かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

動物・不可能・拡張現実

 

 

 

 

* 「現実」と「反現実」

 
個人が「私は私である」「私はここにいる」という生のリアリティを獲得する上では、その人がその人なりに紡ぎ出した自らの「物語」が重要になります。
 
人はそれぞれの特異性を抱えながら一般性の世界を生きています。いわゆる「個性」というのは一般性の世界で認められた限りでのその人の属性であり、そこに回収しきれない特異性と上手くやる為も、人はその人なりの「物語」を必要とするわけです。
 
そして、こうした物語を紡ぎ出す上で参照される想像力を社会学者の見田宗介氏は「現実」に対する「反現実」と呼びました。人は「反現実」を通して「現実」と関係するということです。
 
以下で見るように「反現実」は時代の気分によって変遷します。では、現代における「反現実」とは一体なんでしょうか?
 
本稿はタイトルの通り「反現実」概念を軸に東浩紀氏、大澤真幸氏、宇野常寛氏の御三方の議論をサマリーするものです。半分は自分用の論点ノートなので、やたらと長いですが最後のまとめみたいな部分はおそらくありきたりな話に着地すると思われます。何卒、ご了解いただければ幸いです
 
 

* 理想・夢・虚構

 
「現実」という言葉は3つの反対語をもっています。すなわち「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」です。
 
この点、見田氏は戦後日本史を3つの時期に区切ります。1945年から1960年頃までが「プレ高度成長期」。1960年頃から1970年前半までが「高度成長期」。1970年後半以降が「ポスト高度成長期」です。
 
そして、この3つの時期における社会的意識はちょうどこの「理想」「夢」「虚構」という3つの反対語によって特徴付けることができると言われます。
 
 
⑴ 理想の時代(1945年〜1960年頃)
 
理想の時代。それは人々がそれぞれの立場で「理想」を求めて生きた時代と言えます。1945年のあの夏、終戦の灰燼の中から戦後日本は出発した。瓦礫と化した「現実」の中を生きて行くために人々はなにがしかの「理想」を必要とした。
 
この時代の日本の「理想主義」を支配していた大文字の二つの「理想」として「アメリカン・デモクラシー」と「ソビエトコミュニズム」というものがありました。この両者は対立しながら共にこの時期の「進歩派」として「現実主義」的な保守派権力と対峙しました。
 
この点、進歩派知識人の代表的論客である丸山眞男氏は現実には二つの側面があるといいます。すなわち、人は現実に制約され決定されているという側面と、人は現実を決定し形成して行くという側面です。
 
いわゆる「現実主義者」はこの第一の側面だけをみるが、しかし真に現実を見るものは現実の第二の側面をも見出すのだと丸山氏は言います。つまり「理想」を希求する者こそが「現実」を希求する者であるという事です。
 
一方で「現実主義者」にしてみても「今日よりも明日は、明日よりあさっては、きっともっと豊かになる」という「理想」を追っていたわけです。
 
「理想の結婚」「理想の職業」「理想の住まい」「理想の炊飯器」。そうした色とりどりの「理想」が戦後日本の、しばし奇跡とも称される経済復興の駆動力となったことは疑いないでしょう。
 
つまり「理想主義」とは現実主義であり「現実主義」は理想主義であるという事になります。けれども、いずれせよそこにあるのはリアリティを希求する欲望です。当時、映画館の看板に踊った「総天然色」という文字がこのリアリティへの欲望を裏側から物語っているのでしょう。
 
こうした「理想の時代」は1960年の日米安保条約の改定(継続)に対する闘争で「理想主義者」が「現実主義者」に敗れたことで終焉する事になります。
 
 
⑵ 夢の時代(1960年頃〜1970年代前半)
 
日米安保条約の改定を使命とした岸内閣の後を引き継いだ池田内閣は「所得倍増計画」を掲げ「農業構造改善事業」による農村共同体の解体と「新産業都市建設促進法」による全国土的な産業都市化により産業構造の転換を推進。高度経済成長に必要な①資本②労働力③市場という三位一体の産業構造の変革を目指します。
 
こうした産業構造改革により、農村共同体における家父長的大家族の解体が進み「拡大家族」から「核家族」へというロールモデルの転換は、家族のあり方や個人の人生に関する様々な領域に変化を及ぼします。
 
ともかくも結果としては経済成長は軌道に乗り、60年代前半の世は「昭和元禄」「泰平ムード」に酔いしれる。経済的繁栄は国民生活に物質的幸福を齎した。テレビ、洗濯機、冷蔵庫という「三種の神器」がほぼ普及し、今度はカラーテレビ、クーラー、自動車が「新・三種の神器」として喧伝されだした。
 
1963年に行われた全国的な社会心理調査の項目に、明治維新以降100年の歴史のそれぞれの時期を色彩で表すとすれば何色がふさわしいかという項目があり、結果、最も多かった回答は明治は紫、対象は黄色、昭和初年は青・緑、戦争中は黒、終戦直後は灰色。これに対し、当代は「ピンク」だったそうです。
 
同じく1963年に大ヒットした「こんにちは赤ちゃん」という歌謡曲がありますが、ここにはまさしく「ピンク色の夢の時代」の気分が純化した形で表出していると言えます。
 
こうして理想の時代における「理想主義者」たちの信じた現実は実現しなかったが「現実主義者」たちの望んだ理想は実現した。
 
このように1960年代前半が「あたたかい夢の時代」であったのであれば、後半は「熱い夢の時代」と言われます。
 
当時、アメリカ、フランス、ドイツを中心として発生した大規模な学生反乱は高度経済成長只中の日本にも波及します。この時代のラディカリストな青年にとっては「アメリカン・デモクラシー」も「ソビエトコミュニズム」も「豊かな暮らし」とやらも、かつての理想たちすべてが抑圧の象徴であり打倒すべき対象でしかなかった。「理想」に叛逆する「熱い夢」が沸騰した時代ということです。
 
 
⑶ 虚構の時代(1970年代前半〜1995年頃)
 
1973年のオイルショックにより長らく続いた高度経済成長は終りを告げます。そしてかの長嶋茂雄が「巨人軍は永久に不滅です」という名句を残して現役引退した1974年、実質経済成長率は戦後初めてマイナス成長を記録。この年の「経済白書」の副題は「経済成長を超えて」。こうして時代はポスト高度成長期へと遷移します。
 
理想も夢もない時代。人々はその反現実を虚構に求めだしました。
 
1973年に出版された「ノストラダムスの大予言」を嚆矢としてオカルトブームが起き「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」が起爆剤となりアニメブームを牽引。1983年に開園した東京ディズニーランドは徹底した現実性の排除による自己完結性に基づく虚構の楽園として出現した。
 
また、それまでわい雑な副都心のうちの一つに過ぎなかった渋谷は1970年以降、西武・東急の開発競争による大規模な都市演出を通じて、虚構の時代における「かわいい」「おしゃれ」「キレイ」という「ハイパーリアル」な感性を体現する巨大遊園地へ変貌する。
 
一方でこの時代においては、森田芳光氏が「家族ゲーム」という映画で誇張気味に描くように、家族という基礎的な共同体が演技として「わざわざするもの」である虚構として感覚されるようになる。地方自治体が「1日15分は親子の対話を」などという呼びかけを始めたのもこの時代であった。
 
こうしてみると「理想→夢→虚構」という順で「反現実の反現実的度」は高まっていると言えます。
 
理想の時代とはリアリティの時代でした。理想に向かう欲望とは、理想を現実化するという現実に向かう欲望です。けれども虚構に生きようとする精神はもはやリアリティを愛さない。まさに「リアリティなんかないのがリアリティ」という事になります。
 
 

* 「ポスト・虚構の時代」をいかに捉えるか?

 
そして戦後50年目、阪神大震災が起きた1995年という年は、一方で、平成不況の長期化によりジャパン・アズ・ナンバーワンのバブル神話が終焉し、他方で、地下鉄サリン事件により若年世代の「生きづらさ」の問題が前景化された年でもあります。
 
現代思想的な観点からいうと、この1995年以降、日本社会においてポストモダン状況がより加速したと言われています。ここで「虚構の時代」は臨界点を迎えたとひとまずは言えるでしょう。ではその先をどのように捉えるのか?
 
 
⑴ 動物の時代
 
この点、批評家の東浩紀氏は1995年以降の「ポスト・虚構の時代」を「動物の時代」として捉えます。ここでいう「動物」とはロシアの哲学者アレクサンドル・コジューヴに依拠した概念で「人間的欲望」の欠如した「動物的欲求」のみを持つ存在のことです。
 
東氏はオタクの消費行動傾向が従来の個々の作品を通じてその背後にある世界観を消費する「物語消費」から、作品の構成要素であるキャラクターを「萌え要素」などの「データベース」に還元した上で、そこから再構成される「シュミラークル」を消費する「データベース消費」へ移行していることを指摘する。
 
東氏は、ここにポストモダンの一般的傾向を見出し、現代社会の人間像を、個人の生の意味づける「大きな物語」への「欲望」より、記号的なキャラクターやウェルメイドなドラマへの「欲求」を優先させる「データベース的動物」と名付けます。
 
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
 

 

 
⑵ 不可能性の時代
 
そして、社会学者の大澤真幸氏によれば、東氏がいうこの「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言います。
 
まず、大澤氏は虚構の時代は全く相反する次の二つの傾向の間で分裂し解消されているという。
 
①一方、これまでの反現実的傾向に反するかのような「現実への回帰」という傾向。例えば若年層の自傷行為原理主義者の自爆テロリズムのように、「反現実」の機能を「現実中の現実」そのもので代替してしまう傾向です。
 
②他方、これまでの反現実的傾向がさらに強化される「極端な虚構化」という傾向。例えばフィルタリング規制やゾーニング規制のように、現実から暴力性や危険性を捨象し、相対的な虚構化を推し進める傾向です。
 
大澤氏によればこれらの相互に矛盾するかのごとき二つの傾向は同一の自体の表裏であるといいます。つまり「現実中の現実」こそが「最大の虚構」であり、そうした「現実中の現実という虚構」がどこかにあると想定することで「何か」の隠蔽を試みているという。
 
そしてその「何か」とは他者との直接の関係性、つまり他者性なき〈他者〉を求める「不可能」であるという。すなわち現代はこの「認識や実践に対して立ち現れることのない不可能性」が反現実として機能する時代であるというわけです。

 

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

 

 

 
⑶ 拡張現実の時代
 
これに対して、評論家の宇野常寛氏は現代における「反現実」として「拡張現実」という概念を提唱します。
 
宇野氏は現代を「ビッグ・ブラザー(国民国家)」が壊死した後の「リトル・ピープル(超国家的な資本と情報のネットワーク)」の時代であると位置付けた上で、もはや世界に〈外部〉は存在せず、「ここではない、どこか」という仮想現実を〈外部〉に見出す「虚構」は「反現実」として機能しないとする。
 
要するに、グローバル化とネットワーク化の極まった現代において「いつか革命が起きる」とか「やがて最終戦争が起きる」などとという「ここではない、どこか」はもうベタに信じることはできず、せいぜいメタかネタで演じるしかない。
 
現代における「反現実」とは、まさになんでもなくありふれたこの日常空間の「いま、ここ」に深く潜ることで現実を多重化する「拡張現実」であるということです。
 
拡張現実という発想は、虚構と現実の関係性を「あれかこれか」の対立関係ではなく「あれもこれも」という統合関係として把握します。
 
確かに、今日の朝ごはんとか道端で見かけた花などといった他愛のない生活風景がソーシャルメディアなどで大きく共感を集めたり、あるいは普通の街角や路地裏が「アニメの聖地」になったりするのはこうした拡張現実的な現象として了解できるでしょう。
 
こうして拡張現実を反現実に位置付けることで、ある種の価値観を転換させる事が可能となります。つまり「ここではない、どこか」の理想や夢や虚構を仮想するのではなく、まさにこの「いま、ここ」の現実を拡張することで人は様々な物語をいくらでも紡ぎ出していけるということです。
 
リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)
 

 

 

* 「見はるかす」ということ

 
動物・不可能・拡張現実。「ポスト・虚構の時代」をめぐるこれらの議論は本質的な部分では別に対立してはいないと思います。
 
要するに、時代の実態そのものを直視すれば「動物」であり、その闇の側面を強調すれば「不可能」となり、光の側面を強調すれば「拡張現実」ということになるでしょう。
 
この点、見田氏は、現代の「消費化/情報化社会」における「闇の巨大」と「光の巨大」を「見はるかす」という視座を示します。
 
こうした視座に基づき見田氏は「消費」と「情報」のコンセプトの核心にある原的なものを取り出すことで「消費」と「情報」をラディカルなレベルで再定義します。
 
ここでいう「消費」のコンセプトの核心とは「あらゆる種類の効用と手段主義的な思考の彼方」にある「生の直接的な歓びそのもの」であり、そして「情報」のコンセプトの核心とは「あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方」にある「かけがえのないものの可視化」にあります。
 
そして見田氏は「消費」と「情報」それぞれが互いの核心を彼岸として、それぞれのコンセプトを転回させることで「消費化/情報化社会」はより自由で魅力的な社会へ、かつ他者/環境収奪的ではない社会へ移行する事が可能であるという。
 
ここで示される「インストゥルメンタルな生からコンサマトリーな生へ」という幸福感受性のパラダイムの転換は、社会レベルでの実現可能性はともかく、さしあたり個人の生き方として一つの指針となると思います。
 
我々は日々、様々なデータベースから排出される莫大な「情報」を「消費」しながら生きているという事は疑いようもない事実です。
 
こうした「動物」としてのデータベース消費から幾ばくか免れる方途があるとすれば、重要になるのはここでもやはり物事の闇と光を「見はるかす」という視座でしょう。
 
いかにこの現実の「不可能」を受け入れ、そして、いかにこの現実を「拡張」していくか。
 
こうした問いに日々、自分なりに答えて続けていく。結局のところ、そうした主体的なあり方こそが価値を産み出し、その人なりの「物語」を紡ぎ出していく源泉となるのではないでしょうか。やはり、わりとありきたりな結論になってしまいました。最後まで読んでいただき有難うございます。
 
 
 

自己変革と愛の讃歌--イエスタデイをうたって(冬目景)

 

 

 

* ゆるやかな空気感の中で展開される恋愛群像劇

 
冬目景さんの不朽の名作「イエスタデイをうたって」がこの度アニメ化されるそうです。あの独特の世界をアニメでどこまで再現できるのかよくわかりませんが、それも込みで楽しみである事は確かです。原作を読まれた事のない方もこの機会に是非どうでしょうか。
 
本作は魚住陸生(リクオ)、野中晴(ハル)、森ノ目榀子、早川浪の4人の主要登場人物の人間模様を軸として、ゆるやかな空気感の中で展開される恋愛群像劇であり、そのテーマは1巻のサブタイトルに大体集約されています。
 
すなわち「社会のはみ出し者は自己変革を目指す」「愛とはなんぞや?」です。そういうわけで今回、ざっと読み返して思い浮かんだ事を書いて見ます。
 
 

* ロストジェネレーション世代における自己変革

 
リクオは大学卒業後も「やりたい事」が見つからず、就職せずにコンビニでフリーター生活を続けている。リクオはなんとなくカメラが趣味ではあるが、なぜか「人物は撮らない」という妙な主義がある。けれどもリクオはそのポリシーがどこから来たのか自分でもわからない。
 
そんなある日、リクオは偶然知り合った映画研究部の高校生達が撮った8ミリのラッシュフィルムを目にする機会を得る。さしたる技術もなくほぼ情熱だけで撮られたその拙い映像の中にリクオは自分はなぜ人物を撮らないのかの答えを見い出すことになる。
 
その答えは「人物を撮らない」のではなく「人物を撮れない」という事でした。リクオは連続の中にある一瞬の輝きをーーーおそらくは「まなざし」をーーーカメラで捉える事が出来ない自分を正当化するための言い訳を無意識的に作り出していた。つまりそこにはそれだけの「人物を撮りたい」という欲望があるわけです。
 
こうして自身の中にある「やりたい事」を発見したリクオはその後、機縁を得て、写真スタジオへ正社員として就職を果たす。
 
リクオはいわば回り道をしたからこそ自分の本当にやりたいことが見つかったと言えます。レールから外れたからこそ見えてくるものがある。長い目でみれば数年間の回り道は無駄ではなかったわけです。
 
本作の連載がスタートした90年代後半は、平成不況の長期化により就職氷河期が深刻化し、世にはリクオのように大学を出ても就職するあてのないフリーターが急増した時代です。
 
ただ、いま思うとあの時代は、これまでのように新卒一括採用で就職し、終身雇用や年功序列のレールの上で生きて行くという昭和的ロールモデルが崩壊して行く中で、新たな社会的自己実現オルタナティブが模索されはじめていた過渡期でもありました。
 
そういう意味で本作は時代とのめぐり合わせ悪く不遇をかこった多くのロストジェネレーション世代への応援歌でもあったわけです。
 
 

* 愛という呪縛

 
リクオは大学時代の同級生である榀子に恋心を抱いている。けれども榀子は早逝した幼馴染、早川湧との思い出にしがみついてそこから前に進めないでいる。
 
一方、偶然の出会いからリクオを慕うハルは、かつての副担任でもあった榀子にリクオを巡って「宣戦布告」をするが長らく二番手の位置から動けない。また、湧の弟である浪は榀子を追いかけて上京してくるが榀子は浪に対して弟以上の感情を持てないでいる。
 
なかなかもどかしい人間模様です。ハルは「宣戦布告」した際「コイなんて錯覚じゃん?一度錯覚したら何らかの結果が見えるまで止まんないんだと思う」ってさらっと言っていますが、これが身もふたもない現実でしょう。
 
我々は感覚的イメージと言語的システムによって作り上げられた「パーソナルな現実」を生きているわけですが、こうした作り上げたパーソナルな現実の中に、しばし身体という「生の現実」から発せられたノイズが混入する。このノイズを時に我々は「これは恋だ」と錯覚するわけです。
 
こう言ってよければ恐怖も憎悪も恋慕も「生の現実」の水準においては同じノイズに過ぎない。問題はそれを言語的システムの中でどう解釈するかです。世にいう吊り橋理論というのはそういう事です。
 
ところがその「錯覚」の果てに何か至高の愛とか真実の愛みたいなものがあるんだと解釈してしまった時、人はそこから一歩も動けなくなってしまう。
 
幼い日の湧の思い出に愛の絶対境を見出してしまった榀子の不幸はまさにここにあるわけです。また、リクオも同様に大学時代の榀子の幻影に魅入られてしまったがゆえに現在の榀子との関係性を進められずにいます。この点では二人はある意味で似た者同士なのかもしれません。
 
 

* この身もふたもない現実を受け入れるということ

 
そういうわけで本作は読んでいて本当にもどかしい気持ちにさせられます。けれど、翻ってみれば我々も世界のどこかに至高の真実があると信じ込みたくて、この現実を先延ばしにして生きているところはないでしょうか?
 
結局、幸せの在り処は「ここではない、どこか」に追い求めるものではなく「いま、ここ」を丁寧に積み重ねて行く中にしかないわけです。けれどもこの身もふたもない現実を受け入れるためには、一見無駄だと思える回り道をある程度はぐだぐだと歩き回らなければならないということも確かです。
 
本作を読んでいて感じる「もどかしさ」は自身の心のどの部分から発せられるのか?その辺りを考えてみることで新たな自己変革への気づきや様々な愛の形に対する共感の眼差しを得ることができるのかもしれません。
 
 

デタッチメントとコミットメントの間--村上春樹・河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』

 

村上春樹、河合隼雄に会いにいく(新潮文庫)
 

 

 
 

* 1995年という転回点

 
本書は村上春樹氏の代表作「ねじまき鳥クロニクル」完結直後の時期に行われた河合隼雄氏との対談であり、あの有名な「デタッチメントからコミットメントへ」という転向の経緯が語られています。
 
ねじまき鳥クロニクル」が完結した1995年という年は、一方で、平成不況の長期化によりジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話が終焉し、他方で、地下鉄サリン事件により若年世代の「生きづらさ」の問題が前景化された年でもあります。
 
現代思想的な観点からいうと、この1995年以降、日本においては、ポストモダン状況がより加速したと言われています。哲学者の東浩紀氏が言う「動物の時代」、社会学者の大澤真幸氏が言う「不可能性の時代」、批評家の宇野常寛氏の言う「拡張現実の時代」が幕を開けるわけです。
 
こうした転換期において、村上春樹という国民的作家が何を考え、河合隼雄というこれまた国民的知の巨人がどう応じたかを読み返してみるというのは、ますますポストモダンが極まった現代における成熟のあり方を考える上で重要ではないでしょうか。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
初期の村上春樹作品は「政治の季節」の極相を迎えた「60年代末の記憶」に対するアンチテーゼから出発していると言われています。
 
デビュー作「風の歌を聴け」から「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」に至る、いわゆる「鼠三部作」で村上氏が打ち出したのは世の中に対して「やれやれ」と嘯いてみせる「デタッチメント」という倫理的作用点でした。
 
次いで「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のラストでは、徹底したデタッチメントこそが倫理的なコミットメントであるという逆説が提示されます。
 
そして1000万部のベストセラーとなった「ノルウェイの森」は、まさしくこうしたデタッチメント文学の到達点に位置する作品とも言えます。
 
ところが村上氏は1990年代に入ると自身の倫理的作用点を「デタッチメントからコミットメントへ」と転回させる。この時期に書かれたのが「ねじまき鳥クロニクル」という作品です。
 
これまでの村上作品は、挫折、失敗、喪失といったものに向き合う「諦観の物語」という側面が強かったように思えます。
 
ところが本作は違う。本作には、失った物は何が何でも取り返すんだという明確なコミットメントの意志が満ちている。いわば本作は「奪還の物語」と言えます。
 
こうした転換の契機について村上氏は海外滞在経験が大きかったと述べています。もしかして外から閉塞する日本を眺めていて、これはもう「やれやれ」とか言ってる場合じゃないと、変わりゆく時代の潮目に気づいていたのでしょうか。
 
 

* コンプレックス・コンステレーション・コミットメント

 
こうした村上氏のコミットメントというテーマに関連して河合氏がユング心理学の3つのCとしてコンプレックス・コンステレーション・コミットメントをあげているのは興味深いところです。
 
コンプレックスがまったくない人はそんなにいないと思います。誰だって自分の抱えているコンプレックスと向き合うことは苦しい経験でしょう。けれども河合先生はコンプレックスにこそ、新しい可能性の在り処が示されているといいます。
 
こうした自らのうちにあるコンプレックスと対決していく上で重要なのは、日常的なめぐり合わせ、つまりコンステレーションの中で、現実とのコミットメントを重ねていく営みです。
 
この点、ここでいう現実とは、普段の生活や対人関係といった外的な現実のみならず、自分の心の中にある内的な現実をも含みます。
 
つまり、ここでいうコミットメントとは、仕事、家事、趣味といった「外的な現実」を懸命にやり抜きつつも、心の中で絶えず生起する「内的な現実」との対話を丁寧に重ねていくという営みに他なりません。
 
こうした内的開発のプロセスを得ることで、人は自らに内在する新しい可能性をものにしていくことができるということです。これが河合先生がいう「自らの物語を見出す」という事です。
 
 

* デタッチメントとコミットメントの間

 
「コミットメント」というと何かみんなでワイワイとやっているリア充的イメージを思い起こしがちですが、本書でお二人が強調する「コミットメント」とは、そういう浅はかな意味ではもちろんないわけです。
 
「ゆるやかでていねいなコミットメント」もあれば「深く静かなコミットメント」もある。重要なのはいかに自分らしく世の中にコミットメントできるかということです。
 
一方で、あえて「やれやれ」とデタッチメントしてみせるという倫理もあるわけです。例えば、心理療法とはクライエントの表層にある「要求」にデタッチメントしつつも、その深層にある「欲望」にコミットメントしていく側面があります。これはある種、愛に満ちた「やれやれ」という態度とも言えます。
 
社会学者の見田宗介氏のいうように我々にとって他者とは二義的な存在です。我々はある誰かに対して、異なる物語を生きる「尊重する他者」としてデタッチメントすべき時もあれば、同じ物語を生きる「交歓する他者」としてコミットメントしていく時もあるわけです。
 
つまり「デタッチメントかコミットメントか」ではなく「デタッチメントもコミットメントも」という事です。大切なのは両者をいかに使い分け、洗練させていくという統合的な倫理です。こうした観点から村上氏の小説を読み解いていけばまた新たな発見があるのではないでしょうか。
 
 
 

消費と情報の彼方、コンサマトリーな生、瑞やかな歓び。

 

* 「見はるかす」ということ

 
20世紀を代表するアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーは「ニーバーの祈り」で知られる次のような言葉を残しています。
 
「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ。」
 
「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵」とはなんでしょうか。物事には常に表と裏の面があります。つまりはここで必要なのは、こうした表裏を「見はるかす」という視野ではないでしょうか。
 
不世出の社会学者、見田宗介氏の名著「現代社会の理論」は現代社会の考察を通じ物事を「見はるかす」ということとはどういう事かを考えるための格好の一冊です。
 
本書は、まず1〜3章において、現代社会の「光の巨大」と「闇の巨大」を「見はるかす」視座が示されます。そして、4章においては消費と情報のコンセプトをラディカルなレベルで再定義する事で、現代社会が抱えるアポリアを内破する処方が示されます。
 
 

* 消費化情報化社会という資本主義の到達点

 
古典的資本主義は需要と供給の矛盾を抱え込んでおり、これは「恐慌」という形で周期的に顕在化していました。つまり昔は資本主義体制を維持するには「戦争」という名の最終需要を期待するしかなかったわけです。
 
現代の「消費化/情報化社会」とはこうした資本主義システムの欠陥を克服する形で現れます。ゼネラルモーターズ社の「自動車は外見で売れる」という頻繁なモードチェンジ戦略が典型であるように、資本主義は自らの中に内在する欠陥を「消費化」と「情報化」の推進により「欲望の空間」を拓き、需要の無限の自己創出を可能とします。いわば情報化/消費化社会の到来により資本主義というシステムは初めて完成をみたと言えるでしょう。
 
しかし他方で消費化/情報化社会は多面において資源収奪的/他者収奪的な面を内包しています。結果「環境破壊」「貧困」「格差」という各種の社会問題を顕在化させるわけです。
 
 

* それでも魅力的な社会

 
けれど、本書はそれでも消費化/情報化社会の持つ魅力そのものまで否定すべきではないという立場をとります。長きに渡った冷戦を集結させたのは資本主義陣営の軍事的優位ではなく、消費化/情報化社会が持つ自由と煌びやかさであったことは確かです。
 
消費や情報を禁圧する社会は持続的な社会とはなり得ない。消費化情報化社会が有するこの「光の巨大」を否定するべきではない。問題は消費化情報化社会のシステムが抱える「闇の巨大」をいかに乗り越えるかであるということです。
 
そこで本書は「消費」と「情報」についてのラディカルな考察を通じて、消費化/情報化社会を資源収奪的、他者収奪的ではないもう一段上の新たなフェイズへ進化させる可能性を探っていく道を示します。
 
 

* 「生の直接的な歓びそのもの」としての「消費」

 
この点、まず本書は「消費」の二義性に着目します。フランスの現代思想家、ジョルジュ・バタイユは「消費」を「充溢し燃焼しきる消尽(consumation)」であると定義しました。ところがポストモダンを代表する思想家、ジャン・ボードリヤールバタイユに依拠しつつも「消費」を「商品の購買(consommation)」として定義します。
 
こうしたボードリヤール的な「(転義としての)消費」は、今一度、バタイユ的な「(原義としての)消費」を軸として転回される必要があると本書は言います。
 
「(原義としての)消費」は人々の日常のうちにある他者や自然との交歓や享受の営みの中に見出せます。バタイユは「たとえばそれは、ごく単純にある春の朝、貧相な町の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝きに他ならないこともある」と述べています。
 
こうした「生の直接的な歓びそのもの」こそが消費というコンセプトの核心にありながらも「この観念自体を踏み抜いてしまう原義のごときもの」であるということです。
 
 

* 「かけがえのないもの」を可視化するものとしての「情報」

 
次いで、本書は「情報」は三つの位相を持っているといいます。第一に「認識情報(認知としての情報/知識としての情報)」。第二に「行動情報(指令としての情報/プログラムとしての情報)」。これら二つは基本的に「手段としての情報」と言えます。
 
ところが、第三に情報とは「美としての情報(充足としての情報/歓びとしての情報)」の側面があります。このように「かけがえのないもの」を可視化することで開かれる「知と感受性と魂の深さの領野」こそが情報というコンセプトの核心にありながらも「この観念自体を踏み抜いてしまう原的な領野のごときもの」であるということです。
 
 

* 「消費」と「情報」のクロスオーバー

 
以上のような消費と情報の考察を通じ、本書は次のような論理で消費化/情報化社会が進むべき未来図を展望します。
 
「消費」というコンセプトの彼岸は「あらゆる種類の効用と手段主義的な思考の彼方」であり、そして「情報」というコンセプトの彼岸は「あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方」である。
 
一方で、現在の「消費」の観念は「物質主義的」な消費イメージに拘束されており、同時に現在の「情報」の観念は「効用と手段主義的」な情報イメージに拘束されている。
 
そうであれば「消費」と「情報」のそれぞれのコンセプトが切り開く彼岸に向かって、相互のコンセプトを転回することで、世界観を一段階上のフェイズへと更新することが可能となる。
 
こうして「消費」と「情報」のクロスオーバーが切り開く新たな世界は、現在の消費化情報化社会を「ずいぶん不自由なものとして見返すことができる空間であるはずである」と本書はいいます。
 
 

* 日常の中にある瑞やかな歓び

 
本書が構想するのは「消費化情報化社会2.0」というべきものでしょう。本書で示された構想は後年の見田社会学おいて「軸の時代/軸の時代Ⅱ」として、更に巨視的な視点から展開される事になります。
 
グローバル化/ネットワーク化は自然収奪/他者収奪をより先鋭化させる一方、虚構と現実を融解させ、消費化と情報化の新たな局面を切り開きました。いまここで再びその「光の巨大」と「闇の巨大」が見はるかされる必要があるでしょう。
 
けれども、さしあたり本書が示す「インストゥルメンタルな生からコンサマトリーな生へ」という幸福感受性のパラダイムの転換は個人の生き方として一つの指針となると思います。
 
近代的な生のリアリティが「インストゥルメンタル」であること、つまり「ここではない、どこか」にある享楽だとすれば、現代的な生のリアリティは「コンサマトリー」であること、つまり「いま、ここ」にある享楽ということなのでしょう。
 
こうして現代における成熟とはまさにコンサマトリーな幸福感受性の涵養にあると言えるでしょう。過去でも未来でもない文字通りの「いま、ここ」に、より深く潜っていくということ。こうした営みこそがありきたりな日常の風景の中に、いくらでも瑞やかな歓びを汲み出していける力を産み出し、育んでいくということです。
 
 

関係性のアンサンブルが産み出す可能性--ひだまりスケッチ1〜9(蒼樹うめ)

 

 

 

* 「日常系」のトラディショナル

 
「日常系」なるジャンルは、もともとゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏において「セカイ系」と「サヴァイブ系」を止揚するような形で現れた想像力です。こうした想像力の変遷はポストモダン的成熟観と密接に関連しています。
 
社会共通の「大きな物語」が完全に失効したゼロ年代以降の成熟観を語る上でのキーワードとして前景化したのは、異なる「小さな物語」を生きる他者との関係性のあり方でした。
 
この点、そもそも他者を拒絶し母性的承認の中に引きこもる想像力がポスト・エヴァンゲリオン的「セカイ系」であり、一方、他者との間で正義の奪い合いに明け暮れる想像力がデスノート的「サヴァイブ系」であったと言えます。今思えばどちらもなんとも極端な話です。
 
これに対して、他者とのごくありふれたつながり自体の中にこそ代え難い価値を見出していく想像力が「日常系」です。本作はこうした「日常系」というジャンルのトラディショナルと呼ぶべき作品です。
 
 

* 可能性が生まれる場所としてのひだまり荘

 
本作の主人公、ゆのは憧れのやまぶき高校美術科に合格後、学校の前にある学生アパート「ひだまり荘」に入居します。ゆのは自分の夢が見つからない事に対して密かなコンプレックスを抱えています。けれど同じひだまり荘に住む同級生の宮子、上級生の沙英やヒロたちとの賑やかな日々を過ごして行く中で、ゆっくりとしかし着実に自分の在り方を見出していきます。
 
ひだまり荘の面々は同じ高校に通うというゆるい括り以外、生まれ育ったバックボーンも違えば、それぞれが描く未来図も違います。
 
この点、スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは「外向的」「内向的」という2つの基本的態度に「思考」「感情」「感覚」「直観」という4つの心理機能を掛け合せ、人の特性を8つのタイプとして類型化しました。
 
こうしたユング的タイプ論から観ると、ひだまり荘のキャラクターバランスの設計はほぼ完璧と言えます。
 
ゆの(内向的感覚型)の直接的なパートナーはタイプ論的には完全に対極をなす宮子(外向的直感型)であり、その背後を別の対極性を持つ沙英(内向的思考型)とヒロ(外向的感情型)が支えています。
 
その後、沙英とヒロの基本的態度をひっくり返した乃莉(外向的思考型)となずな(内向的感情型)が、さらには、ゆのとは逆の基本的態度でありながら同一の心理機能を持つ茉里(外向的感覚型)が加わり、より複雑な関係性のアンサンブルが構成されていきます。
 
このような異なる物語を生きる者同士の相互補償的交歓の中で生まれる可能性に対する信頼こそが、本作を支えている思想であり、これは一種のフォーマットとして後に続く日常系作品に大きな影響を与えています。
 
 

* ゆるやかでていねいなコミットメント

 
臨床心理学者の河合隼雄氏は心理療法のプロセスとして「3つのC」があると述べています。「3つのC」とはすなわち、コンプレックス・コンステレーション・コミットメントです。
 
河合先生はコンプレックスとは苦しいものであるが、それは同時に新しい可能性のありかを示しているといいます。
 
そして重要なのは日常的なめぐり合わせ、つまりコンステレーションの中で、自らのコンプレックスと対決し、外的・内的な現実とのコミットメントを重ねていく営みです。こうした内的開発のプロセスを得ることで、人は自らに内在する新しい可能性をものにしていくことができるということです。
 
本作が計算され尽くされたキャラクターバランスの中で描き出す「ゆるやかでていねいなコミットメント」は 、萌えサプリメント的な癒しに止まらない、数々な豊かな気づきを読み手に与えてくれます。この辺りに「ひだまり」が何度もアニメ化され長らく愛されている普遍的な理由があるのではないかと思うわけです。
 
 

* それでも私たちは助け合える

 
思えば「ひだまり」が初めてアニメ化されたゼロ年代中葉当時というのは、社会の至る所で何かにつけ「自己責任」が叫ばれ、一方、アニメを観れば「間違っているのは世界の方だ!」的なサヴァイブ系作品が一斉を風靡していた時代でした。
 
こうした状況において、ゆのちゃん達が提示した「それでも私たちは助け合える」という他者との関係性のあり方は、時代に対するある種の批判力であったと同時に、ポストモダン成熟観に対するサブカルチャー側からの優れた回答であったとも言えるでしょう
 
 
 
 
 

「ときめき」に耳を傾けるということ--人生がときめく片付けの魔法(近藤麻理恵)

 

 

 

* 「一気」に「短期」に「完璧」に

 
あの片付け本のベストセラーが今年改訂版となって帰ってきました。片づけが苦手な方はこの機会に一読してみるのも良いでしょう。
 
実は本書はずっと以前、初版の方を読ませていただいたことがあるんですが、その時には「しかし現実は」などとどこかで思ってしまい、正直きちんとした実践には至りませんでした。あれから歳月が経ち今ならきちんと、こんまりさんの考え方がこころに落ちてくるように思えます。
 
本書は、片付けには「日常の片付け」と「祭りの片付け」があり、一度でいいから一気に短期に完璧に片付ける「祭りの片付け」を終わらせることで人生が劇的に変わるといいます。
 
なぜ「一気」に「短期」に「完璧」に、なのでしょうか?なぜ無理なくゆるく片付けるのではダメなのでしょうか?これはおそらくこんまりメソッドが目指す到達点と関係しているのだと思います。
 
 

* ときめきますか?ときめきませんか? 

 
こんまりメソッドの基本はいたってシンプルです。片付けでやるべきことは「モノを捨てるかどうか見極める」「モノの定位置を決める」の二つ。そして、大事なことは「捨てる」が先ということ。まず「捨てる」を完璧に終わらせるまでは収納については考えない。
 
また、場所別ではなく、洋服、本類、書類、小物、思い出品といった「モノ別」に片付ける。あるカテゴリーに属するものを全部かき集めて何を残すかを判断する。そしてその際の基準は今やグローバルスタンダードとなった「ときめき」です。
 
触った瞬間にときめくかどうかで捨てるか残すかを判断する。ここではきちんと「触る」という身体的な感覚が重要になります。自分の頭の中では「ときめく」のカテゴリに入っているはずのモノも実際に触ってみると、もはや「ときめかない」こともあるでしょう。
 
「役に立たないモノ」を捨てるのではなく「ときめくモノ」だけを残すという発想ですね。
 
 

* モノの役割を考えてみる

 
もちろん本書は無闇やたらにただ捨てればいいと言っているわけではありません。
 
大事なのは捨てる過程です。一つ一つのモノに向き合いそこで湧き上がる感情を味わい、モノとの関係を消化していくわけです。
 
「ときめかないけど捨てられないモノ」についてはそのモノの役割をよくよく考えてみる。
 
なぜこれを持っているのか?私のところにやってきたことにどんな意味があるのか?
 
こういうことをよくよく考えてみると、案外その役割はすでに終わっていることがわかる。こうして役割を終えたモノたちは感謝の念を持って送り出す。
 
こんまりさんは昔、巫女さんをされていたことも関係してか、本書の文章の端々にはモノへの畏敬や愛情が滲み出ています。
 
 

* 「いま、ここ」で、ときめきますか?

 
こうしてモノを捨てられない本質的な理由を遡ってみると「過去への執着」と「未来への不安」に突き当たることがわかります。
 
しかし大事なのは「今、自分にとって何が必要か、何があれば満たされるのか、何を求めているのか」という「いま、ここ」ということです。
 
「本にこう書いてあるから」「誰かにこう言われたから」ではなくモノを自らの「生きた態度」で選択することが大事です。変なモノでも自分が「これが好きなんだ」と言い切れるものは堂々と残しておけばいい。
 
こうしたときめくかときめかないかという自らの内なる声に丁寧に耳を傾けていくプロセスの積み重ねにより、自分のモノの適正量や価値観がクリアになっていくわけです。
 
 

* 片付けによって見えてくる世界

 
要するに、こんまりメソッドが目指す到達点というのは、単なる家事テクニックの習得ではなく、クライアントの持つ世界観の切断と再構築にあるのではないでしょうか。
 
雑然とした部屋を「一気」に「短期」に「完璧」に「ときめきに満ちた空間」に変えることで、その人が持つ特異的なパーソナルリアリティのようなものが鮮明に切り出されることになる。
 
こうした世界観の切断と再構築による「自分は何が好きなのか、どうありたいか」という自己理解の深化は自信の源泉となります。こんまりメソッドの実践によって人生において様々な好循環が起きていくという多くのケースではおそらくそういうメカニズムが作用しているのでしょう。
 
この点確かに、ゆるく少しずつ片付けて気がついたらきれいなおうちになっていました、では、世界観が切断されず、そこまでのインパクトは持ち得ません。だからやがて部屋は散らかっていくし世界は何も変わらない。
 
つまり「片付けの魔法」が片付けるのは「モノ」でも「部屋」でもなく「これまでの自分自身」であるということです。
 
これはいわば「片付け」という行動実践を通じて認知変革を起こすある種の認知行動療法とも言えます。いま世界中で反響を呼んでいる理由もわかるような気がします。
 
 
 

「ここではない、どこか」から「いま、ここ」へ

 

 

 
人はその想像力をもって世界を照らし出し、自分なりの物語を創り出すことによって「私は私である」「私はここにいる」という生のリアリティを獲得します。
 
すなわち、人が生きていく上でどういった想像力を参照するかは大きな問題です。では、現代を生きるための想像力とはなんでしょうか?
 
 

* 世界は有限である

 
まず、現代において我々が直面しているのは「世界は有限である」というひとつの事実です。
 
地球という環境下にある以上、人間という種も生物学的なロジスティック曲線の支配下にあります。「近代」という人類の爆発期はロジスティック曲線の第Ⅱ期に相当します。そして現代とは第Ⅱ期から第Ⅲ期へ向かう過度期ということになります。
 
 
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 (見田宗介現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと」Kindle No.204より)
 
20世紀後半は近代期の最終局面であり、この局面において資本主義は「情報による消費の自己創出」というシステムの発明によりその内在的矛盾を克服し、社会主義を退けて未曾有の物質的繁栄を実現しました。
 
しかしこうした資本主義の無限循環はやがて資源と環境の有限性に直面します。
 
地球という球面はどこまでいっても際限がありませんが、それでも一つの「閉域」です。グローバル資本主義システムという無限性の追求の果てに露見したのは世界の有限性でした。
 
このアポリアをどう乗り越えればいいのでしょうか?すなわち現代においては、世界の有限性を引き受けるための新たな想像力が要請されているということです。
 
 

* 「ここではない、どこか」

 

近代社会における基本的特質は、かのマックス・ウェーバーが言うように人間の生のあらゆる領域における「合理化」の徹底にありました。
 
これは生産主義的、未来主義的、手段主義的な社会のあり方と人の生き方をいいます。すなわち「豊かな素晴らしい未来」という目的実現のため、現在の生を手段化するということです。
 
確かに1970年代くらいまでは「豊かな素晴らしい未来」という夢想が素朴に信じられた時代であり、人は「ここではない、どこか」にあるはずの未来へとその生のリアリティの根拠を先送りすることで現在の生を満たすことが可能だったのでしょう。
 
けれども、グローバル化と情報化が極まった現代において人々はついにその未来を失い、現在の生がいかに空疎であるかに気づいてしまったわけです。
 
つまり、これまでの「未来への疎外(目的のための生の手段化)」の上に、さらに「未来からの疎外(目的そのものの消失)」が重なる状態となります。この「二重の疎外」こそが現代における生のリアリティ解体の構造と言えます。
 
 

* 新しい「ここではない、どこか」

 
この閉塞性を突破する方法の一つのして環境容量のさらなる拡大があるでしょう。人はこれまでも古代の農業革命と近代の産業革命において環境容量を劇的に拡大してきました。現在においても、テクノロジーの抜本的革新による環境容量の拡大可能性は十分に考えられます。
 
例えば一方で宇宙開発による「外延的拡大」という方向性があります。他方で、生命の最少単位である遺伝子や物質の最小単位である素粒子の操作による「内包的拡大」という方向性もあるでしょう。
 
特に後者は環境容量の抜本的な拡大の可能性を秘めており、ここから「多段式ロジスティック曲線」なるものを想定することも不可能ではないかもしれません。
 
こうした新しい「ここではない、どこか」の可能性は確かに魅力的ではありますが、強引な環境容量の拡大にはリスクが伴います。まさに原発とかがそうだったように危機を無理やり突破しようとする行動自体が新しい危機を誘発するという危機の悪循環に陥ってしまうことになります。
 
 

* 「いま、ここ」

 
要するに「ここではない、どこか」という想像力だけでこの時代を生きていくというのはちょっと苦しいわけです。ならば他に何があるのでしょうか?
 
この点において社会学者の見田宗介氏は、現代において人が生のリアリティを獲得する上で重要なのは、経済成長による物質的富の増大以上に、日々の生活風景の中に幸福の原層というべき〈単純な至福〉を自在に見い出していける「幸福感受性」であると言います。
 
つまり、それこそ日々の中にあるありふれた、美味しいご飯を食べた時、素敵な本を読んだり音楽を聴いた時、道端に綺麗な花が咲いているのを見つけた時、誰かの優しさに触れた時など、そういった何気ない「いま、ここ」の中に色彩豊かな物語を見いだしていく「洗練された幸福の感性」こそが現代において求められる想像力であるという事です。
 
「ここではない、どこか」から「いま、ここ」へ。こうした想像力のパラダイム転換は近年に行われた様々な青年層の意識調査のデータ上ですでにその萌芽が認められています。また、近年の多くのサブカルチャー作品でも食事や雑談などの日常描写を重視し、数々の「いま、ここ」を鮮明に描き出す傾向が見てとれたりもします。
 
 

* 有限の中にある無限

 
こうして現代とは「ここではない、どこか」を目指し成長を追求する力動と、「いま、ここ」の中で成熟を深める力動が拮抗している時代と言えるでしょう。
 
問題はこの両者のバランスをどう取っていくかということです。ここからロジスティック曲線第Ⅲ期を安定平衡の高原期として切り開いていけるのか、それとも有限な資源を使い尽くし種としての衰退に向かって行くか。大げさでなく我々はまさに岐路の時代を生きているということになります。
 
日々の中に〈単純な至福〉を見いだしていくということ。確かにその一つ一つの断片だけを切り出せば取るに足らない営みかもしれません。しかしこうした有限の世界の中で無限の可能性を見出していくような生き方が社会全体で共有された時こそ、人はロジスティック曲線を「歓ばしい曲線」とする方向で、無数の〈単純な至福〉が花咲く高原として生きていくことができるではないでしょうか。