、かつての「セカイ」と同様の負の側面が生じてくるわけです。
 
実際に2010年代のインターネット界隈で生じた傾向は、世界を友敵に切り分け、失敗した人間には集団で嬉々として石を投げつける「つながりの病理」というべきものでした。
 
こうした事から、2010年代における現代思想シーンでは「つながりのセカイ化=接続過剰」から「切断と再接続」による新たな関係性を模索する言説が前景化します。例えば「弱いつながり(東浩紀)」「動きすぎてはいけない(千葉雅也)」「遅いインターネット(宇野常寛)」など、時代をリードする思想には必ずこうした「切断と再接続」の通奏低音が流れています。
 
 

* ばらばらの個々のままでの「かかわり」

 
接続過剰からの切断と再接続。「つながり」という物語へ回収される事のない、ばらばらの個々のままでの「かかわり」という関係性。
 
こうした思潮の高まりの中に本作の変化を位置付ける事はできないでしょうか。少なくとも茉里が加わった2010年代中盤以降の「ひだまり」が描き出す関係性の有り様は「ひだまり荘」という「つながり」と、そこに回収されない個々の「かかわり」が並走しているようにも思えます。
 
そしてまさにこうした「つながり」と「かかわり」が複雑にクロスオーバーしているのが本作最新10巻最後の文化祭エピソードです。文化祭目前、講評で構図の悪さを指摘され落ち込んでいたゆのはひだまり荘の「つながり」の中で自分を取り戻し、そしてひだまり荘内外における様々な「かかわり」を通じて見事、高校最後の文化祭を成功へと導きます。
 
ばらばらの物語達によるばらばらのままでのコラージュ。あのプラ板チャームはそのひとつの断片なのかもしれません。ゆのちゃん達にとっての最後の文化祭は10巻の節目を飾るに相応しい、ひだまりの魅力が集大成された珠玉のエピソードでした。本作はいつも読み返す度に何気無い日常の中にある煌めきを、様々な形での幸福の在り処を教えてくれます。2020年代のひだまりがどのような風景を見せてくれるか楽しみです。
 
 
 

イロニーからユーモアへの折り返し--「動きすぎてはいけない(千葉雅也)」

* 生成変化の哲学

 
1960年代、フランス現代思想のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷しました。実存主義とはジャン=ポール・サルトル「実存は本質に先立つ」というキャッチコピーが端的に言い表すように、個人がその人独自の「実存」を切り拓いていく主体的自由を励ますものでした。こうした実存主義を真正面から批判したのが人類学者、クロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義です。
 
構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。レヴィ=ストロースの緻密な論証に対してサルトルは有効な反論を提出できず、たちまち構造主義は時代のモードへと躍り出ました。
 
ところがこうした状況は1960年代後半には早くも更新される事になります。すなわち「構造」それ自体に内在する構造を不安定化させる部分、無意識的綻びに注目し、そこを起点とした「構造の変化」を考えようとする思潮が前景化する。こうした一連の思潮を一般に「ポスト構造主義」といいます。
 
例えばミシェル・フーコーは、西洋近代社会に対する独自の「考古学」を通じ「社会という構造」が一定のメジャーな価値観を維持するため、自らの綻びを「狂気」「倒錯」「犯罪」といったマイナーな性の様態に仮託してこれを排除する有様を鋭利な筆致で描出します。
 
またジャック・デリダは一見、首尾一貫するかに見える「テクストという構造」に伏在している綻びの箇所を皮肉たっぷりに暴き出す「脱構築」によって一世を風靡しました。
 
そして、こうした「ポスト構造主義」の思潮の中でもっとも大きなインパクトを放ったのが、ジル・ドゥルーズが立ち上げた「生成変化」の哲学です。
 
「生成変化」とは言うなれば「自己という構造」の変化の事です。端的にいえば、ドゥルーズの哲学とは限りある生を限りなく肯定する哲学であり、楽しく生きる事への応援歌と言えるでしょう。
 
 

* ツリーからリゾーム

 
ドゥルーズといえば精神分析家フェリックス・ガタリとの共著「アンチ・オイエディプス--資本主義と分裂症(1972)」によってフランス内外に衝撃を与えた事でよく知られています。
 
「アンチ・オイエディプス」は68年5月にフランスを揺さぶった学生・労働者の反体制運動、いわゆる「5月革命」を木霊させた多方向に炸裂する欲望をテーマとして、1970年代の大陸哲学において最大の旋風の一つを巻き起こしました。そしてその続編である「千のプラトー--資本主義と分裂症2(1980)」は本国フランスでは冷遇されたものの、世界と、そして日本に途方も無いインパクトを与えました。
 
千のプラトー」は「アンチ・オイエディプス」で示された多方向へ欲望するダイナミズムを「リゾーム」という概念によって再定義します。「リゾーム(根茎)」とは「ツリー(樹木)」に対する概念です。これまでの社会(=モダン)は、国家や家父長といった特権的中心点(根・幹)へ派生的要素(枝・葉)が垂直的に従属する「ツリー」によって規定されていました。これに対して、これからの社会(=ポストモダン)は、特権的中心点なくして様々な関係性が水平的に展開する「リゾーム」によって言い表せるということです。
 
ツリーからリゾームへ。リゾーム的に思考せよ。こうした企てこそが、古い社会を解体して新しいポストモダンの地平を切り開く。こうしたドゥルーズ&ガタリのメッセージは革命の夢が潰えた時代の閉塞感に対する解毒剤となった。これが一般的な「いわゆるドゥルーズ」のイメージです。
 
 

* 「パラノ・ドライブ」から「スキゾ・キッズ」へ

 
こうした「いわゆるドゥルーズ」は1980年代の日本において熱狂的に歓迎されました。その導線となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の「構造と力(1983)」と「逃走論(1984)」です。
 
浅田氏は、多方向へ逃走しリゾーム的に生成変化する主体を「スキゾ・キッズ」と呼びます。「スキゾ」とはスキゾフレニア(分裂症)を理想化したものです。これに対して(体制/反体制にかかわらず)ひとつの排他的イデオロギーに執着する事をパラノイア(妄想症)に擬え「パラノ」と言います。
 
浅田氏は「健康化された分裂症」としての「スキゾ・キッズ」への生成変化を現代的な生き方として称えます。近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へ。こうした氏の提唱する軽やかな生き方はバブル景気へと向かいつつあった80年代消費社会の爛熟とも同調し「スキゾ・パラノ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞しました。
 
 

* 「接続」と「非意味的切断」

 
本書はこうした従来の「いわゆるドゥルーズ」のイメージに対して一石を投じ、ドゥルーズ哲学の読み直しを試みます。
 
この点「千のプラトー」におけるリゾームの第一原理は「接続の原理」であり「いわゆるドゥルーズ」はこうした絶えざる接続の中での変幻自在な生成変化を肯定するものでした。
 
ところが「千のプラトー」においては「接続の原理」の裏に「非意味的切断の原理」が見え隠れします。
 
ツリーからの切断を「意味的切断」だとすれば、リゾームからの切断は「非意味的切断」という事になります。意味的切断と非意味的切断。つまり本書の読解によれば、浅田氏の言う「逃走」は二度加速する事になるわけです。
 
 

* イロニーからユーモアへの折り返し

 
この点〈接続的ドゥルーズ〉の背景には、存在全体の連続性における差異化のプロセスにあらゆる事物を内在させるベルクソンスピノザ主義があるとされます。
 
これに対して本書によれば〈切断的ドゥルーズ〉の背景には、デビュー作の「経験論と主体性」以来、再浮上を繰り返したヒューム主義があります。そしてその核心は、同一性なき事象の「連合」による主体化と、その表裏の関係をなす「解離」にあります。
 
本書はその前半でドゥルーズ哲学史背景を丁寧に遡り〈接続的ドゥルーズ〉に対する〈切断的ドゥルーズ〉を際立たせた上で、その後半で「切断しつつの再接続」からの「器官なき身体への個体化(主体化)」へ至る可能性を論じます。
 
〈接続的ドゥルーズ〉が「ここではない、どこか(潜在性)」へ向かうイロニー的遡行だとすれば〈切断的ドゥルーズ〉とは「いま、ここ(現働性)」から「別のいま、ここ」へ向かうユーモア的折り返しになります。
 
イロニーからユーモアへの折り返し。本書で鮮烈に示された「個体化」の実践技法は氏のベストセラー「勉強の哲学」において「勉強の三角形」として、より洗練された形で提示される事になります。
 
 

* 生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない

 
「いわゆるドゥルーズ」の魅力は「リゾーム」という一語に極まる「めちゃくちゃ」へと向かう華やかさと危うさにあります。
 
けれども本書によれば、ドゥルーズは「華やかさ」と「危うさ」の裏で、同時に「慎重さ」をも求めていたということです。あらゆる事物が渾然一体となる「めちゃくちゃ」とは、いわばオーバードーズの彼方、自己破壊の極点であり、そこに到達してしまえば、もはや次の生成変化はあり得ない。持続可能な生成変化を行う上では、オーバードーズの回避が必要となる。そのために「接続過剰」の手前での「いい加/減な切断=非意味的切断」が必要となるということです。
 
この点、晩年のドゥルーズは「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を残しています。
 
生成変化とは「或るめちゃくちゃ」と「別のめちゃくちゃ」の間にある「と」にある。すなわち「差異」とはリゾームの際限なき接続をエコノマイズ(節約)するところに生じるということです。
 
 

* 「いい加/減」な生き方

 
本書はドゥルーズ研究の最先端を示す一冊であると同時に、何かと「つながり」が強調される「接続過剰」な現代における「いい加/減」な生き方を考えさせてくれる一冊でもあるでしょう。
 
我々は日々生起する理不尽な現実に直面した時に「これさえなければ」「あれさえあれば」とつい何かの幻想に執着してしまいがちです。けれども、ここでイロニーからユーモアへ折り返し「こうも言えるのではないか」と新しい視点から再び現実に着地し直してみる。こうした営みを経由する事で思わぬ所で物事が上手く行ったりもするわけです。
 
そういった意味で、現実をゆるやかに受け止めつつも変えていく日常実践の哲学としても本書は読めるのではないでしょうか。